2018年10月アーカイブ

 この頃学海先生がもっとも親密に交際していたのは川田甕江であった。甕江は藤森天山門下の同輩で少年時からの付き合いであるし、今は修史局の先輩として職場を同じくしていたので、毎日のように顔を合わせていたわけだから、自ずから親密さも増すのである。その甕江はいまや天山門下の世話焼きのような形で、同門の誼を深める触媒のような役割を果たしていた。甕江の呼びかけに応じて、同門の人々はけっこう頻繁に会っていたのである。
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アンドレイ・ルブリョフは、15世紀初頭にロシアで活躍したイコン画家である。タルコフスキーの映画「アンドレイ・ルブリョフ(Андрей Рублёв)」は、彼の半生を描いたものだ。とはいっても、彼の個人的なことがらに焦点を合わせているというより、彼が生きたロシア社会のあり方に目が向いている。その時代の描き方に問題があると、当時の権力者たちに受けとめられて、すぐには公開できなかった。完成したのは1966年で、ソ連で公開されたのは1971年、その間にカンヌ国際映画祭で上映され、高い評価を受けた。

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吼噦とは狐の鳴き声をあらわし、転じて狐そのものをもあらわす。芳年はその狐をモチーフにした図柄を狂言「釣狐」をもとにイメージ化した。

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マネは、自分の最初の作品群をボードレールに褒めてもらったことで、ボードレールに対して友情を抱き、親しく交際するようになった。ボードレールの方ではマネをドラクロアほどには評価しなかったが、それでも新しい時代の旗手としての意義は認めてやった。そのボードレールは、彼一流のユニークな視点から美術批評を展開したわけだが、そんなボードレールの美術観に影響されたのが「チュイルリー公園の音楽会」と題したこの作品である。

「世界認識の方法」は、吉本隆明とミシェル・フーコーの対話を活字化したものだ。この対話は、世界最高の知性と日本を代表する知性との対話として大いに喧伝されたようだが、その割には収穫がないと評された。議論がかみ合っていないというのである。たしかに、今読んでも、二人の議論がかみ合っている様子はない。二人とも、相手の思想を尊敬しており、互いに認め合っているところもあるのだが、どうも相手に対する理解が表層的で、本質に迫っていないと思われるし、したがってその表層的な理解に基づいた対話も表面的なものに流れている。

東京駅へは五時半頃に着いた。八重洲口の付近にいい寿司屋があるから、反省会を兼ねてうまい寿司を食っていこうと熟女たちを誘った。熟女たちも乗り気だ。だが、八重洲口の改札を出て辺りを探し回ったがなかなか見つからない。記憶があいまいなのだ。そこでT女のスマホで検索してみたらすぐに見つかった。文明の利器は活用するものですね。

 修史局における学海先生の仕事ぶりは、所属や担当事項を何度か替えられた後に、南北朝時代の末期から応永年間の初期に渡って歴史の真実を明らかにすることに向けられていた。通説では南朝の元号は元中九年を以て終了し、そのことで南北朝時代が終わりを告げたということになっている。そこを先生は、元中九年以降も南朝の年号は続いていたのではないかと推測した。そのためには南朝の天子の存在が不可欠となるが、先生はその天子を後村上帝の御子泰成親王あるいは懐良親王の御子雅良ではないかとして、その親王を戴いた南朝勢力が少なくとも元中十二年までは存在していたと推測した。元中十二年は北朝の元号で応永二年にあたる。
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山本薩男の1954年の映画「太陽のない街」は、徳永直の同名の小説を映画化したものだ。原作は1929年に発表され、プロレタリア文学の傑作と評された。1926年におきた共同印刷の労働争議に取材したもので、労働組合側が資本によって追いつめられ敗北してゆくさまを描いている。映画はその小説の筋立てとか雰囲気といったものを、ほぼ忠実に再現していると言える。

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六時半に起床すると熟女たちは既に起きていて、もう風呂に浸かって来たと言う。そこで小生も浸かりに行くことにした。法師の湯は再び混浴タイムになっていて、今回は中年の夫婦者が入って来た。その様子をあとで熟女たちに話したら、ここはフルムーンで有名になったので、みな夫婦で来た記念に一緒に混浴風呂に浸かるのでしょうという推測をした。あたっているかどうかはわからない。ただ小生は、この夫婦のうち女の方の体格が極めてよかったので、その体で腹の上に乗られたら、亭主はさぞ苦しかろうと、感想を述べたのだった。

