2018年11月アーカイブ

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マネは1872年の8月にオランダを訪れた。目的の一つはフランドル派風俗画の画風を吸収することだった。その成果が、この「ル・ボン・ボック」である。この絵には、フランス・ハルスやフランドル派の画家の影響を強く感じ取ることができる。マネはこの絵によって、画家としての自分の世俗的名声を獲得しようと思い、満を持して1873年のサロンに出展した。

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是枝裕和は「誰も知らない」の中で親に捨てられた子供たちのけなげに助け合い生きて行こうとする姿を描いたが、この「海街diary」でもやはり子供たちが助け合いながら生きている姿を描いた。違うのは「誰も知らない」の子どもたちがみな幼い四人兄妹だったのに対して、この「海街diary」の子どもたちは四人とも女性で、しかもそのうちの三人はすでに成人していることだ。その成人している子どもたちが、自分たちを捨てた父親の葬儀の場で、父が残した異母妹と出会う。その子を見た長女は直感に打たれたように、この妹を引き取って、自分たち三人姉妹と一緒に暮らそうと呼びかける。妹はその呼びかけに答える。かくして三人姉妹にもう一人を加えた四人の女性たちによる共同生活が始まる。映画はその共同生活を淡々と描き出すのだ。

四方山話の会十一月の例会は、忘年会を兼ねて曙橋の中華料理屋峨眉山で開催した。会する者は小生のほか、石、浦、越、小、六谷の合わせて六名。今宵は特にテーマを決めず、銘々勝手なことを話そうといって始まったが、それぞれがてんでに勝手なことを話すのでまとまりがない。わずか六人の会話なのに、話題は幾筋にも交錯して焦点が定まらない。そこで小生は、だれかにスピーカーをつとめさせ議事を仕切らせてはどうかと提案したが、その必要はないといって、てんでんばらばらな会話があちこちで交錯することとなった次第である。

折口信夫が常世論を提示するのは三十台前半という若い頃のことだ。以後彼の民俗学の根本概念として生涯を通じて言及するようになる。いまその常世論の出始めを中公版全集で当たってみると、第二巻の冒頭をかざる「妣が国へ・常世へ」が最初の仕事のようである。この短い文章のなかで折口は、彼独特の直感にもとづいて常世の何たるかを解説している。そのやり口は柳田国男の実証的な方法とは対照的なもので、直感と言うかひらめきと言うか、科学的と言うよりも文学的とでも言うべき手法を以て独自の概念を定立し、その概念にもとづいて、様々な事象を演繹的に説明しようとするところに折口の折口らしい特長がある。

 英策と話しているうちに小生には小説の結び方に一定のイメージが湧いて来たように感じた。英策が指摘するまでもなく、この小説は学海先生の史伝という形をとっていながら、そこに小生の個人的な事情を介在させている。しかもそれが英策の言う通り、小説の本筋とはほとんどかかわりがない。これでは全く異なったものが一片の小説に無秩序に混在する結果となり、小説としてのまとまりを著しく損なっていることは、英策の指摘を待つまでもない。そこで小説のどこかでこの両者に橋渡しをする必要が生じるが、小説をここまで書いてきてしまった以上、ラストの部分でそれを行わねばならないだろう。
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題名の空気人形とはダッチワイフのことである。ダッチワイフというのは、男の性欲処理の為に作られた人形で、空気で膨らませてあり、股間の陰部に男根を挿入して疑似セックスができるような仕掛けになっている。長期間単身生活を強いられる男性には有効な働きを果たすといわれ、南極探検隊にも同行されるというすぐれものである。

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この群鶴図屏風は、六曲一双の屏風絵の大作であることから、光琳が大作を本格的に手掛けた晩年の作だと考えられるが、千羽鶴図との対比という意味で、ここに掲げた。

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マネはベルト・モリゾーにマドリードに行くことを勧めた。マドリードの美術館は当時世界一のコレクションを誇っており、絵の勉強にはすばらしい機会を提供してくれたのである。しかもマネは自分の親しい友人であるザカリー・アストリュックを、彼女のエスコート役としてつけてやった。そんなわけで、プロの画家を目指していたベルトは、心おきなく絵の勉強に打ち込めたといって、マネに感謝した。

