読書の余韻

カフカ「審判」を読む

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「審判」は、「変身」と似ているところがある。まず、雰囲気だ。この二つの小説は、いずれも不条理文学の代表作といわれるのだが、不条理というのは、この二つの作品の場合、重苦しい雰囲気となって現われる。この重苦しさには不気味さがともなっているのだが、この不気味さこそ、それまでの文学には見られなかったものだ。そういう点でこの二つの作品は、不気味さを基調低音とする、重苦しい不条理劇といった体裁を呈している。

カフカの小説「アメリカ」の最終章である第八章は「オクラホマの野外劇場」と題されている。その題名にある「オクラホマの野外劇場」に就職しようとするカール・ロスマンを、この章は描いているわけだが、一読してすぐわかるように、小説のこれ以前の部分と大きく断絶している。ほとんどつながりがない。オリエンタル・ホテルのエレベータ・ボーイ仲間がちょっと出てくるだけだ。それも、あってもなくても違いがないような、ぞんざいな扱い方だ。それゆえ読者はこの部分を、独立した短編小説として読んでも、なんらの不都合を覚えないだろう。短編小説としてなら、それなりにまとまった筋書きになっている。

カフカ「火夫」

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「火夫」は長編小説「アメリカ」の冒頭の部分であるが、カフカは生前にこれを独立した短編小説として発表している。そこにどのような意図があったのか、とりあえずわからない。もともと「アメリカ」の一部として書いたものを、別途独立して発表したのか、それとも「火夫」という短編小説を書いた後で、その続編を書く気になって、それが長編小説の構想につながったのか。日記等を分析すれば、その辺の事情がわかるかもしれないが、今の筆者にはわからないままだ。

カフカ「アメリカ」

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カフカは生涯に三篇の長編小説を書いた。「アメリカ」はその最初のものである。1912年(29歳の時)に書き始め、その第一章にあたる「火夫」の部分を翌年の1913年に独立した短編小説として出版した。全体は八章からなるが、そのうちの第七章と第八章との間に強い断絶があり、また結末も曖昧であることから、未完成の作品と言ってよい。

カフカの寓話

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カフカのすべての短編小説に動物が登場するわけではないにせよ、彼の短編小説は本質的には動物を描くものだ、とドルーズとガタリは言う。カフカの文学には、とりわけ短編小説の形式で語られる物語には、出口を見出し、逃走の線を描くという目的があるが、動物はそうした目的を描くには非常に適したモチーフだと言うのだ。マイナー文学の語り手としてのカフカには、ゲーテなどの大文字の(メジャーな)文学とは異なり、自分自身と自分が生きるこの世界との間に、親密な関係を持つことが出来ない。彼はこの世界に安住できる場所を持たないので、常にそこから逃走したいという衝動に駆られる。動物はそうした逃走への衝動にとって出口になれる唯一の回路というわけである。だからカフカが長編小説を書くようになるのは、動物の物語を通じては出口を見出せないと感じたときなのだとドルーズらは言いたいようである。カフカの長編小説は、終わりのない旅のようなものなのであり、したがってそこにはどこにも出口を見出すことができない。

カフカの短編小説

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カフカが生前発表したのは、「変身」のほかいくつかの短編小説だった。それら短編小説の日本語訳は、岩波文庫から、「カフカ短編集(池内紀編訳)」と「カフカ寓話集(同訳)」という形で二冊になって出ている。そのうち「カフカ短編集」について、ここでは取り上げたい。

カフカ「変身」を読む

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「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっていることに気づいた」(原田義人訳)。カフカの小説「変身」は、こんな衝撃的な文章で始まる。読者は一気に物語の本筋に引き入れられる。ある朝目が覚めたら、一匹の巨大な毒虫に変身していたとは、いったいどういうことなのか。人間が突然、わけもわからないまま毒虫に変身してしまう。考えただけでも恐ろしいではないか。だれもがそう思うに違いない。