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「月百姿」は、明治十八年から二十五年にかけて制作された芳年最後の大作シリーズで、全部で百図。芳年の死後に画帖の形でも出版された。まさに芳年の遺作と言ってもよい作品だ。テーマは月にことよせながら、和漢の物語や詩歌などを題材にしたもので、すべて過去のことがらを取り上げている。
「個人的な体験」では、主人公のバードとその女友達火見子との関わり合いが大きなテーマとなっている。彼らの関係のあり方は、当初は女が男に一方的に与えるという片務的なものとして出発したが、やがては互いに求め合う双務的な関係、双務的と言って抵抗があれば、相互的な関係に発展していく。だがその関係から男のほうが一方的に脱落し、自分を男に与えていた女がひとりで取り残されるという結果に終わる。それはいわば、男から仕掛けた性交が、オルガスムの一歩手前で、その男によっていきなり中断されるような形をとる。女は男から性交を仕掛けられたにかかわらず、その男が中断してしまったために、中途半端なまま取り残される結果に終わるのだ。

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法師温泉は一軒宿とはいっても、大小四つの建物からなっている。そのうちの本館と言われる建物は明治八年に建てられたもので、国の重要文化財に指定されているそうだ。木造のクラシックな造りで、現状を重視するあまり客室にはトイレや風呂の設備がない。その本館を中心にして、それぞれの建物や温泉施設が渓流を挟んで並び立っている。その眺めだけでも目の保養になる。最近はその眺めの良さと温泉の風情を求めて外国人たちもやってくるようになったそうだ。同じ水上温泉郷の宝川温泉が、映画「テルマエロマエ」で紹介されたことで、世界中から客が集まるようになったそうだが、ここも最近「テルマエロマエ」続編で紹介されたために、俄に外国人が来るようになったという。そんなこともあって、大層な繁盛ぶりで、この日も三十三ある客室がすべてうまっているそうだ。

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「老音楽師」と題したこの絵は、かなり奇妙な構図に見える。七人の人物が配されているのだが、彼らの間にはあまり関連性がない。みな銘々に勝手な姿勢をとっている。視線も一人の少年のそれを除けば、テンデバラバラである。しかも彼らは荒野のようなところでかたまっているのだが、これもまた必然性を感じさせない。というわけでこの絵には全体を統一する理念のようなものがない。その結果分裂気味に感じられる。

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北野武の暴力やくざ映画「アウトレイジ ビヨンド」は、「アウトレイジ」の続編である。「アウトレイジ」でビートたけしが刑務所の中で刺されてから五年後のことを描いているということになっている。その五年間に、かつてビートたけしが所属していた東京の広域暴力団山王会が強くなりすぎて、警察の手に負えなくなって来たので、その勢力をそぐために、ビートたけしがひと肌ぬがされるところを描いている。その結果山王会の勢力は弱まり、またビートたけしが怨念を抱く悪党どももみんな死んだが、そのために自分は警察に利用されただけで、一番得をしたのは警察だった、という皮肉ななりゆきを描いたものだ。

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過日、豊穣たる熟女たちと佐倉・成田を散策した折のことはこのブログでも紹介したが、その際に、今年の夏には水上温泉郷で温泉に浸かりましょうということになった。そこで夏頃に皆さんを誘ったところ、今年の夏は暑くて温泉どころではないようなので、涼しくなってから行きましょうよと変更になった。そんなわけで、十月も押し迫ってから、紅葉狩りを兼ねて温泉に浸かりに行くこととはなった次第だ。投宿先は水上温泉郷の法師温泉。往昔高峰三枝子のフルムーンの宣伝で有名になった湯だ。

「後狩詞記」は、「遠野物語」とともに柳田国男の民俗学研究の出発点というか、原点となったものだ。柳田はこの本を通じて、自分自身の実証主義的な学問の方法論を実践する一方で、その後の彼の中核的な関心事となった山人についての研究を開始した。もっとも柳田は、この本のなかでは山人という言葉を使ってはいない。その点は遠野物語とは異なる。しかも、彼が対象とした焼畑農業民兼イノシシ猟師たちを、他の普通の日本人とは決定的に異なるユニークな存在とも規定していない。ただ、日本の辺境のしかも山の中には、このような変った人々がいるといっているだけである。しかしその変りかたがあまりにも常軌を逸していることには気が付いていたようで、そこから後日彼らに代表される山の人あるいは山の民についての研究を本格化させるようになったとは推測される。

