ホウ・シャオシェン(侯孝賢)の1996年の映画「憂鬱な楽園(南國再見,南國)は、台湾の若者の生き方を描いた作品。若者と言っても、やくざとチンピラの中間のような存在である。日本で半ぐれと呼ばれている連中に似ているのではないか。その連中が、退屈しのぎと金儲けをかねて、台北から南を目指して移動する。異動先は嘉義である。そこで、若者の一人と地元の警察官が対立する。警察官は、その若者の従兄なのだが、おそらく祖父の遺残相続をめぐってトラブルがあり、それがもとで喧嘩をする。その喧嘩を、地元の有力議員が仲裁する、というような内容である。
映画を語る
アリ・アッバシの2022年公開の映画「聖地には蜘蛛が巣を張る」は、デンマーク映画ということになっているが、実際にはイランを舞台にしており、もっぱらイラン人が出てくる映画である。しかもイラン人にとって不愉快になるような内容である。そこでイランでは、ヨーロッパ人がイランを貶めるためにつくったプロパガンダ映画だと批判された。その一方ヨーロッパ諸国では絶賛された。かれらの反イスラム感情を満足させたからだと思われる。そんなわけでこの映画は、かなり政治的な色彩を感じさせる作品である。
2018年のデンマーク映画「THE GUILTY/ギルティ(Den skyldige グスタフ・モーラー監督)」は、911(警察の緊急通報システム)のオペレータの仕事ぶりを描いた作品。911というのは、日本の110に相当するのだろう。市民からの緊急通報を受けて、それなりの対応をする。犯罪にかかわることならば警察官を現場に急行させるし、犯罪ではないが市民の生命にかかわるような事態であれば、それなりの対応をする。だから、日本人の感覚としては、110と119を兼ね合わせたようなシステムなのだろう。
1987年のデンマーク映画「バベットの晩餐会(Babettes gæstebu ガブリエル・アクセル監督)」は、高級料理を堪能する映画である。堪能されるのはフランス料理。それを超一流のコックが調理し、それを人々が感嘆しながら味わう様子を描く。しかしただのグルメ映画ではない。19世紀後半のユトランド地方の片田舎を舞台に、プロテスタントのデンマーク人たちの信仰をあわせて描いている。
内藤瑛亮の2018年の映画「ミスミソウ」は、押切蓮介の同名の漫画を映画化した作品。原作は、子どもの間のいじめとか殺人を伴う暴力の氾濫といった事態を描く。日本の漫画はある部分非常に過激になっていると言われるが、原作漫画はその過激さが常軌を逸した段階を超えている。漫画の描く世界が、日本社会の一面を映し出しているとしたら、日本という国は救いようのないほど壊れてしまっていると思わせられる。
内藤瑛亮の2016年の映画「ライチ☆光クラブ」は、古屋兎丸の同名の漫画を映画化した作品。原作は半ぐれ少年たちの暴走ぶりを描く。九人からなるその半ぐれ集団は、独裁者を気取る少年を中心にして、大人たちの世界を否定する行動を楽しむ。だが、暴走しすぎて人を殺したり、仲間内でリンチ殺人を犯したりしたあげく、全員が死ぬというような荒唐無稽な筋書きである。
内藤瑛亮の2012年の作品「高速ばぁば」は、オカルト風のホラー映画である。ホラーと言っても少しも怖い感じはしない。子供だましのような安直さを感じさせる。内藤がなぜこんな映画を作る気になったか。この映画は、プロデュース会社ダブル・スタンダードが企画したホラー三部作の一つで、その監督を内藤が引き受けたということらしい。そんなこともあって内藤は、あまり本気になっていなようである。
2011年の日本映画「先生を流産させる会(内藤瑛亮監督)」は、不良女子中学生の悪ふざけを描いた作品。五人組の不良少女グループが、担任の女性教師の妊娠を知り、それに嫌悪感を抱いて、「先生を流産させる会」なるものを結成し、給食に毒を入れたり、果ては先生の妊娠した腹をこん棒で殴ったりして流産させる。流産とはいっても、子どもが死ぬことを知っていての暴力行為であるから、殺人といってよい。ところが、今の日本では、胎児には人格権はないから、それを殺しても殺人罪には問えない。
