日本の美術

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(高輪うしまち)

東海道は、泉岳寺のあるあたりで、海に面して、片側だけに町屋がある片側町になっていた。そのあたりを車町、あるいは牛町といった。寛永十一年(1634)に、増上寺の造営にともない、京都から牛持ち人足が呼び寄せられ、建築材料の運搬に従事させられ、そのままこの地への定住を許されたことから車町とか牛町とか呼ばれるようになったのである。
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(79景 芝神明増上寺)

増上寺は浄土宗の関東大本山だが、徳川家の菩提寺でもあったので、江戸市内では上野の寛永寺と並んで繁栄を誇った。その増上寺に隣接して、大門の向かって右側に芝神明神社がある。毎年九月に行われる祭礼は、十日間も続くので、だらだら祭と呼ばれた。また、この時期には秋の長雨と重なるところからめくされ祭とも呼ばれた。

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(77景 鉄砲洲稲荷橋湊神社)

八丁堀が隅田川に注ぐ河口のあたりに細長い洲があって、鉄砲洲と呼ばれた。ここで大砲の演習をしたことに基づく。鉄砲洲の一角に稲荷神社があって、別名を湊神社とも波よけ神社ともいった。現在でも存在する。

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(75景 神田紺屋町)

徳川時代の神田一帯には職人町が形成されていて、職域ごとに住んでいた。町の名は、その職業を反映したもので、紺屋町には紺屋の集団が集まっていたのである。この他、鍛冶町(鍛冶屋)、大工町(大工)、白壁町(左官)、雉子町(木地師)、須田町(果物)などがあった。

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(73景 市中繁栄七夕祭)

この絵からが、秋の部。市中とあるだけで、場所の明示はないが、おそらく広重が住んでいた南伝馬町あたりだろうと思われる。そのあたりは賑やかな商業地で、この絵にあるような蔵が櫛比していたし、南西の方角には富士がよく見えた。
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(71景 利根川ばらばらまつ)

利根川ばらばらまつとあるところから、利根川のどこかを描いたものだろうが、場所が特定されていない。投網の様子が描かれているが、徳川時代には、この漁法は河口から五十丁(約五キロ)まで許可されていた。それを前提にすれば、利根川の河口、つまり銚子から遠くないところということになるが、それだと江戸からは完全に別の世界だ。このシリーズには相応しくない。

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(69景 深川三十三間堂)

深川三十三間堂は、富岡八幡宮の東側にある運河沿いに立っていた。京都の三十三間堂を真似たものが浅草にあったが、それが元禄十一年(1698)の火事で焼けたので、同十三年(1700)に深川に再建された。規模は京都の三十三間堂と同じで、運河を背にして南北方向に立ち、西側を向いていた。

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(67景 逆井のわたし)

逆井の渡しは旧中川にあったもので、今の大島と西小松川を結んでいた。竪川に沿った佐倉街道の渡し場だった。佐倉街道は小松川から小岩を経て市川に向っていた。千住大橋ができると、千住を経由して小岩へ出る道が開かれ、それが佐倉街道と呼ばれるようになったので、逆井の渡し付近は元佐倉街道と呼ばれるようになった。

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(65景 亀戸天神境内)

亀戸天神は、正保三年(1646)に太宰府天満宮から勧請したのが始まりというから、比較的新しい。太宰府天満宮を模した社殿とか、心字池や太鼓橋を配し、東の大宰府などと呼ばれた。境内には、天神のシンボル梅のほか、藤が植えられ、そちらのほうが人気を博した。毎年初夏に藤が咲くと、大勢の人々が花見に訪れた。かの正岡子規も病身に鞭うって藤見物に来た。

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(63景 綾瀬川鐘か淵)

