2020年6月アーカイブ

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樋口一葉の肖像画を清方は、昭和十五年に催された「紀元二千六百年奉祝展」に出した。清方は一葉に直接会っていないそうである。一葉晩年の小文「女子書簡文」に挿絵をつけたというだけの間柄。それでも挿絵を引き受けたのは、日頃一葉を愛読していたかららしく、清方は一葉が好きだったようだ。その好きな対象たる一葉を、節目の行事の華やかなモチーフに選んだわけである。

領土膨張主義者として知られるイスラエル首相ネタニヤフが、ヨルダン川西岸の入植地の併合を焦っている。このプランについては、トランプの娘婿クシュナーが提案し、トランプがそれを支持した経緯がある。ネタニヤフとしては、トランプの政治的影響力を利用して、とりあえず入植地の併合だけでも先行的に実施し、イスラエルの領土膨張の野心を一歩前進させたいと思っているようである。そのトランプの再選に黄色信号がともっている現在、トランプが大統領でいる間に、既成事実を作りたいというネタニヤフの気持はわからないでもない。

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カラヴァッジオは「キリストの埋葬」と前後して、サンタ・マリア・デル・スカラ聖堂のために大作を制作した。「聖母マリアの死」である。これはカラヴァッジオの才能を評価したラエルツィオ・ケルビーニの意向によるもので、サンタ・マリアの聖堂に相応しいモチーフと考えられたわけだ。普通、聖母の死のモチーフは、「聖母被昇天」というかたちで、大勢の人々に見守られながら、天国へと上昇していく姿であらわされるものだが、カラヴァッジオはそうした伝統を無死して、まったく新たな見地から聖母の死のモチーフを描いた。

第六節から第九節にかけては、求道者の心掛けるべきことについて説かれる。まず六節では、仏陀の教えを説いた経典は、仏陀の死後五百年たっても、その功徳を失わないということが説かれる。そのような時代にも、「戒を持し、福を修むる者ありて、この章句において、よく信心を生じ、これを以て実なりとなさん」。仏陀はそうした者たちのことをよく理解している。かれらがそうした福徳を得るのは、「我相・人相・衆生相・寿相無く、法相もなく、また非法相も」ないからである。ここで法相もなく、非法相もないというのは、「思うということも、思わないということもない」という意味。

コロナ・ウィルスは多くの人々に様々な形の打撃を与えているが、弱い立場の人ほどその打撃は大きい。真っ先に解雇されるのは非正規雇用の人だし、医療資源へのアクセスも貧乏人ほど限られている。これはある意味、仕方のないことで、金のない人びとは真っ先にコロナの打撃を食らうのである。

「哲学の貧困」は、無政府主義者プルードンの著作「貧困の哲学」への批判として書かれたものである。この中でマルクスは、プルードンの経済思想とそれをもとにした社会改革の思想を痛烈に批判している。その批判を通じてマルクス自身の経済思想と社会改革思想が本格的に展開されている。とくに経済思想については、資本主義についてのかなり突っ込んだ分析が見られる。

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ペドロ・アルモドバルの2009年の映画「抱擁のかけら(Los abrazos rotos)」は、三角関係+αとでもいうべきものを描いた作品だ。+αというのは、一人の女と二人の男をめぐる通常の三角関係に加えて、もう一人の女がからんでくるからである。その男女の複雑な関係を、かなりウェットな感覚で描いている。コメディタッチを売り物にしてきたアルモドバルにしては、めずらしくシリアスな作り方になっている。

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十月は長夜。秋の夜長を、三人の母子がそれぞれなりわいにいそしんでいる。母親は針仕事、姉は御習字、弟は読書、宿題に出された文章を読んでいるのであろう。頭上には石油ランプがぶら下がっている。これで照明をとっていたのだろう。壁には柱時計がかけられ、そのわきには神棚のようなものが見える。秋たけなわの一光景、コオロギのすだく声が聞えてきそうである。

鄭義の小説「神樹」には露骨な性描写が多い。これは意識的にそうしているようだ。鄭義自身あとがきの中で、「鬼神生死に××××」が自分の創作心得だと言い、また「溌溂とした性描写は作品が歴史を超えて生命に達する助け」になると書いている。後段の言葉はともかく、前段に出て来る四文字言葉などは、小生のような謹厳君子を自認する人間には恥ずかしくて言えないのであるが、それを鄭義はさらりと何事もないように言うのである。

