映画を語る

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黒沢清の2008年の映画「トウキョウソナタ」は、リストラで解体の危機に瀕した家族の物語である。近年の日本社会は、リストラで生活基盤を失う人や、最初から非正規雇用で不安定な生活を強いられる人が増えているので、この映画はそうした世相を如実に反映したものとして、他人ごとではないという気持ちにさせられる。ホラー映画が得意だった黒沢としては、シリアスな作品だ。

1987年の12月に、ガザ地区で自然発生的に始まったパレスチナ人のイスラエルへの抵抗は、やがてヨルダン川西岸へも波及し、全占領地での全面的な抵抗運動へと発展していった。これをインティファーダという。インティファーダとは、アラビア語で蜂起とか反乱を意味する言葉で、大規模な民衆蜂起を意味するものとして使われている。

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黒沢清の2001年の映画「回路」は、日本流ホラー映画といったところだ。日本流と言うのは、怪談仕立てになっているからだ。幽霊が出て来て人々を驚かす。しかも驚かすだけではなく、次々と不可解な死に方に誘い込む。それも人類全体がやがて死滅するのではないかという瀬戸際まで人類を追いつめる、といった具合で、やや大袈裟なところが子供だましのようにも見えるが、怪談の伝統を踏まえて、一応大人でも見られるものにはなっている。

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タイトルにある「カリスマ」とは、謎の樹木の名称である。その謎の樹木に多くの人々が翻弄されるさまを描いているこの映画は、実に奇妙な印象を与える。樹木をめぐって人間同士が対立しあうとも、また樹木が人間を罰しているとも解釈できる。人間同士の争いはよくあることで、それには色々な理由があり、その理由の一つに謎の樹木があってもよい。また、樹木が人間の不遜さを罰するという意味では、現代的な黙示録とも解釈できる。どちらにしても奇妙な映画である。

CURE:黒沢清

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黒沢清の1997年の映画「CURE」は、連続猟奇殺人をテーマにしたサイコ・サスペンス映画である。殺人場面が頻出し、それがいかにも陰惨なので、見ていて衝撃を受ける。なにしろ、人の首を十文字状に切り裂き、しかも殺人を犯している人間が、当該行為について明白な意識をもたない。つまり催眠状態で犯しているのである。そこが非常に気味の悪さを感じさせる。

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1985年の映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」は、黒沢清にとって商業映画第二作だ。一作目の「神田川淫乱戦争」はピンク映画だったが、「ドレミファ」もまた当初はピンク映画として構想されたということだ。そんなこともあって、露骨な性的描写が多い。若い男女のセックスとか、若い女のマスターベーションといった具合だ。

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ペドロ・アルモドバルの2009年の映画「抱擁のかけら(Los abrazos rotos)」は、三角関係+αとでもいうべきものを描いた作品だ。+αというのは、一人の女と二人の男をめぐる通常の三角関係に加えて、もう一人の女がからんでくるからである。その男女の複雑な関係を、かなりウェットな感覚で描いている。コメディタッチを売り物にしてきたアルモドバルにしては、めずらしくシリアスな作り方になっている。

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ボルベール(Volver)というスペイン語は、英語のリターン、ドイツ語のハイムケアに相当し、帰郷とか帰宅といった意味である。ペドロ・アルモドバルが2006年に作った映画「ボルベール」は、一人の人間の帰郷をテーマにしている。それも死んだと思われていた女性が、生きて戻ってくるという話である。それに家族の不幸な出来事が重ねられる。家族をめぐるヒューマン・ドラマと言ってよい。


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ペドロ・アルモドバルの2004年の映画「バッド・エデュケーション(La Mala Educación)」は、スペイン流衆道(ゲイ道)ともいうべきものを描いた作品。日本でも衆道は寺院から流行したとされるが、スペインでも同じように、修道院が衆道の舞台だったようだ。この映画はその修道院の学校で衆道を覚えた少年たちが、大人になってから繰り広げる愛憎がテーマなのだ。

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「トーク・トゥ・ハー」という邦題は、英語のタイトル(Talk to her)をそのままとったものだが、スペイン語の原題(Hable con ella)も「彼女と話せ」という意味である。ペドロ・アルモドバルが2002年に公開した映画だ。テーマは、事故で植物状態になった二人の女性と、彼女らを愛する男たちとのコミュニケーション。

