読書の余韻

吉本隆明の小論「芥川龍之介の死」は、芥川の死をめぐる通説に異を唱えるとともに、芥川の作家としての資質を軽侮するような内容のものである。吉本には他人を無暗に攻撃する傾向があるが、この小論ではそれがストレートに現われている。芥川を敬愛する人が読んだら不愉快になると思うし、また直接かかわりのなかった死者に向かって何故これほどまでにエクセントリックな攻撃をしかけねばならぬのか、理解に苦しむことだろう。

吉本隆明の転向論は、戦争責任論の一環としてなされたものだ。吉本の戦争責任論にはいまひとつわからないところがあるが、転向論に至っては大分混乱を感じる。と言うのも吉本は、佐野とか鍋山とか戦時中いち早く転向を表明し、それを厚顔に同志にも勧めたような「転向」組と、宮本夫婦のように思想的な節操を捨てなかった「非転向」組とを一緒くたにし、どちらも同じ穴のムジナのような言い方をしているのだ。しかも宮本たちまでをも「転向」呼ばわりしている。

「芸術的抵抗と挫折」は、吉本隆明が戦争責任を論じたものだ。この問題についての吉本の追究姿勢は厳しい。戦時中にいわゆる転向をした文学者に対しては無論、転向せずに頑張った人たちに対しても厳しい目を向けている。特に後者の人たちは戦時中に節操を守り通したとして尊敬を集めていただけに、彼らに対する吉本の糺弾的な姿勢は、異様ともいえるものであった。

「マチウ書私論」は吉本隆明の評論家としての活動のスタートを画する論文だということになっているらしいが、テーマは原始キリスト教批判である。日本人の吉本が日本人を相手になぜこんな文章を書いたか、いまひとつ判然としないところがある。吉本はキリスト教徒でもないらしいから、キリスト教には大した恨みもないと思うし、ましてや原始キリスト教などというものが、彼にとっての深刻なテーマになりうるとも思われない。その原始キリスト教をなぜ吉本は、自分の評論家活動のスタートにあたってテーマとして選んだのか。

竹内好は中国文学の理解を魯迅を読むことから始めた。これは日本人の中国文学受容の伝統的なパターンからは随分とかけ離れている。少なくとも竹内が魯迅を読み始めた頃の日本では、中国文学とは唐宋の大詩人たちを中核とした歴史的な遺産を意味していた。同時代の中国が問題意識になることはほとんどなかった。そんな時代に竹内は、自分とほぼ同時代人と言える魯迅を読むことから、中国文学の理解を深めようとしたわけである。

竹内好は北一輝を非常に高く評価していた。理由はいつくかあるが、かいつまんで言うと、理論的というよりは感性的なものだった。だから竹内の北一輝に触れた文章を読むと、論ずるというよりは観ずるというような印象が伝わってくる。つまり竹内の北についての文章は「北一輝論」というよりは「北一輝観」というのがあたっている。

竹内好の論文「日本のアジア主義」は、日本におけるアジア主義の系譜をたどったものである。竹内は日本のアジア主義を玄洋社・黒龍会によって代表させているが、この流れは国権主義的・侵略的なところを特徴としている。その点では右翼の典型といえるものだ。しかし当初からそうだったわけではない、と竹内は言う。玄洋社ができたのは明治十年のことだが、その当時は民権論的なところもあったし、アジアと連帯しようというようなところもあった。要するにアジアに対して一方的で侵略的な態度を必ずしも取っていなかったのである。

竹内好は「日本とアジア」と題した文章の中で東京裁判をとりあげ、それを次のように性格づけた。「東京裁判は、日本国家を被告とし、文明を原告として、国家の行為である戦争を裁いた。(日本の起こした)戦争は侵略戦争であり、したがって平和への侵害であり、当然に文明への挑戦である、というのが論告および判決の要旨であった」

