知の快楽

ドゥルーズ=ガタリは、精神分析と分裂者分析とを資本主義分析の二つの対立しあう理論体系として捉える。分裂者分析という奇妙な言葉を発明したのはかれらだが、それはフロイトの精神分析に一定の敬意を払っているからだろう。精神分析は資本主義の従僕として、それに帰属し、資本主義の利益のために働く。それに対して、分裂者分析は、精神分析の虚偽性をあばき、精神分析が提示する欺瞞的な概念たるオイディプスに攻撃を加える。分裂者分析の役割は、なににもまして破壊にある、「破壊せよ。破壊せよ。分裂者分析の仕事は破壊を通じて行われる」(市倉訳)。分裂者分析は、「全力をあげて必要な破壊に専念しなければならないのだ。信仰や表象を、劇場の舞台を破壊せよ。そしてこの仕事に従事するためには、分裂者はいかに敵意ある活動をするとしても、決してしすぎるということにはならないであろう。オイディプスと去勢とを破壊せよ」。

精神分析と資本主義の結びつきは、ポリティカル経済学(政治経済学)と資本主義との結びつきと同じほどに深いとドゥルーズ=ガタリはいう。ポリティカル経済学の資本主義への貢献は、抽象的主観的労働を発見し、それを資本のために最大限活用させるための理論的根拠を提供したことである。精神分析の資本主義への貢献は、欲望する生産における抽象的主観的リビドーを発見し、それによって資本主義に堅固な基盤を与えたことである。資本主義は基本的には社会的生産であるが、しかしそれは生きた人間によって活気を付される。その活気は家庭を通じて個人に備給される。資本主義システムは、そうした家庭主義的な要素に支えられているのである。

ドゥルーズ=ガタリが資本主義について否定的なのは、二つの理由による。一つは、資本主義が西洋的な社会システムの行きついた先であるということである。ドゥルーズはもともと、ニーチェに触発される形で、西洋の伝統哲学の解体と、それにかわる新しい思想の構築を目指していた。そんなかれにとって、資本主義は、西洋の哲学的伝統が体現されたものだと映った。だから、西洋哲学の解体と資本主義の否定はパラレルな関係にある。西洋の伝統哲学を解体するためには、資本主義を否定する必要がある。資本主義を温存したままでは、西洋哲学の解体などなしえないのである。

ドゥルーズ=ガタリの社会理論は、国家を中核概念として成り立っている。かれらは自らの国家論を、マルクスを常に意識しながら展開しているが、マルクスの国家は上部構造として扱われたのに対して、かれらの国家はあらゆる社会を成り立たせるための基盤あるいは土台である。かれらの社会理論は、原子土地機械の分析からはじまるのであるが、その原子土地機械の上に国家が成立する、その国家は、マルクスの国家とは違って、上部構造ではなく下部構造をなす。なぜなら、国家とは、かれらによれば、欲望の主体であり、その対象であるからだ。欲望とは精神現象としての上部構造ではなく、社会をなりたたせるための下部構造なのである。

神経症と精神病は、資本主義の生んだ障碍だとドゥルーズ=ガタリは考える。神経症は個人の資本主義への過剰な適応の産物であり、精神病は個人が資本主義への適応から脱落し、あるいはそこから排除された状態をさす、とかれらは考える。いずれにせよ、神経症も精神病(分裂症)も、資本主義に固有な精神障碍である。それらは、資本主義以前の社会においては、基本的には存在しなかったし、また、資本主義が死滅した後では、存在する根拠がなくなる。

「アンチ・オイディプス」と題する著作の中で、ドゥルーズ=ガタリが意図したのは、資本主義の批判であった。資本主義を根本から批判することで、その限界を明らかにし、別のもっとましなシステムへの展望を示すことがかれらの目的だったといえる。なぜ、そんなことを意図したのか。資本主義こそが西洋的な社会システムの行きついた先であり、したがってそれを超えなければ、新しい社会の展望は得られない。西洋の伝統哲学の解体を目的としてきたドゥルーズにとっては、資本主義こそが西洋文化の土台であるかぎり、西洋の伝統哲学を踏まえた思想はその土台の上に咲いたあだ花とみなすべきである。そのあだ花を、ドゥとルーズはガタリとともに、フロイトの精神分析に認めた。フロイトの精神分析こそは、西洋の伝統哲学の最終的な形なのである。したがって、フロイトの精神分析の思想を解体すれば、西洋の伝統思想の解体という理想に限りなく近づくことができる、そのように考えるのは不自然ではない。

