日本の美術

扇面散貼付屏風:宗達の扇面図

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宗達の実家俵屋は、絵屋として、市中にかなり知られていたようである。俵屋は、基本的には大衆的な絵屋として、貴族や寺社の求めに応じて書くというより、庶民の需要に応えていたものと推測される。その需要の主なものは、襖に張り付けることを目的とした図であるとか、扇の装飾だったと思われる。これは、宗達の家業というべきものだから、おそらく生涯のあらゆる時期にわたって制作したのだと思われる。しかし、単体として残っているものは数少ない。特に扇の場合には、扇の形としてではなく、扇面のために書かれた図柄を、襖に張り付けた形のものが残されている。

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蓮下絵百人一首和歌巻は、宗達と光悦とのコラボレーション作品のうちで、掉尾をかざるものである。そのことは、巻末に置かれた「大虚庵光悦」という落款から推測できる。光悦がこの落款を用い始めるのは、鷹が峰の光悦町への移住後のことだからだ。その事実をもとに、この図の制作年代は、元和年間(1515-23)の初頭ころと推測される。

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宗達は若年の頃、本阿弥光悦とのコラボレーションからいくつもの傑作を生みだした。光悦は、宗達とほぼ同年齢と推測されるが、その多面的な才能によって、慶長期から徳川時代初期にかけての日本の美術をリードした巨匠である。その光悦と宗達は遠いながらも親戚の間柄で、それが機縁となって両者のコラボレーションが実現したという見方もあるが、必ずしも確証があるわけではない。わかっていることは、宗達の描いた下絵の上に、光悦が書を載せ、両者が相まって、独特の美的世界を演出したということである。光悦の才能は書に限られるわけではなかったが、書においては当時の日本を代表する書家であり、それにユニークな絵師であった宗達が協力することで、前代未聞の新しい美的境地が開発されたと言える。

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俵屋宗達の作品のうち、年代がはっきりしている最古のものは、慶長七年(1602)に行われた厳島神社所蔵「平家納経」補修作業に参加した際の補作である。平家納経とは、長寛二年(1164)に、平清盛が一門を率いて厳島神社に参拝したした際に奉納した経巻で、願文を添えて三十三巻からなり、各巻とも法華経の経文に金銀泥で描かれた図柄が添えられていた。これの保存状態が悪くなったため、補修作業が行われたわけだが、その作業に宗達も加わったのである。平家納経といえば、重要文化財として認識されていたはずであり、それの補修作業に加わったということは、宗達の技量が世に認められていたことを物語ると考えてよい。この時宗達は、三十歳前後だったと推測される。

俵屋宗達の世界

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俵屋宗達は、今日では琳派の開祖として知られている。しかし宗達自身にはそのような意識のありようがなかった。琳派というのは、元禄時代を中心に活躍した緒方光琳とその弟子たちにつけられた名称であり、徳川時代の中期には酒井芳一のような有力な後継者が出て、日本の絵画史上の一大流派となったわけだが、宗達は光琳よりずっと前の世代の画家であるからして、後代の流派の名で宗達を呼ぶのは、宗達自身にとって不本意だと思われる。せめて琳派の先駆者ぐらいの位置づけにしておくべきだろう。

興福寺金剛力士像:定慶

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金剛力士(仁王)像といえば、東大寺南大門のように、寺院の門の内部に安置されるものがイメージされるが、興福寺の場合には、西金堂の中に、本尊の脇時として安置されていた。それ故、サイズは人身大であるが、この両像は、南大門のそれに劣らぬ迫力を感じさせる。

興福寺梵天像:定慶

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興福寺の東金堂にあった梵天・帝釈天像のうち、帝釈天像は建仁元年(1201)に定慶によって作られ(現在は根津美術館蔵)、梵天像は翌建仁二年(1202)に作られた。梵天像の背面の墨書に、大仏師定慶、小仏師盛賀及び定賀によって作られたとの記録がある。

維摩居士像:定慶

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定慶は、運慶や快慶と同世代の仏師で、作風からみて慶派に属すると見られる。しかし、その作品が収められたのが興福寺と春日大社に限られ、また僧綱位についた形跡がないことから、慶派の主流ではなかった可能性が高い。その作風は、慶派の特徴である写実を基本としながらも、細部へのこだわりや装飾性等など、彼独自のものを指摘できる。

蓮華王院風神・雷神像:運慶と鎌倉彫刻

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蓮華王院の風神・雷神像は、二十八部衆像と共に、千躰千手観音の眷属として安置されているものだ。風神・雷神の由来については諸説あり、もっとも有力なのは日本神話とそれがもとになった民間伝承に起源を求めるものだが、二十八部衆同様仏教起源だという説もある。蓮華王院の風神・雷神は、宋本における風神・雷神のイメージを形象化したものと言われており、その点では仏教起源説に従っているといえよう。

