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トーマス・ジョーンズは、1780年から1783年にかけてナポリに滞在した。かれはナポリの街が気に入り、その都市景観を多く描いた。建物をモチーフにした作品に傑作が多い。「ナポリの建物(Buildings in Naples)」と題されたこの絵は、かれのナポリ街景シリーズの代表作品である。

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1994年のアメリカ映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump ロバート・ゼメキス監督)」は、アメリカ現代史の批判をテーマにした作品。その批判を、知能程度の低い人間の視点から浮かび上がるように作っている。批判されているアメリカは、1950年代の差別と分断が横行するアメリカであり、1960年代の戦争好きのアメリカであり、1970年代以降の金権礼賛的なアメリカである。知能程度の低い主人公には、社会を客観的に批判する能力はなく、現状を受け入れるのがせきのやまである。だが、その受け入れを迫るアメリカ社会があまりにも理不尽に見えるので、おのずから批判の様相を呈するのである。

正法眼蔵第三十四は「仏教」の巻。仏教という言葉を道元は、ここでは三乗十二分教という形をとった具体的な教義の体系という意味で使っている。それを巻の冒頭で次のように表現している。「諸佛の道現成、これ佛教なり」。諸々の仏の言葉が実現したもの、それが仏教だというのである。諸々の言葉が実現したものは、三乗十二分教というかたちで表されている。だから仏道を学ばんとするものは、三乗十二分教を学ばなければならぬ。

小生が大学卒業後の就職先に選んだのは東京都庁だ。自分のホームページのプロフィール欄には、「東京に事務所を置く一地方団体」と記してある。都庁を選んだ理由は二つある。どちらも大したことではないが、一つ目は、大学で仲良くしていた友人から、都庁の採用試験を一緒に受けようと誘われたことだ。その友人は結局都庁には入らず、大手新聞社に努めた。当時は役所の給与は低く、大手企業のほうがはるかに高い収入を得られたので、かれの選択は正しかったのだろう。もう一つの理由は、家族への気兼ねだ。小生は四人兄弟の長男坊なので、ゆくゆくは親と同居して、面倒を見なければならないと考えていた。それには遠方への転勤がないところでなければならない。都庁という職場は、転勤は無論あるが、だいたいが二十三区内に収まると聞いていたので、自宅から十分通える範囲内である。そんなわけで都庁を選んだ次第だった。

西洋のデカルト以降の近代哲学は、哲学の端緒というか出発点のようなものを想定し、そこから議論を展開するという方法をとってきた。デカルトの場合、それは「我思う」という意識の働きであり、その意識の働きが我の実在性を証明すると考えた。カントの場合、原初的な感覚が端緒であり、その感覚を知性が料理することで知覚となり、さらには概念にまで高まると考えた。フッサールの場合、意識の相関者として与えられた現象を端緒とし、その現象を虚心に分析することから概念的な知が生まれると考えた。ベルグソンは意識の直接与件としての知覚を端緒とし、それを分析することで人間の世界観を基礎づけた。そのような哲学的な端緒をドゥルーズは「できごと」に求めた。ドゥルーズの哲学は「できごと」を端緒にして展開するのである。

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トーマス・ジョーンズは、1776年にイタリアに渡り、1783年までそこに滞在した。イタリア滞在中に最初に制作したのが、この「アルバノ湖(Lake Albano)」と題する絵である。アルバノ湖は、ローマの南の郊外にある湖で、ローマの建設者ロムルスとレムスが生まれた地と信じられていた。ジョーンズはこの湖の景色にすっかり感動し、40日もかけてこの絵を完成させた。

セリョージャ公爵はヴェルシーロフ親子と深い因縁がある。ヴェルシーロフとは第三者の遺産相続権をめぐって争ったほか、個人的な怨恨もある。アルカージーとはともに放蕩の限りをつくした。またリーザとは肉体関係を持ち、妊娠させてもいる。ヴェルシーロフ親子はこの小説のカギとなる人物像なので、そのいずれとも深い因縁があるセリョージャ公爵は、奥行きのある複雑な人物像であってもよいのだが、どうも薄っぺらな印象をぬぐえない。それは、一人称で個人的な体験を語るというこの小説の構成上の制約かもしれないが、それにしても中途半端な人物だという印象がぬぐえないのである。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年5月号)が、「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」と題する小論(早尾貴紀著)を掲載している。この攻撃を西側諸国の主要な論調は、ハマスのテロへの反撃であり、イスラエル国家の自衛権の発動だとしながら、ちょっとやりすぎかもしれない、というふうに論じている。それに対してこの小論は、イスラエル国家によるパレスチナへの暴力支配の歴史に言及し、ハマスの攻撃はテロなどではなく、イスラエル国家の暴力支配に対する抵抗だと位置づける。そのうえで、イスラエルによるパレスチナ人への大量虐殺すなわちジェノサイドを強く批判する。

