夏の草花:万葉集を読む

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夏の草花の代表といえば、あやめぐさ(菖蒲)とその仲間である杜若だろう。万葉集では、菖蒲は十二首(うち長歌七首)、杜若は七首収められている。初夏の花ということで、やはり初夏の花である卯の花同様、ほととぎすと一緒に歌われることが多い。次の歌はその一つ。
  霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ(1955)
ほととぎすを厭うときなど無論ないが、特にあやめ草を鬘にする五月の節句には、是非ここに来て鳴き渡っておくれ、という趣旨。ほととぎすとあやめ草が端午の節句を通じて結びついているわけであろう。

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「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」は、硫黄島での日米両軍の死闘を、アメリカ側の視点から描いたものである。この戦いでは、戦闘が一段落した時点で、米兵が擂鉢山の頂上に星条旗を掲げ、その写真が公開されることで、アメリカ市民の戦意が昂揚したといったエピソードがあった。この映画はそのエピソードの当事者となった兵士たちをめぐって、物語を展開させている。戦争映画ではあるが、また戦意高揚のエピソードをテーマにしているが、戦争を礼賛する映画ではない。かえって、戦争が人間をいかに損なうか、について描いている。とはいっても、戦争を全否定するわけでもない。

びゃっこらさ:白隠の漫画

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「びゃっこらさ」も「毛槍奴立小便図」同様、奴を風刺した絵と思われる。この絵の奴は、白狐の姿を借りており、その白狐の「びゃっこ」と奴の蔑称である「やっこらさ」を引っ掛けて「びゃっこらさ」としたわけであろう。

カフカ「審判」を読む

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「審判」は、「変身」と似ているところがある。まず、雰囲気だ。この二つの小説は、いずれも不条理文学の代表作といわれるのだが、不条理というのは、この二つの作品の場合、重苦しい雰囲気となって現われる。この重苦しさには不気味さがともなっているのだが、この不気味さこそ、それまでの文学には見られなかったものだ。そういう点でこの二つの作品は、不気味さを基調低音とする、重苦しい不条理劇といった体裁を呈している。

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アテナはギリシャの都市アテネの守護神であるが、ギリシャ神話では戦いの女神とされている。鎧を着て、雄たけびの声を上げながらゼウスの頭から生まれたとされるこの女神が、どういういきさつで商業都市アテネの守護神になったか、そこには興味をそそる物語があったに違いない。

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1979年のマーティン・リットの映画「ノーマ・レイ(Norma Rae )」は、アメリカの労働組合運動を描いたものだ。アメリカの労働組合というのは、産業別に組織されていて、産業ごとの全国組織またはその下部組織が直接個々の企業の労働者を外部から組織するということになっている。日本なら、労働組合は企業ごとに組織されるから、企業の言うままになるという傾向が強い一方、企業があるところには放っておいても労働組合が出来やすいという事情がある。ところがアメリカでは、企業内部から労働組合を作ろうという動機は弱いらしく、産業別の全国組織が外部から組合の結成を働きかけなければならない。個々の産業別労働組合組織は、そうした働きかけ(オルグ)の要員をそれぞれ抱えている。この映画は、そうした要員の一人が、組合のない企業の労働者たちに働きかけて、組合を結成させようとする動きを描いたものだ。

ハイデガーが言うところの現象学は、彼の師であるフッサールの現象学とは似て非なるものだ、と木田元は言った。ハイデガーは、「存在と時間」の中で現象学の意義について説明し、自分がそれをフッサールに負っていると言い、フッサールに対して敬意を表明しているが、それはハイデガー一流のへつらいであって、自分の哲学がフッサールの現象学とは何のつながりも持たないことは、ハイデガー自身よく知っていたはずだ、と言うのである。しかし、そう決め付けては実もふたもないので、現象学についてハイデガー自身が言っていることに、一応耳を傾けてみたい。

卯の花を詠む:万葉集を読む

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卯の花は初夏に咲くことから、やはり初夏に咲く藤とともに季節を強く感じさせる。万葉集には、卯の花を詠んだ歌が二十四首あるが、その多くはほととぎすと一緒に歌われていて、この二つは万葉人の心の中で分かち難く結びついていたことが察せられる。卯の花もほととぎすも初夏を告げるものであるから、その二つを結びつけて歌うことで、季節感を最大限に演出する効果が高まるわけである。そんな初夏の季節感を詠んだ一首。
  霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを(1472)
ほととぎすがやってきて鳴き騒いでいるが、その声を聞くと、卯の花と一緒にやってきたのか、と聞いてみたくなる、という趣旨。初夏には卯の花とほととぎすが一緒にやって来るという想念があるからこそ、こういう歌が生まれるのであろう。

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オリヴァー・ストーンは「プラトーン」でベトナム戦争の醜悪さを描いたが、「7月4日に生まれて(Born on the Fourth of July)」は、その続編みたいなものだ。ベトナム戦争の醜悪さを引き続き描くとともに、戦争で不具になった青年の絶望を描いている。その青年は、自分は正義のためにベトナムに赴いたと思っていたのだったが、実は非人間的な行為をするはめになった挙句、不具になった後はまわりの誰からも人間として認めてもらえず、深い孤独感を覚えて絶望する。そして自分をこのような目にあわせた戦争の不正義を告発するに至る過程を描いているものだ。

今日の日本のジャーナリズム

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昨日のこのブログ記事で、NHKによる731部隊の調査報道を取り上げたが、それは今日の権力によってタブー扱いされているらしい微妙なテーマを、NHKの現場記者が勇気を以てとりあげ、それをNHKが許したことにいささかの感慨を覚えたからだった。だが、ジャーナリズムにおけるこのような動きは、今日の日本のジャーナリズムでは、ますます見られなくなっているというのが、本当のところのようだ。

