映画を語る

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2019年のハンガリー映画「この世界に残されて バルナバーシュ・トート監督」は、ハンガリーにおけるホロコーストを生き延びたものの心の傷をテーマにした作品。ホロコーストをテーマにしたハンガリー映画としては、「サウルの息子」が有名だ。「サウルの息子」は、強制収容所におけるユダヤ人の苦悩を直接的なタッチで描いていたが、こちらは、戦後まで生き残ったものの心の傷に焦点を当てている。とはいっても、その傷は遠回しに表現されるばかりで、ずばりと示されるわけではない。

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2015年のデンマーク映画「ヒトラーの忘れもの(UnderSandet マーチン・サンフリート監督)」は、ナチスが大戦中に設置した地雷の撤去をテーマにした作品。その撤去作業を、デンマーク当局は国内に取り残されていたドイツ兵にやらせる。映画に出てくるドイツ兵は、みな子供の兵士である。その子供たちに、デンマーク軍の下士官が地雷撤去の作業を強制する。デンマーク人にはナチスへの敵愾心があり、その敵愾心がそれらの少年兵士に向けられる。したがって彼らの課された作業には懲罰的な意味がある。国際法上は、捕虜の人権は守られることになっているが、実際には踏みにじられる。国際法よりも国家的な憎しみのほうが優先されるのである。

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アレクサンドル・ソクーロフの2002年の映画「エルミタージュ幻想(Русский ковчег)」は、エルミタージュ博物館を舞台にした幻想的な作品。90分ほどの長さだが、全編がワンカットで作られており、映画史上はじめての試みだとして、大いに話題になった。ワンカットといっても、シーンはかわる。カメラの動きにあわせて、様々な人が登場する仕掛けになっている。その登場人物というのが、最初は現代のロシア人だが、そのうち昔のロシア人が出てきて、時間を超越した騒ぎになる。そこが幻想的だという所以である。

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2017年のアメリカ映画「スリー・ビルボード(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri マーティン・マクドナー監督)」は、痛烈な警察批判をテーマとした作品。アメリカ人は警察に懐疑的で、トラブルを警察に頼らず自分で解決しようとする傾向が強い。さすがに殺人事件などは、警察に頼らざるを得ないが、警察はまともに仕事をせず、黒人への暴力行使など、ろくでもないことにうつつを抜かしている。そういった警察不信が露骨に表現された映画である。

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2015年のアメリカ映画「スポットライト(Spotlight トム・マッカーシー監督)」は、カトリック教会における聖職者の性的虐待問題をテーマにした作品。アメリカでは、カトリック教会における性的虐待がしばしば問題となっていたが、大々的に取り上げられることはなかった。2002年に、ボストンの新聞ボストン・グローブが、綿密な調査にもとづいて、この問題を報道すると、全米的な規模で事態解明と責任追及が行われ、バチカンの教皇が謝罪に追い込まれたのは周知のことだ。この映画は、ボストン・グローブの専門部隊「スポットライト」による問題追及の過程を描く。

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1994年のアメリカ映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump ロバート・ゼメキス監督)」は、アメリカ現代史の批判をテーマにした作品。その批判を、知能程度の低い人間の視点から浮かび上がるように作っている。批判されているアメリカは、1950年代の差別と分断が横行するアメリカであり、1960年代の戦争好きのアメリカであり、1970年代以降の金権礼賛的なアメリカである。知能程度の低い主人公には、社会を客観的に批判する能力はなく、現状を受け入れるのがせきのやまである。だが、その受け入れを迫るアメリカ社会があまりにも理不尽に見えるので、おのずから批判の様相を呈するのである。

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フランシス・フォード・コッポラの1974年の映画「カンバセーション・盗聴(The Conversation)」は、盗聴のプロの生き方と挫折を描いた作品。アメリカには盗聴のプロがいて、結構仕事もあるらしい。なにしろ現職の大統領が、政敵に盗聴を仕掛けるような国柄だ。盗聴は日常的なビジネスになっているということが、この映画からは伝わってくる。

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石井裕也の2019年の映画「町田くんの世界」は、石井の作品の中ではかなりユニークなものである。この映画の中の主人公の少年も、やはり生き方が下手なのではあるが、ほかの映画の中の人物たちとは違って、生き方が下手なためにひどい目にあっているわけではない。逆に周囲の誰からも愛されるのである。もっともかれは誰彼なく愛してしまうので、自分だけを愛してほしいと願う者にはストレスを与える。かれは特定の人だけを独占的に愛することができないのだ。

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石井裕也の2011年の映画「ハラがコレなんで」は、貧しい人間たちの助け合いというか連帯をコメディタッチで描いた作品。石井裕也は、いわゆる負け組と称されるような人々のみじめな生き方を描くのが得意だが、この映画は、貧しいながらもみじめ一点張りではなく、それなりに自分に誇りを持ち、貧しいもの同士で助け合うことの大事さを強調したもの。いわば貧者の連帯がモチーフである。

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三宅唄の2022年の映画「ケイコ目を澄ませて」は、耳の聞こえない女性プロボクサーの生き方を描いた作品。元プロボクサー小笠原恵子の自伝「負けないで!」を映画化したものだ。彼女は、東京下町(荒川区)の小さなジムを拠点にして、プロとしてのみがきをかけ、試合に勝つことを目標に生きている。試合に勝つことは簡単ではない。耳が聞こえないというのは、かなりなハンディである。それでもこの女性は、自分のハンディに立ち向かい、勝つことにこだわる。

