2021年5月アーカイブ

東京五輪の大会組織委員会が、五輪参加選手にコンドームを配布するというので、大きな話題になっている。いまやコロナ騒ぎの真っ最中で、仮に五輪が開催されたとしても、男女が気兼ねなくセックスできる状況ではない。それなのに男女がセックスすることを前提にしてコンドームを配るというのだ。その数15万個というから驚く。オリンピックの参加選手は約1万5千人と見込まれているから、実に一人当たり10個の計算だ。こんなに沢山配っておいて、日本の五輪組織委員会は、彼ら彼女ら参加選手たちに毎晩セックスしろというのか。人によっては一晩二回やっても使いきれないほどの数だ。

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「マルフィーザ(Marphise)」と題したこの絵は、イタリア・ルネサンス期の詩人アリオストの長編詩「狂乱のオルランド」に取材した作品。この長編詩は、十字軍とサラセン軍との戦いをテーマにしたもので、そこに狂乱したオルランドがからむ。オルランドが狂乱したのは失恋のせいで、その失恋をテーマにした「恋するオルランド」という詩もボイアルドによって書かれていた。「狂乱のオルランド」はその続編という体裁になっている。

仏教の思想

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角川書店から昭和40年代に刊行された「仏教の思想」シリーズ全12巻は、仏教を思想として解明するものである。これは哲学研究者の梅原猛が中心になって、哲学研究者と仏教研究家が協力しながら仏教の思想的な内容を解明したものだが、その動機を梅原は第一巻の序文の中で言及している。仏教は、嘗ては日本人の心を捉えていたが、近代に入ると忘れられてしまった。それは近代の日本人が西洋の思想にかぶれるあまり伝統的な日本の思想を顧みなくなったためである。ところがその西洋の思想は、いまやその有効性に疑問が突きつけられている。西洋の思想を以てしては、今後の世界の方向性を導くことは出来ない。それが出来るのは仏教である。梅原はそうした問題意識から、仏教を改めて思想として捉えなおし、日本の全国民がそれを理解してほしいと考えて、このシリーズを発案したという。いかにも梅原らしい発想といえよう。

アメリカが「米韓ミサイル指針」を撤廃し、韓国に射程800キロを超える長中距離弾道ミサイルの開発を容認したと伝えられた。この報に接した小生は、いくつかのことが念頭に去来するのを抑えられなかった。

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アラン・レネといえば、絶滅収容所をテーマにしたドキュメンタリー映画「夜と霧」が有名だ。それを公開したのは1955年のことだったが、それから半世紀以上経った2014年に「愛して飲んで歌って(Aimer, boire et chanter)」を作った。実に90歳のときである。高齢の監督としては、ポルトガルのオリベイラがあげられるが、アラン・レネも決して負けていないということだろう。

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伊勢松坂の継松寺に伝わる「雪山童子図」は、蕭白の代表作「群仙図屏風」とほぼ同じ時期、伊勢に遊んだ34歳前後の作品と思われる。「群仙図屏風」同様、鮮やかな色彩感覚が特徴的である。

小川洋子の短編小説「夕暮れの給食室と雨のプール」は、小さな子どもを連れた男と語り手たる一女性との対話を描いた作品だ。新婚生活を目前に控えた女の前に、雨の降る日に突然あらわれたその男は、語り手に向って、「あなたは、難儀に苦しんでいらっしゃいませんか」と言った。それを聞いた語り手は、その男が「ある種の宗教勧誘員であることに気づいた。その手の訪問者はしばしば悪天候の日を選び、しかも幼児を連れてやってきては、わたしをどきまぎさせるのだ」

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「大蛇ピュトンに打ち勝つアポロン(Apollon vainqueur du serpent Phyton)」と題したこの作品は、ルーヴル宮殿の天井画として制作された。アポロンをモチーフにしたのは、アポロンの間を飾るものだったからだ。ドラクロアはこのモチーフを、オヴィディウスの「メタモルフォーズ」をもとにイメージ化した。

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2012年のフランス映画「最初の人間(Le premier homme)」は、アルベール・カミュの同名の自伝的小説を映画化したもの。カミュは1960年に交通事故で死ぬのだが、その際にカバンの中から小説の草稿が発見された。それがカミュの死後34年後に刊行された。この映画はそれを原作としたものである。

