2020年3月アーカイブ

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氷をモチーフにしたこの図柄は、まるで抽象画のようである。というのも、氷を数本の墨の線だけで表現しており、これを氷と認識するには、かなりの想像力がいるからだ。

やまゆり園事件は、障害者は生きる価値がないという身勝手な思いが引き起こしたといわれ、その異常さが人々を不気味にさせたものだが、実はそんなに異常な出来事ではなく、ある意味現代日本に蔓延している価値観を反映したものだと言えなくもない。それは、新自由主義的な発想にもとづく格差社会容認論だ。格差を容認する思想は、人間を勝ち組と負け組にわけ、勝ち組は努力したのだから報われて当然、負け組は努力が足りないから自業自得だ、というふうに発想する。その発想が極端化すると、障害者のような役に立たない人には生きる価値がないという考えにつながる。

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「ほどけた髪の浴女(Baigneuse aux cheveux dénoués)」と呼ばれるこの絵は、ルノワール晩年の傑作である。ルノワールは、1890年代に画家としての名声がとどろきわたるようになり、それに伴って経済的にも豊かになったので、自由に自分の好きな創作に身を打ち込むことができるようなった。そんなルノワールがもっとも熱心に打ち込んだのが裸婦の表現だった。

子安宣邦は、「徳川思想史講義」の一章において、中井履軒と懐徳堂との興味あるかかわりについて語っている。中井履軒は、大阪の町人学校として知られた懐徳堂を象徴するような人物である、というのがその趣旨だ。

スピノザが「エチカ」を書き始めたのは、「知性改善論」を書いている最中だった。「知性改善論」の執筆を中断して「エチカ」に取り掛かったのには、それなりの動機があったようだ。「知性改善論」は、よりよい認識を実現するための方法論的な考察であったのに対して、「エチカ」のほうは倫理的な、つまり世界観にかかわる考察である。スピノザにはだから、自分の世界観なり倫理的な立場を至急明らかにする必要があったのだろう。

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ゼーンケ・ヴォルトマンの2003年の映画「ベルンの奇跡(Das Wunder von Bern)」は、戦争によって引き裂かれた家族の絆、特に父子の絆を、ドイツ人のサッカー熱を絡めながら描いた作品である。だいたいヨーロッパの諸国民はサッカーが大好きのようだが、ドイツ人もその例にもれず、子どもから大人まで、男も女もサッカーに夢中、という様子が、この映画からは伝わって来る。ましてこの映画は、1954年のワールドカップを背景に取り上げている。ドイツはこのワールドカップで強敵を次々と破って優勝した。その優勝をドイツの人々は「ベルンの奇跡」と呼んで、喜びあったそうだ。

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「保津川図屏風」は寛政七年というから、応挙が死んだ年に描いたもの。応挙の絶筆というべき作品だ。応挙はこの前年に三井家の注文で瀑布図を描いているが、この図はその延長上にあるもの。やはり保津川の瀑布とその先の水の流れをモチーフにしている。そのことから応挙を瀑布の画家とする呼び方もある。

大江健三郎には敬愛する人物が何人かいて、かれらを小説の中に登場させる癖があった。音楽家の武満徹はそのなかでも最も多く登場させている。本名ではなく、篁という名前をつけて。篁とは密集した竹の林という意味だから、武満とは、(音の上で)親和的だ。また日本史上の怪人といわれる小野篁を想起させたりもする。小野篁は、時空を自由に往来する能力があったといわれるが、武満の音楽にもそんな雰囲気が指摘できる。

新型コロナウィルス騒ぎが拡大する一方で、アメリカが最も多い感染者を出すに至った。おそらくその勢いは止まらず、今後感染者と死者の爆発的な増加が予想される。その原因は外でもない、アメリカ大統領のトランプが、この問題を甘く見て、それへの対応を未だに真面目に考えていないことにある。先日もテレビインタビューの中で、4月の12日にはすべてが解決されていると言うような発言をしたが、その根拠を問われると、そうなればいいからだというような、全くのナンセンスを言ってはばからない。そんなわけだから、アメリカはいまや絶望的な状況にあると、まともなメディアはみな深刻に受け止めている。

