2018年12月アーカイブ

プラム:マネ

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晩年のマネは有名人となり、彼のまわりにはさまざまな人間たちが集まって来た。そうした人間たちの中でマネが興味を抱いたのは可愛い女性たちだった。マネはそうした女性たちの中から気軽にポーズをとってくれる女性を選んで、肖像画らしいスナップ風の絵を描いた。「プラム」と題するこの絵は、そのすぐれた一点である。

ロシア文学にはユニークな人間類型が登場するが、なかでもいかにもロシア人らしいものといえば遊民だろう。遊民というのは、まともな仕事をしないで、ただ漫然と生きている連中のことで、自分自身にはいいところが全くないくせに、その自分をいっぱしの人物と自認する一方、世の中を甘く見て、自分以外の人間たちを軽蔑している。そんなことが身に着いたのは、かれらが生まれながらに甘やかされて生きて来たからで、それというのも、かれらは生まれながらに莫大な財産を持ち、また高等教育を受けてきたからだ。高等教育はかれらにとっては、世界を正しく解釈する手掛かりを与えてくれるというよりは、こざかしい理屈を弄して世間を馬鹿にする手だてをもたらしてくれるにすぎない。

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河瀬直美の2008年の映画「七夜待」は、タイを単身で旅行する若い女性の話である。この女性は言葉も話せずに一人旅をしている。度胸がいいといえば聞こえがいいが、ようするにおっちょこちょいなのだ。そのおっちょこちょいぶりの余りに、偶然乗りこんだタクシーに、とある家に連れていかれる。ホテルに行くつもりが、言葉が話せないままにいい加減な受け答えをしているうちに、タクシーのドライバーが誤解して、彼女を自分の知り合いの家に連れてゆくのだ。彼女は誘拐されたと思ってパニックになるが、家の人たちの親切な対応に心を許す。

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尾形光琳最晩年の作品である「紅白梅図屏風」は、光琳の代表作というにふさわしく、光琳生涯のすべてが込められている作品である。構図の綿密さ、色彩のあでやかさ、そして躍動するリズム感は、宗達を引き継ぎながらそれを超えるものを見る者に訴えかける。

中編小説「みずから我が涙をぬぐいたまう日」は、「父よ、あなたはどこへ行くのか」と姉妹小説のような関係にある。「父よ」では、自分の子どもの頃の父親のイメージ、それは社会から孤立して、蔵の中で、理髪用の椅子に腰を埋めて座っている孤高の人間のイメージであるが、そのイメージを踏み台にして、父親の実像を探り当てようとする主人公のこだわりを描いたものだった。この「みずから」も、やはり主人公の父親へのこだわりをテーマにしている。この小説のなかの父親も、社会から孤絶し、自分の家族すらも謝絶して、蔵の中に一人で閉じこもる父親のイメージをもとにして、その父親の実像を探りあてて、それを同時史という形で表現したいという主人公の強いこだわりがテーマである。それらのこだわりは、それぞれに異なった結末を得る。「父よ」においては、父が社会から孤立した理由は俗世的なものだったということだが、この小説では、父親が社会から孤絶したのは、それなりに深刻な理由によることがわかった。もっともその理由を、主人公が納得したわけではなさそうなのだが、彼が父親について抱いていたわだかまりが多少は氷解する体のものではあった。

ナナ:マネ

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ナナは、エミール・ゾラの小説「居酒屋」に出てくる少女の名である。その少女が大人になった姿をマネはこの絵に描いた。「居酒屋」の中では、ナナが娼婦になるとは書かれていなかったが、マネはそうなることを前提としてこの絵を描いたのだった。そういうわけだろうか、ゾラはこの絵の三年後に小説「ナナ」を発表した時に、ナナを娼婦として描いた。そこにマネとゾラとの奇妙な交際を見る事も出来よう。

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「もがり」という言葉は、天皇が死んだ際に、新旧二人の天皇の、いわば引継ぎのようなことを目的に行われる行事で、天皇以外の一般の日本人には使われない言葉だが、この映画では、それを普通の日本人について使っている。折口信夫のような伝統主義者からは叱られるところだろうが、象徴的な意味合いとして用いるのなら許されるかもしれない。

