「マチウ書私論」は吉本隆明の評論家としての活動のスタートを画する論文だということになっているらしいが、テーマは原始キリスト教批判である。日本人の吉本が日本人を相手になぜこんな文章を書いたか、いまひとつ判然としないところがある。吉本はキリスト教徒でもないらしいから、キリスト教には大した恨みもないと思うし、ましてや原始キリスト教などというものが、彼にとっての深刻なテーマになりうるとも思われない。その原始キリスト教をなぜ吉本は、自分の評論家活動のスタートにあたってテーマとして選んだのか。

 明治六年は征韓論の嵐が吹き荒れた年だったと言ってよい。留守政府をあずかる西郷隆盛が主導して征韓論を盛り上げた。西郷は自分自身が朝鮮への特使となって日本との国交を強要し、相手がそれを拒絶すれば、その非礼を根拠として韓国を攻めようと構想した。西郷の構想には、板垣退助、江藤新平、副島種臣の諸参議も同調した。この動きに対して米欧出張中の岩倉、大久保、木戸らは強く反対した。しかし海外にいてはどうすることもできない。このままだと西郷の暴走を許すと懸念した岩倉は、まず五月に大久保を九月に木戸を帰国させて西郷を牽制しようとしたが、西郷の暴走をとめることはできなかった。大久保も木戸も参議の職務を放棄して隠居同様の状態を決め込んでしまった。
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ファティ・アキンは、出世作の「愛より強く」において、ドイツ社会に生きるトルコ人を描いたが、そこでのトルコ人たちはドイツ人との間で暖かい交流を持つことがなく、トルコ人だけで傷つき合って生きているような人たちだった。映画の中に出てくる人たちはすべてがトルコ人であって、ドイツ人は例外的に出てくるだけである。それもバスに乗り合わせたドイツ人がトルコ人に向かって、お前とは一緒にいたくないから下りろと罵るような具合である。ところが、この「そして、私たちは愛に帰る」では、トルコ人とドイツ人との人間的な触れあいが描かれている。そのことによって、映画としての味わいが一段と深くなった。

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相模次郎は将門の名相馬小次郎をもじったもの。その将門の勇猛な戦いぶりを描いたのがこの図柄だ。将門は戦のたびに無類の活躍をしたが、天慶三年の最後の合戦でも、その勇猛ぶりは衰えなかった。この戦いは、将門側が圧倒的に不利だったのだが、将門は先頭になって相手をなぎ倒し、味方の士気を高めた。

大江健三郎の小説「セヴンティーン」は1960年に起きた右翼少年によるテロ事件に触発されて書いたものだ。このテロ事件は十七歳の少年山口二也が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺したというもので、その刺殺現場の様子が、当時浅沼の日比谷公会堂での演説を中継していたラヂオ番組で生々しく放送された。スケールは違うが、9.11の航空機テロの様子がテレビで実況中継されたときと同じようなショックを当時の日本人に与えたものだ。

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1889年の2月に、弟のテオとその妻ヨハンナの間に男の子が生まれた。ゴッホはそのお祝いにこの絵を描いた。古い枝から新しい命である花が開いた様を、子どもの誕生になぞらえたつもりだったようである。

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ファティ・アキンはトルコ系のドイツ人として、ドイツのトルコ人社会をテーマにした映画を作り続けた。2004年の作品「愛より強く」は、そんな彼の出世作となったものだ。ドイツに生まれたにかかわらず、ドイツ社会に疎外感を感じ、だからといってトルコにも一体感を感じることができない不幸なトルコ系ドイツ人たちを描いている。

柳田国男の小著「毎日の言葉」は、我々日本人が日頃何気なく使っている言葉について、その起こりと変遷とを考察したものである。日本の言葉、特に話し言葉は、時代にそって変遷が激しいばかりか、地方によっても著しい変化が見られる。これらはうわべでは関連がないように見えても、よく見ると互いに強い関連があることがわかる。それをたどることで、日本語の大きな特色である、言葉の変遷・盛衰という現象が理解できると柳田は見るのである。

小生、明12日より21日までの十日間ロシアに旅行します
ついては、その期間当ブログの更新を一時中止しますのでお知らせします
なお、旅行中の見聞については、例の如く紀行文を後日紹介したいと思います
以上よろしくお知り置きくださるよう、お願い申し上げます

