2021年4月アーカイブ

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ドラクロアは、文学作品にインスピレショーンを得た作品を多く描いた。なかでもダンテとシェイクスピアが好きだった。出世作の「ダンテの小船」は、いうまでもなく「神曲」の一節から取材したものだし、「怒れるメデア」はエウリピデスの戯曲に着想を得た。「ハムレットと二人の墓堀人夫(Hamlet et deux fossoyeurs)」と題するこの絵は、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」から、有名な場面をイメージ化したものである。

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黒沢清の2003年の映画「アカルイミライ」は、前作の「回路」に続いて幽霊趣味を感じさせる作品である。この映画には、浅野忠信演じる男の幽霊が出てくる。映画のテーマはその男とオダギリジョー演じる男との、男同士の奇妙な友情を描く。その友情に、浅野の父親(藤竜也)がオダギリジョーに寄せる、友情とも父性愛ともわからぬ奇妙な感情がからまる。しかもそうした人間同士の感情の結びつきを、毒クラゲが媒介する。なんとも奇妙な映画である。

半世紀ぶりにベルグソンを読み返している。テクストは、学生時代に大学生協で買った岩波文庫。インクが退色して読みづらくなっているが、まだ読めないわけではない。このテクストにこだわるのは、かつての読書の跡が記録されているためで、横線や書き込みを手がかりに、読んだ本の内容を再現しやすいからである。はじめて読むよりは、理解が進みやすい。

日中戦争は始まるべくして始まったと言ってもよい。日本は朝鮮半島を植民地化し、更に満州を支配下に置き、華北地方までもぎ取ろうとする勢いを見せていた。当時の日本の支配者たちに、どれほど中国を侵略する明確な意図があったか、断定的なことは言えない。歴史上の出来事から推測する限り、日本の中国政策には、かなり偶然的な側面が指摘できる。だが、大局的に見れば、日本に中国支配の野望があったことは間違いない。日本人には、秀吉以来、中国大陸を支配したいという野望があり、それを維新の元勲たちも共有していた。その野望を昭和の為政者が受け継いでいたことは不思議なことではない。

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「ドレミファ娘の血は騒ぐ」から十年後、黒沢清は低予算映画のシリーズものを作った。「勝手にしやがれ」と題したシリーズもので、六本からなり、いずれも80分程度のこじんまりした作品だ。正義の味方を気取った二人組みの若者が、やくざ相手に活躍するといったもので、一時期流行ったやくざ映画のパロディと言ってよい。

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曽我蕭白といえば、無頼とか奇怪といった言葉が付きまとう。時には狂人と呼ばれたりもする。それには、蕭白を最初に本格的に研究した辻惟雄が、岩佐又兵衛らと並んで蕭白を「奇怪の系譜」に位置づけたという事情もある。たしかに蕭白の絵には、奇怪という言葉が相応しい作品が多い。なかには、明らかに酔っ払って描いたものも指摘される。人柄が絵に出ているという推測から、そんな奇怪な絵を描く画家は人物も奇怪に違いないと思われがちである。

シュンペーターは、マルクスに両義的な感情を持っていたようである。かれは、資本主義がそれに固有な内在的傾向によって社会主義に転化するとした点ではマルクスと同じ意見を持っていたのだが、それの具体的な理解の点で違っていた。マルクスは資本主義没落の原因を、それの抱える矛盾に求めた。その矛盾が資本主義への抵抗に火をつけ、没落させると考えた。いわば資本主義の失敗がその没落を招くと考えたわけだ。それに対してシュンペーターは、資本主義が没落するのは、その矛盾によってではなく、したがって失敗によってではなく、かえって成功によってだと考えた。資本主義が成功すればするほど、それは社会主義を招き寄せると考えたわけである。

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メデアはギリシャ神話の英雄イアソンの妻だ。イアソンがアルゴノートを率いてコルキスに赴いた際に、コルキスの王女であったメデアは、イアソンに協力して金羊毛を獲得させた。それ以後二人は愛し合い、メデアはコリントス王イアソンの妻となったのだったが、そのイアソンが自分を裏切って他の女を妻にしようとしたことに怒り狂い、その女を殺した上でイアソンをも殺そうとする。ところが愛するイアソンを殺すことが出来ず、その身代わりとしてイアソンとの間に生まれた二人の子どもを殺すのである。

