2021年1月アーカイブ

コロナ騒ぎの中で一番流行った言葉は「自粛警察」だろう。小生はこの言葉で、普通の人間が正義を振りかざして隣人を取り締まろうとする動きをイメージしていた。ところが実際はそんなに生易しいものではないようだ。昨夜NHKが新宿歌舞伎町における飲食業の実情を特集していたが、それを見ていて、かれら歌舞伎町の飲食業者たちが怖れているのは、取り締まりにあたる当局と、それと一体となった警察だということが伝わって来た。つまり本物の警察がかれらを脅かしているというわけである。

マルクスの利子論は、主に二つの主張からなっている。一つは、利子は利潤の一部であること、もう一つは、利子は貨幣資本家と産業資本家の利潤の分配をめぐる戦いで決まるもので、利子率決定の自然的法則は存在しないということ。これに、利子は利潤にその源泉をもつにかかわらず、一般の目には、貨幣の固有の果実として、価値を生む価値として、それ自体が独立した実体のようなものと捉えられる、という主張を合わせれば、マルクスの利子論のほぼ全体像が浮かび上がって来る。

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デヴィッド・リーンの1984年の映画「インドへの道(A Passage to India)」は、イギリスによるインド支配の一側面を描いた作品である。イギリス人は支配者としてインド人に君臨し、クラブと称する自分たちだけの閉鎖的な社交界を作ってインド人を蔑視している。そういう中にも良心的なイギリス人はいて、インド人に対して公平に接しようと考えている。そうしたさまざまな人々の生き方を通じて、植民地支配の問題を考えてもらおうという意図を感じさせる作品である。

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(113景 虎の門外あふひ坂)

赤坂の溜池が外堀と接するところは段差になっていて、ちょっとした瀑布状を呈していた。また、その瀑布に沿って勾配状になっており、あふひ坂と呼ばれた。

「三人関係」は多和田葉子の第二作。デビュー作の「かかとを失くして」と比較すると趣向の違いを感じさせる。まず文体があっさりとした感じになった。「かかと」のほうは、谷崎の饒舌体を思わせるような、息の長いねっとりとした文体で書かれていたのに対して、こちらはどういうこともない普通の文章である。その普通の文体で、かなり現実離れした話が展開していくので、読んでいる方としては、からかわれているような気分にさせられる。不思議な小説である。

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フェリペ四世は、1649年にオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナと再婚した。マリアナはもともとフェリペ四世の息子で皇太子であったバルターサル・カルロスの婚約者だったが、バルターサル・カルロスが死んだため、跡継ぎのいなくなったフェリペ四世が、自分の妻にしたのだった。結婚したとき、マリアナはまだ十四歳だった。叔父と姪の近親結婚であった。

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デヴィッド・リーンの1965年の映画「ドクトル・ジバゴ」は、ソ連の作家ボリス・パステルナークの同名の有名な小説を映画化したものである。この小説は、ソ連国内で発表できず、1957年にイタリアで発表されたのだが、早くもその翌年にノーベル賞を受賞した。それにソ連側が強く反発、パステルナークに圧力をかけて、受賞を辞退させたといういきさつがある。当時は東西冷戦の絶頂期で、互いに体制間競争をしていた時代なので、パステルナークのこの小説は、そうした政治的対立に巻き込まれたというわけである。

プーチンの宿敵といわれるアレクセイ・ナヴァーリヌイが、あやうく毒殺されかかって一命をとりとめたことは、世界中を賑わせた。そのかれが、ドイツでの治療を終えてロシアに返った途端に逮捕されたというので、世界中で非難が高まる一方、ロシア国内では各地で釈放を求めるデモが繰り広げられ、数千人が拘束されたという。ロシアとしては近年にない民衆の政権批判の動きだ。この動きは、プーチン体制に穴をあけることにつながるのか。

