2021年12月アーカイブ

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ルソーは子供の絵を多く描いた。アンデパンダン展の目録に乘っているものを数えると11点ある。子どもが好きだったということもあろうが、それよりも記念写真代わりに注文を受けて描いたようである。「ポリシネル人形を持つ子供」は、その代表的なもの。

化身:東陽一

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東陽一の1986年の映画「化身」は、渡辺淳一の同名の小説を映画化した作品。原作は、前年の1985年から同年にかけて日経新聞紙上に連載され、大いに評判になった。これは要するによく工夫されたポルノ小説なのだが、当時は男の間でポルノ小説が人気になっていて、そうした時代の風潮に日経が乗じたかたちだった。日経としては、企業戦士たちの味方として、日々奮闘しているかれらのための息抜きとでも思って、ポルノでは定評のあった渡辺に書かせたということだろう。渡辺はその期待によく応え、この作品はかれの代表作となった。

フロイトは「性に関する三つの論文」の中で、ナルチシズムについては注の中で触れているに過ぎず、性対象選択に関連させてあっさりと言及しているだけだった。その本意は、ナルシシズムを性対象倒錯の一種と見ることだったようだ。「ナルチシズム入門」は1914年に書かれたものだが、その著作でフロイトは、ナルチシズムについて詳しく論じている。

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東陽一の1980年の映画「四季・奈津子」は、前作「もう頬杖はつかない」に続き、若い女性のなんとなく流されながら生きていくさまを描く。青春映画といってよいが、底抜けの明るさはなく、かえって分別くささを感じさせる作品である。この映画で主人公役の奈津子を演じた烏丸節子は、その豊満な肉体が男たちの気持ちをそそった。決して美人ではないが、プリッとした尻の描く優美な線が独得のエロスを感じさせたものだ。
日本の歴史の中で、男優位の原理が男尊女卑という形で確立されたのは明治時代である。明治維新は、徳川幕府から西日本の藩閥勢力への権力の移動をもたらしたが、新たに権力の座を占めた藩閥勢力が行ったことは富国強兵政策である。国を富まし兵力を充実させなければ、欧米列強に植民地支配される恐れがあったからだ。その考え自体は間違っていないと思うが、しかしそれが男尊女卑の方向をとると、女たちにとって住みにくい社会が訪れるのは如何ともなしがたかった。

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松園には、浮世絵、肉筆画をとわず、先人特に徳川時代の著名な画家の作品を換骨堕胎して自分の絵のモチーフに取り入れることが多かった。「美人之図」と題されたこの絵もその一つ。これは三畠上龍の「灯篭美人図」をほぼそっくり真似たものである。今なら盗作呼ばわりされる可能性が強いが、明治の日本にはそんなにうるさいことを言うものはいなかった。

中田孝は、2015年に中東でISILによる日本人拘束事件が起きた時に、仲介役を買って出て、余計なことをするなと安倍政権に眼の敵にされ、またメディアのバッシング対象になったことで一躍有名になった。中田はイスラム研究者であり、自身イスラム教徒であることを公表している。その中田について内田は、「僕たちはまったく対立的な、相容れない立場にいる」と言っている。その意味は、内田自身はナショナリストであるのに対して、中田は国境を軽視するコスモポリタンであるということのようだ。

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アンリ・ルソーは、同時代の大家で新古典派の重鎮レオン・ジェロームを尊重していて、度々自分の作品の手本とした。前に紹介した「眠れるジプシー女」はその代表的なものだが、1902年の作品「幸せな四重奏」にもジェロームの影響が指摘できる。

日蓮の時代には庶民の間で即身成仏への関心が高まった。弟子の中には、どうしたら即身成仏できるかについて日蓮に手紙で問い合わせる者もいて、それに対して日蓮は、懇切丁寧というわけではないが、一応答えている。それはひたすら七文字の題目を唱えれば、生きたまま成仏できるというようなものだったが、そこには当然、即身成仏についての日蓮なりの考えが反映されていた。では、日蓮にとって即身成仏とは何だったのか。

安倍晋三元首相が、プーチンとの度重なる対話の中で、北方領土の問題について二島返還に舵を変えていたことを認める発言をしたというふうにメディア等で伝わってきた。これまで憶測に過ぎなかったことが、本人の発言で裏付けられたということだ。