江藤淳には浩瀚にわたる漱石研究があるが、ここでは小論「明治の一知識人」を参照して江藤の漱石論の要諦を見てみたい。結論から先に言うと、江藤の漱石論は、漱石を国士とみるところに特徴がある。つまり漱石を、文学者としてよりは愛国者=ナショナリストとして高く評価しているのである。漱石の文学者としての意義は、江藤によれば愛国者=ナショナリストとしての一面を物語っているにすぎない。とうことは、江藤なりの愛国心が、漱石にも投影されているわけである。

 三州盤踞策をとった西郷軍は、薩摩、大隅、日向を舞台にして、九月の下旬に鹿児島の城山で全滅するまでの間、官軍と壮絶な戦いを繰り広げる。その戦いにはいくつかの重大な局面が認められる。まず西郷軍が最初に本営を置いた人吉での戦いに始まり、鹿児島、都城、宮崎、延岡と順治舞台を移して、最後には鹿児島の城山に集結した西郷軍最後の精鋭部隊が官軍によって壊滅させられ、西郷自身も城山付近の宮崎口で切腹して果てるのである。
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是枝裕和には、ドラマチックな筋書きを廃して、人々の日常を淡々と映し出すような傾向が強くある。その日常は、特に変わったことが起るわけではなく、むしろ平凡な人々の平凡な日常が映し出されるだけである。それを是枝は、登場人物が交わす会話によって表現する。会話だからとりとめのない話に傾きがちだが、ときには昔の思い出に触れたり、あるいは話す人の情念を反映していたりもする。そういう何気ない会話を通じて、登場人物たちの生き方をあぶりだしてゆくというのが、是枝の映画の大きな特徴だ。2008年の作品「歩いても歩いても」は、そういう傾向が非常に強く認められるものである。

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この千羽鶴図も、江戸の豪商冬木家に伝えられてきたもの。香包の装飾図柄として描かれた。香包とは香木を包んだもので、縦横それぞれ二度づつ折り、折り目の作る九面のうち、向かって左側の中央が表になるようになっている。この絵をよく見ると、その折り目が見えており、表面にあたるところに、鶴がもっとも密集して描かれているのがわかる。

僕と妻とは小説の最初から破綻した夫婦として登場する。彼らが夫婦として破綻しているのは、彼らが互いに相手を無視していることに現われている。彼らが互いに無視しあっているのは、どうも意図的ではなく、互いに相手を思いやる余裕がなくなっているからだ。彼らをそうした状態に陥れた原因に、小説はあからさまには触れていないが、行間からは彼らが自分たちの子を見捨てたことだというふうに伝わって来る。自分の子を見捨てたという心のこだわりが、彼らを自分自身の内部に閉じ込めてしまったわけだ。それを裏書きするように、小説の最後で彼らが互いに和解する気になった時、その和解を後押しするものとして、かつて見捨てた子どもを取り戻し、一緒に育てようという気になったことがあげられる。つまり彼らは自分たちの子どもを見捨てることによって互いに離れてしまい、その子どもを取り戻すことによって、再び結びつく気になれたわけである。

休息:マネ

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マネはベルト・モリゾーのこの肖像画を1873年のサロンに出した。その際彼女の名前をそのままタイトルにするつもりだったのだが、彼女の母親が強く反対した。モデルのとっているポーズがくだけすぎていて、良家の娘のようには見えないという理由からだった。そこでマネは、彼女の名は表に出さず、単に「休息」と題した。彼女のとっている姿勢が、ゆったりとくつろいでいるように見えるからだ。

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若松孝二は晩年に一大ブレイクし、「キャタピラー」や「千年の愉楽」といった傑作を作っているが、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は、その若松自身が自分の映画人生の総決算だと言っている作品である。自分の総決算と位置付ける作品になぜ「連合赤軍」を選んだのか。若松は多くを語っていないようだが、それ以前の連合赤軍の描き方が警察目線に立っていたことへの抗議の意味を込めていたとも考えられる。それほどこの映画は、連合赤軍の立場に立っているところが感じられる。もっとも連合赤軍のやったことは、誰も擁護はできないし、また当事者の意識が混濁していたとしか考えられないほどお粗末なものだったので、若松といえども彼らに感情移入することはむつかしかっただろう。

