知の快楽

差額地代をめぐるマルクスの議論は、リカードの地代論を踏まえたものだ。リカードの地代論の特徴は、地代の発生を土地の豊度の差に求めるというものだ。どういうことかというと、豊度の高い土地は、低い土地よりも当然多くの収穫をもたらす。その収穫の超過分が地代に転化するという考えである。その場合、すべての土地の基準となる土地が選ばれ、それとの対比によって地代の発生が説明される。基準となる土地は、すべての土地に対してゼロポイントとなるから、それ自体は地代を生じないというふうに仮定される。マルクスとしては、地代を伴なわない借地などはありえないから、リカードの仮定は現実味に欠けると批判するのであるが、当面はその批判を脇へ置いて、差額地代が、土地相互の収益量の相違から生まれるといふうに議論を展開するのである。

マルクスの地代論は、リカードの説を発展させたものだ。リカードの地代論は、マルクスのいう差額時代に限定しているが、マルクスはそれに加えて絶対地代の概念を導入する。絶対地代というのは、土地そのものが所有者に利潤をもたらすことを意味している。リカードの理論によれば、基準となる土地は地代を生まないのだが、資本主義的生産システムにおいては、地代を生まない土地、すなわちただで貸されるような土地はありえない。そんなことを土地所有者がするはずがないからだ。そうマルクスは言って、資本主義的生産システムにおける地代のあり方を、徹底的に議論するのである。

資本主義以前の金融業をマルクスが高利資本と呼ぶのは、貸した金が利子を生むことに着目してのことである。資本主義的生産様式のもとでは、前貸しされた金は利子を生む。その利子は、労働者を搾取することで得られる剰余価値を源泉としている。そういう意味では、資本は資本主義的生産様式を前提としており、資本主義以前の金貸しに資本という言葉を適用するのは、厳密には相応しくないのであるが、マルクスはそこを棚上げして、利子を生む金を資本と定義し、資本主義以前における利子を生む金を高利資本と呼んだわけだ。もっと赤裸々な言葉で言えば、高利貸とか金貸し業者ということになる。そのほうが実態に合っていると言えよう。

資本論第三部第35章「貴金属と為替相場」は、国際収支と為替相場の関係について主に分析している。そこに貴金属が重要なファクターとして入って来るのは、当時の貨幣が貴金属と深く結び付いていたという事情のほか、国際貿易上の決済が、基本的に貴金属によってなされたという事情を踏まえている。貿易が入超になれば貴金属が流出し、したがって貨幣量も減少する。逆に出超になれば、逆の結果が起きる。当時のイギリスでは、中央銀行の貨幣発行額は金準備と連動していたからだ。ほかの先進資本主義国も、ほぼ同様な事情にあった。

資本論第三部第33章「信用制度のもとでの流通手段」は、貨幣と実体経済との関係について、主に論じている。今日影響力を発揮しているマネタリズムの見解では、貨幣は実体経済に強い影響を及ぼすとされているが、マルクスはそれとは正反対の見解を持っていた。貨幣の機能は流通手段とか支払い手段ということにあり、したがって実体経済を反映したものだ。実体経済が貨幣の量を決めるのであって、貨幣の量が実体経済を左右するわけではない、というのがマルクスの基本的な見解である。基本的というわけは、多少の偏差はありうると認めるからだ。

貨幣資本と現実資本をめぐるマルクスの議論は、今風にいえば、金融と実体経済の関係論ということになろう。この議論においてマルクスが設定するのは次の二つの問題である。一つは、本来の貨幣資本の蓄積が、どの程度まで現実の資本蓄積の指標であるのか、もう一つは、貨幣逼迫すなわち貸付資本の欠乏は、どの程度まで現実資本(商品資本と生産資本)の欠乏を表わしているのか、ということである。ここで貨幣資本の「蓄積」と言っているのは、おおよそ貨幣資本の増加と同じ意味で使われている。