IOCの幹部が、日本のコロナ騒ぎを全く軽視するかのように、オリンピックありきの発言を繰り返していることに、日本国内では反発が広がっている。日本共産党までが、IOCが日本の状況を無視してオリンピックの開催を強行しようとするのは日本国への主権侵害だと言って非難している。一方、菅政権を始め日本側は、IOCへの遠慮を隠さない。これも日本国民の命より、IOCの利権を優先するものだという強い批判を浴びている。

ベルグソンの小論「可能性と事象性」は、アリストテレスが提起し、西洋哲学の存在論を彩ってきた問題「可能態と現実態」の対立について、ベルグソンなりの回答を与えたものである。原題はLe possible et le réelとなっており、le réelを訳者の河野与一が事象性と訳したものだが、この言葉には現実性とか実在性といった意味も含まれる。ベルグソンはこの小論を1930年にスウェーデン語で発表した。1927年に受賞したノーベル文学賞への、遅ればせながらの受賞講演の代わりのつもりだったようだ。

日本の敗戦によって、台湾は中国に返還され、朝鮮は独立し、日本の傀儡国家満州国は消滅した。まず台湾について、中国への返還プロセスを見ておこう。朝鮮や満州国と異なり、台湾においては、日本による統治はすぐさま崩壊したわけではなく、しばらくの間、台湾総督府もそのまま存続していた。統治権が中国に正式に返還されるのは1945年10月のことである。10月17日に蒋介石が派遣した国民政府の役人200名が、国民政府軍約1万2000人とともに、アメリカの艦船に乗って台湾に上陸し、同月25日に日本の降伏式典が行われた。それ以後台湾は、蒋介石の国民政府の統治下に入る。なお、10月25日は今でも、「光復節」として記念日になっている。

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「キリマンジャロの雪」といえば、ヘミングウェーの有名な小説が想起されるが、2011年のフランス映画「キリマンジャロの雪(Les neiges du Kilimandjaro)」は、それとは関係がない。この映画は、フランスの労働者気質のようなものをテーマにしている。

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これは群仙人図屏風の左隻。右側から林和靖、左慈、蝦蟇仙人、西王母及び西王母の侍女たち。西王母は仙人ではないが、世の母親を代表して出てくるのは、モチーフの跡継ぎを意識してのことだろう。

シュンペーターは、自分は社会主義者ではないと言っておきながら、社会主義は資本主義の内在的な傾向から必然的に生まれるものであり、したがって止めようのないものだと認識していた。その(後者の)点ではマルクスと同じである。違うのは、マルクスが社会主義への移行を革命のイメージで捉え、そこに暴力の介在を認めるのに対して、シュンペーターは革命などという大げさな事態なしでも、社会主義は平和的に実現される可能性が高いと考えていたことだ。

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ドラクロアが裸体画を描くときには、だいたいは神話や伝説の中に登場する女性を、他の登場人物とともに描いており、この作品のように、一人の女性の裸体に焦点を合わせて、アップで描くのは珍しい。日常のなにげない仕草を描いたところは、印象派以後の裸体画、たとえばルノワールやドガなどを連想させる。

普賢菩薩は、文殊菩薩と並んで釈迦仏の脇侍として仕え、いわゆる釈迦三尊を構成する。通常は、文殊菩薩は獅子に乗った姿、普賢菩薩は白象に乗った姿で表される。文殊菩薩と獅子の結びつきは維摩経などに見え、普賢菩薩と白象の結びつきは、法華経の「普賢菩薩勧発品」において具体的な形で語られる。その法華経のなかでは、文殊菩薩は冒頭の序品から登場して、経全体にわたって随所で重要な役割を果たす。一方普賢菩薩は、最後の章である「普賢菩薩勧発品」に登場して、法華経全体を締めくくる役割を果たす。

今日(5月23日)の朝日の朝刊が、対中政策をめぐる安倍政権内の暗闘ともいうべきものを分析した記事を載せていた。安倍政権の対中政策には一貫しないところがあって、政権発足直後は露骨な対中包囲網を目指し、いわば敵対路線をとっていたものが、次第に融和的になっていって、ついには、習近平を国賓として迎える話にまで激変した。対立(敵対)から協力へと、180度の政策転換であった。

