ブログ一時休止のお知らせ

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明日六月十九日から同二十八日までの十日間、小生はドイツに旅行します。ついてはその期間中、当ブログの更新を休止しますのでご了承ください。なお、旅行中の見聞等については、帰国後別途記事にして、当ブログ上で報告する所存ですので、どうかご期待ください。

明恵と慈円:西行を読む

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西行は、自分の手では歌論らしきものを残していないが、彼と触れ合いのあった人々が、その一端に触れているものはある。たとえば、伊勢神社の神官で、西行の歌の弟子となった荒木田満良が蓮阿という名で紹介しているものなどである。ここでは、西行の晩年の歌境に触れているものとして、明恵と慈円を紹介しよう。

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「それでも恋するバルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)」は、二人の若いアメリカ女がスペインのバルセロナを舞台にして繰り広げる恋のアヴァンチュールを描いた映画だ。アメリカ女たちの名前は、タイトルにあるとおりヴィッキーとクリスティーナ。二人はバルセロナへ観光旅行に来ている。その二人の前に、画家を標榜するスペインの色男が現われ、いきなり三人で乱交セックスをやろうと誘われる。さすがにすれた女たちも、この申し出をどう受け取っていいのか戸惑うのだが、そのうち男の魅力に屈服し、一人の男を二人の女が共有するという事態に発展する。男女のやりとりに熟達したスペイン男と、尻軽なアメリカ女たちが繰り広げる行動は、恋のアドヴェンチャーというよりは、セックス賛歌といったほうがよいかもしれない。

楊柳観音:白隠の菩薩像

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白隠の描いた観音像は、慈母のイメージが強い。達磨像を初め男性的な表情における鋭い覇気のようなものに代って、観音像には女性的な優しさが顕れている。その多くは伏し目がちで、控えめな表情をしており、白隠の女性についての理想像が垣間見られる。

内なる辺境:安部公房の異端論

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安部公房のエッセー集「内なる辺境」に収められた三篇の小文はいづれも異端をテーマにしている。安部がこれらの文章を書いたのは、1970年頃のことだが、どういうつもりでこんなテーマを取り上げたのか。異端といえばカミュの「異邦人」の提起した問題意識につながるが、「異邦人」の衝撃は1970年頃にはもう収まっていたはずだから、その影響がこれらの文章を書かせたとはいえないようだ。やはり安部自身の内部に、異端をとりあげさせる動機が潜んでいたのだろう。安部は、正統と異端という対立軸にてらせば当然異端の部類に入るのだろうし、本人もまたそれを自覚していたに違いない。だから彼が自分の生涯の一定の時期に、異端というものを通じて自分に改めて向かい合おうという気になったとしても、それは不自然ではない。

生活圏域を広げるカルガモの母子

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先日(六月六日)、しばらく見かけなかったカルガモの母子を久しぶりに見てうれしくなったことを紹介したが、その後再びカルガモの姿は杳として知れなくなった。最近は雑草が生い茂っていることもあって、その姿を見るのが困難になったせいだろうか、そんなことを思いながら、昨夜などは家人にそのことについて話したら、もう大きくなってどこかに飛んで行ってしまったのではないの、と言われたのだが、雛はまだ飛べるほど成長していないようだ。それに、前述したように、この水路は上流にも下流にも結構大きな落差があって、雛には超えるのが難しい。

吸血鬼:ムンクの不安

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「吸血鬼」と題したこの絵のモチーフは、男の血を吸う女である。この絵は一見すると、女が男を抱擁しているように見えるのだが、実はそうではなく、女が男の首筋に歯を立てて、男の血を吸っているのである。

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「マッチポイント」は、ウディ・アレンの作品としてはシリアス・タッチなものだ。プロットの基本部分はセオドア・ドライザーの「アメリカの悲劇」を下敷きにしている。ブルジョア社会での成功をつかんだ男が、それを失いたくないために、邪魔になった恋人を殺すというのが、ドライザーの小説の基本プロットだが、この映画も、貧乏な青年がブルジョワ社会での成功を失いたくないために、邪魔になった愛人を殺すのである。