日本の民俗学は、知の巨人といってよい思想家を三人も擁している。南方熊楠、柳田国男、折口信夫である。彼らは唯に民俗学者というにとどまらず、知の巨人と言うにふさわしい知性と、思想家と呼ぶに値する思索を展開した。しかも面白いことに、その思索のスタイルが三人三様である。その相違をよくよく分析してみれば、我々はかれらのうちに、日本的な発想の典型的な形を認めることができる。かれらの偉大な知性は、日本人の発想の諸様式を、それぞれ代表しているのである。

 田原坂と山鹿を抜かれた西郷軍は一時総崩れとなったが、熊本の南方で体制を持ち直し、大津から御船に至る二十キロの防衛戦を敷いて、官軍を迎え撃つ体制を整えた。その際の西郷軍の兵力は一万を割っていた。一方官軍は数万の兵力を擁し、西郷軍を一気に叩き潰そうと意気盛んであった。
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岡本喜八は「独立愚連隊」シリーズで日本軍をコミカルに批判していたが、「肉弾」はそんな岡本の戦争批判映画の傑作だ。この映画を通じて岡本は、日本軍を批判するとともに戦争そのものの愚かしさを痛烈に描き上げた。

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秋草をあしらったこの小袖は、江戸の材木商冬木家に伝来したことから「冬木小袖」と呼ばれている。江戸に出て来たばかりの光琳が、冬木家の求めに応じて製作したものらしい。小袖の白い布地に、墨と淡彩で秋草を描いたものだ。

昨夜(2018年11月18日)放送のNHKスペシャルが、「人生100年時代を生きる」と題して、死に方の選択について考えさせる番組を流していた。それを見た筆者は、一方では自分のこととして受け止めるとともに、他方では、いつまでも人に迷惑をかけているよりも、すみやかに死んだ方がいいですよと、他人からせかされているようにも感じた。

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「バルコニー」と題したこの絵をマネは「アトリエでの昼食」とともに1869年のサロンに出展し、どちらも入選したのだったが、批評家の評判は例によって芳しくなかった。「アトリエでの昼食」は絵の中に銃や兜など奇妙なものが加えられているのが意味不明だと言われ、この絵については、それぞれの人物が不自然な様子に描かれていると言って非難された。

江藤淳が時事評論「"戦後"知識人の破産」を書いたのは、1960年安保騒動の最中である。この小論の中で江藤は、戦後知識人の破産と、彼らの主張の奇妙な空々しさを感じたと書いた。この連中を見ていると、「戦後十五年間というもの、知識人の大多数がそのうえにあぐらをかいてきた仮構の一切が破産した」と感じた、そう言うのである。

 明治十年二月十五日、西郷は桐野、篠原、村田らを始め一万三千人にのぼる鹿児島県士族を率いて熊本に向かった。これに先立つ二月十二日には、鹿児島県令大山綱良が、陸軍大将西郷隆盛が政府に尋問すべきことがあって兵隊を従え上京するから、これをつつがなく通行させるようにとの通告を政府と各県に送った。西郷軍は道々各地からはせ参じた不平士族らを吸収し、あっというまに三万余の大軍となった。その西郷軍の門出を見送るかのように、南国には珍しい雪が降った。
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2013年の原恵一の映画「はじまりのみち」は、木下恵介生誕100周年を記念して作られたもので、木下恵介へのオマージュのような作品である。映画監督個人へのオマージュとしては、新藤兼人が溝口健二の生涯を描いた「ある映画監督の生涯」があるが、原のこの映画は、木下の生涯の一時期(青春時代)に焦点を当てて、木下の映画作りへのこだわりのようなものを取り上げている。

ジャーナリストの斎藤貴男が雑誌「世界」2018年12月号に寄せた小文「体験的『新潮45』論」のなかで、最近の日本における保守論壇の劣化を嘆いている。斎藤によれば、保守論壇の劣化は、小泉政権の頃から始まったのだそうだ。この頃から、保守論壇は権力にこびるようになり、"保守政権に無条件で服従しない奴はみんな敵だ、サヨクだ"と叫んで、ネトウヨ化してきたということらしい。今回起きた「新潮45」の廃刊事件は、そうした保守論壇の劣化を象徴するもののようだ。

