古典を読む

文覚と西行:西行伝説

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西行は、武士として生まれ、若くして出家したこと、出家後仏道のみでなく神道や修験道にも深くかかわったこと、東は陸奥西は九州にいたるまで日本中を歩き回ったこと、多くの恋の歌に見られるように多感なところがあったことなど、さまざまなことが作用して多くの伝説が生まれた。ここではそうした伝説のいくつかをとりあげて、西行の意外な面について見ておこう。

入寂:西行を読む

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文治六年(1190)二月十六日、西行は入寂した。その前後の様子を記したものとしては、藤原俊成の「俊成家集」がある。
「円位聖が歌どもを、伊勢内宮の歌合とて判受け侍りし後、また同じ外宮の歌合とて、思ふ心あり、新少将に必ず判して、と申しければ、印付けて侍りけるほどに、その年去文治五年河内の弘川といふ寺にて、わずらふ事ありと聞きて、急ぎつかはしたりければ、限りなく喜びつかはして後、少しよろしくなりて、年の終の頃、京に上りたり、と申ししほどに、二月十六日になむ隠れ侍りける。かの上人桜の歌を多くよみける中に、
  願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
かくよみたりしを、をかしく見給へしほどに、つひに如月十六日望月終り遂げけること、いとあはれにありがたく覚えて、物に書きつけ侍る
  願ひ置きし花の下にて終りけり蓮の上もたがはざるらむ

宮河歌合:西行を読む

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西行が藤原定家に「宮河歌合」の判を乞うたのは、「御裳濯川歌合」の判を俊成に乞うとのとほぼ同じ時期のことと思われる。俊成は西行より年上で、自分の寿命を考慮したか、すぐに判を加えて送り返してきたが、定家のほうは二年以上たってやっと送ってきた。遅れた理由を定家は、歌合三十六番の判に添えたあとがきのようなものの中で、次のように書いている。

御裳濯川歌合:西行を読む

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最晩年の西行は、二つの自歌合集を作った。「御裳濯川歌合」と「宮河歌合」である。「御裳濯川歌合」は、文治三年(1187)に藤原俊成の加判を得て完成した。「宮河歌合」はそれより二年後の文治五年に藤原定家の加判を得て完成した。どちらも同じ頃に加判を依頼したらしいが、俊成はすぐさま返してくれたのに対して、定家のほうはなにかの事情で手間取ったらしい。文治五年といえば、西行の死の前年だが、西行は定家の加判を大いに喜んだと伝えられている。

頼朝との邂逅:西行を読む

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二度目の陸奥への旅の途中、西行は鎌倉で頼朝と会った。西行自身はこのときのことを何も書き残していないが、吾妻鏡はその折の様子を比較的詳しく記録している。

文治二年(1186)、西行は伊勢を出て、二度目の陸奥への旅をした。旅の目的は、治承四年に平氏が奈良の諸寺を焼き討ちしたときに焼かれた東大寺の再建のために、砂金の勧進をすることだった。東大寺の重源上人が伊勢神宮へ参拝に赴いたとき、奥州平泉の藤原氏と縁のある西行に、砂金の勧請を依頼したのであった。これに西行は応えた。その時西行はすでに六十九歳になっていた。当時としては大変な高齢である。無事にたどりつけるかどうかもわからない。西行にとっては大きな決断だったと思われる。

源平争乱:西行を読む

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西行が高野山を下りて伊勢へ移った治承四年(1180)は、全国的な動乱の始まりを予感させた。六月には以仁王が兵士打倒に立ち上がって宇治平等院で敗死、八月には頼朝が伊豆で挙兵、九月には義仲が木曽で挙兵、十一月には宇治川で平氏が敗退といった具合で、戦乱が一挙に広がる一方、つむじ風や飢饉が人々を襲った。世の中がひっくり返りそうな予感が、西行を含め人々の心をとらえたのである。そんな予感に駆られるように、西行は高野山を去った。奈良では東大寺を初め大寺院が平氏によって焼かれる事態も起っており、高野山も決して無事にはすまないかも知れぬ、そうした不安が西行を駆り立てた、ということもあるだろう。

伊勢への移住:西行を読む

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治承四年(1180)、晩年の西行は高野山を引き払って伊勢へ移住した。動機はくわしくわかっていないが、恐らく源平争乱が本格化したことが背景にあると思われる。その年の夏には頼朝が挙兵し、戦雲が都にせまる気配を見せ始めていた。清盛と親しかったらしい西行は、別に平家に肩入れするでもなく、騒乱に巻き込まれることを恐れたのではないか。

善通寺:西行を読む

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讃岐の白峰で崇徳院の墓に詣でた西行は、その脚で善通寺に赴いた。弘法大師が生まれたところである。高野山で真言仏教の修行をしている身の西行としては、是非とも行かねばならぬところだったと思える。西行は単にこれへ参詣したばかりでなく、その裏手の曼荼羅寺の行道所のあたりに庵を結び、そこで一冬を過ごしている。西行としては、修行としての意味とともに崇徳院の怨念を祈り鎮める意味もあったと思われる。