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石井裕也の2011年の映画「あぜ道のダンディ」は、金がないのに見栄っ張りな中年男の涙ぐましい生き方を描いた作品。妻に死なれ、男手で二人の子供を育ててきたはいいが、子供とのコミュニケーションがうまくとれないことに悩む。唯一幼馴染の友人を相手にうさばらしをするのが生きがいになっている。二人の子供は年子らしく、浪人中の長男と高校三年生の長女が同時に大学入学をめざしている。父親は金の自信がないのだが、金はあるから心配するなと子供らに見栄をはる。

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三宅唄の2018年の映画「きみの鳥はうたえる」は、若い男女の奇妙な三角関係を通じて、現代日本社会における若者の生きざまを描いた作品。本屋に働く男女がまず結びつく。男にはルームシェアする友人がいて、その友人も女に関心を示す。そのうち女は友人とできてしまう。その女は以前、勤め先の本屋の店長ともできていたので、その尻の軽さが際立って見える、といった内容の映画である。

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1994年のニュージーランド映画「乙女の祈り(Heavenly Creatures ピーター・ジャクソン監督)」は、少女同士の同性愛をテーマにした作品。映画の舞台は1953年頃のニュージーランドの都市部ということになっており、その時代のニュージーランドでは、同性愛は許されなかった。社会には同性愛者を受け入れる余地は全くなく、異常性格あるいは若気の至りの逸脱と思われていた。そんな社会で未成年の少女同士が同性愛に陥ったらどういうことになるか。実の親を含めた社会全体から、異分子として排除されるほかはない。そういった息苦しさを描いた作品である。

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1993年のニュージーランド映画「ピアノ・レッスン(The Piano ジェーン・カンピオン監督)」は、ニュージーランドの開拓地を舞台に、ある女性の愛と悲しみを描いた作品。これを小生は、もう30年近くも前に劇場で見たのだったが、その折には、手の込んだ恋愛映画くらいにしか受け取らなかった。異常な恋愛ではあったが、また理解しがたい結末だったが、男女の恋愛がテーマと言えたからだ。

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1996年の映画「シャイン」は、オーストラリアに実在したピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた作品。メルボルンに生まれ育ったデヴィッドが、厳格な父親との葛藤に直面しながら、父の反対を押し切ってイギリスの王立音楽院に入学し、一流のピアニストになっていく過程を描く。どういうわけか彼は精神障害を患うようになり、オーストラリアに戻ったのちも父親との和解がうまくいかず、ピアニストとして前途を絶たれるのであるが、ある女性と出会うことで、生きることに自身を取り戻す、というような内容である。

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1982年のオーストラリア映画「危険な年(The Year of Living Dangerously ピーター・ウィアー監督)」は、1965年9月30日にインドネシアで起きたクーデターをテーマにした作品。このクーデターの背後関係など詳細はわからないが、これがきっかけでスカルノが権力を失い、スハルトが新たな権力者になった。スハルトが主導したクーデター鎮圧作戦は、共産党員や反政府分子の弾圧を伴い、100万人以上のインドネシア人が虐殺された。ブンガワン・ソロが血で染まったことは有名な話である。その虐殺の様子については、2012年のドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」がショッキングな描き方をしている。

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1981年のオーストラリア映画「誓い(Gallipoli ピーター・ウィアー監督)」は、第一次大戦に英軍側にたってトルコ軍と戦うオーストラリア兵を描いた作品。オーストラリアがなぜ英軍の友軍として参加したかについては、色々な事情があるのだろう。映画はそのことについては触れない。オーストラリア人がイギリスのために戦うのは当然だという前提にたっている。オーストラリアがイギリスから独立したのは1901年のことであり、第一次大戦の時期には独立国家だったわけだから、なにもイギリスに義理立てして戦争に参加することはないと思うのだが、オーストラリアはイギリスの植民地として始まり、イギリスを本国視する慣習が身についていたようなので、イギリス側にたってトルコと闘うのは当たり前のことだったようだ。

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1975年のオーストラリア映画「ピクニックatハンギング・ロック(Picnic at Hanging Rock)」は、寄宿制女学校の生徒たちの謎の失踪事件を描いた作品。生徒たちが学校近くのハンギング・ロックという岩山にピクニックしたさいに、三人の生徒と一人の教師が謎の失踪をする。そのため、学校は無論、地元の警察や住民も大騒ぎをする。生徒のうちの一人は生きて見つかるが、他の三人はついに見つからない。一方、この学校の校長は、生徒の命より学校の経営のほうを大事に考え、貧しくて授業料を払えぬ生徒を追い出そうとする。それに絶望した生徒は自殺し、校長もまた事故死する、というような内容だ。

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2014年のノルウェー映画「バレエボーイズ Ballettgutteneケネス・エルベバック監督」は、プロのバレエダンサーを目指す少年たちを追跡したドキュメンタリー作品。同じダンススクールに通っていた三人の少年たちの成長する様子を、四年間かけて記録したものを編集した。男子がバレエダンサーを目指すというのは、おそらくノルウェーでも珍しいのであろう。だから、その少年たちに注目して、時間をかけてドキュメンタリーに仕上げようというアイデアが出てくるのは、不自然ではない。


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2011年のノルウェー映画「15歳、アルマの恋愛妄想」は、思春期の少女の性衝動をテーマにした作品。15歳のアルマが、性衝動に駆られて、マスターベーションに耽る一方で、好きな男子とのセックスを妄想するというような内容である。少女の性衝動の現れは常軌を逸しているように見えるので、母親は娘が色きちがいになってしまったのではないかと心配する。また、その色情が学校の同級生にも疎まれ、アルマは孤立を感じる。日本人にはちょっと考えにくい設定だが、発育が速い大柄なノルウェー人には珍しいことではないのだろう。

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