資本主義的経済システムにおける利子は、利潤の一部である、とマルクスは主張する。資本家が、自分自身の所有する貨幣で事業を行う場合には、その果実としての利潤は、すべてかれの懐に入る。ところが、自分では貨幣を所有せず、他人から借り入れて事業をする場合、その果実たる利潤のすべてを独占するわけにはいかない。かれはその利潤を、貨幣の貸し手と分け合わねばならない。でなければ、必要な貨幣を調達することができないからである。このことから、資本主義経済システムにおける利子は、資本家が貨幣資本家と産業資本家(あるいは機能資本家)の二つに分かれることから生じる、と言える。

1894年から翌年にかけての日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日中間の軋轢のクライマックスともいうべきものだった。日本側では、天津条約にもとづいて朝鮮から撤兵した後も、朝鮮への影響力を高めようとさまざまな動きを見せ、また将来清国と対立することを予想して、清国に関する情報を集めていた。一方清国側には、あいかわらず大国意識が強くて、日本を対等の相手と見ず、そのおごりが禍して、日本に関する情報を集めようとする様子も見えなかった。清国のそうした驕りは、袁世凱の軍隊が日本の軍隊に勝ったことにも支えられていた。

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アメリカの田舎者がヨーロッパの古都に「海外旅行」し、旅の恥の掛け捨てとばかり、さまざまな愉快な体験をするという趣向の映画が、戦後数多く作られた。「パリのアメリカ人」は、その典型的なものである。これは、第二次大戦中にヨーロッパ戦線で戦った米兵とその周囲の人たちが、戦争の思い出を含めて、ヨーロッパへのノスタルジーを掻き立てられたためであろうと思われる。

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(111景 目黒太鼓橋夕日の岡)

目黒の太鼓橋は、目黒駅から行人坂を下って目黒川にかかっている橋。横から見ると太鼓のように見える石造りの橋である。江戸市中で石造りの橋は珍しかったから、人びとが目黒不動に参るついでに訪れたようだ。

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「裸のヴィーナス」は、現存するベラスケス唯一の女性裸体画である。制作時については諸説あるが、第二次イタリア滞在時とするのが説得的だ。というのも、女性の裸体画は、当時のスペインではタブーになっていて、大っぴらに描くことはできなかった。それに対してイタリアでは、女性の裸体画は絵画の主要なモチーフの一つになっていたのである。そんなイタリアの動向に刺激されて、ベラスケスがイタリア滞在中にこのエロティックな裸体画を描いたというのは、非常にありうることである。なお、ベラスケスはこの滞在中に、私生児を設けている。イタリアの開放的な雰囲気に流されたのであろう。

「見宝塔品」第十一は、「法師品」第十に引き続き、法華経の功徳を説く。法華経は、釈迦仏の教えを説いたものであり、これを読めば釈迦仏自身から教えを受けたと同じ功徳があるとされる。だが、その釈迦仏の教えは、たんに釈迦仏その人の教えたるにとどまらない。というのも、仏は釈迦仏に先立つ永遠の昔から無数に存在し、それらの仏はみな同じ教えを説いていたからだ。つまり法華経とは、すべての仏の教えに共通する教えなのだ。そのことを強調するために、「見宝塔品」は、過去仏としての多宝如来を登場させるとともに、同時代のさまざまな仏国土を主宰する無数の仏を登場させて、釈迦仏を含むすべての仏が、同じ教え、すなわち法華経を説くさまを語るのである。

マルクスが「貨幣取引資本」と呼ぶものは、今日金融資本とか金融機能とか呼ばれるものである。金融資本には、一般の商業銀行のほかに、証券、保険、投資銀行などが含まれるが、マルクスはこのうちもっぱら商業銀行を念頭において考察している。商業銀行が行う基本的な機能は、産業資本家のために、あるいは産業資本家にかわって貨幣を蓄蔵し、その蓄蔵した貨幣を産業資本家の必要に応じて用立てることである。