四国への旅:西行を読む

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仁安二年(1167)の冬、西行は中国路をへて四国に渡る旅をした。主な目的は、その四年前に崩じた崇徳上皇の墓に詣でることと、弘法大師ゆかりの善通寺に参ることだった。旅立つにあたって西行は賀茂神社に参り、その折に詠んだ歌を「山家集」に載せている。
「そのかみまゐりつかうまつりける習ひに、世を遁れてのちも賀茂にまゐりけり、年高くなりて四国の方へ修行しけるに、また帰りまゐらぬこともやとて、仁安二年十月十日の夜まゐり、幣まゐらせけり、内へも入らぬことなれば、棚尾の社に取り次ぎまゐらせ給へとて心ざしけるに、木の間の月ほのぼのに、常よりも神さび、あはれに覚えてよみける
  かしこまるしでの涙のかかるかな又いつかはと思ふあはれに(山1095)

保元の乱:西行を読む

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保元の乱は西行にとって生涯最大の政治的事件だった。これは鳥羽法皇の死をきっかけに崇徳上皇が起こした反乱だったが、すぐに制圧されて、崇徳上皇は配流、藤原頼長以下崇徳上皇に味方したものは、死んだり配流されたりした。この乱は、武士が歴史の表舞台に進出するきっかけとなったもので、武士出身の西行には思い複雑なものがあったはずだが、表向きには一切自分の考えを表明していない。出家の身として政治とは一線を画していたのか、あるいは軽率な言動で自分の身に禍を招くのを恐れたか。

熊野詣:西行を読む

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西行が熊野詣をしたことは、熊野で詠んだ歌が「山家集」に収められていることから確かなことだと思うが、詳細についてはわからない。瀬戸内寂聴尼は、「西行物語」に西行の熊野詣の記事があるといって、それを紹介しているが、筆者が参照している桑原博史訳注の「西行物語」(講談社学術文庫)には、それと思われるものが見当たらない。そこで異本を当たったところ、萬野美術間所蔵の「西行物語絵巻」に熊野詣の記事がある。寂聴尼は、絵巻の類を含めた異本に依拠して、西行の熊野詣について記述しているのであろう。

大峰修行:西行を読む

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西行はたびたび吉野を訪ね、庵を結んで修行したこともある。その吉野の奥に大峰がある。古来修験道の聖地といわれたところだ。単に修験道の聖地というにとどまらず、さまざまな民衆信仰を集めていた。説教の題目に「小栗判官」があるが、墓からよみがえってゾンビの様相を呈した小栗判官が、足弱車に乗せられてはるばる藤沢から大峰にいたり、そこの湯につかってゾンビから普通の人体に戻ったとある。このゾンビはらい病を表象したものだ。大峰はらい病を癒す効験を持った尊いところだったわけである。

天野の尼たち:西行を読む

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高野山は女人禁制だった。それでも真言の教えにあずかりたいという女人はいるもので、そういう女人は高野山の麓の天野というところに庵を結んで修行していた。西行が出家のために捨てた妻子も天野で庵を結び、そこで往生した。

高野山に入る:西行を読む

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久安五年(1149)、西行は高野山に入った。数え年三十二のときである。この年から治承四年(1180)に熊野を経て伊勢に移るまでの約三十年間、西行は高野山を本拠にした。といっても、高野山から外へ出なかったわけではない。京都へは頻繁に行っていたようだし、吉野や大峰にも、修行をかねてたびたび出向いた。また、四国方面へも長い旅をしている。

上西門院:西行を読む

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待賢門院は七人の子に恵まれた。そのうちの二人は天皇になっている(崇徳と後白河)。女子は二人生んでいるが、その下のほうの子が上西門院である。上西門院は、弟である後白河天皇の准母となるなど、政治的な影響力が大きかったほか、自分の手許に母親待賢門院の女房たちを引き取り、華麗な文芸的なサロンを築いてもいた。当代一の才女でもあったわけだ。

待賢門院の死:西行を読む

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待賢門院は、久安元年(1145)の八月に四十五歳で死んだ。その時西行は二十八歳であった。女院はその三年前に落飾して宝金剛院に住むようになっていたが、死んだのは三条高倉第であった。二年前に疱瘡を患ったのがもとで病気がちとなり、養生のために三条高倉の本邸に移り住んだのだろう。この年に入ると俄に病状が悪化し、鳥羽天皇がたびたび見舞ったにかかわらず、その数奇な生涯を閉じたのだった。

陸奥への旅(五)平泉:西行を読む

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西行の最初の陸奥への旅のハイライトはやはり平泉だったろう。平泉を根拠地としていた藤原氏は、西行とは同族だったから、丁寧に接待されたとも考えられるが、西行が具体的にどのような接待を受けたかはわからない。ただ、山家集から推し量ると、西行は冬の初めから翌年の春先まで平泉にいたようである。これだけ長く滞在していたというのは、藤原氏から大事にされたことを物語っているのではないか。当時の西行はまだ無名だったから、藤原氏が西行を大事にする理由は、同族であるという以外にない。

陸奥への旅(四)白河の関:西行を読む

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白河の関から先が陸奥である。そこに立った際の感慨を、西行は次のように山家集に記している。
「みちのくへ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹く、と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
  白川の関屋を月のまもる影は人の心を留むるなりけり

「西行物語」は、西行が隠者と出会った話を語っている。この隠者は、九十歳を超えた老人で、武蔵野の人里離れた原野に庵を結び、そこで読経三昧の生き方をしているように見えた。西行がその素性を聞くと、自分はもと郁芳門院に仕えていた侍だったが、女院の死後出家して諸国を修行して歩くうち、ここ武蔵野の野が仏道修行の隠れ家に便ありと聞いて、ここに庵を結んで、以来六十余年の間読誦して過ごした、その数は七万四部だ、と答えた。西行も郁芳門院とは縁があったので、互いに語り合って夜を過ごした、というような話である。

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