折口信夫は「国文学の発生」第四稿において、それ以前のまれびとや国文学発生論を踏まえながら、日本の芸能の発展史を概観している。折口の議論は直感に基づくものが多く、しかも話が前後してとりとめのないところがあるが、ここではいくつかの話題についてとりあげてみたい。

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河瀬直美の映画には、映像をして語らしめるようなところがあって、言葉による説明を極力省く傾向がある。それゆえ観客には、映画の中の物語の進行がどうなっているのか、しばしばわからなくなることがある。「萌の朱雀」も、そういうわかりにくい映画だ。

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尾形光琳は水墨画にもすぐれた作品を多く残したが、この「竹梅図屏風」はその代表的なものだろう。単なる水墨画と異なって、金地に墨で丁寧に描いている。この手の水墨画としては、前後に例のない型破りの作品だ。

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サンボリズムの巨人といわれる詩人ステファヌ・マラルメは、マネよりも十歳年少だったが、マネの才能にいち早く注目し、高く評価した文学者たちの一人だった。そんなマラルメにマネは心を許し、二人は生涯仲よく付き合った。主としてマラルメがマネのアトリエを訪ね、美術やその他の芸術について熱く語るというのが彼らの関係だったようだ。

「決闘」はやや長めの短編小説である。しかも章立てをとっていて、21章からなる。短編小説としては破格の長さと複雑な構成というべきである。そうなったのには理由がある。チェーホフはこの小説を通じて、ロシア人の典型的な人間像のいくつかのパターンを読者に示そうと試みたのだ。人間像は、スケッチ風にさらっと描かれることもできないわけではないが、チェーホフはかなり本格的に描こうとしている。それでこの小説は、短編小説としては破格の長さと複雑な構成を取るに至ったわけであろう。

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篠田正浩の1986年の映画「鑓の権三」は、近松の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」を映画化したものだ。原作は姦通と女仇討ちをテーマにしている。妻に姦通された夫が、妻とその姦通相手の男を共に討ち果たすというもので、同じようなテーマのものとしては「堀川波鼓」がある。どちらも姦通をした妻の立場から姦通のいきさつと、姦通という罪を犯した妻の無念さを描いているが、「鑓の権三」の場合には、妻は自分の意思から姦通をしたつもりもないし、また実際に肉の交わりを結んだわけでもない。にもかかわらず、自分から姦通の罪を背負って、潔く夫に討たれるというような内容だ。

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「燕子花図屏風」の製作からほぼ十年後、尾形光琳はほぼ同じモチーフの作品を再び手掛けた。この「八橋図屏風」である。どちらも伊勢物語第九段八つ橋の場面に取材している。これらを見比べると、共通点と相違点とが浮かび上がる。共通点としては、八つ橋の場面で出てくる業平以下の人々が省かれ、ただ燕子花の花の群れのみが描かれていること、相違点としては八つ橋の橋の一部が描き足されていることだ。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」というタイトルの出典について、大江はこの小説の最後のパートである「父よ、あなたはどこへ行くのか?」のなかで触れている。大江はこの文節を、英国の詩人の戦時の詩の一節と言っているのであるが、その詩人が誰であるかについては言及していない。そこで筆者が独自に調べてみたところ、オーデンの Night falls on China という詩の一節であることがわかった。ちなみに当該部分を抜き出すと次のとおりである。

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マネは1874年の9月に友人のティソとともにヴェネツィアに遊んだ。「ヴェネツィアの大運河」と題するこの絵は、その旅の収穫である。マネはサージェントやヘンリー・ジェームズの友人として知られるカーティス夫妻の招待客として滞在するかたわら、船で運河をめぐり、その上から岸辺の光景をスケッチした。この作品は、そんなスケッチをもとにして、あとで仕上げられたようである。

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篠田正浩の1984年の映画「瀬戸内少年野球団」は、決して傑作とは言えないが、主演女優の夏目雅子が独特の魅力を発していて、彼女が出ているというだけで、見るに値するものになっている。実際この映画の中の夏目雅子は、日本の女性の一つの典型を演じていて、その役柄が彼女の本来の姿と重なって、見る者に親近感を抱かせるのだろう。その彼女はこの映画の翌年に癌で死んでいる。だからこの映画は、彼女の遺作と言ってもよい。