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原一男の1994年の映画「全身小説家」は、作家井上光晴の晩年に肉薄したドキュメンタリー作品である。原はこの作品の制作に5年間を費やしたというが、なぜ一映画人としてそこまでの執念を以て井上を追いかけ続けたのか。井上といえば、虚言癖や奇行で知られ、前代未聞のユニークな作家として変な名声があったので、それに惹かれたのかもしれない。たしかにこの映画は、井上のグロテスクな部分を包み隠さずさらけだしている。それを見て井上に敬意を感じることはむつかしいであろう。井上本人としても、自分の姿があからさまに暴かれることには抵抗があるのではないか。だがそう感じるのは、小生のようなお人よしくらいなもので、井上本人はかえってそれを楽しんでいる風情がある。とにかく不可思議な人物をとりあげた不思議な作品である。

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上村松園には、絵画史上の先行作品を参考にし、それを換骨堕胎して自分の作品に取り入れる傾向があった。歌麿らの浮世絵美人画は、松園がもっとも利用したものだが、この「虫の音」と題する作品は、近世初期の風俗画「彦根図屏風」を踏まえた作品。

「透光の樹」は、高樹のぶ子の一連の官能小説の頂点をなすものだ。前に読んだ「蔦燃」に比べると、構成の点でも文体の点でも各段の進歩が認められる。官能的という面でも、一段の進化が見える。その進化は、高樹が人間の性愛を即物的な面に還元したことから生まれてくるようだ。この小説で描かれた男女の性愛には、精神的な要素はほとんどないに等しい。なにしろ小説の主人公である千桐という女性が、「女は思わないで感じちゃうから」と言って、女が性愛をもっぱら下半身のことがらとしてとらえているほどなのだ。そんなわけだから、この小説で描かれた男女の性愛はとことん下半身にかかわることとして割り切られている。そういう意味で、官能小説の旗手といわれる高樹のぶ子は「下半身の作家」ということができよう。

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1899年9月に、ルソーはジョゼフィーヌと結婚した。彼女はノルマンディ出身の庶民の娘で、敬虔なカトリックだったといわれる。そのほかのことはほとんどわかっていないが、ルソーはクレマンスの死後間もない頃に彼女に思いを寄せて以来、ほぼ十年越しの恋が実って結婚したのだった。

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東陽一の1978年の映画「サード」は、かれにとっての出世作になった作品。翌79年の「もう頬杖はつかない」とともに、ユニークな青春映画作家としての名声を確立した。東の代表的な映画は、子どもや青年の感性のようなものをテーマにしているので、「サード」はそうした東の映画的な感性が前面に出た作品といえよう。

小児期にも性欲動の働きはあり、それが肛門を対象とした形をとりやすいこと、また、成人の性目標倒錯の中には肛門に固着したものが見られるなどについて、フロイトは「性に関する三つの論文」のなかで触れていた。その肛門愛が性格に及ぼす影響につい主題的に論じたのが、「性格と肛門愛」と題する小論である。これは、「三つの論文」よりほぼ三年遅れて1908年に発表された。

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今井正の1959年の映画「キクとイサム」は、混血児への差別をテーマにした作品である。社会派の巨匠と呼ばれた今井正の作品の中でも、もっとも鋭い社会意識を感じさせる作品で、しかも深いヒューマニズムに裏付けられており、今井の代表作たることを超えて、日本映画史に残る傑作といってよい。

記紀神話は、太古の日本が女性優位社会であったことの遠いこだまのようなものだったといえる。記紀神話が編纂された奈良時代初期には、次第に男性優位の社会へとかわりつつあった。それを反映するように、神武天皇以後の歴代天皇は、神話的なものも実在したものも、みな男性的な原理を体現しているように描かれている。それでも、女神である天照大神を皇室の祖先としたのは、やはり長く続いた女性優位社会の記憶が、いまだ強く残っていたことを物語っているのではないか。

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松園は早くに父をなくし、母親の手一つで育てられたこともあって、母親への思慕を思わせる作品が多い。「月影」と題したこの絵は、母娘のむつましいたたずまいを表現した作品。母親が柱の影から顔を出して月を眺めあげ、その背後には幼い妹娘が控える一方、姉娘のほうは廊下に映った松の木影を見つめている。

