日本の美術

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竹に虎の組み合わせは、武家好みのモチーフとして、室町時代から多く描かれて来た。光琳のこの図は、小さな画面に虎の姿をいっぱいに描き、その周囲に竹を配したものであるが、虎の表情にはいかめしさと滑稽さとが同居していて、これだけを単独に描いても、絵にはならなかったと思う。周囲の竹があるおかげで、虎の大きさが引き立ち、虎らしい雰囲気が出ている。虎だけだったら、猫と区別はつかないだろう。

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「孔雀立葵図屏風」は、左隻に立葵の花を、右隻に雌雄の孔雀を描いている。双方の絵にはあまり関連は感じられないので、それぞれ独立した作品として鑑賞される。特に孔雀図は、羽を大きく広げた雄の孔雀と、その前で首を低く垂れた雌の孔雀の醸し出す雰囲気がなんとも言えない感動を呼び起こす。

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光琳は、江戸在住中に姫路藩主酒井氏の庇護を受けた。この「躑躅図」は酒井氏にささげた逸品である。その後肥前黒田藩に伝えられてきた。当時の武家の嗜好は狩野派であったため、この絵にも狩野派的な雰囲気が感じ取れる。光琳は狩野派から出発したこともあって、狩野派の技法には通じていた。この作品は、しかし狩野派一点張りというわけではなく、墨の処理の仕方に雪舟の撥墨山水画の影響も指摘できる。

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渦を巻いて盛り上がる波濤を描いたこの絵は、宗達の「雲龍図屏風」にヒントをえたものと考えられる。雲龍図屏風のなかから、波濤の部分を単独に取り出して、それを拡大しながら、二曲の屏風の面に定着した。この二曲の屏風面は、ほぼ正方形に近く、しかも大画面なので、表現の場としては色々な工夫が可能である。光琳はその可能性を最大限生かして、新しい表現様式を模索したのだろう。

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太公望は中国の伝説中の人物で、周の文王を補佐して天下の三分の二を平定したとされる呂尚のこと。釣糸を垂れてのんびりと過ごす太公望のもとに文王が足を運んで誘う場面は、徳川時代の武家たちに喜ばれたテーマで、さまざまな画家がそのモチーフを絵にした。光琳は、文王を除いて、太公望だけに焦点を当て描いた。

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この群鶴図屏風は、六曲一双の屏風絵の大作であることから、光琳が大作を本格的に手掛けた晩年の作だと考えられるが、千羽鶴図との対比という意味で、ここに掲げた。

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この千羽鶴図も、江戸の豪商冬木家に伝えられてきたもの。香包の装飾図柄として描かれた。香包とは香木を包んだもので、縦横それぞれ二度づつ折り、折り目の作る九面のうち、向かって左側の中央が表になるようになっている。この絵をよく見ると、その折り目が見えており、表面にあたるところに、鶴がもっとも密集して描かれているのがわかる。

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秋草をあしらったこの小袖は、江戸の材木商冬木家に伝来したことから「冬木小袖」と呼ばれている。江戸に出て来たばかりの光琳が、冬木家の求めに応じて製作したものらしい。小袖の白い布地に、墨と淡彩で秋草を描いたものだ。

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光琳は宝永元年(1704)に江戸へ出てくると、芸術上の庇護者を求めて方々の大名へ接近する。そして彼らのために様々な作品を制作するのであるが、「草花図巻」と題するこの図巻は津軽家のために描いたもの。軸心から「宝永二乙酉六月三日」という日付が出て来たから、江戸へ移住してまもない頃の作品と考えられる。

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光琳には草花をモチーフにした作品が数多くある。とりわけ初期の作品に多い。それらの図案は、単に自然の花を再現したと言うよりは、曲線の使い方や構図の配置などに装飾性が認められる。こうした装飾性は、燕子花図と通じるもので、光琳の実家雁金屋の家業である衣装の文様に通じるものだ。光琳は実家の衣装文様のデザインの特徴を、一方では燕子花図のような様式的な図柄に発展させるとともに、この図柄のように、自然を装飾的に描いたわけだ。

