恋の歌(相聞歌):万葉集を読む

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万葉集には恋の歌が多い。それは、万葉の時代の人々が恋多き人だったことの反映のようなものである。つまり日本人は、大昔から恋心が豊かな人種だったわけである。なぜ万葉人はそんなに恋にこだわったのか。一つには、万葉人が本質的に色好みだったという事情もあろう。しかしそれ以上に重要なのは、万葉時代の男女のあり方である。万葉時代の婚姻形態は、妻訪婚といって、男が女の家に赴いて、一夜を一緒に過ごすという形が基本であった。これは、もっと昔の古代社会における家族関係の基本が女系家族だったことの名残と思われる。いづれにしても万葉の時代の男女は、いまの時代の男女のように、一軒の家で共同生活を営んでいたわけではなかったのである。そんなわけであるから、男女関係を強固なものに維持する為に、絶え間のないコミュニケーションが必要となった。歌はこのコミュニケーションのメディアとして発達したのである。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1970年の映画「砂丘(Zabriskie Point)」は、ハリウッドで作られた。主な舞台はカリフォルニアの砂漠であり、テーマは1960年代のアメリカ文化に対する複雑な反応であるといえる。というのもこの映画には、当時のアメリカ社会への意義申し立て、それは一言でいえば反体制とヒッピー文化といってもよいが、それを描きながらも、別段それに同情的であるわけでもなく、そういうアンチ文化を体現している主人公たちは、亡びるべき存在として描かれているからだ。

文殊菩薩騎獅像:快慶

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文殊菩薩騎獅像は、奈良の文殊院の本尊として作られた。文殊院は大化の改新時代の官僚安倍倉梯麻呂の氏寺として創建された寺で、安倍文殊院とも呼ばれている。この像は寺の本尊として、善財童子以下の眷属四像をしたがえ、獅子に騎乗した姿であらわされている。獅子は本来文殊の乗り物である。

ユーディットⅡ:クリムトのエロス

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クリムトは、1901年に続いて1909年にもユーディットをテーマにした絵を制作した。世紀末をまたいだ時代のヨーロッパでは、サロメとかユーディットがファム・ファタールの典型として人気を博していたので、この絵もそうした人気に便乗したものだと思われる。便乗するということばかりではなく、クリムト自身にもファム・ファタールへの強い嗜好があったようだ。

幸徳秋水の帝国主義論

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幸徳秋水が「二十世紀の怪物帝国主義」を執筆したのは明治三十三年から翌年にかけてのこと。ちょうど十九世紀から二十世紀への移り目のときである。この時期は、列強諸国による海外侵略と領土の分割がピークを迎えており、そうした動きが「帝国主義」という名で観念されるようになっていたが、帝国主義を論じた本格的な研究はまだ現れていなかった。そういう中での秋水の帝国主義論は、国際的にも一定の存在意義を認められよう。

冬梅を詠む:万葉集を読む

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万葉集には、梅の花を詠った歌が百十九首あるが、そのうち三分の一ほどが冬梅を詠ったものである。その冬梅は、白い花を咲かすので、雪が積もったさまに似ていた。そこで冬梅の歌は、雪と一緒に詠われることが多かった。次は、大伴旅人のものと思われる歌二首。
  残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも(849)
  雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも(850)
一首目は、残雪と共に咲いている梅の花は、雪が消えたあとまで咲き残っていて欲しいという趣旨で、二首目は、梅の花が雪の色を凌いで咲き誇っている、その花の盛りを一緒に見る人がいればよいのに、という趣旨である。どちらも、雪と梅とをライバル同士に見立てている。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1967年の映画「欲望(Blow Up)」は、いわゆる愛の不毛三部作に続いて作られた。愛の不毛三部作でアントニオーニが描いたのは、男女の不条理な関係についてだったが、この「欲望」からは、およそ人間が生きていることの不条理のようなものを描きたい、というアントニオーニの意思が伝わってくる。意思が伝わってくる、というのは、かならずしもそれが理解可能ということを意味しないということだ。

僧形八幡像:快慶

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快慶は、建仁年間(1201-03)に作風の転換期を迎え、中期の段階に入ったといえる。いまだ前期同様安阿弥陀仏の署名をしてはいるが、その作風には、前期の特徴である写実に加え、優美繊細さが目だってきた。これは、この時期の快慶が、宋風、藤原彫刻、奈良の伝統的な様式を丹念に取り入れたことの結果だったと考えられる。こうした試みを通じて快慶は、運慶とはまた違った、彼独特の作風を確立していった。

ジル・ドルーズとフェリックス・ガタリの共著「カフカ」は、次のような文章から始まっている。「カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴」である(「カフカ」宇波彰、岩田行一訳)。

ダナエ(Danae):クリムトのエロス

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ダナエはギリシャ神話に出てくるキャラクターである。その美しさをゼウスに見そめられたが、彼女が生んだ子は父親を殺すであろうとの予言を信じた父が彼女を塔の中に幽閉して、男を近づけさせないようにした。そこで彼女が恋しいゼウスは、黄金の雨となって塔の窓から侵入した。その結果生まれたのが英雄ペルセウスである。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1957年の映画「さすらい」は、女に捨てられた男の悲哀を描いた作品だ。これをアントニオーニは自分自身の経験をもとに作ったという。彼は最初の妻からいきなり別れを告げられ、気が動転したそうだが、その折の自分の気持をこの映画で表わしたというのだ。この映画が独特の切迫感と哀愁を以てせまってくるのは、そうした生きられた体験のもたらすところらしい。

