読書の余韻

高島俊男「李白と杜甫」

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高島俊男は中国文学者であるが、その中国文学と日本語との関係をユニークな眼で見ている。日本語が中国文学の巨大な影響を受けたことは、歴史的・地政学的な見地からして、ある意味必然なことであったが、それは日本語にとって必ずしもいいことばかりではなかった。中国語と日本語とでは、根本的に異なる言語であるのに、その異なる言語を表記するために作られた漢字を、日本語に取り入れたことで、日本語は非常におかしな事態を多数抱えることになった。もし日本人が漢語というものに接していなかったら、日本人は日本語をあらわすために自前の文字を発明したであろうし、しかがって漢語を用いずに抽象的な表現をするようになったであろう。しかしなまじ漢語を便利に使いこなしてしまったために、そういう可能性をつぶしてしまった。そこで日本人はいまだに日本語の表記にあたって不自然をせまられているばかりか、外国語である漢字を後生大事にしていることは滑稽でさえある。そのように主張している。

ブランショのカフカ論

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フランツ・カフカという作家は、世界の文学史の常識を覆すような作品を書いたわけだし、また人間としてもユニークな生き方をしたので、非常に影のある存在だと受け取られている。そんなこともあって、カフカを論じる視点は多様でありうる。といっても、星ほど多くのカフカ論というものがあるわけではない。偉大な作家と呼ばれるにしては、彼を論じたものは、意外と少ないのだ。しかも、その視点はかなり限られている。カフカのテクストに沿って、作品を内在的に解釈しようとするものか、あるいはカフカの生き方に焦点を当てて、カフカの小説の独特さは、彼の生き方の独特さを反映しているとするものか、そのどちらかと言ってよい。

ボルヘスのカフカ論

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ボルヘスの「カフカの先駆者たち」は、文庫本にしてわずか五ページの小文であるが、カフカという作家の意義をよく捉えた名文になっている。さすがに文章の達人ボルヘスだ。

ジル・ドルーズとフェリックス・ガタリの共著「カフカ」は、次のような文章から始まっている。「カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴」である(「カフカ」宇波彰、岩田行一訳)。

アルトゥールとイェレミーアスは、「城」からKの助手として派遣されたものだ。彼らは小説の最初の部分から登場する。そしてなにくれとなくKに付きまとい、Kの行動に一定の色を添えた後、突然小説の進行から脱落する。彼らをわずらわしく思ったKが追い払ったということになっているが、実際は彼らのほうでもKにうんざりしていたのだ。

オルガとアマーリアの姉妹に接近したことで、Kはフリーダの怒りを買うことになるのだが、彼が彼女たちに接近したのは、彼女らに会うためではなかった。Kは彼女らの弟であるバルナバスに会うために彼女らの家に行ったのである。というのも、バルナバスはクラムからの手紙をKに送り届けた人間であって、そのクラムと会うための手がかりを一番持っているはずの人物として、Kには見えたからだった。そこでバルナバスの家、つまりオルガとアマーリアの住んでいる家に出かけていったわけだが、そこでKは思いがけない話をオルガから聞かされる。

カフカの小説に出てくる女性には、一定の共通パターンがある。どの女性も、主人公にとってゆきずりの関係にある。複数の女性たちが出てくる中で、群を抜いて重要な役割を演じる女性はいるにはいるが、それらの女性にしても、最後まで主人公と運命を共にしない。だいたいが途中でいなくなってしまうのだ。それもかなり唐突な感じで。「アメリカ」の場合には、主人公の保護者を買って出たホテルの年長の女性がそうだし、「審判」の場合には弁護士の看護婦を勤めているレーニがそうだった。「城」の場合には、フリーダがそれにあたる。フリーだがいなくなった後はベーピーがその穴を埋めるように登場するが、これも主人公にとっては決定的な意味を持つ女性にはなりえず、いつの間にか消えてゆく運命にあるように思われる。唯一の例外は「変身」の妹だが、これはたまたま同胞としての役柄なのであって、かならずしも女性である必然的な理由はないように思われる。こんなわけでカフカの女性たちは、主人公の運命にとっては、ゆきずりの非本質的な役割にとどまっているように見えるのだが、しかしもし彼女らが存在しなかったとしたら、小説はかなり味気ないものになっただろう。その意味では、小説に一定の効果を及ぼしてはいる。もっとも、効果のない人物像など、すぐれた小説に入り込むよりはない、といってよいのだが。