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尾形光琳といえばこの図屏風が浮かび上がるほど有名な作品で、光琳の代表作と言ってもよい。光琳が法橋の位を授かった元禄十四年(1701)頃の作品と考えられ、光琳の現存する作品のなかでは、もっとも早い時期に属するものだ。モチーフの燕子花は、伊勢物語の八つ橋の場面に取材した。はるばる東へとやってきた業平一行が望郷の念にかられながら、「かきつばた」の五文字を五つの句の頭に読み込んで歌を歌ったと言う、日本人なら誰でも知っている場面を絵画化したものだ。

琳派と言えば、俵屋宗達に始まり尾形光琳を頂点にして酒井包一に至る日本画の流れを指して言うが、この言葉自体は昭和以降に使われるようになったもので、当人たちがその言葉を意識していたわけではない。しかし、それぞれ百年を隔てたこの三人の画風には共通するものがあり、また本人たちも先駆者の画風に深く学ぶところがあったわけで、琳派と言う名前こそ存在はしなかったが、一つの流派を形成していたといってもよかった。その最大公約数的な特徴は、様式的な美しさと装飾的なデザイン性にあったと言ってよい。

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「玉兔 孫悟空」と題するこの図柄は西遊記の逸話を基にしたもの。玉兔は月に住む白ウサギで、木犀の木の下で仙薬をついているとされる。それが地球に下りてきて人間に化け、いたずらをしているのを、孫悟空が正体を見抜いて、これと戦う。

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吼噦とは狐の鳴き声をあらわし、転じて狐そのものをもあらわす。芳年はその狐をモチーフにした図柄を狂言「釣狐」をもとにイメージ化した。

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「月百姿」は、明治十八年から二十五年にかけて制作された芳年最後の大作シリーズで、全部で百図。芳年の死後に画帖の形でも出版された。まさに芳年の遺作と言ってもよい作品だ。テーマは月にことよせながら、和漢の物語や詩歌などを題材にしたもので、すべて過去のことがらを取り上げている。
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「かわゆらしさう」は、子どもを抱く母親を描く。かわゆらしさう、というのは、子どもの様子がかわゆらしそうなのか、それとも子供を抱く若い母親の様子がかわゆらしいのか、どちらともとれるようだ。

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明治二十一年に刊行した「風俗三十二相」は、様々な階層の女性たちの表情や仕草をテーマにしたもので、全部で三十二の図柄が作られた。描かれた三十二人の女性たちのうち、徳川時代の女性が二十三人、明治の女性が九人である。それぞれ、うれしそうとか、寒そうとか、痛そうとかいった具合に、女性の感情を「そう」ということばで表現している。

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渡辺綱は源頼光四天王の首座で、勇猛で知られる。さまざまな逸話があるが、最も有名なのは鬼退治の話。都の羅城門に鬼が出るというので、綱は頼光から授かった金札を立てるべく、羅城門に赴いた。すると鬼が現れて、背後から綱の兜をつかんだ。そこで綱はすかさず鬼の腕を切り落とし、それを持ち帰ったというもの。

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袴垂保輔は都を騒がせる大盗賊、鬼童丸は市原野に住む盗賊だ。この二人が妖術を競い合う場面を滝沢馬琴が読本「四天王剿盗異録」に書いた。芳年はその場面をイメージ化したものを縦二枚続きの錦絵にした。当時馬琴の読本は庶民に人気があったので、こういう図柄も喜ばれた。

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魯智深は水滸伝に出て来る梁山泊の英雄の一人。僧侶でありながら、筋骨隆々たる巨漢で怪力の持ち主、さまざまな逸話があるが、中でも有名なのは、町で酒を飲んで寺に帰って来た時に、門を閉ざされてしまったために、金剛力士像をこわしてしまったというもの。それでも仏罰を蒙ることはなかった。

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