2020年10月アーカイブ

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(61景 浅草川首尾の松御厩河岸)

首尾の松とは、浅草御蔵の一角にあった松の木を言う。浅草御蔵は浅草橋を出て数丁行った先の墨田川沿いにあった蔵で、幕府の直轄地から収められた年貢米を貯蔵していた。この年貢米を旗本や御家人に分配する仕事を請け負ったのが札差。かれらは後に、扶持米を担保にして、旗本たちに金を貸し付けたりして、巨富を築いた。

1970年代末から始まるいわゆる改革開放の時代は、中国社会に巨大な変化をもたらした。その最大のものは、人びとの価値観と生き方が劇的に変わったことだ。毛沢東時代の平等主義にひびがはいり、格差が容認されるようになった。才能のあるものが豊かになるのは当然だという気風が社会を動かすようになった。それにともない、一部の要領の良い人間が金銭的な成功をおさめる一方、要領の悪い人間は貧困にうちに取り残されるようになった。そうした中国社会の変化を、「豊乳肥臀」はシニカルに描き出している。それゆえ同時代に対する批判的な視点を感じさせるのである。

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レンブラントは1693年の10月に63歳で死んだ。その年に描いた作品の一つと思われるものに「家族の肖像」がある。この作品は当時のレンブラントの心の風景を映し出していると考えられる。というのもレンブラントは、その前年に最愛の息子ティトゥスを失い、この年の三月にはティトゥスの遺児ティティアが生まれていた。順調なら、息子の家族を暖かい目で見守ってやれたものを、という無念の気持が、この絵からは読み取れるのである。

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市川準の1997年の映画「東京夜曲」は、前作の「東京兄妹」同様、市川のある種器用さのようなものを感じさせる。これといった劇的な要素がなく、その意味でアンチ・ドラマといってよいのだが、観客を退屈させることはなく、なんとなく最後まで見させてしまい、見終わったあとでそれなりの余韻を残すといった具合だ。こういう映画は、だいたいが失敗に終わるものだが、そうさせないのが市川の腕の見せ所といえようか。

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狂言「茸」に続き、能「道成寺」を紹介する。能自体の概要については、別稿で解説しているので触れない。ここでは見ての印象を書く。その印象としては、もしオリンピック見物にやってきた外国人を観客に想定しているのなら、この曲は相応しくないということだ。というのも、一応劇的な見せ場はあるものの、動きに乏しい部分が多くて、よほど忍耐強い人でないと、最後まで見続けるのがむつかしいと思うからだ。

マルクスが剰余価値と呼ぶものを、主流派の経済学(リカードやミルに代表される)は利潤と呼ぶ。どちらも物理的には、つまり量的には同じものである。だが、その意義は違うとマルクスは主張する。剰余価値は、労働力の再生産に必要な労働=必要労働を超える剰余労働によってもたらされる。だから、剰余価値率は剰余労働/必要労働となる。これに対して主流派経済学のいう利潤率は、労働を含めた投下資本に対する利潤の割合のことをいう。

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能楽諸流派では、今年予定されていたオリンピックの記念公演として、大規模なイベントを計画していたが、オリンピックが中止になったことで、どうするか鳩首協議したところ、コロナ騒ぎで世の中が暗くなっているいま、世間を勇気づけるために、趣旨のスローガンを変えて実施しようということになったそうだ。スローガンを「能楽公演2020」と称し、千駄ヶ谷の能楽堂を舞台にして、オリンピックの当初計画期間に合わせて公演を行った。その中から狂言「茸(くさびら)」と能「道成寺」を選んで、NHKが放送した次第である。

岩波新書の「シリーズ中国近現代史」第四巻「社会主義への挑戦」(久保亨著)は、第二次世界大戦が終了した1945年から、中華人民共和国の成立を経て、1971年に国際連合に加入するまでの、四半世紀をカバーしている。その間における中国の歴史は、短期間であるにもかかわらず、激動に満ちていた。内戦の結果成立した共産党政権、朝鮮戦争への参戦、強引な社会主義化とそのひずみ、そして文化大革命によるすさまじいほどの混乱。こういった出来事が続いた。