渡辺将人「アメリカ政治の壁」

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渡辺将人は、アメリカの政治の現場に長く身を置いた経験があるというので、この書物はそうした彼の経験に裏打ちされた現実感にあふれており、近年のアメリカ政治についてのリアルな展望を得ることができるのではないか。アメリカの政治といえば、共和党が保守を代表し、民主党がリベラルを代表し、両者がそれぞれの理念を掲げて対立しあうという構図を思い浮かべがちだが、渡辺はこの対立軸よりも、理念の民主制と利益の民主制の対立という視点からアメリカ政治を読み解こうとする。彼によれば、保守もリベラルも自由主義という大きな理念を前提とした、小さな理念の対決であって、それだけではアメリカ政治を正しくとらえることは出来ないと言うのである。

ウッドロー・ウィルソンとF・D・ローズヴェルトは、アメリカの歴代大統領の中では、政治理念にこだわった珍しい部類の政治家ということになっている。二人とも民主党の大統領として、今日で言うリベラルの政治理念を掲げ、それを実行に移した政治家であったといえる。このリベラルという理念について、ホフスタッターは立ち入った分析をしていないが、それまでのアメリカの政治理念である自由放任主義に対立した概念だという漠然とした捉え方はしている。ウィルソンもローズヴェルトも、自由放任主義をマイナスに捉えたわけではないが、その行き過ぎは社会正義に反するという考え方は持っていた。ここで社会正義と言われるのは、自由放任主義者の固執するような、機会の平等ということではなく、機会の平等が形式的な理念にとどまらず実質的なものになるには、人々を同じ条件で競争に参加させるような舞台を、政府が作るべきだという考え方の上に成り立っていた。こうしたリベラルの立場は、21世紀の今日まで、すくなくともアメリカの政治においては、一定の影響力を持ち続けているが、ウィルソンはそうしたリベラルの考え方をアメリカの大統領として最初に提示した政治家であり、ローズヴェルトはそれを受け継いだうえ、更に発展させた、というふうにホフスタッターは捉えているようである。

南北戦争が終了してから世紀の変わり目までの数十年間を、ホフスタッターは「アメリカの金ぴか」時代と呼んでいる。この時代には共和党の凡庸な政治家たちが合衆国大統領職に次々とついた。唯一の例外はグローヴァー・クリーヴランドで、彼は一応民主党に担がれたということになっているが、ウッドロー・ウィルソンが後に主張したように、全然民主党的ではなく、「保守的共和党員」と言ってよかった。要するにこの時代は、共和党がアメリカの政治を牛耳っていたわけである。

リンカーンといえば、アメリカ流民主主義の体現者であり、また奴隷解放に象徴されるようなヒューマンな政治家だったというイメージが強い。彼は六十万人以上のアメリカ人の命を奪うこととなった南北戦争を主導したが、それはアメリカという生まれて間もない国を、民主主義の理念のもとに再統一する為の戦いであって、この内乱を経ることによって、アメリカは強固な民主主義国家として生き残ることができた。そういう評価がいまでも支配的だが、ホフスタッターも基本的にはそういう見方に立ってリンカーンを積極的に評価する一方、多少冷めた視線から、リンカーンを相対的に見ているところもある。

アメリカは、自由を求めてイギリスから渡ってきた移民たちの子孫が人工的に作った国である。それ故「建国の父祖」という言葉が実感をもって迫ってくる。この言葉は、単に象徴的な意味合いを投げかけるだけではなく、アメリカという実在する国が、特定の人間たちによって、あたかも芸術作品のように創作された、という実感を人々にもたらすのである。

ドナルド・トランプがアメリカにおける反知性主義の伝統をよみがえらせたことで、リチャード・ホフスタッターの「アメリカの反知性主義」と題した本に脚光が浴びた。先日、日本人の森本あんりが、ホフスタッターとは別の視点からアメリカの反知性主義を俯瞰して大きな反響を呼んだが、やはりアメリカの反知性主義論の先駆者はホフスタッターだ。そのホフスタッターは、もともとはアメリカ政治史の専門家で、「反知性主義」に先駆けて「アメリカの政治的伝統」という本を書いている。