折口信夫の著作「国文学の発生」第一稿と第二稿は、我が国文学の発生の基盤を神事に求めている。我ら日本人の祖先たちは、神に仕えるための様々な行事とその担い手をもっていたが、その中から我が国文学の端緒が生まれてきたというのである。文学の発生を神話とか伝説及び叙事詩に求めることは世界どの国でもなされることで、それ自体は珍しいことではない。ただ日本の場合、神事の内実は他国に例を見ないユニークなものである。そこから日本の伝統的な文学のユニークさも生まれて来た。折口の説のユニークさは、そうした日本の伝統文学のユニークさと大いに関係がある。

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篠田正弘の作品「はなれ瞽女おりん」は、水上勉の同名の小説を映画化したものである。瞽女とは、盲目の女性芸能民のことで、集団をなして各地を放浪し、門付けなどをして暮らしていた人々だ。彼女らは疑似母親のもとで固く結束し、厳しい掟を自らに課していた。弱い身として生きる知恵でもあるその掟は、もしそれを破る者がいると集団の崩壊につながる恐れがあるので、集団から排除・追放された。追放されて一人になった瞽女をはなれ瞽女と言う。水上勉はそのはなれ瞽女をモチーフにした小説を書き、それを篠田が映画化したわけだ。

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尾形光琳は宝永末年から正徳の始めにかけて、宗達の大作を相次いで模写した。それによって、自分自身大作の創作へと飛躍した。宗達の「松島図屏風」については、まず模写をしたうえで、それを自分なりに翻案したものをいくつか描いた。今日残っているのは四点である。その一枚が、ボストン美術館にあるこの「松島図屏風」である。

舟遊び:マネ

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「舟遊び」と題するこの絵も、セーヌ川とボートの組み合わせをモチーフにしたものだ。ここでは二人の男女が小舟に乗って、ぼんやりとポーズをとっている。男はマネの義弟ルドルフ・レーンホフ、女はマネの妻カミーユだとされている。男のほうはこちら側、つまり観客に顔を向けているが、女のほうはどこ吹く風といった風情を見せている。

アントン・チェーホフ(1860-1904)は短編小説と何本かの戯曲を書いて、四十四歳の若さで死んだ。かれがこれらの形式にこだわったのは、物語よりもロシア人を描きたかったからだろう。かれほどロシア人の人間性にこだわった作家はいない。そうした人間性は、無論長編小説の形式でも描くことができるが、短編小説や戯曲を通じてのほうが、人間性の典型は描出しやすい。人間性の色々なパターンを、限定された形式を通じて、典型的に示すこと、それがチェーホフの狙いだったように思える。

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ニキータ・ミハルコフの2007年の映画「12人の怒れる男」は、アメリカで何度も舞台・映画化された作品のロシア流リメイクである。この作品は裁判制度の問題点をテーマにしたもので、人が人を裁くことに正義があるのかということをとりあげたものであるが、ミハルコフのこのリメイクでは、それにロシア流の味付けが施されている。つまり、ロシアという国には、そもそも正義を体現した法がないのではないのか、そんな国で裁判をすることにどんな意味があるのか、ということについてロシア流のブラック・ユーモアを交えながら描いているわけだ。

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竹に虎の組み合わせは、武家好みのモチーフとして、室町時代から多く描かれて来た。光琳のこの図は、小さな画面に虎の姿をいっぱいに描き、その周囲に竹を配したものであるが、虎の表情にはいかめしさと滑稽さとが同居していて、これだけを単独に描いても、絵にはならなかったと思う。周囲の竹があるおかげで、虎の大きさが引き立ち、虎らしい雰囲気が出ている。虎だけだったら、猫と区別はつかないだろう。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の第三部は、「オーデンとブレイクの詩を核とする二つの中編」からなっているが、その一つ目は「狩猟で暮らしたわれらの先祖」という題名の不思議な話である。この題名を大江はオーデンの詩「狩猟で暮らした我らの先祖(Hunting Fathers)」からとったと小説の中で明らかにしている。それは、語り手である僕が、流浪する一家とその家長とを、暗闇に燃える焚火のあかりのもとで見た時の印象を語った部分だ。その部分は次のようなものである。