壺齋散人 謹白

 学海先生の日記に妾の小蓮が初めて登場するのは明治六年二月二十一日である。
「小蓮とともに梅を墨水の梅荘に見る」と言う記事がそれである。
 この日学海先生は小蓮を伴なって墨水の梅荘に梅を見に行き、そこで隠士と思しき三人が月琴・胡琴を演奏しているのを見た。興味を覚えて小蓮とともに聞き入っていると、更に別の一人が現れて一曲を弾じ、名を告げずして去った。
 この当時、墨堤は根岸と並び隠士の遁世地として知られていた。記事に見える人たちもそうした隠士のような人だったように思われる。面白いのは学海先生が妾を伴いながら彼らを見て感興を覚えたことである。妾を伴っていればおそらく気分は晴れやかだったろう。その晴れやかな気分で隠士が琴を弾ずる模様を見れば、いっそうのびやかな気持ちになったに違いない。学海先生にはそういった風雅を愛するところがあった。
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バーダー・マインホフ・グループは別名を「ドイツ赤軍」といって、1960年代末期から70年代にかけて反体制運動を展開した過激派グループのことだ。学生運動のリーダー、アンドレアス・バーダーと、それに共鳴したジャーナリスト、ウルリケ・マインホフから名付けられた。2008年のドイツ映画「バーダー・マインホフ 理想の果てに(Der Baader Meinhof Komplex)」は、この二人を中心としたグループの活動ぶりと彼らの死を描いたものだ。

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「芳年武者無類」は、明治十六年から刊行した武者絵のシリーズで、全三十三図からなる。神話時代から戦国時代までの英雄たちを描く。武者無類には「むしゃぶるい」をかけている。言葉通り武者震いがするほど雄々しい英雄たちの活躍が、スナップショットのように切り取られている。

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ゴッホは南フランスの風景を象徴するものとして糸杉を選んだ。セザンヌが松を好んで描いたことへの対抗心かもしれない。糸杉はすっきりとまっすぐに立ち、空に突き抜けようとするその姿に雄々しさを感じたようだ。ゴッホは弟テオへの手紙の中で、糸杉を「エジプトのオベリスクみたいだ」と言っている。オベリスクも天を突き抜けるようにすっきりと立つ。

竹内好は中国文学の理解を魯迅を読むことから始めた。これは日本人の中国文学受容の伝統的なパターンからは随分とかけ離れている。少なくとも竹内が魯迅を読み始めた頃の日本では、中国文学とは唐宋の大詩人たちを中核とした歴史的な遺産を意味していた。同時代の中国が問題意識になることはほとんどなかった。そんな時代に竹内は、自分とほぼ同時代人と言える魯迅を読むことから、中国文学の理解を深めようとしたわけである。

 あかりさんと初詣をした後、しばらく彼女に会えなかった。というのも一月の半ば過ぎに約束していたデートに、仕事の都合で行けなくなって、それ以来すれ違いのような状態が続いていたからだった。デートに行けなかったくらいに忙しかった仕事とは他でもない。昨年の暮にあかりさんと京都へ旅行した後、船橋のマンションにT新聞の記者から電話がかかって来たと書いたことがあったが、それと大きなかかわりがあることだった。
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2017年の映画「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」は、最果タミの詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を映画化したものだ。とはいっても原作は詩集であって、ストーリーはない。そこを監督の石井裕也が自分で原作の雰囲気を生かすようなストーリーを作って映画化したということらしい。題名にわざわざ「映画」という枕詞を入れたのは、原作の詩集との差別化を図ったつもりか。

旧友の死に臨み、敢て"驚く"というのは、悼みの感情より驚きの感情が強いからで、それほど小生の受けた打撃が大きかったということだ。それというのも、その友人とは二か月ちょっと前に一緒に旅行をしたばかりで、その際にはとくに変わった様子も見られなかった。それがまさか死んでしまうとは、小生の想像力の及ばないところだ。しかも死因は癌だという。癌というのは、たいていは激しい痛みを伴うものだから、死の直前まで自覚症状がないということは考えられない。ところがこの男は、たいした自覚症状も訴えないままいきなり昏倒し、そのまま帰らぬ人になってしまったというのだ。人間の命程はかないものはないとよく言われるが、まさにそのことを思い知らされた。

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「皇国二十四功」は、日本の歴史上忠孝で名高い人物二十四人を取り上げたシリーズ。師匠の国芳が、「本朝二十四功」と題して同じようなシリーズを刊行していたが、両者の間には、四人が共通しているだけで、大部分は異なった人物である。

共同生活とは人間同士の共同生活のことではない。人間と猿との共同生活、或いは猿と人間との共同生活だ。この共同生活は人間にとって快適なものではない。きわめて不愉快なのだ。しかも人間のほうではその共同生活を解消できない。それどころか、自分のすべての生活を猿たちによって支配されていると感じる。つまり彼にはいささかの自由もないのだ。彼は常に猿たちによって拘束されていると感じる。とはいっても肉体的に拘束されているわけではない。精神的に拘束されているのだ。その拘束は猿たちの視線によって行使される。人間は猿たちの視線によって拘束され、支配されているというわけである。

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ゴッホは、その異常な言動から周囲の人々に気味悪がられ、1889年の3月に監禁を強いられたあと、5月8日にはサン・レミの精神病院に送りこまれた。この絵は、その病院の窓から見えた風景を描いたもので、ゴッホの作品の中で最も有名になったものの一つだ。

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