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ポン・ジュノの2019年の映画「パラサイト 半地下の家族」は、韓国映画としてははじめてカンヌのパルム・ドールをとったし、アカデミー賞のグランプリもとった。ポン・ジュノ自身は、すでに高い評価を得ていた映画人だが、この映画を通じて、韓国映画を国際レベルへ引き上げるとともに、自分自身も国際的な巨匠としての評価を勝ち取った。

国連が主導した核兵器禁止条約が2021年1月22日を以て発効した。米ソはじめすべての核保有国と唯一の被爆国である日本が参加していないので、その有効性を疑問視する見方もあるが、しかし全く無力というわけでもない。核兵器の非人道性が確認され、その使用はもとより、保有や開発まで禁止しているので、実際に核兵器を使用しようとする者には一定の抑止効果があるといえる。条約によって拘束されていなくとも、その行使が非人道的な行為として国際社会に糾弾されるからだ。誰も悪人呼ばわりされることを、ヒトラーやトランプのような者を別にすれば、好んでする者はいないだろう。

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(109景 南品川鮫洲海岸)

南品川あたりの海岸地帯を鮫洲といった。いまでは陸運事務所や高専がある場所として知られているが、徳川時代には海苔の産地として有名だった。海苔はもともと墨田川の河口で養殖されていたが、江戸の市街地の拡大で需要が増えると、品川沖が一大産地となった。その品川沖でとれた海苔が、どういうわけか浅草海苔と呼ばれるようになったのである。

「かかとを失くして」は、日本の文学空間においては、ちょっとしたセンセーションだったようだ。村上春樹が「風の歌を聞け」でデビューして以来のことではなかったか。村上の場合には、自分自身に起きて欲しいが、色々な都合を考えればそうもいかないようなことを、いわゆる飛んでる文体でさらりと描いたものだが、多和田の場合には、自分には決して起きて欲しくないが、しかしなんとなく巻き込まれそうなことを、かなり浮世離れした文体で、ねっちりと描き出した。そこが当時の日本人にはセンセーショナルだったのではないか。

東京五輪まであと半年に迫った。だがコロナ騒ぎは終息するめどが立っていない。やっとワクチンが実用化されたが、世界中にいきわたるのは当分先のことだ。日本でも接種がいつ本格化できるか、(河野太郎大臣によれば)めどがたっていないという。そういう状態で、菅首相は五輪の開催に依然前のめりの有様だ。

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1649年の秋から約二年間、ベラスケスは二度目のイタリア旅行をする。王室を飾るための美術品収集が主な目的で、そのため王室による公務出張というかたちをとった。ベラスケス用に馬車が一台用意されたほかに、美術品を運ぶための騾馬も交付されるという破格の待遇だった。

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ポン・ジュノの2013年の映画「スノーピアサー」は、アクション仕立てのSF映画である。一応韓国映画ということになっているが、様々な国の俳優が演じ、言葉もさまざまである。というのもこの映画は、地球の破滅を生き残った人間たちの物語なのである。生き残った人間が一台の列車を拠点にして、地球をグルグル回っている、という想定だ。その生き残った人間は、さまざまな民族を集約しており、したがって多国籍な社会を構成しているわけである。

世の中のルールや人間の倫理的感情を一切無視して、自分の個人的な利益のためにはどんな悪事も躊躇わない人間をならず者と定義するなら、トランプはならず者そのものだった。この男は、アメリカ大統領という地位を利用して、自分の個人的な利害のために悪事の限りを尽くした。それを大多数のアメリカ国民から非難されて、大統領の地位から追われると、最後まで抵抗し、あまつさえ暴力によって自分の地位を保とうとまでした。人類史上希に見るならず者であり、近年これに匹敵するのはわずかにヒトラーだけであろう。