薬王菩薩の前身たる一切衆生喜見菩薩は、現一切色身三昧という霊力を得ることができた。現一切色身三昧とは、相手に応じて姿を現し、相手に相応しい教えを与える霊力のことである。法華経の核心的な思想に方便というものがあるが、現一切色身三昧はその方便の具体的な現れであると言ってよい。「妙音菩薩品」第二十四は、現一切色身三昧の体現者としての妙音菩薩の業績について説く。同じような業績をあげた菩薩として、観音菩薩がある。妙音菩薩は三十四身に現じて衆生を救うのに対して観音菩薩は三十三身に現じて衆生を救う。また、妙音菩薩が東方浄土に住むのに対して、観音菩薩は西方浄土に住むとされる。この二人の菩薩は対照的なものとして捉えられているのである。

マルクスの「ブリュメール18日」への注釈「象徴と反復」の中で、柄谷行人はボナパルティズムについて考察している。かれはファシズムもボナパルティズムの一形態であると考えている。そのファシズムには日本の(全体主義の)例も含まれるとする。かえって日本の例も含んだファシズムを整合的に説明できる原理がボナパルティズムだと言うのである。

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坂上順治の2007年の映画「魂萌え」は、桐野夏生の同名の小説を映画化した作品だ。桐野の小説を小生はまだ読んだことがないが、ハードボイルドタッチの推理小説が得意だそうで、いまは最も人気のある作家の一人と言われる。その桐野にとって、「魂萌え」は代表作だそうだ。だが、彼女の得意とするたちの小説ではない。平凡な主婦の嫉妬と恋心を描いたものだ。少なくとも映画ではそうなっている。

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「黄粱一炊図」は、崋山の絶筆とされる作品。中国の故事「邯鄲の夢」に取材している。邯鄲の夢は、黄粱一炊ともいわれ、黄粱が炊き上がるまでの短い時間に、盧生という青年が見た長い夢のことをいう。その夢の中では、実に多くの出来事があり、非常に長い時間が過ぎたように感じられたが、実は黄粱が炊き上がるまでの非常に短い時間だった。人の生涯とは、それに似てはかないものだという寓意を込めている。

「百年の散歩」を読み出したとき、小生はこれを、都市歩きをテーマにしたルポルタージュのようなものとして受け取った。多和田葉子はベルリン在住の日本人作家だから、そのような資格において、日本人の読者のためにベルリンの街角を紹介しているのだろうと受け取ることができる。じっさいこの作品は、ベルリンについての洒落た案内になっているのである。小生は、一度だけベルリンに旅したことがあり、その折にはミッテ地区のアレクサンダー広場近くのアパルトメントに泊り、ローザ・ルクセンブルグ通りやケーテ・コルヴィッツ広場などを散策したものだ。この本にもそういった場所が出てきて、小生は自分の体験と重ね合わせながら、懐かしい気持で読んだ。しかしこの本は、ベルリンに行ったことがない人でも、読んで面白いものを持っている。

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ショパンとジョルジュ・サンドの恋は、芸術の歴史を彩る挿話だ。ジョルジュ・サンドは多感な文学者で、恋多き女であり、またフェミニストでもあった。フィミニストの立場から男性との平等な関係を追及し、たびたびパートナーの男を代えた。ショパンと出合ったときは三十四歳になっており、女ざかりの彼女はさっそく五歳年下のショパンを愛人にしたのだった。

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石井裕也の2010年の映画「川の底からこんにちは」は、生きづらい今の日本社会を懸命に生きる女性を描いたものだ。その生きづらさは、21世紀に入ってから顕著になったもので、小泉政権が旗を振った新自由主義的な政治の結果でもあった。その結果日本には深刻な格差社会が生じ、勝ち組と負け組とが明確に分かれた。勝ち組になれたものは大もうけが出来た一方、大部分の日本人は負け組に押しやられて、生きづらい世の中を生きるように余儀なくされた。そういう時代の風潮がよくわかるような映画である。

「強権中国の野望」とは刺激的な言葉だが、これは雑誌「中央公論」最近号の特集のタイトルである。文字通り、中国を強権国家と決め受け、それへの警戒心と対抗心をむき出しにした記事が多い。比較的穏健な中央公論でさえ、中国をこのように罵倒するのであるから、大衆向けの論調がどのようなものか、推して知るべしだろう。