「憂国論」と題した鈴木邦男と白井聡の対談は、三島由紀夫と野村耿介の話題から始まる。三島はいわゆる新右翼の誕生に大きな影響を及ぼしたようだ。鈴木はその三島を人間として尊敬しているわけではなく、右翼にとっての理論的な支柱として尊重しているという。三島の右翼めいた活動は、晩年の五・六年のことだが、鈴木が三島について評価するのはその部分だけで、それ以前の三島は全く眼中にない。また、右翼としての三島についても、三島個人というよりも、森田必勝と一体となっている三島を評価するのだという。鈴木は、三島問題は森田問題だというのである。例の事件で、三島だけが死んでいたら、川端康成と変わらぬ扱いを受けたのではないか。ただの作家の自殺だと。ところが森田が一枚かむことで、極めて政治的な事件として受け取られた。その政治性は、その後の日本の右翼を強く刺激してきたというのである。

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「眠れるジプシー女(La Bohémienne endormie)」は、「戦争」とともにルソーの中期の代表作。1897年のアンデパンダン展に出展した。あいかわらずからかい半分の酷評が多かったが、好意的な評もあった。「ルヴュ・ブランシュ」誌には、ルソーの単純さを讃える評がのったが、それには当時のルソーの親友ジャリの意見が反映していたらしい。

「諫暁八幡抄」は、弘安三年(1280)の十二月に書かれた。この年は、蒙古再襲来の前年である。第一次襲来から六年たっており、再襲来近しとの異常な緊張感が日本全土にみなぎっていた。この書はそうした緊張感を背景にして書かれている。文書の名宛人は、日蓮の弟子たちは無論、北条政権はじめ日本の権力者のすべてに向けられていた。題名にあるとおり、この書で日蓮が取り上げるのは日本古来の神への批判である。日本古来の神が、法華経をあなどり、しかも法華経の行者である自分を迫害したことに、仏たちが怒って天罰を下したのが蒙古襲来である。このまま態度を改めねば、日本は再度蒙古に襲来され、滅びるであろう。そういって日蓮は、日本古来の神が法華経に帰依すべきことを説いている。そこには日蓮一流の神祇観が見られる。そういうわけでこの書は、日蓮の神祇観を代表するものとして位置付けられている。

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2017年のフランス映画「田園の守り人たち(Les gardiennes)」は、第一次世界大戦下のフランスを舞台に、男たちを戦争にとられて働き手を失った女たちが、けなげに銃後を守る様子を描いた作品。フランス映画としてはめずらしく社会的な視線を感じさせる。もっとも映画の舞台は、100年も前のことなので、大方のフランス人にその時代についての現実感覚があるかどうかは疑わしいが。

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遊女亀遊は、横浜岩亀楼の遊女であったが、外国人を客にとることを潔しとせず自害して果てた。その折の辞世「露をだにいとふ大和の女郎花降るあめりかに袖はぬらさじ」は、あまりにも有名である。この絵は、そんな亀遊の心意気が伝わってくるような作品である。

久しぶりに読んだ高樹のぶ子の小説第二冊目「蔦燃」は、まさしく小生の記憶にあった高樹らしさが現れた作品だ。高樹の高樹らしさを小生は、官能的というところに認めているので、前回読んだ出世作の「光抱く友よ」はそれに当てはまらなかったのだが、この「蔦燃はまさしく官能的な小説である。というか、その性愛の描写は、ポルノ小説といってよいほどである。小生は高樹を長い間、日本を代表する女性ポルノ作家と思ってきたのである。

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ピカソがルソーに深い敬意を表していたことはよく知られている。ピカソはその敬意の印として、大勢の友人を集めた夜会を開き、そこにルソーを招いた。美術史上有名な1908年のピカソのアトリエの夜会である。その夜会の席では、会場のもっとも目立つ場所に、ルソーの「女性の肖像(Portrait de femme)」という絵が飾られた。ピカソはこの絵を、ジャンク市場でたった五フランで買ったのだが、それ以来大事にしていた。いまでもピカソ美術館に保存されている。

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オリヴィエ・アヤシュ・ヴィダルの2017年の映画「12か月の未来図(Les grands esprits)」は、フランスの教育格差をテーマにした作品。それにちょとした失恋を絡ませて、観客を不思議な気持ちに導いてくれる。味わい深い映画である。

男女の間の性器の結合を正常な性行為と呼び、それを目指す欲動を正常な性欲とすれば、それから逸脱したものは変態性欲あるいは性的偏移という。この「変態」という言葉には、否定的な価値観が込められておりがちで、正常人と異常人との絶対的な断絶をイメージさせるので、正常と異常との関係を相対的なものと考えるフロイトは、「偏移」という言葉の方を好んだ。もっとも、「思春期における変態」という具合に、「変態」という言葉を使用することはあった。