毛槍奴立小便図:白隠の漫画

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この絵は、毛槍奴が立ち小便している様子を子どもたちが見て囃したてているところを描いたもの。右側の賛に「毛槍をもって立てししす」とあるのは、「毛槍をもって立ち小便する」という意味。左側の賛には「しかも大きなしじじゃ、小じゃりが飛ぶは、あれ見よ」とある。「しかし大きなちんぽこじゃ、小便の勢いで小石が飛んでいる、あれを見てごらんよ」という意味である。

NHKの731部隊調査報道

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昨夜(8月13日)、NHKが731部隊(いわゆる石井部隊)に取材した調査報道番組を放送したのを、筆者は驚嘆の念を覚えながら見た。というのも、731部隊の問題は、日本史の最も恥ずべき部分であって、取りようによっては、従軍慰安婦問題よりもはるかに深刻な問題だ。今の日本の政権にとっては、絶対に触れられてもらいたくないことだろう。それをあのNHKが、正面から取り上げて、それを放送したのは、実に感慨深いことである。

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クリムトには裕福な実業家のパトロンがいた。当時のオーストリアの画家には、クリムトに限らずパトロンがついていたものだが、クリムトや分離主義の芸術家を熱心に応援していたのは、ユダヤ人実業家たちだった。鉄鋼業のウィトゲンシュタイン、繊維業のヴェルンドルファー、金属産業のクニップスといった人々だ。クリムトは彼らの家族のために肖像画を描いた。クリムトの肖像画は非常にリアルでしかも芸術性に富んでいるというので、ウィーンの社交界では名声が高かったようだ。

三浦佑之「風土記の世界」

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風土記についての概括的な解説書がないことを嘆いていたところ、ユニークな古事記研究で知られる三浦佑之が、岩波新書という形で出してくれた。これを読むと、風土記成立の歴史的な背景とか、風土記全体を通じての特徴が、かなりの程度わかる。非常に啓発されるところが多い。これをきっかけにして、風土記の紹介が進むことを期待する。

藤を詠む:万葉集を読む

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藤は初夏に花を咲かせるので、夏の季節感を強く感じさせる。その花は、大きな房となって密生し、非常にボリュームを感じさせる。そんなことから藤波と呼ばれることもある。万葉集には、藤を藤波と表現したものが結構ある。それも含めて藤を詠った歌が、万葉集には二十六首ばかりある。

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オリヴァー・ストーンの1986年の映画「プラトーン(Platoon)」は、ベトナム戦争の一齣を描いた作品だ。ベトナム戦争は、アメリカの起した対外戦争の中でもっとも汚い戦争だといわれるが、その汚い戦争の醜悪な面を、オリヴァー・ストーンはヒューマンタッチで描いた。中には見ていられないようなショッキングな場面もあるが、それらは実際に兵士としてベトナム戦争に従軍したストーン自身の体験に根ざしているらしい。

鷲頭山図:白隠の禅画

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鷲頭山は、伊豆半島の西側の付け根にあたるところにある。白隠が住職を勤める松陰寺からは、富士同様によく見える山だ。しかもこの山は仏教伝説ともゆかりがあるというので、白隠は特別の気持を抱いていたにちがいない。この山を描いた絵に、そうした白隠の気持ちが籠められている。

カフカの小説「アメリカ」の最終章である第八章は「オクラホマの野外劇場」と題されている。その題名にある「オクラホマの野外劇場」に就職しようとするカール・ロスマンを、この章は描いているわけだが、一読してすぐわかるように、小説のこれ以前の部分と大きく断絶している。ほとんどつながりがない。オリエンタル・ホテルのエレベータ・ボーイ仲間がちょっと出てくるだけだ。それも、あってもなくても違いがないような、ぞんざいな扱い方だ。それゆえ読者はこの部分を、独立した短編小説として読んでも、なんらの不都合を覚えないだろう。短編小説としてなら、それなりにまとまった筋書きになっている。

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クリムトがオーストリア政府からの注文を受けて作成した「ウィーン大学講堂の天井画」は、クリムトという画家を理解するための鍵を与えてくれる。クリムトはこの仕事のために三点の天井画を描いたのだが、それらに自分の芸術上の信念を盛り込んでいたという意味で、非常にメッセージ性の高い仕事となった。ところが、これら三点の天井画は、いずれも大学当局や政府から激しい拒絶にあった。そこでクリムトは、その拒絶に屈することなく、これを買い戻したのであったが、それらの作品は結局失われてしまった。権力に対抗して自分の芸術的良心を貫いたクリムトだが、その良心は報いられなかったわけだ。一方クリムトと同じくこの仕事の一部を請け負ったフランツ・マッチュは、注文の趣旨にしたがった作品を作ったおかげで、いまでもウィーン大学の講堂を飾っている。もっともそれが高い評価を受けることはないのだが。

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ロバート・レッドフォードの1992年の映画「リバー・ランズ・スルー・イット(River runs through it)」は、禁酒法時代のアメリカの地方都市における宗教的に敬虔な家族を描いたものだ。禁酒法時代におけるアメリカの宗教的雰囲気を描いた作品といえば、「エルマー・ガントリー」や「ペーパームーン」がある。「エルマー・ガントリー」は、リバイバル(信仰復興運動)の指導者をテーマにし、「ペーパームーン」はアメリカ人の信仰を商売のタネにする抜け目のない人間を描いたが、この映画は名もない庶民の家族の宗教的な感情を、控えめに描いている。

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