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「眠る女 La dormeuse」と題したこの絵は、ソファによたれかかって転寝をしている若い女性を描いている。ルノワールの絵の中の女性は、あまり露骨な官能を感じさせないのだが、この絵の中の若い女は、例外的に官能を感じさせる。

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ヴォルフガング・ベッカーの2003年の映画「グッバイ、レーニン」は、ベルリンの壁崩壊前後の東ドイツ人の暮らしぶりの一端をテーマにしたものだ。ベルリンの壁崩壊に続く東西ドイツの統合は、西側による東側の吸収という形をとり、多くの東ドイツ市民にとって過酷な面もあった。とくに体制にコミットしていた東ドイツ人にとっては、自らのプライドを揺るがされるものでもあった。この映画は、東ドイツの体制にこだわる家族の物語である。

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東京では例年より早く3月22日に桜が満開になったそうだが、小生が暮らしている千葉県の船橋でも、やはり例年より早く21日に開花し、今日(3月26日)あたりにほぼ満開になった。そこで小生は、カメラを提げて近くの公園まで見に出かけた次第。

知性改善のための方法を論述する本論の第二部は、真の観念をその他のすべての知覚(観念)から区別し、精神をその他の知覚から護ること、を論述した第一部に続いて、未知の事物がこの規則に則って知覚されるように規則を敷くことについての論述にあてられる。ここで「未知の事物がこの規則に則って知覚される」というのは、どんな事物についてもその真の観念を持つべきであり、その他の知覚、すなわち虚構、虚偽、疑わしい観念に惑わされてはならない、ということを意味する。

今回のコロナウィルス騒ぎに対応して、米議会は超党派で2兆ドル(220兆円)にのぼる予算措置を講じた。この騒ぎで損害を被る企業に、保証金をばらまくという内容だ。しかしばらまきの対象には、トランプとその親族等(トランプ一味)が運営する企業は含まないと、わざわざ明記されているそうだ。これはトランプの、強く予想される悪行を予め封じようとする意図に出たものだと、ブルームバーグ等の米大手メディアは報じている。

パレスチナ問題というと、ユダヤ人国家としてのイスラエルとの対比で論じられることが多いが、そのユダヤ人国家の樹立は、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害の産物としての側面を持っている。だから、非常に長い歴史的な背景を持っているわけで、今日における両者の対立に限定して論じることはできないというのが、「世界史の中のパレスチナ問題」の著者臼杵陽の基本的な立場だ。それゆえこの本は、聖書の時代のパレスチナの地にまでさかのぼって、パレスチナ問題の背景と内実について論じている。その論じ方には、なるべく両者にとって公平であろうとする意志が感じられるが、どちらかといえば、イスラエル国家に対して厳しい。それはイスラエルとパレスチナとの間の非対照的な関係において、イスラエルがパレスチナ人に対して暴力的であることへの批判的な視点があるからだというふうに伝わって来る。そうしたイスラエルの力を支えているのはアメリカを始めとした欧米国家であるわけで、こうした面でも、パレスチナ問題は国際的な視点から見なければならないと言うのである。

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オリヴァー・ヒルシュビーゲルの2002年の映画「es」は、ある特殊な実験をテーマにしたものだ。その実験とは、ある種の行動科学実験で、疑似監獄を舞台にして、囚人と看守に別れた被験者が二週間を過し、どのような行動上の特徴が見られるかを分析しようというものだ。その結果、看守側の人間は、秩序維持のために抑圧的になり、囚人側は、初めは抵抗の姿勢を見せるが、やがて従順になっていく。しかし、看守側の抑圧的な姿勢は一層極端化し、最後には自分たちの雇い主まで攻撃するばかりか、殺人行為にまで発展するという異常な事態に陥るというのが、この映画のミソである。そんなことからこの映画は、人間の中に潜んでいる攻撃衝動をあぶり出したともいえる。そういう攻撃衝動は、かつて強制収容所で見られたのと同じタイプのものだ、というメッセージが伝わってくるように作られているようである。そういう攻撃的な人間を見せつけられると、ドイツ人というのは、誰もがナチス的な資質をもっていると思わされる。