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市川準の1995年の映画「東京兄妹」は、両親に死なれて二人だけで暮らす兄妹を描いた作品。タイトルが示すとおり、東京の一隅、画面から都電の荒川線の沿線雑司ヶ谷界隈とわかる所を舞台にしている。雑司ヶ谷の鬼子母神が度々出て来るから、この兄妹はその付近に暮らしているのだろうと思う。両親が残してくれた小さな家に、二人だけで暮らしているこの兄妹を、カメラは淡々としたタッチで追う、というような作り方だ。

昨夜のNHKのニュース番組(ニュースウォッチ9)が菅首相をスタジオに招いてインタビューを行った。この日、菅首相は国会ではじめて所信表明を行ったので、それを踏まえて首相としての抱負を聞きたいという趣旨だったようだ。ところが、所信表明自体が内容に乏しいものだったこともあり、また首相本人も国民に向って抱負を語りたがるタイプでもないようで、インタビューのやりとりは退屈極まりないものだった。それには、菅首相を怒らせないようにとのNHKの配慮を感じさせられたくらいだ。

核兵器禁止条約の批准国が50を超え、来年一月から発行することになった。この条約は、核兵器を非人道的で違法だと宣言している。だから核使用の抑制に一定の効果があると期待されているが、核保有国のすべてと、核保有国と同盟関係にある諸国が批准を拒絶している。唯一の被爆国である日本も、同盟国アメリカに配慮して批准を拒絶し続けている。

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(59景 両国橋大川はた)

両国橋は明暦の大火(1657)の教訓から、寛文元年(1661)に架けられた。当初は大橋と呼ばれていたが、武蔵、下総の国境にあるところから、両国橋と呼ばれるようになった。その両国橋から霊岸島にかけての墨田川右岸を大川端と呼んでいた。

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荊婦と札幌に遊び、中島公園を訪れた。今から三十年以上も前、まだ幼かった子どもたちを連れて北海道一周旅行をしたことがあった。その折に中島公園を散策したことを思い出し、その旅行には同行しなかった荊婦に、我々が訪れた時の様子を、現場を見せながら話してやりたいと思って赴いた次第だった。

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「ユダヤの花嫁」と呼ばれるこの絵は、レンブラント最晩年の作品だ。モデルの二人が誰をあらわしているのか、長らく議論があったが、今日ではイサクとリベカだとするのが通説だ。イサクはアブラハムの長子で、ユダヤ人の祖先とされる人だ。そのイサクがリベカと結ばれるところを描いたということだ。

鈴木大拙が英文で書いた「禅」は、禅とは何かについて欧米人にわかりやすいように書いたものであったが、この「禅とは何か」は、日本人を対象にした講演を編集したものである。相手が日本人であるから、禅をまったく知らないわけではない。少なくとも言葉としての禅は知っているだろう。だが宗教的実践としての、あるいは修業としての禅について、そう深くは知らないだろう。そういう人たちを対象にして、宗教的な実践あるいは体験としての禅について語るというのが、この講演の目的だったようだ。

マニュファクチャーから大工業への発展は、機械によって媒介される。マニュファクチャーは、文字通り人間の身体が生産の主体であった。人間が直接生産物を作るのであって、それに労働手段が、文字通り手段としてかかわっていたに過ぎない。主人は人間であって、労働手段はその付随物だった。ところが大工業は、この関係を逆転させた。機械が主人となって、人間はそれに付随するものとなった。主人は機械であり、人間は機械によって使われる従者になるわけだ。その関係を象徴的に表現したものとして、ルネ・クレールやチャーリー・チャップリンの映画がある。これらの映画(「自由を我らに」や「モダン・タイムズ」)は、20世紀のものであり、機械工業はマルクスの見ていたものとは比較にならぬほど発展していたが、人間が機械に使われるという点では、基本的な違いはないのである。