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「キリストの埋葬」は、ローマのオラトリア会の総本山サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂にあるヴィットリーチェ礼拝堂を飾るために注文されたもの。この礼拝堂は、ここに埋葬されたピエトロ・ヴィットリーチェの名にちなんでいる。この礼拝堂には、カラヴァッジオのほか、当時美術の新しい流れを感じさせる作品が多数展示されており、さながら当代の現代美術館といった趣を呈していたという。ルーベンスの最高傑作といわれる「ヴァリチェッリの聖母」も飾られている。

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ボルベール(Volver)というスペイン語は、英語のリターン、ドイツ語のハイムケアに相当し、帰郷とか帰宅といった意味である。ペドロ・アルモドバルが2006年に作った映画「ボルベール」は、一人の人間の帰郷をテーマにしている。それも死んだと思われていた女性が、生きて戻ってくるという話である。それに家族の不幸な出来事が重ねられる。家族をめぐるヒューマン・ドラマと言ってよい。


般若経は、数ある大乗経典のうちで最も早く成立したと言われる。単一の経典ではなく、いくつかの経典からなっており、複数の人びとによって、紀元前後の百年ほどの間に、漸次的に書かれたと思われる。それらの経典に共通する思想は、「空」という概念である。「色即是空」とは般若心経の有名な言葉だが、この短い経は般若経の思想を集約しているのである。その般若経のなかでも、般若心経と同じくらいよく読まれて来たのが金剛般若経である。この経は比較的短いので、読みやすかったからであろう。

イスラエルは建国以来労働党が政権を担ってきた。労働党はヨーロッパからやってきたシオニストの流れで、社会主義的な傾向が強かった。そんなかれらを労働シオニストと呼ぶことがある。かれらについての国際的なイメージとしては、キブツを拠点に集団主義的な生活をし、子どもも共同で育てるというものだった。イスラエルのユダヤ人が非常に集団主義的で、したがって戦争に強いのも、あながち軍事力ばかりでなく、かれらの集団への帰属意識が高いことにも理由がある。

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ペドロ・アルモドバルの2004年の映画「バッド・エデュケーション(La Mala Educación)」は、スペイン流衆道(ゲイ道)ともいうべきものを描いた作品。日本でも衆道は寺院から流行したとされるが、スペインでも同じように、修道院が衆道の舞台だったようだ。この映画はその修道院の学校で衆道を覚えた少年たちが、大人になってから繰り広げる愛憎がテーマなのだ。

今回のコロナ騒ぎでは、日本は対策がずさんだったにかかわらず、いわゆる感染爆発が起らず、欧米諸国に比べてはるかに規模の小さな感染にとどまったというので、欧米諸国からは不思議に思われている。その理由を小生なりに考えている。この感染症は密接感染から生じることがわかっている。日本では人々は、この密接感染を引き起こすような行動様式からほど遠い行動を日頃からとっている。日本人は欧米諸国の人々のように、互いにべったりくっついたりはしない。挨拶代わりにハグをしたり、親愛の感情を示すためにキスをしたりはしない。会釈か、あるいはせいぜいお辞儀程度でコミュミケーションが成立する。そういう文化的な背景が、日本でコロナを爆発感染させなかった大きな理由だと思っている。

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七月は盆灯篭。東京の盆は新暦になっても七月。これはその盆に飾る灯篭をモチーフにしたもの。軒先に下がった盆灯篭の下に、二人の娘が床几にこしかけて、なにやらおしゃべりをしている。一人は団扇をもっているが、これは五代目菊五郎の配り団扇だそうだ。灯篭も、菊五郎のお祭り佐七をあしらった錦絵を切り抜いて作ったものだという。

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イサクの犠牲の話は、旧約聖書の創世記にあり、そのドラマチックな展開から、文芸や絵画のモチーフとされてきた。ミケランジェロも、システィナ礼拝堂の天井画「天地創造」の一挿話として描いている。カラヴァッジオは、このモチーフを、いまに伝わっている限り二点描いているが、これは二作目で、1603年ごろの作品と思われる。