商業部門における労働をマルクスは「商業労働」と呼んでいる。商業労働の内実は流通をすみやかに実現するということである。ところでこの流通というプロセスは、それ自体では剰余価値を生まない。剰余価値を生むのは、商品生産に投ぜられた労働であって、流通に投ぜられた労働は、それ自体としては剰余価値を生まないのである。商業労働が剰余価値を生まないのであれば、それは剰余労働を含んでいないのだろうか。含んでいるのである。商業労働といえども、その価格すなわち労賃は、その(労働力の)生産に必要な費用である。ところが実際に行われる労働は、その労賃、すなわち労働の支払い部分を超えて行われる。この超過の労働部分が剰余労働にあたる。しかしこの剰余労働は、新たな剰余価値は生まない。では、剰余労働はどんな働きをするのだろうか。それは、剰余価値は生まないが、その価値の実現に寄与するというのがマルクスの考えである。生産と生産物の価値の実現とは異なったレベルの事象だ。剰余価値が実際に実現するためには、売れなければならない。売れてはじめて剰余価値としての意味を持てる。その売るためのプロセスが流通の機能なのだが、その機能を通じて剰余価値が実現される。商業労働は、その剰余価値の実現を媒介するというのがマルクスの考えなのである。

明治維新後の日本と朝鮮との関係は、日本における征韓論の高まりという形で始まった。征韓論を主唱したのは西郷隆盛だ。かれの理屈は、表向きには、日本の開国要求に韓国が応じないので、武力で応じさせようというものだった。日本が西洋列強に対して、武力で開国させられたと同じように、日本も武力を用いて朝鮮を開国させようという理屈である。表向きにはそういう理屈だったが、本音では別の意図もあった。武士が封建的特権を次々と奪われていく趨勢を前に、武士の存在価値を高めるためには、対外的な武力行使が一番効果的だと考えたのである。

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ポン・ジュノンの2009年の映画「母なる証明」は、殺人罪で逮捕された息子の無罪を証明しようとする母親の必死の努力を描いたものだ。真犯人は誰か、をテーマとする点では、推理ドラマといってよい。推理ドラマは普通ドライなタッチで描かれるものだが、この映画の場合にはかなりウェットである。というのも、息子を溺愛する母親の、息子への愛が映画を推進する動力になっているからだ。

菅政権がコロナ対策の推進を目的として関連法案の改正を打ち出した。目玉になるのは、事業者がお上の命令に応じなかった場合の過料と、入院を拒んだ者への刑罰だ。前者の過料については、小生にも理解できないわけではないが、後者の刑罰については、全く賛成できない。

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(107景 深川洲崎十万坪)

深川は、墨田川右岸の湿地帯を埋め立てて陸地になったところだ。深川八郎右衛門なるものが家康の命で埋め立てたところから、深川と呼ばれるようになった。埋め立てはユニークな方法を用いた。地区に縦横に水路を掘り、その掘った土を湿地に埋め戻したのである。これによって、水運を担う水路と陸地が二つながら得られたわけである。

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ベラスケスはフラガ滞在中に、矮人の肖像画も制作した。王自らそれをベラスケスに命じたようである。というのも、絵の完成後に、マドリードに発送するための木箱の調達を臣下に命じているからである。おそらく王気に入りの、道化役の矮人だったのだろう。

法華経を構成する各章を、内容的・成立年代的に分類すると三つの部分からなると先述した。最も古層に属するものは「方便品」第二から「授学無学人記品」第九までの八章で、これは仏弟子たちの成仏を約束する授記を中心にしていた。どんな人も成仏するための資格をもち、それは人間に生まれながらに備わっている仏性の賜物だというのが、これらの諸章を貫く根本思想だった。

商業資本をマルクスは商人資本と呼び、商品取引資本と貨幣取引資本とをそれに含めている。より重要なのは商品取引資本である。貨幣取引資本は、基本的には、商品取引を媒介するにすぎない。商品取引資本とは、資本の運動を構成する生産過程と流通過程のうち、流通過程の機能が独立したものである。資本主義の低い発展段階では、生産者自身が流通の機能を実行しているのであるが、それによって、資本主義的生産は大きな制約を受ける。なぜなら、流通過程に費やされる時間は、生産が中断されるからである。これを第三者に任せて、生産に専念すれば、余計な手間が省ける。そのことによって、生産をスムーズに行い、また規模を拡大することもできる。というわけで、商品取引資本は、資本主義的生産にとって、必然的なものなのである。

