映画を語る

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ニキータ・ミハルコフの2007年の映画「12人の怒れる男」は、アメリカで何度も舞台・映画化された作品のロシア流リメイクである。この作品は裁判制度の問題点をテーマにしたもので、人が人を裁くことに正義があるのかということをとりあげたものであるが、ミハルコフのこのリメイクでは、それにロシア流の味付けが施されている。つまり、ロシアという国には、そもそも正義を体現した法がないのではないのか、そんな国で裁判をすることにどんな意味があるのか、ということについてロシア流のブラック・ユーモアを交えながら描いているわけだ。

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ニキータ・ミハルコフの2011年の映画「遥かなる勝利へ」は、「太陽に灼かれて」で始まる独ソ戦三部作の最後の作品だ。ここでコトフ大佐は生き別れになっていた最愛の娘ナージャと再会する。しかしそこは独ソ戦の最前線で、コトフはナージャを地雷から助けようとして自らが犠牲になり死んでしまう。ハッピーエンドにはならないのだ。

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ニキータ・ミハルコフの2010年の映画「戦火のナージャ」は、「太陽に灼かれて」の続編である。前作で主演のコトフ大佐は逮捕された後銃殺刑に処せられたとアナウンスされ、その娘のナージャも刑死したとされていたが、実は二人とも生きていた。その二人のその後の生き方を描いたのが続編の映画である。見どころは、父親が生きていることを知った娘のナージャが、命を掛けて父親を探し出そうとするところである。というのも、二人は、独ソ戦の中で戦線の真っただ中をさまようこととなり、それこそ命を危険にさらす日々を送ったからである。

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1994年公開のロシア映画「太陽に灼かれて」は、1930年代半ばのいわゆるスターリン粛清の一端を描いたものだ。この粛清では100万人以上が犠牲になった。その多くは、スターリン派による反スターリン派の粛清であるが、中にはこれに乗じて私的な怨みを晴らしたようなものもあったらしい。この映画はそうした私的な怨みをテーマにしている。

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アレクサンドル・ソクーロフの2011年の映画「ファウスト」は、ロシア人であるソクーロフがロシアで作ったロシア映画である。ところが、映画の中ではドイツ語が使われている。これを見た筆者は、最初はドイツ語吹き替え版かと思ったが、そうではないらしい。わざとドイツ語を使っているようなのだ。タイトルもドイツ語で書かれている。ヨーロッパ映画には、国際協力映画というものがあって、たとえばイタリア中心の映画でフランス語が用いられたりはするが、ロシアで作られた映画でドイツ語をもちいるというのはどういうわけか。これでは、日本映画でありながら、もっぱら中国語を聞かされるようなものだ。

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2003年のロシア映画「父、帰る」は、思春期の息子と父親との難しい関係を描いたもので、ある種の教育的効果を感じさせる作品である。父と息子との関係は人類共通の難しさをもっているのではあるが、したがって完全に予定調和的な関係はありえないのだが、この映画の中の父子関係は、最初から最後まで破綻したままで、ついには教育者たるべき父が自滅してしまうのである。したがってこの映画は、失敗した父子関係を描いたといってよい。こういう関係がロシアでは珍しくないのか。日本人である筆者などは大きな違和感を抱きながら見た次第だ。

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1998年の映画「ワンダフルライフ」は、是枝裕和の二作目だが、後年の映画とは違って、物語性が強い作品だ。それも、この世ではありえないことを物語っている。というのも、死者があの世へ旅立つにあたっての通過儀礼のようなことをテーマにしているのだが、そうした通過儀礼は、この世では、想像の世界ではともかく、現実の世界ではありえないからだ。

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是枝裕和は「誰も知らない」の中で親に捨てられた子供たちのけなげに助け合い生きて行こうとする姿を描いたが、この「海街diary」でもやはり子供たちが助け合いながら生きている姿を描いた。違うのは「誰も知らない」の子どもたちがみな幼い四人兄妹だったのに対して、この「海街diary」の子どもたちは四人とも女性で、しかもそのうちの三人はすでに成人していることだ。その成人している子どもたちが、自分たちを捨てた父親の葬儀の場で、父が残した異母妹と出会う。その子を見た長女は直感に打たれたように、この妹を引き取って、自分たち三人姉妹と一緒に暮らそうと呼びかける。妹はその呼びかけに答える。かくして三人姉妹にもう一人を加えた四人の女性たちによる共同生活が始まる。映画はその共同生活を淡々と描き出すのだ。

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題名の空気人形とはダッチワイフのことである。ダッチワイフというのは、男の性欲処理の為に作られた人形で、空気で膨らませてあり、股間の陰部に男根を挿入して疑似セックスができるような仕掛けになっている。長期間単身生活を強いられる男性には有効な働きを果たすといわれ、南極探検隊にも同行されるというすぐれものである。

