2019年6月アーカイブ

大阪で開かれたG20会合の焦点は、米中関係がどうなるかということだった。この会議を利用する形で、トランプと習近平がトップ会談を行ったので、それが両国間の緊張緩和をもたらすか、あるいは更なる対立の激化をもたらすか、国際社会は固唾を呑んで見守っていたにちがいない。なにしろ、米中の対立が激化して、全面的な戦争というような事態になれば、地球社会にとって、並大抵のことではない。

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内田吐夢の宮本武蔵シリーズ第三作は「二刀流開眼」。これは前半で柳生石舟斎との対決、後半で吉岡清十郎との対決を描く。タイトルにもある二刀流開眼とは、柳生の高弟たちと戦っている間に、思わず大小を構えたことがきっかけというふうになっている。稲垣のシリーズものとは、重なるところがほとんどない。

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海北友松が京都妙心寺のために描いた琴棋書画図は、中国の伝統に従って、高士が琴棋書画をたしなむ様子を描いている。六曲一双の屏風絵で、金地が施されているが、絵の主要部分は素地に描かれている。

大江健三郎は、政治的な発言を積極的に行うタイプの作家である。その発言は、戦後民主主義の擁護という動機に支えられている。その動機を大江は、戦時中の幼い頃の体験やら、戦後俄かに盛んになった言論の状況から固めていったようだ。自伝的な作品「懐かしい年への手紙」には、登場人物たちの行動を通して、大江の政治的な傾向が表現されている。

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日本では単にジョットとして知られるジョット・ディ・ボンドーネ(1267-1337)は、十三世紀末から十四世紀初期のイタリアで活躍した画家で、ルネサンス美術の先駆者といわれている。ジョットの時代のルネサンス美術を、プロト・ルネサンスというが、その最大の特徴は、人間を人間らしく描くということにあった。人間を人間らしく描くという点では、すでにギリシャ・ローマ美術にその特徴を見ることができるわけであるが、中世になると、人間の描き方はすこぶる象徴的なものになっていた。つまりリアリズムを無視したシンボリックな美術表現が支配していたのである。それを百八十度ひっくり返して、リアルな美術表現を追求したという点では、ギリシャ・ローマ時代への回帰ということもできるわけで、そのことからルネサンス美術は文芸復興の美術ともいわれた。

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内田吐夢監督、中村錦之助主演の宮本武蔵シリーズの第二作「般若坂の決斗」は、姫路城での三年間の幽閉から解放された宮本武蔵の、最初の武者修行を描いたものだ。解放された武蔵はさっそくお通と逢うのだが、同行を願うお通を振り払って単身武者修行の旅に出る。その際、橋の欄干に「許してたもれ」という書置きを残すところは、稲垣のシリーズと全く同じ演出だ。稲垣の場合には、その場面が第一作目のラストシーンになっていたわけだが、内田の場合には、第二作のスタートシーンというわけだ。

スピノザには、バルフとベネディクトスという二つの名前がある。ということは、スピノザには二つの人格があるともいえる。あるいはスピノザの人格は二つに分裂しているとも。本人がこんな具合だから、レヴィナスのスピノザを見る目も分裂せざるを得ないようだ。レヴィナスはスピノザについていくつかの言及をしているが、それらを読むと、スピノザについてのレヴィナスの屈折した感情が伝わって来る。その屈折した感情を、「レヴィナスコレクション(ちくま学芸文庫)」に収められた三つの小論をもとに論考してみたい。

トランプが側近への内緒話という形であるが、日米安保条約がアメリカにとって不平等であることを理由に、廃止すべきだというようなことを言及したというので、ちょっとした騒ぎになっている。一番心穏やかでないのは安倍政権らしく、日米同盟の盤石ぶりを強調し、将来にわたって日米安保条約がなくなることなどありえないと、これは先方の意向をまったく無視するようなものの言い方をしている。

政談巻四は、巻三までの議論を踏まえて、それに漏れた事柄を雑多に並べたものであるが、中でも武士の身分にかかわるものが興味深い。身分についての議論には、婚姻や養子縁組などの問題も含まれる。これらは今の民法体系のなかでも、身分法の一部をなすものだ。