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ポン・ジュノの2006年の映画「グエムル-漢江の怪物」は、韓国版ゴジラといった作品だ。ゴジラの場合には、水爆実験の結果怪物が生まれ、それが人類に対して科学利用への反省をせまったものだが、この映画の場合には、化学物質による汚染で怪物が生まれ、それが人類に破壊的な攻撃を加えるというものだ。水爆実験はアメリカがやったことだったが、この映画の中でソウルの河川漢江を科学物質で汚染するのは在韓米軍ということになっている。ポン・ジュノには、在韓米軍に対する反感があるようだ。

画家の安野光雅が94歳で死んだそうだ。小生は安野の大ファンで、画集はだいたい買い揃えてある。また毎年のカレンダーには、いわさきちひろのものと並んで、安野のシリーズものを壁にかけて楽しんでいる。

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(105景 御厩河岸)

御厩河岸は、墨田川右岸の吾嬬橋と両国橋の中間程のところにあり、いまの厩橋の浅草側の橋詰あたりをさした。このあたりに幕府の厩があったので、御厩河岸と呼ばれるようになった。

多和田葉子はノーベル賞に最も近い日本人作家だそうだ。その理由はおそらく、21世紀の国際社会の現実をもっとも色濃く体現しているということにあろう。20世紀が国家間の戦争に明け暮れた世紀とすれば、21世紀は、人々が国境を超えて歩き回るような、いわゆるグローバル化された世界である。グローバル化された世界は、究極的には個人の背景にある国境というものを無化する方向に働くと思うのだが、いまはそのグローバル化が始まったばかりなので、個人はまだ国籍を背負った状態で、互いに接しなければならないような状態にある。そうした中途半端なグローバル化の状態を、多和田は典型的な形で表現しているのである。

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ベラスケスは1643年の1月に、王室侍従代に任命される。王の側近中の側近の職であり、ベラスケスが長年願っていたポストである。このポストは多忙を極め、そのために絵画制作のための時間をさかれることになった。1640年代半ば以降、ベラスケスの作品は極端に少なくなるのである。

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ポン・ジュノの2003年の映画「殺人の追憶」は、猟奇殺人事件をめぐるサスペンス映画である。普通のサスペンス映画では、謎は最後には解消されるのだが、この映画では解消されないままに終わる。それは犯人の狡猾さよりも、警察の無能によるものだというメッセージが伝わって来るかぎりで、かなり反権力的な所を感じさせる。その警察は、自白を捏造する一方、今日では科学捜査のイロハであるDNA鑑定の能力もないということになっている。とにかく全くいいところがないのだ。

日頃小池都知事に厳しい意見を述べている元都知事の舛添要一が、コロナ騒ぎをめぐる小池都知事の対応ぶりを批判して、権限があるのに行使せずに、都民や政府に責任を丸投げするのでは、馬鹿でも都知事がつとまる、と強く批判した。これを読んだ小生は、その馬鹿には、そう言っている本人も含まれているのではないかと思った次第だ。

資本の有機的構成が高くなると、利潤率は低下する。資本の有機的構成が高くなることは、可変資本に比較して不変資本の割合が高くなることを意味するが、それは必然的に利潤率の低下をもたらすのである。なぜなら、利潤率は費用価格に比較した利潤の割合だが、その費用価格が高まれば、それと比較した利潤の割合すなわち利潤率が低下するのは論理必然的なことだからである。

琉球王国は、徳川時代を通じて、薩摩藩の支配を受けると共に、清国にも冊封関係を通じて服属していた。したがって、明治政府としては、清国への服属を解消して、全面的に日本の支配下に置くことが課題となっていた。そんな折に、1871年に琉球人が台湾先住民によって殺害されるという事件が起きた。台湾南部に漂着した宮古島の船に向かって、現地の住民が襲撃を加え、54人が殺されたのである。