「アンチ・オイディプス」という書物の第一章のタイトルは「欲望する諸機械」であり、その第一節は「欲望する生産」と題されている。「欲望する諸機械」といい「欲望する生産」といい、実に奇妙な言葉である。どちらの言葉にも欲望という言葉が含まれているから、どうやら欲望がカギを握っているようである。実際、欲望という言葉は、この書物のいたるところで現れるから、この書物の提示する思想の中核をなすものだと見当がつく。それが諸機械と結びついたり、生産と結びついたりする。しかし、欲望が諸機械と結びついたり、生産と結びついたりするというのはどういうことか。欲望は極めて人間的な感情を表す言葉であり、機械とは直接結びつきそうにない。機械は人間がそれを用いて対象に働きかけるための道具のようなものではないのか。だから、欲望の主体は人間であり、その人間が機械を用いて対象に働きかけるということはできるが、機械そのものが欲望するとはいえないのではないか。「欲望する諸機械」とは、機械そのものが欲望するというイメージを喚起する言葉だ。「欲望する生産」という言葉についても、同じようなことが言える。欲望の主体としての人間が何者かを生産するということはできるが、生産そのものが欲望だとは言えないであろう。

「アンチ・オイディプス」は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが初めて共同で執筆した作品だ。二人が出会ったのは1968年のことで、それから四年後にこの著作を出している。その後、「カフカ=マイナー文学とはなにか」(1974)、「リゾーム」(1976)、「千のプラトー」(1980)、「哲学とは何か」(1891)を共同執筆し、密接な関係を保った。ガタリが死んだのは1992年であり、ドゥルーズはその四年後に死んでいる。

「意味の論理学」には、「シミュラークルと古代哲学」と題する付論があって、二つの文章からなっている。一つは「プラトンとシミュラークル」といい、プラトン哲学の転倒に果たすシミュラークルの役割について、もう一つは「ルクレチウスとシミュラークル」といい、ルクレチウスやその先駆者エピクロスの思想がシミュラークルについての最初の積極的な議論を含んでいたということついて論じている。そこでシミュラークルという言葉が問題になるが、これは、シミュラシオンの類語であり、疑似とか虚像というような意味をもつ。だが、ドゥルーズはそれを、彼独自の意味合いで使っている。例によって厳密な定義をしたうえで使っているわけではないので、文脈をたどることから意味をはっきりさせる必要がある。

ドゥルーズの提示する世界認識の基準としての高さ・深さ・表層は、いわば空間論である。では時間論は何かといえば、それはクロノスとアイオーンをめぐる議論である。空間論が三つの基準軸を持つのに対して時間論が二つの基準軸しか持たないのは、空間論が一つ余計な部分を設けているからである。それは、空間に高さという永遠不変な要素を持ち込んでいることだ。永遠不変も時間の一つのあり方だという見方も成り立たないわけではないが、不変つまり動かない時間というのは、やはり形容矛盾というほかはないので、ドゥルーズはそれを時間をめぐる議論から外したのだと思う。

ユーモアは、ナンセンス及びパラドックスとならび、意味の脱臼の第三の形態である。意味の脱臼とは、シニフィアンとシニフィエとの間にずれがあることをさす。ナンセンスは、シニフィアンが複数のシニフィエと結びつき、それらの結びつきが互いに否定しあうことをいい、パラドックスはシニフィアンが二つのシニフィエと結びつき、それらがいずれも成り立つことをいう。一方ユーモアは、抽象的でかつ観念的な意味を、具象的で唯物的(身体的)な意味に置き換えることをいう。その例としてドゥルーズは次のようなものをあげている。「プラトンは人間のシニフィエを<羽のない二足動物>であるとしたが、これに対してキュニコス派のディオゲネスは羽をむしったおんどりを投げ返すことによって答える」。つまり、プラトンが人間のシニフィエを抽象的なイメージのシニフィアンと結びつけるのに対して、ディオゲナスは具象的なシニフィアンと結びつけるわけである。その結びつきは、プラトンのような観念論者にとっては笑うべきものであるので、それをディオゲネスは逆手にとって、ユーモアというのである。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、パラドックスについての議論から始まっている。とはいっても、パラドックスという言葉の意味がすでにわかっていることを前提として議論を始めているので、パラドックスという言葉の意味が十分わかっていないと、何が議論されているのか見当がつかないであろう。ひとつだけ、この言葉の意味にかかわりのありそうな言及はある。「良識{良い方向}は、あらゆる事物において、決定できる一つの意味{方向}があることの確認であるが、パラドックスは、同時に二つの意味{方向}を確認することである」というものだ。この文章は、パラドックスという言葉を、良識及び意味との関係で表現している。パラドックスをとりあえず良識と対比させ、良識が一つの意味方向を持つのに対して、パラドックスは二つの意味方向を持つといっているわけだ。

ドゥルーズはルイス・キャロルをナンセンスの名手として推奨する。「意味の論理学」には、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の中からさまざまなタイプのナンセンスが引用され、それらの論理的・文学的意義についての考察がなされている。ドゥルーズがナンセンスを重視するのは、ナンセンスが意味を生産することに着目するからだ。その新たな意味を生産する名手として、ルイス・キャロルに勝るものはいないとドゥルーズは考えるのである。

