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「十一月の雨」は、昭和31年(1956)の白寿会に出展したもの。時に清方は七十八歳だった。これも「朝夕安居」同様、東京の庶民の暮らしをモチーフにしているが、その服装等から見て、やはり明治の昔の暮らしぶりのようである。清方は、明治という時代に特別の愛着をもっていたようだ。そうした愛着は、随筆からもうかがえる。

ルイ=フェルディナン・セリーヌは、日本語での翻訳もあるが、あまり読まれているとは言えない。彼の母国フランスでも、いまでは忘れられた作家になっているらしい。だから小生も、彼の名前ですら知らなかった。はじめて彼の名前に接したのは、近年読んだ大江健三郎の小説「さようなら私の本よ」を通じてだった。その小説の中で大江は、セリーヌを現代フランス文学の異端の大家のように描いていたものだ。その評価の仕方に面白いものを感じたので、小生はセリーヌの作品を読んでみようという気になったのだった。

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ジェノヴァからローマにもどったカラヴァッジオは、教皇庁の馬丁組合から絵の注文を受けた。完成すれば、聖ピエトロ聖堂に展示されることになっていた。画家としては、聖ピエトロ聖堂に自分の作品が展示されることは最高の名誉と考えられていた。カラヴァッジオにとってもそうだったにちがいない。かれはそれまで何度も、聖ピエトロ聖堂のための仕事をしたいと思いながら、実現しなかったのだ。

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黒沢清の2008年の映画「トウキョウソナタ」は、リストラで解体の危機に瀕した家族の物語である。近年の日本社会は、リストラで生活基盤を失う人や、最初から非正規雇用で不安定な生活を強いられる人が増えているので、この映画はそうした世相を如実に反映したものとして、他人ごとではないという気持ちにさせられる。ホラー映画が得意だった黒沢としては、シリアスな作品だ。

先日は、トランプが大統領選挙に負けたにかかわらず、引き続き大統領の座に居座り続ける可能性が云々されていることを紹介したが、それとは全く反対に、トランプが大統領選挙を投げ出して、下りてしまう可能性を指摘するものもある。そういう指摘が、FOXニュースなど、ほかならぬトランプ応援団から出ているというので、一定程度の信憑性をともなって流通しているそうだ。

維摩経は般若経の思想を一層深めたものである。おそらく般若経の成立から程ない頃に、般若経の思想をより一層明確なものにするために作られたものであろう。般若経の思想は空という言葉に要約され、それを独特のロジック(鈴木大拙のいう即非の論理)で展開したものだったが、維摩経はその空の思想を、更に深めた形で展開した。また、般若経における大乗思想も一層深められた。それは仏国土の概念において顕著である。仏国土とは、現世とは異なったところにある理想的な場所などではなく、現世がそのまま仏国土なのだとし、その仏国土に生きている衆生が、修業をすることで菩薩となり、ほかの衆生をさとりに向けて教導すべきだということを強調するのである。

1987年の12月に、ガザ地区で自然発生的に始まったパレスチナ人のイスラエルへの抵抗は、やがてヨルダン川西岸へも波及し、全占領地での全面的な抵抗運動へと発展していった。これをインティファーダという。インティファーダとは、アラビア語で蜂起とか反乱を意味する言葉で、大規模な民衆蜂起を意味するものとして使われている。

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黒沢清の2001年の映画「回路」は、日本流ホラー映画といったところだ。日本流と言うのは、怪談仕立てになっているからだ。幽霊が出て来て人々を驚かす。しかも驚かすだけではなく、次々と不可解な死に方に誘い込む。それも人類全体がやがて死滅するのではないかという瀬戸際まで人類を追いつめる、といった具合で、やや大袈裟なところが子供だましのようにも見えるが、怪談の伝統を踏まえて、一応大人でも見られるものにはなっている。

今年11月の米大統領選挙でトランプが勝つ可能性はほとんどないだろうと見られている。本人もそのことを自覚していて、もし選挙に負けても、大統領に居座る方策を案じているのではないか、という観測が方々で打ち出されている。NEWSWEEK最新号に出た記事(How Trump could lose the election and still remain president)などは、その典型的なもので、それを読むとぞっとさせられる。そんなことがもし起こったら、アメリカはもはや民主主義国家とは言えない。トランプという独裁者が好き勝手に振る舞う専制国家というべきである。

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「朝夕安居」は昭和二十三年の日展に出展したもの。三つの巻物の形にしてあり、それぞれ朝昼夕の庶民の暮らしぶりが描かれている。その生活ぶりというのは、明治二十年代の東京の庶民の暮らしぶりを回想したものだという。現実の東京の庶民は、敗戦後の混乱の中で、その日暮らしに追われており、とても安居とはいかなかった。

