日本史覚書

佐藤忠男「長谷川伸論」

| コメント(0)
佐藤忠男は本職が映画評論家だから、映画を通じて長谷川伸に親しんだのだろう。長谷川伸と言えば、戦前から戦後にかけて、(戦中と戦後の一時期権力によって抑圧されたことはあったが)日本の映画界では人気のある作家だった。当時の映画界では、股旅ものとか仇討ものが最も大きな人気をとったが、長谷川伸はその分野を代表する作家だった。

幸徳秋水の基督抹殺論

| コメント(0)
「基督抹殺論」は秋水の遺書のようなものである。彼はこの本を、大逆事件で捕らえられるその年に書き始め、監獄のなかで脱稿した。友人の好意によって出版されたのは、死刑執行の数日後である。秋水の書いた本としてはめずらしく発禁処分を受けなかった。それについては秋水自身、「これなら、マサカに禁止の恐れもあるまい。僕のは、神話としての外、歴史の人物としての基督を、全く抹殺してしまふといふのだ」と手紙のなかで書いている。

幸徳秋水の非戦論

| コメント(0)
日露戦争は、明治37年(1904)の2月に開戦し、翌38年の9月まで、一年半あまりにわたって戦われた。それこそ日本中が勝利を祈って大騒ぎになったわけだが、幸徳秋水は、内村鑑三らとともに、この戦争に反対した数少ない日本人の一人だった。秋水の日露戦争への反対は非戦論という形で展開されたが、それが戦争を遂行する明治政府の逆鱗に触れ、秋水は38年の2月に官憲に検挙されて、禁固五ヶ月の刑を受けた。

幸徳秋水の平民主義

| コメント(0)
幸徳秋水が明治40年(1907)の4月に刊行した著書「平民主義」は、小引にあるとおり、明治36年の冬から同39年の冬までに、様々な媒体に発表した文章を集めたもので、時事評論集といってよい。この三年間という期間は、短いながらも秋水にとっては、激動の時代と言ってよかった。明治36年にはすでに筋金入りの社会主義者になっていた秋水は、37年に日露戦争が勃発するや非戦論を唱え、それがもとで翌38年の2月に逮捕、有罪判決を受けて、五か月間巣鴨の刑務所に投獄された。出獄後も弾圧の手が緩まないのを見て、同年の11月に横浜から船に乗り、サンフランシスコに亡命した。ここで現地の社会主義者などと交流し、大地震などにも遭遇した。そして39年の6月に帰国し、引き続き政治活動に従事しつつ、官憲の憎悪を一身に集めるようになっていったわけだ。秋水が、官憲のフレームアップにからめとられるのは、43年(1910)6月のことである。

幸徳秋水の社会主義論

| コメント(0)
「社会主義神髄」は、幸徳秋水の社会主義論である。秋水といえば無政府主義者の印象が強く流布しているが、この著作を読むと、社会主義者としての秋水のイメージが強く浮かび上がってくる。彼がこの本を書いたのは明治36年(1903)のことで、その頃にはまだ日本ではマルクスの思想があまり普及していなかったなかで、秋水はマルクスやエンゲルスの著作(共産党宣言、資本論、空想から科学への社会主義の発展)を参考にしながらこの本を書いたようである。ちなみに秋水は、翌明治37年に「共産党宣言」を翻訳して平民新聞に掲載し、発禁処分を食っている。

幸徳秋水の帝国主義論

| コメント(0)
幸徳秋水が「二十世紀の怪物帝国主義」を執筆したのは明治三十三年から翌年にかけてのこと。ちょうど十九世紀から二十世紀への移り目のときである。この時期は、列強諸国による海外侵略と領土の分割がピークを迎えており、そうした動きが「帝国主義」という名で観念されるようになっていたが、帝国主義を論じた本格的な研究はまだ現れていなかった。そういう中での秋水の帝国主義論は、国際的にも一定の存在意義を認められよう。

幸徳秋水の遺書

| コメント(0)
幸徳秋水は、明治43年の6月に大逆罪の容疑で逮捕され、翌明治44年1月に死刑の判決を受け、一週間以内に刑を執行されて死んだ。秋水の共犯とされた24名にも死刑が言い渡されたが、そのうちの半分は明治天皇の恩赦が行われ、刑一等を減じられて無期懲役となり、秋水を含めた12名が実際に死刑になった。この事件は、その後の研究によって、権力によるフレームアップであったことが明らかにされている。そのフレームアップを検事として指揮したのは、後に総理大臣に上り詰めた平沼麒一郎だ。平沼は、首相桂太郎のほか、明治天皇自身の強い意向を受けて、このフレームアップを指揮したと、研究者の一人神崎清は指摘している。