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剣豪宮本武蔵を主人公にした映画にはさまざまなバージョンがあるが、ここでは1950年代に稲垣浩が三船敏郎を武蔵役にして作った三部作と、内田吐夢が1960年代に中村錦之助を武蔵役にして作った五部作シリーズを取り上げてみたい。まづ、内田吐夢のシリーズから。

中央公論2019年6月号に、歴史学者呉座勇一が「俗流歴史本と対峙する」という文章を寄せている。いま世間で評判になっている歴史書三点をとりあげて、その学問的いい加減さを指摘しながら、こうしたいい加減さがまかり通っているのは、歴史学者たちが無関心なせいともいえるので、歴史学者はもう少し目を見張って、こうしたいい加減な言説に必要な批判を与える必要があると訴えているものだ。

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琴棋書画図は、高士のたしなみをテーマにしたもので、古来中国では人気のある画題だった。それを日本人も真似をして、多くの琴棋書画図が作られた。海北友松のこの琴棋書画図は、高士ではなく婦女が楽しむ様子を描いている。その婦人たちの服装は中国風であり、このテーマが中国からの舶来であることを物語っている。

ルネサンスは14世紀のイタリアに始まった文化現象を現わす言葉で、フランスの歴史家ミシュレが一時代を象徴する言葉として用いたのが始まりだ。その後、有名な歴史家ブルグハルトが、「イタリア・ルネサンスの文化」を著し、ルネサンスの概念を普及させた。日本では文芸復興と訳されることが多いが、文芸の分野にとどまらず、文化のあらゆる領域にまたがるものである。美術の分野も例外ではない。むしろ美術の分野こそルネサンス文化の華といってよい。

フッサールは意識の直接的所与としての直感から出発する点でカントの正統な後継者である。だが、カントとは異なった面もある。それには二つあって、一つは直感として与えられる現象を、それを引き起こした物自体と区別しないで、現象だけを人間の認識のすべてをカバーするものだとしたこと。もう一つは、直観には感性的なものばかりでなく、知的なものもあるとしたことだ。フッサールはその知的な直観を、本質直観とか形相的直観とか呼んでいる。カントにとって直観とは、知的認識にとっての材料を提供する感性的な内容をさすのであって、それ自体のなかには知的な要素は含まない。感性的な所与と知的な認識とはあくまでも区別されねばならない。本質とか形相とかいうものは、知的な働きの結果生じてくるのであって、直観として与えられることはない。ところがフッサールは、本質も又直観の内容となりうるといって、知的な直観を認めたのである。

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エミール・クストリッツァの2016年の映画「オン・ザ・ミルキー・ロード」は、ユーゴスラビアの解体に伴う内戦をテーマにしてきたクストリッツアらしく、やはり民族間の戦争を描いている。この映画のなかではクストリッツァ自身が主人公役で登場する一方、内戦の虚実については触れていないのだが、これが彼が従来描いて来たボスニア内戦を念頭に置いていることは疑いない。その内戦の炎のなかで、一対の男女の愛が割かれる非合理というのが、映画の訴えていることである。

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京都妙心寺にある花卉図屏風は、左隻に籬に梅を、右隻に牡丹を描いている。どちらも金地に鮮やかな色彩で花卉を表現している。友松の彩色画のなかでは、もっとも華やかで、かつ装飾性に富んだ図柄である。

「懐かしい年への手紙」には、大江自身の少年時代の回想がつづられているわけだが、その回想は、大江自身の言葉で語られる一方、ギー兄さんの言葉を通じても語られる。大江自身の言葉として印象的なのは、「数えで五つの時に、ああ、もう生きる年の全体から、五年も減ってしまった、と嘆きの心をいだいた」というふうな、へんにませた子どもとしての印象をもたせるものがあるのだが、その印象はギー兄さんの次のような言葉で打ち消される。十歳になったKちゃん(大江のこと)が、初めてギー兄さんの屋敷の土間に立った時に、ギー兄さんの受けた印象は、「なんという子供っぽい子供だろう、ということだった」のである。