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市川準の1990年の映画「つぐみ」は、大人になりきらないというか、まだ成長期にある若い女性の青春のひとこまを描いた作品である。原作は吉本バナナの同名の小説で、若い女性読者から圧倒的な支持を受けて、ベストセラーになった。若い女性たちが感情移入できるような作品だったからだろう。この映画も、若い女性が感情移入できるように作られているが、小生のような老人が見ても、十分鑑賞にたえるものがある。

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(57景 みつまたわかれの淵)

隅田川が新大橋の下流で大きく湾曲するあたりに中州という地名がある。かつてはその名の通り周囲を水に囲まれた中州があった。一旦は埋め立てられて、そこに両国と並ぶ歓楽街が出来たが、墨田川が度々氾濫するので、水流をスムーズにする目的で西側が掘削され、再び中州になった。
上官家には、男子の金童のほかに八人の娘たちが生まれた。こんなに沢山の娘が生まれたわけは、母親の上官魯氏が男の子を望んだからだ。男の子さえ生まれれば老後の安泰を期待できると考えたのだ。しかしやっと生まれてきた男の子である金童は母親の期待にそうことができなかった。それどころか、母親の負担になるばかりだった。そんなドラ息子でも、母親は心を込めて愛し続けたのである。それを読むと、中国人の母親が息子に注ぐ愛情の異様さを感じさせられる。

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1662年の作品「織物組合の評議員たち」は、レンブラント晩年の集団肖像画の傑作。「夜警」に比べると単純な構図で、「トゥルプ博士の解剖学講義」と似た雰囲気を感じさせる。「解剖学講義」のほうは、主任教授を中心にして解剖の現場の雰囲気が如実に伝わるように描かれていたが、こちらは組合評議員の会議の様子がやはり如実に伝わって来る。

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坂東玉三郎の1995年の映画「天守物語」は、デビュー作の「外科室」同様、泉鏡花の作品を映画化したものだ。「外科室」はわけのわからぬ筋書きだったが、こちらは幽霊女が生きた男と恋に陥るというもので、荒唐無稽の度合いが一段と深まっている。そこが鏡花らしいところで、その鏡花らしさを玉三郎は、歌舞仕立てにして心憎い演出をしている。傑作といってよい。

剰余価値は、剰余労働からもたらされる。したがって、剰余価値を増大させるためには、剰余労働の絶対的な長さを拡大すればいいわけだ。それはとりあえずは、労働日の延長というかたちをとる。労働日は、マルクスによれば、必要労働時間と剰余労働時間からなっているが、必要労働時間を所与とすれば、労働日の延長は剰余労働時間の延長につながる。これによってもたらされる剰余価値をマルクスは絶対的剰余価値と呼んでいる。

岩波新書版「シリーズ中国近現代史③」は、「革命とナショナリズム」と題して、1925年から1945年をカバーしている。1925年は孫文が死んだ年であり、1945年は抗日戦争が勝利に終わった年である。その後中国は国共内戦に突入し、共産党が権力を握る。だからこの巻がカバーしている時代は、孫文の革命理念を継承しながら、新しい国民国家としての中国を準備した時代と言えよう。

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坂東玉三郎といえば、昭和末期から平成にかけて、歌舞伎を代表する女形として活躍した人だ。器用な人らしく映画もいくつか作った。1992年に作った「外科室」は映画人としてのデビュー作で、大きな話題をさらった。泉鏡花の小説をわずか50分足らずで映像化したものだ。

夢の中で犬になった。しかも牝犬である。なんで牝犬かというと、犬になった小生はオスの蛙を激しく恋したのである。オスの蛙に恋をした小生は、しかしうまく行動することができなかった。つまり恋人らしく振舞うことができないのだ。これはどうしたことかと不思議に思ったが、それは男である小生が牝犬になったことにうまく馴染めないからだろうと思った。そこで、同じく男である蛙に自己同一化しようと試みたが、どうもうまくゆかない。つまりオスの蛙にはなれないのだった。

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(55景 佃しま住吉の祭)

佃島は漁師の島である。家康が摂津の佃村から呼び寄せた漁師たちが、江戸湾の隅田川河口にあった洲を埋め立てて島を造成し、そこを故郷の名にちなんで佃島と名づけた。漁師たちは、漁をして生活する一方、魚介類や海苔を醤油で煮しめたものを自家用の保存食に作っていたが、これが市中にも出回るようになると、佃煮と称されて人気を博した。