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ステファヌ・プリゼの2016年の映画「女の一生(Une vie)」は、モーパンサンの有名な小説を映画化した作品。小生は学生時代に原作を読んだことがあるが、内容は大方忘れてしまった。ただ、プチブルの俗物根性を描くのが得意なモーパッサンが、フランスの貴族階級に属する人間たちをモチーフにとりあげたのが、以外に思われたことを覚えている。

これまでの部分で小生は、日本は古来女性優位の社会であったと主張した。神功皇后と応神天皇にまつわる神話は、それを象徴的に示したものといえる。この神話は、応神天皇の統治の正統性を説くかにみえるが、実は日本の皇統が女性である神功皇后を通じて伝えられたと説くことに主眼があると見てよい。神功皇后と応神天皇はあくまで神話的な人物であって、その実在性は確実視されているわけではない。そういう意味で神話というのだが、その神話を通じて太古の日本人は、日本社会のもつ女性優位の傾向を説明しようとしたのであろう。

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上村松園は生涯を通じて美人画一筋に描いたが、モチーフになったのは、和装の女性たちであり、しかも現代の女性というより、過去の女性が殆どだった。それも徳川時代の女性である。文明化した近代日本で、徳川時代の女性たちに美の典型を求めたわけである。

内田樹と白井聡は、どちらも日本の対米従属を強く批判してきた人間だから、この対話本の中で、日本の対米従属ぶりを属国にたとえて議論しているのは、わかりやすい。かれらは、この数年前にも、「日本戦後史論」と題する対談の中で、戦後日本の対米従属を厳しく批判していた。今回は、その批判を一層深化させたというふうに読める。

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「砲兵たち」は「戦争」と同じ時期に描かれたと思われる。「戦争」のほうは戦争の残酷さを描いているが、こちらは戦士たちの勇敢な姿を描いている。ルソーには約五年間の軍隊生活があり、これはその体験を踏まえた作品かとも思われているが、実はそうではないらしい。ルソーはこの絵を、実在の歩兵部隊を前にしてではなく、記念写真をもとに描いたらしいのである。

下山抄は、建治三年(1277)日蓮55歳の時に書かれた書状である。あて先は甲斐の下山光基という。光基の弟子稲葉坊日永が日蓮にしたがって法華経に帰依した。光基は念仏行者であり、稲葉坊に阿弥陀堂を守らせていたのであるが、その稲葉坊が念仏を捨てて法華経に走ったというので、光基はいたく怒った。その怒りを解くために、日蓮が稲葉坊にかわって弁明の書状を書いたと言われる。弁明の書であるから、折伏の攻撃性はやわらぎ、相手を説得しようとする熱心さがうかがわれる。じっさい光基はこの書状が大きなきっかけとなって日蓮に帰依するようになった。そういう点では、人を説得する力を感じさせる文章である。

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すりは、世界中どこでもいる。日本にも無論いる。日本のすりは、生活に迫られて余儀なくやるタイプと、ある種のゲーム感覚でやるタイプとに大別できるようだが、フランスのすりには、実存主義風の理屈をつけて自分の行為を正当化するのもいるらしい。ロベール・ブレッソンの1959年の映画「すり(Pickpocket)」は、そんなフランスならではのユニークなすりを描いている。

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上村松園は早熟な画家で、15歳にして画名をあげた。その年に行われた第三回内国勧業博覧会に出展した「四季美人図」が、折から来日中の英国の王子の目にとまり、買い上げられたのであった。そのことを地元の「日の出新聞(京都新聞の前身)」が報じたので、上村は一躍有名になったのであった。

小生は中年の頃に一時期、高樹のぶ子の小説にはまったことがあった。その折には、官能的なところが気に入ったように思う。男の書く官能小説は、どこか作り物という印象が付きまとうが、高樹の小説には、妙な現実感があった。その現実感とは、性の衝動を素直に表現するところから来ているように感じられたものだ。女でなければ表現できない性的な感情、それをストレートに表現するところは、男をたじたじとさせる迫力をもっている。