 眼を覚ますと、あかりさんは浴衣を着た姿で縁側に座り、池の水に見入っているようだった。小生は彼女に
「おはよう」と声をかけて床から出た。
 そして下着と浴衣を身に着けてトイレに入り、小用を済ませてあかりさんの隣に座った。
「よく眠れたかい?」
「ええ、まあ、布団だからいつかみたいにベッドから落ちることはなかったけど、何度もあなたに蹴飛ばされて布団からはみ出したけどね」
「それは申し訳なかった」
 小生はあかりさんからまたもや寝相の悪さを指摘されて、すっかり恐縮してしまった。
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北野武の2010年の映画「アウトレイジ」は、題名からも伺われるように、かなりどぎつい暴力映画である。北野の他の作品同様、北野武が先頭になって人を殺すほかに、凄惨な拷問シーンも多い。それらをおおまかにとらえると、暴力映画としてはかなり水準が高いといえる。水準と言っても、暴力の程度と言う意味ではあるが。

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「かわゆらしさう」は、子どもを抱く母親を描く。かわゆらしさう、というのは、子どもの様子がかわゆらしそうなのか、それとも子供を抱く若い母親の様子がかわゆらしいのか、どちらともとれるようだ。

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ローラ・ド・ヴァランスは舞踏団カンブルービ一座のプリマドンナである。マネは一座の支配人と懇意だったらしく、アルフレッド・ステヴァンスのアトリエに一座の連中を連れてきて、ポーズを取らせてくれと頼んだ。支配人はそれに答えてローラをアトリエに連れて行き、マネの前でポーズを取らせた。そうして出来上がったのがこの絵である。マネはこの絵を、1863年に催した自分の個展に出展した。

「共同幻想論」は、吉本隆明の社会理論を体系的に論じたものだ。その特徴は、人間社会というものはまづ個人からなっていて、その個人が集まって社会を形成する一方、個人と社会との中間に家族や夫婦の関係があるとしたうえで、これら三つの層を通じてすべてについて言えることは、それらが幻想の上に成り立っているとする点だ。この考え方によれば、個人は個人幻想にその存立の基礎をもち、家族や夫婦は対幻想に、また社会は共同幻想に、それぞれ存立の基礎を持つということになる。

四月も終わり近く、小生はあかりさんを誘って伊豆に小さな旅をした。東京駅中央コンコースの新幹線改札口前で待ち合わせ、九時過ぎのこだま号に乗った。彼女は淡いグリーンのコットンジャケットにベージュ色のチノパンツをはいていた。座席に腰かけるといたずらそうな顔をして、
「今日は教員仲間の女友達と旅行すると言って出て来たのよ」と言った。
「女友達がいつの間にかむくつけき親爺に変わっていたというわけだね」
 そう小生が返すと、
「軽口をたたかないで。これでも娘には気を使っているんだから」とあかりさんは不平そうな顔を見せて言った。
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2008年の映画「アキレスと亀」は、北野武の作品としてはめずらしく、暴力シーンが一切出てこない。ただひたすら絵を描くシーンの連続だ。というのもこの映画は、一人の絵描きの半生を描いたものなのだ。北野武自身絵を描くのが好きだし、また結構うまい絵を描くようだが、そうした絵に対する自分自身のこだわりをこの映画に込めたということのようである。

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明治二十一年に刊行した「風俗三十二相」は、様々な階層の女性たちの表情や仕草をテーマにしたもので、全部で三十二の図柄が作られた。描かれた三十二人の女性たちのうち、徳川時代の女性が二十三人、明治の女性が九人である。それぞれ、うれしそうとか、寒そうとか、痛そうとかいった具合に、女性の感情を「そう」ということばで表現している。

小説の題名にあるこの「個人的な体験」という言葉の意味を、大江は主人公バード(鳥)の口を借りて次のように説明している。「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ・・・個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そう言う体験はあるだろう・・・ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ」

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マネはスペインの絵、とくにベラスケスが気に入って、スペイン風に描くことをめざすことから始めた。その最初の成果が「スペインの歌手」である。マネはこの絵を1861年のサロンに出展し、佳作の評価を受けた。それまで落選の連続という憂き目にあってきたマネとしては、最初の成功だった。マネはこれをばねにして羽ばたこうと目指したが、その後はサロンの評価に見放された。