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兵庫県香住の大乗寺には、応挙が一門をあげて多くの襖絵を制作した。これはその一部。寺の主室である大広間を飾るもので、全部で十六面あるうちの一部だ。

政府の新型コロナ専門家会議が、国内での感染状況について、「引き続き、持ちこたえているが、一部の地域で感染拡大がみられる」と指摘する一方で、「どこかの地域を発端として、爆発的な感染拡大を伴う大規模流行につながりかねない」と警鐘を鳴らした。これをどう受け取るかで、意見が分かれているようである。ある人々は、コロナの国内での感染は基本的には制御されたと受け取っているし、別の人びとは第二次ピークの可能性が極めて強いと受け取っている。

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1890年代に円熟期を迎えたルノワールは、数多くの裸婦像を描いたが、中でもこの「長い髪の浴女 Baigneuse aux cheveux longs」はもっとも完成度が高い。腰のあたりまである長い髪を垂らしながら、一人の少女がいまにも水を上がろうとする一瞬を描いている。ルノワール独特の、スナップショット的な、動きを感じさせる絵だ。

子安宣邦の「江戸思想史講義」は、徳川時代の思想家たちを、「方法としての江戸」という視座から読み直したものだそうだ。「方法としての江戸」の内実がどのようなものか、著者は主題的には語っていないから、本文の行間から察するほかはないが、要するに従来の読み方とは異なった読み方をしたいということらしい。従来の読み方というのは、徳川時代の思想を儒学を中心にとらえ、それを国学が乗り越えた、あるいは異議を唱えたというものだと思うが、これについては子安も大した違いのない認識を持っているようだ。というのも彼がこの講義で取り上げる思想家たちは、儒学者と国学者だからだ。徳川時代において、現実に思想上の影響力を行使したのが、この二つの学統であってみれば、これ以外の思想家をあげるのはむつかしいといえるのだが、それにしても、これらの思想家たちを対象に、どのようにして従来の読み方とは違う読み方をしようというのか。

虚構の観念に続いて虚偽の観念が検討されるが、スピノザは、虚偽は誤謬であると言っている。虚構もまた誤謬であることは明かだから、虚構と虚偽を分ける相違点が問題となる。その相違点をスピノザは、虚偽の観念が「承認を予想すること」だと言う。どういうことかというと、ある表象について、それが虚構の場合には、その原因となったものを意識しているが、虚偽の場合にはそういう意識がないということのようである。その事態をスピノザは、「眼をあけながら、すなわち目覚めながら、夢を見ているのと殆ど変るところはない」と言っている。つまり虚構は虚構されるものについて自覚的だが、虚偽の場合にはその自覚がなく、無意識のうちに誤謬をおかしているということらしい。虚構は意識的な誤謬、虚偽は無意識的な誤謬ということか。

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コスタ・ガヴラスの2002年の映画「ホロコースト アドルフ・ヒトラーの洗礼(原題はAmen)」は、仏独米の協同制作として作られ、言語には英語が用いられている。ガヴラスがフランスを拠点として活動しており、映画の舞台が主にドイツであり、金の出どころがアメリカだということか。テーマは、日本語の題があらわしているとおり、ナチスによるホロコーストだ。

世界を騒がせているコロナウィルスは、米中の対立をも激化させている。トランプがこれをチャイナウィルスと言って、中国の責任を強調すれば、中国は中国で、米軍が持ち込んだ陰謀の疑いがあると反撃する。その様子は第三者の目には異様に映る。コロナを政争の手段にするのは許されない。

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「瀑布図」と題するこの絵は、応挙のパトロン三井八郎兵衛の注文で、金刀比羅宮のために描いたもの。表書院の床の間を飾ったものだ。