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「戦争(La guerre)」と題したこの絵は、ルソーの初期の代表作というべきもので、1894年春の第十回アンデパンダン展に出展された。ルソーは前年の1893年の12月に長年つとめていたパリの入市税関をやめたが、それはこの作品の制作に打ち込むためだったともいわれる。ルソーはいよいよ画家としての自分に確固たる信念を抱くようになったのであろう。

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ロベール・ブレッソンの1956年の映画「抵抗( Un condamné à mort s'est échappé )」は、ドイツ軍によって監獄に収容されたフランスの軍人が、脱獄を試みる様子を描いたもの。対独レジスタンスの一コマといってよい。原題に「死刑囚が逃げた」とあるように、主人公のフランス兵はナチスによって死刑を宣告され、絶望的な状況を生き残るために、脱獄を選ばざるを得なかたったのである。

フロイトの理論体系には二つの柱がある。無意識の強調と性欲論である。フロイトは、人間の行動に及ぼす無意識の役割をはじめて体系的な形で明らかにした人である。それまで無意識は、哲学においても科学においてもほとんど着目されることがなかった。その無意識の意義を、精神分析を通じて明らかにした。ほぼ同じ頃に、やはりユダヤ人であるベルグソンが、哲学の領域で無意識を取り上げた。この二人の業績によって、無意識は人間の心を構成する重要な領域として、哲学的にも科学の上でも前景化されることになったのである。

四方山話の会が、最後にフルメンバーで集まったのは2019年7月のことだ。その後、コロナ騒ぎがあったりして久しく絶えていたが、世の中が多少落ち着いてきたのを見計らって、思い切って再会することとなった。例によって石子がフルメンバーに呼びかけ、八人を限度として参加者を募ったところ、九人が集まることになった。二年ぶりの再会の場所は、新橋の焼き鳥屋古今亭である。

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ロベール・ブレッソンは、戦後フランス映画界に独自の存在感を示した監督である。ルネ・クレマンやジョルジュ・クルーゾーのような派手さはないが、堅実な映像作りを通じて、独特の雰囲気をかもし出した。1951年の映画「田舎司祭の日記(Journal d'un curé de campagne)」は、ブレッソンの代表作である。

パンパン・コンプレックスは被支配感情を源泉としている。支配されているというのは、人間にとって不愉快なものだ。それは恐れと反感をもたらす。しかし反感は簡単には表出できない。そんなことをすれば、自分を支配している強者によって手ひどい扱いを受けるからだ。だからその反感は抑圧されざるを得ない。個人の場合においては、その抑圧はエディプス・コンプレックスをもたらす。エディプス・コンプレックスとは、子供にとって圧倒的に強大な父親への反感にその起源をもっている。その反感は抑圧されざるを得ない。でなければ父親によってこっぴどい仕打ち(去勢)をされかねないからだ。集団においては、抑圧にともなうコンプレックスはもっと複雑な形をとる。トーテミズムはその顕著な例だ。戦後日本におけるパンパン・コンプレックスも、集団的な規模での抑圧がもたらしたものだ。

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上村松園(1875-1949)は、明治以降の近代日本画の礎石を築いた画家の一人と評価される。決して日本画全体を代表するようなものではないが、これがなければ日本画が物足りなく感じるであろうことは誰もが認めるだろう。日本画の主流は横山大観ら、狩野派をはじめとした日本画の伝統を踏まえたものだったが、松園は鏑木清方とともに、風俗画風の美人画に新しい境地を求めた。美人画は徳川時代に既に、浮世絵としてある程度の完成を見せていたが、松園や清方によって、本格的日本画の中心に躍り出たのである。以後美人画は、日本画の有力なジャンルとして発展していく。

井出孫六は、社会派の作家として知られ、ルポルタージュ作品も多く手掛けている。なかでも有名なのは、秩父困民党にかかわる一連の業績である。連続射殺魔といわれた永山則夫に関心を示し、その作家としての活動をサポートしたりした。その井出が、中国残留邦人問題に強い関心を持ったのは、自分の出身地である信州佐久谷をはじめ、長野県の各地から満蒙開拓団が多数組織され、そのかれらが敗戦の混乱にまきこまれて、多くの子供や女性が中国に残留を余儀なくされたことへの、人間としての義憤を感じたからだということが、この本「中国残留邦人」(岩波新書)からは伝わってくる。

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ルソーの肖像画には著しい特徴がある。風景と一体となっていること、人物が正面を向いており、ほとんどの場合立っていることだ。バラ色の服の少女(Jeune fille en rose)」と題したこの絵は、その典型的なものだ。

