知の快楽

資本論第二巻の総題は「資本の流通過程」である。第一巻は「資本の生産過程」であり、その主な内容は、剰余価値の源泉についての考察であった。それに先行するかたちで価値形態論が論じられ、特殊な商品としての貨幣の本質が語られた。資本はその貨幣の形を通じて自己の運動を貫徹する。資本の目的は剰余価値の獲得である。剰余価値は資本の生産過程を通じて生まれるが、無条件に実現するわけではない。それが剰余価値として実現するためには、生産された商品が適正な価格で売れなくてはならない。すなわち資本は流通過程を通じてはじめて自己の目的たる剰余価値の取得を実現できるわけである。マルクスが資本の生産過程に続いて資本の流通過程をくわしく論じるわけはそこにある。

資本論全三巻のうちマルクスが生前に刊行したのは第一巻のみで、残された部分は盟友のエンゲルスの手によって編集・刊行された。第二巻の刊行は、マルクスの死後二年目の1985年、第三巻の刊行は更にその九年後の1894年のことである。第二巻の刊行にあたってエンゲルスは序文を付し、マルクスの残した草稿をどのように編集したかとか、資本論全体についてのマルクスの構想などについて説明している。

資本主義的生産は、商品生産者たちの手の中に相当の資本と労働力とがあることを前提としている。資本とは生産のための手段とか材料のことであり、労働力はそれに結合されることで剰余価値を生みだす源泉である。この両者がなければ資本主義的生産はなりたたない。経済学は、神学が原罪を論じるのと同じような具合に、これらの起源を無限の過去の物語として論じる。ずっと昔のそのまた昔に、一方では勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方には怠け者で、あらゆる持ち物を、又それ以上を使い果たしてしまうクズどもがあった、というわけである。

ジェレミー・ベンサムといえば、功利主義の先駆的思想家という位置づけを付与されている。そのベンサムをマルクスは、「生粋の俗物」、「十九世紀の平凡な市民常識の面白くもない知ったかぶりで多弁な託宣者」と呼んだ。

資本の蓄積はますます多くの労働者を労働力として吸収するが、しかしそのことで労働力の絶対的不足という事態はおこらないとマルクスは考える。絶対的不足が起る前に、労働への重要が労賃の上昇をもたらし、それが剰余価値の減少につながり、剰余価値の減少が資本の蓄積にストップをかけるからだというのである。資本主義的生産は、つねに過剰な労働力を伴っている。その過剰な労働力が労働の供給圧力として働き、労賃の上昇を妨げ、そのことによって剰余価値の生産を可能にする。この過剰な労働力のことをマルクスは相対的過剰人口と呼ぶ。そして、その相対的過剰人口こそは資本主義的生産に固有の人口法則なのだというのである。

資本の蓄積は、剰余価値を資本に転化することによって促進される。資本の蓄積は資本の集積を生む。資本の集積とは、資本が外延的に拡大することを意味する。要するに資本の絶対的な量が増大することである。資本論第七編「資本の蓄積過程」は、資本の集積が労働に及ぼす影響を主として考察する。

資本論第一部第七編は「資本の蓄積過程」と題して、剰余価値の資本への転化を論じる。剰余価値の資本への転化は、資本主義的生産の拡大、つまり拡大再生産をもたらし、それによって資本主義経済の不断の拡大・発展をもたらす。資本主義経済は、拡大するように宿命づけられているというのがマルクスの基本的見解である。それは今日の主流派の経済学も共有している見解だ。経済はつねに右肩上がりに成長していくことを、経済学は暗黙の前提にしている。経済が成長しないで停滞状態にあるというのは、不健全であることを超えて、ありえないことだと認識されるのである。停滞は安定とは違う。安定とは適度な成長を意味するのだ。

資本主義経済システムにおいては、労働力も商品としてあらわれる。商品であるから当然価格がつく。労働力の価格は賃金という形をとる。その賃金はどのようにして決まるか。資本の利益を代弁する主流派の経済学は、賃金も労働に対する需要と供給のバランスによって決まるとする。これに対してマルクスは、賃金は労働力の再生産に必要な金額で決まるとした。

労賃という概念は、アダム・スミスに始まる古典派経済学に特有の概念だとマルクスは言う。労賃は、労働力の価値ではなく、労働の価値によって基礎づけられる。人間そのものの価値ではなく、人間の一定の労働に対して支払われる価格、それが労賃だと言うわけである。そうすることによって古典派経済学は、労働力という商品に含まれている価値と使用価値、それに対応する支払賃金と不払い賃金の対立・矛盾といったものを覆い隠す、とマルクスは批判するのだ。

マルクスが剰余価値と呼ぶものを、主流派の経済学(リカードやミルに代表される)は利潤と呼ぶ。どちらも物理的には、つまり量的には同じものである。だが、その意義は違うとマルクスは主張する。剰余価値は、労働力の再生産に必要な労働=必要労働を超える剰余労働によってもたらされる。だから、剰余価値率は剰余労働/必要労働となる。これに対して主流派経済学のいう利潤率は、労働を含めた投下資本に対する利潤の割合のことをいう。

