満蒙開拓団の性接待

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いわゆる満蒙開拓団が敗戦直後に、若い女性たちにソ連兵への「性接待」を強要していたということが明らかになり、ちょっとした反響を呼んでいる。この事実を明らかにしたのは、接待を強要された女性たちだ。彼女らのいた開拓団は、岐阜県旧黒川村から集団で満蒙開拓地に渡った人々だが、戦争に敗けるや現地の人々から「迫害」を受けるようになった。そこで治安の維持をソ連側に依頼したが、その見返りとして若い女性を「接待」要員として差し出したということだ。その女性たちは、戦後ずっと沈黙を続けていたが、年をとったいま、「なかったことにはできない」と言って、重い口を開いたということらしい。

江水散花雪:月岡芳年の歴史画

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「江水散花雪」と題した三枚組のこの作品は、いわゆる桜田門外の変を描いたものだ。桜田門外の変とは、安政七年に水戸の浪士ら十数名が大老井伊直弼の一行を江戸城桜田門外で襲撃した事件だ。直弼は安政の大獄など強権的な手法で反対者を弾圧し、開国政策を推進していたが、それを攘夷派に恨まれ、当時の攘夷派の中心だった水戸の浪人たちによって排撃された。

フィンセントの椅子:炎の画家ゴッホ

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これは「黄色い家」のゴッホの部屋に置かれていた椅子を描いたものだ。この変哲も無いものを絵のモチーフに選んだ画家はゴッホ以前にも、ゴッホ以後にもいない。椅子が付随的に描かれることはあっても、椅子そのものをこのように大写しに描くなどとは、誰の頭にも思い浮かばなかったに違いないのだ。

竹内好の東京裁判観

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竹内好は「日本とアジア」と題した文章の中で東京裁判をとりあげ、それを次のように性格づけた。「東京裁判は、日本国家を被告とし、文明を原告として、国家の行為である戦争を裁いた。(日本の起こした)戦争は侵略戦争であり、したがって平和への侵害であり、当然に文明への挑戦である、というのが論告および判決の要旨であった」

学海先生の明治維新その五十六

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 小説の草稿のコピーを区切りのいいところでその都度英策に送ってきたが、その感想を聞いてみたいのと、正月の初詣を兼ねて、小生は英策を誘って成田へ出かけた。いつか上野の谷中墓地を訪ねた時同様、乗る列車を示し合わせて、小生は船橋を十時頃に停車するその列車に乗り、英策は佐倉で乗り込んで来た。一番前の車両だ。これだと成田駅で降りた時に、改札口に一番近い。
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フランク・キャプラは、1942年から45年にかけて「我々は何故戦うかWhy We Fight」と題される戦意高揚映画のシリーズを作った。これらは劇場向けの一般公開を目的としたものではなく、軍人向けの教育映画として作られたものであり、アメリカ軍の依頼に基づくものである。全部で七作からなり、日独伊の枢軸国による無法な侵略を糺弾し、米軍兵士たちの戦意を高揚することをねらっていた。六作目までは、日独伊三国の無法行為を国別に紹介する手法をとり、最後の七作目は「アメリカの参戦」と題して、何故アメリカが第二次世界大戦に参戦したかについて、その経緯を描いている。それまでの六作についての総集編という位置づけを持つとともに、アメリカ参戦をオーソライズするものである。

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晁蓋は水滸伝に出てくる英雄のこと。晁蓋は東渓村に住んでいた。そこから谷を隔てた隣の西渓村には、夜ごと怪物が出て人々を苦しめていた。そこで西渓村の人々は仏塔を建てて怪物を折伏したところ、怪物はたまらくなって東渓村に逃げてきた。その事に怒った晁蓋は、西渓村から仏塔を盗んできて東渓村に立てたところ、怪物は逃げ去っていった。以後晁蓋は托塔天王と呼ばれるようになった。この絵はその物語をイメージ化したものだ。

大江健三郎の小説の世界は死を描くことから始まった。それと同時にセックスにも拘っていた。セックスは生きていることの最大の証であり、いわば死のアンチテーゼのようなものである。事柄の多くはそれ自体としてよりも、それの対立物とのかかわりにおいて最もよくその姿を現すものである。死も例外ではない。死もやはりその対立物たる生とのかかわりにおいて、もっとも明瞭にその姿をあらわす。しかして生の豊饒さはセックスにおいてもっとも純粋に表現される。セックスと死とはだから、不可分のつながりの中にあるのだ。

ジヌー夫人:炎の画家ゴッホ

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ジヌー夫人はアルルで知り合った女性である。カフェの経営者だった。ゴッホは1988年11月にこの女性の肖像を二点油彩画に描いている。これはそのうちの一枚。この他ゴッホは、1890年2月に、ゴーギャンの描いた夫人の肖像を下絵にした作品も作っている。特別の親しみを感じていたのだろう。

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フランク・キャプラの1939年の映画「スミス都へ行く(Mr. Smith Goes to Washington)」は、アメリカ上院の議事の様子をテーマにしたものである。アメリカ上院にはユニークな議事慣行があって、いかなる議員も他の議員の妨害を受けずに自己の主張を続けることができる。基本的には無制限に演説を続けることができるのである。これはおそらく少数意見の尊重を目的としたものだと思われるが、場合によっては議事妨害の手段にもなる。実際映画の中でも、議事妨害だと言っているものもいる。しかしそれによって少数者の意見が尊重される効果はたしかにある。とかく少数派の意見がコケにされる日本の議会にも、見習う価値があるのではないか。

