日本の美術

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「百馬図帖」は、雪村が鹿島神宮に奉納したもの。画帳に馬の絵を貼り付けたもので二種類ある。一つは横長の図面を貼り付けたもの、もう一つは縦長の図面を貼り付けたものである。奉納の時期は記されていないので明らかでないが、雪村が小田原に滞在した頃に、北条氏の武運を念じて奉納したと考えられている(鹿島大神宮は武神である)。そうだとすれば、天文17年前後ではないか。

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「楊柳水郭図」は、中国の画風に倣った初期の作品。江岸の楊柳の陰で、碧水に浮かんだ水郭を描いたこの絵の構図は、伝馬遠作「周茂叔愛蓮図」を基にしていると思われる。構図を借りながらも雪村は、動静と陰影を加え、自分らしさを表現している。

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「辛螺に蘭図」は、落款に「中居斎雪村老翁筆」とあるところから、雪村四十歳頃の作品と考えられる。当時は齢四十をもって老人と称するのが普通だったからだ。モチーフは、辛螺の貝殻に植えられた蘭の花。辛螺は田螺に形の似た巻貝で、そんなに大きくはない。そこに欄を植えるというのだから、小さな種類の蘭なのだろう。

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雪村の初期作品としては、いくつかの動物図がよく知られている。これはそのうちの一点。茶色の絹本地に、水墨と岩絵具で、兎、芙蓉、竹を精緻に描いている。水墨は輪郭を描くほか、影をつけるのにも使っている。その輪郭線の内部を、岩絵具で丁寧に塗っている。芙蓉の花の色は胡粉で表現している。

雪村の世界

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雪村は雪舟と並んで室町時代の日本の水墨画を代表する画家である。雪村に私淑してその名の一部を借用したほど尊敬していたが、雪舟と会ったという記録はない。雪村が生まれたのは雪舟より六十四年もあとのことであり、雪舟が死んだとき雪村はまだ二歳だったのである。にもかかわらず雪村は、雪舟の絵をこよなく愛し、自分も又その画風にあずかろうと願って雪村と名乗ったのであろう。

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達磨は禅宗の開祖であるから、禅僧たちによってその像が描かれてきた。達磨像のポーズにはいろいろのものがあるが、もっとも多いのは、上の絵のような半身像であり、大きな目をぎょろりと向いている姿である。この絵は、こうした構図の達磨像の最も初期のもの。作者は墨渓である。

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二天は剣豪宮本武蔵の雅号で、水墨画の印として用いていた。また武蔵の剣法の流儀名として二天一流と称した。武蔵は剣法家ではあるが、絵や彫物にも才能を示し、素人の余技ながら優れた作品を残している。徳川時代初期の人ではあるが、室町時代の墨画の延長として、ここに紹介しておきたい。

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室町時代には、相国寺を中心とした禅僧たちによる芸術アカデミーと並行して、将軍の近侍として仕える同朋衆と呼ばれる者たちも、独自のサークルを作っていた。彼らは、もともと将軍の身辺をめぐる雑役に従事していた者たちだが、その中には絵師、工芸師、庭師、能・狂言師など特技を持った芸能人の一団があった。彼らは禅僧と比べて身分は低かったが、将軍の権威を背景にして、一定の勢力を誇っていた。

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文清は15世紀半ばに活躍した人で、周文の弟子筋にあたり、松
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赤脚子は霊彩同様、東福寺系の明兆一派に属する画僧だったと考えられる。十点余りの作品が伝わっており、いづれも赤脚子印を押してある。生涯の詳しいことはわかっていないが、その作品には、建仁寺の古心慈柏や東福寺の愚極礼才の賛がある。

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霊彩は、室町時代中頃に活躍した禅宗系の画僧。東福寺を拠点とした明兆の後継者的な位置づけの人である。詳しいことはわかっていないが、朝鮮側の文献から、寛正四年(1643)に外交使節として朝鮮を訪れ、その際に自作の「白衣観音図」を朝鮮王世宗に献上したとある。朝鮮王は代々儒教を信奉していたが、この世宗だけは仏教への信仰があつかった。そのことを知った霊彩は、白衣の観音図を自ら描いて献上し、世宗の歓心をかったというわけであろう。

