2021年11月アーカイブ

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普陀落山とは、観音菩薩が降臨する場所といわれる。華厳経の「入法海品」などに見える。海上にあるとも、南インドのマラヤ山の東にあるとも言われる。この絵の普陀落山は、海上の島をイメージしているのかもしれない。左下に水が描かれているからだ。

栗原俊雄は毎日新聞の記者だそうだ。日本現代史に強い関心があるらしく、「戦艦大和」などアジア太平洋戦争をテーマにした著作がある。ジャーナリストらしく、戦争体験者への聞き書きを中心に、戦争の実態を微視的に浮かび上がらせる手法をとっている。「シベリア抑留ー未完の悲劇」(岩波新書)と題したこの著作も、関係者へのインタビューを中心に組み立てている。当初毎日新聞に連載したものをもとに、この本を書き上げたということだ。

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ピエール・ロティは、フランス海軍士官として世界中をまわり、立ち寄った各地の印象を、エッセーや小説に書いた。日本にも縁があり、鹿鳴館の舞踏会にも参加したことがあった。フランス人特有のエリート意識の持ち主で、日本人を醜悪な生き物として軽蔑していた。そんなロティと、ルソーとの直接的な接点はない。ルソーにはエキゾチズム趣味があり、「マガザン・ピトレスク」といったエキゾチズム雑誌を読んでいたようだが、それにインスピレーションを受けて、ロティのこの肖像画を描いたのだろうと思われる。

「撰時抄」は佐渡流罪を許され、鎌倉を経て身延山に入ったすぐ後に書かれた。日蓮が身延山に入った動機はさまざまに推測されているが、一番有力なのは、蒙古襲来を恐れたからだという説だ。仮に蒙古が攻めて来ても、身延山までは押し寄せてこないだろうと考えたというのである。

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ルネ・クレールは1935年にフランスを離れイギリスに渡った。前年に作った「最後の億万長者」が興業的に失敗したことにショックを受けたためといわれる。その映画をクレールは、隣国ドイツで独裁者になりつつあるヒトラーを意識して作ったのだったが、フランスではヒトラーはまだ大して注目を集めておらず、したがってその映画も大きな話題になることはなかったのだろう。

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「貽咲墨戯」は、鉄斎が米寿記念に作った書画帖。書が十三、画が十三、ほかに題字跋をあわせて全二十八ページからなる。これはそのうちの「円通幽栖」と題した画。円通については、「阿倍仲麻呂明州望月図」と一対をなす「円通大師呉門隠棲図」でも取り上げている。

桐野夏生は、学生時代に谷崎潤一郎に挑戦して挫折したそうだ。理由は色々あったようだが、谷崎の代表作といわれるものが大阪弁を多用していたことに馴染めなかったということのようだ。大阪弁に限らず、谷崎は関西の女に東京の女にはない潤いと色気を感じたと公言している。それが東京女の自分には気に入らなかった。そんな谷崎の小説を若い桐野は、「上方女にこまされた男」の書いたものと受け取って、反発を感じたということらしい。

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「風景の中の自画像(Moi-Meme, Portrait-Paysage)」は、ルソーの数少ない自画像の一つ。かれはこの絵を死ぬまで手元に置き、加筆していた。パリ万博が行われた1890年、ルソー46歳の時に描かれ、その年のアンデパンダン展に出展された。現代の「肖像=風景」が示すように、風景と一体化した肖像画である点で、ルソーの作品の特徴である風景の中に溶け込んだ肖像というモチーフを典型的にあらわしている。

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1927年のサイレント映画「イタリア麦の帽子(Un chapeau de paille d'Italie)」は、ルネ・クレールのサイレント映画の代表作たるのみならず、サイレント映画の傑作と言ってよい。モンタージュ手法をはじめ、映画の基礎的なテクニックをほぼ網羅しており、映画史上にも重要な位置を占める。

ドゥルーズがベルグソンの大きな影響下に哲学者としてのキャリアをスタートさせたことはよく知られている。かれの初期の思想のキー概念は「差異」と「反復」で、この二つの言葉を結合させた「差異と反復」というのが、彼の初期の代表作のタイトルとなったくらいだ。しかしドゥルーズによるベルグソンの読み方にはかなり手前味噌なところがあり、ベルグソンについての忠実な注釈書と見るわけにはいかない。