「仏教の思想」シリーズ(角川書店版)第三巻「空の論理」は、龍樹を開祖とする「中観派」の思想を解説したものである。前半では仏教学者梶山雄一により「中観思想」の成立と歴史的発展過程が概説され、後半では哲学者上山春平により中観」思想の基本的な特徴が強調される。その合間に、両者による対談が挟まれていることは、このシリーズの他の巻と同様である。

「ドイツ・イデオロギー」は「聖家族」に続いてマルクスとエンゲルスの共同著作である。とはいえ、本文のほとんどはエンゲルスが執筆している。「聖家族」の方はマルクスが大部分を執筆しているから、この二つの著作は相補う関係にあるといえる。テーマも青年ヘーゲル派批判の部分では一致している。「ドイツ・イデオロギー」はそれに加え、真正社会主義への批判を通じて共産主義への展望を示している。

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「トーク・トゥ・ハー」という邦題は、英語のタイトル(Talk to her)をそのままとったものだが、スペイン語の原題(Hable con ella)も「彼女と話せ」という意味である。ペドロ・アルモドバルが2002年に公開した映画だ。テーマは、事故で植物状態になった二人の女性と、彼女らを愛する男たちとのコミュニケーション。

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四月は花見。向島堤の花見の様子を描いたもの。現在では、東京で花見と言えば上野の山だが、明治の半ばころまでは、向島堤が都下最大の花見の名所だった。向島にはまた、成島柳北を始め多くの文化人が住み、文化的な香りもただよっていた。この絵に描かれている女性たちは、雛妓なのだろう。色華やかな振袖姿で、枝に咲き誇る桜の花を見上げている。

小説「神樹」には、実に多くの人物が登場するが、真の主役は神樹と呼ばれる巨樹である。小説はこの巨樹をめぐって展開していくのであるし、すべての登場人物の行為とか思考はこの巨樹とからみあっているからである。人々のこの巨樹との絡みあいは、信仰の意識によって支えられている。この小説に出て来る人々はみな、この巨樹に強烈な信仰心を抱いているのだ。

法務大臣といえば、検察を中心とする法務官僚組織の頂点に位置する。人事にも強い影響力を行使できる。検察にとっては、ボス的な存在といってよい。だから、これまで検察が法務大臣に盾をついたということは聞かない。検察は法務大臣を自分たちの代表者、最高上司として遇してきた。それがこのたび、検察が法務大臣の経験者、それも直近に法務大臣をつとめた人物を逮捕するという事態が起きた。前代未聞の珍事だということである。

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コンタレッリ礼拝堂では、聖マタイをモチーフにしたカラヴァッジオの二作品が非常に気に入ったので、祭壇画を追加で注文してきた。「聖マタイと天使」である。早速制作にとりかかり、一年近くかけて描きあげた。ところが祭壇に取り付けると、見栄えが悪すぎると言って受け取りを拒否された。そこでカラヴァッジオは代替策の制作を、契約期間内に終えた。

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ペドロ・アルモドバルの1999年の映画「オール・アバウト・マイ・マザー(Todo sobre mi madre)」は、息子を失った母親が心の痛手から立ち上がってゆく過程を描いたものである。邦題は英語のタイトルをそのまま使ったものだが、スペイン語の原題も同じ意味である。そのタイトルからは、息子の目から見た母親というイメージが思い浮かぶが、かならずしもそうではない。これは息子を失った母親の、息子が死んだあとの話なのである。

トランプの唯一の姪であるメアリー・L・トランプが、トランプを育てた家族の異常な人間関係と、トランプ自身の性格の異常さを批判する暴露本を出版するというので、アメリカでは目下大変な注目を浴びているという。著者メアリーは心理学者として知られ、彼女なりの心理学的な手法を用いて、トランプの性格の異常さを分析しているということらしい。トランプの異常さは、我々のような外国人にも伝わって来るので、いまさらという気がしないでもないが、批判の主体がトランプの唯一の姪とあって、それなりの迫力があるようである。

仏教学者渡辺照宏の著作「お経の話」は、前半で、仏教の成立・発展の過程におけるお経の位置づけを解説し、後半で、大乗仏教の代表的なお経を紹介する。紹介されるお経は、般若経、華厳経、維摩経、勝鬘経、法華経、浄土教経典、密教経典である。