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光琳は宝永元年(1704)に江戸へ出てくると、芸術上の庇護者を求めて方々の大名へ接近する。そして彼らのために様々な作品を制作するのであるが、「草花図巻」と題するこの図巻は津軽家のために描いたもの。軸心から「宝永二乙酉六月三日」という日付が出て来たから、江戸へ移住してまもない頃の作品と考えられる。

「万延元年のフットボール」は、主人公の僕が自宅の敷地に掘られた穴の中で瞑想するシーンから始まる。そして、四国の山の中の土蔵の地下室でやはり瞑想するシーンで終わる。厳密にはそこで終わるわけではないが、小説のクライマックスとして、一編の物語がそこで事実上閉じられるわけだ。始めの瞑想と終りの瞑想とでは、内容が異なる。それは物語が進行してきたことをあらわしている。主人公は始めの瞑想によって、自分が世界から疎外されていると感じ、終わりの瞑想によって、自分がなんとか世界とつながっていることを感じる。その感じが主人公に救いの感情を与える。そういう意味では、この小説は、主人公に寄り添った視点からは、失った自分を取り戻す話だと言うことができる。


安部晋三総理がプーチンと会談した結果、懸案の北方領土問題については、1956年の日ソ共同宣言を基礎にして交渉を進めることになったと発言した。この発言をめぐって、さっそくさまざまな憶説が飛び交っている。政府としては、これは四島が日本に帰属するとした従来の立場を一歩も踏み出るものではないというような言い方をしているが、実際上は、歯舞・色丹の返還を上限とし、国後・択捉は永久に棚上げ、あるいは放棄することを意味している。

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マネはゾラの友情に応えて肖像画をプレゼントした。その絵は1868年のサロンに出展され入選したが、批評家の評価は芳しくなかった。いつもは自分をほめてくれるゾラが当時者になったことで、誰もこの絵をほめるものはいなかった。ゾラ自身、この絵が気に入らなかったとみえて、自分の家にかざることをしなかったという。

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日本人は昔から怪談好きだったが、それは日本の夏の暑さと関係があったらしい。我々日本人は、今でこそエアコンで夏の暑さをしのげるようになったが、昔はそういうわけにもまいらず、我々の先祖・先輩たちは怪談話を聞いたり見たりしながら、暑気払いにあいつとめたものと見える。そんな怪談話の中でももっとも人気を博したのが「四谷怪談」だ。原作は鶴屋南北だが、そのほかにもいろいろなバージョンがあって、人々を怖がらせてきた。怖がることによって、ヒヤッとした冷気を味わってもらおうというわけであろう。

雑誌「世界」の最近号(2018年12月号)が「移民社会への覚悟」と題した特集を組んでいる。安倍政権が打ち出した実質的な移民推進策への反応だろう。安倍政権は、「これは移民ではない」と言い訳しながら実質的な移民の受け入れを進めようとしている。その背景には深刻な労働力不足があり、経済界からの外国人労働力の受け入れ要請がある。こうした事情を背景に、この特集は、日本の移民政策の問題点を指摘しているのだが、その論調には、やや首をかしげたくなるところがある。収められた論文の多くに、移民はいいことだ、あるいは避けられないことだという前提があって、日本が移民受け入れ国家としてどう対応していくかといったことばかりが強調され、そもそも移民政策がこの国の未来にどのような意味をもつのか、そしてまた、移民受け入れを拡大していくことが本当にいいことなのか、といった本質的な議論が置き去りにされている感じがあるからだ。

柄谷行人は「遊動論」において柳田国男を、南方熊楠及び折口信夫と比較している。南方も折口も柳田と並んで日本民俗学の巨匠と言われているが、三者の間にはかなりな学風の違いがある。その違いについて柄谷は彼なりの視点から比較検討しているわけである。

