日本の美術

四季山水図(冬):雪舟の山水画

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四季山水図(ブリジストン美術館蔵)四幅のうち冬図。このシリーズの絵の中では、構図がもっとも安定している。空の余白の部分は少ないが、その分背景の山と前景の景色との調和が画面を安定させている。左上の空の余白と右下の水の部分とが対応しているところも、構図の安定に役立っている。

四季山水図(秋):雪舟の山水画

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四季山水図(ブリジストン美術館蔵)四幅のうち秋図。東京博物館蔵の四季山水図秋図が、画面中央の広い部分に雲煙を配し、それで以て画面を上下に二分しているのに対して、これは背景の山と前景の自然とを近接させて、しかも明瞭な線で描かれている。

四季山水図(夏):雪舟の山水画

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四季山水図(ブリジストン美術館蔵)四幅のうち夏図。東京博物館の四季山水図夏図と比較すると、その相違が大きいことがわかる。まず構図。後者は画面上部の中ほどに、背景として岩山を配し、その前面に近景として山里を描いていたが、こちらは、画面中ほどから左手方向に絶壁を配し、その絶壁の真下に山里を描いている。また、後者には雲煙があるのに、こちらはそうしたものはなく、すっきりと描かれている。

四季山水図(春):雪舟の山水画

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ブリジストン博物館所蔵の四季山水図四幅は、落款や押印がないが、雪舟の真筆と断定されている。同じく四季山水図でも、東京博物館所蔵の在明中のものに比べて、一回り小さい。製作時期は、画風に中国の影響が見られるところから、帰朝後間もない時期に描かれたのだと考えられる。

四季山水図(冬):雪舟の水墨画

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四季山水図四幅のうちの冬図。峨々たる岩山を背景に山里の寒々とした風景を描いている。背景の岩山も左手前景の岩山も雪をかぶって白くなり、山里の家々も雪に埋もれて沈黙の風情をかもし出している。四季山水図四幅のなかでは、もっとも日本的な雰囲気を感じさせる。

四季山水図(秋):雪舟の水墨画

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四季山水図四幅のうち秋図。これも他の三幅同様、高山を背景にした里の風景を描いている。どの山と、どの里をテーマに描いたのかは、全く判っていない。おそらく李在はじめ中国当代の画家たちの絵を参考にして、雪舟が自在に構成したのではないかと思われるが、雪舟が折に触れスケッチしておいた実景をもとに描いたという解釈もないわけではない。

四季山水図(夏):雪舟の水墨画

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四季山水図四幅のうち夏図は、李在の山水図(東京博物館蔵)に非常に似ているので、よく比較される。まづ構図だが、画面全体に景物をくまなく配した構図が、両者に共通している。描法も、遠くの山をぼかすことで遠近感を出したり、山の麓に白い霞を介在させることで上下の高低感を表したりするところが共通している。

四季山水図(春):雪舟渡明中の水墨画

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現在に伝わる雪舟の作品のうちもっとも早い時期に描かれたのは、東京国立博物館所蔵の「四季山水図」四幅である。この作品は、雪舟の渡明時代に北京で描かれたことが、落款や呆夫良心の「天開図画楼記」などからわかる。雪舟は、応仁元年(馬歯四十八)に渡民し、同三年(五十)に帰国したが、その間に北京でこれを描いたのである。

雪舟の世界

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雪舟は、日本の美術史上、個人の名が前面に出た最初の芸術家と言える。彼以前には、日本の芸術は、基本的には匿名作品だった。鳥獣戯画の作者とされる鳥羽僧正は、実在の芸術家というより、象徴的な意味を持たされた存在だったといえるし、運慶や快慶は、確かに個人として卓越した技術を持っていたが、歴史的には個人としてよりも、技法の集団を代表するという意味合いで言及されることが多かった。特定個人の名と結びついた芸術が日本に現れるのは、雪舟以後と言ってもよい。

小林清親の花鳥動物画

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(猫と提灯 明治十年)

小林清親は、東京名所図刊行の傍ら、花鳥や動・植物をモチーフにした版画も製作した。それらは、実用的な価値のある東京の名所図とは違って、あまり売れなかったようだが、清親は自分の画家としての矜持から、こうしたテーマも積極的に描いたようだ。

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(亀井戸藤 明治十四年)

亀戸天神は十七世紀の中ごろの寛文年間に、菅公の子孫によって創建された。以後関東地方における天神信仰の一大拠点として栄えてきた。いまでも湯島の天神様と並んで、学問の神様として、特に受験生を中心に、広い信仰を集めている。

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(浅草田圃太郎稲荷)

浅草田圃は吉原の裏手にあった田地である。吉原は、浅草とは反対側の北東部に入り口があったから、その裏手といえば、吉原と観音堂との中間地帯に当たる。徳川時代の古地図を見ると、吉原の周辺一帯が田地として表示されているから、吉原が田圃の中の、いわば水中楼閣のようなものだったわけだ。

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(浅草夜見世 明治十四年)

浅草は、観音堂の門前町として古くから賑わったが、徳川時代になると、北隣に新吉原の遊郭街が出来、また観音堂の周辺に芝居小屋が出来たりして、庶民の賑わう町になった。その賑わいは明治以降にも引き継がれ、昭和の初め頃までは日本最大の繁華街を形成していた。

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(浜町より写両国大火 明治十四年)

明治十四年の一月に東京では大火があった。神田松枝町から出火し、神田および両国一帯を焼き、火は橋を伝って、対岸の本所側まで燃え広がった。東京の下町を焼きつくした明治期最大規模のこの火災を、神田の大火とも両国の大火ともいう。

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(常盤橋内紙幣寮之図)

紙幣寮は大蔵省印刷局の前身である。明治四年に役所として設立され、紙幣の発行や銀行の許認可などを所掌していた。だが、役所の設立当時は、技術的な問題があって紙幣の印刷はドイツなどの外国に依頼していた。日本で印刷するようになるのは、明治十年以降のことである。

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(芝増上寺日中)

芝増上寺は、上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提寺である。十五代将軍のうち六人がここに葬られた。寛永寺が天台宗なのに対して増上寺は浄土宗である。また寛永寺が江戸城から見て鬼門の方向にあるのに対して、増上寺は裏鬼門にあたる。

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(大川岸一之橋遠景 明治十三年)

墨東地区を東西に流れる堀川のうち、本所・深川境界沿いのを竪川と言い、西側から数えて、一之橋から六之橋まであった。この掘割はもともと縦川といったのだが、後に言葉の洒落で竪川と書かれるようになった。

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(佃島雨晴)

佃島は、今では月島と一体化し、近隣の晴海や豊洲などとともに広大な臨海地帯を形成しているが、昭和のはじめころまでは、離れ小島だった。佃大橋が架けられて本土と結ばれたのは昭和39年のことで、それまでは渡し舟で本土と往来していた。

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(大川富士見渡 明治十三年)

富士見の渡しは、今の蔵前橋のやや下流、蔵前工業高校と対岸の同愛記念病院あたりを結んでいた。船の上から富士がよく見えたことから、この名がついたと言われる。震災後に蔵前橋が架けられるまで、渡し舟は続いた。

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(桜田弁慶堀原 明治十三年)

弁慶堀は、皇居の掘割の延長で、今の日比谷公園の東北隅から溜池方面を結んでいた。赤坂見附に残っている弁慶橋あたりの堀はその名残である。

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