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1924年のフランス映画「眠るパリ(Paris qui dort)」は、巨匠ルネ・クレールの映画デビュー作である。フランスは映画先進国として世界の映画界をリードしてきたのであるが、ルネ・クレールはそんなフランス映画界の申し子よろしく、以後世界の映画に大きな影響を及ぼしていく。チャップリンの傑作「モダン・タイムズ」や「独裁者」が、クレールの「自由を我らに」や「最後の億万長者」から大きなインスピレーションを得たことはよく知られている。

戦後さまざまな意匠をまとった日本人論が登場した。それらはおそらく、戦後における日本人の激的な変化を反映したものと思われる。敗戦の日を境に日本人は激変した。それまでは、天皇を民族の父とし、全国民が疑似家族を構成して、一糸乱れぬというべき強調行動をとってきた。ところが敗戦を境に日本人は、民族としてのアイデンティティを失ったかのごとくに、利己的になり、また自尊心を失った。ふつうの感覚では、利己主義と自尊心とは結びついてしかるべきなのであるが、戦後の日本人の場合にはそうもいかなかった。

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「西王母像」と題するこの作品は、友人の母の古希の祝いに贈ったもの。賛にその旨が記されている。曰く、「幡桃已に熟す三千年 萱草春に生ず七十年」。幡桃は三千年に一度なるという長寿の桃、萱草は母を象徴する。その母が七十歳になったのはめでたいことだ、との意味が込められている。

朴裕河は、日本では、「帝国の慰安婦」の作者として話題になった。この本を小生は読んでいないが、日本では好意的に受け取られた一方で、韓国ではすさまじいバッシングにあったようだから、おそらく、慰安婦の問題では、日本側に一定の配慮を見せつつ、韓国側に反省を迫ったものなのだろう。

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「森の中の散歩(La Promenade dans la Foret)」は、「カーニバルの夕べ」とほぼ同じ頃に描かれたと思われる。こちらは昼間の森の中を歩く一人の婦人をモチーフにしている。モデルは妻のクレマンス、舞台はクレマンスの実家があったサン・ジェルマン・アン・レイだとされる。

「観心本尊抄」は、正式には「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という。釈尊の滅後二千五百年目にしてはじめて、「観心本尊」について日蓮が説くのだという気負いの言葉である。二千五百年というのは大雑把な言い方で、正確には釈迦の滅後二千二百五十年である。それは末法の時代にあたる。仏教では、釈迦の滅後千年を正法の時代、続く千年を像法の時代、その後の五百年を末法の時代とする。だから釈迦滅後二千二百五十年目は末法の時代に属する。その末法の時代に日蓮という菩薩が現れて「 観心本尊」を説くというのが、この書の眼目である。

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長谷川和彦の1976年の映画「青春の殺人者」は、中上健次の短編小説「蛇淫」を映画化したもの。原作は1974年に千葉県市原市で起きた親殺し事件を下敷きにしたものだが、そこには中上らしい事件の読み方が働いていたように思える。この事件は、裕福な家庭の息子が一時の激情に駆られて刹那的に両親を殺してしまったといわれるが、中上はそこに、激情の背景にあったものを見ているようなのだ。現実の犯人は、娼婦まがいの女との交際を両親に咎められてかっとなったと言われたが、この映画の中の息子はもっと鬱屈した感情をもっていたように描かれている。この映画の中の女は、母親の連れ合いの男からレープされたり、複雑な過去を背負っており、そんなこともあって、社会的に差別されているように描かれている。中上自身は、差別に対して非常に敏感なので、この小説の中の若い男女も、社会の差別意識の犠牲になったのではないかと思ったフシがある。

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富岡鉄斎は、大正十一年(1922)に小五位に叙せられた。その叙位の喜びを表現したのが「心遊仙境図」である。その喜びの心境を、鉄斎は賛に込めている。曰く、「自分は長寿を願って精神を養ってきたが、すでに八十七歳まで生きることができた。鏡に顔を映してみると、痩せた鶴のようである。こんな鶴の鳴き声が宮中まで達したとは思いがけないことだ」。ちなみにこの文章は、詩経小雅鶴鳴を参考にしている。

「白蛇経異端審問」は桐野夏生の最初のエッセー集だ。いまのところ唯一のエッセー集でもある。日記の一部やショートストーリーも収載されているので、純粋なエッセー集というわけではない。折に触れて書き散らした短文を一冊にまとめたというところだろう。だから、全体をしめるようなテーマはない。話題は多岐にわたり、とりとめがないといってもよいが、それがまた魅力と言えないこともない。