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レンブラントの数多い自画像のうち、もっとも有名なものが、この「パレットを持つ自画像」だ。晩年のレンブラントは、モデルを雇う金が無くて、自分をモデルにして描いたのだと、よく言われる。レンブラントにとって、生きることとは描くことだったのである。

小乗、大乗を問わず、仏教全体に共通することとして、涅槃を最終的目的とする考えがある。涅槃というのは、悟りを通じて輪廻から解放されることである。輪廻とは、仏教に特徴的な考え方で、この世の生き物はほぼ永遠に輪廻転生、つまりたえざる生成消滅の運命につながれているとする考えだ。仏教は、生きることを苦しみと捉えるから、輪廻転生から逃れられないというのは、ほぼ永遠に苦しみに繋縛されていることを意味する。この繋縛から逃れるためには、悟りを得て涅槃の境地に達し、そのことで輪廻転生から解放されることが必要である、と考えるのである。涅槃とはだから、あらためていうと、輪廻転生から離脱して、永遠のやすらぎを得ることだということになる。ところが鈴木大拙の涅槃観は、それとはだいぶ違った内容のものとなっている。

労働者の一日あたりの労働時間を、マルクスは労働日の問題として取り上げている。労働日はどのようにして設定されるのか。資本の側からすれば、労働日は長ければ長いだけよい。しかし一日には二十四時間という時間的な限界があるし、一人の労働者を休みなく働かせることもできない。一方労働者の側からすれば、労働日は短ければ短いほど良い。その下限は、労働力の交換価値を生みだす労働量に一致するであろう。その水準でならば、労働者は自分の本来の価値で労働力を売ったことになるが、しかし資本家の為の剰余労働を生み出すことはない。そんなわけで労働日は、二十四時間を上限とし、必要労働を下限とする範囲内で決まることになる。それを決めるのは、資本と労働との間の闘争である。

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ソ連時代からロシア人を代表する映画監督だったアンドレイ・タルコフスキーは、ソ連邦映画大学の出身だ。その映画大学をタルコフスキーは1960年に卒業するのだが、その卒業課題映画として作ったのが「ローラーとバイオリン(КАТОК И СКРИПКА)」である。他の学科の卒業論文に相当するものだ。

福島第一原発の核汚染水がいよいよ溢れそうになるというので、海洋放出する方針を政府が固めたようだ。環境基準以下に薄めた上で放出するから、環境への影響は無視できるほど少ないと政府は言っているが、風評被害を恐れる漁業者は大反対している。じっさい、いくら薄めた所で、絶対量は変わらないので、長期的に見ればなんらかの影響は避けられない。しかし、そんな影響を気にしていたら、いつまでも問題は解決しないので、見切り発車で海に垂れ流してしまおうという政府の甘い判断が伝わって来る。

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(53景 増上寺塔赤羽根)

芝増上寺は上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提寺。歴代将軍のうち六人の墓がある。浄土宗の大本山として、京都の知恩院をしのぐ勢いがあった。その増上寺の南西に赤羽根川が流れ、その一角に赤羽根橋がかかっていた。

小説「豊乳肥臀」の表向きの主人公は、語り手たる上官金童ではあるが、実質的な主人公はかれの母上官魯氏といてよい。というよりか、母親が体現している中国的なもの、中国の台地の悠揚迫らぬ寛容さにあるといってよい。母親が生きた中国現代史は、清朝の支配から抗日戦争、国共内戦を経て改革開放にいたる変転極まりない時代だったが、その変転につながっているすべての要素と、母親は密接にかかわりながら生きた。その生きざまは、おそらく平均的な中国庶民の生き方を濃縮しているのではないか。この母親の場合には、娘たちがそれぞれ漢奸勢力、国民党、共産党と結びつき、党派抗争の直接の当事者となった特異性はあるが、普通の庶民でも、なんらかの形でそうした党派抗争の当事者となる運命にあったわけで、その点では、彼女は特殊な例ではない。ただ、他の人に比べれば、典型性に増していたにすぎない。中国人としてのその典型的な生き方を、語り手の母親たる上官魯氏は見せてくれるのである。彼女の生きざまを見ることで我々外国の読者でも、中国の台地の息吹に触れるような思いになるであろう。

