2020年11月アーカイブ

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「ヨセフの長衣を受け取るヤコブ」は、「ウルカノスの鍛冶場」と並んで、ローマ滞在中に制作した二つの大作のうちの一つ。旧約聖書の創世記に取材した作品だ。ギリシャ神話と聖書との違いはあるが、どちらも物語を視覚化したもので、ボデゴンや肖像画を描いていた初期のベラスケスからの飛躍を感じさせる作品である。

法華経「譬喩品」第三は、その題名が示唆するとおり、仏の教えを、比喩を用いて説いたものである。お経には、比喩を用いたものが多い。最古の大乗経典といわれる般若経などは、その主張するところの理由として、大部分の場合譬喩を持ち出しているほどである。理由のかわりに比喩を示されても、人間というものはわかったような気持ちになるように出来ているらしい。

資本論全三巻のうちマルクスが生前に刊行したのは第一巻のみで、残された部分は盟友のエンゲルスの手によって編集・刊行された。第二巻の刊行は、マルクスの死後二年目の1985年、第三巻の刊行は更にその九年後の1894年のことである。第二巻の刊行にあたってエンゲルスは序文を付し、マルクスの残した草稿をどのように編集したかとか、資本論全体についてのマルクスの構想などについて説明している。

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呉美保の2010年の映画「オカンの嫁入り」は、母娘の情愛を中心にした人情劇である。監督の呉美保は在日韓国人だが、日本で育ったこともあり、日本人の人情をよくわかっている。この映画はそうした呉の目から見た日本人の人情のあり方に、それへの多少スパイスをきかせた批判を込めて、日本の庶民、それも関西に暮らす庶民の生き方を、ウェットなタッチで描いたものだ。

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(77景 鉄砲洲稲荷橋湊神社)

八丁堀が隅田川に注ぐ河口のあたりに細長い洲があって、鉄砲洲と呼ばれた。ここで大砲の演習をしたことに基づく。鉄砲洲の一角に稲荷神社があって、別名を湊神社とも波よけ神社ともいった。現在でも存在する。

小説「白檀の刑」は、孫眉娘の独白から始まる。彼女には三つの綽名がある。大足仙女、半端美人、犬肉小町である。大足というのは、彼女はあまり育ちがよくなく、当時の中国人女性にとっては両家の子女のあかしであった纏足を施されることがなかったために、足が天然のまま育ってしまったからだ。纏足で委縮したサイズが標準だった当時の中国女性としては、天然の足はみっともない大足に見えたのである。

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ベラスケスは、1629年7月頃から約一年半の間イタリアに旅した。フェリペ国王の裁可を得たもので、国庫の援助を受けていた。目的は、ベラスケス本人の美術研修と、現地における美術品の買い付けであった。ティントレットやティツィアーノの作品など20点あまりを買い付けている。

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山崎貴の2019年の映画「アルキメデスの大戦」は、三田紀房の同名の漫画を映画化したもの。戦艦大和を象徴とする日本海軍の末路をテーマにしたものだが、山本五十六はじめ実在の人物をまじえながらも、内容的には全くのフィクションといってよい。その点は、ゼロ戦の開発をめぐる宮崎駿のアニメ映画「風たちぬ」のほうが、現実の話に近い。

今回のアメリカ大統領選挙では、現職の大統領であるトランプが、根拠もなく選挙の不正を訴え、なかなか敗北を認めなかったが、ついに敗北を認めたようで、バイデンへの政権移行に妥協する旨を表明した。その言い方には玉虫色の所もあり、不正の追及は引き続き行うなどと強気なことも言っているが、事実上の敗北宣言だと大方には受け取られている。それを踏まえて、今回の事態はアメリカの民主主義が機能した証拠だとする意見が圧倒的だ。だが、中には否定的な意見を言う者もいる。今回の事態は、アメリカ民主主義の脆弱性を衆目の前にさらしたと言うのだ。

資本論第一巻の最終に近い部分、それは実質的には第一巻の総まとめと言ってもよいが、マルクスはその部分を「資本主義的蓄積の歴史的傾向」と題して、資本主義の行き着く先としての、資本主義の否定の必然性の分析にあてている。非常に短い部分だが、ここに我々は、資本主義がいかにして共産主義社会を生み出すのかについての、マルクスの基本的な展望を見いだす。もっともその展望は、あまり実証的な分析には支えられておらず、多分に予言的なものではあるのだが。