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「カーニバルの夕べ(Un soir de carnival)」と題したこの作品は、現存するルソーの作品のうちもっとも古いものである。ルソーはこれを1886年の第二回アンデパンダン展に出品した。ルソーの画家としてのデビューは、その前年1885年のサロンへの応募だったのだが、これは落選となって公衆の目に触れることはなかった。その同じ年(1885年)に始まったアンデパンダン展は、会費さえ払えば誰でも出展できたので、これが公衆の目に触れたルソーの初めての作品になったわけだ。もっともその時には、全くといってよいほど反響はなかった。日曜画家の殴り書きと受け取られたのである。

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小林正樹の1967年の映画「上意討ち 拝領妻始末」は、徳川時代の封建社会を生きる武士の、男の意地をテーマにした作品である。藩の不条理極まる仕打ちに怒った武士が、意地にかけて自分の誇りを守る。その結果自分自身は無論、家族にも甚大な影響が及ぶ、というような内容だ。武士の男の意地を描いていることでは、森鴎外の「阿部一族」と通じるものがある。また、小林自身、同じく武士の意地をテーマにした「切腹」を作っているので、よほど男の意地にこだわるタイプなのだろう。

篠原資明はベルクソンの哲学を、あるキーワードを手がかりに考察する。それは「われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか」という言葉だ。この言葉は、ゴーギャンが自分の有名な絵のタイトルとして使ったものだ。それをベルグソンが使った。ベルグソンはこの言葉を持ち出すについてゴーギャンの名に言及していないが、たぶん意識はしていたと思う。ゴーギャンのその絵は非常に有名だったから。

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山本薩夫の1966年の映画「白い巨塔」は、山崎豊子の同名の小説を映画化したもの。週刊誌連載中から大変な評判になったもので、山本の映画化に続いて、テレビでも放送され、映画のリメークも重なった。それほど反響の大きな小説だったわけだ。この小説には、続編もあるが、山本は本編連載終了後に映画化しており、続編の内容は盛り込まれていない。

雑誌「世界」の2021年10月号が、「脱成長ーコロナ時代の変革構想」と銘打って、地球環境を守るための特集を組んでいたが、それに斎藤幸平が「気候崩壊と脱成長コミュニズム」と題する一文を寄せた。斎藤はいまや「脱成長」論者の象徴的な人物となった感があるので、この特集を飾るものとしてはふさわしい文章といえる。

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「前赤壁図」は、北宋の大詩人蘇軾の有名な「前赤壁賦」をイメージ化したもの。鉄斎は蘇軾を敬愛しており、数多くの肖像画を描いているが、これは蘇軾の代表作を題材にしたもの。賛がわりに、賦の文章を全文記している。

大沼保昭は「アジア女性基金」に深くかかわり、慰安婦問題の解決に半生をかけて取り組んだ。もともと国際法学者の大沼がなぜここまで慰安婦問題にこだわったのか。本人の言うことによれば、かれは日本の戦争責任の問題に強い関心をもち、それが高じてさまざまの問題に実践的にかかわるようになり、とくに日本の戦争の犠牲になりひどい目にあった人々への援助を自分の使命にするようになった。かれがかかわった問題は、サハリン残留朝鮮人、朝鮮人原爆被害者また強制徴用の被害者など多岐にわたったが、その中で慰安婦問題をとくにとりあげて集中的に取り組んだのは、すべての問題を一気に解決するだけの余裕がなく、また、戦争責任の問題の中で慰安婦問題のもつ重みが特に大きいと考えたからだという。

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アンリ・ルソーが画家として出発したのは40歳代半ばのことで、まがりなりにも名が知られるようになったのは60歳を過ぎてだった。その遅咲きの画家人生も、66歳で中断された。かれはその年で、脚にできた癌性の壊疽がもとで死んでしまったのである。それも極貧のうちで。かれは墓を建てるために必要な資産を残さなかったので、パリの共同墓地にひっそりと葬られたのであった。

「開目抄」は、日蓮が自らの信念を説いたもっとも重要な書である。日蓮はこれを佐渡へ流された直後に書いた。流されるに先立って、鎌倉龍ノ口の法難と呼ばれる事件があって、日蓮は首を切られそうになったのだったが、折からの天変地異が刑吏を尻込みさせ、九死に一生を得たのだった。日蓮は死一等を減じられて佐渡に流される。その佐渡で、自分の過去を振り返りながら、法華経の行者として、法華経の教えをあらためて説いたのである。そんなわけでこの書には、法華経の行者としての日蓮の決意が延べられるとともに、法華経の教えの核心が説かれている。「立正安国論」以前には、折伏と称して、他宗(特に念仏)への攻撃が中心だったが、ここでは、法華経がいかに優れた教えであるかについて、積極的に説明するというスタンスをとっている。いわば論証の書である。その論証を日蓮は、法華経及び涅槃経を中心とした大乗経典を根拠にしながら行っている。つまり、法華経の優れている所以を、法華経自体に求めるというやり方をとっているわけで、その点では、西洋流の形式論理になれた者には、循環論法のように見えなくもない。