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「アルジャントゥイユ」と題したこの絵も、屋外での作業の成果だろう。画面の明るさがそれを物語っている。だがこの絵も、「ボートのアトリエで描くモネ」同様、光の効果にはあまり注意を払っていない。その結果画面構成がかなり平板になっている。前景の二人の人物と彼らの背後にあるものとが、同じ平面にあるかのごとく、全体に平板さを感じさせる。

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ニキータ・ミハルコフの2011年の映画「遥かなる勝利へ」は、「太陽に灼かれて」で始まる独ソ戦三部作の最後の作品だ。ここでコトフ大佐は生き別れになっていた最愛の娘ナージャと再会する。しかしそこは独ソ戦の最前線で、コトフはナージャを地雷から助けようとして自らが犠牲になり死んでしまう。ハッピーエンドにはならないのだ。

「まれびと」は「常世」と並んで、折口信夫の思想の中核概念だ。折口はこの概念を「国文学の発生」第三稿のなかで初めて体系的に論じた。その論じ方がいかにも折口らしいのである。

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ニキータ・ミハルコフの2010年の映画「戦火のナージャ」は、「太陽に灼かれて」の続編である。前作で主演のコトフ大佐は逮捕された後銃殺刑に処せられたとアナウンスされ、その娘のナージャも刑死したとされていたが、実は二人とも生きていた。その二人のその後の生き方を描いたのが続編の映画である。見どころは、父親が生きていることを知った娘のナージャが、命を掛けて父親を探し出そうとするところである。というのも、二人は、独ソ戦の中で戦線の真っただ中をさまようこととなり、それこそ命を危険にさらす日々を送ったからである。

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「孔雀立葵図屏風」は、左隻に立葵の花を、右隻に雌雄の孔雀を描いている。双方の絵にはあまり関連は感じられないので、それぞれ独立した作品として鑑賞される。特に孔雀図は、羽を大きく広げた雄の孔雀と、その前で首を低く垂れた雌の孔雀の醸し出す雰囲気がなんとも言えない感動を呼び起こす。

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マネはモネ、ドガ、ルノアールといった印象派の画家たちと仲良くなったが、一番親しみを覚えたのはモネだった。モネが1865年のサロンに出展した海洋画が批評家たちの喝さいを浴びた時には、名前の似ているこの若い画家にいら立ちを覚えたこともあったが、じきに親密な間柄になった。モネのほうではマネを自分たち印象派の指導者のように思っていた。一方マネは自分を印象派とは区別し、あくまでもオーソドックスな絵画をめざすのだと思っていた。

江藤淳は、昭和54年秋から翌年春にかけてアメリカに滞在し、アメリカの対日本検閲政策の実情について研究した。そしてその成果を「閉ざされた言語空間」という書物に著して刊行した。これは、日本は敗戦とともに連合軍=アメリカから「言論の自由」を与えられたという通説に対して、反駁するのが主な目的だったらしい。江藤のアメリカ嫌いは相当のものだから、そのアメリカに言論の自由を貰ったというような言説が同時代の日本にゆきかっていることに憤懣やるかたないものを感じたからだろう。そんなバイアスを抜きにしても、これは日本の戦後史の一端を解明するうえで非常に有益な研究だといえる。江藤の最大の業績をこれに帰する意見があるのも、うなずけないことではない。

 小生が学海先生の史伝体小説を書き上げたのは六月末のことであった。小生としてはもう少し書きようがあると思わないでもなかったが、なにしろ初めての試みであるし、自分の能力を以てしてはこれくらいが限界だろうと思って筆を擱いた次第だった。書き上げるとすぐに原稿の写しを英策に送り、後で感想を聞かせて欲しいと頼んだ。
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1994年公開のロシア映画「太陽に灼かれて」は、1930年代半ばのいわゆるスターリン粛清の一端を描いたものだ。この粛清では100万人以上が犠牲になった。その多くは、スターリン派による反スターリン派の粛清であるが、中にはこれに乗じて私的な怨みを晴らしたようなものもあったらしい。この映画はそうした私的な怨みをテーマにしている。