「晩年様式集」は、大江健三郎の最後の長編小説だ。これを脱稿した時、大江は七十八歳になっていた。こんな年で長編小説を完成させた作家は他にいないのではないかと思って調べてみたところ、あのゲーテが「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」を完成させたのは八十歳のときだとわかった。世の中、上には上がいるものである。

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晩年のルノワールは、浴女を始め裸婦を好んで描いた。ここではそんな裸婦像のいくつかを見てみたいと思う。これは、「座っている浴女 Baigneuse assise」と題した作品。自然のなかで、自分自身の内面に沈潜しているような少女を描いている。画面に水は見えないが、おそらく沐浴中なのだろう。肌がつやつやとして、あたかも沐浴したばかりのように見える。

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「オペレーション・ワルキューレ(Stauffenberg)」は、ドイツのテレビ局が2004年に制作・放映した作品だ。それがDVDになっているので、映画感覚で見ることができる。テーマはヒトラー暗殺計画だ。ヒトラー暗殺計画は、規模の大小併せて40以上もあったそうだが、これは中でも最大規模のもの。なにしろドイツ軍部が組織的にかかわっていたものだ。

「知性改善論」の本論は、知性改善のための方法論の論述にあてられている。その方法は、真の観念に基づくことが必須だとされる。前稿で述べたとおり、真の観念は実在的なものであって、単なる空想の産物ではない。空想の産物は、実在性を持たず、したがって偽の観念というのがスピノザの考えである。ところが人間は、この偽の観念に騙されやすい。だから、そうした偽の観念から精神を守るために、真の観念と偽の観念を区別する方法を身に付けねばならない。

日本の製薬会社が開発したインフルエンザ治療薬アビガン(一般名ファビビラビル)がコロナウィルスによる新型肺炎の治療に有効であると、中国当局が発表したそうだ。それによれば、検査後陽性から陰性になるまでの日数が非投与の11日に対して4日、また肺炎症状の改善率は非投与の62パーセントに対して91パーセントだったという。しかも顕著な副作用は伴わないそうだ。

著者は中東問題の専門家で、1967年の第三次中東戦争、1982年のレバノン戦争、2002年の大衝突のそれぞれの現場にいたそうだ。つまり、中東問題を身を以て体験したわけだ。その体験をもとに著者が感じたものは、イスラエルへの強烈な違和感というものだったようだ。イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人を相手にしてきたことは、著者にとっては正義と人道に悖ることと映った。そんなわけでこの本は、イスラエルのユダヤ人への批判意識とパレスチナ人への同情に溢れている。

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ラース・クラウメによる2015年のドイツ映画「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男(Der Staat gegen Fritz Bauer)」は、いわゆるアイヒマン裁判をテーマにした作品。アイヒマン裁判といえば、アウシュヴィッツの所長としてホロコーストを推進した男であり、戦後アルゼンチンに潜伏していたところを、イスラエルの諜報機関モサドによって逮捕され、イスラエルで裁判された結果、絞首刑になったのだが、そのアイヒマンの裁判に、ドイツ人の検事が一役かっていたというのが、この映画のミソである。

パンデミック認定されたコロナウィルスが世界経済を直撃している。その影響は当面収まりそうもない。当初は春ごろには収まるだろうと言われていたが、それはパンデミックにならないことが前提の推測であって、パンデミックが宣言された現在では、ウィルス騒ぎがピークに達するのは七月ごろ、遅ければ秋ごろまで長引く可能性もあると推測されている。そのため、世界経済は深刻な状態を呈し始めた。

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天明八年(1788)一月、大火災が京都中を焼きつくし、焼き出された応挙は、故郷亀岡の金剛寺に身を寄せた。その折に、幼い頃に世話になったお礼も込めて、大規模な襖絵を描いて寄贈した。その規模は、寺の主要な三つの部屋のすべての襖に描くというものだった。