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韓国映画が国際的に評価されるようになるのは21世紀に入ってからだ。ポン・ジュノはその代表選手といったところ。2019年には「パラサイト 半地下の家族」がカンヌでパルム・ドールをとった。かれの作風は、韓国社会の矛盾をコメディタッチで描くというもので、社会派の監督と言ってよい。長編映画デビュー作である2000年の「ほえる犬は噛まない」には、かれのそういった傾向が早くも強く現われている。

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(103景 千住の大はし)

千住は奥州街道の一つ目の宿場であった。また日光街道や水戸街道も千住を通ったので、交通量は非常に多かった。参勤交代でこの宿場を利用した大名の数は、64家に及んだ(寛永期の場合)。そこで家康は、防衛上の観点から江戸の周囲に橋を設けない方針にかかわらず、ここだけは橋を作らせた。千住大橋である。

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トーレ二階の第八室には、ベラスケスの三点の絵画が並んで飾られていた。メニッポス、イソップ、マルスの三点である。メニッポスは解放奴隷出身の風刺作家、イソップもまた同様である。これに対してマルスは、ギリシャ神話の英雄である。いづれもギリシャ人ではあるが、実在と神話という相異なった背景をもっている。この三つがなぜセットになっていたのか、たしかなことはわからない。

「授学無学人記品」は「学無学人授記品」とも標記できる。「五百人弟子授記品」の「五百人弟子」のところに「学無学人」を入れた形である。意味は「学無学人」への授記ということ。「学無学人」とは学人と無学人を意味する。学人はこれから学ばなければならない人、無学人はもはや学ぶべきものがない人をいう。この章は、そうした人々二千人への授記について語られる。舎利弗への授記に始まった一連の授記が、これで一応の締めくくりを迎えるわけである。なお、この後に、「提婆達多品」で提婆達多へ、「勧持品」で喬答弥と耶輸陀羅への授記が行われて、法華経における授記はすべて終了する。

利潤が平均利潤に転化するのは、個別資本にとっての費用価格が社会的な平均としての生産価格に転化するからである。それらをもたらすのは競争である。競争は需要と供給の外観のもとで行われる。需要の多いところには資本が集中し、その逆の場合には逆の事態が起こる。その結果、商品価格は需要と供給が一致するところに落ち着く。こういう外観があるために、個別資本家にとっても又資本の代理人である経済学者にとっても、需要と供給のバランスこそが商品価格決定の要因だというふうに映る。しかし、それは現象の外観に目を奪われた皮相な見方だとマルクスは批判する。

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遠藤周作の小説「沈黙」は、世界中のさまざまな言語に翻訳されて、日本文学としては国際的な反響の大きかった作品である。中には、これを20世紀を代表する優れた小説だとするグレアム・グリーンの肯定的な評価などもあったが、おおよそは批判的な反応が多かった。というのも、この小説が取り上げた、宣教師の棄教というテーマが、キリスト教社会においては、あまりにもスキャンダラスに映ったからだろう。キリスト教の伝道の歴史においては、殉教は輝かしいものとしてたたえられる一方、棄教は悪魔への屈服として、嫌悪を持って受け止められたのである。

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(101景 浅草田甫酉の町詣)

吉原は周囲に田甫が広がっていた。浅草田甫という。その西南方向の一角に、お酉さまで有名な鷲神社があり、毎年十一月の酉の日に祭礼が行われ、酉の市が催された。酉の市では、熊手のほか、ヤツガシラの芋とか、黄金餅などが、縁起物として売られていた。いまでも、熊手は商売繁盛のまじないとして人気がある。