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レンブラントは息子ティトゥスの肖像画を、子どもの頃から何枚も描いた。これは1656年のもの。この時のティトゥスは15歳だった。絵の中のかれの表情は落ち着いており、ずっと年上に見える。このティトゥスの為にサスキアが残した遺産を、レンブラントは本人に渡してやろうとして、豪邸の所有権をティトゥス名義にしたいと思ったのだったが、裁判所はそれをみとめず、残った財産のうちのわずかな部分しか渡してやることができなかった。レンブラント自身の割り当ては、借金返済のために競売に付されてしまったのである。その際に、手元に保有していた自分の作品の多くも流出した。

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2004年のロシア映画「ナイト・ウォッチ(Ночной дозор)」は、人類の異種をテーマにした空想映画である。人類の異種というとわかりにくいが、たとえば哺乳類にはその異種として有袋類があるように、人類にも異種があるということらしい。哺乳類と有袋類の種間差別は形態学的なものだが、人類とその異種との差別は能力的なものということになっている。人類の中でたまたま異様な能力を持ったものが、異種として分類されるというわけである。

中国公船が尖閣周辺の日本領海への侵入を繰り返している。あきらかに日本政府への挑発だ。中国は、日本の政権に交代があるたびに、その対中姿勢を見定める動きをしてきた。安倍政権が八年近く続いたことで、その長い間、そうした動きは表面化しなかったのだが、今回菅政権にかわったことで、この政権の対中姿勢がどのようなものなのか、見定めようというわけだろう。

資本家の目的は剰余価値の取得である。剰余価値とは、生産物を売った結果得られる収入が、生産に必要とされた費用を上回る部分で、今日の主流経済学はこれを利潤と呼んでいる。主流経済学は、利潤率を生産のために投下された総費用との関係において計算するが(利潤率=利潤/労賃を含む生産に必要な総費用)、マルクスは剰余価値について全く違う計算の仕方をする。

自民党衆議院議員杉田某女の女性差別発言を問題視した団体が、自民党に対して、議員辞職を求める署名を提出しようとしたところ、自民党を代表して応対した幹事長代行野田聖子女史が、受け取りを拒んだという。その理由が面白い。わたしには議員を辞職させる権能が備わっていないので、受け取るとることはできないというのだ。

岩波新書版「シリーズ中国近現代史」②は、1894年から1925年までの約三十年間をカバーしている。清朝が自滅的に崩壊し、その後中国という国民国家の建設に向けて動いていた時代だ。この時代を著者は、既成の見方からなるべく自由な立場から、できるだけ相対的に見ていきたいと言っている。既成の見方の代表は、中共史観ともいうべきもので、この時代を過渡的なものと位置づけ、最後には中国共産党が革命へと導いていったとする見方である。それに対して著者は、「この時期は、『救国』のためのさまざまな考えが溢れ出し、『中国』の人々の想像力が最大限に膨らんだ時期」であり、現代では見られない『中国』のさまざまな可能性が示された時期」と見ている。

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1986年のソ連映画「不思議惑星キン・ザ・ザ(Кин-дза-дза!)」は、ある種のディストピア映画である。ロシア人にとって、ソ連とディストピアの組合せは、なにかミスマッチなものを感じさせるが、この映画はそれを緩和させる意図からか、ディストピアを地球とは別の惑星に設定している。その惑星に紛れ込んでいった地球人が、そこで異常な体験をするというもので、そういう点ではSF映画としての側面も持っている。

かくも長い間続いた安倍政権は、大部分をスキャンダル処理に明け暮れ、腰を据えて政策を実現することはできなかった。特に政権後半期はひどく、スキャンダル処理に明け暮れたといってよいほどだ。その処理の仕方がうまかったのかどうか、安倍政権は何とか安泰をたもった。そして安倍総理が辞職した直後には、国民の間からごくろうさまといった声が聞えたくらいだ。