建治二年(1276)、阿波清澄寺の僧侶道善坊が死去した。その報を受けて書いたのが「報恩抄」である。日蓮はこれを弟子の日広に持たせ、身延から阿波まで届けさせている。道善坊は、日蓮が12歳で清澄寺に入山したときの師匠であり、16歳にして得度を施してくれた人物。日蓮にとって、信仰上の父親ともいうべき人物だ。清澄寺自体は天台宗の寺院であり、日蓮も天台の教えを受けたのだったが、その後道善坊は念仏に宗旨替えし、法華経に帰依することはなかった。そんな道善坊を日蓮は厳しい目で見ていたが、さすが恩愛の念は捨てがたかったのであろう、その死を悼んで書を寄せた。しかし、ただの哀悼の書ではない。「報恩」という言葉を使ってはいるが、むしろ道善坊の過ちを責め、その過ちを法華経の功徳によって正してやろうという意気込みがこもっている。そうすることで、道善坊が阿鼻地獄に陥ることを免れ、救われることを願ったのだといえる。


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ウニー・ルコントの2015年の映画「めぐりあう日(Je vous souhaite d'etre follement aimee)」は、実母を知らないまま養子として育てられた女性が、実母を求めて捜し歩くさまを描いた作品である。それに、フランスらしい人種差別問題とか、プライバシーの問題とかを絡めている。

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「瀛洲僊境図」は鉄斎最晩年の作品。鉄斎は大正13年の12月31日に死んだのだが、この絵はその三日前に、主治医の浅木直之助に贈ったというから、鉄斎にとって文字通り絶筆というべきである。

小生は、中年に差し掛かった頃に、高樹のぶ子を好んで読んだものだったが、それはポルノ小説としてだった。女の筆で描かれたポルノの世界は、男のそれとは全く違った官能性を感じさせる。高樹のポルノは実に生々しい官能性に充ちているのだ。

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1892年は、フランス革命を経て共和国宣言が出されてからちょうど百年目にあたり、フランス各地で祝祭が催された。パリにおけるその祝祭の様子を描いたのが「独立百年祭」と題したこの作品だ。同年のアンデパンダン展に出展された。

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ジュリアン・デュヴィヴィエの1955年の映画「わが青春のマリアンヌ(Marianne de ma Jeunesse)」は、フランス人好みのおとぎ話をイメージ化した作品。日本でも大変な評判になった。小生も青年時代に見たが、結構興奮させられたことを覚えている。デュヴィヴィエはフランスよりも日本でのほうで高い人気を誇ったのであるが、この映画は中でもかれの代表作として迎えられた。

フロイトの思想史上の意義は、無意識に光をあてたことだろう。デカルト以来の西洋思想はもっぱら意識を舞台として、人間の心的活動についての思弁を展開してきた。存在するとは、ある意味意識されているということであって、したがって意識されないもの、つまり無意識の対象は存在しないとされた。意識こそが世界全体を満たしていたのである。

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ジュリアン・デュヴィヴィエの1932年の映画「にんじん(Poil de carotte」は、ジュール・ルナールの同名の小説を映画化したもの。原作は児童向けの、いわゆる児童文学ということになっているが、それにしてはテーマが深刻であり、児童を主人公にした大人のための文学といってよい。大人の心無い振る舞いがいかに子供を傷つけるかを描くことによって、世の大人たちに反省を迫るものといえよう。

坂口安吾の小品に「パンパンガール」と題するものがある。坂口が数人のパンパンとざっくばらんに語り合った様子を描いたものだ。これを書いたのは昭和22年、日本はまだ敗戦のどさくさの中にあり、男たちはうしひしがれていたが、パンパンたちは陽気だった。その陽気さを坂口は「自由で、自然で、明るい」と言って、褒めている。坂口は戦後すぐに「堕落論」を書いて、敗戦が日本人の心の中まで堕落させたと批判していたが、そんな坂口の目にも、女たちは、堕落どころか、生き生きとして自律的に生きていると映ったようだ。女たちはそれまで自分たちを押さえつけていた男たちの文化が崩壊したことで、かえって解放されたと感じ、自分本来の生き方を追求し始めたように、坂口の目には映った。少なくとも彼が接したパンパンガールたちは、自由で生き生きとした雰囲気をただよわせていたようだ。

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