毛利和子の近著「日中漂流」は、タイトルにあるとおり、21世紀に入って漂流する日中関係に大きな懸念を投げかけている。日中関係は、戦中戦後の不幸な時期を経て、日中国交正常化によって、一時期きわめて良好な関係を築いたかに見えたが、それも束の間のこと、21世紀に入ってからは、険悪な状況に陥り、政府関係はもとより国民感情のレベルにおいても、相手方への不信が高まって、かえって史上最悪の関係に陥っている。その関係は、近い将来武力衝突にも発展しかねない危うさを抱えている。そういう不幸な事態に陥らないために、両国、特に日本は何に心掛けねばならないか、そういった切羽詰まった毛利の問題意識が、この本からは切々と伝わって来る。

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石井克人の2004年の映画「茶の味」は、ホームドラマをアニメ趣味で味付けしたような作品だ。アニメでなら不思議ではないようなことが、現実の出来事として語られるといった具合なのだ。筋書きらしいものはない。家族の成員それぞれの身に起こる出来事が、雑然と描写されるのである。

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(75景 神田紺屋町)

徳川時代の神田一帯には職人町が形成されていて、職域ごとに住んでいた。町の名は、その職業を反映したもので、紺屋町には紺屋の集団が集まっていたのである。この他、鍛冶町(鍛冶屋)、大工町(大工)、白壁町(左官)、雉子町(木地師)、須田町(果物)などがあった。

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24歳で宮廷画家になったベラスケスは、29歳で王室画家に抜擢された。王室画家というのは、王の身近に仕える身分で、側近といってもよかった。実際ベラスケスは、以後王の側近として、さまざまな宮廷行事に関わる一方、王の美術コレクションの監督役をもつとめることになる。つまり、画家であるとともに、役人でもあったわけだ。ベラスケスの作品が120点ほどにとどまっている理由は、役人としての時間をさかれ、画業に専念できなかったことにある。

法華経のうち最初に成立し、しかも中核部分ともいうべき「方便品第二」から「授学無学人記品第九」までの八章のうちで、「方便品第二」は、この中核部分の総論にあたるものである。法華経の中でも最もポピュラーな章であり、日蓮宗の寺では、法要の席上かならず読まされる。

資本主義的生産は、商品生産者たちの手の中に相当の資本と労働力とがあることを前提としている。資本とは生産のための手段とか材料のことであり、労働力はそれに結合されることで剰余価値を生みだす源泉である。この両者がなければ資本主義的生産はなりたたない。経済学は、神学が原罪を論じるのと同じような具合に、これらの起源を無限の過去の物語として論じる。ずっと昔のそのまた昔に、一方では勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方には怠け者で、あらゆる持ち物を、又それ以上を使い果たしてしまうクズどもがあった、というわけである。

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2015年の映画「ディーパンの闘い(Dheepan)」は、スリランカの内戦で難民となってフランスにやってきた人々を描いた作品。フランス人監督ジャック・オーディアールが作ったフランス映画だが、主演俳優はスリランカのタミル人で、かれらが話す言葉もタミル語である。

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(73景 市中繁栄七夕祭)

この絵からが、秋の部。市中とあるだけで、場所の明示はないが、おそらく広重が住んでいた南伝馬町あたりだろうと思われる。そのあたりは賑やかな商業地で、この絵にあるような蔵が櫛比していたし、南西の方角には富士がよく見えた。
莫言の小説「白檀の刑」は、タイトルにあるとおり、処刑がテーマである。この小説は、義人孫丙が白檀の刑という、中国の処刑の中でもっとも残忍といわれる方法で殺される場面がクライマックスとなっているのだが、そのほかにも処刑のシーンは出て来る。いずれも残忍なものである。それらについての描写を読むと、中国人というのは、処刑についてきわめて洗練された文化を持っていると思わされる。

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24歳で宮廷画家に抜擢されたベラスケスは、早速国王フェリペ四世の肖像画を制作する。その絵は国王に大変気にいられたというが、現存していない。わずか一日で描かれたという逸話が伝わっているから、おそらくスケッチ風の簡素なものだったと思われる。フェリペ四世はその時18歳であった。