1973年10月に起きた第四次中東戦争は、従来の中東戦争とは様相を異にした。というのもこの戦争は、エジプトが(ほぼ)単独でイスラエルに仕掛けた戦争だったからだ(シリアも協力したが)。エジプトがイスラエルに戦争を仕掛けた理由は、シナイ半島の奪還にあった。第三次中東戦争以後シナイ半島を占領されていたエジプトは、イスラエルとの戦争に勝つことでそれを取り戻そうとしたのである。この戦争は、結局どちらが勝ったとも言えない結果に終わったが、エジプトは初戦で勝利し、その勢いを借りる形で、最終的にはシナイ半島を取り戻すのである(1979年)。

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ペドロ・アルモドバルの1993年の映画「キカ(Kika)」は、セックスと殺人をテーマにしたコメディ・タッチの作品だ。セックスとそれに関連した不道徳はアルモドバルの作品の特徴だが、この映画では、不道徳は意味のない殺人という形で現われる。一方セックスのほうは、奔放な女の男あさりとか、見境のない強姦といった形で現われる。なにしろセックスこそが人間の生きる意味だとばかり、この映画ではセックスが謳歌されている。ここに我々東洋の観客は、スペインという国に、フランスやイタリアに劣らないセックス好きの文化を見いだすことになるのである。

安倍政権が進めているカジノ推進政策に小生は反対してきた。安倍政権の言うこととは裏腹に、このカジノの本質は、アメリカのばくち打ちに日本人の財布をささげるものであって、その意味では外国人に国の富を売り渡す売国政策以外のなにものでもないからだ。しかもこれが始まったのは、トランプの要求に安倍総理が応じたことからだとは、いまでは誰もが知っていることである。トランプは、自分の盟友であるカジノ王アデルソンのために、もうけの便宜を図ってやったのである。

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鏑木清方は昭和十年(1935)に、三越デパートで「明治風俗十二か月」と銘打った個展を催した。そこに清方は、月次風俗画十二点を出品したのだった。月次の風俗画は、室町時代からの伝統で、明治以降も浮世絵カルタなどの形で存続していたが、それを清方は大画面で展開してみせた。モチーフは、明治三十年頃の中流階級の生活ぶりだと、清方自身が語っている。

コロナ騒ぎがこれほどまでに大きくなったのは、やはりなんといっても欧米を巻き込んだかたちの規模の大きさによるのだろう。今回は、ヨーロッパやアメリカでも感染が拡大し、大勢の人間が死んだ。もしこれが中国とかその周辺の国にとどまっていたら、こんな騒ぎにはならなかっただろう。パンデミックという言葉が使われているが、これは今から百年ほど前に起きたスペイン風邪以来のことだ。スペイン風邪では、ヨーロッパを中心にして、数千万人から一億人ほどが死んだと言われる。その結果、第一次大戦の痛手もあって、ヨーロッパの地盤は低下し、アメリカが世界の覇権を握るきっかけになった。

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カラヴァッジオは、聖ヨハネのモチーフが好きだったようで、折に触れていくつかの作品を描いているが、上のものはマッティ枢機卿の求めに応じて描いたらしい。枢機卿の甥にジョヴァンニ・バッティスタという少年がいたが、その名はイタリア語で「聖ヨハネ」を意味する。そこでその少年のために「聖ヨハネ」をモチーフにした絵を贈ったというふうに考えられてきたわけである。

「仏教の思想」第四巻「認識と超越」は、前半で仏教学者服部正明による唯識派の思想的な骨格の説明があり、後半では上山春平による実践にかかわる説明がある。実践というのは、さとりにかかわることである。大乗仏教は、衆生にも仏になる可能性があると考える。そのためには相応の努力をしなければならぬが、それに必要な条件を示すのが、上山が「大乗の実践哲学」と称するものである。

マルクスはヘーゲル哲学特に弁証法の研究を通じて自分自身の思想を発展させていった。その場合によりどころとなったのがフォイエルバッハだ。フォイエルバッハはヘーゲル左派に属していたが、他のメンバーに比較して格別な意味をマルクスはフォイエルバッハに見出した。それはヘーゲルの哲学がもつ思弁的・観念的な性質を打破して、マルクスがいうところの唯物論的なものへと転換させたことだ。ヘーゲルの人間は単なる精神の現われであり、したがって頭で立っていたといえる。それをフォイエルバッハは、足で立たせたというのである。

