万葉集巻十六には、諸国の民謡と思われる歌がいくつか収められている。それらの歌は、土地の方言を交えながら、庶民の素朴な感情を盛り込んでおり、またユーモアも感じられる。まず、能登の国の歌三首を取り上げよう。一首目は次の歌。
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万葉集巻十六に、「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」と題された一連の歌が収められている。これらは、公務に従事して船で津島を往復した船乗りが、嵐のために船が転覆して死んだことについて、第三者が同情の気持ちを歌ったものである。作者は不詳と言うことになっているが、その結構からして、山上憶良ではないかと推測されている。一連の歌には、左注の詞書が付されており、それを読むと歌の背景がよくわかる。まずそれから見ておこう。
万葉集巻十六は、笑いを誘う諧謔の歌が多く収められているが、なかでも互いに相手を笑いあうという珍しい趣向のものがある。これは、一人ではできないことで、かならず笑うべき相手がいる。あえて相手を求めてまで笑いをかけあうというのは、今の日本ではなかなかないことだが、万葉の時代には人々を喜ばすために、よく行われていたのかもしれない。そんな歌のやりとりを取り上げてみたい。
万葉集巻十六に、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌八首というのが収められている。これは、物の名を歌に詠みこんだもの(物名歌)で、滑稽歌の一首といえる。この巻にはほかに、滑稽をテーマにした歌が数多く収められているが、なかでも意吉麻呂のこの連作は白眉と言えよう。冒頭は次の歌。
万葉集巻十六は、娘子伝説の歌に続いて、若い女性をめぐるいくつかの歌を収めている。若い妻の夫への気遣いを歌ったものとか、采女の機転を歌ったものとか、恋人同士が引き裂かれてしまった悲哀を歌ったものである。娘子伝説が、第三者を通じての女性の運命のようなものを歌っているのに対して、これらは、基本的には、当事者である女性自身が詠っている。それだけに、万葉時代の若い女性たちの心意気のようなものが伝わってくる。ここでは、そうした女性たちの歌を、三首取り上げる。
万葉集巻十六は、万葉集のなかでも非常にユニークな巻だ。伝説や民謡に取材した歌のほかに、諧謔や笑いを詠ったものが多い。正岡子規は、諧謔や滑稽を文学的趣味の大なるものとしたうえで、万葉集の巻十六が滑稽に満ちているとし、「歌を作るものは万葉を見ざるべからず、万葉を読む者は第十六巻を読むことを忘るべからず」と言って激賞した。ここでもおいおいそういう歌を鑑賞するとして、まず冒頭に巻頭に収められた娘子伝説にかかる歌を取り上げたい。
万葉集巻十五は、遣新羅使の一群の歌及び中臣宅守と狭野娘子の贈答歌からなっている。うち遣新羅使の歌は145首、贈答歌は63首である。この二つの歌群の間には、関連はない。ただどちらも、全体で一つの物語を構成しているという点で、他の巻とは顕著な相違を示している。贈答歌のほうは、別稿で触れたので、ここでは遣新羅使の歌を取り上げたい。
万葉集巻十三に収められた問答歌は、相聞のバリエーションと言える。相聞歌が、恋焦がれる気持ちを一方的に述べたものが多いのに対して、問答歌は、字面とおり男女の問答という形をとっている。問答といっても、論議のようなものではなく、一方が恋の思いを打ち明け、他方がそれに応えるという形をとっている。それ故、贈答歌と言ってもよい。ここでは、女から男に呼びかけ、それに男が答えたものをとりあげたい。
巻十三の相聞の部に収められた歌は、いずれも民謡を思わせるような、リズム感と素朴な風情を感じさせる。おそらく古い民謡がもとになっているのだろう。ここではそのうちの長短歌二組を鑑賞してみたい。まず、相聞の部冒頭の歌、
巻十三に収められた歌は、長歌とそれに対する反歌だけからなっている。長歌は全部で六十六首あるが、そのうちの七首は「或本に云ふ」とあるとおり、本歌のバリエーションである。二三を除いて詠み人知らずであり、その調べには民謡的なのどかさが感じられるところから、これらの歌が非常に古いことを推測させる。おそらく古い時代の民謡がもとになっていると思われる。