 旧佐倉藩士依田学海をめぐるこの史伝体小説はついに明治十年にたどり着いた。以前にも書いたように、小生はこの小説を明治十年まで書き継ぐつもりでいた。その目標としていた年についにたどり着いたわけである。この年は言うまでもなく西南戦争が行われた年である。この戦争には学海先生も異常な関心を示し、先生のこの年の日記はもっぱらこの戦争への言及で満たされている。先生がそれほどまでこの戦争にこだわったのには、それなりの理由があると思う。この戦争は武士階級の存在意義というものが根本的に否定されて、天皇を中心とした新たな国づくりが始まる結節点に位置する。それゆえこの戦争は、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを画すシンボルのようなものでもある。武士として生まれ、武士としての心情を生涯持ち続けた学海先生にとっては、この戦争は自分のアイデンティティにかかわるものだったのであろう。
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昭和十八年公開の映画「花咲く港」は木下恵介のデビュー作である。九州の離島を舞台に、気のいい島人とそれを騙そうとするペテン師とのやりとりを描いている。その離島がどこなのか、画面からは明確に伝わってこないが、どうやら長崎から遠くないところにあるように思われる。最後に自首したペテン師たちが、警官に船に乗せられて連行される先が長崎だからだ。

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光琳には草花をモチーフにした作品が数多くある。とりわけ初期の作品に多い。それらの図案は、単に自然の花を再現したと言うよりは、曲線の使い方や構図の配置などに装飾性が認められる。こうした装飾性は、燕子花図と通じるもので、光琳の実家雁金屋の家業である衣装の文様に通じるものだ。光琳は実家の衣装文様のデザインの特徴を、一方では燕子花図のような様式的な図柄に発展させるとともに、この図柄のように、自然を装飾的に描いたわけだ。

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メキシコ皇帝マクシミリアン処刑のニュースが、パリ万博で湧いていた最中にもたらされた。マクシミリアンはハプスブルグ家の一員だったが、フランス皇帝ナポレオン三世の要請によってメキシコ皇帝についていた。しかしメキシコの独立をめぐる内乱のさなか、独立派のファレスによって銃殺されたのだった。それには、皇帝でありながら自前の強い軍隊を持たず、フランスの軍事力に頼っていたという事情があった。フランス軍が彼を見捨てて去って行ったために、無防備の状態になってしまったのである。

江藤淳といえば、今日では比較的穏健な保守主義者というイメージが流布しているようであるが、彼の政治評論の代表作といわれる「『ごっこ』の世界が終わった時」を読むと、変革を志向していた改革家としてのイメージが伝わって来る。普通保守といえば、社会の現状を支えている制度・思想を尊重する姿勢を言うが、彼がこの小論の中で展開しているのは、同時代の日本の現状に対する痛烈な批判であり、それを乗り越えようとする意志だからだ。

 五月の下旬、あかりさんから職場に電話がかかって来て、これから会えるかと聞かれた。電話を受けたのは午後一時過のことで、二時から重要な会議を控えていた。小生は会議の主催者なので外すわけにはいかない。それでその会議が終わったらすぐにでも会うようにしよう、四時には職場を出るようにするから、四時半には銀座のいつもの喫茶店に着けると思う。そう言って電話を切った。
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アンドレイ・タルコフスキーの遺作となった1986年公開の映画「サクリファイス」を、彼はスウェーデンで作った。1983年にイタリアで「ノスタルジア」を作った後、実質的な亡命状態で外国に住み続けていたのだったが、外国での二作目をスウェーデンに作ることになったわけだ。どのような理由からかはわからない。

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尾形光琳といえばこの図屏風が浮かび上がるほど有名な作品で、光琳の代表作と言ってもよい。光琳が法橋の位を授かった元禄十四年(1701)頃の作品と考えられ、光琳の現存する作品のなかでは、もっとも早い時期に属するものだ。モチーフの燕子花は、伊勢物語の八つ橋の場面に取材した。はるばる東へとやってきた業平一行が望郷の念にかられながら、「かきつばた」の五文字を五つの句の頭に読み込んで歌を歌ったと言う、日本人なら誰でも知っている場面を絵画化したものだ。

「万延元年のフットボール」は色々な意味で大江健三郎にとって転機となった作品だ。その割にはテーマがいまひとつわかりにくい。あるようでいて、ないようにも見える。大江がわざとそう仕掛けたのかもしれぬが、従来の感覚で読むと、非常にわかりにくいところがあることは否めないようだ。ようだ、と推測形でいうのは、この小説にはわかりやすい読み方を拒むようなところがあって、したがってどんな読み方でも可能だから、読後感として、あるいは批評として、どんなことでも言えるようなところがあるからだ。

