読書の余韻

小川洋子が「心と響き合う読書案内」の中で藤原ていの「流れる星は生きている」を取り上げ、絶賛に近い褒め方をしていたので、小生も読んで見る気になった次第だ。小川がこの本を読み返す気になったのは、小説「博士の愛した数式」の取材のために数学者の藤原正彦と対話を重ねたことが直接の機縁だったそうだ。「流れる星は生きている」に出てくる藤原ていの次男正彦ちゃんが、今自分の目の前にいる人だと思い重ねたという。それで、小川の「流れる星」の読み方は大分違ったものになったようだ。

西洋史学者の堀米庸三が書いた「正統と異端」を、キリスト教神学者の森本あんりは、「出版後半世紀以上を経た今もなお光輝を失わない古典的な名著である」と言って、絶賛している。小生もこの本を読んだ記憶があるが、詳しいことは忘れてしまった。そこで改めて読んでみた次第である。

正統と異端の問題は、西洋の神学ではおなじみのテーマなので、キリスト教神学者である森本あんりにとっては、専門分野に属する事柄だといえる。しかし森本がこの本「異端の時代」で取り組んでいるのは、単なる宗教上の問題ではなく、広く社会的な問題としての正統と異端である。そうした問題を森本が取り上げたのは、トランプの登場に象徴される異端の普遍化といった事態だ。森本はアメリカの歴史の底流としての「反知性主義」に深い関心を持っており、トランプもその反知性主義の嫡出子だと捉えるわけだが、その反知性主義が今日では、全体に対する批判というにとどまらず、全体を僭称するようになっている。いわば現代的な意味での全体主義をトランプが体現していると言うのである。そこに森本は民主的な社会にとっての危機を感じ、「正統と異端」という古くて新しい問題を、森本なりの視点から取り上げたということらしい。

2016年に刊行された西山隆行の著作「移民大国アメリカ」は、トランプの移民排斥の主張に強く刺激されて書いたということだが、その二年後に刊行された貴堂嘉之「移民国家アメリカの歴史」もやはり、トランプの主張に刺激されているようだ。移民をどう見るかについては、肯定、否定色々な見方があるが、いづれにしても今日のアメリカが移民なしで成り立たなかったことは明らかだ。移民と言ってもさまざまな背景や、受け入れ方の相違がある。白人の受け入れはおおむね好意を以てなされたが、アジア系の移民はひどい差別待遇を受けてきた。この本はそんなアジア系の人々の立場からアメリカの移民の歴史を振り返ろうとするものである。

この本は2016年に書かれた。アメリカ大統領選挙の真っ最中で、有力候補者のトランプが移民を激しく攻撃していたときだった。トランプは、メキシコからの不法入国者をやり玉にあげ、かれらを殺人犯や強姦魔だと根拠もなく罵り、その不法入国を防ぐためにメキシコとの国境に壁を作り、その費用をメキシコに負担させることを公約にした。そんなことで、移民問題は熱いテーマになっていた。この本はそうした事態を背景に書かれた。

渡辺靖の著作「白人ナショナリズム」は、トランプ在任中の2020年に書かれたものだから、当然トランプを意識しながら書かれている。トランプは「アメリカ・ファースト」を実行したわけだが、トランプの言うアメリカは白人のためのアメリカというふうに受け取られたので、白人至上主義者たちを勢いづけた。その彼ら白人至上主義者の思想を渡辺は白人ナショナリズムという言葉で表現するわけだ。

「文壇アイドル論」で上野千鶴子を話題に取り上げた中で、上野が「おまんこ」という言葉を臆面もなく使っているのは、多くの人々(たとえば小生のような東京圏に暮らしている人間)にとっては非常に抵抗を感じるものだが、使っている上野自身はそうでもないらしい、という指摘があった。その理由を斎藤美奈子女史は、呉智慧の批評を持ち出しながら明かしている。呉は次のように批評したのだ。

「文壇アイドル」とは奇妙な言葉だ。命名者の斎藤美奈子はこの言葉を厳密に定義しているわけではないので、その中身がいまひとつ明らかではないが、どうも芸能界のアイドルを横引きしているらしい。芸能界のアイドルといえば、いわゆるミーハーたちの人気者で、その人気を芸能プロダクションや放送業界が盛りあげながら、そこからもたらされる巨額の収入を分け合うというような構図になっているらしい。だから業界の連中は金のなる木としてのスターの育成に余念がないし、スターはスターでミーハーの人気を獲得するのに余念がないというわけであろう。

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、ドキュメンタリー作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。彼女はまたノーベル賞を貰ったはじめてのベラルーシ人でもある。彼女の仕事としては、戦争体験についての聞書きとかチェルノーブィリの原発事故の後日譚などが有名だという。「戦争は女の顔をしていない」は、彼女の最初の仕事であり、また代表作となったものだ。

独ソ戦は、人類の歴史上もっとも大規模で凄惨な戦争であった。この戦争によるソ連側の死者は従来2000万人といわれていたが、近年の研究で2700万人に上方修正された。ドイツ側の死者数も、さまざまな見積もりがあるが、全体で600万人ないし900万人と推測され、その大部分が独ソ戦にともなうものである。そんなにも巨大な犠牲を出したわけは、独ソ間での全面戦争であったということのほかに、この戦争が、普通の戦争とは違って、民族の奴隷化とか絶滅を目的としたものだったことだ。ヒトラーは、独自の民族観から、ロシア人を劣った人種と見なし、その奴隷化と殺戮を公然と行った。そうした破廉恥な思想が、この戦争を凄惨なものにした。著者の大木毅はこの戦争を、ヒトラーが仕掛けた絶滅戦争と定義づけている。