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1961年の映画「不良少年」は、羽仁進によるドキュメンタリー・タッチの作品である。不良少年たちの非行振りと、それがもとで少年院に入れられた少年たちの日常を描く。朝日という一少年に焦点をあて、かれを追う形で同時代の不良少年が抱えているさまざまな問題を浮かび上がらせようとするような演出である。

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「群仙祝寿図」は、鉄斎自身の長寿を祝って描いたもの。その旨が箱書に記されている。寿老人を囲んで、数人の仙人が祝福している場面。寿老人が鉄斎の自画像であるとされる。

ディストピア小説には、大きく分けて二つのタイプがある。一つはオーウェルの有名な小説「1984」に代表されるもので、強大な権力による個人の抑圧が主なテーマだ。この手のディストピア小説は、わかりやすく、また現実の権力と密接に結びついているので、権力が可視的に暴力を伴うようになると、それを批判する意味合いで小説のテーマに取りあげられることが多くなる。

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クールベは反権力的な傾向が強くて、若い頃から政治的なメッセージを発することが多かった。その傾向が高じて、1871年にはパリ・コミューンに深くかかわった。これは独仏戦争にフランスが敗れたことで、ルイ・ボナパルトの第二帝政が崩壊し、その権力のスキをついて、労働者が一時的に新しい権力を掌握しようとした運動だった。それにクールベは、労働者の立場に立って参加したわけだった。

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1973年の映画「日本沈没」は、同年出版された小松左京の同名の小説を映画化した作品。近未来における日本列島の消滅をテーマとしている。荒唐無稽なフィクションと笑い飛ばすには、多少の現実味があるテーマだ。当時は、関東大震災の再来がまじめに議論されていたし、日本が災害に弱い国だという認識がいきわたっていたので、日本の消滅を描いたこの作品は、ある程度の現実感をもって受け止められた。じっさい、38年後には、東北大震災がおきたわけで、この映画が予測したようなカタストロフィが実現してしまった。

瀬戸内寂聴尼が、馬歯百歳を以て大往生した。尼のことだからきっと成仏したに違いない。だから小生はそれを悲しむのではなく、祝いたいと思う。

魔術と神秘主義は、一見して同じように見えるが、厳密には違うとベルグソンは言う。両者とも宗教と深いかかわりがあることは共通しているが、宗教に発展段階の相違があるのに対応して、魔術と神秘主義との間にも、人類の宗教意識の変化に応じた相違がある。単純化して言うと、魔術が静的宗教に対応しているのに対して、神秘主義のほうは動的宗教に対応する。もう少し詳しく言うと、魔術は静的宗教と同時に生まれたのに対して、神秘主義は動的宗教が生まれるための準備役を務めたということになる。

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1954年の映画「ゴジラ」は、いうまでもなく日本の怪獣映画のさきがけをなす記念すべき映画である。すさまじい人気を背景に、シリーズものとして続編が作られ続けたし、その後の日本の怪獣文化の原点となった。小生も小さな子どもの頃に、映画館の暗闇の中で、強大な怪物が暴れまわるさまに、心を躍らせたことを覚えている。

斎藤幸平は、資本主義を前提として気候変動を制御しようとする議論を否定する。資本主義は無制限の経済成長を要求する。その経済成長が資源の収奪とそれにともなう環境汚染を加速する。成長にはエネルギーが欠かせないが、そのエネルギーの増加のための活動が、地球温暖化物質の排出を加速させるからである。したがって、地球温暖化の進行をとめ、気候変動を制御するためには、成長を減速させるかあるいか成長そのものをやめるしかない。それを斎藤は脱成長と呼ぶ。脱成長を前提とした経済システムはコミュニズムしかないから、そうしたシステムは脱成長コミュニズムの形をとらざるを得ないというのが斎藤の主張である。

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「教祖渡海」とは、仏教、儒教、道教の教祖たちが仲良く海を渡るというもので、「三聖吸酢」同様、三教一致をうたったものである。鉄斎好みのモチーフといってよい。