熊野純彦は広松渉に学恩があるそうだ。その広松を通じてマルクスに接してきたらしい。哲学的なマルクス論というと、マルクスの初期の文章を手掛かりにして疎外論を展開するものと、資本論によって物象化論を展開するものとに大別される。広松は後者のタイプの研究者だったが、熊野はその広松の学風を受けて、資本論を中心にマルクス論を展開しているわけであろう。

満州に傀儡国家満州国を成立させ、満州支配の基盤を固めた日本は、ついで華北の侵略へと転じた。その突破口となったのは、熱河作戦(1933年)である。これは長城を越えて北京・天津を射程におさめた作戦だった。戦禍が北京にまで及ぶのを恐れた中国側の要望にもとづいて、塘沽協定が結ばれた。この協定で、冀東(河北省北東部)を非武装地帯とし、中国軍は駐在しないこと、また日本軍は長城線まで撤退することが定められた。これは長城線を以て日中の勢力圏の境界とするもので、日本による満州国の領有を事実上認めたものであった。それに加え日本は、長城線まで勢力圏を拡大することとなった。

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2006年公開の映画「かもめ食堂」は、どういうわけかフィンランドのヘルシンキを舞台に、現地で日本食堂を経営する女性の話を描いたものだ。小林聡美演じるその女性に、片桐はいりはじめ幾人かがかかわり、異国で生きる日本の女たちのたくましい姿が印象的な映画である。ヨーロッパを舞台に日本人を描くというのは、アイデアとしては陳腐だが、なぜか印象深い映画はほかに見たことがない。そういう点で、貴重な作品かもしれない。

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「蟲魚帖」は、崋山が田原蟄居中に、身辺の小生物を写生した画帳である。十二図からなり、それぞれに漢詩の墨書が添えられている。これらを崋山は、まず稿本の形で準備作業をしたうえで、正式な画帳にして、門人の椿椿山に贈っている。椿山なら、これらの絵に込めた自分の命をわかってくれるだろうと期待したからだが、しかし、その気持ちを公にしないで欲しいとも断っている。

シュンペーターは動態的な経済理論で知られる。景気循環や経済発展の傾向性を分析した。もともとは、ワルラスの一般均衡論に強い影響を受けたのだったが、それを前提にして経済の動態的な現象を分析したのだった。一般均衡論というのは基本的には静態的な分析手法を用いるのだが、それをシュンペーターは動態的な現象にも適用したのである。かれの動態的経済理論は、ケインズの経済政策理論と並んで、20世紀の経済学を牽引したといってよい。そのケインズの理論を、シュンペーターは停滞主義理論だといって強く批判している。停滞主義理論とは、経済発展(及びそれにともなう社会の変化)を考慮しない理論だという意味である。

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「タンジールの狂信徒たち(Les convulsionnaires de Tanger)」と題するこの絵も、モロッコ滞在中に実見した光景を描いたもの。タンジールは、フランス語ではタンジェといい、ジブラルタル海峡に面した港町である。ドラクロアが随従したモルネー伯爵の一行は、この町に寄港した後内陸部へ向かった。だからこの絵は、寄港後間もない頃に実見した光景を描いたと思われる。

法華経の教えを説いた本体部分は「嘱累品」第二十二で完結し、「薬王菩薩本事品」第二十三以後は、法華経の教えを実践した具体例が説かれる。これらを読むことによって、教えを頭で理解するだけでなく、体で受け止めるように意図されているわけだ。信者はこれらの具体例に、自分自身の宗教的実践の手本を見るのである。

ミャンマーの情勢が混沌としてきた。国軍によるクーデタに反発した市民に対して、国軍が厳しい弾圧を以て臨み、大勢の死者と逮捕者を出している。国軍が市民側に譲歩するか、市民側が国軍に屈服するか、そのどちらかが起らないかぎり、事態は収まりそうにない。今のところ国軍が譲歩する見込みはまったくないようだし、市民も屈服することはないようなので、事態はますます泥沼化する恐れがある。この調子だと、シリアのような内戦に発展するだろうと予想する向きもある。

マルクスの思想の哲学的な側面は、疎外論と物象化論に代表される。疎外論は、「ヘーゲル法哲学批判」から「経済学・哲学草稿」にかけての若い頃の思想を特徴付けるもので、人間のあるべき姿を想定した上で、それからの堕落形態を疎外と見るものだった。物象化論は、資本論で確立された思想で、人間同士の社会的な関係が、物と物との関係に見えるという資本主義社会に特徴的な現象を解明したものだった。この二つの思想の間には断絶があると見るのが主流になっているようだが、小生は連続していると見たい。物象化論は疎外論の一つの変奏だと見たいのである。物象化論もまた、人間関係の本来的なあり方を想定し、それからの堕落として物象化を論じているからである。