森嶋通夫は、1999年に書いた「なぜ日本は没落するか」の中で、日本が没落を免れるための施策として「東アジア共同体」構想を提起した(アイデアそのものは1995年に「日本の選択」の中で提示していた)。その構想を、中国人に向かって直接説明したのが、「日本にできることは何か」(2001年)である。これは、天津の南開大学で行った講演をもとにしたものである。森嶋は、中国の大学生は日本のそれよりずっと優秀だから、自分の構想を前向きに受けとめてくれるのではないかと期待していたようだ。

トランプを贔屓する日本人がいるように、サッチャーを贔屓する日本人もいた。トランプやサッチャーを贔屓するのは、だいたいが右翼だと思うのだが、右翼というのは民族主義的心情を強く持っていて、したがって排外的なのが普通である。排外主義者同士が面と向き合うと、それぞれ自国中心の立場から反発しあうのが自然なはずなのに、事情によっては惹きつけあうこともあるらしい。そのへんは人間のことだから、合理的に割り切ることが出来ないということか。

森嶋通夫が「イギリスと日本」(正・続)で取り上げたのは、いわゆるイギリス病の問題だった。イギリス病を森嶋は、資本主義の自然に行き着く先として、ある種避けられない事態として見ていたようだ。イギリスは確かに、昔に比べれば病的になったと指摘できるかもしれない。だが、日本と比べてそんなに悪い社会ではない。かえって善いところのほうが多い。だから、イギリス病を頭から否定するのは間違っている、というようなスタンスが伝わってきたものだ。

近代経済学とマルクス経済学とは水と油の関係だというのが常識的な見方だが、森嶋通夫はマルクスの経済学を、近代経済学の流れの中に位置づける。ということは、近代経済学者はマルクスを毛嫌いするのではなく、きちんと学ぶべきだと言っているわけだ。マルクスの何を学ぶのか。森嶋は、経済学を含む社会科学を、ウェーバーのいうような理念型の分析と価値判断をともなった分析とにわけ、科学的な分析は理念型でなければならないというのだが、マルクスの経済学には、価値判断を伴った分析のほかに、理念型の分析も含まれており、その部分は十分参考するに耐えると評価するのである。

森嶋通夫の「思想としての近代経済学」は、近代経済学の歴史をわかりやすく、しかもユニークな視点から解説したものだ。その視点には二つの特徴がある。一つは近代経済学を、単なる社会科学の一分野と見るのではなく、思想として見ること、もう一つは、従来近代経済学とは水と油の関係にあると見られていたマルクス経済学を、近代経済学の中に含めていることだ。

森嶋通夫は、イギリスと日本を比較しながら、日本社会の硬直性のようなものを指摘しつづけた。かれは80歳まで生きたが、死ぬ直前まで旺盛な執筆活動を行い、日本の未来を憂えてみせた。その森嶋が「なぜ日本は没落するか」というショッキングなタイトルで、未来の日本が直面するであろう悲惨な状態を予言して見せたのは、1999年、死ぬ四年ちょっと前のことである。これを読むと、森嶋の日本に対する深刻な危機意識が伝わってくる。

白井聡は「永続敗戦論」を書いて、戦後日本の対米従属と東アジア諸国への傲慢さの根拠を解明し、それを日本が敗戦の事実を十分に清算出来ていないことに求めた。その結果いまだに永続敗戦レジームというべきものが日本を支配している。そのレジームの中で、対米従属と、したがって国家としての無責任体制が蔓延している。それは異常なことだ、というのが白井の見立てであった。

新潮文庫版の邦訳「ロリータ」には、大江健三郎によるあとがきが付されている。あとがきから読み始めることを日頃の習性にしている小生は、この場合にも大江のこのあとがきから読んだ次第だったが、大江がなぜ、「ロリータ」のためにあとがきを書く気になったか、それはこのあとがきを読んだだけでは明らかにならなかった。たまたま自分の生まれた年がロリータのそれと一致していたとか(両者とも1935年)、小説の導入部分でアナベル・リーへの言及があるが、アナベル・リーこそは自分の青春のあこがれだったとかいったことが書いてあるだけだ。ただ、自分は、ロマンチックな小説を生涯書いたことがないが、「ロリータ」はもっともすぐれたロマンチック小説として、うらやむべきものと思っている、というようなことを書いているので、大江は「ロリータ」をロマンチックな小説として捉えているようである。

フランス文学といえば、強烈な個人主義と男女の性愛が最大の特徴だ。セリーヌの小説「夜の果ての旅」も、その伝統に忠実である。この小説は、強烈な個人主義者フェルディナン・バルダミュの女性遍歴の物語と言ってよい。

大江健三郎には、自分の小説の中でさまざまな文学作品を取りあげ、それへの注釈の形で自分の思想を吟味するという癖があった。「さようなら、私の本よ!」という小説では、セリーヌの「夜の果ての旅」を取りあげている。だが、詳しい注釈をしているわけではない。詳しい注釈はT・S・エリオットの詩に対して施され、「夜の果てへの旅」については、「おかしな二人組」の先例として紹介している程度だ。「おかしな二人組」というのは、大江が自身の晩年の三部作に冠した通称で、大江自身の分身と、それの更に分身と思われる人物との、おかしな二人組の繰り広げる物語を語ったものだった。その大江にとって、セリーヌの「夜の果ての旅」に出て来るバルダミュとロバンソンは、おかしな二人組の先駆者として映ったようなのだ。大江はその小説の中で、おかしな二人組が協力し合って、「ロバンソン小説」なるものを創作しようとするところを描いている。

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