映画を語る

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ミケランジェロ・アントニオーニの1970年の映画「砂丘(Zabriskie Point)」は、ハリウッドで作られた。主な舞台はカリフォルニアの砂漠であり、テーマは1960年代のアメリカ文化に対する複雑な反応であるといえる。というのもこの映画には、当時のアメリカ社会への意義申し立て、それは一言でいえば反体制とヒッピー文化といってもよいが、それを描きながらも、別段それに同情的であるわけでもなく、そういうアンチ文化を体現している主人公たちは、亡びるべき存在として描かれているからだ。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1967年の映画「欲望(Blow Up)」は、いわゆる愛の不毛三部作に続いて作られた。愛の不毛三部作でアントニオーニが描いたのは、男女の不条理な関係についてだったが、この「欲望」からは、およそ人間が生きていることの不条理のようなものを描きたい、というアントニオーニの意思が伝わってくる。意思が伝わってくる、というのは、かならずしもそれが理解可能ということを意味しないということだ。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1957年の映画「さすらい」は、女に捨てられた男の悲哀を描いた作品だ。これをアントニオーニは自分自身の経験をもとに作ったという。彼は最初の妻からいきなり別れを告げられ、気が動転したそうだが、その折の自分の気持をこの映画で表わしたというのだ。この映画が独特の切迫感と哀愁を以てせまってくるのは、そうした生きられた体験のもたらすところらしい。

曽根崎心中:増村保造

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「曽根崎心中」は、日本の演芸史にとって画期的な作品だけあって、我々今日の日本人の眼にも実に新鮮に映る。題材が男女の命をかけた恋であることが、時代を超えた普遍性のようなものを感じさせるからだろう。演劇という点では、様式的にも構成上も稚拙なところはあるが、それを補って余りある迫力がある。その迫力とは、恋に命をかける男女の情熱に由来するのであって、それは先程もいったように、時代を超えて見るものに訴えかける。

痴人の愛:増村保造

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「痴人の愛」は、谷崎の実体験を踏まえた小説だ。実体験を盛り込むに当たっては、当然自分自身の面子が意識に上るだろうから、いくらエロ・グロなテーマを扱っていても、そこには自分の尊厳へのこだわりがいくらか働くものだ。この小説の場合には、谷崎の分身たる主人公が、女に溺れてしまったのは、女の尊い美しさと、それについての男の美意識が相乗的に働いた結果であって、なにも下世話な意図がもたらしたものではない、というようなメッセージが、谷崎一流のレトリックで発せられているわけだ。だから読者は、そのメッセージを受け損なうと、この小説を正しく受容することはできない。そのように少なくとも谷崎本人は思っていたに違いない。

刺青:増村保造

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増村保造の映画「刺青」は、谷崎のあの小説が原作だという触れ込みなので、そのつもりで見たら、全く違った代物だった。筋書きも雰囲気も全く似ていない。共通点があるとすれば、それはただひとつ、女の背中に彫られた刺青の図柄が蜘蛛だったということだ。谷崎の小説では、この刺青を彫られた娘が、少女から女へと変ったというふうな落ちになっているが、この映画の場合は、普通の女が悪女に化けたというわけだ。そういうわけで、刺青は筋書きを進めるための添え物で、本筋は悪女の悪女振りを描くところにある。その悪女を、これは悪女役をやらせたら型にはまる若尾文子が演じている。この映画はどうも、若尾文子のために作られたようなものだ。若尾はこの映画を通じて、永遠の悪女スターという名声を後世に残すこととなった。

兵隊やくざ:増村保造

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増村保造の1965年の映画「兵隊やくざ」は、日本軍の兵営生活を描いたものである。日本軍の兵営生活は、内務班といわれる単位を中心に営まれていたが、そのありさまは、野間宏が「真空地帯」で描いたように、身分意識と私刑が支配する陰惨な面を多分にもっていた。この映画は、そうした陰惨な面を、ブラック・ユーモアを駆使して、面白おかしく描き出したものだ。この手の映画は他にも沢山作られたが、出来のよさという点でも、評判の面でも、もっとも成功したものといえる。

卍:増村保造

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谷崎潤一郎の小説「卍」を筆者は、日本文学に聳える最高峰の一つだと思っているし、世界文学の舞台で日本文学を代表して渡り合えるものとしては、この作品が最も相応しいとまで考えている。それほど「卍」という小説は、日本的でかつ普遍的な文学性を帯びている。ということは、文学作品だからこそ、そのような優越性を主張できるわけで、これを映画化すると、その魅力のほとんどが失われてしまう、ということだ。だからこの小説の十全な映画化はありえないだろう。精々、原作のもつ雰囲気をなにがしかほど表現できるか、その程度が問題になるくらいだろう。

好色一代男:増村保造

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増村保造は溝口健二の助監督として出発したが、溝口を強く批判して、その作風を嫌悪した。理由はいまひとつすっきりしないが、溝口が因習的な人間像を感傷的に描いたということらしい。だがその増村自身も、好んで日本の因習的な世界を描いた。もっともその描き方には、溝口とは違ったところがあった。溝口が女や弱い者の視点から描き続けたのに対して、増村は男の視点から描いた。また溝口には社会に対する批判的な意識があったが、増村にはそういう要素はほとんどない。彼にとって映画とは、理屈を盛りこむ容器ではなく、人を楽しませるものだった。要するに面白ければそれでよいのである。

独立愚連隊西へ:岡本喜八

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「独立愚連隊西へ」は、前作「独立愚連隊」の成功に気をよくした岡本喜八が、その続編という触れ込みで作った作品だが、内容的なつながりはない。独立愚連隊というアイデアを引き継いだというだけである。独立愚連隊という言葉は、正規の軍隊用語ではなく、この映画のために作られたものだが、字面から推測できるように、正規の軍隊秩序からはみ出した余計者の部隊というニュアンスが込められている。こんな部隊が実在していたわけではない。