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ペドロ・アルモドバルの1988年の映画「神経衰弱ギリギリの女たち(Mujeres al borde de un ataque de nervios)」は、男に捨てられた女たちの焦りと怒りをコメディ・タッチで描いたものだ。彼女たちは、焦りと怒りのために、神経衰弱になりそうなのだ。だがどこかにしぶといところがあって、ギリギリのところで踏ん張っている、というのがこの映画が描きだす女たちの姿なのである。

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第六回七弦会に出展した「初冬の花」は、二曲一隻の屏風に、装飾画として描いたもの。「妓女像」の中の鼓を打っている人をモデルにして、それに明治の装いをさせたと清方自身が言っている。タイトルの「初冬の花」とは、初冬に彩りをそえる花のような雰囲気の女性ということか。

大江健三郎は鄭義との往復書簡の中で、長編小説「神樹」を評して、魔術的リアリズムの完成されたものだと書いた。「終幕の、八路軍の亡霊兵士と農民たちが、地方の象徴である巨樹を守って解放軍にいどむ反乱と敗北のシーンは圧倒的です」と書いているから、魔術的というのは、亡霊と現実の人間とが交差しあうさまを表現した言葉なのだろう。たしかにこの小説は、生きている人間ばかりでなく、死んだ人間の亡霊たちが沢山出て来て、それらが大きな役割を果たしている。そればかりではない、題名になっている巨樹もまた、現実の世界に巨大な影響を及ぼす。その影響はまさしく魔術を彷彿させるので、魔術という言葉はこの巨樹について言うのが相応しい。この巨樹が存在せず、死んだ亡霊たちが出てくるだけだったら。魔術的というよりも幻想的という言葉のほうがあたっているだろう。

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「勝ち誇るキューピッド」(上の写真)は、ヴィンチェンツォ・ジュスティアーニのために描いたもの。ジュスティアーニは、デル・モンテ枢機卿邸の隣に邸宅を構えており、カラヴァッジオの熱心なファンの一人だった。「リュートを吹く人」のほか、「聖マタイと天使」の第一バージョンを引き取ったりした。

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ペドロ・アルモドバルの1983年のスペイン映画「バチ当たり修道院の最期(Entre tinieblas)」は、スペイン版駆け込み寺を舞台にしたコメディタッチの作品。それにレズビアンの愛を絡めている。駆け込み寺といえば、日本では鎌倉の尼寺東慶寺が有名だが、そのような寺はおそらく世界中にあるのだろう。カトリック国であるスペインでは、尼僧の経営する修道院がその役割を担っているようだ。

認識と超越

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角川書店刊行の「仏教の思想」シリーズは十二巻からなっていて、第四巻「認識と超越」は唯識思想について論じている。論者は仏教学者服部正明と哲学者上山春平。服部が唯識思想の哲学的側面を論じ、上山が実践的側面を担当するという具合になっている。多少煩瑣な印象を受けるが、唯識思想の歴史的な位置づけや、特徴を丁寧に説明している。

1967年に勃発した第三次中東戦争は、イスラエル・パレスチナ問題の性質を劇的に変化させた。それまでは、イスラエル対アラブ諸国の対立という形をとっていたものが、この戦争で敗北したアラブ諸国が次第にパレスチナ問題にコミットしなくなって、イスラエルとパレスチナ難民勢力とが直接対峙するという構図ができあがっていく。その構図は今日まで基本的にはかわらない。つまり1967年を境にして、イスラエル・パレスチナ問題は新たな局面に移っていったわけである。

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1994年制作の映画「リスボン物語」は、ヴィム・ヴェンダースがリスボン市の依頼を受けて作ったものだ。リスボン市としては、市の宣伝を狙って依頼したようだが、ヴェンダースは、単なるPRではなく、映画としての物語性も盛り込もうとした。かれとしては、「東京画」や「ベルリン天使の詩」といった、都市をテーマにした映画を作ってきた実績があったので、その延長でこの映画を作ったようだ。

いまアメリカは全国的なデモ騒ぎに見舞われているが、その騒ぎの発端になったのが、ミネアポリス警察の白人警察官による黒人殺害事件だった。折からコロナ騒ぎで人々の政治意識が過剰になっていたことも作用したのだろう、人種差別反対を訴えるデモが、またたくまに全米に広がった。これに対してトランプが弾圧姿勢を示すなど、挑発的な態度に出たことで、デモの勢いは当分おさまりそうもない。