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北野武といえば、本業はお笑いだが、映画ではどういうわけか暴力ばかり描いた。その北野が、暴力映画に限界を感じて、もっと別のジャンルに可能性を求めたらしいのが、この「監督・ばんざい!」だ。北野にとっては13本目の作品だが、この作品で北野は、自分の持ち味であるお笑いの世界にもどった。

「石神問答」は、柳田国男が数人の民俗研究者との間で交わした往復書簡を一冊の本にまとめたものだ。それらの書簡は合わせて三十四にのぼり、交わした相手は、山中笑はじめ八名である。これらは本の出版日たる明治四十三年からさかのぼる余り遠くない時期に交わされたと思われる。その時期はあたかも遠野物語の執筆時期とだいたい重なっている。そんなこともあって、遠野物語と同じような問題意識に貫かれている。それは、日本の各地に残っている淫祠と言われるものの、起源や分布、現代の日本人へのかかわりあいなどを明らかにしたいというものだった。

 柳北居士の政府攻撃の手は五日間の自宅禁固に処せられたくらいでは引っ込まなかった。禁固の期間があけた後、以前に増して政府批判を強めた。末広鉄腸が自宅禁固から解放されると彼を朝野新聞の編集長に迎え、二人三脚で政府批判を続けた。その末広は井上薫に呼びつけられて政府の役職を提供すると言われたが、その懐柔を策せることを見抜いた末広は、断固その誘いを拒絶していた。そんな末広のジャーナリストとしての気概を柳北居士は高く評価したのである。
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北野武の「座頭市」は、勝新太郎の座頭市シリーズを意識したものだが、座頭市というキャラクターを借用しているだけで、子母澤寛の原作とは全く関係がない、北野のオリジナル作品だ。その座頭市という名前にしてからが、映画では表面に出ておらず、まわりの者は単に按摩さんと呼んでいる。これを座頭市と呼んでいる唯一の人間は、敵役のやくざで、いわば腹いせの悪態として言っているだけで、座頭市がこの按摩の表向きの名前とは思われない。

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渡辺綱は源頼光四天王の首座で、勇猛で知られる。さまざまな逸話があるが、最も有名なのは鬼退治の話。都の羅城門に鬼が出るというので、綱は頼光から授かった金札を立てるべく、羅城門に赴いた。すると鬼が現れて、背後から綱の兜をつかんだ。そこで綱はすかさず鬼の腕を切り落とし、それを持ち帰ったというもの。

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エドゥアール・マネは近代絵画の先駆者とも、現代美術の魁とも言われる。マネが画家として登場した時、フランスではサロンが美術界への登竜門になっていた。美術界で成功しようと望むものは、このサロンで認められることが必要だったのである。しかしマネは何度もサロンに挑戦したにかかわらず、なかなか認められないばかりか、露骨に拒絶された。そこでマネは、ナポレオン三世がサロンでの落選作を対象にした「落選展」を開催した時に、「草上の朝食」を出展したが、それでも評価されないばかりか、一層露骨にけなされた。その理由は、マネの絵が伝統的な絵画の理想からあまりにもかけ離れていたということであった。

吉本隆明の小論「芥川龍之介の死」は、芥川の死をめぐる通説に異を唱えるとともに、芥川の作家としての資質を軽侮するような内容のものである。吉本には他人を無暗に攻撃する傾向があるが、この小論ではそれがストレートに現われている。芥川を敬愛する人が読んだら不愉快になると思うし、また直接かかわりのなかった死者に向かって何故これほどまでにエクセントリックな攻撃をしかけねばならぬのか、理解に苦しむことだろう。

ロシアに旅するにあたっては治安の悪さがよく指摘されるが、小生たちもやはりその治安の悪さの犠牲になった。その二三の例を紹介したい。治安が悪いという印象はその国にとって不名誉であるのみならず、旅行者にとっては災厄というべきなので、先進国を標榜する国においては、最優先に解決すべき課題である。

