日本文化考

正法眼蔵第四十八は「法性」の巻。法性という言葉は、法華経に出てくる「諸法実相」とほぼ同じ意味の言葉。あらゆる存在の存在たる本質をさす。岩波の仏教辞典には、「事物の本質、事物が有している不変の本性を意味する」とある。道元がこの言葉を使う時には、単に存在の本質といったことだけではなく、すべての存在には仏となるべき資質が備わっていると考えているようである。かれはこの巻の後半を馬祖の批判にあてるのであるが、それは馬祖が法性を単に存在の本質としてとらえ、存在に本来備わっている仏となるべき素質を無視していると考えるからだ。そんなわけだから、道元がいうところの法性は仏性に非常に近い概念である。

正法眼蔵第四十七は「仏経」の巻。仏経とは仏教の経典のことをいう。その経典を道元はここでは仏教修行者がもっとも大事にすべきものだと説く。仏教の修行はまずお経を読むことを優先すべきだというのである。このようなお経優先の思想は、それ以前の道元の姿勢との違いを感じさせる。道元はお経を読むことを看経と呼んでいるが、その看経より只管打座を優先してきたのではないか。仏教修行は只管打坐に尽きるという道元の考えは、弟子の懐奘が隋聞記のなかで繰り返し強調しているし、また道元自身も只管打坐をもって仏教修行の眼目だと言ってきた。それがこの巻では、お経を読むことこそが仏教修行の王道だと断言するのである。われわれはそこに、道元の心境の変化のようなものを見る。道元がこの巻を示衆したのは、43歳の時で、吉峰寺においてであった。この時期の道元は非常に活発な布教活動をしており、正法眼蔵所収の巻の多くがこの時期に書かれている。盛んな布教にあたっては、弟子たちに只管打坐を進めるとともに、仏教経典を読むことも進めたに違いない。そうした事情が働いて、お経の意義をことさらに強調したのではないか。

正法眼蔵第四十六は「無情説法」の巻。無情は有情に対する。有情が心をもった生きとしいけるものをいうのに対し、無情は心をもたない草木瓦礫などの無生物のことをいう。その無生物たる無情が説法するとはどういうことか。それを考えることで、説法の意義を明らかにすることがこの巻の目的である。要するに、説法があるということを前提としたうえで、その説法とは何かについて原理的な考察を加えるのである。

正法眼蔵第四十五は「密語」の巻。密語は一般的な仏教語ではなく、伝灯録中の雲居山弘覺大師の言葉からとったもの。そこには、「世尊に密語有り、迦葉覆藏せず」とある。そこでこの言葉の意味するものは何か、について道元なりの解釈をするというのがこの巻の趣旨である。

正法眼蔵第四十四は「仏道」の巻。仏道という言葉は仏教とほぼ同義、要するに仏の教えのことである。その教えはただ一つであり、禅宗とかいった宗派を唱えるのは外道であると主張する。近年はその禅宗の中でも、法眼宗とか臨済宗とかいわゆる五派と称されるものが横行している。これもまた外道であるから排斥せねばならぬ。本来の仏道は、釈迦牟尼が説いたものをそのまま正伝すべきなのであって、後世の人間が勝手に変えるべきではないというのが、この巻の趣旨である。

正法眼蔵第四十三は「諸法実相」の巻。諸法実相は法華経方便品に出てくる言葉である。法華経は、浄土系の宗派をのぞき、ほぼすべての仏教宗派が尊重している経典であり、なかでも方便品はもっともよく読まれているお経なので、そのお経の中核理念というべき諸法実相は、仏教に親しんだものなら知らないものはいない。そこでこの諸法実相という言葉の意味だが、一般的な理解では、もろもろの存在の本来のあり方をいう。岩波仏教辞典は「すべての事物(諸法)のありのまま(自然の姿)、真実のありようをいう」と定義している。諸法がすべての存在をさし、実相はその存在のあるがままの姿とするのである。

正法眼蔵第四十二は「説心説性」の巻。説心説性は、一般的な仏教用語ではなく、洞山悟本大師が言ったとされる言葉である。洞山悟本大師は曹洞宗の始祖であり、道元にとっては最も重要な仏祖であるから、その言葉を道元はことさらに重視していた。この巻は、そんな洞山悟本大師の味わい深い言葉の一つを取り上げる。

正法眼蔵第四十一は「三界唯心」の巻。三界唯心とは華厳経のなかに出てくる言葉で、文字通りには世界のすべては心の中にあるという意味だ。世界の根拠を心の中に求めるというのは、唯心論的な発想で、のちにその考え方を唯識派が体系化した。道元には、唯識派への傾向がうかがえるので、この巻は、かれの唯識派的な思想を展開したものかといえば、そう単純ではない。かれは、一方では、三界は心というのではないと繰り返し述べているからである。基本的には、三界を心の所産としながらも、その心を普通の意味での人間の心としてではなく、仏の心の世界というふうに捉えていたようである。仏の心の中に展開されるもの、それが三界なのだというのである。仏という言葉には、具体的な人間ではなく、抽象的な原理という面もあるから、その抽象的な原理としての世界のあり方を、三界唯心という言葉で表現したのであろう。