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マネは1866年のサロンに、「悲劇役者」と題する絵と共にこの「笛を吹く少年」を出展したが、どちらも落選した。しかも今回は、「草上の昼食」や「オランピア」の時のような、マイナスではあるが大きな反響を呼ぶこともなかった。大方の美術批評家から黙殺に近い扱いを受けたのである。

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1983年公開の映画「ノスタルジア」は、アンドレイ・タルコフスキーがイタリアで制作した作品だ。完全にイタリア映画と言ってよい。資本もスタッフも俳優も、殆どすべてイタリアのものだ。言葉もイタリア語だ。ただ主人公のロシア人は、ロシア人のオレーグ・ヤンコフスキーが演じ、彼が独白するシーンにはロシア語が使われる。

柄谷行人の柳田国男論は、柳田の「山人論」を中核にして展開される。柄谷はそれを展開するにあたって、柳田の学説の変遷についての通説を強く批判することから始める。通説によれば、柳田は山人の研究から始めたが、途中でそれを放棄し、山人とは正反対の稲作定住民=常民の研究へと向かい、晩年はこの常民たる日本人の祖先を海のはるかかなたからやって来た人々とする日本人起源論を主張するようになった。そうした見方に対して柄谷は、柳田は生涯を通じて山人の研究を放棄したことはなかった、むしろ彼が生涯をかけて追及したのは、山人についての思想を深化させることだったと言う。

 神風連の乱が起きた四日後、十月二十八日には山口県の不平士族が乱を起こした。これを萩の乱という。首謀者の前原一誠は松下村塾の出身であり、維新当時には参議・兵部大輔の要職についたほどの大物だった。明治三年に下野して以来、山口県不平士族のシンボル的な存在となり、新政府の政策を厳しく批判していたが、廃刀令と秩禄処分によって士族の生命線が破壊されたと見るや、一段と過激さを増していた。そんな矢先に熊本で神風連が立ち上がったと知り、それに呼応する形で乱を起こしたのである。
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アンドレイ・タルコフスキーの1979年の映画「ストーカー」の題名は、異性にしつこくつきまとう人間のことではなく、ロシア語の「スタルキェル」という言葉を英語流に言ったものだ。で、そのスタルキェルが何を意味するのか、筆者の持っているロシア語辞典には載っていなかった。映画の解説サイトの中には、密猟者などと訳しているものもあるが、それが正しい訳なのかどうか、筆者には確認できない。

ドナルド・トランプとアメリカ・メディアが正面から対立していることは周知の事実だ。トランプはメディアをフェイクニュースと言って罵り、メディアはトランプを不誠実なデマゴギーだと言って罵っている。両者はいわば正面衝突の観を呈している。この正面衝突あるいは対立の勝者はどちらのほうか。答えはドナルド・トランプである。その理由を、NEWSWEEK の最新号の記事が分析している(President Trump Has Defeated The Media By Ben Shapiro)。

琳派と言えば、俵屋宗達に始まり尾形光琳を頂点にして酒井包一に至る日本画の流れを指して言うが、この言葉自体は昭和以降に使われるようになったもので、当人たちがその言葉を意識していたわけではない。しかし、それぞれ百年を隔てたこの三人の画風には共通するものがあり、また本人たちも先駆者の画風に深く学ぶところがあったわけで、琳派と言う名前こそ存在はしなかったが、一つの流派を形成していたといってもよかった。その最大公約数的な特徴は、様式的な美しさと装飾的なデザイン性にあったと言ってよい。

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1865年のサロンに送られた「オランピア」は、「草上の昼食」以上に激しい罵倒を浴びた。批評家の誰一人としてこの絵を評価するものはなかった。これは芸術ではなく卑猥な見世物だという侮蔑の言葉が一斉に浴びせかけられたのである。この絵のどこがそんなに卑猥なのか。現代の鑑賞者になかなか理解できないが、当時の批評家には、こんな絵を公衆の眼にさらすのは許しがたい蛮行と映ったのだ。

