読書の余韻

徳川時代後期の思想家海保青陵は、新井白石と荻生徂徠を並べて称賛し、次のように言った。「凡そ近来の儒者、白石と徂徠とは真のものを前にをきて論じたる人、世の儒者とははるかにちがうてをるなり」(稽古談)。「真のもの」の意味は、空疎な理屈ではなく、真実すなわち現実的なことがらというほどの意味である。つまり海保青陵は、白石と徂徠とを実証的で地に着いた学問をした人として、並べて称賛していると考えられる。

吉川幸次郎といえば中国文学者として一時はその世界をリードした碩学だが、その吉川が荻生徂徠伝を書いている。岩波版日本思想体系の荻生徂徠の巻に解説の形で乗せた文章「徂徠学案」である。解説とはいえ、原稿用紙にして270枚の分量にのぼり、ちょっとした徂徠論にもなっている。

荻生徂徠の著書「学則」は、学問論というか、学問をする上での心得のようなことを記したものだ。学則の即とは、学問をする上でのっとるべき規則というような意味である。その規則を徂徠は七つの項目にわたってあげている。それらを読むと、徳川時代における、学問についての標準的な考え方がわかるようになっている。徳川時代の学問とは、宋学を中心とした儒教の体系であったから、徂徠の学問論も、おのずから儒教について語るというふうになっている。何故、儒教だったのか。その理由に触れると長話に渡るが、要するに儒教の名分論が、徳川時代に安定化した封建的な身分関係によくフィットしたからだと思う。

弁名下巻は、人性、天命、陰陽といった事柄についての徂徠なりの定義を提出している。人性といい、天命といい、陰陽といい、人間性の本質とか世界のあり方についての認識をテーマにしたものだ。その認識を世界観と言ってもよい。どんな教説も一定の世界観を前提としており、その世界観を踏まえて統治とか人倫とかを語ることができる。そうした考え方に立ったうえで徂徠は、聖人・君子がよって立つべき世界観の内実を、徂徠なりに解釈したというのが、この部分の意義なのだろうと思う。

弁名は弁道と並んで二弁といわれ、荻生徂徠の思想をもっともコンパクトに表現したものである。弁道は道を弁じるという意味であったが、弁名のほうは名を弁じている。名とは、儒教的な概念をさしていう。荻生徂徠が、その名を弁ぜんと志したわけは、弁名の序文のなかで触れられている。それによれば、儒教の諸々の概念が、古と今とでは大いに変化してきている。概念の名称である名と、概念の本来的な内実である物とが乖離しているというのである。その理由は、今言が古言を正しく反映していないからだ。それ故、儒教概念の正当な内実を知ろうとすれば、古言に遡って、その本来の意義を解明しなければならない。その任に相応しいものは、日本と中国とを通じて自分・荻生徂徠しかいない。それ故自分は、中国の古に遡ることで、儒教的な概念をその本来の意義において解明しようとするのである。こういった徂徠の意気込みによって、この弁名という書物は書かれたのである。

弁道は、徂徠思想の要点を簡潔に記述したもので、同じく徂徠の思想を記述した弁名と並んで二弁などと称されている。享保二年(1717)頃に書かれ、写本で流通していたが、その後徂徠の意思に拠って弟子たちが決定稿を編纂し、元文二年(1737)に刊行された。

「太平策」は、信憑性も含めて問題の多い書物とされてきたが、丸山真男が一応考証を試みて、信憑性の確認と執筆時期の推定を行った(「太平策」考)。それによれば、「政談」よりも早い時期に成立し、内容的には「政談」と重なる部分が多いが、「政談」のほうがより個別的・具体的であるのに対して、「太平策」はより原理論的ということになる。とはいえ、「比較的短編であるにもかかわらず、そのなかに学問の方法論、教育及び学習法から、教学の本質、さらに元禄・享保の政治・社会状況から政策論まで、きわめて広範なテーマが盛込まれている」

政談巻四は、巻三までの議論を踏まえて、それに漏れた事柄を雑多に並べたものであるが、中でも武士の身分にかかわるものが興味深い。身分についての議論には、婚姻や養子縁組などの問題も含まれる。これらは今の民法体系のなかでも、身分法の一部をなすものだ。

国の締まりや経済・財政を実際に取りさばく者は役人である。したがって役人の器量や彼らの使い方が、政治をよくするためのポイントとなる。そう徂徠は言って、役人の望ましいあり方について提言する。それを徂徠は役儀という。徂徠の役儀論は、今で言えば公務員制度論のようなものと考えてよい。公務員の良し悪しは、いまでも一国の政治のかなめとなるものだが、徂徠の時代にあっても、いや、その時代だったからこそ、喫緊の課題として意識されたのだろう。

政談の巻二を徂徠は次のように書きだす。「太平久く続くときは漸々に上下困窮し、夫よりして紀綱乱て終に乱を生ず。和漢古今共に治世より乱世に移ることは、皆世の困窮より出ること、歴代のしるし、鑑にかけて明か也。故に国天下を治るには、先富豊なる様にすること、是治の根本也」

