日本史覚書

中江兆民「一年有半」

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中江兆民が死んだのは明治34年12月13日のことで、死因は喉頭癌だった。最初癌の症状に気づいたのは前年明治33年の11月のことだったが、その折には喉頭カタルくらいに見くびって油断していた。ところが翌年の春、関西に旅行したところ、症状がひどくなって苦痛に耐えられぬので、医師に治療を仰いだ。そこで喉頭癌だと宣告され、余命は一年半、よく養生すれば二年だろうと言われた。本人としては、たかだか半年くらいの寿命だろうと観念していたところ、一年半の猶予を与えられたと受け取り、その一年半を有意義に使おうと決意した。どう使うかは迷いがなかった。日頃胸中に温めていた思いを吐露し、以て文人たるの意気を示さんとすることだった。こうして兆民は、遺書というべき著作「一年有半」および「続一年有半」をしたためたのである。そして、この両書の完成と刊行を見届けて、その年のうちに死んだ。享受した余命は一年有半ではなく、たかだか半年だったが、兆民としては一年有半におとらぬ充実した日々だったろうと思われる。

新渡戸稲造「武士道」

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「武士道」は、新渡戸稲造が病気療養の為滞在していたアメリカで、1899年に、英語で書かれた。ということは、欧米の読者に向けて書かれたということだ。当時の日本は、日清戦争で勝ったこともあり、欧米での評価も次第に変わりつつあったが、やはり半文明の段階にあって、基本的には野蛮な連中の国だという認識が強かった。そして日本人の野蛮な行動は、武士道によって支えられている、といった間違った認識が広がっていた。新渡戸はそうした認識を正し、武士道の正確な理解と、それを行動原理としている日本人のすばらしい生き方についての認識を、欧米社会に向かって促したといえるのではないか。

内村鑑三「基督信徒のなぐさめ」

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「基督信徒のなぐさめ」は、内村鑑三の処女作である。出版したのは明治二十六年(1892)二月、内村が三十歳のときであった。内村はこの本で、人間は基督教を信ずる限りどんな逆境にも耐えられると主張した。彼が取り上げたその逆境とは自分自身のものだったが、彼はその自分自身が陥った逆境にもかかわらず、基督教になぐさめを見出したがために、逆境も気にならなかったと言い、人々にも基督教を信じるように呼びかけたというわけであろう。

「余は如何にして基督信徒となりし乎」は、内村鑑三が基督教の信仰を得たいきさつを書いたものである。彼が基督教の信徒になったのは札幌農学校在学中のことで、その時はまだ十代の若者ということもあって、完璧な信仰にはいたらなかったが、二十代前半でアメリカに留学し、そこで深く思索することを通じて本当の信仰を得た、その喜びを書いたものである。それ故この本は内村の信仰告白という面と、自分の青春時代を回顧した半生記という体裁を、併せ持っている。

内村鑑三「代表的日本人」

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内村鑑三が「代表的日本人」を書いたのは日清戦争の最中だった。彼はこの本を英語で書いた。ということは、当面の読者を日本人ではなく、外国人に想定していたわけである。何故そのような行為をしたのか。日清戦争は近代日本が起した最初の戦争ということもあって、国内には愛国的なムードが高まっていた。内村もそのムードに染まったらしい。彼は日本人が西洋人の考えているほど低級な国民ではなく、キリスト教を受け入れる基盤も有している。だからこそ今回の戦争にも道義がある。どうもそういうことを、対外的に主張したいというのが、内村の本意だったのではないか。

NHKの731部隊調査報道

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昨夜(8月13日)、NHKが731部隊(いわゆる石井部隊)に取材した調査報道番組を放送したのを、筆者は驚嘆の念を覚えながら見た。というのも、731部隊の問題は、日本史の最も恥ずべき部分であって、取りようによっては、従軍慰安婦問題よりもはるかに深刻な問題だ。今の日本の政権にとっては、絶対に触れられてもらいたくないことだろう。それをあのNHKが、正面から取り上げて、それを放送したのは、実に感慨深いことである。

三浦佑之「風土記の世界」

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風土記についての概括的な解説書がないことを嘆いていたところ、ユニークな古事記研究で知られる三浦佑之が、岩波新書という形で出してくれた。これを読むと、風土記成立の歴史的な背景とか、風土記全体を通じての特徴が、かなりの程度わかる。非常に啓発されるところが多い。これをきっかけにして、風土記の紹介が進むことを期待する。