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光琳は、江戸在住中に姫路藩主酒井氏の庇護を受けた。この「躑躅図」は酒井氏にささげた逸品である。その後肥前黒田藩に伝えられてきた。当時の武家の嗜好は狩野派であったため、この絵にも狩野派的な雰囲気が感じ取れる。光琳は狩野派から出発したこともあって、狩野派の技法には通じていた。この作品は、しかし狩野派一点張りというわけではなく、墨の処理の仕方に雪舟の撥墨山水画の影響も指摘できる。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は、「ぼくは詩をあきらめた人間である」という文章から書き始められる。その詩をあきらめたらしい人間、それはこの小説集の編者の位置づけだと思うのだが、その編者らしい人間が、自分自身「詩の如きもの」と称するものを披露し、この小説集はその「詩の如きものを核とする」三つの短編小説と、ブレイクとオーデンの詩を核とする二つの中編小説からなっていると宣言している。宣言と言うのも、この小説は上述の五つの中・短編小説のほかに、「なぜ詩ではなく小説を書くのか、というプロローグと四つの詩の如きもの」と題する短文を収めており、全編の冒頭に置かれたその短文のなかで、この小説集を書いた動機に触れているわけであるが、その触れ方と言うのが、記述と言うより宣言を思わせるものだからだ。

鉄道:マネ

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「鉄道」と題したこの絵を美術批評家たちは例によってさんざんにこき下ろしたが、その最もありふれた根拠は、「鉄道」と題しながら肝心な鉄道が絵からは見えてこないというものだった。しかしこの絵をよく見れば、背景が鉄道を描いたものだとすぐにわかるはずだ。鉄道を描いているのにそれがストレートに伝わってこないのは、蒸気機関車の吐きだす煙が充満していて、鉄道の様子を覆い隠しているからだ。それ故この絵は、煙がかもしだすぼんやりとした背景から浮かび上がった、母と子の肖像画として受け取られた。

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アレクサンドル・ソクーロフの2011年の映画「ファウスト」は、ロシア人であるソクーロフがロシアで作ったロシア映画である。ところが、映画の中ではドイツ語が使われている。これを見た筆者は、最初はドイツ語吹き替え版かと思ったが、そうではないらしい。わざとドイツ語を使っているようなのだ。タイトルもドイツ語で書かれている。ヨーロッパ映画には、国際協力映画というものがあって、たとえばイタリア中心の映画でフランス語が用いられたりはするが、ロシアで作られた映画でドイツ語をもちいるというのはどういうわけか。これでは、日本映画でありながら、もっぱら中国語を聞かされるようなものだ。

旧友鈴生と久しぶりに会った。昨年の正月に会って以来のことだ。実は今年の小月にも会うつもりではいた。彼とは毎年正月に会っていたし、年賀状のやり取りも欠かさなかった。ところが今年は年賀状も届かなかったし、メールを送っても返事がない。こんなことはこれまでなかったので、もしかしたら不吉な事態でも起こったのかと心配になり、かれの携帯電話に連絡を入れた所、反応があった。今年はいろんなことが重なって身動きが取れないほど忙しい。それであんたへの連絡もままならなかったが、まだぴんぴんしているから、今晩にでも飲もうと言う。その元気そうな声を聴いて小生は一安心し、身辺が落ち着いたら連絡してくれたまえといって電話を切った。その後彼からの連絡を待っていたところ、年も押し詰まってから、一緒に飲もうやとのメールが来た次第だった。

折口信夫は小論「琉球の宗教」において、琉球の宗教を概括的に論じている。彼の主張の眼目は、琉球神道と内地の神道の類似性を指摘することである。琉球の神道は内地の神道の一分派だとも言っている。その理由について、折口は例によって組織立っては説明してはいないが、ヒントになるようなことは言っている。いまそれを列挙して、琉球と内地の神道の類似性と折口が考えているらしいことを見てみたい。