新潮文庫版の邦訳「ロリータ」には、大江健三郎によるあとがきが付されている。あとがきから読み始めることを日頃の習性にしている小生は、この場合にも大江のこのあとがきから読んだ次第だったが、大江がなぜ、「ロリータ」のためにあとがきを書く気になったか、それはこのあとがきを読んだだけでは明らかにならなかった。たまたま自分の生まれた年がロリータのそれと一致していたとか(両者とも1935年)、小説の導入部分でアナベル・リーへの言及があるが、アナベル・リーこそは自分の青春のあこがれだったとかいったことが書いてあるだけだ。ただ、自分は、ロマンチックな小説を生涯書いたことがないが、「ロリータ」はもっともすぐれたロマンチック小説として、うらやむべきものと思っている、というようなことを書いているので、大江は「ロリータ」をロマンチックな小説として捉えているようである。

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「道化カラバシーリャス」と題するこの絵も、トーレ二階第一室を飾っていた作品の一点。カラバシーリャスとは、ヒョウタンを意味するスペイン語カラバスから派生した綽名であり、本名はわかっていない。経歴としては、枢機卿フェルナンドに仕えたあとで、フェリペ四世の下僕になった。

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マーティン・スコセッシの1978年の作品「ラスト・ワルツ」は、ロックバンド「ザ・バンド」が解散記念に催したラスト・ライブのドキュメンタリー映像である。ザ・バンドのリーダー、ロビー・ロバートソンがプロデュースしているから、かれらが望んで記録映画を作ったということだろう。

利潤と剰余価値は、量的には同じものである。利潤率と剰余価値率は違う。剰余価値率は、可変資本(労賃)と比較した剰余価値の割合をあらわすのに対して、利潤率のほうは前貸し資本としての費用価格すなわち不変資本プラス可変資本と比較した利潤の割合をあらわすからである。だから、利潤率は常に剰余価値率より低くなる道理である。しかも利潤率は、全産業を通じて平均化される傾向がある。競争が働くからである。産業間で利潤率にデコボコがあれば、資本の流動が円滑に行われるという前提のもとでは、利潤率の高い分野に資本は流れる。そうした動きが利潤率を平均化させるのである。マルクスは資本論第三部第二編「利潤の平均利潤への転化」において、個別の利潤率がいかにして平均化されるか、そのメカニズムを分析している。

明治維新を経て成立した明治新政府は、幕末に列強との間に取り結ばされた不平等条約に悩んでいたが、清国との間では、少なくとも対等の立場から条約を結びたいと考えていた。もし可能なら、少しでも日本に有利な条件で。たとえば、西洋列強を意識して、日本にも最恵国待遇を要求するといったことである。それに対して清国側は、日本との条約締結は時代の趨勢で避けられないと認識しながら、西洋に対して行ったような譲歩をするつもりはなかった。こちらはこちらで、なるべく自国の有利になるような条約の締結を目指していた。

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1981年のアメリカ映画「黄昏(On Golden Pond)」は、アメリカ人の家族関係をわかりやすく描いた作品だ。小生はこの映画を見ながら、小津の「東京物語」をたえず想起した。この映画に描かれた家族家系が、小津の描く日本人の家族関係とあまりにも対象的で、色々考えさせられることが多かったのだ。

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(99景 浅草金龍山)

ここから先が冬の部。金龍山は浅草寺の山号。大昔に天からこの地に金鱗の龍が舞い降りて来たという伝説にちなんだもの。浅草寺は大化元年(645)の創建で、江戸でもっとも古い寺だ。徳川時代には、大勢の庶民を引き寄せたが、それには周辺にあったいくつかの遊興施設が大いに働いていた。

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レティーロの離宮の造営とほぼ並行して、マドリード北部郊外にあったエル・パルドの狩猟場に塔が増築された。緑豊かな丘陵地にそびえたこの塔は、トーレ・デ・パラーダと呼ばれ、その内部には170点あまりの美術品が展示された。中心となったのは、ルーベンスとその工房の作品であるが、ベラスケスの作品も11点展示された。