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京都蓮華王院には、千手観音の眷属である二十八部衆の像が安置されている。二十八部衆には、梵天、帝釈天、阿修羅などおなじみのキャラクターのほか、婆藪仙、迦楼羅王像といった地味なものも含まれている。これらが、千躰千手観音とともに収まっている眺めは壮観である。

俊乗上人坐像:運慶と鎌倉彫刻

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俊乗上人重源は、治承の兵火で焼けた東大寺の復興に奔走した人である。かの西行も、重源に協力して、奥州の藤原氏に砂金の勧進を行ったことが知られている。重源の努力が実って、東大寺は速やかに復興できた。その復興に、運慶をはじめ慶派が総力をあげてかかわった。

空也上人像:康勝

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運慶の四男康勝の作品としては、法隆寺の阿弥陀如来像、教王護国寺の弘法大師像と並んで六波羅密寺の空也上人像がある。空也上人は、平安時代中期に活躍した僧で、浄土教の先駆者として知られ、阿弥陀聖などと呼ばれた。六波羅密寺は彼が創建したとされる。

天灯鬼・龍灯鬼立像:康弁

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運慶の三男康弁の作品としては、興福寺の天灯鬼・龍灯鬼立像が残っている。もと西金堂に安置されていた。仏前に灯篭をささげる一対の鬼をかたどったものである。天灯鬼は左肩で灯篭を担ぎ、龍灯鬼は頭の上に灯篭を乗せている姿だ。龍灯鬼像内から出た銘文には、建保三年(1215)仏師法橋康弁が作ったと記されていた。

毘沙門天像:湛慶

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湛慶の作品として今日伝わっているものは、蓮華王院の諸像のほか、高知の雪蹊寺にある毘沙門天像及び吉祥天、善膩師童子の諸像である。毘沙門天像の足部の墨書銘によれば、これら三像は法院湛慶によって造立されたとなっている。湛慶が法院になったのは建暦三年(1213)のことだが、それから建長三年(1256)に没するまでの何時の時点でこれらを作ったのか、くわしくは判らない。

蓮華王院中尊千手観音像:湛慶

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運慶には六人の子どもがいて、みな仏師となった。そのうち今日作品が確実に残っているのは、長男の湛慶、三男康弁、四男康勝の三人である。これらの息子たちが中心となって、慶派の本流を支えた。京都蓮華王院の千躰千手観音以下の諸像は、彼らの集大成と評価されている。もっとも蓮華王院の諸像は、慶派のほか、院派や円派などもかかわっており、当時の仏師を総動員しての壮大な事業であった。

地蔵菩薩立像:快慶

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快慶は、建仁三年(1203)の東大寺僧供養の際に法橋となった。この地蔵菩薩立像は、「巧匠法橋快慶」の署名が右足部に刻まれており、快慶の法橋時代の作品で、唯一現存するものである。

文殊菩薩騎獅像:快慶

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文殊菩薩騎獅像は、奈良の文殊院の本尊として作られた。文殊院は大化の改新時代の官僚安倍倉梯麻呂の氏寺として創建された寺で、安倍文殊院とも呼ばれている。この像は寺の本尊として、善財童子以下の眷属四像をしたがえ、獅子に騎乗した姿であらわされている。獅子は本来文殊の乗り物である。

僧形八幡像:快慶

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快慶は、建仁年間(1201-03)に作風の転換期を迎え、中期の段階に入ったといえる。いまだ前期同様安阿弥陀仏の署名をしてはいるが、その作風には、前期の特徴である写実に加え、優美繊細さが目だってきた。これは、この時期の快慶が、宋風、藤原彫刻、奈良の伝統的な様式を丹念に取り入れたことの結果だったと考えられる。こうした試みを通じて快慶は、運慶とはまた違った、彼独特の作風を確立していった。

浄土寺阿弥陀如来像:快慶

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快慶初期の傑作のひとつに、浄土寺の阿弥陀三尊像がある。本尊の阿弥陀像が像高530cm、両脇時が370cmと、非常に規模の大きな仏像である。「浄土寺縁起」によると、建久八年(1197)に丹波法眼懐慶によって作られたとあるが、この懐慶とは快慶をさす。「丹波法眼」とした理由はよくわからない。

醍醐寺三宝院弥勒菩薩像:快慶

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快慶は、康慶の弟子として、運慶とは兄弟弟子にあたる。運慶と共に東大寺南大門仁王像を造立したことに象徴されるように、鎌倉彫刻の全盛期において、運慶と名声を二分した。南大門仁王像を共同制作したことなどで、彼らの作風に共通点ばかり強調される傾向があるが、その作風には微妙な違いが指摘できる。単純化して言うと、男性的な荒々しい作風の運慶に対して、女性的で優雅な作風の快慶ということになろうか。両者に共通しているのは、リアリズムを貫いているという点である。

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