竹内好が「戦争責任」という言葉を使って日本人の戦争責任問題を正面から論じたのは1960年前後のことだが、その背景には戦争責任の腐蝕現象というべきものがあった。戦後もこの頃になると、戦争を体験しなかった世代が増えてきて、その連中を中心にしていまだに戦争責任もないだろうというような雰囲気が出て来た。竹内がその代表としてあげるのは「怒れる若者たち」と言われる連中だ。この連中は前世代との断絶を標榜し、いまだに戦争にこだわることをバカバカしいと主張した。こういう連中が現われるのは、戦争を体験した世代の戦争についての語り方が、きわめて主観的かつ情動的で、他者との相互理解を深めるような一般化のプロセスが欠けているからだと竹内は考える。体験に埋没している体験は真の体験ではない。それは言葉を通じて一般化されることで初めて真の体験として共有されるというのである。

「近代の超克」とは、竹内が言っているように、「戦争中の日本の知識人をとらえた流行語の一つであった。あるいはマジナイ語の一つであった」。この言葉の直接の出どころは、雑誌「文学界」が1942年9、10月号にのせたシンポジウムであるが、それとほぼ同じような議論が、1941年から42年にかけていわゆる京都学派によって展開され、それが雑誌「中央公論」に掲載された。この二つをあわせて「近代の超克」を論じるのが普通である。広松渉の「近代の超克論」も、この二つをターゲットにして論じている。

竹内好が「アジアにおける進歩と反動」という文章を書いたのは1957年のことだが、その当時は日本ではいわゆる逆コースが定着し、他の東アジア諸国では反動政権がはばをきかせつつあった。そんな時代状況を踏まえて「進歩と反動」という言葉が独特の意味を持っていたのだと思う。竹内はこの「進歩と反動」をどう考えるべきか、自分なりに筋道をつけようとして、この文章を書いたのだろう。

竹内好は丸山真男と並んで戦後の日本の思想をリードした人だ。丸山が西欧諸国の近代化を参照軸にして日本の後進性を論じたのに対して、竹内は中国を中心としたアジアを参照軸にして、日本という国の特異性を論じた。戦後はともかく、現代においても、日本をアジアとの関連で論じようとする視点は、日本人にはほとんど見られないので、竹内の視点は非常に意義があると言える。もし竹内の議論が日本人によってもっと真剣に受け取られていたら、日本は今とは違う道を歩んでいたと思う。少なくとも、東アジアのなかで孤立するようなことにはなっていなかったはずだ。竹内の理想によれば、日本はアジアの一員としての自覚を持って、アジアに眼を向け続けるべきであった。そしてアジアのリーダーとなって、アジアの存在価値をもっと高める努力をすべきであったし、また日本の実力をもってすればそう出来るはずだった。ところが現実はそうはならなかった。日本はあいかわらず、欧米にばかり眼を向け、アジアに対しては侮蔑的な姿勢をとり続けてきた。そういう姿勢を竹内はドレイ根性のあらわれだと言った。たしかに今の日本はアメリカに従属し、そういう姿勢を総理大臣自ら妾と自称して憚らなかったことを考えると、竹内の指摘はあたっている。

丸山真男は「超国家主義の論理と心理」(1946年)において、日本のナショナリズムの究極的な形態としての超国家主義を論じていたが、それから五年後に発表した小論「日本におけるナショナリズム」では、日本のナショナリズムをもう少し広い視点から取り上げている。その視点とは、一方ではヨーロッパのナショナリズムとの比較であり、もう一方ではアジア諸国のナショナリズムとの比較という視点である。

佐藤忠男は映画評論家である。その佐藤が「裸の日本人」と題して、彼なりの日本人論を展開して見せたのがこの本である。裸の日本人というから、偽らぬ本当の姿の日本人を描いたということなのだろう。映画評論家の行う日本人論だから、映画を材料にしながら日本人を分析したものかといえば、必ずしもそうではない。映画や芝居にふれた部分もあるが、ほとんどは佐藤自身の経験を通じて浮かび上がった日本人の姿がここには描かれている。いわば佐藤の目から見た裸の日本人の姿がここには描かれていると言ってよい。