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「銀世界」と題したこの作品は、雪の中にうずくまる女を描いたもの。女が高下駄を履いたままうずくまっているのは、どういうつもりか。その表情からは、あまり明るい雰囲気は伝わってこない。顔はやや紅潮し、茫然とした表情をしている。なにやら思い詰めているようである。

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1601年の夏に、カラヴァッジオはデル・モンテ枢機卿の邸宅からジローラモ・マッティ枢機卿の邸宅へ移った。ジローラモはほかの兄弟ともどもカラヴァッジオの熱心なファンで、かれらの為にカラヴァッジオは世俗的な作品を描いてやった。上の写真は「エマオの晩餐」といって、マッティ枢機卿のために描いたものである。

唯識は中観とならんで大乗仏教思想の二大流派。瑜伽行派ともいう、瑜伽行とは禅定の実践、つまりヨガを通じてさとりを得ようとするものだ。中観が高度に理論的なのに対して、実践的なことが唯識の特徴だと高崎はいう。高崎は大乗起信論の現代語訳をしている(岩波文庫所収)。大乗起信論は大乗仏教入門というべき書物で、無論唯識の思想も盛られている。この「唯識入門」は、唯識思想について、踏み込んで説明したものだ。なかなかわかりやすい。

人間の人間からの疎外は、疎外された労働にその根拠を持ち、疎外された労働は私有財産に根拠をもっていた。だから人間の開放を実現するためには、私有財産を止揚しなければならない、というのがマルクスの考えだった。私有財産の止揚は何をもたらすか。共産主義だというのが、マルクスのとりあえずの主張だ。その理由は、マルクスによれば、共産主義は社会的な共同所有を意味する限りで、私的な個人的所有の否定だからだ。

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塚本晋也の2018年の映画「斬、」は、塚本にとってはじめての時代劇である。突拍子もない空想をテーマにすることが多かった塚本が、時代劇でどのような空想を披露するのか。そんな期待に塚本は、めったやたらと人が斬られるシーンを見せることで応えた。この映画は意味のない人斬りがテーマなのである。

北朝鮮による拉致被害者のシンボル的な存在であった横田滋氏が老衰のために亡くなった。生きている間に最愛の娘と再会することができずに、さぞ無念だっただろうと思う。これについて、残された被害者家族を代表する形で、飯塚繁雄氏がインタビューに応じていたが、その言葉の端々から、これまでなにもせずに放置してきた政府への怒りが伝わってきた。たとえば、「何もしないでほったらかしにしたら、日にちがどんどんたっていく」といった言葉だ。

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「夏の女客」は昭和八年(1933)の尚美会に出展されたもので、題名通り、客間に通された女性の客を描いている。女性は団扇をもって座布団の上にかしこまり、主人の出て来るのを待っているようである。その表情は緊張を感じさせ、用向きになにか重要なことがあるのかと思わせる。

鄭義の存在を知ったのは、大江健三郎の往復書簡集を通じてだった。「暴力に逆らって書く」と題された往復書簡集の中で大江は、世界で活躍している十一人の文化人と書簡のやりとりをしているのだが、その一人に鄭義がいた。西暦2000年のことで、その時鄭義はアメリカで亡命生活をしていたのであったが、そんな鄭義に向って大江は、日本が彼に亡命の場を提供できないことに恐縮していた。それに対して鄭義は、自分は国を出てはじめて祖国への強烈な愛を感じたと返したものだ。

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「聖ペテロの磔刑」の、第一作目が受領拒否されて描きなおされたもの。「聖パウロの回心」もかなりなリアルさを感じさせるが、こちらはそれ以上にリアルだ。実際に現場でこの絵を見た人は、皆一様に圧倒される。とにかくすごい迫力である。構図は単純そのもの、十字架の台に乗せられた聖ペテロを、三人の男たちがかつぎあげようとしているところだ。男たちは、顔を見せないでいるか、あるいはちらりと見せているだけで、自分の仕事に集中している。一方ペテロのほうは、十字架に両手足を釘付けされた状態で、うつろな目を虚空に向けている。

