日本の美術

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「白鵞遊魚図」と題するこの絵を、崋山は文政六年(1823)に田原藩主に献上したと思われる。款記に「臣渡辺登謹写」とあるからである。崋山は、文政二年に和田倉門の修築工事監督を仰せつかって、文政六年にその仕事を終えた。この絵は、その崋山をねぎらう藩主の謁見のさいに、献上されたのであろう。

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佐藤一斎像は、崋山の若い頃の肖像画を代表する作品。細緻な描写に努める一方、陰影を表現するなど、後年の肖像画の傑作に共通する特徴が見られる。

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渡辺崋山が肖像画を本格的に手掛けるのは天保時代に入ってからだが、若い頃にも、求められれば応じていたようだ。「坪内老大人像」は、安政元年(1818)、崋山二十五歳の時の作品である。これは一幅に仕立てあがった正本が存在するが、それよりこの稿本のほうが有名になっている。

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若い頃の崋山の絵には、中国風のものが多い。崋山の師匠金子金陵が清の画家沈南蘋の影響を強く受けていたというから、そのせいかもしれない。日本画は、時代時代で大陸絵画の影響を受けてきたものだ。崋山はやがて、西洋絵画の技法をも意識的に応用するようになるが、若い頃にはもっぱら大陸の絵画を模範にしていた。

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渡辺崋山には、風俗をテーマにした作品もある。文政元年(1818年)の作品「一掃百態」は、その代表的なものだ。これは、鎌倉時代以降の古風俗および当世の風俗を描いたもので、いづれも軽快なタッチを感じさせる。崋山はその頃、行燈の張り紙に絵付けする内職をしていたが、その際に用いた軽快なタッチを、この作品にも生かしているという。

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渡辺崋山は幼い頃から絵が好きだった。また非常にうまかった。最初は自己流で描いていたが、十六歳の時に、儒学の師鷹見星阜のすすめで画家白川芝山に入門した。だがすぐに排斥された。付け届けがないという理由からである。崋山の家は貧しかったので、息子の授業料もまともに払えなかったのだろう。

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渡辺崋山といえば、蛮社の獄で政治的な弾圧を受け、それがもとで自殺に追い込まれた不幸な学者として、また、日本の近代化の先駆者といったイメージが強い。たしかに崋山は、政治的な人間としての側面が強かったが、また画家としてもユニークな業績をあげた。崋山が自殺したのは天保十二年のことであり、日本はまだ本格的な開国への動きは見せていなかったが、崋山は諸外国の動きを、蘭学を通じて認識し、かれなりの危機意識をもっていた。その危機意識が蛮社の獄を招き寄せたのだといえる面もある。

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(117景 湯しま天神坂上眺望)

湯島天神の歴史は古く、南北朝時代に遡る。京都の北野天満宮から勧請してきたものだ。祭神は学問の神菅原道真。亀戸天神とともに、受験の合格を祈願する学生達が絵馬を献上する姿が毎年見られる。

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(115景 高田の馬場)

高田馬場の名は越後高田にちなむ。高田藩主となった家康の六男忠輝の生母高田殿が、ここに庭園を開き、そこに家光が馬場を作らせ、馬術の練習所とした。そこから一帯の土地が高田馬場と呼ばれるようになった。

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(113景 虎の門外あふひ坂)

赤坂の溜池が外堀と接するところは段差になっていて、ちょっとした瀑布状を呈していた。また、その瀑布に沿って勾配状になっており、あふひ坂と呼ばれた。

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(111景 目黒太鼓橋夕日の岡)

目黒の太鼓橋は、目黒駅から行人坂を下って目黒川にかかっている橋。横から見ると太鼓のように見える石造りの橋である。江戸市中で石造りの橋は珍しかったから、人びとが目黒不動に参るついでに訪れたようだ。

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(109景 南品川鮫洲海岸)

南品川あたりの海岸地帯を鮫洲といった。いまでは陸運事務所や高専がある場所として知られているが、徳川時代には海苔の産地として有名だった。海苔はもともと墨田川の河口で養殖されていたが、江戸の市街地の拡大で需要が増えると、品川沖が一大産地となった。その品川沖でとれた海苔が、どういうわけか浅草海苔と呼ばれるようになったのである。

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(107景 深川洲崎十万坪)

深川は、墨田川右岸の湿地帯を埋め立てて陸地になったところだ。深川八郎右衛門なるものが家康の命で埋め立てたところから、深川と呼ばれるようになった。埋め立てはユニークな方法を用いた。地区に縦横に水路を掘り、その掘った土を湿地に埋め戻したのである。これによって、水運を担う水路と陸地が二つながら得られたわけである。

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(105景 御厩河岸)

御厩河岸は、墨田川右岸の吾嬬橋と両国橋の中間程のところにあり、いまの厩橋の浅草側の橋詰あたりをさした。このあたりに幕府の厩があったので、御厩河岸と呼ばれるようになった。

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(103景 千住の大はし)

千住は奥州街道の一つ目の宿場であった。また日光街道や水戸街道も千住を通ったので、交通量は非常に多かった。参勤交代でこの宿場を利用した大名の数は、64家に及んだ(寛永期の場合)。そこで家康は、防衛上の観点から江戸の周囲に橋を設けない方針にかかわらず、ここだけは橋を作らせた。千住大橋である。

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(101景 浅草田甫酉の町詣)

吉原は周囲に田甫が広がっていた。浅草田甫という。その西南方向の一角に、お酉さまで有名な鷲神社があり、毎年十一月の酉の日に祭礼が行われ、酉の市が催された。酉の市では、熊手のほか、ヤツガシラの芋とか、黄金餅などが、縁起物として売られていた。いまでも、熊手は商売繁盛のまじないとして人気がある。

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(99景 浅草金龍山)

ここから先が冬の部。金龍山は浅草寺の山号。大昔に天からこの地に金鱗の龍が舞い降りて来たという伝説にちなんだもの。浅草寺は大化元年(645)の創建で、江戸でもっとも古い寺だ。徳川時代には、大勢の庶民を引き寄せたが、それには周辺にあったいくつかの遊興施設が大いに働いていた。

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(97景 小奈木川五本まつ)

小奈木川は小名木川とも書く。行徳の塩を江戸に運ぶことを目的に掘られた運河である。行徳の塩は、江戸川から堀川を経て中川に至り、さらに小名木川を通って隅田川に出たのである。この運河を開削したのは小名木四郎兵衛だったので、彼の姓をとって小名木川と名づけられた。

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(95景 鴻の台とね川風景)

鴻の台は、江戸川の下流、いまでいえば千葉県の市川市にある高台である。付近に下総の国府があったことから国府台と呼ばれたのが始まりだが、台地の下を流れる川にコウノトリが飛来したことから鴻の台とも呼ばれた、

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(93景 にい宿のわたし)

にい宿のわたしとは、旧日光街道が亀有で中川をわたるところに設けられていた。旧日光街道は、千住大橋を超えたところで奥州街道から別れ、亀有を経て日光方面に向かっていたのである。このわたしを渡ったところの宿場を新宿と言った。

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