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2004年のフランス・アフリカ諸国合作映画「母たちの村(Moolaadé)」は、少女割礼をテーマにした作品である。少女割礼というのは、まだ幼い頃に陰核を切除するという風習で、アフリカ諸国に広く伝わっている。この映画では、セネガルの割礼を取り上げているようだ。男子の割礼は衛生保持が目的とされるが、女史の割礼にはそういう意味合いはなく、性についての偏見からなされているとして、ヨーロッパ諸国特にフランスでは評判が悪い。反割礼キャンペーンが張られたくらいだ。この映画は、フランスでのそうした動きを背景にしたものだと思われる。フランスは、たとえば反イスラム・キャンペーンなど、異文化に対して不寛容なところがあるが、そういう不寛容さはこの映画からも伝わってくる。

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「群仙図屏風」は曽我蕭白の代表作といってよい作品だ。京都の京極家に伝わってきたもので、昭和40年に再発見されて、蕭白の代表作と認められた。京極家ではこれを、跡継ぎの誕生祝に注文したらしい。明和元年(1964)、伊勢へ出かける前に描いたと思われる。

ドミトリイというから小生はロシア語の男性名かと思ってしまったのだが、そうではなくて、学生寮のことだった。それならドーミトリイと一文字足してくれればすぐにわかったものを。それはともかくこの小説は、その学生寮を舞台にしたものだ。学生寮というより、その寮の経営者と小説の語り手たるある女性の触れ合いがテーマである。その触れ合いを、女性らしい繊細な文章で語っているのである。

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ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、理想的な哲人君主として有名だ。政治的に成功を収めたほか、学問にも造詣が深かった。ストア哲学に心酔し、「自省録」といった著作を残している。度重なる戦争で勝利し、自分自身ボヘミアの戦場に赴く途中に、滞在地のウィンドボナで死んだ。遺体は火葬され、遺骨がローマに送られたという。

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ルネ・フェレの2001年の映画「夕映えの道(Rue du Retrait)」は、初老の女性と高齢の女性との触れ合いをテーマにした作品である。会社を経営する初老の女性が、ふとしたことで出会った高齢の女性が気がかりになって、なにかと世話をするうちに、彼女に対して特別な感情を抱くようになる。一方高齢女性のほうは、不幸な過去のせいで強い人間不信に陥っており、自分に対してやさしく接してくれる相手になかなか心を開かないのだが、やがて相手の誠意に心を開くという内容である。高齢女性が心を開いたのは、死を目前にしてのことだった。彼女は末期癌を患っているのである。

イスラエルのユダヤ人と西岸及びガザ地区に住むパレスチナ人との衝突が止まらない。ガザ地区からは3000発以上のロケット弾がイスラエル内に向けて発射され、それへの報復と称してイスラエル軍はガザへの空爆を繰り返している。これまでに200人以上のパレスチナ人が死亡し(ユダヤ人側は10人)、その中には多くの子どもも含まれる。深刻な人道問題との認識が高まり、国連では各国が一致して停戦を呼び掛ける案が出されたが、バイデン政府の頑固な反対で実現しない。ネタニアフのイスラエルはそれをいいことに、空爆をやめる気配がない。このまま放置しておけば、2014年以来の大惨事になるだろう。

ベルグソンとウィリアム・ジェームズは強い友情で結ばれていた。ジェームズのほうが17歳も年長だが、年齢の差を越えて互いに尊敬しあった。それは二人の思想に親縁性があったからだ。ジェームズは意識に直接与えられた感性的なものを自分の思想の土台として、ある種の唯心論を展開したわけだが、ベルグソンにも唯心論的な傾向が強い。ベルグソンの哲学的業績が「意識の直接的与件について」の考察から始まったように、かれの思想も意識に直接与えられた感性的なものを土台としている。そういう共通性が二人を強く結びつけたのだと思われる。もっともこういう意識内容を重視する思想(現象一元論と呼ばれる)は、当時流行していた新カント派にも共通するところで、その影響を受けた日本の西田幾多郎にも見られるところである。

日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したという情報は8月10日に中国に伝わり、臨時首都重慶の町は喜びにあふれた。8年間に及ぶ過酷な戦争がやっと終わったのだ。それも中国の勝利という形で。日本の天皇があの玉音放送を日本国民に向けて行った8月15日には、蒋介石が中国国民に向かって勝利宣言のラヂオ放送を行った。この勝利は、欧米の連合国に日本が敗れた結果であって、中国が武力で日本を破ったわけではなかったのだが、中国ではとにかく、どんな理屈でもよいから、日本に勝利したという言説が支配したのである。