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2015年の日本映画「ゆずり葉の頃」は、岡本喜八の妻が旧姓中みねこの名義で発表した作品。これが唯一手がけた映画で、主演の八千草薫が企画の段階から協力したという。死期をさとった老女が、少女時代の思い出を探して歩き回るという趣向で、見るものをしてほんのりとした気分にさせてくれる。

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「月下鳴機図」は、崋山最晩年、天保十二年の作である。おそらく求められて描いたのであろう。タイトルの「月下鳴機図」には、英明な君主の存在が暗示されているところから、田原藩主への捧げものかもしれない。

「献燈使」は、近未来におけるディストピアを描いた小説だ。ディストピア小説といえば、オーウェルの「1984」が反射的に思い浮かぶ。そのオーウェルのディストピアは、専制権力による野蛮な支配がテーマだった。そんなディストピアなら、我々の周辺にいつ出現してもおかしくない。それだけに妙な切実感を以て迫ってくるところがある。人類規模のベストセラーになった所以だと思う。それに対して多和田洋子のディストピアは、政治的な要因で生じた世界ではなく、地球の物理的な破壊によって生じたようである。その破壊はどうやら原発事故によるものらしい。その結果、世界中の国々は互いに国境を閉ざしてしまったし、国内においても、都道府県相互の往来はタブーになってしまった。そればかりではない。人間の健康に重大な変質が起こった。老人たちは死ぬことができなくなって、いつまでも若者扱いされる一方、若い人たちは虚弱体質になって、元気な老人の介護なしでは暮らしていけなくなった。そういう倒錯した世界を、多和田のディストピア小説「献燈使」は描いている。

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タイユブールの戦いとは、1242年7月に、英仏戦争の一環として行われた戦闘である。この戦闘で、ルイ九世率いるフランス軍が、ヘンリー三世率いるイギリス軍に勝利した。「タイユブールの戦い(La bataille de Taillebourg)」と題するこの絵は、その勝利を記念する形で描かれたものである。

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「ミンヨン」は韓国人の若い女性の名、「倍音」はハーモニーのことである。この二つをタイトルに含んだ映画「ミンヨン 倍音の法則」は、ミンヨンという韓国人の若い女性がハーモニーについて語るというような内容である。それだけでは映画にならないから、ミンヨンが戦時中の日本にワープするという物語を絡ませている。ただワープするだけではなく、日本人女性に変身するのだ。

最近「人新生」という言葉を見かけるようになって、どんなことだろうと気にしていたところが、雑誌「世界」の最近号が、「人新生とグローバル・コモンズ」と題する特集を行った。何本かの小論文が寄せられており、それを読むと、人新生という概念の内容と、それとグローバル・コモンズとの関係がよくわかる。

資本主義が終わった後の時代の政治体制はどのようになるか。マルクスはこれを二段階に分けて考えていた。究極的なあり方としての共産主義社会の政治体制と、資本主義社会から共産主義社会への移行期における政治体制である。共産主義社会における政治体制は、階級が消滅した社会を前提としているので、階級支配の道具としての国家は消滅するというのがマルクスの基本的な考えである。国家が消滅するわけは、共産主義社会においては、経済的・社会的資源が無限大になるので、人々が相互に争う理由がなくなり、したがって利害調整の必要もなくなるから、利害調整のための機関である国家も不要になるからである。ではどのような政治体制が形成されるのか。これについてマルクスは確定的なことは言っていない。おそらく、人々に争う理由がなくなれば、政治そのものが存在意義を持たなくなるから、国家を含めあらゆるタイプの政治的な装置は意義を持たなくなると考えていたのであろう。

日露戦争に勝利した結果、日本は満州における利権を獲得することができた。ロシアが持っていた旅順と大連の租借権のほか、満州南部の鉄道の運営権を獲得した。日本はそれらの権益を土台にして、以後本格的な満州侵略に乗り出していく。しかし台湾や朝鮮の場合とは異なり、領有あるいは併合という形はとらなかった。満州国という傀儡国家をつくり、その傀儡を通じて実質的な支配を貫徹するという方法をとった。