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(51景 麹町一丁目山王祭ねり込)

半蔵門から四谷を経て新宿に延びる通りを今では新宿通りというが、徳川時代には麹町といった。甲府へ向かう道であるところから甲府路(こふじ)といい、その起点にあることからこふじまちと言った。起点から四谷見附までが十丁、四谷の外側に三丁あった。

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レンブラントが「トゥルプ博士の解剖学講義」を手掛けたのは1632年のことだが、それから24年後の1656年に、同じようなテーマで追加注文を受けた。注文主は、トゥルプ博士の後任デエイマン博士だった。博士は、同年中に強盗罪で死刑になったヨーリス・ファン・ディーストの死体解剖を行ったのだが、その折の様子を、集団肖像画として描いて欲しいと依頼してきたのである。

「大乗仏教概論」は、欧米人を対象として書いたということもあり、大乗仏教をキリスト教と比較しながら解説している。そうすることで、宗教としての大乗仏教の特色をよく理解してもらえると思ったからだろう。キリスト教といえば、神を中心とした宗教である。それにイエス・キリストがからみ、更にキリスト教会の存在が絡んで、いわゆる三位一体説が確立された。キリスト教の教義は、この三位一体説によって代表されるといってもよい。そこで大拙は、仏教にも三位一体説と似たようなものがあることを指摘して、欧米人の仏教理解を促そうというわけなのである。

マルクスは剰余価値の分析を、労働過程の分析から始めている。剰余価値を生むのは人間の労働だからである。だが労働がそのまま剰余価値を生むわけではない。剰余価値を生むのは、商品としての人間労働である。その商品としての人間労働=労働力を、資本がその価値に応じた価格で買い取り、その使用価値としての労働を消費することで剰余価値を生みだすわけである。

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ケン・ローチの2016年の映画「わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Blake)」は、格差社会イギリスにおける貧困を描いた作品。妻の介護で蓄えを使い果たし、あげくは病気のために働けなくなった老人と、二人の子供をかかえて貧困にあえぐシングル・マザーを描いた。そのかれらが、なんとかして公的な制度を使って生き延びようとするが、役所の形式主義に妨げられてなかなか思うように保護が受けられない。役所は、困った人々に積極的に手を貸すのではなく、かれらをなるべく排除するように動いている、といったメッセージも伝わって来て、たんなる貧困問題を超えて、社会的な分断と差別を感じさせられる映画である。

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(49景 王子不動之滝)

王子不動の滝は現存していない。いま北区役所があるところと、正受院という寺との間にかかっていたという。このあたりを流れる石神井川は、両岸をうがっていたので、そこに深い谷間が出来、滝がいくつかかかっていたという。そこからこのあたりの石神井川を滝野川と称した。不動の滝はそうした滝の一つ。

小説「豊乳肥臀」は、語り手たる上官金童の誕生から、彼の母親の死に至るまでの、中国現代の歴史を微視的な視点から描いたものだ。金童が生まれたのは、小説の冒頭部分では1935年のことだとアナウンスされるが、その後なし崩し的に訂正されて1939年の卯年生まれだとされる。一方母親が死ぬのは93歳の時だとアナウンスされる。母親は1900年に生れたということになっているから、1993年に死んだわけだ。その母親の若い頃、つまり金童が生まれる前のことも小説は語っているから、この小説全体がカバーしているのは、辛亥革命以前の1900年から改革開放後の1993年までの、中国現代史のほぼ全時代である。その時代の中国をこの小説は、上官金童という語り手の微視的な視点から語っているのである。

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パテシバにまつわる話は、旧約聖書の「サムエル記」に出て来る。パテシバは、ヒッタイト人ウリアの妻であったが、ユダヤのダヴィデが彼女を見初めて強引にセックスした。その結果パテシバは妊娠したのだが、ダヴィデは己の罪を隠そうとして、ウリアを亡き者にしようと画策する。すなわち戦場に赴かせ、味方の軍人に殺すよう命じるのである。