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是枝裕和には、ドラマチックな筋書きを廃して、人々の日常を淡々と映し出すような傾向が強くある。その日常は、特に変わったことが起るわけではなく、むしろ平凡な人々の平凡な日常が映し出されるだけである。それを是枝は、登場人物が交わす会話によって表現する。会話だからとりとめのない話に傾きがちだが、ときには昔の思い出に触れたり、あるいは話す人の情念を反映していたりもする。そういう何気ない会話を通じて、登場人物たちの生き方をあぶりだしてゆくというのが、是枝の映画の大きな特徴だ。2008年の作品「歩いても歩いても」は、そういう傾向が非常に強く認められるものである。

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若松孝二は晩年に一大ブレイクし、「キャタピラー」や「千年の愉楽」といった傑作を作っているが、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は、その若松自身が自分の映画人生の総決算だと言っている作品である。自分の総決算と位置付ける作品になぜ「連合赤軍」を選んだのか。若松は多くを語っていないようだが、それ以前の連合赤軍の描き方が警察目線に立っていたことへの抗議の意味を込めていたとも考えられる。それほどこの映画は、連合赤軍の立場に立っているところが感じられる。もっとも連合赤軍のやったことは、誰も擁護はできないし、また当事者の意識が混濁していたとしか考えられないほどお粗末なものだったので、若松といえども彼らに感情移入することはむつかしかっただろう。

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岡本喜八は「独立愚連隊」シリーズで日本軍をコミカルに批判していたが、「肉弾」はそんな岡本の戦争批判映画の傑作だ。この映画を通じて岡本は、日本軍を批判するとともに戦争そのものの愚かしさを痛烈に描き上げた。

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2013年の原恵一の映画「はじまりのみち」は、木下恵介生誕100周年を記念して作られたもので、木下恵介へのオマージュのような作品である。映画監督個人へのオマージュとしては、新藤兼人が溝口健二の生涯を描いた「ある映画監督の生涯」があるが、原のこの映画は、木下の生涯の一時期(青春時代)に焦点を当てて、木下の映画作りへのこだわりのようなものを取り上げている。

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日本人は昔から怪談好きだったが、それは日本の夏の暑さと関係があったらしい。我々日本人は、今でこそエアコンで夏の暑さをしのげるようになったが、昔はそういうわけにもまいらず、我々の先祖・先輩たちは怪談話を聞いたり見たりしながら、暑気払いにあいつとめたものと見える。そんな怪談話の中でももっとも人気を博したのが「四谷怪談」だ。原作は鶴屋南北だが、そのほかにもいろいろなバージョンがあって、人々を怖がらせてきた。怖がることによって、ヒヤッとした冷気を味わってもらおうというわけであろう。

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昭和十八年公開の映画「花咲く港」は木下恵介のデビュー作である。九州の離島を舞台に、気のいい島人とそれを騙そうとするペテン師とのやりとりを描いている。その離島がどこなのか、画面からは明確に伝わってこないが、どうやら長崎から遠くないところにあるように思われる。最後に自首したペテン師たちが、警官に船に乗せられて連行される先が長崎だからだ。

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アンドレイ・タルコフスキーの遺作となった1986年公開の映画「サクリファイス」を、彼はスウェーデンで作った。1983年にイタリアで「ノスタルジア」を作った後、実質的な亡命状態で外国に住み続けていたのだったが、外国での二作目をスウェーデンに作ることになったわけだ。どのような理由からかはわからない。

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1983年公開の映画「ノスタルジア」は、アンドレイ・タルコフスキーがイタリアで制作した作品だ。完全にイタリア映画と言ってよい。資本もスタッフも俳優も、殆どすべてイタリアのものだ。言葉もイタリア語だ。ただ主人公のロシア人は、ロシア人のオレーグ・ヤンコフスキーが演じ、彼が独白するシーンにはロシア語が使われる。

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アンドレイ・タルコフスキーの1979年の映画「ストーカー」の題名は、異性にしつこくつきまとう人間のことではなく、ロシア語の「スタルキェル」という言葉を英語流に言ったものだ。で、そのスタルキェルが何を意味するのか、筆者の持っているロシア語辞典には載っていなかった。映画の解説サイトの中には、密猟者などと訳しているものもあるが、それが正しい訳なのかどうか、筆者には確認できない。

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1975年のソ連映画「鏡」は、アンドレイ・タルコフスキーの自伝的な作品だと言われている。そのことを知らずにこの映画をいきなり見ると、人物の相関とか物語の展開が非常にあいまいかつ輻輳して見えるので、どう解釈してよいかとまどうところがある。ひとつだけはっきりと迫ってくるのは、この映画が現代のソ連社会で生きることの意味について訴えているらしいということである。

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アンドレイ・タルコフスキーが1972年に作った映画「惑星ソラリス」は、ソ連製のSF映画として歴史上に名を留める。宇宙を舞台としたSF映画としては、1968年のハリウッド映画「2001年宇宙の旅」があり、また不気味な地球外生物が出て来るものとしては1979年の「エイリアン」があるが、それらに比べるとこの映画は、かなりテンポが緩やかで、のんびりした雰囲気を感じさせる。ソ連といえば、当時はアメリカと並ぶ宇宙大国だったわけだから、宇宙を舞台にしたSF映画も、もっと緊張感に満ちたものになってよかったとも思われるが、そこはタルコフスキーの趣味も働いて、このようなのんびりとした映画になったのだろう。

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