今般のウクライナ戦争では、当初ロシア軍の圧倒的優勢が伝えられ、その勝利は揺るぎないものと思われていた。しかし戦争が始まってすでに三か月たったいま、ロシア軍は圧倒的な勝利を収めるどころか、各地で苦戦を強いられ、一部では劣勢が伝えられている。中には、ロシアの敗北を予想するものまでいる。これは大方の予想に反した意外な事態と受け止められているが、小生はありうることだと思っていた。その理由は、ロシア軍が攻撃的な戦争を得意としていないことにある。二つの面で、ロシア軍は攻撃的な戦争には向いていないのだ。一つはロシア人の国民性に根差している。もう一つはロシア軍の伝統的な作戦思想に根差している。

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サタジット・レイの1969年の映画「森の中の昼と夜」は、都会で暮らしている若者たちが、森の中で数日間の休暇を楽しむさまを描いている。若い連中のことだから、はめをはずして騒いだり、女に熱をあげたり、また中にはひどい目にあったりするのもいるが、なんといってもバケーションのうえでのことだから、笑ってすますことができる。そんなインド人青年たちの楽天的な生き方を描いたこの映画は、これといって大袈裟な仕掛けがないだけに、この時代の若いインド人の生き方とか考え方がすなおに伝わってくる映画である。いわば同時代のインドの風俗映画といったところだ。

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女十題シリーズは、市井の女たちの何気ない仕草をスナップショット的にとらえたものが多い。これもそうした一点。おそらく夫を送り出したあとの、若妻のひと時を描いたのであろう。タイトルにある光は、明示的に表現されているわけではないが、画面全体の明るい雰囲気から、光がそこにあふれているのを感じさせる。

ラテン・アメリカ文学の顕著な特性としてのマジック・リアリズムを、最初に体現した作家はアストゥリアスとされるが、それを自分の創作方法として意識的に追求したのがアレホ・カルペンティエールである。カルペンティエールは、ラテン・アメリカでは、現実に起きていることが、西欧的な感覚ではマジックのように見えるので、それをそのまま描けばマジック・リアリズムになると考えた。そうしたマジカルな現実をカルペンティエールは「驚異的現実」と呼んでいる。

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「月と星」は、ミュシャの装飾パネル・シリーズの最後の作品(四枚セット)。ほかの一連のシリーズものと同様、モチーフを女性に擬人化している。もっとも、ほかの作品では、女性が前面に浮かび上がるよう配置されているが、このシリーズの女性たちは控えめに描かれている。その分、モチーフの月と星を強調している。

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サタジット・レイの1964年の映画「チャルラータ」は、イギリス統治下のインド社会の一断面を描いた作品。前作の「ビッグ・シティ」が同時代のカルカッタの中流家庭を描いていたのに対して、こちらは植民地時代のカルカッタの上流家庭を描いているという違いがあるが、夫婦を中心としたインドの家族のあり方を描いているという点に共通するものがある。

カントが「永遠平和のために」を書きあげたのは1795年8月、同年4月に締結されたバーゼル平和条約に刺激されてのことだ。バーゼル平和条約とは、フランス革命戦争の一環として行われた普仏戦争の休戦を目的としたもので、これによりラインラントの一部がフランスに割譲された。カントはこの条約が、締結国同士の敵対を解消するものではなく、未来においてそれが再燃する必然性を覚えていたので、偽の平和を一時的に補償するものでしかないと見ていた。そこで、永遠に続く平和を実現するためには、どうしたらよいか、そのことを考えるためのたたき台としてこの論文を書いたというわけである。

「世界史の実験」(岩波新書)は、柄谷行人の柳田国男論の仕上げのようなものである。柄谷は、若いころ日本文学研究の一環として柳田を論じたことがあり、その後、「遊動論」を書いて、柳田の山人論に焦点を絞った論じ方をしていた。山人というのは、日本列島のそもそもの原住民が、新渡来者によって山中に追いやられた人々のことをいうが、その生き方の遊動性が、狩猟・遊牧民族の生き方によく似ていた。狩猟・遊牧民は、柄谷が素朴な交易の担い手として設定するものであり、いわゆる交換様式Aの担い手である。交換様式Aは、原始的共同体を基盤としており、国家を前提とした交換様式B及び資本主義的な交換様式Cを経て、最終的には交換様式Dとして復活するものと展望されていた。交換様式Dというのは、アソシエーションの自由な結びつきとしての「アソシエーションのアソシエーション」とされる。それは、柄谷なりのコミュニズムを意味していた。そういう文脈の中で柄谷は、柳田を柄谷なりに解釈したコミュニズム=アソシエーショニズムの先駆者として位置付けたわけである。

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サタジット・レイの1963年の映画「ビッグ・シティ」は、インドの大都市に暮らすサラリーマン一家を描いた作品。その頃のインドはまだ発展途上国であり、経済的には貧しく、また人々の意識は古い因習にとらわれていた。そんなインド社会にあって、とりあえず生活のために働く決意をした女性が、自分の家族をはじめ、世間の偏見や因習と戦う様子を描いている。