 小生は鬼貫平右衛門の疑念を解くのに多少の難儀をしたが、なんとか理解してもらった。それにはあかりさんの助力が大きくものを言った。あかりさんが小生を子どもの頃からの知り合いだと言ってくれたので、あかりさんにすでに心を許していた平右衛門は、小生にも心を開いてくれたのだった。それでも小生が自分自身の子孫だということには、なかなか納得がいかないようだった。
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2003年のロシア映画「父、帰る」は、思春期の息子と父親との難しい関係を描いたもので、ある種の教育的効果を感じさせる作品である。父と息子との関係は人類共通の難しさをもっているのではあるが、したがって完全に予定調和的な関係はありえないのだが、この映画の中の父子関係は、最初から最後まで破綻したままで、ついには教育者たるべき父が自滅してしまうのである。したがってこの映画は、失敗した父子関係を描いたといってよい。こういう関係がロシアでは珍しくないのか。日本人である筆者などは大きな違和感を抱きながら見た次第だ。

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渦を巻いて盛り上がる波濤を描いたこの絵は、宗達の「雲龍図屏風」にヒントをえたものと考えられる。雲龍図屏風のなかから、波濤の部分を単独に取り出して、それを拡大しながら、二曲の屏風の面に定着した。この二曲の屏風面は、ほぼ正方形に近く、しかも大画面なので、表現の場としては色々な工夫が可能である。光琳はその可能性を最大限生かして、新しい表現様式を模索したのだろう。

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1870年代になると、マネの肖像画のモデルは上流階級の婦人が多くを占めるようになる。この絵のモデル、マルグリット・ド・コンフランもそうした上流階級の婦人で、マネとは近い親戚筋にあたるという。この女性をマネは気に入ったようで、何点かの肖像画を描いている。マネは彼女を描くたびに、彼女の家に出向いていった。当時は良家の子女が画家のアトリエに赴いてポーズをとることははしたないと受け取られていたのである。

江藤淳は夏目漱石と勝海舟が好きだったようで、漱石については大部の書物を書いているし、海舟については折につけて色々な文章を書いている。この二人を江藤が評価する視点はナショナリズムだ。江藤によれば、漱石も海舟もいつも自分を国家と関連付けて考え、国家のためになることを自分自身に優先した。そうしたナショナリズムを漱石は文学の面で表現し、海舟は政治行動として実行したということになる。

「お前の隣にいるのは、上田さんとこのあかりちゃんじゃないのかえ?」
 小生の母はひかりちゃんを指さしながら言った。
「いや、この子はあかりさんの子どもなんだ。ひかりちゃんというんだ」
「そうなの? お母さんによく似ているね。うり二つだよ。いくつなの?」
「十四歳です」
 小生の母に聞かれてひかりちゃんは答えた。
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1998年の映画「ワンダフルライフ」は、是枝裕和の二作目だが、後年の映画とは違って、物語性が強い作品だ。それも、この世ではありえないことを物語っている。というのも、死者があの世へ旅立つにあたっての通過儀礼のようなことをテーマにしているのだが、そうした通過儀礼は、この世では、想像の世界ではともかく、現実の世界ではありえないからだ。

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太公望は中国の伝説中の人物で、周の文王を補佐して天下の三分の二を平定したとされる呂尚のこと。釣糸を垂れてのんびりと過ごす太公望のもとに文王が足を運んで誘う場面は、徳川時代の武家たちに喜ばれたテーマで、さまざまな画家がそのモチーフを絵にした。光琳は、文王を除いて、太公望だけに焦点を当て描いた。

大江健三郎は、「芽むしり仔撃ち」の中で朝鮮人を登場させ、一定の重要な役割を果たさせていたが、この「万延元年のフットボール」では、朝鮮人問題を前景に押し出して、日本人と朝鮮人とのかかわりをかなり突っ込んで描いている。前作での朝鮮人は、日本人によって一方的に抑圧される絶対的に弱い存在だったものが、ここでは日本人とほぼ対等に接するばかりか、場合によっては日本人を支配できるしたたかな存在として描かれている。日本の近代史の中で、朝鮮人がそのようにポジティヴな立場に立ったことはなかったと思われるので、こうした設定は大江が意識的に持ち込んだのだと思う。そうまでして大江が書きたかったことはなにか。

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