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クロード・ルルーシュといえば、1968年のグルノーブル冬季オリンピック記録映画「白い恋人たち」の監督として有名だ。その二年前に作った「男と女(Un homme et une femme)」は、かれの出世作となった作品である。

ジェレミー・ベンサムといえば、功利主義の先駆的思想家という位置づけを付与されている。そのベンサムをマルクスは、「生粋の俗物」、「十九世紀の平凡な市民常識の面白くもない知ったかぶりで多弁な託宣者」と呼んだ。

毛利和子は、現代中国政治の研究家で、日中関係について詳しい。岩波新書から出した「日中関係」は、冷戦期から日中国交回復に続く良好な関係の時期を経て、2005年の反日デモが物語る対立関係の激化に至るまでの時期を解説していた。「中国政治」と題した小冊子は、それから十年後の2016年に出したもので、「習近平時代を読み解く」という副題が示唆するように、習近平登場以後の現代中国を、主に政治・経済の面から分析したものである。

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アニェス・ヴァルダの映画「幸福(Le Bonheur)」をはじめて小生が見たのは学生時代のことだ。大学内で自主上映されていたこの映画を、親しい友人に誘われて見に行ったのだが、見ての印象は、フランス人というのは。道徳的に問題のある人間たちだということだった。男は平気で不倫をして、それを妻に隠さないし、女も妻子持ちの男と気軽にセックスする。不倫に絶望した妻が、二人の小さな子を残して入水自殺する、というのもちょっとショッキングだった。日本の女は、妻子持ちの男には決して手を出さないものだ、またたとえ亭主が浮気をしたとして、それくらいで自殺する女などいない、と思ったことを覚えている。

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(71景 利根川ばらばらまつ)

利根川ばらばらまつとあるところから、利根川のどこかを描いたものだろうが、場所が特定されていない。投網の様子が描かれているが、徳川時代には、この漁法は河口から五十丁(約五キロ)まで許可されていた。それを前提にすれば、利根川の河口、つまり銚子から遠くないところということになるが、それだと江戸からは完全に別の世界だ。このシリーズには相応しくない。

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「セビーリャの水売り」と題したこの作品はセビーリャ時代を締めくくるもの。かれはこの作品を土産にしてマドリードに赴いた。それに先立ちベラスケスは、1622年4月に絵画鑑賞の旅の途次初めてマドリードに赴き、そこで旧知のフォンセーカの歓待を受けた。フォンセーカはセビーリャの出身で、師パチェーコと懇意だったため、ベラスケスとは縁があったのである。

法華経を読む

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法華経の構成や成立年代については、先稿「法華経の構成」で言及した。その稿は仏教学者田村芳朗の説に依拠したものだが、その内容を簡単に再説しておこう。田村によれば、法華経を構成する二十八品は、三つの部分に分類できる。第一の部分は、第二品「方便品」から第九品「授学無学人記品」まで、第二の部分は、第十品「法師品」から第二十二品「嘱累品」まで、第三の部分は、第二十三品「薬王菩薩本地品」から第二十八品「普賢菩薩勧発品」まで。この三つの部分のうち最も早く成立したのは第一の部分で、紀元50年前後のことだったとする。第二の部分はそれに遅れて成立したが、第十二品の「提婆達多品」は天台智顗によって後世に追加されたものである。第三の部分は、紀元150年ごろまでに、順次個別に成立・追加されたのであろうと考えられている。なお、全体の序文にあたる「序品」は、第二の部分が成立した際に、第一・第二の部分に共通する序説として置かれたのであろう。

資本の蓄積はますます多くの労働者を労働力として吸収するが、しかしそのことで労働力の絶対的不足という事態はおこらないとマルクスは考える。絶対的不足が起る前に、労働への重要が労賃の上昇をもたらし、それが剰余価値の減少につながり、剰余価値の減少が資本の蓄積にストップをかけるからだというのである。資本主義的生産は、つねに過剰な労働力を伴っている。その過剰な労働力が労働の供給圧力として働き、労賃の上昇を妨げ、そのことによって剰余価値の生産を可能にする。この過剰な労働力のことをマルクスは相対的過剰人口と呼ぶ。そして、その相対的過剰人口こそは資本主義的生産に固有の人口法則なのだというのである。