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「女十題」シリーズも、長崎で世話になったお返しとして永見徳太郎に贈呈されたもの。各作品に描かれた女たちは、おそらく長崎で実見したものだろう。顔つきがそれぞれ異なることから、そのように憶測できる。

いまどき社会主義革命を論じること自体時代遅れと言われているのに、その社会主義革命の権化ともいうべきレーニンを正面から論じることにはかなりの勇気がいるだろう。なにしろ、1990年代以降、ソ連や東欧の社会主義体制が崩壊し、資本主義が唯一の社会モデルと強調されるようになって、社会主義は失敗したモデルであり、いかなる意味でも有効性を持たないと言われている。社会主義を目標としたり、社会主義者としてのマルクスを研究したりすることにうさん臭さを指摘する人間が跋扈している。そういう風潮の中で、マルクスを超えてレーニンを主題的に問題にすること自体、スキャンダラスにとられかねない。そのスキャンダラスなことに、白井聡は取り組んだのである。

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ミュシャの二枚組の装飾パネルは、左右の女性を向かい合わせに描くのが特徴。女性は、全身像の場合もあり、半身像の場合もある。1897年の作品「ビザンチン風の頭部」は、頭部だけを取り出して向かい合わせたものだった。これが大きな成功を収めたので、気をよくしたミュシャは、同じような趣旨のものをもう一組作った。1901年の作品「木蔦と月桂樹」である。

菩薩の十地のうち、第一から第六までと第八以降の間には飛躍的な差異がある。その飛躍を媒介するのが第七地である。第六地までと第八地以降とではどのような差異があるのか。薩の十地はすべて、さとりに導く諸徳を円満に成就することを目的としている。その諸徳の円満な成就は、第六地までは一定の条件のもとで可能になる。ところが、第八地以降においては、そうした条件なしに、菩薩がかくあれと願うだけで成就する。第六地までは修行者の色合いが強いが、第八地以降は、限りなく仏の境地に近づいている。第七地は、その前者と後者と、二つの境地の橋渡しをするのである。

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サタジット・レイの1960年の映画「女神」は、ベンガル地方に生きる人々の宗教的な因習をテーマにした作品。ヒンドゥー文化への強い批判が込められているため、インドの保守的な人々の反発を招いたが、カンヌでは高く評価された。

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「秋のいこい」というタイトルは、夢二自身がつけたものではなく、あとでそう呼ばれるようになったもの。この絵から伝わってくるのは、「いこい」ではなく焦燥感だろう。おそらく田舎から出てきた女がこれからどこへ行こうかと思案しているか、あるいは職を失た女中が途方に暮れているようにも見える。女の傍らに置かれた信玄袋は、旅の品々を入れるためのものなのだ。

ボルヘスは、パスカルの球体についての「パンセ」の中の言葉に異常に拘っている。それは、「至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体」という言葉なのだが、たしかに無限の球体であるならば、どこにも周縁は見つからないだろうし、したがって中心も定まらず、いたるところにあるということになる。しかし、そんなものが意味を持つというのか。意味をもつとしたら、どんな意味だというのか。そうボルヘスは疑問を持って、パスカルのこの言葉に異常なこだわりをもつらしいのである。

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ミュシャは宝飾品のデザインを手掛ける一方、数は少ないが彫刻も残している。「ラ・ナチュール」と題したこの作品はミュシャの彫刻の代表的なもの。かれはこれを、1900年のパリ万博に向けて制作した。宝飾商ジョルジュ・フーケとのコラボレーションであり、また彫刻技術はオーギュスト・セースの手ほどきを受けた。

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フロイトは1932年に、高名な物理学者で同じユダヤ人であるアインシュタインと書簡のやりとりをした。それは、国際連盟の一機関が企画したもので、まずアインシュタインがフロイト宛てに書簡を送り、フロイトがそれに応えるという形をとった。フロイトのほうが23歳も年上だったし、また、往復書簡のテーマについて深い見識を持っていると考えられたからであろう。そんなフロイトに後輩のアインシュタインが見解を乞うという形になっている。それに対するフロイトの返事は、「何故の戦争か」と題して著作集に収められている。

徳川時代の政治思想についての研究は、長い間、丸山真男の圧倒的な影響下にあった。丸山は若い頃に書いた「日本政治思想史研究」において、徳川時代には朱子学が体制を合理化する理論体系として機能し、その朱子学をめぐってさまざまな言論が展開されたと見た。そのさまざまな言論のうちで丸山がもっとも注目したのは古学の系統である。古学は荻生徂徠によって確立され、やがて本居宣長によって大展開をとげるわけだが、そうした流れの中で伊藤仁斎は端緒的な位置づけをされた。丸山によれば、朱子学への批判としての古学は、仁斎から徂徠をへて宣長にいたる直線的な発展過程をたどったということになる。柄谷はこうした丸山の見方を批判して、仁斎について新しい視点を提示するのである。

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