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「花を摘む乙女」と呼ばれるこの絵は、ポンペイ遺跡の一つで、スタビアから出土した壁画の一部である。花を摘みながら歩む乙女の後姿を描いている。フレスコ画である。二千年以上前のものだとは思えないほど、鮮やかな色彩を残している。

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エミール・クストリッツァの2004年の映画「ライフ・イズ・ミラクル」は、「アンダーグラウンド」と「黒猫・白猫」を足して二で割ったような作品である。「アンダーグラウンド」同様ボスニア内戦をテーマにしているが、「アンダーグラウンド」ほどシリアスではなく、「黒猫・白猫」のような楽天性を有している。内戦という悲劇的状況を描きながら、喜劇的な雰囲気を漂わせているのである。

四方山話の会の六月例会には、赤子が出席したいと事前にメールがあった。赤子の名前は無論憶えているのだが、名と顔が記憶の中で一致しない。なにしろ半世紀くらい会っていないわけだから、無理もない。だけれど、会ってみればきっと思い出すだろう、そんなふうに思いながら新橋の会場に赴いた次第だ。

「逃走論」と題した1935年の小論でレヴィナスが論じたのは、人間の自己自身からの逃走ということだった。この奇妙な考えをレヴィナスは文学から借りたといっている。レヴィナスは言う、「現代文学は、逃走という奇妙な不安をあらわにして見せたが、この逃走は、われらが世代による存在の哲学に対するもっとも根底的な糾弾のごときものだったろう」。つまりレヴィナスは、哲学に向って、逃走という奇妙な不安を通じて根本的な糾弾を浴びせた文学の方法をもって、現代哲学を糾弾したかったのだろう。その理由のようなものをレヴィナスは次のように言う。「逃走という措辞を、われわれは現代の文学から借用したのだが、それは単なる流行語ではない。それは世紀の病なのだ」(合田正人訳、以下同じ)

国の締まりや経済・財政を実際に取りさばく者は役人である。したがって役人の器量や彼らの使い方が、政治をよくするためのポイントとなる。そう徂徠は言って、役人の望ましいあり方について提言する。それを徂徠は役儀という。徂徠の役儀論は、今で言えば公務員制度論のようなものと考えてよい。公務員の良し悪しは、いまでも一国の政治のかなめとなるものだが、徂徠の時代にあっても、いや、その時代だったからこそ、喫緊の課題として意識されたのだろう。

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エミール・クストリッツァの1999年の映画「黒猫・白猫」は、祝祭的なドタバタ喜劇というべき作品である。祝祭性とかドタバタ性とかは、前作「アンダーグラウンド」においても濃厚だったが、この映画のなかではそれが前面に出ている。一方、「アンダーグラウンド」が持っていた政治的なメッセージ性はそぎ落とされて、純粋な娯楽作品になっている。

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海北友松の網干図屏風には、佐野美術館蔵のものと、皇居三の丸収蔵館所蔵の皇居御物がある。上の図柄は、皇居御物の右隻。青々と茂る芦を配して春夏の景色を描く。一方左隻のほうは、秋冬の景色を描いている。

古い街並みが尽きるあたりの連雀という交差点でタクシーをつかまえ、川越温泉に向かった。この日の散策では時間の余裕があらかじめ見込まれたので、日帰り温泉施設で旅の疲れを癒そうという計画があったのだ。この温泉は、ネットで見つけたのだが、風呂の種類も多くて、なかなかよさそうな雰囲気だったので、いくつかある同種の施設のなかから選んだ次第なのだった。

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ラオコーン像は、1506年にローマ皇帝ネロの宮殿跡近くから出土した。その際には、ラオコーンの右腕と、息子たちのそれぞれの右手は欠けた状態だった。その後、ラオコーンの右腕と思われるものが出土したので、それをもとに復元したものが、現在の形である。