幸徳秋水「兆民先生」

| コメント(0)
明治34年12月、中江兆民が喉頭がんで苦痛のうちに死んでいったとき、その死に水をとったのは、弟子の幸徳秋水だった。秋水は、それ以前に兆民の遺書というべき「一年有半」及び「続一年有半」の出版に尽力し、師の兆民を喜ばせていた。なにしろ秋水は、17歳の時に兆民に弟子入りして以来、兆民を父として仰ぎ、かならずしも全面的にではないが、兆民の思想にも私淑していた。そんな秋水が、兆民の死後半年足らずの後に、師の兆民をしのんで、伝記と思想の紹介を兼ねた文章を書いた。「兆民先生」がそれである。この文章を読むと、兆民の人物像が彷彿として浮かび上がってくるとともに、その兆民を敬愛してやまなかった秋水の気持ちもよく伝わってくる。そのさまたるや、日本の歴史上もっとも美しい師弟愛を見せられているかのようである。

中江兆民「一年有半」

| コメント(0)
中江兆民が死んだのは明治34年12月13日のことで、死因は喉頭癌だった。最初癌の症状に気づいたのは前年明治33年の11月のことだったが、その折には喉頭カタルくらいに見くびって油断していた。ところが翌年の春、関西に旅行したところ、症状がひどくなって苦痛に耐えられぬので、医師に治療を仰いだ。そこで喉頭癌だと宣告され、余命は一年半、よく養生すれば二年だろうと言われた。本人としては、たかだか半年くらいの寿命だろうと観念していたところ、一年半の猶予を与えられたと受け取り、その一年半を有意義に使おうと決意した。どう使うかは迷いがなかった。日頃胸中に温めていた思いを吐露し、以て文人たるの意気を示さんとすることだった。こうして兆民は、遺書というべき著作「一年有半」および「続一年有半」をしたためたのである。そして、この両書の完成と刊行を見届けて、その年のうちに死んだ。享受した余命は一年有半ではなく、たかだか半年だったが、兆民としては一年有半におとらぬ充実した日々だったろうと思われる。

新渡戸稲造「武士道」

| コメント(0)
「武士道」は、新渡戸稲造が病気療養の為滞在していたアメリカで、1899年に、英語で書かれた。ということは、欧米の読者に向けて書かれたということだ。当時の日本は、日清戦争で勝ったこともあり、欧米での評価も次第に変わりつつあったが、やはり半文明の段階にあって、基本的には野蛮な連中の国だという認識が強かった。そして日本人の野蛮な行動は、武士道によって支えられている、といった間違った認識が広がっていた。新渡戸はそうした認識を正し、武士道の正確な理解と、それを行動原理としている日本人のすばらしい生き方についての認識を、欧米社会に向かって促したといえるのではないか。

内村鑑三「基督信徒のなぐさめ」

| コメント(0)
「基督信徒のなぐさめ」は、内村鑑三の処女作である。出版したのは明治二十六年(1892)二月、内村が三十歳のときであった。内村はこの本で、人間は基督教を信ずる限りどんな逆境にも耐えられると主張した。彼が取り上げたその逆境とは自分自身のものだったが、彼はその自分自身が陥った逆境にもかかわらず、基督教になぐさめを見出したがために、逆境も気にならなかったと言い、人々にも基督教を信じるように呼びかけたというわけであろう。

「余は如何にして基督信徒となりし乎」は、内村鑑三が基督教の信仰を得たいきさつを書いたものである。彼が基督教の信徒になったのは札幌農学校在学中のことで、その時はまだ十代の若者ということもあって、完璧な信仰にはいたらなかったが、二十代前半でアメリカに留学し、そこで深く思索することを通じて本当の信仰を得た、その喜びを書いたものである。それ故この本は内村の信仰告白という面と、自分の青春時代を回顧した半生記という体裁を、併せ持っている。

内村鑑三「代表的日本人」

| コメント(0)
内村鑑三が「代表的日本人」を書いたのは日清戦争の最中だった。彼はこの本を英語で書いた。ということは、当面の読者を日本人ではなく、外国人に想定していたわけである。何故そのような行為をしたのか。日清戦争は近代日本が起した最初の戦争ということもあって、国内には愛国的なムードが高まっていた。内村もそのムードに染まったらしい。彼は日本人が西洋人の考えているほど低級な国民ではなく、キリスト教を受け入れる基盤も有している。だからこそ今回の戦争にも道義がある。どうもそういうことを、対外的に主張したいというのが、内村の本意だったのではないか。

NHKの731部隊調査報道

| コメント(0)
昨夜(8月13日)、NHKが731部隊(いわゆる石井部隊)に取材した調査報道番組を放送したのを、筆者は驚嘆の念を覚えながら見た。というのも、731部隊の問題は、日本史の最も恥ずべき部分であって、取りようによっては、従軍慰安婦問題よりもはるかに深刻な問題だ。今の日本の政権にとっては、絶対に触れられてもらいたくないことだろう。それをあのNHKが、正面から取り上げて、それを放送したのは、実に感慨深いことである。