正述心緒の歌が、心の内をストレートに表白するのに対して、寄物陳思の歌は、事物にことよせて自分の思いを述べるものである。同じく事物を介しているとはいう点で比喩歌に似ているが、比喩歌が自分の思いの内容を事物にたとえるのに対して、こちらは、事物を手掛かりにして自分の思いを述べるという違いがある。もっともその境は、あまり厳密ではない。
万葉集巻十一及び十二は、それぞれ柿本人麻呂歌集からの相聞歌を収めている。それらは正述心緒及び寄物陳思に大別される。この二つの分類は、柿本人麻呂歌集以外の歌にも適用され、それぞれの巻で人麻呂歌集に続いて載せられている。正述心緒とは、恋の思いをストレートに表白した歌であり、寄物陳思とは物に寄せて恋の思いを詠ったものである。ここでは、巻十一に収められた正述心緒の歌を鑑賞してみたい。
万葉集の巻十一及び巻十二は、「古今相聞往来歌類」と称されるとおり、新旧入り混じっての恋の歌を集めたものである。その冒頭を飾るのが、柿本人麻呂歌集及び古歌集からとられた旋頭歌併せて十七首である。柿本人麻呂歌集からとられた歌は、引き続き乗せられており、両巻ともまず人麻呂歌集の歌を載せた後で、それ以外の歌を載せるという体裁をとっている。人麻呂歌集の歌が特別な扱いを受けているわけで、いかに人麻呂が重視されていたか、よくわかる。それらの歌は、必ずしも人麻呂自身のものでないものが多いのだが、それでも歌の格としては、一段と優れているので、昔から重視されていたのであろう。
万葉集巻九挽歌の部は、柿本人麻呂歌集からとられた五首の歌が冒頭に置かれている。その一首目は、「宇治若郎子の宮所の歌」と題するもので、残りの四首は「紀伊の国にして作る歌四首」である。これらの歌が挽歌とされているのは、かつて紀州の浦でともに過ごしたらしい女性の面影をしのんでいるからで、その女性は既に死んだのだと考えられる。人麻呂は、紀伊への行幸に供奉したことがあるので、その折に共に遊んだ女性の面影を、あとで回想したのではないかと思われる。無論かつて遊んだ紀伊においてである。
田辺福麻呂は、大伴家持とほぼ同時代人で、おそらく下級官吏だったと思われる。万葉集巻十八には、天平二十年の春、越中の国守だった家持の屋敷に、福麻呂が左大臣橘家の使者として赴き、宴席にはべりながら、家持らと歌を交わしたことが触れられている。
高橋虫麻呂には、筑波山の歌垣を詠んだ歌がある。「筑波嶺に登りて嬥謌會(かがひ)を為る日に作れる歌一首併せて短歌」がそれである。歌垣とは、筑波地方に古くから伝わる風習で、常陸の国風土記にも記されている。その歌垣を虫麻呂は、民間風俗を紹介するようなタッチで描いている。そこからして、歌としての面白さには欠けるという指摘もあるが、古代の風習を生き生きと描写していることには、貴重な意義があると言えよう。
筑波山は、常陸の国のシンボルであるとともに、東国の山岳信仰の中心地であった。二つの頂をもち、それぞれを男峰、女峰と呼び、男女の神として広い地域で信仰された。その筑波山に、常陸の国の役人として赴任した高橋虫麻呂は何度か登ったようで、筑波山に登った様子を詠った歌が万葉集の巻九に収められている。
万葉集巻九には、水江の浦島子の歌に続いて、同じく高橋虫麻呂の「河内の大橋を独り行く娘子を見る歌」が収められている。浦島子の歌が、民間の伝承に取材した作品だとすれば、これはたまたま見聞した自分の体験を踏まえた作品だ。日常の出来事をさりげなく描いているという点で、写真でいえばスナップショットのような作品である。
高橋虫麻呂は、官人としての立場で難波方面へ出張したことがあり、その時の現地での体験を踏まえていくつかの歌を残している。それらにも前回触れた東国への出張の場合と同じく、土地の伝承を踏まえたものがある。「水江の浦の島子を詠む」はその代表的なものである。
万葉集巻九には、伝説や民俗に取材した長歌が多く収められている。なかでも高橋虫麻呂のものが、数も多く内容も優れている。この巻は、雑歌、相聞、挽歌の三部建てになっているのだが、そのいずれも虫麻呂の長歌を収めている。虫麻呂が伝説に取材した歌としては、葛飾の真間の手児奈の不幸な死を詠んだ歌が有名だが、それについては別稿で解説したところなので、ここではそれ以外のものをいくつか紹介しよう。
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