 学海先生は墨堤に居を構えたことで一人の友人を新たに得た。成島柳北である。柳北のことを先生は、郵便報知新聞の先輩栗本鋤雲からしばしば噂話を聞いていた。共に幕臣として幕末に活躍し、維新政府におもねらず、フランスにも旅行したことなど、柳北と鋤雲には共通するところが多かった。年は鋤雲のほうが十五歳も上だったが、鋤雲はこの年下の才子を非常に高く評価していた。しかし学海先生にとって成島柳北といえば、「柳橋新誌」の作者柳北居士として、つとに畏敬すべき存在だった。その柳北が墨堤に定めた住まいの近くに住んでいると知って、先生は早速厚誼を求めたのである。
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北野武の1993年の映画「ソナチネ」は、やくざの抗争を描いた暴力映画だ。題名がソフトなイメージを喚起するのでソフトタッチの映画かと思われるが、まったくそうではない。ハードな暴力映画である。ただ、暴力とともに映画の大部分を占めるのが、ビートタケシがテレビで繰り広げて来たドタバタギャクなので、見ている方としては多少肩の張らない気楽さを感じることはできる。

九月二十日(木)七時に起床、パソコンに向かって航空機のオンライン・チェックインをなさんとするに、システム機能せずとのアナウンス表明され目的を達せず。昨日の日記を整理して後、九時頃運ばれ来れる朝餉を食す。

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袴垂保輔は都を騒がせる大盗賊、鬼童丸は市原野に住む盗賊だ。この二人が妖術を競い合う場面を滝沢馬琴が読本「四天王剿盗異録」に書いた。芳年はその場面をイメージ化したものを縦二枚続きの錦絵にした。当時馬琴の読本は庶民に人気があったので、こういう図柄も喜ばれた。

大江健三郎は、処女作の「奇妙な仕事」以来「個人的な体験」で長編小説を書くようになるまでの間、専ら短編小説を書き続けたが、それは彼にとっては長い助走のような意味を持ったようだ。彼はこれらの短編小説で、自分の文学的な野心を試した後で、その野心を長編小説の形で展開して見せるつもりだったように思われる。もっともその野心の方向性は、それこそ大江自身の個人的な体験を通じて大分異なったものになったのではあったが。

三時頃カフェを去り、地下鉄にてセンナヤ広場駅に至り、ホテルに小憩すること一刻。五時過ぎて再び外出す。今宵は露西亜旅行最後の日なればとて、浦子さるヲーカバーにてヲートカパーティを催さんと提案す。さればタクシーにて赴くべしと、石子のスマホアプリを用ひてヤンジェクス・タクシーを呼び寄せんとす。携帯電話番号の入力を求めらる。石子の携帯番号を入力するに、外国ナンバーは受け付けずと返さる。ここにて初めて、ヤンジェクス・アプリを活用するには、ロシアのSIMカードが必須なりと気付きたり。

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この絵は、1890年の7月に描かれており、ゴッホの遺作といってしかるべき作品である。同じ月の27日にゴッホはピストル自殺を図るのだが、その際に制作中だったのが、この絵であった可能性は高いようだ。ゴッホがピストルを持参したのは、畑の中を飛び回るカラスを追い払うためだと言っていたそうだが、そのカラスはこの画面に描かれているカラスと同じものに違いないのだ。

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1989年の映画「その男、凶暴につき」は、北野武の監督としてのデビュー作である。北野武といえば暴力映画といったイメージが定着しているが、この映画で早くもそのイメージが前面に出ている。しかし、後の彼の暴力映画と比較したら、やや穏健な印象を与える。というのは、この映画の中の暴力は、それなりの原因があるからだ。原因のある暴力は、表面の陰惨性のわりには暴力的な印象を強く与えない。本当に陰惨な暴力とは、理由もなしに行使される暴力だ。この映画の中の暴力は、後の北野映画の中でのように、理由もなく行使される陰惨な暴力ではなく、ある意味正当な暴力と言ってもよい。そこがこの映画を、多少とも穏健に見えさせている要因である。

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(ネヴァ河畔)

九月十九日(水)六時半に起床して日記を整理す。八時近く朝餉を供せらる。昨日と同じメニューなり。食後窓外を見るに天晴れ渡りて爽快なる陽気のなか、サラリーマンと思しき人々足早に歩み去りたり。その身なり普段着と異ならず。ロシア人はうちとけたる勤め人生活を楽しみをるが如し。

