舞楽図屏風:宗達の世界

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「舞楽図屏風」は、宗達が醍醐寺のために描いたものだ。醍醐寺は、秀吉の花見で有名だが、舞楽とも縁が深いらしい。宗達の「舞楽図屏風」は、そうした醍醐寺の歴史を踏まえていると思える。

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絞首台に首をくくられてぶら下がっているこの男は、どんなイメージを喚起するだろうか。まさか、信仰への受難をイメージさせるとは、誰も思わないのではないか。しかし、この絵の作者がルオーだと知らされると、もしかしたら受難を表わしているのではないか、と思わせられないでもない。キリストの受難は、十字架に張り付けられることであったが、現代の信仰者の受難は、首をくくられることであってもおかしくはない。

戸坂潤「日本イデオロギー論」

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戸坂潤は、戦前のマルクス主義哲学者としてはなばなしい論戦を張った人だ。その鋭い時代批判が官憲の怒りを買い、それがもとで獄死した。そんなこともあって戦後の日本では不屈の思想家として尊敬を集めたりもしたが、マルクス主義が「失墜」したあおりを受けて、今では一部をのぞき読まれることはなくなった。しかしマルクスの言葉ではないが、鼠のかじるにまかせておくのはもったいない人だ。彼の思考のスタイルには鋭い批判意識が込められているので、その方法を見習うだけでも意味があると言える。

笑いのかけあい:万葉集を読む

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万葉集巻十六は、笑いを誘う諧謔の歌が多く収められているが、なかでも互いに相手を笑いあうという珍しい趣向のものがある。これは、一人ではできないことで、かならず笑うべき相手がいる。あえて相手を求めてまで笑いをかけあうというのは、今の日本ではなかなかないことだが、万葉の時代には人々を喜ばすために、よく行われていたのかもしれない。そんな歌のやりとりを取り上げてみたい。

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「真夜中のカーボーイ」という題名は、日本語だけを見せられると、車のマニアかなんかの話だと思わされるが、そうではなくカウボーイがテーマだ。といっても本物のカウボーイではない。カウボーイにあこがれている多少頭の足りない現代人の話だ。その現代人(ジョン・ヴォイト)が、カウボーイの衣装に身を包んでニューヨークに赴き、そこで奇想天外な体験をする、といったたぐいの話である。いわばアメリカ版お上りさんの物語である。

松島図屏風(左隻):宗達の世界

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松島図屏風は左右が一体となって一つの画面を構成しているので、この左隻の図柄は当然、右隻の延長としての風景を描いている。両者をつなげるのは、波打つ海と黄金に輝く浜だ。海はともかくとして、浜の描き方は、かなり様式的だ。その形象は、あたかも雲を思わせる。

「腕くらべ」に描かれた新橋の色街

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荷風の小説「腕くらべ」の舞台は新橋の色街である。新橋というと、今日ではJR線新橋駅の西側一帯をさしていうようになったが、この小説の中の新橋は、いまでいう銀座八丁目から五丁目あたりまでの一帯をさしていた。新橋の地名は、外堀にかかる橋からきたが、その橋の近くに東京で初めての鉄道の駅が出来て、それが新橋ステーションと呼ばれた。そのステーションの真ん前の大通り、これは従来の東海道の一部であるが、その通りを洋風に飾って新時代の目抜き通りに仕立て上げた。するとその目抜き通りの周辺に様々な業種の店が集まってきたが、なかでも芸を売る店の勢いがすさまじく、この一帯はあっというまに東京有数の色街になったというわけである。

トランプ政権が「フェイクニュース賞」なるものを発表した。一位は日ごろトランプを舌鋒鋭く批判している経済学者のポール・クルーグマンで、彼にコラムを提供しているニューヨークタイムズ始め、トランプに批判的な報道をしているメディアが顔をそろえた。「安定した天才」を自負する大統領からこのような賞をもらった人々はどのような気持ちだろうか。

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「深き淵より(De Profundis)」と題するこの絵は、聖書の詩編130に取材している。この詩は、次のような言葉で始まる。「De profundis clamavi ad te, Domine:Domine, exaudi vocem meam. Fiant aures tuae intendentes in vocem deprecationis meae. (深い淵から、主よ、あなたに叫びます。主よ、私の声を聞き入れてください。あなたの耳を傾けてください、嘆き祈る私の声に)」

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1969年のアメリカ映画「明日に向って撃て(Butch Cassidy and the Sundance Kid)」は、いわゆるアメリカン・ニューシネマの傑作と言われているが、これが何故ニューシネマに分類されたのか、いま一つわからないところがある。ニューシネマというのは、アメリカの伝統的な価値観への異議申し立てを最大のコンセプトとしていたと思うのだが、この映画にはそうした要素は希薄、というよりほとんどない。逆に、西部劇が描いていた古き良きアメリカへのノスタルジーのようなものがあふれている。そうしたノスタルジーをかきたてるのが強盗団という反社会的分子であることに、社会秩序への異議申し立てを見てとれないこともないが、異議申し立てが犯罪者礼賛になっては、やはりどこがすっきりしないものが残る。