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アニェス・ヴァルダは、女流映画作家の先駆者といえる人だ。ベルギー生まれだがフランスで育った。キャリアとして映画人を目指していたわけではなかったが、1955年に自主制作した「ラ・ポアント・クールト」がきっかけで映画界への道を選んだ。この映画は、自分が少女時代を過ごした南仏セートを写したドキュメンタリー風の作品だったようだ。斬新な映像処理が後に評判になって、ヌーヴェルヴァーグの先駆的作品と評価された。

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(69景 深川三十三間堂)

深川三十三間堂は、富岡八幡宮の東側にある運河沿いに立っていた。京都の三十三間堂を真似たものが浅草にあったが、それが元禄十一年(1698)の火事で焼けたので、同十三年(1700)に深川に再建された。規模は京都の三十三間堂と同じで、運河を背にして南北方向に立ち、西側を向いていた。

小説「白檀の刑」へのあとがきの中で莫言は、「自分がこの小説で書きたかったのはじつは音だったのだ」と書いている。この小説を構想し、執筆した最初の動機も音だったし、そもそも物書きになって以来自分の意識に付きまとい続けてきたのも音だったというのだ。その音とは、とりあえず二つの音。一つは、自分の故郷である山東省の高密県付近を走っている膠済鉄道の汽車の音、もう一つは、これも故郷に伝わってきたという地方劇猫腔の音楽の音だ。

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ベラスケスの生きた時代には宗教画が絵画の主流だったので、ベラスケスもまた、多くはないものの、宗教画を手掛けている。「東方三博士の礼拝」と題したこの絵は、彼の初期の宗教画を代表するものである。当時宗教画として人気のあったモチーフを題材にとったものだが、そこにはベラスケスの個人的な思いも込められている。かれは、この絵の中に自分の家族のイメージを込めたのだ。

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ロベール・アンリコの1975年の映画「追想(Le vieux fusil)」は、ナチス・ドイツに妻子を殺されたフランス人医師の復讐を描いた作品。それも単身で12人の兵士を相手に戦うという壮絶なものだ。主人公は、子どもの頃に父親が愛用していた狩猟用の古い散弾銃を持ち出して、それを武器に相手を次々と殺していくのである。途中で助け舟を出してくれた人々にも頼らない。あくまでも自分が妻子の仇をとることにこだわるのだ。かれはドイツ兵を殺しながら、その合間に妻子の思い出に耽る。その追想の様子を、日本語のスタッフは重視して、「追想」という邦題をつけたのだろう。原題のLe vieux fusilは、古い散弾銃という意味である。

資本の蓄積は、剰余価値を資本に転化することによって促進される。資本の蓄積は資本の集積を生む。資本の集積とは、資本が外延的に拡大することを意味する。要するに資本の絶対的な量が増大することである。資本論第七編「資本の蓄積過程」は、資本の集積が労働に及ぼす影響を主として考察する。

岩波新書版「シリーズ中国近現代史」の第六巻「中国の近現代史をどう見るか」は、中国近現代史の出発点を19世紀初頭に求め、それ以降200年にわたる「歴史的・社会的歴史層」の特徴を剔抉したうえで、それを今日の中国を考える際のよりどころにするという方法をとっている。著者の言葉で言えば「200年中国」を展望した現代史の試みということになる。

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ダルデンヌ兄弟は社会の底辺で必死に生きる人々の姿を描き続けた。2012年の映画「少年と自転車(Le gamin au vélo)」は、親に捨てられた子供と、その子の里親になった女性との心の触れ合いを描いた作品だ。じつに考えさせられるところの多い映画である。

菅首相が学術会議の委員6人の任命を拒否した問題が、大きな騒ぎになっている。雑誌「世界」の最近号も、この問題を特集した。寄せられた意見はおおむね批判的で、中には菅政権の体質にファシズムの匂いを嗅ぎつけるものもあるが、小生がもっとも腑に落ちたのは、片山善博氏の見解だ。片山氏は、この問題を大袈裟には見ずに、単に菅政権の単純な手落ちとして見ている。

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(67景 逆井のわたし)