幕末期の町奉行:戊辰物語

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「戊辰物語」には、幕末・維新期の町奉行について、けっこう興味深い記述がある。江戸の町方の治安は、南北の町奉行所が所管していたが、その規模が非常に小さなことに驚かされる。南北の違いは、管轄地域の違いではなく、江戸市中全体の治安を南北交替で担当した。今日の警視庁にあたるものだが、その組織たるや、南北それぞれ二十五人の与力と、百三十人の同心がいるのみ。正式の役人はこれだけで、その下にいる目明し、岡っ引きなどは、みな同心の私的使用人で公儀の役人ではない。それ故、公儀から報酬が出るわけではない。それらはたいてい料理屋の主人だとか博徒の親分で、二足のわらじを履いていたわけだが、公儀から手当てが出ないことを口実にして、公然と悪事を働いた。

戊辰物語を読む

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「戊辰物語」は、戊辰戦争の年から六十年後の戊辰の年に、東京日日新聞が戊辰戦争をはじめとした明治維新前後の出来事について、古老の回想を集めて新聞紙上に載せた記事を中核にし、それに、「五十年前」と題する、やはり古老の回想の聞き書きと、「維新前後」と題する、これは記者による記事らしいものが付属している。映画評論家の佐藤忠雄が岩波文庫版に寄せた解説によれば、この聞き書きには子母澤寛がかかわっていたらしい。子母澤は、明治維新を敗者の視点からとらえ、そうした視点から新撰組の行状を調べ、それを「新撰組始末記」という形で著したりした。従来とかく勝者である薩長藩閥の視点から見られていた明治維新を、別の視点から見たものとして、その後の明治維新観に一定の影響を及ぼしたものだ。そんな背景があるせいだろう、「戊辰物語」の本体には、新撰組への言及が多く見られるし、「明治維新前後」などは、ほとんどが新撰組についての記述である。

勝海舟の自己修練術

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勝海舟若い頃の学問修行にかかわる逸話といえば、オランダ語の辞書を買う金がないので、他人から借りた辞書をまるごと書き写したというのが有名だ。しかし本人は、蘭学を含めて、学問を体系的に学んだことはないと言っている。「おれは、一体文字が大嫌ひだ。詩でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とて何もしない」(氷川清話、以下同じ)と言うのである。勝海舟は、一応オランダ語を話せたようだから、これは謙遜かもしれない。

氷川清話を読む

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「氷川清話」は、吉本襄が明治三十一年に勝海舟の談話集と銘打って刊行したもので、吉本自ら勝から聞いた話を聞書きしたものや、勝が別途新聞雑誌等の場で行ったインタビューのようなものを集めたといわれていた。ところが敗戦後になって、江藤淳と松浦玲が本の内容に重大な疑義を呈した。この本の中には勝が言うはずのないことが書かれており、したがって偽作の疑いが強いというのが疑義の内容である。彼らは、吉本が利用したというインタビュー記事の原本にあたり、それと吉本の本とを比較することで、吉本による歪曲の実態を明らかにしたうえで、彼らなりに決定版と考えた「氷川清話」を刊行した。今日講談社学術文庫の一冊として出ているのがそれで、いまではこちらが「氷川清話」の標準版として読まれている。筆者もまたそれを読んだ。

福沢諭吉と勝海舟

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福沢諭吉と勝海舟の出会いは、万延元年(1860)のことだった。この年の咸臨丸での太平洋航海を、二人はともに体験した。海舟は教授方頭取(実質的な船長)という役職であり、福沢諭吉は軍艦奉行木村芥舟の従者(家来)という身分であった。そんなこともあるのか、海舟のほうは福沢にあまり敬意を払っている様子がなく、一方福沢の方は、例の「痩せ我慢の説」で海舟を厳しく糾弾したことに見られるように、海舟に対して敵愾心のようなものを持っていた。その影には、身分格差ということのほかに、人間的な反目があったのかもしれない。

西郷隆盛と勝海舟

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勝海舟は、薩摩とはつながりが深かった。それは海舟が長崎海軍伝習所時代に始まる。安政五年(1858)、海舟は伝習所の船で、南西諸島を視察した途次薩摩に立ち寄り、藩主斉彬に面会して、すっかり斉彬の人柄に感服した。その折に、西郷隆盛は斉彬に仕えており、海舟は隆盛とも親しくなった。それが縁で、海舟は薩摩とは結構うちくだけた関係を持つようになったようだ。