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アラン・レネといえば、1955年に発表したドキュメンタリー映画「夜と霧」の印象が大きい。初期にはそうしたドキュメンタリー風の短編作品を手がけていたのだったが、そのうち長編劇映画も作るようになり、結構息の長い映画生活を送った。2009年に作った「風にそよぐ草(Les Herbes Folle)」は、かれが87歳の時の作品である。

コロナ第四波と言われる危機的状況の中で、大阪の状況が突出して危機的だ。感染者や死亡者の人口当たりの割合が、東京などほかの大都市に比べて異常に高い。その理由は、例えば高齢者が多いからだとか色々言われているが、基本的には大阪の行政を担ってきた維新の会による政策の失敗と言ってよい。つまり人災ということだ。

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「雲龍図」はもともと襖絵であったが、ボストン美術館が購入する際に襖から引き剥がされて、紙の状態で持ち帰った。そもそもどこにあったのかについては、日本画家の橋本関雪がヒントとなる文章を残している。それによれば、関雪の若い頃に、播磨の伊保崎村のある寺で、蕭白作と伝えられる「大きい龍の襖絵」を見たと言うのである。おそらくその襖絵がこの作品だろうと考えられる。

渡辺靖の著作「白人ナショナリズム」は、トランプ在任中の2020年に書かれたものだから、当然トランプを意識しながら書かれている。トランプは「アメリカ・ファースト」を実行したわけだが、トランプの言うアメリカは白人のためのアメリカというふうに受け取られたので、白人至上主義者たちを勢いづけた。その彼ら白人至上主義者の思想を渡辺は白人ナショナリズムという言葉で表現するわけだ。

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「ピエタ」をモチーフにしたこの絵は、パリのサン・ドニ聖堂の壁画として制作されたものである。1840年セーヌ件知事ランビュトー伯爵から依頼され、1844年5月に完成した。モチーフの選定については、紆余曲折があったようだ。

「妙荘厳王本事品」第二十七は、子が異教徒の父親を教化することを説くものである。法華経には、父が子を、目上の者が目下のものを教化する話は多く出て来るが、目下のもの、それも子が父を教化するという話は、この「妙荘厳王本事品」だけである。その意図は、法華経の教えは肉親の絆よりも深いということを説く所にあると考えられる。肉親の絆は一代限りであるが、法華経の功徳は世代を超えた深い因縁を通じて人々を結びつける、と説くのである。

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一昨年(2019年)に行われた京都薪能の一部をNHKが取り上げて放映していた。出し物は観世流の半能「絵馬」。半能というのは、文字通り能の曲目のうち半分だけを演じるもので、たいていは後半部である。こうした形式は、それ自体が独立した曲に転化する場合もある。「金札」とか「菊児童」といった曲は、もとの曲の後半部だけが切り離されて再構成されたものである。

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ジャック・リヴェットの2007年の映画「ランジェ公爵夫人(Ne touchez pas la hache)」は、バルザックの同名の小説(La Duchesse de Langeais)を映画化した作品である。もっともフランス語の映画タイトルは「斧に触るな」という意味である。映画の一シーンでこの言葉が出てくる。それが映画のクライマックスになっているので、タイトルにしたのだろう。邦訳はバルザックの原作をそのまま使ったものだ。

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この寒山拾得図は、京都の興聖寺に伝わってきたもの。興聖寺は曽我蕭白の実家の菩提寺であり、蕭白自身の墓もある。その縁でこの作品を寄せたのだと思う。興聖寺は堀川通りにあり、西陣から近かった。蕭白の実家もそのあたりにあったものと考えられる。

妊娠という事象は、人間に限らずすべての生き物にとって根本的な事柄であるし、これほど生きることの意義をあからさまに突きつけてくるものはない。言ってみれば、生き物が生き物である証のようなものだ。それは人間にとってもかわらない。人間の男女は自然に惹きつけあうが、それは始めは恋愛感情の湧出という形をとり、やがて妊娠という事象にいきつく。その割りに妊娠が文学のテーマになることは少ない。ほとんどないと言ってよいのではないか。文学は、妊娠の手前の性愛の段階で止まってしまっていて、妊娠までは勢力が向かないらしい。

