読書の余韻

アントン・チェーホフ(1860-1904)は短編小説と何本かの戯曲を書いて、四十四歳の若さで死んだ。かれがこれらの形式にこだわったのは、物語よりもロシア人を描きたかったからだろう。かれほどロシア人の人間性にこだわった作家はいない。そうした人間性は、無論長編小説の形式でも描くことができるが、短編小説や戯曲を通じてのほうが、人間性の典型は描出しやすい。人間性の色々なパターンを、限定された形式を通じて、典型的に示すこと、それがチェーホフの狙いだったように思える。

江藤淳は、昭和54年秋から翌年春にかけてアメリカに滞在し、アメリカの対日本検閲政策の実情について研究した。そしてその成果を「閉ざされた言語空間」という書物に著して刊行した。これは、日本は敗戦とともに連合軍=アメリカから「言論の自由」を与えられたという通説に対して、反駁するのが主な目的だったらしい。江藤のアメリカ嫌いは相当のものだから、そのアメリカに言論の自由を貰ったというような言説が同時代の日本にゆきかっていることに憤懣やるかたないものを感じたからだろう。そんなバイアスを抜きにしても、これは日本の戦後史の一端を解明するうえで非常に有益な研究だといえる。江藤の最大の業績をこれに帰する意見があるのも、うなずけないことではない。

江藤淳は夏目漱石と勝海舟が好きだったようで、漱石については大部の書物を書いているし、海舟については折につけて色々な文章を書いている。この二人を江藤が評価する視点はナショナリズムだ。江藤によれば、漱石も海舟もいつも自分を国家と関連付けて考え、国家のためになることを自分自身に優先した。そうしたナショナリズムを漱石は文学の面で表現し、海舟は政治行動として実行したということになる。

江藤淳には浩瀚にわたる漱石研究があるが、ここでは小論「明治の一知識人」を参照して江藤の漱石論の要諦を見てみたい。結論から先に言うと、江藤の漱石論は、漱石を国士とみるところに特徴がある。つまり漱石を、文学者としてよりは愛国者=ナショナリストとして高く評価しているのである。漱石の文学者としての意義は、江藤によれば愛国者=ナショナリストとしての一面を物語っているにすぎない。とうことは、江藤なりの愛国心が、漱石にも投影されているわけである。

江藤淳が時事評論「"戦後"知識人の破産」を書いたのは、1960年安保騒動の最中である。この小論の中で江藤は、戦後知識人の破産と、彼らの主張の奇妙な空々しさを感じたと書いた。この連中を見ていると、「戦後十五年間というもの、知識人の大多数がそのうえにあぐらをかいてきた仮構の一切が破産した」と感じた、そう言うのである。

江藤淳といえば、今日では比較的穏健な保守主義者というイメージが流布しているようであるが、彼の政治評論の代表作といわれる「『ごっこ』の世界が終わった時」を読むと、変革を志向していた改革家としてのイメージが伝わって来る。普通保守といえば、社会の現状を支えている制度・思想を尊重する姿勢を言うが、彼がこの小論の中で展開しているのは、同時代の日本の現状に対する痛烈な批判であり、それを乗り越えようとする意志だからだ。

吉本隆明は小論「世界史の中のアジア」で、竹内好に言及して次のように言っている。「竹内さんのアジア認識のなかにもし弱点が考えられるとすれば、竹内さんが<アジア>という場合、近代以降におけるヨーロッパとアジアとを対比させた概念だったことにあるとおもいます」と。これだけ取り出してみれば、何を言っているのかわかりにくいところがあるが、要するに、竹内はアジア特に中国を、ヨーロッパとほぼ対等のものと見ているが、それは間違った解釈だ。中国は、すくなくとも社会構造という面では、ヨーロッパの古代以前のような状態にあり、それを近代のヨーロッパと比較することはナンセンスだと言いたいようである。

「世界認識の方法」は、吉本隆明とミシェル・フーコーの対話を活字化したものだ。この対話は、世界最高の知性と日本を代表する知性との対話として大いに喧伝されたようだが、その割には収穫がないと評された。議論がかみ合っていないというのである。たしかに、今読んでも、二人の議論がかみ合っている様子はない。二人とも、相手の思想を尊敬しており、互いに認め合っているところもあるのだが、どうも相手に対する理解が表層的で、本質に迫っていないと思われるし、したがってその表層的な理解に基づいた対話も表面的なものに流れている。

「共同幻想論」は、吉本隆明の社会理論を体系的に論じたものだ。その特徴は、人間社会というものはまづ個人からなっていて、その個人が集まって社会を形成する一方、個人と社会との中間に家族や夫婦の関係があるとしたうえで、これら三つの層を通じてすべてについて言えることは、それらが幻想の上に成り立っているとする点だ。この考え方によれば、個人は個人幻想にその存立の基礎をもち、家族や夫婦は対幻想に、また社会は共同幻想に、それぞれ存立の基礎を持つということになる。

吉本隆明の小論「芥川龍之介の死」は、芥川の死をめぐる通説に異を唱えるとともに、芥川の作家としての資質を軽侮するような内容のものである。吉本には他人を無暗に攻撃する傾向があるが、この小論ではそれがストレートに現われている。芥川を敬愛する人が読んだら不愉快になると思うし、また直接かかわりのなかった死者に向かって何故これほどまでにエクセントリックな攻撃をしかけねばならぬのか、理解に苦しむことだろう。