柳田国男が昔話に拘ったのは、それらが日本人の古い考え方を比較的もとの形で保存していると考えたからだ。昔話の中には、時代の変遷や地方の相違によって、もとの形とは違ってしまったものも認められるが、少なからぬものの中に、日本人古来の思想の痕跡が残っている。それらを丁寧に読み解くことで我々は、日本人の本来抱いていた思想がどのようなものであったか、知ることができると柳田は考えて、昔話の収集と比較・分析に熱意を注いだのだろう。

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(アレクサンドリンスキー劇場)

再び舟に乗ること三十数分にしてサンクト・ペチェルブルグに戻る。宮殿前広場を横切る際、ロシア娘より声をかけらる。翁らはキタイなりや、妾と記念撮影をなさざるや、と。余、苦笑して去る。また、驢馬の縫ぐるみを着て通行人をたぶらかし、ともに記念撮影をなして、肖像権料をとるものもあり。つられて付き合ふは剣呑に似たり。

 郵便報知新聞を舞台にした学海先生の活躍はそう長くは続かなかった。社長小西に迎えられた古沢滋が紙面を洋風の議論で埋めるようになり、それに伴って社員にも洋学者を多く用いるようになったため、学海先生のように漢学をベースにした議論は次第に浮き上がるようになってきた。そこで先生はもはやこの新聞社に自分の居場所はなくなったと感じて、自ら身を引いたのであった。時に明治八年三月十四日、採用されてからわずか四か月後のことであった。
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2013年のルーマニア映画「私の、息子」は、息子を溺愛する母親と、そんな母親に反発しながらも肝心なところでは依存する息子との、よくありがちな母子関係をテーマにしたものだ。この手の母子関係はどこの国でもあるし、日本にも当然あるが、この映画に描かれたようなものはちょっと珍しいかもしれない。そうした意味では、ルーマニア人の国民性のようなものを感じさせられる。

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(エルミタージュ美術館)

九月十八日(火)六時半に起床して日記を整理す。窓よりモスクワ大通りを展望するに、天晴れて爽快なり。八時近くにフロントの老嬢朝食を持ち来る。トーストと目玉焼きとコーヒーなり。

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魯智深は水滸伝に出て来る梁山泊の英雄の一人。僧侶でありながら、筋骨隆々たる巨漢で怪力の持ち主、さまざまな逸話があるが、中でも有名なのは、町で酒を飲んで寺に帰って来た時に、門を閉ざされてしまったために、金剛力士像をこわしてしまったというもの。それでも仏罰を蒙ることはなかった。

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(ドム・ヴャゼムスコイの前にて)

九月十六日(月)陰。六時半起床、七時に一階ロビーに諸子と待ち合はせ、ともに食堂に行きて朝餉をなす。モスクワのホテルとほぼ同じメニューなり。

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ゴッホは人生最後の滞在地オーヴェールで、一人の重要な人物と知り合った。精神科医師のガシェ博士である。弟のテオが、兄の北仏への移動希望を知って、自分の知り合いであったガシェ博士を紹介したのだった。ガシェ博士は親切な人間で、ゴッホを暖かく迎えてくれたばかりか、下宿先まで世話してくれたのだったが、ゴッホは自分で安い下宿を見つけて住み込んだ。

吉本隆明の転向論は、戦争責任論の一環としてなされたものだ。吉本の戦争責任論にはいまひとつわからないところがあるが、転向論に至っては大分混乱を感じる。と言うのも吉本は、佐野とか鍋山とか戦時中いち早く転向を表明し、それを厚顔に同志にも勧めたような「転向」組と、宮本夫婦のように思想的な節操を捨てなかった「非転向」組とを一緒くたにし、どちらも同じ穴のムジナのような言い方をしているのだ。しかも宮本たちまでをも「転向」呼ばわりしている。

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(ユーリエフ修道院遠望)

食後バス停にてバスを待つ。ややしてバス来る。生活路線なり。車掌にユーリエフ修道院に行きたしと告げ、まはりの乗客にもその旨を告ぐ。かれらバスがユーリエフ修道院に着くや一斉に余にその旨を告ぐ。ために間違ひなく目的地に下車することを得たり。