綾瀬川は埼玉県内を流れ、墨田川が千住大橋の先で大きく湾曲する部分に流入している。いまでは荒川放水路によって、綾瀬川本流はそちらのほうへ合流してしまい、河口付近の一部が盲腸のような形で残っているに過ぎない。その盲腸部分のやや下流にあるのが鐘ヶ淵村だ。かつて鐘紡の工場があった。

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(61景 浅草川首尾の松御厩河岸)

首尾の松とは、浅草御蔵の一角にあった松の木を言う。浅草御蔵は浅草橋を出て数丁行った先の墨田川沿いにあった蔵で、幕府の直轄地から収められた年貢米を貯蔵していた。この年貢米を旗本や御家人に分配する仕事を請け負ったのが札差。かれらは後に、扶持米を担保にして、旗本たちに金を貸し付けたりして、巨富を築いた。

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(59景 両国橋大川はた)

両国橋は明暦の大火(1657)の教訓から、寛文元年(1661)に架けられた。当初は大橋と呼ばれていたが、武蔵、下総の国境にあるところから、両国橋と呼ばれるようになった。その両国橋から霊岸島にかけての墨田川右岸を大川端と呼んでいた。

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(57景 みつまたわかれの淵)

隅田川が新大橋の下流で大きく湾曲するあたりに中州という地名がある。かつてはその名の通り周囲を水に囲まれた中州があった。一旦は埋め立てられて、そこに両国と並ぶ歓楽街が出来たが、墨田川が度々氾濫するので、水流をスムーズにする目的で西側が掘削され、再び中州になった。
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(55景 佃しま住吉の祭)

佃島は漁師の島である。家康が摂津の佃村から呼び寄せた漁師たちが、江戸湾の隅田川河口にあった洲を埋め立てて島を造成し、そこを故郷の名にちなんで佃島と名づけた。漁師たちは、漁をして生活する一方、魚介類や海苔を醤油で煮しめたものを自家用の保存食に作っていたが、これが市中にも出回るようになると、佃煮と称されて人気を博した。

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(53景 増上寺塔赤羽根)

芝増上寺は上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提寺。歴代将軍のうち六人の墓がある。浄土宗の大本山として、京都の知恩院をしのぐ勢いがあった。その増上寺の南西に赤羽根川が流れ、その一角に赤羽根橋がかかっていた。

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(51景 麹町一丁目山王祭ねり込)

半蔵門から四谷を経て新宿に延びる通りを今では新宿通りというが、徳川時代には麹町といった。甲府へ向かう道であるところから甲府路(こふじ)といい、その起点にあることからこふじまちと言った。起点から四谷見附までが十丁、四谷の外側に三丁あった。

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(49景 王子不動之滝)

王子不動の滝は現存していない。いま北区役所があるところと、正受院という寺との間にかかっていたという。このあたりを流れる石神井川は、両岸をうがっていたので、そこに深い谷間が出来、滝がいくつかかかっていたという。そこからこのあたりの石神井川を滝野川と称した。不動の滝はそうした滝の一つ。

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(47景 昌平橋聖堂神田川)

神田川は当初日本橋川に合流していたが、洪水対策のため、浅草方面へ流れるように付け替えられた。その際に、神田山と呼ばれた台地(いまの駿河台)を掘削し、御茶ノ水あたりに谷間の地形が出来た。この谷間は小赤壁とか、茗渓とか呼ばれるようになった。

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(45景 八ツ見のはし)

八ツ見橋という名の橋はいまは存在しないが、外堀から日本橋川が別れるところにかかっていたというから、いまの呉服橋のあるあたりにかかっていたと思われる。呉服橋という名の橋もあって、それは日本橋川ではなく、外堀に門と一体となってかかっていた。

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(43景 日本橋江戸ばし)

43景から夏の部に入る。その夏の冒頭も日本橋の景色である。この絵は、日本橋の上から、下流の江戸橋方面を眺めた構図。日本橋の欄干が大きく描かれ、背景との間でアンバランスなコントラストを演出させるところは、広重一流の遠近法である。

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