日本語を語る

NHKのニュース番組を見ていたら、豪雨による浸水現場を取材していたアナウンサーが、泥水の強烈な匂いをさして、「泥水のかおり」と言うので、思わずのけぞってしまった。泥水の匂いといえば、人間を不快にする匂いである。それを「泥水のかおり」というのは、どういうつもりか。

先日、文芸評論家の斎藤美奈子女史が、八紘一宇を賛美した某自民党女性代議士を叱責したことを取り上げたが、この人の率直な物言いは、筆者の大いに評価するところだ。そもそもは、目下読書誌「図書」に連載している「文庫解説を読む」がきっかけになって、興味をひかれたのだった。そこで、他のものも読んで見る気になって、「名作うしろ読み」とか「それってどうなの主義」といった本を手に取って見たところだ。「名作うしろ読み」は、千字足らずの短い文章で、名作のエッセンスをさらりと紹介するもので、なかなかウィットに富んでいるとの印象を受けた。

今ではあまり聞かなくなったが、かつては愚かな行いをするものを「たわけ」といって罵った。かくいう筆者も子供の頃に、愚かなことをした際に、年長の者から「たわけ」と言われたものだ。

明日を指す言葉を、「あす」とか「あした」とかいう。どちらも、古い言葉で、「あさ」と同源の言葉と思われる。もともとは、夜が明けた時点を指して言った。

ネズミという言葉は、「根の国に住むもの」だと新井白石がいったそうだ。それを指摘したのは池澤夏樹氏。読書誌「図書」に寄稿した小文「詩と散文、あるいはコロッケパンの原理」の中でそう書いていた。根の国とは「根の堅州国」ともいって、古事記では異界あるいは地下の世界として描かれている。そこに住む動物だから「根に住む」となり、更に「ねずみ」になったというわけだ。

色あらわす日本語のうち、色に固有の名詞として「あか」、「くろ」、「しろ」などをあげ、それらがオノマトペを語源としていることを、別稿「色をあらわす言葉」の中で述べたが、そのさいに、やはり色に固有の名詞としての「あお」については、語源が良くわからないといった。その分からない部分について、日本語学者の大野晋がヒントを与えてくれた。

スポーツ選手のインタビューなどで、「ファンの皆様に感動を与えたい」といった言葉をよく聞く。この「与える」という言葉は、客観的な叙述の表現としては、「行く」とか「来る」と同じく価値中立的なニュアンスに聞こえるが、対人関係を意識させる場面で使われると、上から目線の言葉として聞こえる。だから、スポーツ選手がこのような言葉を使うのを聞くと、どうもこの選手は自分を買いかぶっているようだ、というふうに受け取られる場合もある。

「よむ」、「かく」という言葉は、どちらも文字の存在を前提としている。したがって、ある民族の中で文字というものが生まれてから後にできた言葉と考えることが出来る。文字が生まれるのは、言葉が生まれてからはるかに後のことであるから、「よむ」、「かく」という言葉は、どの民族の言語体系にあっても、比較的新しい言葉である。

存在と非存在は一対の対立概念であるが、それを日本語では「ある」と「ない」というように、異なった言葉で表す。一方、英語をはじめとした印欧語族の言葉では、存在は「 be 」、非存在は否定辞の「 not 」をつけて、「not be 」という具合に現す。漢字の場合には、「ある」は「在」とか「有」といい、「ない」は「無」とか「莫」とかいうほかに、否定辞「不」、「没」をつけて、「不在」あるいは「没有」という場合もある。

「わざわい」と「さいわい」は、不幸と幸福という、一対の対立概念を現す言葉である。「わざわい」はもと「わざはひ」と書いた。「さいわい」のほうは「さきはひ」と書いた。両者に共通に含まれている「はひ」は「はふ(這う)」の名詞形で、一帯に物事がひろがり渡っているさまを言った。だから「さきはひ」とは「さき」が広がり渡っている状態のことを現した。「さき」とは「さち」と同義語であり、幸せを意味した。それ故「さきはひ」とは、幸せが広がり渡った状態のことを意味したわけである。