永井荷風を転向論の文脈で論じるのは非常に奇抜な発想に思える。しかし荷風が戦時中、筆を折ることで戦争への協力を一切しなかったのは、言われるまでもなく事実だ。戦時中にはほとんどすべての文学者が戦争に協力したわけだし、その中には大勢の転向者も含まれていたわけだから、荷風のこうした態度が非転向のケースとして受け止められたのは無理もない。そんなわけで、敗戦直後に転向問題が大きく取り上げられた際、荷風は正宗白鳥や谷崎潤一郎と並んで、非転向の文学者として取り上げられたのである。宮本百合子や中野重治が観念に殉じた非転向者だったとすれば、荷風等は肉体に忠実な非転向者だったというわけである。

保守主義あるいは保守的な思想というものは、どの国のどの時代にもあるものである。少なくとも近代以降はそうであった。その基本的な特徴は、既存の秩序を脅かすものに対抗して、既存の秩序を守ろうとするところにある。保守主義の祖先と言われるバークは、フランス革命が既存の秩序を破壊して、世の中に混沌をもたらすことに対抗し、秩序と安定を主張したことはよく知られている。保守主義というのは、そのバークに体現されるような既存の秩序と安定を重視する立場なのである。

戦後の日本思想は、戦後派が登場すると論調が一段と大きな変化を呈すると小熊は俯瞰する。それを単純化して言うと、民主と愛国が分裂したことだという。丸山や竹内の場合には、民主と愛国は対立するものではなく、むしろ一体化したものだった。戦中派においても、鶴見などは公を介した連帯感を主張することで、民主と愛国とはかならずしも対立するものとは捉えられていなかった。ところが戦後派では、民主と愛国とはするどく対立するようになり、それにともなってそれまで日本の思想家たちにとって共通の基盤をなしていた戦死者の記憶が、もっぱら保守ナショナリズムへ取り込まれるようになる。その保守ナショナリズムを代表するのが江藤淳であり、それと反対にコスモポリタンな立場から民主を主張したのが小田実ということになる。

小熊は戦後の日本思想をいち早くリードした丸山真男や竹内好を戦前派と位置づけ、それに続く世代を戦中派と名付ける。戦中派というのは、敗戦の頃二十歳前後の青年だった世代である。この世代は丸山等戦中派と違って、戦争が始まったときにはまだ少年で、社会に対して批判的な見方をとることができなかった。戦争は彼らにとってははじめから所与としてあった。その戦争に負けたとき、丸山等が解放と受け止めたのに対して、彼らは崩壊として受け止めた。そしてそうした崩壊をもたらした年長者たちを強く憎んだ。

戦後の日本思想は敗戦への反省から始まった。それをリードしたのは丸山真男と竹内好だと小熊は言う。丸山は「無責任の体系」、竹内は「ドレイ根性」という言葉をキーワードに使って、戦前・戦中の日本の指導層や国民の意識のあり方に深くメスを入れ、何が日本の敗戦をもたらしたかを徹底的にえぐりだしたというわけである。

小熊英二の大著「民主と愛国」は、日本の戦後思想を俯瞰したものだ。副題に「戦後日本のナショナリズムと公共性」とあるように、小熊は戦後思想の特徴をナショナリズムと公をめぐる議論に見ている。ということは、戦後日本思想がきわめて政治的な性格を帯びていたと見ているわけだ。それは日本という国をもっぱら政治的な関心から論じるということにつながるから、勢い論争的な色彩を強く帯びる。その論争はナショナリズムと公共性を軸に展開してゆくわけだが、ある時はいわゆる進歩派がナショナリズムを強く主張するかと思えば、ある時は保守的な勢力がナショナリズムを取り込むという形になる。こうした論争はある程度共通の地盤を前提にしている。そこから議論の連続性ということが生まれる。つまり議論の蓄積が行われるということだ。後から議論に参加するものは、先駆者たちの議論を批判することから自分の言説を展開するのである。これは丸山真男が指摘した日本思想の特質とは随分と異なっている。丸山は日本には固有の思想はなく、外国から脈絡もなく新しいとされる思想が輸入され、したがって思想の内容よりは、その新しさだけが評価の基準になるような倒錯した状況が続いてきたと言ったわけだが、ことナショナリズムを巡る議論の場合には、そういう指摘は当てはまらず、議論は一応共通の地盤の上で連続的に展開されるということになる。

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