ハイデガーの著作「ヒューマニズムについて」は、サルトルのヒューマニズムを批判しつつ、彼自身の存在論を展開する。それを単純化して言うと、人間が存在の根拠なのではなく、存在こそが人間の根拠ということである。このことをハイデガーは次のように表現する。「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと『投げ出され』ているのである。しかも、そのように『投げ出され』ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためなのであり、こうしてその結果、存在の光りのなかで、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである」(渡辺二郎訳、以下同じ)

言葉遊びの歌:万葉集を読む

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万葉集巻十六に、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌八首というのが収められている。これは、物の名を歌に詠みこんだもの(物名歌)で、滑稽歌の一首といえる。この巻にはほかに、滑稽をテーマにした歌が数多く収められているが、なかでも意吉麻呂のこの連作は白眉と言えよう。冒頭は次の歌。

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「イージー・ライダー(Easy Rider)」は、アメリカン・ニューシネマの傑作の一つに数えられる。ロードムーヴィーと言う点では「スケアクロウ」と似ているが、「スケアクロウ」には一応目的地らしきものがあるのに対してこちらにはそれらしきものはない。マルディ・グラを見るためにニューオリンズを目指すが、それは一時の気晴らしのためであって、最終的な目的地ではない。また、スケアクロウは徒歩の二人組が主人公なのに対して、こちらはモーターバイクに乗った二人組を描いている。そのバイクが格好いいというので、この映画はバイク好きの連中から熱烈な支持を受けた。

バルト諸国を対ロ攻撃の拠点に

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安倍総理がバルト諸国と東欧の計六カ国を訪問して長期的な関係強化を訴えた。これは、とりあえずは中国包囲網つくりの一環としての意味を持たされているようだが、長い目で見れば対ロ攻撃の拠点つくりに結びつけられる可能性もある。

松島図屏風(右隻):宗達の世界

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六曲一双の「松島図屏風」も、ワシントンのフリーア美術館の所蔵である。国内にある「源氏物語関谷澪標図屏風」と並んで、宗達の金璧障屏画の代表作である。現存するものは六曲一双だが、もともとは六曲四隻だったという指摘もある。左の延長にさらに二隻があって、それらには伊勢物語東下りの場面が描かれていたという説であり、それが事実なら、この図柄は松島ではなく、伊勢の海ということになろう。だが、今では、現存のとおり六曲一双の絵として見、描かれているのは松島だという前提で鑑賞されている。

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「エジプトへの逃避(La fuite en Egypte)」と題するこの絵も、聖書に取材したものだ。福音書によれば、キリストの誕生を祝った東方の三博士が国へ帰ったあと、主の使いがヨセフの夢に現れて、生まれた子と母親を連れてエジプトへ逃れよと言った。ヘロデ王が、その子を殺そうとしているからというのだ。そこでヨセフは、夜の間に嬰児とその母親とを連れてエジプトへ逃れた、という話である。

山川菊栄「幕末の水戸藩」

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山川菊栄は「武家の女性」の中で、幕末における水戸藩士の生態にも触れていたが、この「幕末の水戸藩」は、文字通り幕末期における水戸藩士の生き方に焦点を当てて、くわしく紹介したものである。菊栄自身は明治三年の生まれであり、幕末期の水戸藩の状況を身を以て体験したわけではないが、母方の祖父が水戸弘道館の教授であり、水戸藩の精神的な指導者の一人であったこともあり、また母親の回想を身近に聞いていたこともあって、幕末期の水戸藩の状況を、半ばは当事者として、半ばは第三者として、複合的に見る目を養ったと言える。だから彼女による幕末の水戸藩の紹介は、独特の雰囲気を帯びている。

万葉の女性たち:万葉集を読む

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万葉集巻十六は、娘子伝説の歌に続いて、若い女性をめぐるいくつかの歌を収めている。若い妻の夫への気遣いを歌ったものとか、采女の機転を歌ったものとか、恋人同士が引き裂かれてしまった悲哀を歌ったものである。娘子伝説が、第三者を通じての女性の運命のようなものを歌っているのに対して、これらは、基本的には、当事者である女性自身が詠っている。それだけに、万葉時代の若い女性たちの心意気のようなものが伝わってくる。ここでは、そうした女性たちの歌を、三首取り上げる。

配達されない三通の手紙:野村芳太郎

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野村芳太郎の1979年の映画「配達されない三通の手紙」は、イギリスの推理小説作家エラリー・クィーンの小説を映画化したものだが、日本映画としてはどうもしっくりしないところがある。筋書きが日本人離れしているし、人物の醸し出す雰囲気が日本人らしくない。そのため映画の観客は、どこか別世界の出来事を見せられているような感じになる。娯楽作品としては、別にそれでも不都合なことはないわけだが、野村と言えば社会派映画で通ってきたこともあって、どうもすっきりしない印象を与える。

雲龍図屏風:宗達の水墨画

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「雲龍図屏風」は、「松島図屏風」とともに海外に流出した宗達の傑作。ワシントンのフリーア美術館が所蔵している。水墨画の名品だ。六曲一双の屏風絵で、左右の龍が互いに睨みあっている図柄だ。どちらも背景を黒く塗りつぶすことで、龍の輪郭を浮かび上がらせる工夫をしている。また、波の描き方に、宗達らしい特徴がある。

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