2023年の日本映画「市子(戸田彬弘監督)」は、自分の戸籍を持たない女性の数奇な人生を描いた作品。夫と離婚した後300日以内に生まれた子どもは、その夫の子と推定される。ところがDVなどで夫との意思疎通が困難な場合、妻は生まれた子の出生届を、物理的にできない場合がある。この映画は、そういうケースを取り扱っている。母親に出生届をしてもらえず、無戸籍状態になった女性の不幸な物語である。その不幸は、無戸籍状態にとどまらず、家庭崩壊の結果でもある。母親の再婚相手がいなくなったうえ、妹が重度の難病にかかり、その介護につかれた主人公の女性が、妹を死なせてしまう。その負い目を、妹の世話をしていた介護士につつきまわされ、あげくに主人公はその介護士を殺してしまう、というような陰惨なストーリーである。
2023年の日本映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら(成田洋一監督」は、敗戦直前の1945年6月14日の日本にワープした少女が、若き特攻隊員たちと出会い、生きることの意味を考えるという内容の作品。特攻隊は鹿児島の知覧をイメージしているようだ。知覧の特攻隊を描いた作品「ホタル」と雰囲気が似ている。「ホタル」に出てくる食堂のおばさんがやはり出てきて、特攻兵たちに慕われている。そのおばさんを松坂慶子が演じている。松坂は顔も体も真ん丸くなって、いかにもおばさんといったイメージだ。あまりの変わりように、当初は松坂と気づかなかったくらいだ。
2015年公開の映画「幕が上がる(本広克行監督)」は、平田オリザ原作の青春小説を映画化した作品。平田がかかわった高校の演劇活動をテーマにしている。女子高校生らが、演劇に身を捧げ、全国大会優勝をめざしてがんばる姿を描いている。主演のほか、有力な役柄を、当時人気のあったタレント・グループ「ももいろクローバーZ」のメンバーが演じているというので、評判になった。
中村祐子の2015年の映画「あえかなる部屋 内藤礼と光たち」は、造形美術家内藤礼の創作を追うドキュメンタリー映画という触れ込みだが、中途半端な作品になっている。肝心の内藤礼が、自分の姿を撮らせようとしないし、また、途中で取材に非協力的になってしまうので、ドキュメンタリー映画としての制作継続が不可能になった。そこで、内藤とは関係のない人物を複数登場させて、それぞれの生き方を語らせるというやり方に切り替えた。そんなわけで、内藤礼についてのドキュメンタリー映画とは言えないものになっている。
中島哲也の2013年の映画「渇き」は、崩壊した家庭を立て直そうとして、かえって家族の関係を一層悪くするという悪循環に悩む元刑事を描いた作品。中島は「告白」(2010)では、娘をいじめ殺された教師が、いじめた連中に復讐するさまを描き、それを陰惨な暴力シーンの連続で表現していた。この「渇き」では、暴力は一層エスカレートした形で表現されている。それはおそらく日本社会の暴力化が反映されているのであろう。小生は、韓国映画の暴力礼賛的な傾向に日本の映画が影響されている可能性があると考えている。韓国映画の暴力礼賛的な傾向は、社会の深刻な分断を反映していると思われるが、その分断が日本でも深刻化しているのではないか。
2020年のアメリカ映画「ノマドランド(Nomadland クロエ・ジャオ監督)」は、アメリカにおける車上生活者をテーマにした作品。タイトルのノマドは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが流行させた言葉で、定住しない遊動民を意味している。それは当事者の意思にもとづく選択としての遊動なのだが、この映画の中の車上生活者は、外的な事情によってその生活を強要された人々である。かれらはヴァンやキャンピングカーに乗って、そこらじゅうを放浪しながら、日雇いの仕事で糊口をしのいでいる。ある種のホームレスといえなくもないが、当事者はホームレスだとは思っていない。ハウスレスではあるが、ホームレスではないというのだ。ハウスレスとホームレスのどこが違うのか。