カフカの「城」を読む

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「城」は普通には、未完成の作品と受け止められている。形式的にはそのように見える。主人公Kと旅館紳士荘のおかみとの会話の途中で中断してしまうし、話の流れからしても、とても完結しているようには見えない。しかしよくよく考えれば、この奇妙な話にまともな終り方があるだろうか。そもそもこの小説は、なにかまとまりのある筋書きからできているわけではない。たしかに、主人公には個人的な目的があり、とりあえずはその目的をめぐって小説が展開してゆくのであるが、そのうちに主人公自身が自分の目的を見失ってしまうようなところがある。主人公が、自分の行為について明確なイメージを持っていなければ、小説を読んでいる者にはなおさら、なにがそこで問題となっているのか見えてこない。ところが小説というものは、昔から多かれ少なかれ、問題なしでは進まなかったものなのだ。

掟の門:カフカ「審判」

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「審判」の第九章は、「聖堂にて」というサブタイトルで、ヨーゼフ・Kが聖堂の中で若い聖職者と交わす会話が中心になっている。この章に続く章が最終章であり、そこでいきなりKが死刑執行人に連行され、野原の片隅で刑を執行され、「犬のように」死んでゆくわけであるから、この第九章は、色々な意味で、「審判」という作品を解釈する上での手がかりを秘めているといえる。その手がかりをどのように引き出すかは、読者次第なのであるが。

筆者は先に、「審判」でカフカが描いたのは、同時代のヨーロッパに現われた息苦しい官僚制社会ではないかと言った。もしこの小説が、「変身」と同じように、主人公の身に起こったごく個人的な出来事を描いただけならば、多くの批評家たちが口を揃えて言うように、気味の悪い不条理小説ということになるのだろうが、この小説の中で不条理な目に会っているのは、主人公だけではない。主題化され前景化してはいないけれど、他に夥しい数の人々が、主人公のヨーゼフ・Kと全く同じ境遇に陥っている。しかも彼らには、彼らを訴追したものがある。それは当面は裁判所ということになっているが、要するに官僚制という形をとった権力機構である。その権力機構が、国民の一人ひとりを、大した根拠もなく抑圧する、そういう基本的な構図が、この小説からは読み取れる。そうした抑圧の支配する社会は、ディストピアと言ってもよいから、この小説はディストピアとしての官僚制社会の恐ろしさを描いたものだ、と言えるわけである。

審判の中の女性たち

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カフカの小説の中に出てくる女性たちは、みな一風変わっている。小説の中に出てくる女性たちには、色々なパターンがありうるわけで、彼女らが多少常道から外れているからといって、別段不都合はないわけだが、カフカの小説の中に出てくる女性たちは、揃いも揃って常道からかなり外れた、ちょっといかれた人達なのだ。カフカの女性の中で、最もしとやかに感じられるのは、「変身」に出てくるグレゴール・ザムザの妹であるが、彼女さえ最後にはゴキブリになった兄の背中にリンゴを投げつけ、それが原因で兄を死なせてしまう。ところが、彼女はそのことに罪の意識を感じるどころか、自分たち一家の上に覆いかぶさっていた不吉な運命を、追い払うことができたことを、喜ぶ始末なのだ。

カフカ「審判」を読む

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「審判」は、「変身」と似ているところがある。まず、雰囲気だ。この二つの小説は、いずれも不条理文学の代表作といわれるのだが、不条理というのは、この二つの作品の場合、重苦しい雰囲気となって現われる。この重苦しさには不気味さがともなっているのだが、この不気味さこそ、それまでの文学には見られなかったものだ。そういう点でこの二つの作品は、不気味さを基調低音とする、重苦しい不条理劇といった体裁を呈している。

カフカの小説「アメリカ」の最終章である第八章は「オクラホマの野外劇場」と題されている。その題名にある「オクラホマの野外劇場」に就職しようとするカール・ロスマンを、この章は描いているわけだが、一読してすぐわかるように、小説のこれ以前の部分と大きく断絶している。ほとんどつながりがない。オリエンタル・ホテルのエレベータ・ボーイ仲間がちょっと出てくるだけだ。それも、あってもなくても違いがないような、ぞんざいな扱い方だ。それゆえ読者はこの部分を、独立した短編小説として読んでも、なんらの不都合を覚えないだろう。短編小説としてなら、それなりにまとまった筋書きになっている。