海舟座談を読む

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「海舟座談」は、巌本善治が晩年の勝海舟から聞書きした話を一冊にまとめたものに、海舟生前にかかわりのあった人物からの回想談を加えたものである。巌本は、教育者兼ジャーナリストで、どういういきさつから海舟と昵懇になったかよくわからぬが、晩年の海舟はこの男に気を許し、自分の生涯について色々語って聞かせた。海舟が死んだのは明治三十二年の一月十四日のことだが、そのわずか五日前の一月九日にも、海舟は巌本に会って、話を聞かせている。巌本が海舟から話を聞きたがったのは、その頃修史事業が活発になって、明治維新にかかわる資料の発掘が盛んになっていたことと、明治維新における海舟の行動に感心が集まっていたことを反映しているようだ。巌本とは別に、吉本譲が海舟の語録なるものを編集して「氷川清話」を出版したということもあった。

明治維新前後の神仏分離・廃仏毀釈の動きは、民俗信仰や芸能を含めた習俗行事の抑圧をもたらしたと安丸良夫は指摘する(「神々の明治維新」)。国体神学を通じて国民の精神的な統一を図ろうとする意図にとって、民俗信仰は迷信の巣窟として国家による国民教導を妨げるものであったし、習俗行事の多くは国民を怠惰にさせ、国家秩序を乱すものとして捉えられたというのである。

安丸良夫「神々の明治維新」

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明治維新前後に吹き荒れた神仏分離や廃仏毀釈運動。これは素人目には明治維新という歴史的激動期に現われた「奇妙で逸脱的なエピソード」のように見える。安丸良夫も「神仏分離や廃仏毀釈を推進した人々の奇妙な情熱は、どのように理解したらよいだろうか」と問うている。しかし安丸の考えによれば、この運動にも歴史的な背景と必然性のようなものがあったということになる。「神々の明治維新」と題したこの本は、それを裏付けようとする試みだ。

村上重良「国家神道」

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村上重良の「国家神道」は、国家神道研究の古典といってよいだろう。国家神道は、歴史的ないきさつもあって、客観的な視点からの分析がなかなか徹底されなかったきらいがあるようだが、村上のこの本は、国家神道の意義とその歴史的に果たした役割を、なるべく客観的に跡付けようとする姿勢に貫かれているといってよい。最近、島薗進の「国家神道と日本人」という本が出たが、島薗も村上のこの研究を、国家神道研究の足がかりとして、大いに評価していた。

教育勅語を読む

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教育勅語は、国家神道及び明治憲法とともに明治の天皇制イデオロギーの支柱となったものといえる。この三者の関係について島薗進(「国家神道と日本人」)は、国家神道こそが明治絶対主義のイデオロギー的な中核をなし、明治憲法はその制度的な枠組みとなり、教育勅語は国民の意識にそれを植え付けるについて決定的な役割を果たしたとして、次のように言っている。

島薗進「国家神道と日本人」

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国家神道についての研究といえば、村上重良の「国家神道」がスタンダードなものになっているようだ。島薗のこの本も、村上の研究を土台としていると言えよう。島薗も村上同様、国家神道は明治維新以降に体系化された、作られた伝統であるとし、それがやがて昭和の超国家主義をもたらしたとする。一方、村上が国家神道を、主に神社神道を中心にして論じており、天皇による宮廷祭祀としての側面をほとんど欠落させていることに疑問を呈している。島薗によれば、天皇による宮廷祭祀こそ、国家神道の中核をなすものだということになる。これもまた、神社神道同様、明治維新以降体系化された、作られた伝統には違いないが、国家神道の中核として国民統合の原動力となり、昭和の超国家主義(日本型ファシズム)を駆動した最大の要因だったとする。この宮廷祭祀は、戦後の神道指令の対象から外されたことで、ほぼそのままの形で生き残った。それ故、日本近代の国家神道は、まだその命脈を絶やされずに、生き続けている、というのが島薗の国家神道についての基本的な見方である。

原武史「昭和天皇」

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天皇を論じる際の視座には色々ありうるが、この本は宮中祭祀の主催者としての天皇に光を宛てている。宮中祭祀というのは、国家神道の行事であって、天皇が天照大神の末裔としての立場で行う宗教的な営みである。本来宗教的な行事であるから、祭政一致が否定された戦後体制では公の行事としては行われなくなったが、天皇家の私的な行事として生き残った。しかし、天皇家の私的な行事として片付けるにはあまりにも政治的な性格を持たされており、昭和天皇自身もそれを自覚していた、というのがこの本の著者の基本的な見立てのようである。

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