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ペドロ・アルモドバルの1999年の映画「オール・アバウト・マイ・マザー(Todo sobre mi madre)」は、息子を失った母親が心の痛手から立ち上がってゆく過程を描いたものである。邦題は英語のタイトルをそのまま使ったものだが、スペイン語の原題も同じ意味である。そのタイトルからは、息子の目から見た母親というイメージが思い浮かぶが、かならずしもそうではない。これは息子を失った母親の、息子が死んだあとの話なのである。

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ペドロ・アルモドバルの1993年の映画「キカ(Kika)」は、セックスと殺人をテーマにしたコメディ・タッチの作品だ。セックスとそれに関連した不道徳はアルモドバルの作品の特徴だが、この映画では、不道徳は意味のない殺人という形で現われる。一方セックスのほうは、奔放な女の男あさりとか、見境のない強姦といった形で現われる。なにしろセックスこそが人間の生きる意味だとばかり、この映画ではセックスが謳歌されている。ここに我々東洋の観客は、スペインという国に、フランスやイタリアに劣らないセックス好きの文化を見いだすことになるのである。

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ペドロ・アルモドバルの1988年の映画「神経衰弱ギリギリの女たち(Mujeres al borde de un ataque de nervios)」は、男に捨てられた女たちの焦りと怒りをコメディ・タッチで描いたものだ。彼女たちは、焦りと怒りのために、神経衰弱になりそうなのだ。だがどこかにしぶといところがあって、ギリギリのところで踏ん張っている、というのがこの映画が描きだす女たちの姿なのである。

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ペドロ・アルモドバルの1983年のスペイン映画「バチ当たり修道院の最期(Entre tinieblas)」は、スペイン版駆け込み寺を舞台にしたコメディタッチの作品。それにレズビアンの愛を絡めている。駆け込み寺といえば、日本では鎌倉の尼寺東慶寺が有名だが、そのような寺はおそらく世界中にあるのだろう。カトリック国であるスペインでは、尼僧の経営する修道院がその役割を担っているようだ。

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1994年制作の映画「リスボン物語」は、ヴィム・ヴェンダースがリスボン市の依頼を受けて作ったものだ。リスボン市としては、市の宣伝を狙って依頼したようだが、ヴェンダースは、単なるPRではなく、映画としての物語性も盛り込もうとした。かれとしては、「東京画」や「ベルリン天使の詩」といった、都市をテーマにした映画を作ってきた実績があったので、その延長でこの映画を作ったようだ。

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塚本晋也の2018年の映画「斬、」は、塚本にとってはじめての時代劇である。突拍子もない空想をテーマにすることが多かった塚本が、時代劇でどのような空想を披露するのか。そんな期待に塚本は、めったやたらと人が斬られるシーンを見せることで応えた。この映画は意味のない人斬りがテーマなのである。

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塚本晋也は、スクラップ鉄に変身した男とか、ストーカーにつきまとわれて人前で股間をさらす女とか、奇妙な映画ばかり作っているイメージが強い。2012年に作った「KOTOKO」も、やはりそうした系列上のものだ。この映画は、おそらく統合失調症と思われる精神病質の女の奇怪な行動を描いた作品だ。

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瀬々敬久は「菊とギロチン」で権力に立ち向かう個人を描いたわけだが、2019年の映画「楽園」では、伝統的な権力たる村落共同体によって、異質な個人が圧殺されるところを描く。そういう圧殺を、かつては村八分と呼んだものだ。社会の流動化が進んだ現代においては、村八分はほとんどありえないもののようにも思えるが、ある特定な条件のもとでは、容赦なく人を圧殺する、ということがこの映画からは伝わって来る。いずれにしても愉快な現象ではない。

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瀬々敬久の2018年の映画「菊とギロチン」は、関東大震災後の大正末期の暗い時代を背景にして、女相撲とアナキストの触れ合いをテーマにした作品だ。女相撲とアナキストでは、接点がないように思われるが、どちらも官憲に目の敵にされていたという共通点がある。この映画はその共通点を踏まえながら、権力と庶民との戦いを描いたものである。それに震災直後に起こった朝鮮人虐殺など、当時の日本における異様な出来事をからませている。かなり政治的なメッセージ性の高い映画である。

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瀬々敬久の2018年の映画「友罪」は、過去の辛い体験にさいなまれている人々のトラウマ的な感情をテーマにした作品だ。そういう点では、心理劇といってよいが、単なる心理劇ではなく、ドラマティックな要素も持っている。見る者に考えることを迫る作品でもある。

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