死への存在:ハイデガー「存在と時間」

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人間は死すべき存在だということは、昔からわかりきったことだ。だが、そのわかりきったことを、西洋の哲学は表立って問題にしてこなかった。むしろ、人間にとって永遠とは何なのか、というような場違いな問題設定がなされてきた。プラトンのイデア論などは、ある意味そうした場違いな問題設定の典型だったと言えなくもない。なぜなら、イデアという永遠・不変なものを存在の本質とし、人間がそれにあずかることを問題として取り上げたことで、人間が死すべき存在だという厳然とした事実から、人間の目をそらし続けてきたからである。

雪を詠む:万葉集を読む

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万葉集には、雪を詠んだ歌が百五十首以上もある。それらが、冬の季節感を詠んだ歌の大部分を占める。日本人は、雪について、かなりきめ細かい感性を持って接していたといえるが、そのことは雪を表現する言葉の多様さにも現われている。淡雪、沫雪、深雪、初雪、白雪、はだれ雪、などといった言葉がそれである。

曽根崎心中:増村保造

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「曽根崎心中」は、日本の演芸史にとって画期的な作品だけあって、我々今日の日本人の眼にも実に新鮮に映る。題材が男女の命をかけた恋であることが、時代を超えた普遍性のようなものを感じさせるからだろう。演劇という点では、様式的にも構成上も稚拙なところはあるが、それを補って余りある迫力がある。その迫力とは、恋に命をかける男女の情熱に由来するのであって、それは先程もいったように、時代を超えて見るものに訴えかける。

アメリカ人が銃を捨てない理由

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膨大な数の犠牲者を出したラス・ヴェガスの銃乱射事件が、アメリカにおける銃規制のあり方についての議論を活発化させたが、どうやら今回も尻切れトンボの幕切れとなって、銃規制が本格的に進む見込みはないようだ。何しろ今回の事件は、今年に入って以来複数の死者を出したマス・シューティングとしては273番目の事件だというのに、ということは毎日のようにアメリカのどこかで銃乱射事件が起きていると言うのに、それを規制しようという議論が一向に本格化しないのは、我々日本人の目には異様に見える。

浄土寺阿弥陀如来像:快慶

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快慶初期の傑作のひとつに、浄土寺の阿弥陀三尊像がある。本尊の阿弥陀像が像高530cm、両脇時が370cmと、非常に規模の大きな仏像である。「浄土寺縁起」によると、建久八年(1197)に丹波法眼懐慶によって作られたとあるが、この懐慶とは快慶をさす。「丹波法眼」とした理由はよくわからない。

接吻(Der Kuß):クリムトのエロス

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金色を多用したクリムトの「黄金様式」を代表する作品である。男女が抱き合う構図はベートーベン・フリーズの中にも見られたが、そこでは男の大きな背中に隠れて女の表情は見えなかった。この絵の場合には女性の恍惚とした表情があらわにされ、彼女の顔に口付けする男の顔は半分見えるだけである。クリムトは、男女の接吻を描きながら、女のほうに比重をおいているわけである。

幸徳秋水の遺書

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幸徳秋水は、明治43年の6月に大逆罪の容疑で逮捕され、翌明治44年1月に死刑の判決を受け、一週間以内に刑を執行されて死んだ。秋水の共犯とされた24名にも死刑が言い渡されたが、そのうちの半分は明治天皇の恩赦が行われ、刑一等を減じられて無期懲役となり、秋水を含めた12名が実際に死刑になった。この事件は、その後の研究によって、権力によるフレームアップであったことが明らかにされている。そのフレームアップを検事として指揮したのは、後に総理大臣に上り詰めた平沼麒一郎だ。平沼は、首相桂太郎のほか、明治天皇自身の強い意向を受けて、このフレームアップを指揮したと、研究者の一人神崎清は指摘している。

冬の歌:万葉集を読む

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万葉集の中で、冬を詠った歌といえば、圧倒的に雪を詠んだものが多い。それとあわせて、冬のうちに咲く梅を詠んだものがある。梅は、いまでは初春の風物として受け取られているが、旧暦では、今の正月にあたる時節はまだ冬なので、その頃に咲く梅が冬の風物として受け取られた。万葉の時代の梅は、白梅だったことから、それが咲くさまが、枝に積もった雪と似ていた。そこで、万葉の歌では、梅と雪とを関連付けて詠った歌が多い。

痴人の愛:増村保造

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「痴人の愛」は、谷崎の実体験を踏まえた小説だ。実体験を盛り込むに当たっては、当然自分自身の面子が意識に上るだろうから、いくらエロ・グロなテーマを扱っていても、そこには自分の尊厳へのこだわりがいくらか働くものだ。この小説の場合には、谷崎の分身たる主人公が、女に溺れてしまったのは、女の尊い美しさと、それについての男の美意識が相乗的に働いた結果であって、なにも下世話な意図がもたらしたものではない、というようなメッセージが、谷崎一流のレトリックで発せられているわけだ。だから読者は、そのメッセージを受け損なうと、この小説を正しく受容することはできない。そのように少なくとも谷崎本人は思っていたに違いない。

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