九鬼周造「いきの構造」

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日本にはことば遊びの文化的伝統がある。駄洒落や地口など比較的単純なものから、俳文のような高度に知的な文章にいたるまで、ことば遊びの例は枚挙にいとまがない。九鬼周造の「いきの構造」という文章は、そうしたことば遊びを哲学の現場に適用したものだ。彼の場合には、ドイツに留学して西洋哲学を勉強したこともあって、そのことば遊びには洋の東西にわたることば遊びのエッセンスを凝縮したところがあり、それだけでも、日本のことば遊びの伝統に新たな要素を付け加えたという光栄を認めることができるかもしれぬ。

伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」

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題名を見る限りでは、近代日本人をモチーフにした本格的な文化論を予想してしまうが、これはそんな大げさなものではなく、日本の近代文学のある種の傾向性について指摘したものである。ただその傾向性が、近代日本人の典型的な発想のスタイルを反映しているために、それを論じることで、近代日本人についての本格的な文化論の、少なくとも序論のような役割は果たしている。

徳川時代中期の思想家安藤昌益は、生前はほとんど無名だったし、死後も世に現れることはなかった。明治三十二年になってようやく、狩野亨吉によって掘り出されたが、一部の人の注目を浴びただけで、広く知られるまでには至らなかった。その名が日本人に広く知られるようになるのは、皮肉なことに日本人ではなくカナダ人であるハーバート・ノーマンのおかげである。ノーマンは、昌益に関する研究を「忘れられた思想家安藤昌益のこと」と題して昭和二十五年に発表したのだったが、多くの日本人はこのノーマンの研究を通じて、安藤昌益の意義を知ったのである。

源了円「徳川思想小史」

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源了円の「徳川思想小史」は、表題にあるとおり、徳川時代に現れた日本の思想家たちの一覧ができるようになっている。これを読んであらためて驚かされるのは、「徳川思想」の単純性である。日本の思想家と呼ばれるものたちは、徳川時代を通じて、全く同じ世界観を抱いていたということだ。それは儒教的な世界観で、多少のバリエーションはあるものの、基本的には互いに相違がなかった。二百年以上にわたって、一つの国民が全く同じ世界観を抱きながら生きていたというのは、世界史的に見ても珍しいのではないか。

司馬遼太郎の軍隊体験

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司馬遼太郎は二十二歳で敗戦を迎えた。彼は外国語学校在学中に学徒出陣し満州に配属され、その後日本に戻ってきて栃木県の佐野で敗戦を迎えた。ソ連の参戦がもう少し早かったら、ソ連製の徹甲弾で戦車を串刺しにされて死んでいたはずだと本人は言う。また、日本では、アメリカの本土上陸に備えていたが、もしアメリカが関東地方の沿岸に上陸してくれば、「銀座のビルわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃え上がる自分の戦車の中で骨になっていたにちがいない」と言う。だが司馬は骨にならずに、生きながらえることができた。生きながらえて戦争を振り返ると、一体この戦争は何だったのだ、という思いに司馬が捉われたのは無理もない。司馬は自分の体験を踏まえて、日本人をこのような目にあわせた昭和という時代を、日本史の中での異胎の時代だと思ったわけであろう。

司馬遼太郎の神道観

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司馬遼太郎は、今に続く日本という国のかたちがととのったのは鎌倉時代であり、その担い手は農民としての武士であったと考えているようなので、日本史にかかわる彼の想像力は、精々鎌倉時代の初期までしか及ばないのであるが、神道を語る場合だけはそういうわけにも行かず、古代にまで展望を及ぼしている。しかし彼が語る神道は、八幡神社を軸にしたもので、その八幡神社というのが、武士階級と密接なかかわりをもっていたわけで、要するにこの国のかたちを担った武士階級とのかかわりにおいて神道を論じるというのが彼の特徴である。この辺は武士的価値観を以て日本史を裁断するという司馬の姿勢があらわれているところである。

司馬遼太郎の統帥権論

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司馬遼太郎は、昭和初期の十数年間を日本史にとって異常で異胎な時代だったと言い、日本にとっては「別国の観があり、自国を亡ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と言いつつ、この「わずか十数年間の"別国"のほうが、日本そのものであるかのようにして内外で印象づけられている」のは残念だという気持を強く抱いたようだ。

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