デカルトが意識から存在を導き出して以来、西洋哲学は意識を舞台に展開してきた。中にはマルクスのように存在が意識を規定すると言ったり、ニーチェのように西洋哲学の枠組みそのものをひっくり返そうとしたものもいたが、それらは例外と言ってよく、西洋哲学の主流を歩く者は、意識という道を踏み外すことはなかったのである。その意識の問題をもっとも先鋭的な形で突き詰めたのは現象学であった。

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豊穣たる熟女の皆さんと今年の新年会の席で、初夏の陽気のよい頃に是非川越の古い街並みを見物しながら歩きましょうよと話し合ったところ、初夏を待つ頃合いには小生から呼びかけた次第だったが、M女が体調不良を訴えてきた。でも是非一緒に行きたいから、日延べをして下さいなと言うので、6月15日に設定しなおしたのだったが、どういうわけかM女とは、そのご連絡が取れなくなったとのこと。いくら電話しても出てこないし、メールにも答えない。残りの二人の熟女は途方に暮れたと言っていたが、M女との連絡は引き続き努力するとして、川越へのハイキングは予定通り決行しましょうということになった。ところが天気予報では、当該の日は全国的に雨の雲行き。そこでメールでどうしたものかと相談したところ、Y女は晴女だから、彼女の神通力で、雨雲を追い払ってくれますよとT女が太鼓判を押す。小生は風邪気味で最悪に近い体調でもあったのだったが、彼女たちを楽しませてやりたいとの一心から、病身に鞭を打つようにして出かけた次第だった。

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1995年のパルム・ドールをとった「アンダーグラウンド」は、バルカン半島現代史ともいうべき作品である。これを作ったエミール・クストリッツァはユーゴスラヴィア人を自称しているが、出身はサラエヴォで、父親はセルヴィア人、母親はムスリムである。ユーゴスラヴィアの要素を大方体現しているわけである。その彼が、どの民族の視点にも偏らず、ユーゴスラヴィア人としての視点から描いたというのが、この映画の一つの特徴となっている。しかし、もはやユーゴスラヴィアにかつてのような実体性はないと言ってよい。その実体を持たぬ、いわば架空の視点から映画を作っているわけで、そういう意味でこの映画は、空想のなかのユーゴスラヴィアを描いたといってよい。事実この映画は、舞台をユーゴスアヴィアとは言っておらず、「むかしある所にある国があった」というような言い方をしているのである。

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「楼閣山水図」は、六曲一双の屏風絵であるが、それぞれ細字で款記が施されており、左隻には是古寺之廊門緑樹図依御好染玄墨者也と、右隻には惟高亭之麻柳蓬舟承御望穢白楮者也と記されている。いづれも晋奉亀井武蔵守様との添え書きがある。亀井武蔵守茲矩は戦国時代末期の武将で、秀吉の覚えが目出度かったといわれる。友松には庇護者として接していたのだと思われる。

「懐かしい年への手紙」は、自伝的な要素が強い作品である。大江健三郎自身がそのことを認めている。この小説の初版付録に収められたインタビューのなかで、かれは次のように言っているのだ。「確かに僕がこれまでに書いたすべての小説のなかで、もっとも自伝的な仕事といえば、この作品だと思います。それは四国の山間の小さな村で生まれ育った、しかも戦争の間に少年期を過ごした人間の、戦後から安保闘争をへて高度成長にいたる、個人的な同時代史ということにもなるでしょう」

安倍晋三がトランプの特使としてイランを訪れたことは、昨日のこのブログでも紹介したとおりだが、その訪問の最中に、こともあろうか日本の貨物船が、ホルムズ海峡において二度にわたり砲撃を受けるという事態が起きた。この攻撃はイランに責任があるとアメリカのポンペオ国務長官は言っているから、おそらくそうなのであろう。もしそうだとしたら、イランはどんな意図に基づいてこの攻撃を行ったのだろう。日本のメディアは例によって、自分たちの想像を超える事態にアタフタしているかのように、いまのところ報道・解説を自制している。

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ミロのヴィーナスは、1820年にエーゲ海のメロス(ミロ)島で、一農夫によって発見された。その後、オスマントルコ政府による没収を経て、フランス人の手にわたり、ルーブル美術館に収められた。東京に一度来たことがあるが、日本以外の外国に渡ったことは、ほかに一度もないという。