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ゴダールの1960年の映画「小さな兵隊(Le petit soldat)」は、アルジェリアの対仏独立戦争をテーマにしたものだ。この映画が作られたのはまだ独立戦争のさなかのことであったし、また、戦争の当事者が実名で登場することもあって、別にフランス政府を批判したわけでもなかったのだが、公開に待ったがかかった。公開されたのは、停戦後の1963年のことだ。

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08/15シリーズ第三作「最後の08/15(08/15 In der Heimat)」は、ドイツ軍の敗北を描く。前二作におけるアッシュ所属の部隊がここでも映画の舞台となる。この部隊は、敗戦直前にロシア戦線からドイツ国内に移動し、国内でせまりくる連合軍の影におびえ、最後には全員が米軍の捕虜になるのであるが、部隊の秩序崩壊ぶりは、前二作以上に深刻である。

戦線の08/15

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「08/15」シリーズ第二作「戦線の08/15」は、題名のとおり戦線におけるドイツ軍の戦いぶりを描く。戦いの舞台はロシア、そこでの独ソ戦の最前線に、第一部で出て来た部隊がそっくりそのまま登場する。ドイツ軍が、兵営単位で戦線に配置されることがよく伝わって来る。その辺は、内地で結成された師団単位で行動する日本軍の場合と同じだ。

08/15:ドイツの軍隊生活

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ドイツ映画「08/15」は、第二次大戦におけるドイツの位置づけのようなものを正面から描いた、戦争もの三部作の統一名称である。第二次大戦勃発直前におけるドイツ軍の兵営での兵士たちの日常を描いた第一部、戦線での戦いぶりを描いた第二部、そして敗戦後のドイツを描いた第三部からなる。原作は、ドイツ軍兵士だったハンス・ヘルムート・キルストの回想録で、1954年に出版されるやベストセラーになった。それをパウル・マイが、出版直後から映画化にとりかかった。ドイツは敗戦国として、しかもナチスの所業が国際的に非難されていたこともあって、第二次大戦を正面から取り上げた映画は珍しかった。そんな風潮のなかで公開されたこの映画は、かなりの反響を呼んだようだ。

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フランス映画は、第二次世界大戦について、あまり取り上げることがなかった。ろくな記憶がなかったからかもしれない。その点は、映画界がこぞって太平洋戦争を取り上げた日本とはかなり事情が異なる。敗戦国である日本が戦争映画を沢山つくり、戦勝国であるフランスが、戦争をとりあげたがらない、というのは面白い現象だ。

東京オリンピック:市川崑の記録映画

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1964年東京オリンピックの公式記録映画は市川崑が作った。公式記録映画であるから、政府の金も入っているし、いろいろと注文を受けやすいということもあった。実際出来上がった作品を関係者に試写して見せたところ、さんざんなことを言われた。某大臣などは、こんなものは公式記録映画として認められないと毒づいたそうだ。どうもこの映画が、各国の選手の活躍ぶりを満遍なく映し出していて、日本人の活躍するシーンが少なすぎるというのが、彼ら不満分子の本音だったようだ。高峰秀子の回想録などを読むと、頭の固い政治家たちを相手に、いわれのない非難から市川を擁護した様子が伝わってくる。

細雪:市川崑

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谷崎潤一郎の小説「細雪」は何度もドラマ化されたようだが、市川崑の映画はもっとも出来がよいと評判である。たしかに映画としてはよく出来ている。京都の自然の美しさとか、女性たちの和服姿のあでやかさがよく表現されているし、開催弁での会話も醍醐味を感じさせる。映画のかもしだす雰囲気としては、最上級のものではないか。

破戒:市川崑

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市川崑の映画「破戒」は、島崎藤村の同名の小説を映画化したものだ。この小説を筆者は高校生くらいで読んだのだが、やたら暗いという印象が残っているばかりで、内容はあまり覚えていない。映画を見たところ、記憶の中の暗さよりもっと暗いといった感じで、このように暗い映画がよく商業映画として成立できたと妙な感心をしたほどだ。

おとうと:市川崑

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市川崑の1960年の映画「おとうと」は、幸田文の同名の小説を映画化したものだ。題名からして同胞愛をテーマにしたものだと推測できる。幸田文はこの原作小説を自分自身の実生活に取材し、その中で自分と弟との純粋な姉弟愛を描いたつもりらしいのだが、映画を見る限り、その姉弟愛は近親相姦を思わせるような、エロティックな色彩を帯びている。これはおそらく幸田本人の意図しなかったところで、市川が意識的にそうしたのか、あるいは幸田の小説にそのような要素があるのか、読者兼観客であるあなた自身が好きなように受け取って欲しい、そのように伝わってくる作品だ。

ぼんち:市川崑

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ぼんちという言葉を、筆者は関西弁に疎いのでいまひとつイメージがわかないのだが、ぼんぼんのなかでもしっかり者のぼんぼんというニュアンスの言葉だそうだ。ぼんぼんという言葉自体、そのニュアンスがわからないので、しっかり者のぼんぼんがどのようなものか、これもまたよくわからないのだが、しっかり者というからには、肯定的なニュアンスの言葉なのだろう。そういう意味合いでは、この映画に出てくるぼんぼんは、しっかり者とはとてもいえない人物なので、ぼんちの名には値しないようである。だから「ぼんち」と題してはいても、ぼんちになりそこねたぼんぼんの話と受け取ったほうがよさそうである。

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