擬音語や擬態語、いわゆるオノマトペから発した言葉が日本語には非常に多い、ということを筆者はかねて考えていたが、大野晋もその考えを裏付けるようなことをいっている(日本語の水脈)。大野によれば、オノマトペはハングルや中国語にも多く、とくにハングルなどは、単語の半分がオノマトペ由来だという。しかし、ハングルや中国語では、オノマトペが語根となって、様々な品詞に展開するということは、日本語に比べて多くはないようだ。日本語の場合はとにかく、ひとつのオノマトペをもとに、名詞、形容詞、副詞、動詞といった具合に、どんどん広がっていくのである。(たとえば、ゆらゆら、ゆらめき、ゆれる、ゆらり、と言った具合に)

「そやさかい」といえば、「そうですから」という意味の関西言葉だ。この中に含まれる「さかい」について、筆者は、古語の「かれ」から発展してきたもので、関東言葉の「から」が「かれ」からの発展であることとパラレルなものだ、という趣旨のことをいったことがある。ところが、この「さかい」の起源を別の所に求める意見があった。大野晋の説である。

古代日本語で愛情を表現する言葉を見つけようとして「伊勢物語」にあたったところ、「思ふ」と「恋ふ」とが用いられていたことについては、先稿で述べたとおりだ。このほかに愛情を表現する言葉が古代にはなかったのか、注意深くしていたところ大野晋が、「好き」という言葉が、古代に愛情表現の言葉として用いられていたことを教えてくれた。(日本語の水脈)

「そうであったらいいナと思います」、「ぜひそうしたいナと考えます」といった言葉が何気なく使われているが、これらの表現に含まれている「ナ」は、意味の上ではなくてもよいものだ。こうした表現を筆者は自己流に「ナ入れ言葉」と呼んでいる。この言葉を始めて耳にしたのは、20年以上も前のことで、その折には非常に奇異に感じたものだが、いまでは、日本中に氾濫するようになり、それにともなって奇異な感じも次第に弱まってきた。

丸谷才一と山崎正和の対談「日本語の21世紀のために」を読んでいたら、面白い話題が出て来た。2000年にも及ぶ日本語の歴史を通じて、日本語の変わらぬアイデンティティともいえるものがあるとすれば、それは何か、という問題意識を山崎が投げかけ、それについて、ふたりが興味深い議論をしているのである。

先稿「愛する」の中で筆者は、現代日本人が愛情を表現する言葉として使っている「愛する」とか「愛」とかいう言葉が、明治以降に、西洋文学の翻訳を契機に広まった言葉であり、江戸時代以前には使われていなかったということを指摘した。その上で、徳川時代以前の日本人は、男女の性愛を表現する言葉として、恋ふ、慕ふ、思ふ、焦がる、惚れる、などを使っていたと指摘した。

「愛する」という動詞と、その名詞形である「愛」という言葉は、愛情表現を広く表す言葉として、今日の日本語に定着している。それは、男女の性愛を中心として、親子の間の家族愛や、場合によっては動物への慈しみの感情までカバーしている。しかし、こんなにも便利な言葉であるこの「愛する」が、日本語の中に定着したのは、そう遠い昔のことではない。精々遡っても、明治時代より前には遡らないのである。

南方熊楠は小論「摩羅考」の中で、男根をあらわす言葉「まら」が記紀時代に遡る古い言葉であることを立証したが、その語源については特に言及しなかった。そこで筆者は、小学館の「日本国語大辞典」や「日本語源大辞典」を開いて、あたってみた。すると、この言葉は古代語で排泄することを意味する「まる」が転化したとする説が載っていた。男根は尿を排泄する器官だ。そのことを古代語では「尿(しと)まる」という。そこから「まら」という言葉が成り立ったのではないか、そのように推測しているわけである。

「あけび」とは実のなる植物の一種だが、それが「あけつび」から「つ」が脱落してできた言葉だと喝破したのは南方熊楠である。「あけつび」とは「開玉門」とも書くように、開いた女陰のことをさす。その姿に、熟して開いた「あけび」の実の形が似ているというので、それを「あけつび」といい、それではあまりにも露骨だとして「あけび」というようになったというわけである。

姫(ひめ)、少女(おとめ)、娘(むすめ)、婦人(たおやめ)、寡婦(やもめ)、産婦(うぶめ)、潜女(かずきめ)、遊女(うかれめ)などの言葉は、いずれも女性を表す言葉だが、そのどれもに「め」という言葉がついている。「め」はこのように接尾辞として用いられるばかりでなく、「めうし」や「めとり」のように接頭辞としても用いられる。要するに女性の符号だ。

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