日本史覚書

日中両国は、海によって隔てられているとはいえ、隣国同士としての長い関係を持ってきた。もっとも国家間の公式な関係は意外と少ない。日本が国家として積極的に中国と付き合ったのは、聖徳太子の時代から平安時代の前期100年ほどまでのほぼ300年のことで、菅原道真のときに遣唐使の派遣が停止されてからは、日本が国家として公式に中国の政府に接近することはほとんどなかった。足利義満が日本国王を名乗って中国の王朝にコンタクトしたのは、例外的なことである。徳川時代には、両国間の民間貿易は黙認というかたちで許されたが、幕府が正式に外交の窓口を開くことはなかった。

2010年に中国は日本を抜いて世界第二の経済大国になった。そのことは中国人のプライドを高めた。中国は長い間西洋諸国によって抑圧され、二流国の扱いを受けてきたが、いまはかつての世界大国としての面目を取り戻しつつある、そのような意識が多くの中国人を捉えた。その意識に支えられたナショナリズムは、日本との間に、ややもすれば敵対的な関係を作り出した。2010年9月に起きた中国漁船の尖閣諸島周辺海域における海上保安庁巡視船への衝突事件は、そうした対立を激化させるものだった。

鄧小平のあとをついだ形で中国の指導者になった江沢民は、日本に対して強い批判意識をもっていた。その批判意識が日本国民の前に強く示されたのは、1998年に国賓として日本を訪問したときだった。かれを主賓に迎えた宮中晩餐会の様子はテレビ放映されたのであるが、その場でかれは、子どもに説教するような調子で日本人への説教を繰り返したのであった。それを見た日本人は、これまで何度も謝罪してきたにもかかわらず、宮中晩餐会のような厳かな場で、なおも謝罪を要求する中国指導者に辟易させられたものである。

1989年6月の天安門事件は、中国の改革開放政策の影響と、ソ連・東欧における民主化の動きとが相乗的に作用して起きたものだった。後に鄧小平がこの事件を回想して次のように言っているとおりだ。「この風波は国際的な大気候(和平演変、社会主義体制の平和的転覆)と国内的な小気候(ブルジョワ民主化)によってもたらされ・・・党と社会主義を転覆させ、完全に西側に隷属したブルジョワ共和国を実現しようとしたものであり、遅かれ早かれやって来るものだった」(天児慧「中華人民共和国史」から引用)

中国が改革解放に向けて舵を切り替えるのは、1978年12月の中国共産党第十一期三中全会がきっかけだったと言われる。たしかにこの会議で鄧小平のイニシャティヴが確立され、改革解放への方向が基本的に定まったとはいえるが、すぐにその政策が実行されたわけではなかった。共産党の指導部には華国鋒が大きな勢力を誇っており、華国鋒自身は毛沢東の忠実な後継者として、社会主義建設への強固な意志を持っていた。ところが社会主義建設路線と経済開放とはとかく愛想が悪い。本当に経済の開放を進めるには、社会主義への頑固なこだわりを捨てねばならない。そんなことから、改革開放路線派にとって華国鋒は当面の障害になった。改革開放路線が本格的に始動するのは、鄧小平が華国鋒の追い落としに成功して以後のことである。

池田勇人のあとをついだ佐藤栄作は、実兄の岸信介同様親台湾派で、大陸との関係改善には熱心でなかった。格上の同盟国アメリカも、台湾との関係を重視し、大陸の政権を敵視していると考えていた。ところがそのアメリカが、日本の頭越しに中国との関係改善に乗り出した。1971年7月にアメリカの国務長官キッシンジャーが中国を公式訪問し、米中間の国交正常化に向けた協議をしたのである。それを踏まえ、翌72年の早い時期にニクソン大統領が中国を公式訪問し、米中関係の正常化を実現する予定だとアナウンスされた。

岸信介のあとを継いだ池田勇人は、岸に劣らず強権的なところがあったが、岸が世論から浮かび上がり、政権を失わざるをえなかった姿を見て、一転柔軟姿勢に切り替えた。「低姿勢」と「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにして、国民にとって親しみやすい宰相のイメージ作りに腐心した。政策的には、国民の大きな関心事であった経済復興に力を入れた。「所得倍増計画」はその中核的なものである。その池田のもとで、日本は高度経済成長と呼ばれる時代に突き進んでいくのである。