大沼保昭は「『歴史認識』とは何か」の中で、東京裁判やそれに集約される日本の戦争責任について語っていたが、「東京裁判から戦後責任の思想へ」と題したこの著作は、これらの問題について詳細に論じたものである。いくつかの小論文を集めたものなので、重複や繰り返しが多いが、一応大沼の問題意識が出揃った本である。

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「波(La vague)」は、クールベの自然主義的画風を代表する傑作である。画面を二分して、下半分に砕け散る波を、上半分に荒れ狂う空を配した構図は、至極単純なように見えて、かえって自然のたたずまいを如実に感じさせる。

立正安国論は、文応元年(1260)、国主諫暁の書として、時の執権北条時頼宛てに幕府に呈上したものである。奥書によれば、正嘉元年(1257)の大地震に遭遇して国主諫暁を思い立ったという。この大地震に限らず、当時の日本はさまざまな天変地異が襲っていた。その原因を日蓮なりに考え、これは正法がすたれて謗法が横行していることに仏や神々が怒っているためだと結論した。したがって謗法を退け正法を復活させることが求められている。時の権力者が中心となってそれをおこなうべきである。その場合に日蓮が謗法として糾弾したのが法然の念仏宗であり、復活すべき正法としたのが法華経・涅槃経を中心とした釈迦の教えであった。しかし、日蓮の議論が時の政権を動かすことはなかった。逆に法敵の怒りをかい、命を狙われるのだった。以後日蓮は、法華経の行者として謗法と戦い続け、それがもとで常に命の危険を感じながら生きたのである。

ワシントンで開かれた日米韓の高官協議の場で、韓国が朝鮮戦争の休戦宣言を望む意向を示したことに対して、日本側はこれに難色を示したそうだ。日本は朝鮮戦争の当事国ではなく、その休戦について正式に発言できる立場にはない。にもかかわらず、その休戦に対して異議を唱えるのはどういうわけか。

日蓮:中村登

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1979年の映画「日蓮」は、日蓮没後700周年を記念して作られた。製作者の永田雅一は、1958年にも日蓮の伝記映画「日蓮と蒙古大襲来」を製作しているから、日蓮へのこだわりはよほど強いのであろう。

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網川とは唐の大詩人王維のこと。その王維が描いたという雪景図を意識しながら描いた作品である。賛に、その意図が記されている。曰く、「陳継儒がいうに、王維が描いた雪蕉図が睨雲林の清必閣にあり、楊廉夫や雲林自身も題跋をかいた」と。

「路上のX」は、桐野夏生の小説世界の集大成といってよい。もっとも桐野には「日没」という作品があって、それが彼女の文学の最高の達成といえるから、集大成とはいっても、暫定的な意味合いがこもっているのは否めない。この作品は、日本社会全体をある種のディストピアと想定しているところがあるので、究極的なディストピアをテーマにした「日没」とは連続性を指摘できる。そういう意味では、「日没」に対しては前駆的な意味合いを持っているのだが、それ以前の作品全体に対しては集大成的な意味合いを持つ。言ってみれば桐野は、この小説を書くことで、それまでの自分の文学的達成に一応の区切りをしるす一方で、「日没」というあらたな文学世界へ踏み出したともいえる。桐野にとっては、色々な意味で、画期的な作品なのではないか。

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「女とオウム(La Femme au perroquet)」は、クールベの1860年代半ばの裸婦像の一つだが、これを1866年のサロンに出展したところ、好意的な反応があった。エロチック性を抑えて、ギリシャ神話を思わせるような物語性を打ち出したことが、裸婦像の伝統に反しないと思われたためだろう。

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今井正の1953年の映画「にごりえ」は、樋口一葉の短編小説(十三夜、おおつごもり、にごりえ)を原作にして、オムニバス仕立てにした作品である。三篇とも、因習にとらわれた世界で生きる女を描いたものだ。もともと女の視点に寄り添うような内容の小説だが、今井はそれらを映画化するにあたって、共産主義者らしく、鋭い批判意識を盛り込んだ。きわめてメッセージ性の高い映画といえる。

ベルグソンの宗教論の特徴は、宗教を静的宗教から動的宗教への発展と捉えることである。静的宗教と動的宗教はそれぞれ閉じた社会と開いた社会に対応している。閉じた社会というと、原始的な社会をイメージし、静的宗教はそうした原始的な社会に成立する宗教と思われがちだが、ベルグソンは原始的な社会を特別視はしない。原始的な社会と現代人の社会とは基本的に異なったものではないと考える。原始社会と現代社会を断絶させて考える見方は、獲得形質の遺伝を根拠にしているが、獲得形質が遺伝することはない。だから、いわゆる原始人も現代の文明人も遺伝子は同じである。それであるなら、静的宗教が持つ意義も、原始人と現代人との間で異なるわけはない、と考えるわけである。