熊野純彦「和辻哲郎」

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熊野純彦のこの本は、前半では和辻の人間形成の軌跡を、彼の「自叙伝の試み」を引用しながらたどり、後半では人間形成を成し遂げた和辻がどのような思想を抱くに至ったかを、主に「倫理学」を参照しながら腑分けする。しかして前半と後半とは深いところでつながっている。それをつなげている主なファクターは、和辻の自己意識にあるというのが、どうも熊野の見立てのようである。和辻は姫路市北郊の寒村で生まれ育ったが、そこは非常に貧しい村落で、村民はみな厳しい労働に耐えながら生きていた。労働から解放されていた家は、一軒の寺坊主の家と、医師であった和辻の家だけだった。そこで和辻は、この村落に生涯懐かしい思いを寄せる一方、自分はそこから疎外されているといった感情を抱くに至った。この感情はまたエリート意識の裏返しでもあった。そんなふうに熊野の文章からは伝わってくる。

皇帝トランプに跪拝する臣下たち

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先日、トランプ政権の閣議が公開されたが、その様子があまりにも異様だったので、世界中が驚かされた。というのも、閣僚たちが次々とトランプ大統領に向かって最大限の賛辞を捧げたその様子が、皇帝に対する臣下の忠誠のように見えたからだ。いまどき臣下が皇帝に忠誠を誓う国と言えば、先進国の間ではどこにもない。だから先進国のメディアは、この様子をこぞって、おもしろおかしく報道した。中には、トランプ政権を中国の習近平政権に譬え、どちらも皇帝への個人崇拝を皇帝自らが強要しているとして、その異常さを比較しているものもある。英紙 Guardian の記事はその代表的なものだ。後日の参考のために、引用しておきたい。

法華経:西行を読む

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「山家集」には、法華経を読んでの感想を詠んだ歌が十数首収められている。このほか「聞書集」には、「法華経廿八品」と題して、法華経二十八品のそれぞれすべてに対応する歌が収められている。これらはみな西行の若い頃に詠んだものと考えられる。待賢門院の落飾を祝うために、若い西行が法華経の書写を有力者に求めたことが藤原頼長の日記「台記」にあるし、また西行が出家して最初に修行のためにこもった鞍馬寺が、延暦寺の末寺として法華経を講じていたらしいことなどから、若い頃の西行が法華経に強い関心を持っていたことは十分に考えられる。法華経を詠んだ以上の一連の歌は、そうした境地から生み出されたのであろう。

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ウディ・アレンの作品「世界中がアイ・ラヴ・ユー(Everyone says I love you)」は、ミュージカル仕立てのラヴ・コメディである。完全なミュージカルではないが、随所に歌と踊りを取り混ぜて祝祭的な雰囲気を演出している。テーマは無論男女の愛だ。アメリカのミュージカルといえば、男女の愛をテーマにしないものはない。ウディ・アレンもその伝統に倣ったということだろう。

出山釈迦:白隠の禅画

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「出山釈迦」と題したこの絵は、山中で修行を重ね、悟りを開いた釈迦が山を下りてゆくところを描く。仏教の経典では、釈迦は川のほとりの菩提樹の木の下で瞑想し、悟りを開いた後は梵天の勧めに従って衆生の教化を始めたということになっている。川と山の違いはあるが、悟りを開いた釈迦が衆生の教化のために歩み出したというイメージは共通しているようである。

声:ムンクの不安

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「声」と題するこの絵は、森の中で、月光を反射した湖を背後にして立つ女性を描いたもの。この絵の特徴は、モチーフの女性が朦朧としたイメージになっていることと、それに対比して背景が強い色価で描かれていることだ。主な目的は神秘的な風景を描くことで、女性はその神秘性を目出させる為の小道具だといわんばかりである。