三浦佑之「風土記の世界」

| コメント(0)
風土記についての概括的な解説書がないことを嘆いていたところ、ユニークな古事記研究で知られる三浦佑之が、岩波新書という形で出してくれた。これを読むと、風土記成立の歴史的な背景とか、風土記全体を通じての特徴が、かなりの程度わかる。非常に啓発されるところが多い。これをきっかけにして、風土記の紹介が進むことを期待する。

幕末期の町奉行:戊辰物語

| コメント(0)
「戊辰物語」には、幕末・維新期の町奉行について、けっこう興味深い記述がある。江戸の町方の治安は、南北の町奉行所が所管していたが、その規模が非常に小さなことに驚かされる。南北の違いは、管轄地域の違いではなく、江戸市中全体の治安を南北交替で担当した。今日の警視庁にあたるものだが、その組織たるや、南北それぞれ二十五人の与力と、百三十人の同心がいるのみ。正式の役人はこれだけで、その下にいる目明し、岡っ引きなどは、みな同心の私的使用人で公儀の役人ではない。それ故、公儀から報酬が出るわけではない。それらはたいてい料理屋の主人だとか博徒の親分で、二足のわらじを履いていたわけだが、公儀から手当てが出ないことを口実にして、公然と悪事を働いた。

戊辰物語を読む

| コメント(0)
「戊辰物語」は、戊辰戦争の年から六十年後の戊辰の年に、東京日日新聞が戊辰戦争をはじめとした明治維新前後の出来事について、古老の回想を集めて新聞紙上に載せた記事を中核にし、それに、「五十年前」と題する、やはり古老の回想の聞き書きと、「維新前後」と題する、これは記者による記事らしいものが付属している。映画評論家の佐藤忠雄が岩波文庫版に寄せた解説によれば、この聞き書きには子母澤寛がかかわっていたらしい。子母澤は、明治維新を敗者の視点からとらえ、そうした視点から新撰組の行状を調べ、それを「新撰組始末記」という形で著したりした。従来とかく勝者である薩長藩閥の視点から見られていた明治維新を、別の視点から見たものとして、その後の明治維新観に一定の影響を及ぼしたものだ。そんな背景があるせいだろう、「戊辰物語」の本体には、新撰組への言及が多く見られるし、「明治維新前後」などは、ほとんどが新撰組についての記述である。

勝海舟の自己修練術

| コメント(0)
勝海舟若い頃の学問修行にかかわる逸話といえば、オランダ語の辞書を買う金がないので、他人から借りた辞書をまるごと書き写したというのが有名だ。しかし本人は、蘭学を含めて、学問を体系的に学んだことはないと言っている。「おれは、一体文字が大嫌ひだ。詩でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とて何もしない」(氷川清話、以下同じ)と言うのである。勝海舟は、一応オランダ語を話せたようだから、これは謙遜かもしれない。

氷川清話を読む

| コメント(0)
「氷川清話」は、吉本襄が明治三十一年に勝海舟の談話集と銘打って刊行したもので、吉本自ら勝から聞いた話を聞書きしたものや、勝が別途新聞雑誌等の場で行ったインタビューのようなものを集めたといわれていた。ところが敗戦後になって、江藤淳と松浦玲が本の内容に重大な疑義を呈した。この本の中には勝が言うはずのないことが書かれており、したがって偽作の疑いが強いというのが疑義の内容である。彼らは、吉本が利用したというインタビュー記事の原本にあたり、それと吉本の本とを比較することで、吉本による歪曲の実態を明らかにしたうえで、彼らなりに決定版と考えた「氷川清話」を刊行した。今日講談社学術文庫の一冊として出ているのがそれで、いまではこちらが「氷川清話」の標準版として読まれている。筆者もまたそれを読んだ。

福沢諭吉と勝海舟

| コメント(0)
福沢諭吉と勝海舟の出会いは、万延元年(1860)のことだった。この年の咸臨丸での太平洋航海を、二人はともに体験した。海舟は教授方頭取(実質的な船長)という役職であり、福沢諭吉は軍艦奉行木村芥舟の従者(家来)という身分であった。そんなこともあるのか、海舟のほうは福沢にあまり敬意を払っている様子がなく、一方福沢の方は、例の「痩せ我慢の説」で海舟を厳しく糾弾したことに見られるように、海舟に対して敵愾心のようなものを持っていた。その影には、身分格差ということのほかに、人間的な反目があったのかもしれない。

1  2  3  4



最近のコメント

アーカイブ