釈迦仏は、舎利弗以下の高弟に授記したばかりか、大勢の比丘たちにも授記する。その数千二百人という。「五百弟子授記品」第八は、その様子を伝えたものである。釈迦仏はまず富楼那に授記し、ついで憍陳如以下五百人の比丘たちに授記し、さらにこれらの五百人を含んだ千二百人の比丘たちすべてに授記すると宣言する。題名を「五百弟子授記品」としたのは、釈迦仏とかれらとの譬喩をまじえたやりとりがこの章のハイライトとなるからである。その譬喩とは、「衣裏の宝珠」のたとえと呼ばれる。

資本論第三巻「資本主義的生産の総過程」は、剰余価値の利潤への転化についての分析から始まる。転化といっても、あるものが別のあるものに転化し、それに従って内実も変化するということではない。剰余価値も利潤も、その内実は同じものである。ただ呼び方が異なっているに過ぎない。しかし呼び方の相違は、概念の実質的な変化を伴なうのである。マルクスはそこに、資本家の立場からする現実的な利害と、資本家の立場を弁明する資本主義経済学の欺瞞を見る。

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1942年のアメリカ映画「偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons)」は、「市民ケーン」に続くオーソン・ウェルズの第二作である。「市民ケーン」では、新聞王といわれたウィリアム・ハーストをモデルに、アメリカの俄成金を描いたものだったが、第二作目もやはりアメリカの俄成金がテーマとなっている。一時は豪勢を極めた俄成金の一家が、あっけなく没落する過程を描く。それにアメリカ人流儀の恋がからむというわけだ。

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(97景 小奈木川五本まつ)

小奈木川は小名木川とも書く。行徳の塩を江戸に運ぶことを目的に掘られた運河である。行徳の塩は、江戸川から堀川を経て中川に至り、さらに小名木川を通って隅田川に出たのである。この運河を開削したのは小名木四郎兵衛だったので、彼の姓をとって小名木川と名づけられた。

西門鬧は、犬に転生して15年生きたことになっている。かれが犬として死んだのは1998年10月のことだから、犬として生まれたのは1983年のことだ。その年は改革開放時代が幕を開けた頃にあたり、以後中国は欧米化への道を突き進んでいったので、犬としての西門鬧はまるまる改革開放時代を生きたということになる。

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(狂言末広がり)

今年のNHK新春能楽の番組は、観世流の脇能「老松」の舞囃子と大蔵流狂言「末広がり」だ。NHKは近年能楽の放送をさぼるようになっていたが、ついに正月番組にまで手を付けて、能の番組を舞囃子で代用した。我々能楽ファンとしては、如何にも手を抜かれて残念な思いだ。

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レティーロ内には「道化の間」と呼ばれる部屋があって、そこには道化をモチーフにした作品が飾られていた。ベラスケスの作品も何点か飾られた。そのなかで最も有名なのが、「パブロ・デ・バリャドリード」と題するこの作品である。

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ジョージ・スティーヴンスの1951年の映画「陽のあたる場所「(A Place in the Sun)」は、セオドア・ドライザーの小説「アメリカの悲劇」を映画化したものである。原作はアメリカ文学史上もっともアメリカ的な文学だとの評価が高い。アメリカ的な文学とは、アメリカ的な生き方を描いたものということになろうが、そのアメリカ的な生き方とは、常にチャンスを求めて這い上がろうとする上昇志向の生き方をさす。原作の小説は、アメリカ人の一青年のそうした上昇志向と、その犠牲になった哀れな娘との不幸な恋を描いた。

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舎弟信隆儀昨年夏に六十八歳を以て他界致しました
ついては、当ブログ恒例の年頭挨拶を今年は遠慮させていただきます
その代りと言っては何ですが、先日描いた自画像を披露します
家人に示したところ、よく描けていると言われましたので
小生の葬式の際にこれを遺影写真代わりに使用するよう申し付けたところです
表情がすまして見えますのは、祭壇に飾ることを念頭に置いたためです
皆様のご多幸をお祈り申し上げます

壺齋老人 拝

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