カフカ「火夫」

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「火夫」は長編小説「アメリカ」の冒頭の部分であるが、カフカは生前にこれを独立した短編小説として発表している。そこにどのような意図があったのか、とりあえずわからない。もともと「アメリカ」の一部として書いたものを、別途独立して発表したのか、それとも「火夫」という短編小説を書いた後で、その続編を書く気になって、それが長編小説の構想につながったのか。日記等を分析すれば、その辺の事情がわかるかもしれないが、今の筆者にはわからないままだ。

カフカ「アメリカ」

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カフカは生涯に三篇の長編小説を書いた。「アメリカ」はその最初のものである。1912年(29歳の時)に書き始め、その第一章にあたる「火夫」の部分を翌年の1913年に独立した短編小説として出版した。全体は八章からなるが、そのうちの第七章と第八章との間に強い断絶があり、また結末も曖昧であることから、未完成の作品と言ってよい。

カフカの寓話

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カフカのすべての短編小説に動物が登場するわけではないにせよ、彼の短編小説は本質的には動物を描くものだ、とドルーズとガタリは言う。カフカの文学には、とりわけ短編小説の形式で語られる物語には、出口を見出し、逃走の線を描くという目的があるが、動物はそうした目的を描くには非常に適したモチーフだと言うのだ。マイナー文学の語り手としてのカフカには、ゲーテなどの大文字の(メジャーな)文学とは異なり、自分自身と自分が生きるこの世界との間に、親密な関係を持つことが出来ない。彼はこの世界に安住できる場所を持たないので、常にそこから逃走したいという衝動に駆られる。動物はそうした逃走への衝動にとって出口になれる唯一の回路というわけである。だからカフカが長編小説を書くようになるのは、動物の物語を通じては出口を見出せないと感じたときなのだとドルーズらは言いたいようである。カフカの長編小説は、終わりのない旅のようなものなのであり、したがってそこにはどこにも出口を見出すことができない。

カフカの短編小説

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カフカが生前発表したのは、「変身」のほかいくつかの短編小説だった。それら短編小説の日本語訳は、岩波文庫から、「カフカ短編集(池内紀編訳)」と「カフカ寓話集(同訳)」という形で二冊になって出ている。そのうち「カフカ短編集」について、ここでは取り上げたい。

カフカ「変身」を読む

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「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっていることに気づいた」(原田義人訳)。カフカの小説「変身」は、こんな衝撃的な文章で始まる。読者は一気に物語の本筋に引き入れられる。ある朝目が覚めたら、一匹の巨大な毒虫に変身していたとは、いったいどういうことなのか。人間が突然、わけもわからないまま毒虫に変身してしまう。考えただけでも恐ろしいではないか。だれもがそう思うに違いない。

渡辺将人「アメリカ政治の壁」

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渡辺将人は、アメリカの政治の現場に長く身を置いた経験があるというので、この書物はそうした彼の経験に裏打ちされた現実感にあふれており、近年のアメリカ政治についてのリアルな展望を得ることができるのではないか。アメリカの政治といえば、共和党が保守を代表し、民主党がリベラルを代表し、両者がそれぞれの理念を掲げて対立しあうという構図を思い浮かべがちだが、渡辺はこの対立軸よりも、理念の民主制と利益の民主制の対立という視点からアメリカ政治を読み解こうとする。彼によれば、保守もリベラルも自由主義という大きな理念を前提とした、小さな理念の対決であって、それだけではアメリカ政治を正しくとらえることは出来ないと言うのである。

ウッドロー・ウィルソンとF・D・ローズヴェルトは、アメリカの歴代大統領の中では、政治理念にこだわった珍しい部類の政治家ということになっている。二人とも民主党の大統領として、今日で言うリベラルの政治理念を掲げ、それを実行に移した政治家であったといえる。このリベラルという理念について、ホフスタッターは立ち入った分析をしていないが、それまでのアメリカの政治理念である自由放任主義に対立した概念だという漠然とした捉え方はしている。ウィルソンもローズヴェルトも、自由放任主義をマイナスに捉えたわけではないが、その行き過ぎは社会正義に反するという考え方は持っていた。ここで社会正義と言われるのは、自由放任主義者の固執するような、機会の平等ということではなく、機会の平等が形式的な理念にとどまらず実質的なものになるには、人々を同じ条件で競争に参加させるような舞台を、政府が作るべきだという考え方の上に成り立っていた。こうしたリベラルの立場は、21世紀の今日まで、すくなくともアメリカの政治においては、一定の影響力を持ち続けているが、ウィルソンはそうしたリベラルの考え方をアメリカの大統領として最初に提示した政治家であり、ローズヴェルトはそれを受け継いだうえ、更に発展させた、というふうにホフスタッターは捉えているようである。

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