逆井の渡しは旧中川にあったもので、今の大島と西小松川を結んでいた。竪川に沿った佐倉街道の渡し場だった。佐倉街道は小松川から小岩を経て市川に向っていた。千住大橋ができると、千住を経由して小岩へ出る道が開かれ、それが佐倉街道と呼ばれるようになったので、逆井の渡し付近は元佐倉街道と呼ばれるようになった。

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「マルタとマリアの家のキリスト」と題するこの絵は、前景に料理する二人の女を、後景に三人の人物を配した複合的な画面になっている。絵のタイトルは、後景の図柄を説明したもの。この図柄が、絵であるのか、窓を通した外部の光景なのか、それとも後の「ラス・メニーナス」を思わせる鏡の中の像なのか、断定的なことは言えない。

柳宗悦は、他力を自力と比較する一方、他力内部の発展について分析する。柳は他力を代表する信仰として、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗を上げるのであるが、これら三つの宗派を並行的に並べるのではなく、発展の各段階として見る。しかして一遍の時宗を、他力門の発展の頂点とする。時宗はいまや勢力が衰え、浄土宗や浄土真宗に比較して信者も少ないのであるが、しかし宗旨のうえでは他力門の行き着くところまで発展したものだという見方を柳はするのである。もっともこの三つの宗派は、いずれも不可欠のものであって、どれを欠いても三者は互いにその歴史的意義を失う、と柳は言う。

アメリカ大統領選の開票作業が大詰めを迎え、バイデンの勝利が確定したと報じられている。ところがトランプは、多くの不正が行われたと根拠のないデマをとばし、敗北を認めようとしない。徹底的に戦って勝利して見せると豪語さえしている。そこで野次馬連中の中には、トランプが一連のテクニックを弄して、逆転勝利する可能性を云々するものもいるが、じっさいには、そんな事はおこらないだろうと、一般に受け取られている。

資本論第一部第七編は「資本の蓄積過程」と題して、剰余価値の資本への転化を論じる。剰余価値の資本への転化は、資本主義的生産の拡大、つまり拡大再生産をもたらし、それによって資本主義経済の不断の拡大・発展をもたらす。資本主義経済は、拡大するように宿命づけられているというのがマルクスの基本的見解である。それは今日の主流派の経済学も共有している見解だ。経済はつねに右肩上がりに成長していくことを、経済学は暗黙の前提にしている。経済が成長しないで停滞状態にあるというのは、不健全であることを超えて、ありえないことだと認識されるのである。停滞は安定とは違う。安定とは適度な成長を意味するのだ。

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ダルデンヌ兄弟の2008年の映画「ロルナの祈り(Le silence de Lorna)」は、アルバニアからベルギーにやってきた女性の、移民としての生き方を描いた作品だ。移民には出稼ぎ気分の者と、移民先の国民として迎えられることを願う者とがいるが、移民先の国民の資格をとることは非常にむつかしい。また、その資格をとったとしても、ドイツに住むトルコ人のように、ドイツ人社会から疎外されている者もいる。そうした移民問題の深刻さの一端を、この映画は考えさせてくれる。

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(65景 亀戸天神境内)

亀戸天神は、正保三年(1646)に太宰府天満宮から勧請したのが始まりというから、比較的新しい。太宰府天満宮を模した社殿とか、心字池や太鼓橋を配し、東の大宰府などと呼ばれた。境内には、天神のシンボル梅のほか、藤が植えられ、そちらのほうが人気を博した。毎年初夏に藤が咲くと、大勢の人々が花見に訪れた。かの正岡子規も病身に鞭うって藤見物に来た。

莫言がノーベル文学賞を受けた時、受賞理由として「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」と説明された。後段の部分はある程度理解できる。民話というのは莫言が親しんだ中国の地方に伝わる民話なのだろう。歴史が中国史を指すのは間違いないようだ。その歴史を現代と融合させているとは、中国というのは常に過去と切り離しえないということであろう。つまり、莫言という作家は、中国という国と切り離しえない、極めて民族色豊かな作家ということになる。その辺は、村上春樹を始め、民族性を超越したコスモポリタン風の文学を追求する現代の人気文学とは大いに異なる。

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ベラスケスは1617年3月に、パチェーコのもとでの6年間の修行を終えて独り立ちし、画家組合にも登録されて、画家としてのキャリアを始めた。19歳の年である。以後1623年10月に、国王フェリペ四世の宮廷画家に抜擢されるまでの6年間を、セビーリャを拠点にして活動した。

