日本の美術

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「湘南風景」と題されたこの絵は、冬枯れの自然をモチーフにしていることから、「窓」を描いた年の晩秋か初冬の景色なのだろう。松の葉を除いては、寒々しい冬枯れの眺めが広がっている。

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「窓」と題するこの作品は、茅ケ崎の自宅の窓から外を見た眺めだ。この頃、鉄五郎はまだ体調がよく、「水着姿」など数多くの制作を手掛けていた。これは、アトリエから眺めた庭の様子。もともと医者が診察室として使っていた部屋を、鉄五郎はアトリエとして使ったという。

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「水着姿」と題したこの絵は、日傘をさした女性をモチーフにしていることから、「若い頃の作品「日傘の裸婦」を想起させるが、「日傘の裸婦」には前衛芸術への気負いがみなぎっているのに対して、この絵は単純な平明さが持ち味である。背景の海も、またモチーフの人物も単純化され、色彩は清明である。

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T子とは長女とみ子のこと。とみ子は、1926年の12月に死んでいるから、この絵は死の直前に描かれたことになる。死因は結核というから、死に際にはかなりやつれていたはずである。ところがこの絵の中のとみ子は、やつれたところを感じさせない。おそらく鉄五郎の親心から、娘を理想化したのかもしれない。

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晩年の萬鉄五郎は、穏やかな雰囲気の肖像画を好んで描くようになる。自身の子供をモデルにしたこともあったためだろう。「少女の像」と題したこの作品は、次女の馨子をモデルにしたもの。馨子は1917年の生まれだから、この絵のポーズをとった1925年には満八歳だった。八歳といえば、幼女と少女の境にある年齢だ。

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1923年9月1日の関東大震災を、萬鉄五郎は茅ケ崎で体験した。茅ケ崎あたりは、震源が近いこともあって、揺れがすさまじかった。だが萬は冷静に行動し、炊事道具を持って非難したので、飢えにさいなまれることはなかったといわれる。

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萬鉄五郎の長女とみ子が、学校の制服を着てポーズをとっているところを描いた作品が「少女」と題するこの絵である。当時とみ子は、神奈川県の平塚高等女学校に通っていた。この絵の中のとみ子は、その学校の制服に身を包んでいるのである。このとき、とみ子は十三歳だった。

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1922年に、萬は岸田劉生や中川一政らとともに春陽会を結成した。これは単なる洋画の模倣ではなく、日本的な美意識を洋画に盛り込もうとする運動だった。翌年の五月に、その春陽会の第一回展が催された。「ねて居る人」と題するこの作品は、そこに出展されたものである。

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萬鉄五郎は1919年に、東京から神奈川県の茅ケ崎に転居した。「風景」と題するこの絵は、茅ケ崎のどこかの風景を描いたものだろう。のんびりとした田舎道や農家の屋根の点在する眺めを描いたものだ。

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「裸婦」と題するこの作品は、キュビズムの影響を感じさせるが、単なる模倣ではなく、萬なりの解釈を施してある。そのことは、技法的にはキュビズムを取り入れながら、全体としての印象は、なるべく具象的なイメージを尊重するところに現れている。

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「薬缶と茶道具のある静物」と呼ばれるこの絵は、萬鉄五郎の静物画の到達点を示すものだろう。日常の食器をなにげなく並べながら、そのフォルムには大胆なデフォルメを施し、しかも妙な躍動感を表現するなど、遊びの精神が感じられる。

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萬鉄五郎は土澤滞在中にかなり抽象化された風景画を何点か描いている。「木の間風景」と題したこの作品は、東京へ戻ってから制作したものだが、抽象化の度合いが一層進んで、一見したところでは、これを風景画と見るものはいないのではないか。だが、この絵が、具体的な風景のイメージをもとに、それを抽象化したものだということが、下絵などから推測されている。

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「もたれて立つ人」と題するこの作品は、土澤から東京へ戻ったあと制作され、1917年の二科展に、「筆立のある静物」とともに出展された。大画面いっぱいに描かれた肖像画は、当時の人たちの度肝を抜いたらしく、結構な評判となった。

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「筆立のある静物」と呼ばれるこの絵は、東京へ戻ってから制作されたものだが、土澤時代の「手袋のある静物」の延長上の作品である。色彩は非常に暗く単調で、構図にはキュビズムの影響を指摘できる。

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1914年の秋から翌年いっぱい、萬鉄五郎は家族を連れて、岩手県の郷里和賀群東和町土澤に身を寄せた。そこで電灯会社の代理店を営む一方、制作に励んだ。この時期の鉄五郎の画風には大きな変化が生じた。画面が極端といえるほど暗く、色彩感に乏しいのである。それまでの鉄五郎の絵が、マチスばりの色彩感にあふれていたことを思うと、劇的な変化と言ってよかった。

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「日傘の裸婦」と呼ばれるこの作品は、1913年の第二回フュウザン会に、「エチュード」と題して出展されたもの。裸婦に日傘を持たせた構図がめずらしく、評判を呼んだ。関係者の証言から、これはもともと美術学校において習作として描いたものを、後に改変したものという。

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「ガス灯」と題したこの作品も、同時代の西洋美術の新しい動きに触発されたものと考えられる。構図的には、キュビズムともフォーヴィズムとも違い、色彩的にはかなり抑制された地味な感じである。おそらく、西洋美術の新しい動きを意識しながら、鉄五郎独自の方法を模索したのであろう。

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「風船をもつ女」と題するこの絵も、「ボアの女」同様女の半身像だが、雰囲気はかなり違っている。「ボアの女」の顔はなかり単純化されているとはいえ、実像から極端に乖離していない。それに比べるとこの絵は、かなりデフォルメされている。顔が、いくつかの面を組み合わせているところは、「赤い目の自画像」と同じく、キュビズムの影響を指摘できる。

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「ボアの女」と呼ばれるこの絵は、1912年の第一回ヒューザン会に出展した作品(当初は「女の顔」といった)。ヒューザン会とは、萬が木村壮八らとともに結成した美術団体で、未来派など西洋の前衛芸術に深い関心を寄せていた。この団体の活動は、萬が1914年に郷里の岩手に帰ったことなどもあって、短期間で終わった。

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「雲のある自画像」を、鉄五郎は1912年に二点制作している。先のものは、ややリアルな画風で、二つの雲を頭上に漂わせた鉄五郎が、穏やかな表情で描かれている。この作品では、鉄五郎は非常に深刻な表情に描かれ、頭上の雲はキリストの光冠を思わせる。

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