吉本隆明は小論「世界史の中のアジア」で、竹内好に言及して次のように言っている。「竹内さんのアジア認識のなかにもし弱点が考えられるとすれば、竹内さんが<アジア>という場合、近代以降におけるヨーロッパとアジアとを対比させた概念だったことにあるとおもいます」と。これだけ取り出してみれば、何を言っているのかわかりにくいところがあるが、要するに、竹内はアジア特に中国を、ヨーロッパとほぼ対等のものと見ているが、それは間違った解釈だ。中国は、すくなくとも社会構造という面では、ヨーロッパの古代以前のような状態にあり、それを近代のヨーロッパと比較することはナンセンスだと言いたいようである。

 明治九年の秋から翌年の秋にかけての一年間は、いわゆる不平士族の反乱が各地に勃発した。まず明治九年の十月に熊本で神風連の乱と言われるものが起き、それに続いて福岡で秋月の乱が、更に山口で萩の乱が起った。翌明治十年になると鹿児島を舞台に西南戦争と称される大規模な内乱が起り、これが二月から九月まで続いた。これら士族の反乱に加えて農民を中心とした一揆も起った。出来て間もない維新政府は大きな危機に直面したのである。維新政府はこの危機を乗り越えることで、有司専制から踏み出して天皇制絶対主義体制を確立したというのが、大方の歴史の見方と言ってよい。
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1975年のソ連映画「鏡」は、アンドレイ・タルコフスキーの自伝的な作品だと言われている。そのことを知らずにこの映画をいきなり見ると、人物の相関とか物語の展開が非常にあいまいかつ輻輳して見えるので、どう解釈してよいかとまどうところがある。ひとつだけはっきりと迫ってくるのは、この映画が現代のソ連社会で生きることの意味について訴えているらしいということである。

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「玉兔 孫悟空」と題するこの図柄は西遊記の逸話を基にしたもの。玉兔は月に住む白ウサギで、木犀の木の下で仙薬をついているとされる。それが地球に下りてきて人間に化け、いたずらをしているのを、孫悟空が正体を見抜いて、これと戦う。

大江健三郎の小説は人物設定の巧みさを感じさせる。小説というものは大部分が会話から成り立っているから、その会話の主体たる人物をどう設定し、彼らにどんな会話をさせるかが、小説の善し悪しを決定づける。大江の人物設定は過不足なくしかもタイムリーで、個々の会話を生き生きとして描いているばかりか、小説の進行に緊張感を持たせている。歌舞伎の良し悪しが役者廻しの巧拙に左右されるように、小説の善し悪しは人物設定の良し悪しに左右されるといえ、その点では大江は小説の名手ということができる。あるいは小説における役者廻しの名人と言ってもよい。

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1863年に、サロンに落選した作品を集めた「落選展」が開かれた時、マネは三点の作品を出展した。その一つがこの作品で、彼はその時これを「水浴」と題していた。ルーヴル美術館にあるティツィアーノの有名な作品「田園の奏楽」を意識した作品だったと彼自身が後に言っている。ティツィアーノの作品も若い楽師と裸の女性が描かれているのだが、誰もそれをおかしいとは思わなかった。ところがそれの同類といえるマネのこの作品に対しては、轟々たる非難が巻き起こった。猥褻だというのである。

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アンドレイ・タルコフスキーが1972年に作った映画「惑星ソラリス」は、ソ連製のSF映画として歴史上に名を留める。宇宙を舞台としたSF映画としては、1968年のハリウッド映画「2001年宇宙の旅」があり、また不気味な地球外生物が出て来るものとしては1979年の「エイリアン」があるが、それらに比べるとこの映画は、かなりテンポが緩やかで、のんびりした雰囲気を感じさせる。ソ連といえば、当時はアメリカと並ぶ宇宙大国だったわけだから、宇宙を舞台にしたSF映画も、もっと緊張感に満ちたものになってよかったとも思われるが、そこはタルコフスキーの趣味も働いて、このようなのんびりとした映画になったのだろう。

「郷土生活の研究」は、柳田国男が昭和十年に行った講演を骨子としたものだ。その講演の中で柳田は、発足せんとする日本民俗学会に向けて、日本の民俗学研究のとるべき方向のようなものを示唆した。その議論については、常民の研究とか一国民俗学といったものをめざしているという見方が長い間なされてきた。それについては、柳田の研究の転回点となったという評価がさなれたり、あるいはそれまで柳田が強調してきた被抑圧民へのまなざしが後退して、常民を中心とする日本の支配的な文化を強調するようになったといった批判もなされて来た。

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