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子供の心のまま大人になってしまったような人間が、どの時代のどの国にもいるものだ。いまでもそういう人間が大国の政治指導者になっているのは珍しい眺めではない。ダルデンヌ兄弟の2005年の映画「ある子供(L'Enfant)」は、そんな人間を描いた作品だ。

資本主義経済システムにおいては、労働力も商品としてあらわれる。商品であるから当然価格がつく。労働力の価格は賃金という形をとる。その賃金はどのようにして決まるか。資本の利益を代弁する主流派の経済学は、賃金も労働に対する需要と供給のバランスによって決まるとする。これに対してマルクスは、賃金は労働力の再生産に必要な金額で決まるとした。

シリーズ中国近現代史⑤「開発主義の時代へ」は、1972年から2014年までの時期をカバーしている。いわゆる改革開放時代が主な対象である。中国の改革開放は、普通は1978年以降に始まると考えられているので、この時代区分の仕方は意外に思えるかもしれない。1972年といえば、毛沢東はまだ存命だったし、文革も終わっていないからだ。しかし、ニクソンショックや日中国交正常化は1972年のことだし、この年あたりから、中国の改革開放への動きが始まったと著者たちは見ている。毛沢東は教条的な印象が強いが、実際には複雑な人間で、経済発展を重視してもいた。そうした立場から改革開放の重要性も認識していた。だから、1972年を改革開放の開始時点と位置付けることに無理はないというのが著者たちの見方だ。

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ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌはベルギー出身の映画監督で、兄弟で映画作りをしている変わり種である。カンヌでパルム・ドールをとった1999年の映画「ロゼッタ(Rosetta)」は、かれらの代表作といってよい。ベルギーの下層社会で必死に生きる女性を描いている。

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(63景 綾瀬川鐘か淵)

綾瀬川は埼玉県内を流れ、墨田川が千住大橋の先で大きく湾曲する部分に流入している。いまでは荒川放水路によって、綾瀬川本流はそちらのほうへ合流してしまい、河口付近の一部が盲腸のような形で残っているに過ぎない。その盲腸部分のやや下流にあるのが鐘ヶ淵村だ。かつて鐘紡の工場があった。

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ディエゴ・ベラスケス(Diego Velazquez 1599-1660)は、スペイン最初の偉大な画家であり、また世界美術史上に屹立する巨匠である。様式分類上は、バロック美術の巨人ということになる。強烈な明暗対比とリアルな画風は、バロック美術の完成であるとともに、近代絵画を予感させるような先駆性を内在している。

柳宗悦は、民芸の研究者として知られている。その柳宗悦が念仏に深い関心を抱いたのは、宗教的な動機からではないらしい。本人が、自分は宗教的な人間ではないといっているから、それはそうなのだろう。その柳がなぜ、念仏に深い関心を寄せるようになったのか。それは民芸の担い手たちの多くが、念仏衆が言うところの「妙好人」の面影をたたえているからだと思ったことによると、本人は言っている。こんなすばらしい民芸を生む出すことができるのは、名もない人間でありながら、深い宗教心に支えられたその生き方が、作品となって表現されるからだ。そんなすばらしい生き方を、念仏が実現している。そう考えたからこそ柳は、念仏に深い関心を持つようになったということらしい。

労賃という概念は、アダム・スミスに始まる古典派経済学に特有の概念だとマルクスは言う。労賃は、労働力の価値ではなく、労働の価値によって基礎づけられる。人間そのものの価値ではなく、人間の一定の労働に対して支払われる価格、それが労賃だと言うわけである。そうすることによって古典派経済学は、労働力という商品に含まれている価値と使用価値、それに対応する支払賃金と不払い賃金の対立・矛盾といったものを覆い隠す、とマルクスは批判するのだ。

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市川準の2005年の映画「トニー滝谷」は、村上春樹の同名の短編小説を映画化したものである。原作にほぼ忠実で、違う所はエンディングに多少の演出が加わっていること。原作はトニーが天涯孤独の身になったところで終わるのだが、映画では妻のかつての恋人が登場していやみをたらたら言ったり、トニーが女を解雇したことを後悔するシーンが加わっている。これらは小説としては全く不要なものだが、映画には、全体を引き締める効果があるかもしれない。

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