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1860年代の後半以降、コローはリューマチを患うようになって、屋外での写生が困難となり、アトリエで人物画を手がけることが多くなった。「真珠の女(Femme à la perle)」と呼ばれるこの作品は、コローの人物画の代表作である。

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これは「マントの橋(Le pont de Mantes)」を描いた作品。セーヌ川にかかるこの石造りの中世風の橋を、コローは大変気にいり、十数点もの作品が残されている。コローは、若い頃イタリアに旅した折、古代の面影を残す風景に心を奪われ、「ナルニの橋」などを描いているが、そうした古代趣味が、マントの風景によってかき立てられたようである。

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マントは、パリの西50キロほどにあるセーヌ川沿いの小さな町である。コローはしばしばここを訪れ、風景を写生した。なかでも大聖堂と中世の石の橋が気に入り、繰り返し描いている。

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コローは、1850年代を通じて、コロー色と言われる銀灰色を背景に使った叙情的な風景画を描き続けたが、1864年の作品「モルトフォンテーヌの思い出(Souvenir de Mortefontaine)」はその集大作というべきもの。コローの代表作の一つに数えられる。

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1851年のサロンに、コローは「バッカス祭」と題した作品を発表。これは後に「朝、ニンフの踊り(Une matinée : la danse des nymphes)」と改題され、国家に買い上げされた。そのことがきっかけで、コローは大画家としての名声を確立する。

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東京八王子市にある村内美術館は、バルビゾン派の作品を集めていることで有名だ。コローの作品としては、この「少年と山羊(Garçon et chèvre)」及び「ヴィル・ダヴレーのカバスュ」がある。

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コローはサロンで評価されることを重視していて、ほぼ毎年サロンに出展した。だがなかなか高い評価を受けることはなかった。出展作の大部分は風景画であり、なかでもフォンテーヌブローの森を描いたものが多かった。「フォンテーヌブローの森(Forêt de Fontainebleau)」と題したこの作品は、1846年のサロンに出展され、みごと入選した。

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ヴィル・ダヴレーはパリ近郊の村。コローが21歳のとき、父親がこの地に別荘をたてたので、コローはこの別荘に頻繁に滞在して、多くの風景画を描いた。「ヴィル・ダヴレーのカバスュ邸(Maison Cabassud à Ville d'Avray)」は、1935年から40年にかけて製作したもので、数多くあるヴィル・ダヴレーもののなかでも傑作というべきものである。

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コローは、1834年に二度目のイタリア旅行をした。その際には、各地の美術館を訪ねて、精力的に美術作品を見て回ったようだ。フィレンツェのウフィチ美術館にも足しげく通ったことだろう。特別の友好関係を築いたようだ。それは、コローの晩年に、自画像を寄贈してくれるよう館側から依頼があったことに現われている。

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コローは、1831年にフォンテーヌブローの森をモチーフにした作品を4点サロンに出展して以来、数年にわたってフォンテーヌブローにこだわり続けた。「フォンテーヌブローの森の浅瀬(Forêt de Fontainebleau)」と題したこの作品は、1933年のサロンに出展され、次点に輝いた。これがきっかけで、コローは新しい風景画の旗手として、広く世に認められるようになる。

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コローはバルビゾン派の創始者というわけではないが、バルビゾン派の特徴であるフランス風の風景画をもっとも早く表現し、バルビゾン派の画家たちを物質的にも精神的にも援助した。そういう意味でコローは、バルビゾン派を代表する画家といってよい。その活動は、1820年代後半から1870年代前半までの長期にわたり、一貫してバルビゾン派の指導者であり続けた。

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バルビゾン派の画家たちは、印象派の画家たちと並んで、日本人には馴染みが深い。ミレーやコローなどの高名な作品を所蔵・展示する美術館は日本各地にあるし、またミレーの有名な絵は日本の代表的出版社のロゴにも使われている。日本人なら小学生でさえも、バルビゾン派に属する画家の名を知らないものはないほどである。

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「神殿を追われるヘリオドロス(Héliodore chassé du temple)」は、聖シュルビス聖堂の礼拝堂の壁画として製作された。1850年頃にとりかかり、完成したのは1861年のことであった。晩年のドラクロアは数多くの大作の注文を受けており、それらを平行して手がけたので、時間がかかったのである。

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「墓に運ばれるキリスト(Le Christ descendu au tombeau)」は、当初聖シュルビス聖堂の装飾画として、「カルヴァリオの丘(ゴルゴタの丘)への道」とともに一対のものとして構想されたが、後に独立した作品として「カルヴァリオ」とともに1859年のサロンに出展された。

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「レベッカの略奪(L'Enlèvement de Rebecca)」と題したこの絵は、ウォルター・スコットの有名な小説「アイヴァンホー」に取材した作品。「アイヴァンホー」は十字軍時代のイギリスの騎士の活躍を描いた作品で、非常に人気を博していた。ドラクロアはその中の、テンプル騎士団の一員ギルベールが、ユダヤ人の娘レベッカを愛し、城から略奪する場面を取り上げた。

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「火刑台の上のオリンデとソフロニア(Olinde et Sophronie sur le bucher)」と題したこの絵は、ルネサンス期イタリアの詩人タッソーの長編詩「解放されたエルサレム」に取材した作品。この長編詩は、十字軍をテーマにしており、同じテーマを扱ったアリオストの長編詩「狂乱のオルランド」とともに、非常に人気を博したという。

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ドラクロアはシェイクスピアを深く愛していて、「ハムレット」や「ロメオとジュリエット」などに取材した作品を多く手がけている。「オフェリアの死(La mort d'Ophélie)」と題したこの作品もその一つ。「ハムレット」第三幕第七場の有名なシーンをモチーフにしている。

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「マルフィーザ(Marphise)」と題したこの絵は、イタリア・ルネサンス期の詩人アリオストの長編詩「狂乱のオルランド」に取材した作品。この長編詩は、十字軍とサラセン軍との戦いをテーマにしたもので、そこに狂乱したオルランドがからむ。オルランドが狂乱したのは失恋のせいで、その失恋をテーマにした「恋するオルランド」という詩もボイアルドによって書かれていた。「狂乱のオルランド」はその続編という体裁になっている。

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「大蛇ピュトンに打ち勝つアポロン(Apollon vainqueur du serpent Phyton)」と題したこの作品は、ルーヴル宮殿の天井画として制作された。アポロンをモチーフにしたのは、アポロンの間を飾るものだったからだ。ドラクロアはこのモチーフを、オヴィディウスの「メタモルフォーズ」をもとにイメージ化した。

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ドラクロアが裸体画を描くときには、だいたいは神話や伝説の中に登場する女性を、他の登場人物とともに描いており、この作品のように、一人の女性の裸体に焦点を合わせて、アップで描くのは珍しい。日常のなにげない仕草を描いたところは、印象派以後の裸体画、たとえばルノワールやドガなどを連想させる。

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