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「アビドスの花嫁(La fiancée d'Abydos)」と題したこの絵は、バイロンの有名な長編詩に取材したもの。ドラクロアはこのテーマを気に入っていたようで、繰り返し描いている。

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ジャック・リヴェットの1991年の映画「美しき諍い女(La Belle Noiseuse)」は、バルザックの小説「知られざる傑作(Le Chef-d'œuvre inconnu)」を映画化したもの。小生は高校時代に原作を読んだはずだが、詳しい内容は忘れてしまった。ただ変った画家の偏執狂的な製作振りがテーマだったように記憶する。

ベルグソンの著作「思想と動くもの」に収められた「哲学的直観」という小文は、哲学と科学を比較しながら、哲学固有の意味について考えたものである。科学はある時代における知を代表しているものであるから、その時代の哲学は科学に対して意識的にならざるを得ない。じっさいどの時代の哲学思想も、同時代の科学の成果を自分に取り込んでいる。そのうえで、哲学はすべての科学を基礎付けるものだと言ってみたり、科学の成果を一段と高い視点から総合したものだと言って自慢したがるものである。しかしそれは思い上がった考えだとベルグソンは言う。哲学と科学とは本来異なったものだから、それぞれが自分の領分を持っているのであり、一方で他方を代用するわけにはいかず、また一方が他方より優れているともいえない、と言うのである。

日中戦争が泥沼化する一方で、日本は別の戦争を始めた。対米英開戦である。1941年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃、ほぼ平行して、東南アジアにおける英艦隊を攻撃するとともに、マレーシアからシンガポールを経てインドネシアに至る広大な地域を占領した。これによってアメリカ、イギリスが日本に宣戦布告し、世界中が連合国と枢軸国に分かれて相戦う事態となった。これを歴史学では第二次世界大戦と呼んでいるが、日本ではアジア太平洋戦争とか、あるいは(一部で)大東亜戦争などと呼ぶことが多い。

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ジャック・リヴェットは、ヌーヴェルヴァーグ以降のフランス映画を代表する監督の一人である。映画の常識を無視した作品が多く、前世紀中にはいまひとつ評価が低かったが、近年その斬新さが高く評価されている。1974年の作品「セリーヌとジュリーは舟でゆく(Céline et Julie vont en bateau)」は、そうした斬新さが遺憾なく発揮されたものである。

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林和靖は、宋の時代の文人で、杭州西湖にある孤山という島に隠棲し、勝手気ままに生きた。その風流な生き方が、文人の理想像とされ、中国では格好の画題とされてきた。日本でも林和靖を取り上げた画家は多い。

シュンペーターは、資本主義はそれ固有の政治的・社会的・精神的文化を生み出すと言う。それをシュンペーターは「資本主義の文明」と呼んでいる。資本主義とは、シュンペーターにとっても、基本的には経済システムである。その経済システムが基盤となって、それに対応する文明が生まれるという構図だ。それをシュンペーターは次のように説明する。「近代文明のいっさいの特徴と業績も、これすべて直接間接に資本主義過程の産物である」

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「十字軍のコンスタンティノポリス占領(La prise de Constantinople par les croisés)」と題するこの絵は、第四回十字軍の蛮行をモチーフにした作品。フランドル伯ボードウィンに率いられたこの十字軍は、本来の目的であるエルサレムの奪回には関心を示さず、コンスタンティノポリスの占領と略奪にうつつを抜かしたことで知られる。度重なる十字軍の歴史において、最大の汚点となった事件である。

陀羅尼とは、サンスクリット語のダラニという言葉に漢字を当てはめたもので、総持とも訳される。意味は、教えを心にしっかりと保持することを言う。具体的には、呪文のような形であらわされるので、神呪とも言われる。「法華経陀羅尼品」第二十六は、そうした呪文を集めた章である。呪文はいずれも、法華経を受持する人を守護することを目的としたものである。だから、法華経受持者のための呪文集といってよい。

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小生が毎日散歩する付近の公園にはカルガモの住み着いている水路があって、毎年五月の始めころには大勢の雛をつれた母カルガモを見たものだが、今年はまだ見えない。日記で過去の記録を確認したところ、昨年も一昨年も5月1日にその姿を見ている。それが今日(5月9日)にも見えないということは、今年は姿を現さないということらしい。先日は、母カルガモらしい個体が、水路を注意深く泳いでいたので、てっきり巣の卵を心配しているのかと思ったのだったが、どうやら勘違いだったようだ。