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1880年代の後半に、ルノワールはベルト・モリゾを通じて、詩人のステファヌ・マラルメと知り合った。マラルメは、画家たちと懇意にしていて、マネに肖像を描いてもらったりしていた。そのマラルメが、ルノワールを高く評価し、彼の作品を国立博物館に飾ってもらおうと思い、国立美術学校の校長アンリ・ルージョンに働きかけた。ルージョンは、その旨ルノワールに申し出たが、ルノワールは,自分はまだその器ではないと言って、謝絶していた。

子規と蕪村

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芭蕉が俳句の確立者とすれば、子規は近代俳句の確立者、あるいは俳句の中興者ということになろうか。この二人にはかなりな相違がある。芭蕉が余韻を重んじるのに対して、子規は写生を重んじるということだ。芭蕉の俳句の余韻は、深層意識の光景を詠むところからもたらされるということについては、前稿で指摘したとおりだ。深層意識に映った光景というのは、理智の働きを蒙る以前の、つまり分節される以前の混沌としたものだった。その混沌がかえって、俳句に余韻を生む。これに対して子規の写生は、どのようにして俳句を生むのか。それを考えるために、いくつかの作例に即して、子規の俳句の詠み方を分析してみたいと思う。

「知性改善論」の本論に入る前にスピノザは、この小論の最終目的である人間精神と自然との合一の認識に至るために必要な最良の知覚がどのようなものか、についての考察をする。ここでスピノザが知覚と言っているのは、認識というほどの意味である。だから最良の知覚とは最も信頼できる(正しい)認識というような意味に用いられている。その正しい認識を得るための条件を確認したうえで、知性改善のための方法を論じようというのである。

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2006年のイギリス映画「魔笛」は、モーツァルトの有名なオペラを映画化したものだ。設定に一部脚色は見られるが、原作のストーリーをほぼ踏襲しており、また歌の聞かせどころも満遍なく披露されているので、原作の雰囲気を別な形で享受できる。なかなか楽しい作品である。

小説「水死」のメーンテーマは、父親の水死をめぐる語り手たる作家の探求であるが、それと並行する形で、若い演劇者たちの活動がある。その中でも「うないこ」と呼ばれる女性が、大きな意義を持たされている。この女性は冒頭の部分で現われ、以後語り手たる作家のまわりに居続けたあげく、小説の最後の部分では、意外な役割を果たすのである。その役割というのは、世界中の読者に向って、日本がいかに強姦者にとって都合のよい社会であるかということを、身を以て訴えることなのである。つまり自分自身が強姦されるという形で。

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兵庫県の香住町にある大乗寺に、応挙とその一門が計百六十五面の襖絵を描いた。そのうち応挙は八面を担当した。図柄の郭子儀は、唐の玄宗皇帝に仕えた武将で、人格円満、子孫も反映したので、おめでたさを象徴する人物として、好んで画題に選ばれた。

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「草束を持つ少女(Petite fille à la gerbe)」と題した1888年のこの作品も、ルノワールの晩年の最初を飾るものだ。田園地帯の中で、刈り取った草の束を抱える幼い少女を描いたこの絵は、あふれるような色彩感を売り物にしている。

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呉美穂の2015年の映画「君はいい子」は、親による子どもの虐待とか、学校現場における子どもたちの間のいじめとか、学級崩壊などをテーマにした作品である。親による子どもの虐待をテーマにした映画としては、松本清張の小説を映画化した「鬼畜」が古典的な作品として想起されるが、野村芳太郎の作った「鬼畜」は、妾が育児放棄した子供たちを本妻が虐待するというもので、いささか古風な時代設定だった。それに対して呉美穂が作ったこの「君はいい子」は、実の母親による子どもの虐待がテーマであり、そこに時代の変化を感じさせる。実の親による子どもの虐待は、いまでも報道を賑わせているように、極めて現代的なテーマであり続けている。