海舟座談を読む

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「海舟座談」は、巌本善治が晩年の勝海舟から聞書きした話を一冊にまとめたものに、海舟生前にかかわりのあった人物からの回想談を加えたものである。巌本は、教育者兼ジャーナリストで、どういういきさつから海舟と昵懇になったかよくわからぬが、晩年の海舟はこの男に気を許し、自分の生涯について色々語って聞かせた。海舟が死んだのは明治三十二年の一月十四日のことだが、そのわずか五日前の一月九日にも、海舟は巌本に会って、話を聞かせている。巌本が海舟から話を聞きたがったのは、その頃修史事業が活発になって、明治維新にかかわる資料の発掘が盛んになっていたことと、明治維新における海舟の行動に感心が集まっていたことを反映しているようだ。巌本とは別に、吉本譲が海舟の語録なるものを編集して「氷川清話」を出版したということもあった。

イギリスのメイ政権が敗北した意味

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イギリスで総選挙が行われ、事前の予測に反して、メイ首相率いる保守党が敗退した。敗退というのは、これまで単独で過半数を占めていたものが、過半数を割り込んだという意味だ。メイ首相が、単独過半数という財産を犠牲にしてまで、まだ三年も任期を残している下院を解散した理由は、自分自身選挙の洗礼を受けておらず、その点で正統性に疑問を投げられていることについて、選挙で過半数を取ることで、その正統性を得たいという思惑があったからであり、また、その選挙に勝つ自信があったということだった。ところが、そうした見込みに反して、メイ首相の保守党は過半数を割ることとなり、彼女の政権基盤は一層不安定になった。そのことで、彼女はわざわざやらなくてもすんだことをやって、自分の墓穴を掘ったとあざけられる始末だ。

地獄絵:西行を読む

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「聞書集」には、「地獄絵を見て」と題する歌以下、地獄絵を見た感想を詠んだものが二十七首載っている。「聞書集」は西行最晩年の歌集と考えられるところから、これら一連の歌も、「たはぶれ歌」同様西行最晩年の作と考えられる。「地獄絵」というのは、浄土信仰の普及に伴って、極楽浄土の素晴らしさを強調するための反面教師のようなものとして、描かれたもののようで、その背後には源信の「往生要集」の影響を見ることが出来る。西行は往生要集を読んでいただろうから、そこでの記述にあらわれた地獄の様子を思い描きながら、地獄絵を見たと思われる。

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「ハンナとその姉妹(Hannah and her sisters)」は、「アニー・ホール」とともにウディ・アレンの代表作といってよい。どちらも、ニューヨークを舞台にしてアメリカ人のシティ・ライフを描いている。「アニー・ホール」では、アニー・ホールという名の女性とウディ・アレンとの、セックスを中心とした都会人の男女関係のあり方が描かれてきたが、「ハンナ」では、ハンナとその二人の妹たちを囲んで、いくつかのパターンの男女関係が描かれる。人間の生きざま、すくなくともニューヨークに生きている成年男女の生きざまは、究極的には男女関係に集約されるというのが、この映画の基本的なコンセプトである。

苦行釈迦:白隠の禅画

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白隠は、禅宗の祖師を描いたほか、釈迦や菩薩の絵も描いた。そのうち、白隠の描く釈迦は、説法をしたり衆生済度を行う尊い姿ではなく、修行中の姿を描いたものがほとんどだ。修行をする釈迦に、己の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

賭:安部公房の歪曲空間譚

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安部公房の小説世界は、デビューしたてのしょっぱなから独特の空間感覚に彩られていた。たとえば「壁」では、現実界と異界とが壁一つを隔てて接しあっていたし、「水中都市」では現実界としての日常空間が異界としての水中空間に突然変化するといった具合だ。そうした安部独特の空間感覚が本格的に表明されたのが1960年の短編小説「賭」だ。この小説の中で安部は、日常空間の中に織り込まれた異界空間を描いている。その空間は日常空間の隙間をふさぐようにして忍び込んだ空間であるとされるから、イメージとしては歪曲しているように受け取れる。それを今流行の異次元空間といわずに歪曲空間というべきなのは、そのためである。

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