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「書き物をする聖ヒエロニムス」は、カラヴァッジオがボルゲーゼ枢機卿への贈り物として描いたものだ。それにはワケがある。1605年の7月に、カラヴァッジオは傷害事件を起こしたことでジェノヴァに逃走するハメになった。相手は公証人のマリアーノ・パスクワローネ。原因ははっきりしないが、女をめぐるいざこざだったとの指摘もある。結局カラヴァッジオは、パスクワローネと示談してローマに戻ることができた。その示談の成立に、ボルゲーゼ枢機卿が一役かった。カラヴァッジオはそのお礼に、この絵を贈ったというのである。

第十七節以降は、それまでの部分(前半)で説かれたことの繰り返しがほとんどであり、また、前半に見られた論理的な(形式論理から見た)矛盾が一層強まっているように思われる。そこで、節ごとに一々詳細に言及するのではなく、特に目をひく部分を取りあげたい。

ロシアの憲法が、国民投票を経て改正された。ヴラヂーミル・プーチン大統領の仕込んだ改正だという印象があまりに露骨なので、これをプーチンの憲法改正と呼ぶ向きが、ロシア国内を含めて、強く指摘されている。実際この改正によって、プーチンは2036年まで大統領の座にとどまれる可能性が高まったし、その他の点でも、執行権力の強化が図られたようだ。というのも小生は、まだ改正憲法全文をつぶさに読んでいないので、いずれ詳しく読んだうえで、小生なりの批評をまとめてみたいと思っている。

「哲学の貧困」をマルクスはフランス語で書いた。ドイツ語に翻訳されたのは(マルクスの死後)1885年のことで、その折にエンゲルスが長い序文を付した。序文といっても、本文の解説というのではない。ロートベルトゥスへの批判が主な内容だ。ロートベルトゥスはマルクスの批判者で、マルクスが自分の説を剽窃したといって非難した。その非難が的外れであることを、この序文で主張しているのである。

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タイトルにある「カリスマ」とは、謎の樹木の名称である。その謎の樹木に多くの人々が翻弄されるさまを描いているこの映画は、実に奇妙な印象を与える。樹木をめぐって人間同士が対立しあうとも、また樹木が人間を罰しているとも解釈できる。人間同士の争いはよくあることで、それには色々な理由があり、その理由の一つに謎の樹木があってもよい。また、樹木が人間の不遜さを罰するという意味では、現代的な黙示録とも解釈できる。どちらにしても奇妙な映画である。

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清方は敗戦を疎開先の御殿場で迎えた。敗戦はやはりショックだったようで、しばらく制作から遠のいたのだったが、翌昭和21年に、戦後初めての日展が開催されると聞いて、急に創作意欲がわいてきて、一気に描き上げたという作品が、この「春雪」と題する一点だ。

鄭義の小説「神樹」には、抗日戦の話題が出て来る。この小説は中国近現代史が大きなテーマとなっており、その歴史が抗日戦と内戦を抜きに語れない限り、当然のことかもしれない。小生は中国の現代文学をそう読んでいるわけではないが、莫言の歴史ものなども抗日戦の話題を扱っており、中国人にとって抗日戦の話題はいまだに身近なようだ。

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カラヴァッジオは、ナヴォナ広場付近にあるサン・タゴスティーノ聖堂から、「ロレートの聖母」をモチーフにした祭壇画の注文を受けた。バリオーネ裁判が終わった1603年頃のことで、この注文品を翌々年の1605年に納品したようである。結構時間がかかったのは、丁寧に現地取材をしたからと言われている。ロレートとは、キリスト伝説にまつわる土地で、トレンティノの近くにある。そこへキリストの生家がイスラエルから飛来してきたという伝説が生まれ、大勢の人々の信仰を集めていた。

CURE:黒沢清

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黒沢清の1997年の映画「CURE」は、連続猟奇殺人をテーマにしたサイコ・サスペンス映画である。殺人場面が頻出し、それがいかにも陰惨なので、見ていて衝撃を受ける。なにしろ、人の首を十文字状に切り裂き、しかも殺人を犯している人間が、当該行為について明白な意識をもたない。つまり催眠状態で犯しているのである。そこが非常に気味の悪さを感じさせる。

第十節から第十六節にかけては、金剛般若経のもたらす福徳について説く。その際に使われるロジックが独特のもので、これを甚深と言ったり、即非の論理と言ったりする。甚深とは、この経の中で用いられている言葉で、第十四節に出て来る。即非の論理は鈴木大拙が使った言葉で、通常の論理とは異なった金剛般若経独自の論理をさした言葉である。

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