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千本福子はテレビ作家として活躍したそうだ。その彼女が唯一劇場用に作った映画「赤い鯨と白い蛇」は、80歳近くで完成させた作品だ。五人の老若の女性を登場させて、それぞれの生きてきた過去や、またこれから生きていくであろう未来について、淡々とした口調で紹介するといったやり方で、テレビドラマの手法を生かしているように見える。

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「千山万水図」は、最晩年の崋山の心境を絵に託したものだと言われている。描かれているのは三浦半島で、その周辺を行く船は外国船だという解釈にたち、日本の海防の必要性を訴えたのではないかというのである。そう思えないこともないが、あるいは考えすぎかもしれない。

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、ドキュメンタリー作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。彼女はまたノーベル賞を貰ったはじめてのベラルーシ人でもある。彼女の仕事としては、戦争体験についての聞書きとかチェルノーブィリの原発事故の後日譚などが有名だという。「戦争は女の顔をしていない」は、彼女の最初の仕事であり、また代表作となったものだ。

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ドラクロアは、モロッコ滞在中の1832年2月21日に、タンジールの友人の紹介で、ユダヤ人の結婚式に立ち会うことができた。その折に、結婚式の様子を日記に記録し、また会場の様子や花嫁の姿を水彩画に描いた。それらをもとにして描いたのが「モロッコのユダヤ人の結婚式(Noce juive dans le maroc)」である。1837年ごろから41年にかけて製作され、1841年のサロンに出展された。

「嘱累品」第二十二は、法華経本体の最後の部分である。これを以て法華経の教えとその功徳の説明が完了する。「薬王菩薩本事品」第二十三以後は、法華経の教えを実践した人(菩薩)の業績が具体的に説かれる。その部分は、法華経本体が成立した以降、順次付け加えられていったものと考えられる。

20世紀に成立した社会主義諸国は、いずれもマルクス主義を標榜し、マルクスの経済思想を具体化したと主張した。マルクスは、資本主義後の経済システムのあり方を詳細に示したわけではないが、私有財産の廃止と財産の共同的な所有及び協同組合的な経済運営などをほのめかしていた。ソ連型といわれる社会主義経済システムは、マルクスのほのめかした考えを、私有財産の廃止と財産の国有化および国家による計画経済という形で具体化した。しかしそうした経済システムは、一時はうまく機能するように見えたが、結局は破綻して、市場経済システムに復帰する動きを強めた、というのが大方の了解になっている。つまり、国有企業を中心にした計画経済はうまく機能しないという了解が、資本主義諸国を中心にして強化されているわけである。

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2004年の映画「二人日和」は、年老いた男女の夫婦愛を描いたものである。不治の病に冒された妻を、夫が献身的に介抱しながら、互いの愛を確認しあうというような内容だ。内容そのものは、きわめて平凡だが、その平凡な内容が、美しい画面とゆったりとした時間感覚の中で展開されると、心を洗われたような気持になる。

先日、那覇の公有地にある孔子廟をめぐる訴訟への最高裁判決が出た。その概要を新聞で読んだ小生には、よく納得できないものがあった。孔子廟がたっている公有地を無料で貸し出すのは違憲だとしながら、孔子廟そのものの撤去は求めていなかったからだ。そこで一部の新聞は、土地の使用量さえ払えば違憲にはならないと解釈していたが、それでは孔子廟自体は違憲ではないということになる。いったいどういう法理になっているのか、疑問が残ったのである。

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「海錯図」も天保十一年蟄居中の作。「海錯」とは、生みのめぐみといったほどの意味。蟄居した田原は、愛知県の渥美半島にあり、海が近かったので、「海錯」が豊富だった。崋山は罪人扱いとはいえ、日頃から人々に敬愛されていたので、海の幸を差し入れする人も多かったと思われる。

多和田葉子は、22歳の時にドイツに移住して以来、ドイツ語を日常的に話す一方、日本人とも話し続けてきたわけで、要するにバイリンガルな生活を送ってきたわけだ。おそらくそのためだろう、言葉というものに常に自覚的だったようだ。そんな彼女が、「日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分を観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした」のが、この「言葉と歩く日本語」という本である。タイトルからは、主に日本語を論じているように伝わって来るが、それはドイツ語と比較したうえでの日本語なので、当然ドイツ語についても語っているわけである。