正法眼蔵第四十は「栢樹子」の巻。栢樹子は趙州眞際大師の有名な公案「庭前の栢樹子」を踏まえたもの。ある僧が大師に向かって「如何ならんか是れ師西來意」と問うたところ、大師は「庭前の栢樹子」と答えた。僧は、自分はそんな外面的な答えを期待したわけではないと疑義を呈し、重ねて「如何ならんか是れ師西來意」と問うと、大師はあいかわらず「庭前の栢樹子」と答えた。このやりとりについて、その意義を道元は考察するのである。

正法眼蔵第三十九は「嗣書」の巻。嗣書とは、嗣法の正統性を証明する書類のこと。嗣法とは、師から弟子へと仏教の教えが伝達されることを意味する。そういう意味での嗣書は、すでに取り上げた「伝衣」と似ている。伝衣は、教えの伝授にともない、法衣の付与がなされることを意味した。嗣書は、嗣法を書類の形で証明するものなので、伝衣より強いインパクトをもつ。

正法眼蔵第三十八は「葛藤」の巻。葛藤という言葉は、現代日本語では心の揺れを意味するが、道元はそうした意味では使っていない。文字どおり、からまりあった葛や藤の蔓という意味で使っている。仏教の伝授をその言葉で意味するのである。そう使うのではあるが、蔦や藤の蔓が絡まりあった様子を、否定的に捉えるものが、道元の時代にもあった。道元はそうした捉え方を否定して、葛藤という言葉を肯定的な意味合いで捉えようとしたのである。

正法眼蔵第三十七は「春秋」の巻。正法眼蔵の各巻は、基本的には、冒頭で巻の題名の趣旨を説明するのであるが、この巻については、春秋という題名の趣旨への言及はない。この巻は寒暑についての、洞山の言葉を中心に展開する。だから「寒暑」と名付けてもしかるべきところ、なぜ「春秋」にしたのか。道元の意図を知ることはむつかしい。題名ばかりではない、書かれていることの内容もなかなかむつかしい。

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先日NHKの能楽番組で、狂言「文蔵」を放送したのを見た。これは大名狂言の一つで、シテの長々とした語りが売り物の曲である。そのシテを人間国宝の山本東次郎が演じていた。

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能「忠度」は、一の谷で戦死した平家の武将忠度の和歌へのこだわりと、壮絶な戦死をテーマにした作品。申楽談義には、「通盛、忠度、義経三番、修羅がかりにはよき能なり。このうち忠度上花か」とあるので、世阿弥にとって自信作だったのだろう。またの名を「薩摩守」ともいう。そこから「ただ乗り」を薩摩守というダジャレが生まれた。

正法眼蔵第三十六は「阿羅漢」の巻。阿羅漢とは小乗の聖者のことをいう。大乗では伝統的に小乗を軽視し、その小乗の聖者である阿羅漢も、大乗の菩薩と比較して下に見るというのが普通であるが、道元はそうは見ない。阿羅漢も仏教の修行者としてそれなりに評価している。もっとも阿羅漢を以て、修行者の究極的な姿とは見ない。だが道元は、仏になったからといってそれに安住することをいましめ、仏の先の境地(仏向上事)を目指せといっているくらいだから、阿羅漢もその境地に安住していては堕落する、一層先の境地を目指すべきだと言いたいのだろうと思う。

正法眼蔵第三十五は「神通」の巻。神通は神通力ともいわれ、超自然的なことを行う能力というような意味で受け取られることが多いが、道元はそれを、仏教者にとっての日常茶飯事だという。この巻は「かくのごとくなる神通は、佛家の茶飯なり、諸佛いまに懈倦せざるなり」という言葉で始まっている。その意味は、これから取り上げる神通とは、仏教者にとっては日常茶飯事なのであり、仏たちが懈怠なく行ってきたものだということである。

正法眼蔵第三十四は「仏教」の巻。仏教という言葉を道元は、ここでは三乗十二分教という形をとった具体的な教義の体系という意味で使っている。それを巻の冒頭で次のように表現している。「諸佛の道現成、これ佛教なり」。諸々の仏の言葉が実現したもの、それが仏教だというのである。諸々の言葉が実現したものは、三乗十二分教というかたちで表されている。だから仏道を学ばんとするものは、三乗十二分教を学ばなければならぬ。

正法眼蔵第三十三は「道得」の巻。この巻を理解するためには「道得」という言葉の意味を分かっていなければならない。「道」は「言う」を意味する。だから「道得」は「言うことができる」という意味である。何を言うかといえば、真理をである。真理を言うことができる、それが「道得」である。これを名詞形にすると、真理を言うこと、真理の表現ということになる。

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令和5年6月博多座の歌舞伎公演から、尾上菊之助が左官長兵衛を演じた「人情噺文七元結」と中村鴈治郎と片岡愛之介共演した「太刀盗人」を、NHKが放送したのを見た。

正法眼蔵第三十二は「伝衣」の巻。伝衣とは仏衣の伝承という意味だが、同時に仏法の正伝を意味する。仏衣が仏法の象徴として捉えられているのである。その仏衣は、ひとつには釈迦牟尼以来代々の仏祖の間で直接伝えられてきたものと考えられる一方で、普通の庶民が着るべきものとも思念される。前者は国の宝といわれ、後者は修行者を導く働きを持つと考えられる。

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