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フランシス・フォード・コッポラの1974年の映画「カンバセーション・盗聴(The Conversation)」は、盗聴のプロの生き方と挫折を描いた作品。アメリカには盗聴のプロがいて、結構仕事もあるらしい。なにしろ現職の大統領が、政敵に盗聴を仕掛けるような国柄だ。盗聴は日常的なビジネスになっているということが、この映画からは伝わってくる。

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船橋海老川の桜並木は、船橋界隈ではもっとも人気のある花見名所だ。JRの線路から北方面に3キロにわたる桜並木がある。かつては千本桜と呼ばれたそうで、いまでも500本ほどの桜の並木が展開している。曇天が続いた後、気持ちのよい青空が広がったのをさいわいに、小生は海老川まで花見に赴いた次第。



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「ワイ川の眺め(View on the River Wye)」と題されたこの絵は、ジョーンズの故郷ウェールズの風景を描いたもの。モチーフのワイ川はウェールズの東部、イングランドとの境近くを流れる川である。この絵の構図は、モンマスの北側からの眺めという。

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石井裕也の2019年の映画「町田くんの世界」は、石井の作品の中ではかなりユニークなものである。この映画の中の主人公の少年も、やはり生き方が下手なのではあるが、ほかの映画の中の人物たちとは違って、生き方が下手なためにひどい目にあっているわけではない。逆に周囲の誰からも愛されるのである。もっともかれは誰彼なく愛してしまうので、自分だけを愛してほしいと願う者にはストレスを与える。かれは特定の人だけを独占的に愛することができないのだ。

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昨年(2023)の三月に死んだ作曲家坂本龍一の最後の日々を記録したNHKスペシャル番組「LastDays 坂本龍一最後の日々」を見た。2020年の一月に肝臓に3センチ大の癌がみつかり、医師から余命半年といわれながらも、2023年三月に死ぬまで、死と向き合いながら、最後には自分の人生に納得して死んでいった坂本の最後の日々が、圧倒的な存在感をもって迫ってくる作品だった。

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「吟遊詩人(The Bard)」と題されたこの絵は、ウェールズの歴史をモチーフにしていることから歴史画に分類されるが、背景にウェールズの風景が描かれていることから、風景画として受け取ることができる。この絵のモチーフとなったのは、トーマス・グレイの伝説的な物語で、エドワード一世によるウェールズの吟遊詩人虐殺を語ったものだ。

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石井裕也の2011年の映画「ハラがコレなんで」は、貧しい人間たちの助け合いというか連帯をコメディタッチで描いた作品。石井裕也は、いわゆる負け組と称されるような人々のみじめな生き方を描くのが得意だが、この映画は、貧しいながらもみじめ一点張りではなく、それなりに自分に誇りを持ち、貧しいもの同士で助け合うことの大事さを強調したもの。いわば貧者の連帯がモチーフである。

正法眼蔵第三十三は「道得」の巻。この巻を理解するためには「道得」という言葉の意味を分かっていなければならない。「道」は「言う」を意味する。だから「道得」は「言うことができる」という意味である。何を言うかといえば、真理をである。真理を言うことができる、それが「道得」である。これを名詞形にすると、真理を言うこと、真理の表現ということになる。

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今年は、三月に入って寒い日が続いたおかげで桜の開花が遅かった。東京都心部では三月二十九日にやっと開花し、満開になったのは四月四日だった。小生の住む千葉県船橋は、それよりもっと遅れ、開花は四月に入ってから、満開は四月七日だった。その満開の桜を見に、この日四月七日に、弁当を持参して近所の桜の名所長津川公園に赴いた。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、タイトル通り意味を論理学的に解明する試みである。そこで意味という言葉と論理学との関連が問題になる。論理学とは、伝統的な意味では、思考の法則とか推論の形式にかんする学問である。思考や推論は通常存在するものについてなされるので、論理学は存在についての判断を取り扱うものだと言われる。存在についての判断が論理学の対象といえるわけである。アリストテレスはそのように論理学を定義しており、それが西洋の論理学の考え方であった。そうした意味合いの論理学と意味との関係について論じるのがこの書物の目的なのであろうか。

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トーマス・ジョーンズは、ゲインズバラの次の世代の画家で、コンスタブルやターナーへとイギリスの風景画の伝統をつないだ人である。1770年代のなかばから1780年代にかけて活躍した。イギリス風景画のパイオニアの一人リチャード・ウィルソンの指導を受け、1771年にはイギリス芸術家協会の会員に選ばれた。

小説「未成年」のメーン・プロットは、カテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナという二人の女性の確執である。カテリーナ・ニコラーエヴナはソコーリスキー老侯爵の娘であり、アンナ・アンドレーエヴナはヴェルシーロフの娘であり、かつ老侯爵との結婚を願っている。それだけのことなら大した問題にはならないはずだが、そこに複雑な事情がからむ。カテリーナは、父の老侯爵がアンナと結婚することによって、遺産の大部分をアンナに相続させるのではないかと恐れる。実はそれ以前から、父親を信用せずに、財産の管理を自分がやるつもりでいた。そのために父親を禁治産者にするための相談をある人物としていたほどである。それにかかわる文書が、どういうわけかアルカージーの手に入る。その文書をめぐって小説は展開するのだ。

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