ナンセンスは、日本語では無意味と訳されるように、意味と深いかかわりをもっている。そんなわけで、意味について考察する「意味の論理学」にとっては、もっとも重要な意義を持つ概念である。そこで、ナンセンスという言葉の厳密な定義が問題となる。普通それは無意味なこと、つまり意味の不在と受け取られている。ところがドゥルーズは、ナンセンスは意味の不在なのではなく、逆に意味の過剰なのだと言う。どういうことか。ある言葉の意味は、かならず他の言葉によって説明される。たとえば、岩とは大きな石のことであるとか、石とは小さな岩であるといった具合である。それに対してナンセンスとは、言葉の意味がほかの言葉によってではなく、それ自体によって説明されるような事態をさしている、とドゥルーズは言う。「石は石である」とか、「岩は岩である」といった具合に。これを他の言葉であらわすと自己言及という。自己言及という言葉をドゥルーズは使っていないが、要するにそういうことだ。

西洋のデカルト以降の近代哲学は、哲学の端緒というか出発点のようなものを想定し、そこから議論を展開するという方法をとってきた。デカルトの場合、それは「我思う」という意識の働きであり、その意識の働きが我の実在性を証明すると考えた。カントの場合、原初的な感覚が端緒であり、その感覚を知性が料理することで知覚となり、さらには概念にまで高まると考えた。フッサールの場合、意識の相関者として与えられた現象を端緒とし、その現象を虚心に分析することから概念的な知が生まれると考えた。ベルグソンは意識の直接与件としての知覚を端緒とし、それを分析することで人間の世界観を基礎づけた。そのような哲学的な端緒をドゥルーズは「できごと」に求めた。ドゥルーズの哲学は「できごと」を端緒にして展開するのである。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、タイトル通り意味を論理学的に解明する試みである。そこで意味という言葉と論理学との関連が問題になる。論理学とは、伝統的な意味では、思考の法則とか推論の形式にかんする学問である。思考や推論は通常存在するものについてなされるので、論理学は存在についての判断を取り扱うものだと言われる。存在についての判断が論理学の対象といえるわけである。アリストテレスはそのように論理学を定義しており、それが西洋の論理学の考え方であった。そうした意味合いの論理学と意味との関係について論じるのがこの書物の目的なのであろうか。

ドゥルーズの書物「意味の論理学」は34のセリーからなっていて、どのセリーから読んでもよいように書かれている。そこでここでは、第十八のセリーから議論を始めようと思う。このセリーは「哲学者の三つのイメージについて」と題されており、ドゥルーズにとって考えられる限りでの哲学のタイプを現わしている。そのうえで、自分自身がどのタイプの哲学を重視しているかについて語っているのである。

「意味の論理学」は、「差異と反復」とともに、ドゥルーズの初期の業績の集大成というべきものである。彼は哲学のキャリアを始めた当初から、西洋伝統哲学(形而上学と呼ばれる)を解体して、その上で全く新しい思想を展開してみせようという意気込みをもっていたように見える。ほぼ同時代のデリダがやはり同じような意気込みをもっていて、それを哲学の脱構築と呼んだ。ドゥルーズは、脱構築という言葉は使わなかったが、西洋の伝統哲学を解体しようという意志の強さはデリダに劣らなかったといえる。しかも、デリダが脱構築した後に、伝統的な哲学にかわる新たな思想の枠組を提示することに成功したとはいえなかったことに比べれば、ドゥルーズには伝統哲学にかわる選択肢の一つを提示できたと自負できる理由があるのではないか。ドゥルーズにとっては、「差異と反復」は西洋の伝統哲学の解体の試みであり、「意味の論理学」は伝統哲学=形而上学に代わる新たな思想の枠組を提示する試みと言えるのではないか。

ドゥルーズは、西洋の伝統思想である形而上学を根本的に批判し、それを解体したうえで、全く新しい思想の原理を提示しようとする。それは自分自身の反復の思想を、ニーチェの永遠回帰の思想と融合させたものだ。永遠回帰としての反復というべきものが、ドゥルーズの掲げる新しい哲学の原理なのである。とはいっても、ドゥルーズの解釈するニーチェの永遠回帰は、ニーチェ本人が考えていた永遠回帰とはかならずしも一致しない。ドゥルーズは、自分自身の反復についての考えを、ニーチェの永遠回帰に無理に接合しようとして、永遠回帰の思想的な含意をゆがめて捉えなおしているフシが見える。もっともそれが悪いというわけではない。先人の思想の読み替えは、哲学の歴史ではめずらしいことではない。むしろ読み替えによって、思想が新たな命を吹きこまれることもある。

「差異と反復」の結論部分のタイトルは、ずばり「差異と反復」である。このタイトルを用いることによってドゥルーズは、この書物の目的を改めて確認しているわけである。その目的とは、西洋哲学の伝統を形成してきた形而上学を根本的に批判し、それに代わるものを提示するというものだった。形而上学の根本的な批判は、「表象=再現前化批判」という形をとり、新しい哲学は「永遠回帰」の思想という形をとる。そうすることでドゥルーズは、ニーチェこそが新たな時代の哲学にとっての導きの星であると位置付けるのだ。

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