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塚本晋也は、スクラップ鉄に変身した男とか、ストーカーにつきまとわれて人前で股間をさらす女とか、奇妙な映画ばかり作っているイメージが強い。2012年に作った「KOTOKO」も、やはりそうした系列上のものだ。この映画は、おそらく統合失調症と思われる精神病質の女の奇怪な行動を描いた作品だ。

第三段「解釈分」に続いて第四段「修行信心分」は、信心のための修行について説明する。これはすでに、「解釈分」の最後の部分で触れられていたものだが、それを改めてとりあげ、しかも実践的な方法に言及したものである。「解釈分」における修行の説明は多分に理論的なものだった。それをここでは修業のための実践的な方法について述べ、しかも一般の衆生にもわかりやすいように説明しているのである。

第一次中東戦争によって獲得した占領地を、イスラエルは死守しようとした。そしてその試みは成功した。終戦の翌年、1949年5月にイスラエルは国連に加入するが、それはイスラエルによるパレスチナにおける占領を追認する効果をもった。パレスチナ難民は、国連に見放された形になったわけである。これに勇気づけられたイスラエルは、更なる領土拡大に向けて野心を高めていくことになる。

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瀬々敬久は「菊とギロチン」で権力に立ち向かう個人を描いたわけだが、2019年の映画「楽園」では、伝統的な権力たる村落共同体によって、異質な個人が圧殺されるところを描く。そういう圧殺を、かつては村八分と呼んだものだ。社会の流動化が進んだ現代においては、村八分はほとんどありえないもののようにも思えるが、ある特定な条件のもとでは、容赦なく人を圧殺する、ということがこの映画からは伝わって来る。いずれにしても愉快な現象ではない。

一度は本格化するかと思われた九月入学問題が、なんとなく立ち消えになった。小生はそれでよかったと思っている。子どもの一生にとって深刻な影響を及ぼすこの問題が、拙速な議論で決められるのはかなわないと思ったからだ。だいたいこの問題は、コロナ騒ぎによる学校休止が発端であって、休校による子供の学力低下を補正するための方策として打ち上げられたはずだ。ところがいつの間にか、九月入学は来年からというふうに、すり替わってしまった。来年から導入するという前提なら、コロナ騒ぎとは関係がなくなるわけで、なにもいま議論する必要もなくなるわけだ。

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石神井川が王子を流れるあたりは滝野川といって、多くの滝がかかっているほか、渓流沿いは、今では花見の名所になっているが、戦前は、徳川時代以来の紅葉の名所だった。それも楓の紅葉だから、実に色鮮やかだった。この絵は、その眺めを描いたものである。

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コンタレッリ礼拝堂の「聖マタイ」のシリーズが大変な評判を呼んだため、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のチェラージ礼拝堂に、聖パウロと聖ペテロをテーマとした同じような作品を作って欲しいと注文された。注文主はティベリオ・チェラージ。チェラージは高位聖職者だ。この礼拝堂については、当時の一流画家アンニーバレ・カラッチが装飾画の作成を依頼されており、正面の祭壇画「聖母被昇天」は完成していたのだったが、アンニーバレの主人であるファルネーゼ家に呼び出されて、残りの作業が中断していた、そのおはちがカラヴァッジオのところへ廻ってきたわけである。

分別発趣道相とは、さとりに向けて発心するということである。その発心には三種ある。第一は信成就発心、第二は解行発心、第三は証発心。第一の信成就発心とは、信心の成就を通じて、さとりに向けて発心することである。この発心は、主に凡夫のためにあると言ってよい。凡夫が発心するためには、自己の力だけでは無理で、仏の力を借りなければならない。それも厳しい修業の果てにやっと仏に出会い、仏に仕えることで信心を養わねばならない。だが、仏にはそう簡単には会えない。通常の場合には、一万劫の時間がかかる。一劫とは人間の一生に相当する期間で約百年に相当する。その一万倍もの時間を生身の人間が生きることはできないが、仏教では、人間を含めて生き物は輪廻転生を繰り返すと信じられているので、その一万劫の間に、何度も生まれ変わるということになる。生まれかわりを繰り返しながら、一万劫たってやっと仏に出会えるのである。これは平均の場合であり、中にはこれより多くかかる場合もあれば、短く済む場合もある。それは生きている間の心掛け次第である。

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