2019年のアメリカ映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(Once Upon a Time in... Hollywood クエンティン・タランティーノ監督)」は、落ち目になった俳優とそのスタントマンの冴えない日々を描いた作品。それにシャロン・テート事件をからませてある。だが、事実をかなり修正してある。マンソンの一味はシャロンを襲うかわりに主人公の冴えない俳優を襲い、逆襲されて叩きのめされることになっている。シャロンは無論死なない。だから、シャロン事件はただのさしみのつま扱いだ。
2013年のアメリカ映画「華麗なるギャツビー(The Great Gatsby バズ・ラーマン監督)」は、スコット・フィッツジェラルドの同名の小説を映画化した作品。原作は20世紀アメリカ文学を代表する作品という評価が定着しており、村上春樹などはアメリカ文学の最高傑作とまで言っている。小生はかならずしもそうは思わない。俄か成金の失恋をテーマにした原作は、アメリカンドリームを感じさせる点ではアメリカ人好みではあるだろうが、そんなものに興味を感じない人間には、ただの失恋物語にしか見えない。「ウェルテル」のような若い男の失恋なら多少の色気も感じられるが、三十を越した俄か成金の失恋に共感するわけにはいかない。
2013年のアメリカ映画「ゼロ・グラビティ(Gravity アルフォンソ・キュアロン監督)」は、宇宙士が宇宙を放浪する様子を描いたSFサスペンス映画である。同趣旨の映画には「2001年宇宙の旅」があるが、それに比べると、こちらはややたるんだ印象を与える。登場人物が実質二人で、そのうちの一人がひたすら宇宙空間をさまよう様子がもっぱらうつされるので、物語性に乏しく、またなぜそんなことが起こりうるのかと思わせるほど、まともらしさに欠けるのである。
2008年のアメリカ映画「ワルキューレ(Valkyrie)」は、ヒトラー暗殺計画のなかで最大規模の「ワルキューレ作戦」をテーマにした作品。この作戦は、作戦という大げさな言葉が使われている通り、小規模な暗殺計画ではなく、軍隊の一部を巻き込んだ大規模なものだった。軍隊組織のうち予備役で構成する大部隊が、組織をあげてこの暗殺計画に関わったのである。計画は未遂におわり、関わった者たちはすべて殺されたが、この計画の挫折した9か月後には、ヒトラーとナチス政権は崩壊した。その崩壊を、この作戦が多少とも早めたのかどうか、よくはわからない。
2007年のアメリカ映画「ノーカントリー(No Country for Old Men ジョエル・コーエン監督)」は、麻薬取引がらみの殺人を描いた作品。麻薬取引がこじれて殺し合いになった現場に、たまたま男が通りかかる。現場には大量の麻薬と200万ドルの現金が残されていた。男はその現金を着服するが、それがもとで殺し屋に狙われる。その殺し屋は、残忍な男で、人を殺すのが趣味のような奴だ。しかも狙った餌食は絶対逃さない。かれに狙われたものは、袋の中のネズミなのだ。じっさい、金を着服した男は、最後には殺されてしまうし、男の妻も殺されてしまう、といった内容である。
2004年のアメリカ映画「クラッシュ(Crash ポール・ハギス監督)」は、アメリカにおける人種間憎悪と暴力を描いた作品。アメリカではたびたび人種間の憎悪にもとづく暴力事件が起きる。その最たるものは、白人警察官による黒人への暴力だろう。近年は白人警官による暴力が厳しく裁かれるようになってきたが、この映画の公開された時期には、暴力を振るわれた黒人は泣き寝入りするしかなかった。この映画の中でも、白人警官が理由もなく黒人夫妻を尋問し、妻にわいせつな暴力を振るい、それにたいして夫はなすすべがないというシーンがある。そんな夫に妻は幻滅するのである。
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