古典を読む

善通寺:西行を読む

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讃岐の白峰で崇徳院の墓に詣でた西行は、その脚で善通寺に赴いた。弘法大師が生まれたところである。高野山で真言仏教の修行をしている身の西行としては、是非とも行かねばならぬところだったと思える。西行は単にこれへ参詣したばかりでなく、その裏手の曼荼羅寺の行道所のあたりに庵を結び、そこで一冬を過ごしている。西行としては、修行としての意味とともに崇徳院の怨念を祈り鎮める意味もあったと思われる。

四国への旅:西行を読む

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仁安二年(1167)の冬、西行は中国路をへて四国に渡る旅をした。主な目的は、その四年前に崩じた崇徳上皇の墓に詣でることと、弘法大師ゆかりの善通寺に参ることだった。旅立つにあたって西行は賀茂神社に参り、その折に詠んだ歌を「山家集」に載せている。
「そのかみまゐりつかうまつりける習ひに、世を遁れてのちも賀茂にまゐりけり、年高くなりて四国の方へ修行しけるに、また帰りまゐらぬこともやとて、仁安二年十月十日の夜まゐり、幣まゐらせけり、内へも入らぬことなれば、棚尾の社に取り次ぎまゐらせ給へとて心ざしけるに、木の間の月ほのぼのに、常よりも神さび、あはれに覚えてよみける
  かしこまるしでの涙のかかるかな又いつかはと思ふあはれに(山1095)

保元の乱:西行を読む

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保元の乱は西行にとって生涯最大の政治的事件だった。これは鳥羽法皇の死をきっかけに崇徳上皇が起こした反乱だったが、すぐに制圧されて、崇徳上皇は配流、藤原頼長以下崇徳上皇に味方したものは、死んだり配流されたりした。この乱は、武士が歴史の表舞台に進出するきっかけとなったもので、武士出身の西行には思い複雑なものがあったはずだが、表向きには一切自分の考えを表明していない。出家の身として政治とは一線を画していたのか、あるいは軽率な言動で自分の身に禍を招くのを恐れたか。

熊野詣:西行を読む

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西行が熊野詣をしたことは、熊野で詠んだ歌が「山家集」に収められていることから確かなことだと思うが、詳細についてはわからない。瀬戸内寂聴尼は、「西行物語」に西行の熊野詣の記事があるといって、それを紹介しているが、筆者が参照している桑原博史訳注の「西行物語」(講談社学術文庫)には、それと思われるものが見当たらない。そこで異本を当たったところ、萬野美術間所蔵の「西行物語絵巻」に熊野詣の記事がある。寂聴尼は、絵巻の類を含めた異本に依拠して、西行の熊野詣について記述しているのであろう。

大峰修行:西行を読む

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西行はたびたび吉野を訪ね、庵を結んで修行したこともある。その吉野の奥に大峰がある。古来修験道の聖地といわれたところだ。単に修験道の聖地というにとどまらず、さまざまな民衆信仰を集めていた。説教の題目に「小栗判官」があるが、墓からよみがえってゾンビの様相を呈した小栗判官が、足弱車に乗せられてはるばる藤沢から大峰にいたり、そこの湯につかってゾンビから普通の人体に戻ったとある。このゾンビはらい病を表象したものだ。大峰はらい病を癒す効験を持った尊いところだったわけである。

天野の尼たち:西行を読む

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高野山は女人禁制だった。それでも真言の教えにあずかりたいという女人はいるもので、そういう女人は高野山の麓の天野というところに庵を結んで修行していた。西行が出家のために捨てた妻子も天野で庵を結び、そこで往生した。

高野山に入る:西行を読む

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久安五年(1149)、西行は高野山に入った。数え年三十二のときである。この年から治承四年(1180)に熊野を経て伊勢に移るまでの約三十年間、西行は高野山を本拠にした。といっても、高野山から外へ出なかったわけではない。京都へは頻繁に行っていたようだし、吉野や大峰にも、修行をかねてたびたび出向いた。また、四国方面へも長い旅をしている。

上西門院:西行を読む

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待賢門院は七人の子に恵まれた。そのうちの二人は天皇になっている(崇徳と後白河)。女子は二人生んでいるが、その下のほうの子が上西門院である。上西門院は、弟である後白河天皇の准母となるなど、政治的な影響力が大きかったほか、自分の手許に母親待賢門院の女房たちを引き取り、華麗な文芸的なサロンを築いてもいた。当代一の才女でもあったわけだ。

待賢門院の死:西行を読む

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待賢門院は、久安元年(1145)の八月に四十五歳で死んだ。その時西行は二十八歳であった。女院はその三年前に落飾して宝金剛院に住むようになっていたが、死んだのは三条高倉第であった。二年前に疱瘡を患ったのがもとで病気がちとなり、養生のために三条高倉の本邸に移り住んだのだろう。この年に入ると俄に病状が悪化し、鳥羽天皇がたびたび見舞ったにかかわらず、その数奇な生涯を閉じたのだった。