アメリカはじめ連合国と日本との間の戦争を終了させ、日本の独立を回復させるための講和条約の締結を目的として1951年にサンフランシスコで会議が催された。その結果1951年9月に講和条約が締結され、翌52年4月に発効した。それによって日本は主権を取り戻した。しかしこの条約には、連合国の重要なメンバーだったソ連と中国は加わらなかった。冷戦が深刻化していたし、その爆発形態としての朝鮮戦争が進行中だったからだ。

日本の敗戦によって、朝鮮は統一国家として独立するはずだったが、そうは行かなかったのは冷戦の影響である。冷戦が表面化するのは戦後しばらくたってからだが、終戦頃にはすでに米ソ対立のきざしはあった。その対立のために、朝鮮は南北に分断される方向に進んだ。ドイツが東西に分裂する方向に進んだのと同じプロセスをたどったわけだ。

日本の敗戦によって、台湾は中国に返還され、朝鮮は独立し、日本の傀儡国家満州国は消滅した。まず台湾について、中国への返還プロセスを見ておこう。朝鮮や満州国と異なり、台湾においては、日本による統治はすぐさま崩壊したわけではなく、しばらくの間、台湾総督府もそのまま存続していた。統治権が中国に正式に返還されるのは1945年10月のことである。10月17日に蒋介石が派遣した国民政府の役人200名が、国民政府軍約1万2000人とともに、アメリカの艦船に乗って台湾に上陸し、同月25日に日本の降伏式典が行われた。それ以後台湾は、蒋介石の国民政府の統治下に入る。なお、10月25日は今でも、「光復節」として記念日になっている。

日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したという情報は8月10日に中国に伝わり、臨時首都重慶の町は喜びにあふれた。8年間に及ぶ過酷な戦争がやっと終わったのだ。それも中国の勝利という形で。日本の天皇があの玉音放送を日本国民に向けて行った8月15日には、蒋介石が中国国民に向かって勝利宣言のラヂオ放送を行った。この勝利は、欧米の連合国に日本が敗れた結果であって、中国が武力で日本を破ったわけではなかったのだが、中国ではとにかく、どんな理屈でもよいから、日本に勝利したという言説が支配したのである。

日中戦争が泥沼化する一方で、日本は別の戦争を始めた。対米英開戦である。1941年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃、ほぼ平行して、東南アジアにおける英艦隊を攻撃するとともに、マレーシアからシンガポールを経てインドネシアに至る広大な地域を占領した。これによってアメリカ、イギリスが日本に宣戦布告し、世界中が連合国と枢軸国に分かれて相戦う事態となった。これを歴史学では第二次世界大戦と呼んでいるが、日本ではアジア太平洋戦争とか、あるいは(一部で)大東亜戦争などと呼ぶことが多い。

日中戦争の初期に起きた南京事件は、南京大虐殺とも呼ばれるように、日本軍による中国人軍民に対する大規模な虐殺事件として、日中戦争史を暗く塗る事件であった。しかしその全容はいまだ明らかになっていない。事件の経緯も不明確な部分があるし、死傷者の数も明確になっていない。中国側を代表すべき国民党政権が、事件の詳細を調査できる態勢ではなかったし、日本側においては、調査の意図そのものがなかった。それどころか、日本軍は南京事件について国民に知られることを嫌い、徹底した報道管制をしたために、国民は日本が南京を占領したことは知らされたが、そこで何が起きたのかについては全く知らなかった。日本国民が南京事件について知らされたのは東京裁判を通じてである。東京裁判の中で突然南京事件が裁かれたので、国民は俄には信じられなかった。その頃の日本国民は、戦争に対する被害者意識は抱いていても、対戦国の中国に対して、自分の国が言語に絶する不法行為を働いたとは、なかなか信じることができなかった。そういう気分は、いまだに影響力を及ぼしている。そういう気分がまだあるからこそ、南京事件など起こらなかったという言説が、一定の効果を持つのだと思う。