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ドラクロアは宗教画も多く手がけた。教会から注文を受けたこともあるし、またブルボン宮殿など壮大な建築物を装飾する作品も手がけた。「二人の盗賊の間のキリスト(Le christ entre les deux larrons)」と題するこの絵は、ドラクロアの宗教画を代表する作品である。

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2005年公開のドキュメンタリー映画「沖縄 うりずんの雨」のテーマは沖縄現代史。沖縄戦から戦後の軍事占領を経て、返還後の米軍基地の存在など、沖縄が抱えてきた苦悩を微視的に、つまり体験者の視点から見ている。監督はアメリカ人のジャン・ユンカーマンなので、多少のバイアスは感じられるが、おおむね問題の本質に迫っているのではないか。それはかれが、沖縄における米軍基地の存在を、日本の主権への侵害だと説明していることからもわかる。だが、米兵による沖縄人への虐待については、あまり多くを語りたがらない。

議会と革命

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ブルジョワ革命としてのフランス革命は、議会を舞台として起こった。革命以前のフランスは、基本的には絶対王政の体制であり、王の臣下たちが専制的な統治を行っており、議会などは存在しなかった。だから、ブルジョワは自分たちの政治的な代理人を持たなかったのである。そのかれらが曲がりなりにも議会を召集させ、そこに自分たちの政治的な代理人を持つことができたことで、自分たちの政治的な要求を実現させる機会を獲得したわけである。その機会は最大限活用され、ブルジョワたちは自分たちに都合のよい統治システムの構築に成功した。それは前の時代からは断絶していたので、革命という名前が相応しかった。

中国では1917年以降北京政府と広東政府が並立する状態が続いていて、全国を統一する政権は存在しなかった。北京政府が中国北部を、広東政府が中国南部をそれぞれ統治するという建前だったが、実際にはどちらも低い統治能力しか持っていなかった。北京政府のほうは、いわゆる軍閥の抗争に明け暮れ、広東政府のほうは、自立性の高い各省をまとめるだけの能力がなかった。こうした状況の中から、次第に広東政府が力をつけ、ついには北伐を経て、全国を統一する政権が誕生するのは1928年6月のことである。

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石内都は日本を代表する女性写真家だ。衣装に強い関心を持っていたそうだ。その石内が、2011年10月から翌年2月まで、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学人類学博物館で、ひろしまをテーマにした写真展を開いた。展示された写真はみな、被爆者が生前身につけていたものである。それらを見ると、被爆して死んだ死者の姿を直視するに劣らない迫真性を感じる。それが見るものの心を直撃する。

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渡辺崋山が蛮社の獄に巻き込まれたのは天保十年のこと。その年の5月に逮捕・拘禁され、取り調べを経て、年末の12月にお裁きが下った。仲間の高野長英が禁固刑を食らったのに対して、崋山は田原藩あずかりのうえ蟄居という比較的軽い刑で済んだ。翌年の正月、崋山は田原に赴き、そこで藩が用意した家屋に住んで蟄居するという形をとった。

独ソ戦は、人類の歴史上もっとも大規模で凄惨な戦争であった。この戦争によるソ連側の死者は従来2000万人といわれていたが、近年の研究で2700万人に上方修正された。ドイツ側の死者数も、さまざまな見積もりがあるが、全体で600万人ないし900万人と推測され、その大部分が独ソ戦にともなうものである。そんなにも巨大な犠牲を出したわけは、独ソ間での全面戦争であったということのほかに、この戦争が、普通の戦争とは違って、民族の奴隷化とか絶滅を目的としたものだったことだ。ヒトラーは、独自の民族観から、ロシア人を劣った人種と見なし、その奴隷化と殺戮を公然と行った。そうした破廉恥な思想が、この戦争を凄惨なものにした。著者の大木毅はこの戦争を、ヒトラーが仕掛けた絶滅戦争と定義づけている。

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「部屋の中のアルジェの女たち」と題するこの絵は、モロッコからの帰途、アルジェに立ち寄ったさいの印象をもとに描かれたものだ。フランスに帰国したのは1832年の7月だが、この絵は1834年に完成し、その年のサロンに出展されて大きな評判を呼んだ。ドラクロアのオリエント趣味を代表する傑作である。

「如来神力品」第二十一は、如来の神力すなわち仏の超能力を説く。その目的は、法華経を受持し広める菩薩たちに超能力を示すことによって、かれらを激励することにある。その上で、法華経の功徳について改めて説き、仏の滅後に衆生を教化するよう励ますのである。