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ケン・ローチの2007年の映画「この自由な世界で(It's a Free World...)」は、外国人労働の搾取をテーマにした作品である。外国人労働の不当な搾取については、日本でも大きな問題となっている。とくに、技能実習生をめぐっては、実習生の弱い立場につけこんだ不当・無法な扱いが蔓延しているとされ、それが一種の奴隷労働だとまで言われている。そういう問題は、日本でとくにひどいのかと小生などは思っていたが、この映画を見ると、イギリスでも同じような事情だと伝わって来る。ほかの国のことは知らないが、外国人労働の搾取は、先進資本主義国家にとって、ゆゆしき問題だと、あらためて思わされたところだ。

資本とは何かについて、マルクスは形式的な定義はしていないが、商品流通から生まれ、貨幣という形態をとり、しかも自己を増殖するものというふうに捉えている。単純化して言えば、自己の価値を増殖する貨幣(自己増殖する貨幣)ということになる。資本が貨幣であるのは、資本主義社会においては、貨幣こそが価値の一般的な現象形態であるからだ。

岩波新書版の「シリーズ中国近現代史」の第一巻は「清朝と近代世界」と題して清朝の歴史を対象としている。清朝は、現在の中国の直前の王朝であったから、中国近現代史の前触れとして清朝の歴史を取りあげるのは自然なことである。日本の近現代史を幕末から始めるようなものだ。だが、この本は(中国近現代史に直接つながる)清朝の末期だけではなく、清朝の歴史全体をカバーしている。それには理由があると著者は言う。中国という国家概念が成立したのは清朝時代のことであって、その清朝の時代にほぼ現在の中国の領域が固まった。明代以前には、満洲地域やモンゴル、西域やチベットは、かならずしも現在言われているような意味での中国の領域には含まれていなかった。それらの領域は、民族的にも異なり、従って中国の王朝が直接統治していたわけではなかった。清朝になって初めて、それらの領域とそこにすむ民族とが、中国の王朝の統治に組み込まれたのである。したがって、清朝こそが現代中国国家の領域と民族構成とを直接に決定したのである。そうした意味で清朝は、中国近現代史の前提というか、その不可欠の一部だというのが、著者の基本的な見方である。

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ケン・ローチの2006年の映画「麦の穂をゆらす風(The Wind That Shakes the Barley)」は、アイルランド独立戦争の一齣を描いた作品。アイルランド独立戦争は、1919年から1921年にかけて行われ、その結果アイルランドには広範な自治が認められ、一国家として国際社会に認知されるようになった。しかし、その独立のあり方をめぐって、アイルランド内部で分裂が生まれた。イギリスとの関係を重視して、共通の女王を戴く立憲君主制をとる立場と、イギリスからの完全分離と共和制を求める勢力とが対立し、内戦にまで発展したのである。この映画は、アイルランドの独立を求める人々の闘いを描くとともに、独立後の内戦をも描く。それらにかかわった兄弟の生き方を中心に、かれらがやがて兄弟同士で殺しあう悲劇が、この映画のハイライト部分だ。

日本学術会議の人事をめぐって、法に基づき学術会議側から出された推薦名簿のうちから、六人の任命を菅首相が拒んだことで、大きな騒ぎになっている。まず、菅首相の任命拒否に法律違反の疑いがあることと、菅首相が任命拒否の理由を説明せず、問答無用の態度をとっていることが、物議のタネになっている。

ニューヨークで、日本人ピアニストの男性が、アメリカ人少年少女の集団八人に襲撃され、大怪我を負わされた。被害者の証言では、少年少女たちが「チャイニーズ」と叫びながらいきなり襲ってきたというから、人種差別意識がもたらしたヘイトクライムと考えられる。

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(47景 昌平橋聖堂神田川)

神田川は当初日本橋川に合流していたが、洪水対策のため、浅草方面へ流れるように付け替えられた。その際に、神田山と呼ばれた台地(いまの駿河台)を掘削し、御茶ノ水あたりに谷間の地形が出来た。この谷間は小赤壁とか、茗渓とか呼ばれるようになった。