 学海先生は高まりつつある不平士族の動きには批判的であったし、また板垣等の自由民権運動にもあまり理解を示さなかったようである。その当時の先生の日記には、そうした政治的な動きに触れた記事はあまり見られず、ましてやそうした動きに対して先生自身の考えを述べたものは皆無と言ってよい。先生が主に記しているのは会議所を舞台とした先生自身の活躍ぶりである。
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2001年の映画「ノー・マンズ・ランド」はボスニア紛争の一こまを描いたものだ。監督のダニス・タノビッチはボスニア人だが、スロベニア・フランス・イギリス・ドイツの俳優が参加し、資本も各国から出ているので、国際共同映画と言ってよい。
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(ノヴゴロド駅に到着せる夜行列車)

九月十六日(日)六時に目覚まし時計の音に起こさる。トイレにゆき、歯をみがき、髭をそる。窓外を見るに、あたりやうやう白みはじめ、列車は白樺林の中を進みてあり。時折白樺の林に湖らしきもの景を添へたり。頗る幻想的なり。その雰囲気の微妙なること、あたかも宮沢賢治の林檎林の詩を読むが如し。

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これは奥州安達ケ原の人食い鬼伝説に取材した一点。この伝説は能や歌舞伎に取り上げられたほか、さまざまな形で人口に膾炙していたものだ。それを芳年が視覚化した。

大江健三郎は昭和三十九年の一月に短編小説「空の怪物アグイー」を発表するが、これは彼のそれまでの小説とはかなり毛色の変わったものだった。この小説は子殺しをテーマにしているのだが、その点では「芽むしり仔撃ち」と共通する点がないでもないが、「芽むしり仔撃ち」がある種の告発であるのに対して、したがって他者に向けられたものであるのに対して、この小説は大江自身への内省をもとにしたものであって、したがって自分自身に向けられたものである。彼がここで取り上げている子殺しは、自分自身が犯したかもしれない可能性をあらわしているようなのである。

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(モルドヴァ大使館)

ツム百貨店を出でて、クズネツキー通りを歩む。この通り歩行者天国にて、夥しき数の人々散策す。通りの一角にモルドヴァ大使館の玄関あり。浦子がいふには、この大使館内に大使館の経営するレストランありと。守衛に乞ひて内部に案内せらるべしと旅行ガイドに記しあれば、守衛に案内を乞はんとするに、留守なり。その帰りを待つ間通りの雑踏を眺めゐたり。その雑踏、銀座の雑踏よりも人間臭さを感じせしめたり。ややして守衛帰り来る。すなはち案内を乞ふに、守衛我らを別の入口より招き入れてレストランに案内す。

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オーヴェール・シュル・オワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川沿いの町で、パリの北西数十キロの地点にある小さな町である。その町の中心部あたりに協会が立っていた。この絵はその教会を描いたものである。

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2015年のクロアチア映画「灼熱」は、ユーゴスラヴィア解体に伴うクロアチア内の民族対立を描いたものだ。ユーゴの解体によって、かつて連邦を構成していた各民族が独立の動きを見せ、それにともない連邦維持を追求するセルビア人との間に各地で内乱のような紛争が起きた。クロアチアにおける紛争はその早期のもので、規模も大きかった。今日クロアチア紛争と称されるこの内乱で、クロアチアの人口は数十万単位で減少した。

四方山話の会の十月の例会は、小生らが先日行ったロシアへの旅行報告に宛てられた。小生が総論を話し、その他の諸子がそれぞれ自分の言いたいことを補足しようという具合に意見統一を行ったうえで、会に臨んだ次第だ。参加したものはロシア旅行四人組のほか、福、六谷の両子を合わせて六人だった。

柳田国男が「口承文芸史考」を書いたのは昭和二十一年のことだが、その序文で柳田は、この本の目的を、我々日本人の祖先が何を信じ、いかに信じていたかを知ることが一つ、もう一つは日本人がいかに自国の言葉を愛重し、どれほど力を尽してこれを守り立てていたかを尋ね極めることだと言っている。これらの目的を追求するためにも、口承文芸は欠くべからざるものであるが、今日では書かれた文章のみを尊重する気風が強くて、口承文芸に注目するものが少ない。その典型的な例は、記紀を以て日本の神話を代表させる風潮であるが、柳田によれば記紀はそれまで行われていた口承文芸の一部をたまたま保存したものであって、それを以て日本神話の全体をカバーするものではない。日本神話の全貌を明らかにするためには、記紀だけにとらわれず、日本人が口で伝えて来たものに広く目を向ける必要がある。また、我が国にはそうした古い口承の残りがまだいくらも残っており、日本神話解明への豊富な手掛かりを提供してくれるのである。しかしそれも放っておいては速やかに消える運命にある。だからいまのうちに口承文芸を広く研究し、保存しておく必要がある、というのが柳田の基本的な問題意識であったようだ。