吉本隆明の転向論は、戦争責任論の一環としてなされたものだ。吉本の戦争責任論にはいまひとつわからないところがあるが、転向論に至っては大分混乱を感じる。と言うのも吉本は、佐野とか鍋山とか戦時中いち早く転向を表明し、それを厚顔に同志にも勧めたような「転向」組と、宮本夫婦のように思想的な節操を捨てなかった「非転向」組とを一緒くたにし、どちらも同じ穴のムジナのような言い方をしているのだ。しかも宮本たちまでをも「転向」呼ばわりしている。

「芸術的抵抗と挫折」は、吉本隆明が戦争責任を論じたものだ。この問題についての吉本の追究姿勢は厳しい。戦時中にいわゆる転向をした文学者に対しては無論、転向せずに頑張った人たちに対しても厳しい目を向けている。特に後者の人たちは戦時中に節操を守り通したとして尊敬を集めていただけに、彼らに対する吉本の糺弾的な姿勢は、異様ともいえるものであった。

「マチウ書私論」は吉本隆明の評論家としての活動のスタートを画する論文だということになっているらしいが、テーマは原始キリスト教批判である。日本人の吉本が日本人を相手になぜこんな文章を書いたか、いまひとつ判然としないところがある。吉本はキリスト教徒でもないらしいから、キリスト教には大した恨みもないと思うし、ましてや原始キリスト教などというものが、彼にとっての深刻なテーマになりうるとも思われない。その原始キリスト教をなぜ吉本は、自分の評論家活動のスタートにあたってテーマとして選んだのか。

竹内好は中国文学の理解を魯迅を読むことから始めた。これは日本人の中国文学受容の伝統的なパターンからは随分とかけ離れている。少なくとも竹内が魯迅を読み始めた頃の日本では、中国文学とは唐宋の大詩人たちを中核とした歴史的な遺産を意味していた。同時代の中国が問題意識になることはほとんどなかった。そんな時代に竹内は、自分とほぼ同時代人と言える魯迅を読むことから、中国文学の理解を深めようとしたわけである。

竹内好は北一輝を非常に高く評価していた。理由はいつくかあるが、かいつまんで言うと、理論的というよりは感性的なものだった。だから竹内の北一輝に触れた文章を読むと、論ずるというよりは観ずるというような印象が伝わってくる。つまり竹内の北についての文章は「北一輝論」というよりは「北一輝観」というのがあたっている。

竹内好の論文「日本のアジア主義」は、日本におけるアジア主義の系譜をたどったものである。竹内は日本のアジア主義を玄洋社・黒龍会によって代表させているが、この流れは国権主義的・侵略的なところを特徴としている。その点では右翼の典型といえるものだ。しかし当初からそうだったわけではない、と竹内は言う。玄洋社ができたのは明治十年のことだが、その当時は民権論的なところもあったし、アジアと連帯しようというようなところもあった。要するにアジアに対して一方的で侵略的な態度を必ずしも取っていなかったのである。

竹内好は「日本とアジア」と題した文章の中で東京裁判をとりあげ、それを次のように性格づけた。「東京裁判は、日本国家を被告とし、文明を原告として、国家の行為である戦争を裁いた。(日本の起こした)戦争は侵略戦争であり、したがって平和への侵害であり、当然に文明への挑戦である、というのが論告および判決の要旨であった」

竹内好が「戦争責任」という言葉を使って日本人の戦争責任問題を正面から論じたのは1960年前後のことだが、その背景には戦争責任の腐蝕現象というべきものがあった。戦後もこの頃になると、戦争を体験しなかった世代が増えてきて、その連中を中心にしていまだに戦争責任もないだろうというような雰囲気が出て来た。竹内がその代表としてあげるのは「怒れる若者たち」と言われる連中だ。この連中は前世代との断絶を標榜し、いまだに戦争にこだわることをバカバカしいと主張した。こういう連中が現われるのは、戦争を体験した世代の戦争についての語り方が、きわめて主観的かつ情動的で、他者との相互理解を深めるような一般化のプロセスが欠けているからだと竹内は考える。体験に埋没している体験は真の体験ではない。それは言葉を通じて一般化されることで初めて真の体験として共有されるというのである。

「近代の超克」とは、竹内が言っているように、「戦争中の日本の知識人をとらえた流行語の一つであった。あるいはマジナイ語の一つであった」。この言葉の直接の出どころは、雑誌「文学界」が1942年9、10月号にのせたシンポジウムであるが、それとほぼ同じような議論が、1941年から42年にかけていわゆる京都学派によって展開され、それが雑誌「中央公論」に掲載された。この二つをあわせて「近代の超克」を論じるのが普通である。広松渉の「近代の超克論」も、この二つをターゲットにして論じている。

竹内好が「アジアにおける進歩と反動」という文章を書いたのは1957年のことだが、その当時は日本ではいわゆる逆コースが定着し、他の東アジア諸国では反動政権がはばをきかせつつあった。そんな時代状況を踏まえて「進歩と反動」という言葉が独特の意味を持っていたのだと思う。竹内はこの「進歩と反動」をどう考えるべきか、自分なりに筋道をつけようとして、この文章を書いたのだろう。

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