カール・マルクスが人類史上に持つ意義は、資本主義の歴史的な制約を指摘し、それには始まりがあるとともに終りがあると主張したことだ。どのような事情が資本主義を終わらせるか。それについてマルクスはかなり詳細に語っている。しかし、その終わり方がどのようなプロセスを経て実現するのかについては、かならずしも明確なメッセージを発したわけではない。とりあえず考えられることとして、資本主義システムの矛盾が労働者階級にとって耐えられない桎梏になったときに、人間らしく生きたいと願う労働者階級が、その桎梏を取り払い、自分たちの生きやすいシステムの構築に向けて立ち上がるだろうと予測した。その場合に、桎梏を取り除くための労働者の行動は革命という形をとるだろうと考えていた。その場合に、マルクスの念頭にあったのは、1871年のパリ・コミューンであった。パリ・コミューンの経験を踏まえれば、成功裏に革命を成就することができるのではないか。そんなふうに考えていただろうと思われる。

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2009年のイタリア映画「やがて来たる者へ(L'uomo che verrà)」は、ナチスドイツによるイタリア支配の残忍さを描いた作品である。1943年7月にムッソリーニが失脚すると、ナチスはイタリアに介入し、ムッソリーニを復権させて傀儡政権を作り、北部イタリアに進出した。それに対して北部イタリアでは対ドイツ・レジスタンス運動が広範に起こった。ナチスは血の弾圧をもってそれを抑圧しようとした。この映画は、北イタリアを舞台として、ナチスに対抗する人々と、それに血の弾圧を加えるナチスの凶暴さを、一人の少女の視点から描いたものである。

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崋山は南画風の山水画にはあまり関心を寄せてはいなかった。風景は描いたが、南画風には描かずに、写実を心掛けた。「渓山細雨図」と題するこの絵は、崋山としては数少ない南画風の山水画である。

「雲をつかむ話」は、多和田葉子の小説としては比較的骨格のはっきりした作品だ。多和田の小説は大部分が半分以上エッセーの要素からなっていて、筋書きには乏しい。ほとんどないに等しい場合が多い。語り手が様々な土地を移動しながら、行った先で様々な人と出会い、それらの人達との間で会話を交したり、それらの会話を通じて語り手の感性がエッセーという形で表出されたり、といったものがほとんどだ。ところがこの「雲をつかむ話」は、一応筋書きらしいものがあるし、登場人物にもはっきりした輪郭を持った人物が出てくる。そしてそれらの人物たちが互いに深く結びついている。他の小説のように、互いに何の関係もない人たちが、漫然と入れ替わりながら過ぎていくというのではなく、互いに響きあっているのだ。

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ドラクロアは、1831年12月30日から翌年7月20日までの約七ヶ月間、モロッコへ旅した。フランスの公式外交団モルネー伯爵の一行に随行するという形だった。特権的といってもよいこの随行は、ドラクロアの政治力を物語っているが、モルネー伯爵とは、個人的な親交もあったらしく、「モルネー伯爵の私室」という変った作品を描いている。

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ナンニ・モレッティの2001年の映画「息子の部屋(La stanza del figlio)」は、イタリア人の家族関係を描いた作品。とくに父子関係に焦点をあてている。その父親役を、監督のモレッティ自らが演じている。映画で見る限り、モレッティはなかなかハンサムであり、しかも知的な雰囲気を感じさせる。

ゴータ綱領とは、1875年にドイツ社会民主労働党(アイゼナッハ派)と全ドイツ労働者協会(ラサール派)とが合同して成立したドイツ社会主義労働党の綱領である。合同大会がドイツ中部の都市ゴータで開催されたことからゴータ綱領と呼ばれる。これは両派の妥協の産物だが、マルクスやエンゲルスの目には、自分たちが肩入れしてきたアイゼナッハ派がラサール派に必要以上の妥協をした結果、ほとんどラサール派の主張が支配していると映った。エンゲルスに言わせれば、妥協とは共通点にもとづいてなされるもので、対立点については棚上げするのが当たり前だ。ところがこの綱領はラサール派の主張を一方的な形で採用している。それはアイゼナッハ派がラサール派に屈したということであり、ドイツの労働者政党としてはきわめて反動的なものである。そういう立場からこの綱領を痛烈に批判したのが、マルクスの「ゴータ綱領批判」である。

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