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周文は如拙の後継者として、相国寺を中心とした官学アカデミーの主催者的な立場にあった人である。また足利将軍家お抱え絵師として、幕府から俸禄を貰っていたようだ。要するに一時代における日本画壇のリーダーであったわけだ。しかしその割に彼の作品ははっきりしない。現存する作品として、周文の真筆と断定できるものは一点もないのである。そんななかで、周辺的な証拠を手掛かりに、周文の作品と思われるものの発掘がなされてきたが、決定的なものは現われておらず、伝周文作と呼ばれるものが、何点かあげられるに過ぎない。

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如拙は室町時代の中頃に京都の相国寺を舞台に活躍した画僧である。当時相国寺は、足利幕府との関係が深く、相国寺の画僧たちは幕府の保護も受けて、いわば官学アカデミー的な立場を築いていた。如拙はそのアカデミーの主催者のような地位にあり、彼の下からは周文やその弟子格の雪舟といった、室町時代の日本画を代表する画家が輩出した。

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明兆(1352-1431)は、室町時代中期の日本水墨画を代表する画家。東福寺を拠点として活躍し、多くの弟子を育成するなど、当時の画壇の中心的な存在として知られ、足利四代将軍義持からも愛された。

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良全は、可翁よりややあとの時代に東福寺を拠点に活躍した画僧だったと思われる。生涯の詳細は明らかでないが、その作品に乾峯士曇の賛があることから、臨済宗と深いかかわりがあったと推測される。また、その落款に海西人良全筆とあり、海西が九州をさすことから、九州出身だとも推測される。乾峯士曇は一時博多の禅寺にいたことがあるから、その時に乾峯士曇と知り合い、一所に京へ出てきたのかもしれない。

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鉄舟徳済は室町時代前期の臨済宗の僧侶。夢窓疎石に師事し、後には入元して、月江正印らのもとで参禅した。帰国後は、京の天龍寺、万寿寺に住し、禅の傍ら水墨画を楽しんだ。水墨画は元で学んで来たもので、禅の余技としてたしなんだようである。可翁とは元で見知りになったと思われる。鉄舟はまた、草書の名人としても有名であった。貞治五年(1366)に亡くなっている。

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黙庵は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての禅僧で、嘉暦(1326-28)頃に入元し、至正五年(1345)彼の地に没した。かれの入元の目的は、当時人気のあった禅僧古林清茂に師事することだったが、古林はすでに死去していたので、その弟子の了庵清欲に師事した。禅を体得するかたわら、水墨画を楽しみ、かれの死後それが日本に輸入された。日本では長らく黙庵を、中国人の高僧と思い込んでいたが、大正時代に日本人と判明し、以後可翁と並んで、日本の初期の水墨画を代表する画家という位置づけが与えられた。

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可翁は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。我が国の水彩画の伝統の先駆者ともいえる存在である。初期の水墨画は禅寺を舞台にして展開されたが、可翁も東福寺所縁の禅僧だったと思われる。その画風は禅味を感じさせるもので、我が国初期の水墨画が、それ以前の白墨画と呼ばれるものから、本格的な水墨画に移行していく結節点のような位置付けがなされている。

日本の水墨画は中国の影響を強く受けながら発達した。鎌倉時代には、白画といって、線描主体の絵が中心だったが、室町時代に入ると本格的な水墨画が描かれるようになり、雪舟において芸術的な頂点に達する。安土桃山時代には、狩野派や長谷川等伯のような名手を出し、徳川時代にも綿々とその流れは続いた。そうした日本の水墨画の歴史にあって、室町時代は大きな転換期といえる時期だ。

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百鬼夜行絵巻は、だいたいが朝日を最後に描いている。妖怪たちは、日の出のやや前に籠から抜け出してさまよい歩き、日の出とともに籠に戻るというのがパターンだった。真珠庵本も、そのパターンにしたがい、巻物の最後に朝日を描いている。

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