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エミール・クストリッツァの1989年の映画「ジプシーのとき」は、ヨーロッパのロマ人をテーマにした作品である。ヨーロッパのロマ人は、厳しい差別の対象だが、この映画のなかのロマ人もそうした差別されるべき人々として描かれている。なにしろ冒頭で出て来る人物が、神がこの世界に下りてきても、そこにロマ人を見たら、いやになって天上に戻るだろうと言うくらいだから、この映画を作ったクストリッツァもそのように思っているのではないかと、思われるほどだ。それほどこの映画の中のロマ人たちは、否定的に描かれている。

日本の総理大臣である安倍晋三が、わざわざイランまで出かけていって、ホメイニやロウハニなどイラン側の指導者たちと一連の会談を行っているそうだ。これは、安倍晋三の自発的な意思からしたことではなく、アメリカの大統領であるドナルド・トランプに急き立てられてしたのだというふうに伝わって来る。安倍晋三自身も、そうした観測を否定していないから、事実としてそうなのだろう。だからこれは、日本の総理大臣が、外国の政府のために特使をつとめているのだといえよう。

レヴィナスは一ユダヤ人として、ヒトラーにひどい目にあわされたわけだが、自分のそうした運命を予感するかのように、比較的早い時期からヒトラーの危険性を認知していたようだ。1934年に書いた小論「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」は、レヴィナスのそうした予見を表明したものだ。1934年といえばヒトラーがドイツで政権を奪取した直後であり、その政治的な存在感が圧倒性を増しつつあった時期である。ユダヤ人に対する攻撃はまだ本格化してはいなかったが、人種差別的な政策は公然のものとなっていた。その人種差別主義にレヴィナスは、ヒトラーのきな臭い意図を嗅ぎつけたことだろう。

政談の巻二を徂徠は次のように書きだす。「太平久く続くときは漸々に上下困窮し、夫よりして紀綱乱て終に乱を生ず。和漢古今共に治世より乱世に移ることは、皆世の困窮より出ること、歴代のしるし、鑑にかけて明か也。故に国天下を治るには、先富豊なる様にすること、是治の根本也」

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エミール・クストリッツァの1985年の映画「パパは、出張中!」は、カンヌのパルムドールを獲得し、エミール・クストリッツァの名とともに、ユーゴ・スラビア映画に国際的な注目を集めた作品だ。この映画が公開された時には、ユーゴ・スラビアはまだ解体前だったが、この映画には国家に対するシニカルな見方が強く感じられ、近未来の解体を暗示するようなところがある。

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建仁寺本坊の障壁画のうち最も迫力を感じさせるのが「雲竜図」だ。玄関に最も近い礼の間を飾っており、北面には咆哮とともに雲間から姿を現した龍(上の図)が、西面にはそれを待ち構えるように対峙する龍が描かれ、両者あいまって並々ならぬ緊張感を醸し出している。どちらの図も四面づつの襖に描かれているが、北面のもののほうが上下の比率を大きくしている。

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ヘレニズム時代にも、アッティカの伝統は絶えることはなかった。スコパス派の人々がクラシック風の彫刻を作り続けていた。この「サモトラケのニケ」像は、スコパス派の人によって作られた、クラシック風の美術の傑作である。

精神と身体

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デカルトが精神と身体をそれぞれ別個の実体として分裂させて以来、人間はもっぱら精神的な存在として捉えられて来た。「我思う故にわれあり」という言葉には、人間は精神としての存在だという意味が込められている。人間にはたしかに身体が付随しているが、それは本質的に重要なことではない。身体と精神とは、それぞれ全く別の次元に属するのであって、したがって身体と精神との関係は、必然的なものではなく、偶然のものでしかない。身体は精神とは分離して存在することができるし、精神は身体なしでも活動できる。精神の働きは意識という形をとるが、意識はとりあえず身体とは別のものである。