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「川で水遊びする女」と呼ばれるこの絵は、水浴するスザンナのモチーフを援用したものだとか、あるいはパテシバだとかとの説があるが、そんなことを抜きにして、一人の無邪気そうな女性を描いたものと受け取ってみても、なかなかの味わい深さを感じさせる一点。レンブラントの女性像のなかでも、もっとも魅力的なものだ。

「大乗仏教概論」は鈴木大拙の処女作である。大拙はこれを英語で書いた。当然欧米人を読者として想定している。その為か非常に論争的である。この本の中で大拙は、キリスト教圏の人々は仏教を誤解していると何度も書いているし、仏教はキリスト教に比べ、宗教として遜色がない、むしろ宗教としての純粋度は仏教のほうが高いと言っている。要するにキリスト教圏の人々に仏教を正しく理解してもらいたいと願って、この本を書いたということだ。単なる研究書ではない。大拙なりの伝道の書と言ってよいほどだ。

マルクスの貨幣論の特徴は、貨幣を特殊な商品と見ることである。あらゆる商品には、他の商品に対する等価物としての機能があるが、この機能が一般化して、他のあらゆる商品に対する一般的等価物になったものが貨幣だとマルクスは見るのである。そのようなものとして、諸商品の価値の尺度となることが貨幣の基本的な機能である。この機能にもとづいて、流通手段としての機能や支払い手段としての機能が付加される。それに付随して、貨幣の蓄蔵とか信用取引といった現象が生じるとされる。

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山本政志の2014年の映画「水の声を聞く」は、在日コリアンのカルト宗教ビジネスを皮肉っぽく描いた作品である。この映画を見ると、在日コリアンがことさらに戯画化されているように思えるが、山本はもともと多国性にこだわる作家なので、在日コリアンをことさらに馬鹿にしているわけではなく、在日コリアンに人間一般を代表させて、その人間という馬鹿げた存在をあざ笑っているのかもしれない。

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(45景 八ツ見のはし)

八ツ見橋という名の橋はいまは存在しないが、外堀から日本橋川が別れるところにかかっていたというから、いまの呉服橋のあるあたりにかかっていたと思われる。呉服橋という名の橋もあって、それは日本橋川ではなく、外堀に門と一体となってかかっていた。

莫言が「赤いコーリャン」の連作を書いた時は、テーマが抗日戦でもあり、また主人公たちをはじめ登場人物たる中国庶民が肯定的に描かれていたために、中国では大変好意的に受けとめられた。また、現代中国映画の旗手といわれる張芸謀が映画化したことで、日頃文学にはあまり縁のない一般大衆にもその名が広まった。作家としての順調な滑り出しだったわけだ。ところが、数年後の1996年に「豊乳肥臀」を書くや、一転して厳しい反応があった。批評家たちから手厳しい批判を受けた上に、本の出版停止処分を食らってしまったのだ。その落差はどこから来ているのか。

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ヘンドリッキエ・ストッフェルスは、1648年にレンブラントと同棲するようになった。彼女の登場で立場を失ったヘールヘトは裁判を起こし、レンブラントの婚約不履行を訴えた。裁判所は彼女の主張を受け入れ、毎年200グルデンの慰謝料を支払うよう命じた。その頃のレンブラントは、放蕩と浪費がたたって借金苦に悩んでいた。

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往昔、「てなもんや三度笠」というテレビ番組があって、小生もファンのひとりだったが、山本正志の映画「てなもんやコネクション」はそれを意識しているのだろうか。喜劇仕立ての楽しい映画である。「てなもんや三度笠」は、ただのドタバタ喜劇ではなく、ひねったギャグが売り物だったが、山本のこの映画もかなりひねった感じに仕上がっている。

資本論第一篇第一章第四節「商品の呪物的性格とその秘密」と題した部分は、のちに物象化論についての議論を巻き起こした。マルクス自身はこの部分で「物象化」という言葉は使っておらず、商品の呪物的性格あるいは呪物崇拝という言葉を使っているが、内容的には同じである。そこで物象化の概念的な内容を一応定義しておく必要があろう。

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