トランプの対中国準戦時政策

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トランプの対中国政策が過激さを増している。中国からの輸入に全面的に関税をかけることで、中国との経済戦争に点火させることをいとわないばかりか、最近は政治的・軍事的側面でも対中国全面対決をにおわす政策を打ち出している。中国を意識した国防力の強化や、リムパックから中国軍を全面的に締め出すといった政策だ。こうした政策を目のあたりにすると、トランプは本気で対中戦争に踏み切るつもりではないかと思わされるところだ。

山人考:柳田国男の日本人論

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「山人考」は「山の人生」とともに大正十五年に出版されたものだが、実際に書かれたのは、「山の人生」が大正二年以降、「山人考」が大正六年とされている。しかしてこの両者は綿密な関連を有している。柳田は「山の人生」によってたどり着いた仮説を前提にして、「山人考」の言説を展開しているのである。学問的な方法論によれば、「山の人生」では個々の現象をもとに一定の法則性を導き出し、それを仮説として整理した上で、今度は個々の現象を仮説によって説明するというやり方をとっているわけである。

学海先生の明治維新その五十五

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 廃藩置県によって藩知事を免ぜられた旧藩主堀田正倫公は政府の方針に従って東京に居住することとなった。一方大参事以下の旧藩士は当分の間現職にとどまるべしとの指示が出された。学海先生もそのまま権大参事の職にとどまったが、いずれ近いうちに辞職するつもりでいた。もはや佐倉藩としての実体を失い、中央政府の出先と化したところにとどまるべきいわれはないと考えたからである
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フランク・キャプラは楽天的なアメリカン・ライフを軽快なタッチで描き出すことが得意だった。1938年に作った「我が家の楽園(You Can't Take It With You)」はその彼の代表作と言える。この映画には底抜けの楽天主義と、それを支える人間たちへの無条件の信頼がある。それでいて、アメリカ映画にありがちなプロテスタント臭さがない。徹底して現世主義的である。原題の You Can't Take It With You とは、金はあの世までは持っていけない、という意味だが、これは主人公の老人が金持ちの老人に向かって吐く言葉だ。いくら金を稼いでも、あの世までは持っていけない。人間の幸福は金では測れない。あの世ではなくこの生きている世の中を楽園に変えるには、もっとほかにやることがあるだろうと言うわけである。

安倍政権の外国人受け入れ政策

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深刻な人手不足を背景に、経済界が外国人の受け入れを拡大して欲しいと安倍政権に強く要望したところ、安倍晋三総理はそれに応える決断をしたと言う。ただし条件付きで。これは移民を容認することではなく、あくまでも短期的な外国人労働の需要に応えるものだと。

西塔ノ鬼若丸(一魁随筆):月岡芳年

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「一魁随筆」とは題していても、文集ではない。錦絵のシリーズである。ここでいう「随筆」とは、勝手気ままに描いたものというほどの意味らしい。全部で十三図からなる。いずれも題名を記した枠を配しているが、その枠の左側には北斗七星の第一星「魁星」が、右側には北斗七星の「斗」の字があしらわれている。

NHKが放映した特集番組「駅の子」を見て、色々考えさせられた。「駅の子」というのは、戦後大量に生まれた戦災孤児たちが、上野を始めとした大都市の駅周辺にたむろしていた様子を表現する言葉だ。こうした戦災孤児は、大都市の駅に限らず、戦後日本のあちこちに大量にいたと思われるのだが、その実態についてはこれまであまり知られることがなかった。この番組はその間隙のようなものを埋めようとする意気込みが感じられ、その意味では評価できると思うのだが、なにせ戦後時間が経過しすぎたこともあり、全貌にせまることは出来ていない。

フィンセントの寝室:炎の画家ゴッホ

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ゴッホは1888年の9月に、既に借りていた「黄色い家」の部屋に移りすみ、そこで本格的な生活を始める。その部屋をゴッホは何枚か描いた。これはその最初のものだ。やがてゴッホはこの部屋にゴーギャンを迎えることになる。

竹内好の戦争責任論

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竹内好が「戦争責任」という言葉を使って日本人の戦争責任問題を正面から論じたのは1960年前後のことだが、その背景には戦争責任の腐蝕現象というべきものがあった。戦後もこの頃になると、戦争を体験しなかった世代が増えてきて、その連中を中心にしていまだに戦争責任もないだろうというような雰囲気が出て来た。竹内がその代表としてあげるのは「怒れる若者たち」と言われる連中だ。この連中は前世代との断絶を標榜し、いまだに戦争にこだわることをバカバカしいと主張した。こういう連中が現われるのは、戦争を体験した世代の戦争についての語り方が、きわめて主観的かつ情動的で、他者との相互理解を深めるような一般化のプロセスが欠けているからだと竹内は考える。体験に埋没している体験は真の体験ではない。それは言葉を通じて一般化されることで初めて真の体験として共有されるというのである。

ボクシング連盟は日本社会の縮図

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日本ボクシング連盟が、会長を先頭にして不正を働いていたというので、大騒ぎになっている。それを見ていると、どうもこれはボクシング連盟だけの問題ではなく、日本的な組織そのものの持つ病理と言うか、生理のありようが反映していると思わざるを得ない。

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