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黒沢清の2019年の映画「旅のおわり世界のはじまり」は、日本とウズベキスタンの国交樹立25周年を記念して作られたそうだ。ウズベキスタンの自然や文化を日本人に紹介するような体裁になっている。だから、ウズベキスタンという国に対して、リスペクトの念に満ちているかというと、そうではないように見える。かえってウズベキスタンという国やそこに暮す人々への、軽蔑のようなものが伝わってくる。

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「柳下鬼女図屏風」は、鬼女を描いた作品。蕭白らしいモチーフである。木枯らしが吹きすさぶ中、柳の木陰に鬼女がたたずんでいる。背後を振り返っているように見えるのは、何かに未練があるからか。柳の木は強風に煽られてかしいでいるが、柔軟なために折れることはない。

「文壇アイドル論」で上野千鶴子を話題に取り上げた中で、上野が「おまんこ」という言葉を臆面もなく使っているのは、多くの人々(たとえば小生のような東京圏に暮らしている人間)にとっては非常に抵抗を感じるものだが、使っている上野自身はそうでもないらしい、という指摘があった。その理由を斎藤美奈子女史は、呉智慧の批評を持ち出しながら明かしている。呉は次のように批評したのだ。

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「ドン・ジュアンの難船(La naufrage de Don Juan)」と題するこの絵は、バイロンの長編詩「ドン・ジュアン」に取材した作品。ドラクロアはバイロンを尊敬しており、バイロンが命をかけたギリシャ独立戦争に取材した作品も手がけている。

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黒沢清の2013年の映画「リアル 完全なる首長竜の日」は、SFタッチのミステリー映画である。SFタッチというのは、二人の人間の間で意識を共有するという設定だからであり、ミステリーというのは、わけのわからぬ怪物(首長竜)が現実世界に登場して大活躍するからである。そういう意味合いでは、純粋の娯楽映画といってよい。肩の凝らない作品である。

米大統領バイデンが、100年以上前に起きたトルコによるアルメニア人の迫害をジェノサイド認定した。その前には、中国政府によるウィグル人迫害をジェノサイド認定している。理由は、国連の定めたジェノサイドの定義にこれらの迫害が該当しているというものである。国連によるジェノサイドの定義は次のようなものだ。

ベルグソンの意図したことをごく簡略化して言うと、人間の知識についての西洋哲学の伝統的な考えを根本的に批判し、新しい知のあり方を提示することにあった。西洋哲学の伝統的な考えは、これもまたごく簡略化して言うと、プラトンのイデアに代表されるような、概念的かつ理念的なものを基準にして、その抽象的な原理にもとづいて具体的な事象を説明するということになる。事象は我々にとって知覚を通じて与えられるから、その知覚をそのままに受容するのではなく、概念のフィルターを通して知覚を理解するという形になる。これはいわば逆立ちした考えだとベルグソンは批判して、知覚の根源性と概念の派生性を主張するのである。

日中戦争の初期に起きた南京事件は、南京大虐殺とも呼ばれるように、日本軍による中国人軍民に対する大規模な虐殺事件として、日中戦争史を暗く塗る事件であった。しかしその全容はいまだ明らかになっていない。事件の経緯も不明確な部分があるし、死傷者の数も明確になっていない。中国側を代表すべき国民党政権が、事件の詳細を調査できる態勢ではなかったし、日本側においては、調査の意図そのものがなかった。それどころか、日本軍は南京事件について国民に知られることを嫌い、徹底した報道管制をしたために、国民は日本が南京を占領したことは知らされたが、そこで何が起きたのかについては全く知らなかった。日本国民が南京事件について知らされたのは東京裁判を通じてである。東京裁判の中で突然南京事件が裁かれたので、国民は俄には信じられなかった。その頃の日本国民は、戦争に対する被害者意識は抱いていても、対戦国の中国に対して、自分の国が言語に絶する不法行為を働いたとは、なかなか信じることができなかった。そういう気分は、いまだに影響力を及ぼしている。そういう気分がまだあるからこそ、南京事件など起こらなかったという言説が、一定の効果を持つのだと思う。