立憲民主党の枝野代表が、今回の総選挙における事実上の敗北の責任をとって辞意を表明した。理由はつまびらかではないが、敗北の責任を追及する党内の声に、嫌気がさしたということらしい。それが事実なら、いかにも民主党の後継政党らしさを感じさせる。

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1939年の映画「土と兵隊」は、「五人の斥候兵」に続く田坂具隆の戦争映画だ。一応、戦意高揚映画という位置づけなのだと思うが、この映画を見た当時の日本人が、戦意をかき立てられたかは疑問だ。むしろ戦争の厳しさを感じたのではないか。当局としては、兵隊がこれほど苦労して戦っているのだから、銃後の国民は戦争に協力しろと言いたかったのだろうが、国民としては先の見えない戦争の行方に不安を感じたのではないか。

マルクスの思想の核心的部分は、資本主義への批判と資本主義後におとずれる社会主義・共産主義のビジョンを示したことだ。このうち資本主義への批判については、巨大な影響を及ぼしたといえる。いまでもその有効性が失われていないのは、斎藤幸平のような若い世代がマルクスの資本主義批判を受け入れていることにも現れている。19世紀の半ばごろに確立された資本主義批判の学説が、21世紀なってもまだ巨大な影響を及ぼしつづけているというのは、壮大な眺めだ。しかもマルクスの資本主義批判の影響力は21世紀になってますます高まっているように思われる。それは、モーゼの宗教がモーゼの死後数世紀を経て強固なものになったというフロイトの説を想起させる。マルクスの説も、マルクスの死後一世紀以上を経て、世界中に受け入れられたのである。

岸田政権が分配重視の政策を打ち出している。とくに、子育て世帯や生活困窮者の所得補償を中心として、労働者の賃金の底上げもしたいと言っている。スローガンは、「分配なくして成長なし」だ。小泉政権以来の新自由主義路線は、「成長なくして分配なし」といっていたから、その正反対のように思われるが、よくよくみると、どうもそうではないらしい。

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三老とは蘇東坡、黄山谷、仏印禅師をいう。この三人が集まって酢を飲んだという故事が中国に伝わってきた。三者はそれぞれ、儒教、道教、仏教を代表するので、三教一致の象徴的な話になっている。三聖吸酢とも三養吸酢ともいわれる。

大沼保昭は日本の現代史研究者で、とりわけ戦争責任について論じてきた人だという。学者としてだけではなく、従軍慰安婦問題について「アジア女性基金」の設立に深くかかわるなど、実践的な活動にも取り組んできた。その大沼に対して女性ジャーナリストの江川紹子が、聞き手としてインタビューしたものが「『歴史認識』とは何か」(中公新書)である。

無覚先生:四年ぶりに総選挙が行われました。今回は珍しく任期満了に伴う選挙です。前任の菅総理大臣に解散をする力がなかったためといわれています。それほど自民党は落ち目だといわれ、今回の選挙ではだいぶ苦戦するのではないかといわれていましたが、フタを開けてみると意外と健闘しましたね。むしろ野党が苦戦した。今回は野党間の共闘体制が整って、立憲を中心にして統一候補を多数擁立できたにもかかわらず、肝心の立憲は議席を減らした。これは意外な結果でしたね。

クールベには、裸婦へのこだわりがあって、「画家のアトリエ」では、そのこだわりが突然吹き出てきたように感じさせたものだが、1860年代の半ばごろには、興が高じたとみえて、多くの裸婦像を描くようになる。その中にはポルノ写真を思わせるものがあって、クールベの性的な嗜好に眉をひそめさせることもある。

「守護国家論」は、日蓮のまとまった論書としては最初のものである。正元元年(1259)鎌倉での著作である。時に日蓮三十八歳。比叡山での修行を終え、法華の行者としての自覚を深めた日蓮が、法華信仰の意義を説き、かつ邪法を退けるべき所以を説いたもの。邪法として名指しされるのは念仏と禅だが、ほとんどが念仏への非難に費やされている。その意図を日蓮は、邪智の聖人(法然)が、「末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を作り・・・実教を録して権経に入れ、法華真言の直道を閉じて浄土三部の隘路を開く」ことは赦せんと言っている。

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