映画を語る

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瀬々敬久の2017年の映画「8年越しの花嫁 奇跡の実話」は、冒頭に「実話にもとづく」ということわり書きがあるように、実際にあったことを映画化したものである。その実話とは、結婚直前に脳の難病により意識不明に陥った恋人の回復を願い、寄り添い続けた若者の話である。若者の執念が実を結び、恋人は意識を取り戻したが、恋人との関係はなにも覚えていなかった。しかし、恋人の献身的な姿を見ているうちに、その姿に感動し、あらためて彼を好きになるというものである。意識を失ってから、二人が再び結ばれるまで、八年かかったというわけである。

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リンゼイ・アンダーソンの1987年の映画「八月の鯨(The Whales of August)」は、人間の老いをテーマにした作品。老いた姉妹の生き方を通じて、人間が老いることの意味を考えさせるように作られている。その姉妹を、リリアン・ギッシュとベティ・デヴィスが演じている。リリアン・ギッシュはサイレント映画の大女優であり、この時には93歳になっていた。またベティ・デヴィスは、トーキー映画初期の大女優であり、その風貌とか演技ぶりは、小生のようなものも魅了されたものだった。この映画の時点では79歳になっていた。

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1967年のアメリカ映画「招かれざる客(Guess Who's Coming to Dinner)」は、アメリカにおける白人と黒人との人種間結婚をテーマにした作品である。その頃のアメリカは、公民権運動の高まりの中にあったが、まだ白人と黒人との結婚など考えられなかった。なにしろ、ジャッキー・ロビンソンが大リーグでプレイするだけのことで国中が大騒ぎになったのは、わずか20年前の1947年のことだ。野球でさえそんな騒ぎになるのだから、黒人男が白人女性と結婚するなどありえないとされていた。つまりタブーだったわけだ。そのタブーをあざわらうかのように、この映画は黒人の男が白人女性との結婚に成功する姿を描いている。今日では、人種間結婚の問題を正面から取り上げた作品として高く評価されているが、当時の評価は賛否極端に分かれた。評価するものも、けなすものも、自身の人種的な偏見に無縁ではなかったのである。

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1953年のアメリカ映画「シェーン」は西部劇の名作である。日本でも大ヒットし、小生のような団塊の世代に属する人間は、見ていないものがいないほどである。この映画のどこがそこまで日本人の心を掴んだのか。西部劇に普通の日本人が期待したものは、チャンバラ映画とたいしてかわらぬ勧善懲悪劇だったと思うのだが、この映画にはそれがふんだんに盛り込まれているばかりでなく、それ以外にさまざまな工夫がみられる。その工夫がなかなか行き届いているので、当のアメリカ人はともかく、日本人までが魅了されたということだろう。

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2019年のフィンランド映画「世界で一番しあわせな食堂」(ミカ・カウリスマキ)は、フィンランド人と中国人の触れ合いを描いたものだ。いわば両国間の交流促進を目的としたような映画である。同じ北欧でも、ノルウェーは国家関係の悪化がもとで、両国民の相互感情はよくないが、フィンランドでは、国民の対中感情はよいらしい。そうでなければ、わざわざ中国との交流を強調するような映画が、フィンランドで作られるはずがない。

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2012年の映画「アイアン・スカイ」は、フィンランド、ドイツ、オーストリアの共同制作ということになっているが、監督のティモ・ヴォレンソラがフィンランド人なので、一応フィンランド映画として分類してよい。とはいえ、フィンランド人ではなく、アメリカ人が活躍し、映画を流れている言語は英語である。そんなわけで、無国籍映画といった観を呈している。

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アキ・カウリスマキの2017年の映画「希望のかなた」は、フィンランドにおける難民問題をテーマにした作品。それに一フィンランド人の生き方をからませている。その二つのテーマには、密接な関係はない。生き方を変えたフィンランド人がたまたま難民の男と出会い、その男との間に友情を築くということになっているが、なぜ、その二人が出会うことになったのか、そこにはたいした理由があるわけではない。

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2015年のデンマーク映画「ある戦争」は、デンマーク軍人の戦争犯罪をテーマにした作品。デンマークは、ブッシュの始めたアフガンの対タリバン戦争につきあって、多国籍軍に加わる形で参戦したのだが、そのデンマークの一軍人が、アフガンの民間人11人を殺害した容疑で起訴され、裁かれる。その裁判の結果、容疑者は無罪になるのであるが、自分が犯したことに対しては、割り切れない気持ちを抱えたままだ、というような内容である。

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「ファニーとアレクサンデル(Fanny och Alexander)」は、イングマール・ベルイマンの最後の作品である。その作品をベルイマンは、映画としては異例の五時間超の長大作に仕上げた。ふつう五時間を超える長さの映画は、一時の鑑賞に堪えるものではない。そこで、独立した五つの部分からなるというような構成をとったりして、長時間観客を引きとどめておくための工夫も見て取れる。しかし、作品自体に魅力がなければ、そんなに長い時間見続ける者はいないだろう。この映画には、人をかくも長時間くぎ付けにするだけの魅力があるのである。

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イングマール・ベルイマンの1978年の映画「秋のソナタ(Höstsonaten)」は、母娘間の葛藤をテーマにした作品である。ベルイマンはこの映画をノルウェイで作ったのだが、それは当時色々な事情でスウェーデンにいられなかったためで、映画自体はスウェーデン語で語られており、スウェーデン人の母娘関係がテーマということになっている。もっとも、画面の中にはフィョルドの風景なども出てきて、ノルウェイを感じさせる部分はある。