マニュファクチャーから大工業への発展は、機械によって媒介される。マニュファクチャーは、文字通り人間の身体が生産の主体であった。人間が直接生産物を作るのであって、それに労働手段が、文字通り手段としてかかわっていたに過ぎない。主人は人間であって、労働手段はその付随物だった。ところが大工業は、この関係を逆転させた。機械が主人となって、人間はそれに付随するものとなった。主人は機械であり、人間は機械によって使われる従者になるわけだ。その関係を象徴的に表現したものとして、ルネ・クレールやチャーリー・チャップリンの映画がある。これらの映画(「自由を我らに」や「モダン・タイムズ」)は、20世紀のものであり、機械工業はマルクスの見ていたものとは比較にならぬほど発展していたが、人間が機械に使われるという点では、基本的な違いはないのである。

剰余価値は、剰余労働からもたらされる。したがって、剰余価値を増大させるためには、剰余労働の絶対的な長さを拡大すればいいわけだ。それはとりあえずは、労働日の延長というかたちをとる。労働日は、マルクスによれば、必要労働時間と剰余労働時間からなっているが、必要労働時間を所与とすれば、労働日の延長は剰余労働時間の延長につながる。これによってもたらされる剰余価値をマルクスは絶対的剰余価値と呼んでいる。

労働者の一日あたりの労働時間を、マルクスは労働日の問題として取り上げている。労働日はどのようにして設定されるのか。資本の側からすれば、労働日は長ければ長いだけよい。しかし一日には二十四時間という時間的な限界があるし、一人の労働者を休みなく働かせることもできない。一方労働者の側からすれば、労働日は短ければ短いほど良い。その下限は、労働力の交換価値を生みだす労働量に一致するであろう。その水準でならば、労働者は自分の本来の価値で労働力を売ったことになるが、しかし資本家の為の剰余労働を生み出すことはない。そんなわけで労働日は、二十四時間を上限とし、必要労働を下限とする範囲内で決まることになる。それを決めるのは、資本と労働との間の闘争である。

資本家の目的は剰余価値の取得である。剰余価値とは、生産物を売った結果得られる収入が、生産に必要とされた費用を上回る部分で、今日の主流経済学はこれを利潤と呼んでいる。主流経済学は、利潤率を生産のために投下された総費用との関係において計算するが(利潤率=利潤/労賃を含む生産に必要な総費用)、マルクスは剰余価値について全く違う計算の仕方をする。

マルクスは剰余価値の分析を、労働過程の分析から始めている。剰余価値を生むのは人間の労働だからである。だが労働がそのまま剰余価値を生むわけではない。剰余価値を生むのは、商品としての人間労働である。その商品としての人間労働=労働力を、資本がその価値に応じた価格で買い取り、その使用価値としての労働を消費することで剰余価値を生みだすわけである。

資本とは何かについて、マルクスは形式的な定義はしていないが、商品流通から生まれ、貨幣という形態をとり、しかも自己を増殖するものというふうに捉えている。単純化して言えば、自己の価値を増殖する貨幣(自己増殖する貨幣)ということになる。資本が貨幣であるのは、資本主義社会においては、貨幣こそが価値の一般的な現象形態であるからだ。

マルクスの貨幣論の特徴は、貨幣を特殊な商品と見ることである。あらゆる商品には、他の商品に対する等価物としての機能があるが、この機能が一般化して、他のあらゆる商品に対する一般的等価物になったものが貨幣だとマルクスは見るのである。そのようなものとして、諸商品の価値の尺度となることが貨幣の基本的な機能である。この機能にもとづいて、流通手段としての機能や支払い手段としての機能が付加される。それに付随して、貨幣の蓄蔵とか信用取引といった現象が生じるとされる。

資本論第一篇第一章第四節「商品の呪物的性格とその秘密」と題した部分は、のちに物象化論についての議論を巻き起こした。マルクス自身はこの部分で「物象化」という言葉は使っておらず、商品の呪物的性格あるいは呪物崇拝という言葉を使っているが、内容的には同じである。そこで物象化の概念的な内容を一応定義しておく必要があろう。

資本論は商品の分析から始まる。商品というのは、交換つまり売買を目的に生産されるもので、当然価格がついている。マルクスはその価格の根拠としての人間労働を考察したうえで、その人間労働の受肉したものが価値だとした。労働価値説である。労働価値説は、マルクスが経済学研究を始めた頃には、経済学の常識になっていた。その労働価値説にもとづいて、商品の価値を分析し、商品の取引の過程を通じて特殊な商品としての貴金属が貨幣に転化するさまを分析した。更にその貨幣が資本へと転化する過程を追っていくのであるが、その叙述の方法はヘーゲルの論理学のそれを強く感じさせる。マルクスのそうしたところについては、資本論とヘーゲル論理学の比較として、興味深いテーマになるだろう。

マルクスの経済学研究の成果は、「資本論」という形で現われる計画であった。その全体像のうち、マルクスの生前に公表されたのは、今日「資本論」第一部とされている部分であり、残余の部分については、エンゲルスの手によって、「資本論」第二部及び第三部という形で公表されたことは周知のとおりである。

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