日中戦争は始まるべくして始まったと言ってもよい。日本は朝鮮半島を植民地化し、更に満州を支配下に置き、華北地方までもぎ取ろうとする勢いを見せていた。当時の日本の支配者たちに、どれほど中国を侵略する明確な意図があったか、断定的なことは言えない。歴史上の出来事から推測する限り、日本の中国政策には、かなり偶然的な側面が指摘できる。だが、大局的に見れば、日本に中国支配の野望があったことは間違いない。日本人には、秀吉以来、中国大陸を支配したいという野望があり、それを維新の元勲たちも共有していた。その野望を昭和の為政者が受け継いでいたことは不思議なことではない。

満州に傀儡国家満州国を成立させ、満州支配の基盤を固めた日本は、ついで華北の侵略へと転じた。その突破口となったのは、熱河作戦(1933年)である。これは長城を越えて北京・天津を射程におさめた作戦だった。戦禍が北京にまで及ぶのを恐れた中国側の要望にもとづいて、塘沽協定が結ばれた。この協定で、冀東(河北省北東部)を非武装地帯とし、中国軍は駐在しないこと、また日本軍は長城線まで撤退することが定められた。これは長城線を以て日中の勢力圏の境界とするもので、日本による満州国の領有を事実上認めたものであった。それに加え日本は、長城線まで勢力圏を拡大することとなった。

日露戦争に勝利した結果、日本は満州における利権を獲得することができた。ロシアが持っていた旅順と大連の租借権のほか、満州南部の鉄道の運営権を獲得した。日本はそれらの権益を土台にして、以後本格的な満州侵略に乗り出していく。しかし台湾や朝鮮の場合とは異なり、領有あるいは併合という形はとらなかった。満州国という傀儡国家をつくり、その傀儡を通じて実質的な支配を貫徹するという方法をとった。

中国では1917年以降北京政府と広東政府が並立する状態が続いていて、全国を統一する政権は存在しなかった。北京政府が中国北部を、広東政府が中国南部をそれぞれ統治するという建前だったが、実際にはどちらも低い統治能力しか持っていなかった。北京政府のほうは、いわゆる軍閥の抗争に明け暮れ、広東政府のほうは、自立性の高い各省をまとめるだけの能力がなかった。こうした状況の中から、次第に広東政府が力をつけ、ついには北伐を経て、全国を統一する政権が誕生するのは1928年6月のことである。

中国が第一次世界大戦に参戦したのは、戦勝国となることで、列強との不平等条約を改正し、国権を回復することを期待してのことだった。特に、日本による21か条要求は全面的に撤回させたかった。ところが、中国の要求はことごとく退けられた。そのため中国はヴェルサイユ条約の締結を拒んだのだった。こうした動きは、中国国内のナショナリズムに火をつけた。その結果起きたのが5・4運動である。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。これには袁世凱の中国政府は中立の政策をとったが、日本は参戦した。根拠は日英同盟であった。日英同盟には、一方の国が他国と交戦した場合には同盟国に参戦義務を負わせる規定があった。日本はこれに基づいて参戦しようとしたのだが、イギリスは中国における日本の利権の拡大を望まず、日本の参戦には消極的だった。だが、日本が条約の規定を盾に強く参戦を望んだので、イギリスはそれを受け入れたのである。日本としては、ドイツが中国に持つ利権を横取りする絶好の機会と受け止めて、参戦したのであった。

辛亥革命の前年(1910)、日本は韓国を併合した。これは基本的には日本と韓国の問題で、清国は直接の関係はもたなかった。日清戦争の敗北を受けて、清国は従来朝鮮とのあいだで持っていた宗主権を放棄していたからである。その朝鮮は1897年に国号を大韓帝国に改めていた。これにともない従来の朝鮮王は大韓帝国皇帝となった。皇帝への変化は、清国への服属から脱して独立国になったことをアピールしていたとともに、絶対主義的な君主制の確立を目指したものであった。しかし独立の夢はかなわなかった。韓国は日本によって併合されてしまうのである。

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