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黒沢清の2005年の映画「LOFTロフト」は、黒沢得意のホラー映画である。この作品のホラーの源泉はミイラなのだが、それがすこしも怖くない。怖がっているのは主人公の女性作家だけで、あとはみな怖がっていないし、観客もまた怖がるまでには至らない。ホラー映画としては失敗作なのではないか。

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曽我蕭白は「寒山拾得」をモチーフにした作品を幾つか手がけているが、これはもっとも古い時期の作品。絵の様式が「久米仙人図屏風」のそれとよく似ているところから、ほぼ同時期のものと推測される。二曲一双の体裁である。

シュンペーターは、「資本主義・社会主義・民主主義」の第二部のタイトルを「資本主義は生き延びうるか」とし、その問いかけに対して「否」と答えることから議論を始める。シュンペーターは、基本的には資本主義を信頼していたと思うのだが、その未来については悲観的だったわけである。資本主義の未来に否定的なことではマルクスと同じと言えるが、先稿でも指摘したとおり、その理由が違っている。マルクスは、資本主義の抱えている矛盾とか失敗とかがその理由だと考えたのに対して、シュンペーターはその逆に、資本主義の成功こそがその滅亡の原因になると考えた。その上で、マルクスが社会主義者の立場から資本主義を否定したのに対して、自分はそうではないと主張する。「ある予見をなすことは、けっして予言した出来事の進行を願っていることを意味するものではない」という理屈からだ。かれは資本主義には生き延びて欲しいが、色々な理由でそうは行かないと言っているのである。

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「トラヤヌスの裁定(La justice de Trajan)」と題するこの絵も、ダンテの神曲から取材したものである。神曲煉獄編第十歌に、ローマ皇帝トラヤヌスの息子に自分の息子を殺された寡婦が訴える場面がある。その訴えに対してトラヤヌスは、息子が継承すべき権利をこの寡婦に与えようと言う裁定を出す。その場面を想像しながら、ドラクロアはこの絵を描いたのである。

観音様への信仰は、地蔵信仰と並んで日本の庶民にもっとも馴染の深いものだ。その観音様について説いたお経が、法華経の「観世音菩薩普門品」第二十五である。このお経は、単に「観音経」とも呼ばれ、独立した経典としても、よく読まれて来た。今日でも、各宗派にわたって読まれている。

先日(4月29日)のNHK特集「ヒューマニエンスSP人間を生んだ力とは?」を興味深く見た。哺乳類の胎盤形成にウィルスが決定的な役割を果たしたなど、人類発展の歴史的な過程が紹介される一方、マイナスの進化の中心テーマとして、Y染色体の減少傾向についても語られていた。Y染色体は、オスを生成するための決定要因なので、それの消滅はオスが消滅することを意味すると思われていた。そんなわけで小生なども、Y染色体の未来については大きな関心を抱いてきたところだ。

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黒沢清の2003年の映画「ドッペルゲンガー」は、文字どおりドッペルゲンガーをテーマにした作品だ。ドッペルゲンガーというのは、分身とかもう一人の自分と訳されることが多いドイツ語で、幻覚の一種だと考えられる。文学の世界では格好の材料となり、これを扱った作品は数多くある。小生もいつくか読んだことがある。そのドッペルゲンガーを黒沢は、映画のテーマにしたわけだ。

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ボストン美術館蔵の「久米仙人図屏風」は、現存する曽我蕭白の作品として作成年代が特定できる最古のもの。画中の落款に「平安散人曽我蕭白藤原暉雄行三十歳図之」とあることから、宝暦九年(1759)満二十九歳の時の作品である。暉雄は蕭白の本名だが、藤原にはたいした根拠はない。ただ、平安は京都を意味しているので、自分を京都の出身と主張していることは間違いない。

「文壇アイドル」とは奇妙な言葉だ。命名者の斎藤美奈子はこの言葉を厳密に定義しているわけではないので、その中身がいまひとつ明らかではないが、どうも芸能界のアイドルを横引きしているらしい。芸能界のアイドルといえば、いわゆるミーハーたちの人気者で、その人気を芸能プロダクションや放送業界が盛りあげながら、そこからもたらされる巨額の収入を分け合うというような構図になっているらしい。だから業界の連中は金のなる木としてのスターの育成に余念がないし、スターはスターでミーハーの人気を獲得するのに余念がないというわけであろう。

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