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1989年のアメリカ映画「メジャーリーグ」は、ある種のアメリカン・ドリームを描いたものだ。夢の舞台となるのは、タイトルにあるとおりメジャーリーグだ。メジャーリーグはアメリカ最古のプロスポーツであり、しかもアメリカの国技とも言える野球の舞台なので、数々の夢を育んできた。この映画が描いた夢もその一つ、しかも正夢となった夢だ。

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六月二日(日)雨もよいの一日。起床後朝風呂につかり、八時に朝食をとる。ビールを飲んだのはいうまでもない。その後山子夫妻は近所のうどん屋に行って、うどんを土産に買ってきた。小生の分も買ってきてくれた。香川のうどんは、地元で食うと非常に味がいいと思うのだが、これを持ち帰って船橋で食ってもうまいかどうかは、他日の愉しみに置いておこう。

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建仁寺本坊には、海北友松の手になる障壁画五十面がある。そのうちの八面で、一の間を飾っていたのがこの花鳥図。松の巨樹と、その根方にいる孔雀を描いているこの図柄はその一部だ。海北の水墨画のもっとも典型的な図柄である。

「M/Tと森のフシギの物語」の単行本初版には、数多くの挿絵のほか、すべてのページに版画を印刷してあり、本文はその版画を地にして浮かび上がるような具合になっているので、読者はいきおい版画の図柄を気にしながら文章を読むことになる。これは普通の本ではないことなので、まず驚きが最初に来たが、読み進んでいくと、版画の存在は、特別うるささは感じさせないようだ。版画の印刷が注意深くなされ、読書を妨げないような工夫がなされているせいだろう。また、その版画の図柄がこの小説の雰囲気とつりあっていることも働いているようだ。

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淡路人形館を辞したのは午前十一時頃のこと。ただちに車を飛ばして徳島に向かう。大鳴門橋を渡るに、右手には瀬戸内海、左手には鳴門の海を望む。鳴門の海には、大小の渦のまくのを見た。この海域に渦がまきやすいのは、潮流と地形が独特の組合せを呈しているからだという。狭い海峡に早い潮の流れが渦を作るということらしい。渦の大きさは直径十五メートルに達することもあるという。

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ヘレニズム時代には様々な王国が併存し、それぞれ独特の美術が花開いたが、もっとも有力だったのは、ペルガモンを中心とするリアリズムの美術だった。上の写真は「死にゆくガラテア人」といって、リアリズム美術の代表作である。戦いで瀕死の傷をおったガラテア人が、いまにも死にゆくところを、リアルに表現している。

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1989年のアメリカ映画「フィールド・オブ・ドリームス(Field of Dreams)」は、アメリカ人の野球へのこだわりをテーマにした作品だ。野球はアメリカ人の夢そのものであり、その夢はアメリカの歴史を育んできたといってもよいほどだ。だからアメリカ人は、野球をテーマにした映画を、それこそ星の数ほど作って来た。かつての日本で時代劇のチャンバラ映画を作ればかならずヒットしたように、アメリカでは野球映画はかならずヒットしたのである。その中でも「フィールド・オブ・ドリームス」はもっとも成功した作品のひとつだ。

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六月一日(土)晴れて暑気を催す。起床後朝風呂につかる。浴室に入ろうとすると、五歳くらいの女の子がひとりでいるのが見えた。小生のことを盛んに気にしている様子だ。さては女風呂に迷い込んだかと思っているうち、露天風呂のほうから父親らしい男が入って来た。そこで得心して湯につかった次第だ。朝飯は、二階の大食堂でとった。旅のこととて、朝からビールを飲む。これがまた、すこぶるうまい。

ちくま学芸文庫から出ているレヴィナス・コレクションは、1929年から1968年にかけてレヴィナスが発表した比較的短い文章を集めたものだが、それぞれがレヴィナスの問題意識の対象となったことがらを主題的に論じており、しかもコンパクトでわかりやすい文章なので、難解なレヴィナスの思想を理解するうえで、大いに助けられる。レヴィナスが現象学の研究からスタートしたことはよく知られているが、このコレクションはレヴィナスのフッサール論を冒頭に置いている。以後、他者とか死とか時間とか存在にかかわるレヴィナス固有の問題領域が次々と取り上げられる。それらを読むことで、読者はレヴィナスの思考を追体験できるだろう。