「知性改善論」は、スピノザの遺稿に含まれていたものである。遺稿集の編纂者によれば、この小論は、すでに何年も前に起草されたものであり、著者はその完成に気を使っていたのだが、他の仕事に妨げられて、未完の状態のまま死んでしまった。だがこの未完の小論には、卓越した、また有益な事柄が多く含まれており、真理をひたむきに探究する人にとっては少なからず役立つであろうと思われるので、ここに公開することとした、と編纂者は言っている。ここで編纂者が他の仕事と言っているのは、おそらく「エチカ」のことであろう。「エチカ」もスピノザの生前には公開されることはなかったが、論文としては完成状態にあった。その「エチカ」とこの小論「知性改善論」は、全く関係がないわけではない。むしろ深い関係にあるといってよい。それは、この「知性改善論」が、「エチカ」にとって緒論に相当するような関係と考えてよい。スピノザは、「知性改善論」で、学問の方法について論じたあとで、その方法を適用して「エチカ」を論述するというような流れを思い描いていたのではないか。しかし色々な事情に妨げられて、「知性改善論」を完成させる前に「エチカ」にとりかかり、そちらのほうは、スピノザの短い生涯の間に完成させることができたということなのだろう。

臼杵陽「イスラエル」(岩波新書)は、第二次大戦後に生れたイスラエル国家とアラブ諸国との対立及びパレスチナ難民問題の本質に迫ろうとする試みである。なるべく公平たらんとする著者の気持が伝わって来るが、その気持は、イスラエル国家に同情が集まり、パレスチナ人はテロリスト呼ばわりされている世界の「常識」に、著者が反感をもっていることに根ざしているようだ。そういう常識においては、パレスチナ人の怒りと苦悩は無視され、ユダヤ人の行為が大目に見られる。それでは問題の本質がぼやかされてしまう。そういう問題意識から著者は、イスラエルの建国以後の歴史をなるべく公平に見ようとしているようである。

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瀬々敬久の2009年の映画「感染列島」は、感染症によるパンデミックを描いた作品である。この映画が公開されたのは、2009年の1月だが、その年の春頃から豚インフルエンザが世界的に流行し、一年近くにわたって猛威を振るった。その規模や深刻さから、国連がパンデミックに指定したほどだった。そのパンデミックを、この映画は先取りしたような形で描いていたというので、世界的な注目を浴びた。

新型コロナウィルスが世界中に蔓延する事態に発展している。感染者は十万人を超え、また死者は四千人に達したということだ。この事態を前にして、WHOの事務局長はパンデミックが現実味を帯びてきたと言っている。パンデミックの定義はかならずしも明確ではないらしいが、疫病の威力はともかく、世界中広い範囲で起きていることが要件となるようだ。今のコロナウィルスの状況は、その要件を満たしつつあるということらしい。

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「木賊兎図」と題するこの絵は、木賊を背景にして三匹の兎を描いている。その三匹にはそれぞれ動きがあって、一番左手の兎が後ろのほうへ向いていることで、木賊に連続する視点を導いている。

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1888年からルノワールの長い晩年が始まる。晩年のルノワールは、アングルを通して確立したはっきりした輪郭に、豊かな色彩、それも燃えるような色彩を重ねるという、今日ルノワールの作風を特徴づけると思われているものを表現するようになった。ルノワールはその表現スタイルを用いて、多くの裸婦像を描いたのである。

芭蕉の句は深層意識に映った光景をそのまま詠んでいる、と指摘したのは井筒俊彦だ。深層意識に映った光景というのは、井筒によれば分節以前の未分節の状態で、したがって混沌としたものだ。その混沌から余韻が生まれる。芭蕉の句の強みはその余韻にある。俳句とはそもそも余韻の芸術なのだ。芭蕉がその余韻を重んじたのか、あるいは余韻が芭蕉によって見出されたのか。どちらとも言えないが、芭蕉の登場によって、余韻の芸術としての俳句が成立したのは間違いないようだ。そこで小生は、芭蕉の句に一々あたり、そこにどのような事情が成立しているのか、考えてみたいと思う。考えてみたいというのは、とりあえずは井筒からもらったヒントをもとに、それがどのくらいの妥当性を主張できるかについて、いささか納得できるものを得たいと思うからだ。