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(ムジェイ・クスコヴォ)

九月十五日(土)晴。六時に起床して昨日の日記を整理し、八時に食堂にて諸子と落ち合ひ朝餉を共にす。メニューは連日同じなり。この日はノヴゴロドへの移動日なれば、十時にホテルを辞し、タクシーを雇ひてレニングラード駅に到る。その名のとほりサンクト・ペチェルブルグ方面の列車の発着駅なり。構内に入らんとするに荷物の検査をなす。駅にもセキュリティの強化を施すは、ロシアはテロに敏感なるが如し。

 この年は桜の咲くのが早かった。三月中に満開になった。そんな折、英策から電話がかかってきて一緒に花を見に行こうと誘われ、三月も末に近い頃宮小路の家で会った。英策は花見用だといって、途中で買ってきたという弁当を二人分ぶら提げていた。我々は家を出て肩を並べて歩き、城址公園の方向へ向かって歩いた。途中中学校の隣にある酒屋で缶ビールを買い求め、城址公園に着くと空堀の土手の芝生に腰を掛けて、満開の桜を見ながら缶ビールを飲み、弁当を食った。春爛漫といった雰囲気だった。
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1991年以降、ユーゴスラビアの解体に伴って、大規模な民族紛争が起きた。なかでもクロアチアとボスニアをめぐる紛争は、従来一つの国民を構成していたもの同士が、血で血を洗う凄惨な殺し合いに発展した。そんななかで、ユーゴスラビア最南部のマケドニアにおいては、マケドニア人とセルビア人勢力との対立は表面化しなかったようだが、マケドニア人とアルバニア人との対立がくすぶり続けた。1994年に公開されたマケドニア映画「ビフォア・ザ・レイン」は、そんなマケドニア人とアルバニア人との対立をテーマにしている。

トランプが最高裁判事に指名したカヴァナフのセックス・スキャンダルが大騒ぎになっている。この問題には小生も大きな関心をもっていて、先日旅したロシアでも、友人たちの前にこの話題を持ちだしたところだ。その際、友人の一人はそんな話は聞きたくないと言ったものだが、小生としてはそう簡単に無視するわけにもいかない。

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(プーシキン美術館)

三時過ぎイタリア・レストランを出でて先程来たれる道を戻り、プーシキン美術館に入る。あたかも日本の浮世絵点開催せられてあり。その様子を石子ニュースにて知り是非見物致したしと言ふなり。

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月岡芳年は、明治十八年から同二十二年にかけて、縦二枚続きの細長い作品を十五図制作した。画題は多彩だが、芳年らしく武者絵が多い。オーソドックスな武者絵と比べて、独特の迫力を感じさせる。

沖縄の知事選で、翁長前知事の後継者を任じる玉城氏が安倍政権の全面的支援を受けた候補者を破り当選した。この選挙を筆者などは、壮絶な死をとげた翁長市の弔い合戦と見ていたので、それが勝利するのを見て感慨深いものがある。

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(トレチャコフ美術館のイコン・コレクション)

九月十四日(金)朝より快晴の空広がる。午前六時に起床、昨日の日記を整理して後朝餉に臨む。メニュー昨日と毫も異ならず。パンとミルクとソーセージの類なり、

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ゴッホは1889年の6月頃に糸杉をテーマにした絵を二点描いた。そのうちの一点は先に紹介した「糸杉」で、これは日中の風景を描いていた。もう一点は「星月夜」というもので、これは星が出ている夜中の風景のなかでの糸杉を描いていた。ゴッホはこれらの絵を、自分の飛躍の現れと捉えていたのだが、友人のベルナールやゴッホはそれを評価してくれなかった。

「芸術的抵抗と挫折」は、吉本隆明が戦争責任を論じたものだ。この問題についての吉本の追究姿勢は厳しい。戦時中にいわゆる転向をした文学者に対しては無論、転向せずに頑張った人たちに対しても厳しい目を向けている。特に後者の人たちは戦時中に節操を守り通したとして尊敬を集めていただけに、彼らに対する吉本の糺弾的な姿勢は、異様ともいえるものであった。

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