陸奥への旅(五)平泉:西行を読む

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西行の最初の陸奥への旅のハイライトはやはり平泉だったろう。平泉を根拠地としていた藤原氏は、西行とは同族だったから、丁寧に接待されたとも考えられるが、西行が具体的にどのような接待を受けたかはわからない。ただ、山家集から推し量ると、西行は冬の初めから翌年の春先まで平泉にいたようである。これだけ長く滞在していたというのは、藤原氏から大事にされたことを物語っているのではないか。当時の西行はまだ無名だったから、藤原氏が西行を大事にする理由は、同族であるという以外にない。

陸奥への旅(四)白河の関:西行を読む

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白河の関から先が陸奥である。そこに立った際の感慨を、西行は次のように山家集に記している。
「みちのくへ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹く、と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
  白川の関屋を月のまもる影は人の心を留むるなりけり

「西行物語」は、西行が隠者と出会った話を語っている。この隠者は、九十歳を超えた老人で、武蔵野の人里離れた原野に庵を結び、そこで読経三昧の生き方をしているように見えた。西行がその素性を聞くと、自分はもと郁芳門院に仕えていた侍だったが、女院の死後出家して諸国を修行して歩くうち、ここ武蔵野の野が仏道修行の隠れ家に便ありと聞いて、ここに庵を結んで、以来六十余年の間読誦して過ごした、その数は七万四部だ、と答えた。西行も郁芳門院とは縁があったので、互いに語り合って夜を過ごした、というような話である。

陸奥への旅(二)富士の煙:西行を読む

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清見潟を過ぎると、やがて左手に富士が見えてくる。「西行物語」は、業平の歌「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」に言及しながら、富士の威容を叙述する。「遥かに富士の高嶺を見上ぐれば、折知り顔の煙立ちのぼり、山の半ばは雲に隠れ、麓に湖水をたたへ、南には効原あり、前には蒼海漫々として、釣漁の助けに便りあり」

陸奥への旅(一)清見潟:西行を読む

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西行は、生涯に二度陸奥への大きな旅をしているが、最初の旅は、天養元年(1144)数え年二十七の年のことだった。その二年前には、待賢門院の落飾を記念して法華経の書写を有力者に勧めて歩いたことが藤原頼長の日記に見える。それにひと区切りついたことで、修行を更に深める為に、陸奥への大旅行を試みたというふうに映るが、この旅にはもう一つの動機が隠されていたようである。それは能院法師の跡をたどるというものだった。旅の僧として知られる能院法師は、陸奥に大きな旅をして、各地の風景に接しては歌を読んだ。その境地を自分もまた味わって見たい、そうした動機が働いて、陸奥への旅を決意したことは十分にありうる。

二見が浦:西行を読む

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「西行物語」は、西行は伊勢参拝の折に二見が浦に庵を結んだと書いている。二見が浦というのは、五十鈴川が流れこむ付近の海岸であり、伊勢神宮とは近かった。海上に夫婦岩があることで有名である。そこに西行は庵を結んだというのだが、西行がそこに庵を結んだのは、最初の伊勢参拝のときではなく、晩年に近い頃のことだったというのが、今日の通説のようである。

伊勢神宮に参る:西行を読む

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西行はたびたび伊勢神宮に参拝しているが、その最初のものは出家後間もない頃のことだったと思われる。山家集の次の歌が、その折の気持を歌ったものだと考えられる。
「世を遁れて伊勢の方にまかるけるに、鈴鹿山にて
  鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになり行くわが身なるらん(山728)

出家後の西行:西行を読む

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「西行物語」は、西山で出家した西行はそのまま西山に滞在し、その後しばらくして伊勢に移ったとしているが、「山家集」などの記述によると、鞍馬山とか東山、嵯峨などを転々としていたようである。西行が出家後も都にとどまったのは、都に愛する女性、すなわち待賢門院がいたからだろう、と瀬戸内寂聴尼は推測している。

西行の出家二:西行を読む

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徳川美術館蔵の「西行物語絵巻」は、出家を決意した西行が、自分に取りすがろうとする幼い女子を縁側から蹴落とす場面から始まる。その部分の詞書は次のとおりである。

西行の出家(一):西行を読む

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西行の若い頃のことはあまりわかっていないが、数え年二十三歳で出家したということは、藤原頼長の日記「台記」に言及がある。以下、その部分(永治二年三月十五日)を引用する。

阿漕:西行を読む

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世阿弥の作と伝えられる能に「阿漕」という作品がある。伊勢の阿漕が浦に伝わる伝説を取り上げたものだ。阿漕とはその地の漁師の名であったが、その男が、伊勢神宮にお膳を供えるために一般の漁が禁止されていた海でたびたび漁をした。それが発覚してお咎めをこうむり、この海に沈められてしまった。それ以来このあたりの海を阿漕が浦と呼ぶようになったという話である。それが何故か、早い時期から西行の伝説と結びついた。阿漕はすこしならばれないと思ってやっていたところ、それが度重なったために発覚してしまったのだが、それと同じように、西行も思い人にたびたび懸想したために片恋がばれてしまった、というふうに伝わるようになったわけである。

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