知識は感覚であるという主張に続いて、知識は思いなしの真なるものであるという主張も、ソクラテスによって論駁された。後者の論駁は、思いなしというのは、知識によってではなく弁論による説得によって形成されるのがほとんどなのだから、それからして、知識と思いなしとが密接なかかわりをもつとは考えられないという理由によるものだった。そこでテアイテトスは、ソクラテスの言うとおりに、思いなしを弁論=言論と関連付けたうえで、知識とは真なる思いなしに言論を加えたものだというふうに主張を変えるのである。たしかにソクラテスの指摘するとおり、真実な思いなしだけでは、それについて言論が加わっていなければ、知識の範囲には属さないと認めるのである。このテアイテトスの新しい主張についても、ソクラテスはやすやすと論駁してしまう。その論駁の仕方というのが、またもやトリッキーなものを感じさせるのだ。

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忠臣蔵と四谷怪談は、お互いに全く関係のない話だ。一方は元禄時代に起きた実話だし、一方は架空の怪談話だ。その本来関係のないものを結びつけて、深い関係があるかのように仕立てた映画を、深作欣二が1994年に作った。それが「忠臣蔵外伝・四谷怪談」である。

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朝顔と子犬を描いたこの絵は、愛知県の明眼院という寺の杉戸に描かれたものだ。現在は東京国立博物館裏の応挙館に収められている。

大江健三郎の小説世界は、四国の山の中に伝わる伝説を中心にして、いくつかのテーマをめぐって展開するのだが、そうしたテーマの一つに、父親の不可解な死というものがある。そのテーマを大江は、「みずから我が涙をぬぐい給う日」の中で初めて取り上げたのだったが、最晩年の小説「水死」は、それを新たな視点から本格的に展開して見せたのであった。

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アングルに学ぼうとしてルノワールは、アングルがもっとも得意とした裸婦像に取り組むようになった。晩年のルノワールの傑作は、大部分が裸婦を描いたものである。その最初の傑作が、「浴女(Les grandes baigneuses)」である。この大作をルノワールは、1885年に取り掛かってから、ほぼ2年かけて完成させた。完成させた作品は、ジョルジュ・プティの画廊で催された「国際絵画彫刻展」に出品した。プティは、ルノワールの保護者だったデュラン・リュエルのライバルの画商だった。

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深作欣二の1986年の映画「火宅の人」は、檀一雄の同名の小説を映画化したものだ。原作は檀自身の自伝的な私小説というべきもので、女にだらしない男の半生を描いている。映画もその雰囲気をよく表現していて、ある種の日本人男性の典型的な姿を垣間見せてくれる。こういうタイプの男、つまり自我が確立していなくて、常に誰かに支えられていないと生きていけないような男は、日本社会においてはかつてはよく見られたタイプであり、今日でも、あたりをよく見渡せば、まだ多く見られるのではないか。そういう男、つまり檀一雄の分身を緒形拳が演じているが、緒方はこういう役をやらせると天下一品だ。「鬼畜」におけるなさけない父親役と並んで、彼の代表的な演技といってよい。

ソクラテスは、思いなしには真なるものと偽なるものとがあるといって、どれが真でどれが偽なのかを区別するための基準を探そうとする。その基準とは、記憶だ。われわれは学んだことを記憶するが、その記憶はいつでも思い出すことができる。たとえば、何かを見たことがきっかけで、それが何であるかを確認するために、記憶を参照したりする。その場合、その記憶と今見たものが一致すればよいのだが、一致しない場合がある。つまり今見たものを、記憶の中のそれとは異なったものと取り違えてしまうわけで、こういう場合にはその思いなしは偽だというべきである。それとは反対に、今見たものと記憶の中のものが一致すれば、それは真なる思いなしである。

高橋和夫の「アラブとイスラエル」は、イスラエル建国から1990年代初めまでの、アラブとイスラエルの関係について紹介している。イスラエルに対してやや辛口の論評が見られるが、おおむねバランスのとれた考察といえる。中東の現代史を理解する上での、入門書的な役割を果たせるのではないか。