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イングマール・ベルイマンの1963年の映画「沈黙(Tystnaden)」は、「鏡の中にある如く」(1961)、「冬の光」(1962)とともに「神の沈黙」三部作といわれる。「冬の光」にはたしかに神の沈黙を思わせる表現ぶりを感じることができるが、この映画を見る限り、神がテーマになっているわけでもなく、また登場人物は決して寡黙ではない。かえって饒舌なくらいである。

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イングマール・ベルイマンの1958年の映画「魔術師(Ansiktet)」は、19世紀半ばのスウェーデンを舞台に、旅の魔術師一座の受難を描いた作品。19世紀もなかばともなれば、科学的な思考が普及して、伝統的な魔術はうさん臭い目で見られるようになっていた。そういう時代状況を背景にして、魔術師たちが迫害されるところを描いたわけである。21世紀の今日では、魔術は手品のようなものと思われて、娯楽として消費されるのであるが、19世紀の半ばのスウェーデンにおいては、魔術はまだ民衆の心をとらえるものをもっており、単なる娯楽とは思われていなかった。そんな魔術使いたちを、権力者たちが迷妄と決めつけ、迫害するのである。

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大林宜彦の2020年の映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」は、大林にとって遺作となった作品。大林が最初の商業映画「HOUSEハウス」を作ったのは1977年のことだから、それから40年以上も経っているわけである。その間に作った長編映画の数は44作というから、実に多産な監督だったといえよう。

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濱口竜介の2018年の映画「寝ても覚めても」は、かれにとって出世作というべき作品だ。「ドライブ・マイ・カー」が面白かったので、ついでに見たのだったが、これもやはり面白く感じた。その面白さは、最近の若い日本人の、異性愛の変化を、この映画が敏感に反映しているからだろう。異性間の恋愛は、女性がリードするというのは、日本では昔から一定程度散見されることではあったが、近年の日本人は、男の引っ込み思案が高じて、異性間恋愛が始まるためには女がリードしなければならないし、その成功の度合いも女の努力にかかわる割合が大きくなってきている。この映画は、そうした近年の日本の異性愛の傾向を象徴的に示しているように思えるのである。

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橋口亮輔の2008年の映画「ぐるりのこと」は、なんとなく結婚している若い夫婦の日常を描いている。タイトルからして、かれらの周囲を描いているというふうに伝わってくる。ただ、全く無風な生活というわけではない。生れてきたばかりの子供が死んでしまうし、そのこともあって妻はうつ状態になってしまうし、夫のほうは、趣味の絵を仕事にできたはいいが、その仕事が法廷画家というやつで、被疑者の表情を身近に見て描かねばならない。ただ描くだけではなく、裁判の進行も見せられる。裁判にはひどい内容のものもあって(たとえば人肉食)、気の弱いものには直視できない。

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橋口亮輔の2001年の映画「ハッシュ」は、ゲイのカップルの共同生活にセックス好きの女が割り込みややこしい三角関係を形成するという話。何といっても、ゲイカップルのセックスライフをあけすけに描いたところが見どころ。この映画以前には、特殊なポルノ映画を除いては、ゲイのセックスライフを正面から取り上げた作品はなかった。おそらく、デレク・ジャーマンあたりの影響だと思う。

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河瀬直美の2020年の映画「朝が来る」は、特別養子縁組を通じてさずかった子どもを大事に育てる夫婦の物語と、その子どもを産んだ母親の物語を交差させながら描いた作品。色々と考えさせるところの多い映画である。だが、見方によっては、受け取り方に違いが出てくるタイプの作品だ。それだけ、含蓄に富んでいるともいえる。

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安藤桃子の2014年の映画「0.5ミリ」は、安藤自身の小説を映画化した作品。原作は老人介護をテーマにしているそうだが、映画は、介護もさることながら、老人を巧みにあやつって快適なホームレス生活を送る一人の女の生き方をテーマにしている。主演を演じた安藤さくらは、桃子の実の妹だそうで、この映画はそのさくらの圧倒的な存在感の上に成り立っている。なにしろ、三時間を優に超える大作であるにかかわらず、時間の長さを感じさせない。ストーリーが単純なわりには、充実感がある。傑作といってよいのではないか。

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2016年の日本映画「シン・ゴジラ」は、1954年公開の有名な映画「ゴジラ」の焼き直しである。初版のゴジラは原水爆実験による地球汚染への批判的な意識を感じさせたものだが、この焼き直し作品には、そうした批判意識はほとんど感じることがない。放射能とか、マッチョな怪獣への熱核攻撃とかいったアイデアはあるが、あまり切迫感をあたえない。純粋な娯楽映画として作られたようである。

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沖田修一の2020年の映画「おらおらでひとりいぐも」は、若竹千佐子の同名の小説を映画化したもの。かなりな脚色を施している。原作は、老女がただひたすらに亡夫を追憶するというもので、全くと言ってよいほど劇的な要素はなく、そのままでは映画にならない。だから脚色を施すのは無理もない。だがあまり不自然さは感じさせず、原作の雰囲気を大きく損なっているわけではない。原作の読ませどころは、東北弁でまくしたてる老女の独白にあるのだが、映画ではその老女を田中裕子が演じていて、なかなかの見せ所を作っている。

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