荻生徂徠が「政談」を書いたのは享保十一年頃のこと。享保元年から始まっていたいわゆる享保の改革がピークを記すときにあたる。徂徠は享保七年に将軍吉宗の身近に仕えるようになって以来、改革の行方に大きな関心を持ったに違いない。この「政談」には、そうした徂徠の関心というか、問題意識が強く盛られている。かれがこの書を将軍に献上したのは、享保十二年四月のことらしい。死の一年前のことである。そこには幕府の政策に活用してもらいたいという実践的な意図があったのだと思われる。この書は、「政談」という題名が語る通り、政治のあるべき姿を語った書なのである。

「近代日本の陽明学」と題したこの本は、大塩平八郎に始まり吉田松陰、西郷隆盛を経て三島由紀夫に至る、著者が陽明学的と考える人々を対象にしたものである。おもてづらは陽明学という思想運動を取り扱っているようにみえるが、普通の思想史とは大分違う。第一、水戸学とか山川菊枝とか、陽明学とはかかわりのなさそうなものに多くのページを費やしているし、三島由紀夫に至っては、著者自身、かれは陽明学の精神を体現した革命家というより、むしろ朱子学的精神を体現した能吏タイプの人間だと言っているくらいなのだ。

朱子学と陽明学はとかく対立する面が強調されがちだったが、実は深い絆で結ばれているというのが中国史家島田虔次の見方である。陽明学は朱子学の内在的な展開であり、「朱子学は、必然的に陽明学にゆきつくべき運命にあった」というのである。

桑原武夫といえば高名なフランス文学者だったが、新井白石を非常に高く評価し、白石の文章のいくつかを現代語訳したり、「荒井白石の先駆性」という小文を書いたりしている。それらを通じて桑原が言いたかったことは、白石が名文家だったということらしい。桑原は言う、「従来の日本文学史家がこうした白石の作品を文学として十分に評価していないことは、まったく遺憾といわざるをえない」と。

岩波版日本思想体系新井白石編に、加藤周一が「新井白石の世界」と題する結構長文の解説を寄せている。バランスのとれた解説なので、とりあえず新井白石という人物のプロフィールを知るには適当な文章だと思う。

新井白石は正徳二年(1712)すなわち将軍家宣が死んだ年の春から夏にかけて、侍講が終わるたびに、「本朝代々の沿革・古今の治乱」と題して、日本の歴史について進講した。「読史余論」は、その講義録というべきものである。序章に、「本朝天下の体勢、九変して武家の代になり、武家の代また五変して当代に及ぶ総論のこと」とあるように、清和天皇の代から始めて公家の政治の変遷を説き、引き続いて秀吉の代に至るまでの武家の政治の変遷を説いている。この間、公家の代九変のうち、六変以降の内容については、武家の代の五変と重なるが、歴史を語る視点が異なっている。すなわち六変以降の内容については公家の視点からこれを語り、五変については武家の視点から語っているわけである。

宝永五年(1708)十月、イタリア人宣教師シドッティが屋久島に上陸し、長崎を経て翌年江戸に移送されてきた。その頃幕府の要職にあった新井白石は、数回にわたってシドッティを尋問し、それにもとづいて幕府としてとるべき措置を上申した。それは三つの選択肢からなっていて、本国送還を上策、監禁を中策、処刑を下策としていたが、幕府がとった措置は中策の監禁であった。シドッティは茗荷谷の切支丹屋敷に監禁され、正徳四年(1714)十月に死んだ。

「東雅」は、語源解釈を中心とした語義解釈辞典というべきものである。古い日本語の成り立ちや特徴が浮かび上がるように配慮されている。いまでも日本語語源辞典としての意義を失っていない。白石がこれを作ったのは、失脚後間もなくのことで、その頃子供相手に学問を教えていたのだが、講義の中心が古い日本語について説き明かすことだった。その講義を集大成したのがこの辞典で、享保四年に現在の形に完成した。この辞典を白石が「東雅」と名付けたのは、中国最古の辞典「爾雅」を意識している。「東雅」とは、東の国、つまり日本の「爾雅」というわけである。

「藩翰譜」は、甲府城主だった頃の徳川綱豊(後の家宣)に仕えていた白石が、綱豊の命を受けて書いたものである。その成立経緯は「折たく柴の記」に詳しい。それによると、元禄十三年(1700)に、俸禄一万石以上の人々のことを調査して書き記せとの命を綱豊から受け、約一年間の下準備をしたうえで、翌年七月十一日に起稿し、十月に至って脱稿したということになっている。内容は、慶長五年(1600)から延宝八年(1680)に至る間の大名三百三十七名について、その事績を記したものである。

「折たく柴の記」は新井白石の自叙伝として知られている。上・中・下の三巻からなるが、自叙伝としての要素がもっとも大きいのは上巻である。この部分は、白石自身やその父親の生き方について述べたもので、白石の人間像が鮮やかに浮かび上がって来る。それを読むと、新井白石という人間は、なにはともあれ古武士的な心情を生涯失わなかったことがわかる。

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