淡路島には、現在三百匹の猿が生息しているそうだ。その猿を観察する施設があって、我々が訪れたときには、ちょうど餌付けの時間にあたっていて、餌を目当てにした猿が大勢集まっていた。観察施設は、大阪大学と地元の自治体が共同して運営しているという。我々が訪れた時は、男性と女性の飼育員というか、観察スタッフが、色々とここの猿たちについて説明してくれた。

荻生徂徠が「政談」を書いたのは享保十一年頃のこと。享保元年から始まっていたいわゆる享保の改革がピークを記すときにあたる。徂徠は享保七年に将軍吉宗の身近に仕えるようになって以来、改革の行方に大きな関心を持ったに違いない。この「政談」には、そうした徂徠の関心というか、問題意識が強く盛られている。かれがこの書を将軍に献上したのは、享保十二年四月のことらしい。死の一年前のことである。そこには幕府の政策に活用してもらいたいという実践的な意図があったのだと思われる。この書は、「政談」という題名が語る通り、政治のあるべき姿を語った書なのである。

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ナチス指導者たちの戦争犯罪を裁いた国際軍事裁判、いわゆるニュルンベルグ裁判の様子を、記録映像をもとに再現したドキュメンタリー映画「13階段への道」が作られたのは、1957年のドイツでだが、それからほぼ十年後、アメリカにおいて、同じような趣旨のドキュメンタリー映画が、「新13階段への道」と題して公開された。

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旧友五人のグループで、毎年ちょっとした旅行を楽しんで来た。松子がベンツを運転し、それに他の四人が同乗するパターンだったが、その松子が昨年の秋に亡くなってしまい、継続が危ぶまれていた。ところが、山子の細君が、運転は私が引き継ぎますから、是非この楽しい旅を継続しましょうと言ってくれた。そこで今年は、山子の細君に運転をお願いし、生き残った他の三人がそれに同乗し、淡路島から四国方面をドライブ旅行しようということになった。折しも時は、五月の末から六月の始めにかけての三日間、梅雨が訪れる前のことであった。

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京都建仁寺の塔頭禅居庵に、松竹梅を描いた襖十二面がある。松竹梅のそれぞれを四面づつの画面に描き分けたものだ。そのうちの四面がこの「松に叭々鳥図」。松をメーンにして、それに叭々鳥を点景として加えている。

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アレクサンドロス死後、東アジアから北アフリカにかけていくつかの王朝ができたが、なかでも小アジアにあったペルガモンはもっとも栄えた王朝だった。この王朝では、ギリシャの文化と東アジアの富とが結びついて、豪華絢爛な美術がもたらされた。ペルガモン神殿は、それをもっともよく表現している遺跡だ。

思考の構造

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前稿「意識と無意識」で、フロイトが無意識を発明した時、哲学界はこれを無視したと書いた。そしてその無視には理由があったとも書いたが、その理由についてもう少し詳しく見ておきたい。人間の思考を理性の働きと結びつけ、外界の表象である感覚的な与件が理性の働きと結びつくことで人間の認識、つまり思考が行われると考えたのはカントだったわけだが、それ以来人間の思考は、基本的には理性と強く結びついて、人間の自主的な、つまり意識的な営みであるというふうに考えられるようになった。だからそこには無意識が介在する余地は全くなかったと言ってよい。それが、哲学界がフロイトの無意識を無視した理由である。

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小林正樹が1983年に作ったドキュメンタリー映画「東京裁判」は、太平洋戦争の日本側の指導者を裁いた「極東国際軍事裁判」の様子を取り上げたものである。東京裁判が終結したのは1948年のことだが、それから35年もたってドキュメンタリー映画が作られたのは、裁判の記録の公表と関係している。米国防総省が裁判記録を公表したのは、裁判終結から四半世紀たってのことであり、この映画はその膨大な記録を編集することで作られたのである。

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