官僚劣化

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中央公論の最新号(2018年6月号)が、「官僚劣化」と題して、最近の日本の官僚たちの不祥事に代表されるような官僚の劣化について特集している。かつては日本という船の舵取り役として自他共に認め、認められていた日本の官僚が、何故ここまで劣化してしまったのか。何人かの論者が、それぞれの視点から分析している。それを読むと、首相官邸が強くなったために、相対的に各省の力が弱くなり、それに伴って各省の官僚統制力が弱まって、官僚たちが直接官邸のほうを向いて仕事をするようになったとか、かつてはどんな官僚も持っていた国家国民のために働いているという気概が薄くなり、もっぱら自分自身の出世の為に働く自分本位で小粒な官僚が増えたとか、いろいろな指摘があって面白い。

そのなかでも、官僚の仕事ぶりは基本的には変わっていないという指摘がなかなか興味深かった。日本の官僚は、イギリスやアメリカなら政治家が行うような政治的な調整まで実際は行っている。イギリスでは、政官の役割分担が徹底していて、政治家は政策立案やその下準備としての調整にあたり、官僚は政治家が決めた政策を公平に実施するという建前になっている。ところが日本では、本来政治家が行うべき事柄まで官僚が行う。政策立案からそのために必要な調整まで一手に引き受けるというシステムが日本の官僚制を特徴付けてきたが、それは、今日においても基本的には変わっていないという。その指摘にはなかなか考えさせられるものがある。

森友問題における財務官僚のいわゆる忖度とか、加計問題における首相秘書官の独走とか、こういう事態が生じるというのは、いまでも日本の官僚が昔のままに行動していることが背景にあるのだろう。日頃政策立案とかそのために必要な調整をいまだに官僚が行っているからこそ、こうした不祥事の生じる余地があるわけだ。とりわけ、加計問題における首相秘書官の行動などを見ると、官僚としての立場ながら、自分は自主的に判断しているので、いちいちボスの意向を聞いたり、あるいはこまかく報告したりしていないと胸を張っていたが、その姿勢には日本の官僚の平均的な姿が反映されていたわけだ。

こういうことから見えてくるのは、日本の官僚をめぐる制度的な変化にかかわらず、その行動様式は基本的には変わっていないということだ。にもかかわらずこうした不祥事が次々と起こるのは、制度の問題ではなく、官僚の資質の問題ということになりそうである。実際論者の中には官僚の資質の劣化を、小粒化と言う言葉で表現している者もいる。

要するに日本の官僚が小粒化して、国家国民のことよりも自分自身の出世のことばかり考えるようになったから、こういう不祥事が次々と起こるようになったというわけである。官僚の小粒化を最も強く感じさせるのは、財務次官のセクハラ不祥事であって、こういうのを見せられると、小粒化とかなんとかいうことではなく、官僚全体が狂ってしまっているとしか思えない。もしそうなら、彼らを狂わせるのは何か、ということを本格的に追究しない限り、問題は解決されないというべきだろう。

この特集は、もっぱら官僚の劣化に焦点を当てているが、政治家の劣化も官僚に劣らない。財務次官のセクハラに荷担する余り、意味不明な言葉を連発する政治家などを見ると、劣化というより人格の崩壊を感じさせられる。





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