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深作欣二の1984年の映画「上海バンスキング」は、日中戦争下の上海を舞台に、ジャズ・ミュージシャンたちの青春群像を描いた作品だ。ミュージカル仕立てになっていて、しかもコミカルタッチで展開されており、視覚と聴覚の二重に楽しめる映画だ。

コロナウィルスでパニックに陥ったらしい安倍晋三総理大臣が、ほとんど独断で、小中学校の一斉休校を全国の教育現場に要請した。要請であるから、国民はかならずしも従う義務はないようだが、そこは日本人の国民性。ほぼ総理大臣の言うことに従って休校に踏み切ったようだ。小生が住んでいる千葉県船橋市でも休校が実施され、毎日朝の登校時に聞かれる子どもたちの歓声が聞えてこない次第だ。

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「雪松図屏風」と題したこの一双の屏風図は、豪商三井家の注文を受けて描いたもの。三井家は呉服屋として出発し、両替なども手掛けながら、当時日本有数の豪商に発展していた。その三井家の勢いを、この屏風図は感じさせるように描いている。

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ルノワールは意識して印象派から脱却しようとし、新たな画風を模索したが、1883年頃には、ある種のスランプに陥ってしまった。その頃の手紙の中で、自分には絵も描けなければ、デッサンも描けないといって、嘆いて見せた。一応、アングルを目標とはしていた。イタリアで古典主義の魅力に目覚めたルノワールにとって、アングルはフランスの古典主義を代表する画家に思われたからだ。

イスマイル派はシーア派の分派で、十世紀の中葉にはエジプトを中心にファーティマ朝という強大な王朝をたてたほど勢力があった。そのイスマイル派の中から、アラムート派というものが生まれたのだが、その名称は、テヘラン北西部のアラムートという山岳地帯を拠点にした宗教運動だったことに基づく。この宗教運動は、宗教的敵対者を根絶することを目標とし、そのために独特な暗殺組織を作った。この暗殺組織は「暗殺団」と呼ばれ、十字軍がやって来た時には、その指導者を次々と暗殺した。その暗殺の能力が非常に高かったので、十字軍は脅威を感じ、その恐怖感をヨーロッパ社会に伝えた。その際の恐怖感は、もともと暗殺団を呼称する固有名詞だった「アサッシン」という言葉が、「暗殺」を意味する普通名詞になったことからもうかがわれる。このイスマイル派暗殺団について井筒俊彦は、多面的に解明してくれる。「コスモスとアンチコスモス」所収の小論「イスマイル派『暗殺団』」がそれだ。

テオドロスを相手にした議論を終えると、ソクラテスは再びテアイテトスを相手に議論を再開した。ソクラテスとしては、それまでの議論を通じて、プロタゴラスとヘラクレイトスの説は反駁できたと思っている。そのことで知識は感覚であるという主張の根拠を崩せたと思うのだが、しかし知識は感覚であるということについての、ストレートな反駁にはなっていないようでもある。それゆえテアイテトスとしても、プロタゴラスやヘラクレイトスの説が間違っているとは認められても、そのことで知識は感覚であるという自分のとりあえずの主張が、全面的に論駁されたとは思えない。そこでソクラテスとしても、知識は感覚であるという主張に正面からいどんで、それを反駁しにかかるのである。

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尾崎史郎の小説「人生劇場」は、劇的な要素に富んでいることもあり、数多く映画化された。その中で深作欣二が1983年に作ったものは、十三作目にあたるというが、これを最後に映画化されたことはない。いまのところ最後の「人生劇場」ということになる。深作はこの作品を一人で監督したわけではなく、佐藤純弥、中島貞夫との共作である。理由は、劇場公開のスケジュールに向けて時間がなかったこと。それゆえ、全体を三分して、それを三人で並行してとり、時間を節約しようとしたわけだ。しかし映画を見ての印象は、継ぎはぎというふうには見えない。きちんと線が通っている。そこは深作の職人としてのこだわりの産物だろう。

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