マルクスは、銀行資本の諸成分として、現金(金または銀行券)と有価証券をあげている。有価証券には、手形と公的有価証券・各種の株式がある。銀行にとってこれらは貨幣資本としての働きをする。この場合の貨幣資本とは、再生産過程の一要素としての、商品資本や生産資本と並ぶ貨幣資本ではなく、利潤を生みだすものとしての貨幣資本のことをいう。この場合、利潤は利子という形をとる。だから、銀行資本は利子生み資本の最たるものである。というより、銀行資本は利子生み資本そのものなのである。

マルクスは信用を、まず貨幣の代替物として考える。貨幣の機能のうち支払い手段としての機能が独立して信用が成立したと考えるわけだ。信用は、いわば観念的な貨幣であるから、貨幣の現物態である貴金属の持つ制約を乗り越える。というのも、貴金属は自然の産物であるので、自然が本来抱えている制約がある。無限に産出されるわけにはいかないということとか、貨幣を媒介にした取引はバーチャルではありえず、リアルでなければならないといったものだ。信用が使えないところでは、ゲンナマがなければ何ごとも進まないのである。信用は、そうした壁を取っ払う。そのことで資本主義経済システムが、無制約に、爆発的に拡大する基盤となる。マルクスはとりあえず、そのように考えたのである。

マルクスの利子論は、主に二つの主張からなっている。一つは、利子は利潤の一部であること、もう一つは、利子は貨幣資本家と産業資本家の利潤の分配をめぐる戦いで決まるもので、利子率決定の自然的法則は存在しないということ。これに、利子は利潤にその源泉をもつにかかわらず、一般の目には、貨幣の固有の果実として、価値を生む価値として、それ自体が独立した実体のようなものと捉えられる、という主張を合わせれば、マルクスの利子論のほぼ全体像が浮かび上がって来る。

資本主義的経済システムにおける利子は、利潤の一部である、とマルクスは主張する。資本家が、自分自身の所有する貨幣で事業を行う場合には、その果実としての利潤は、すべてかれの懐に入る。ところが、自分では貨幣を所有せず、他人から借り入れて事業をする場合、その果実たる利潤のすべてを独占するわけにはいかない。かれはその利潤を、貨幣の貸し手と分け合わねばならない。でなければ、必要な貨幣を調達することができないからである。このことから、資本主義経済システムにおける利子は、資本家が貨幣資本家と産業資本家(あるいは機能資本家)の二つに分かれることから生じる、と言える。

マルクスが「貨幣取引資本」と呼ぶものは、今日金融資本とか金融機能とか呼ばれるものである。金融資本には、一般の商業銀行のほかに、証券、保険、投資銀行などが含まれるが、マルクスはこのうちもっぱら商業銀行を念頭において考察している。商業銀行が行う基本的な機能は、産業資本家のために、あるいは産業資本家にかわって貨幣を蓄蔵し、その蓄蔵した貨幣を産業資本家の必要に応じて用立てることである。

商業部門における労働をマルクスは「商業労働」と呼んでいる。商業労働の内実は流通をすみやかに実現するということである。ところでこの流通というプロセスは、それ自体では剰余価値を生まない。剰余価値を生むのは、商品生産に投ぜられた労働であって、流通に投ぜられた労働は、それ自体としては剰余価値を生まないのである。商業労働が剰余価値を生まないのであれば、それは剰余労働を含んでいないのだろうか。含んでいるのである。商業労働といえども、その価格すなわち労賃は、その(労働力の)生産に必要な費用である。ところが実際に行われる労働は、その労賃、すなわち労働の支払い部分を超えて行われる。この超過の労働部分が剰余労働にあたる。しかしこの剰余労働は、新たな剰余価値は生まない。では、剰余労働はどんな働きをするのだろうか。それは、剰余価値は生まないが、その価値の実現に寄与するというのがマルクスの考えである。生産と生産物の価値の実現とは異なったレベルの事象だ。剰余価値が実際に実現するためには、売れなければならない。売れてはじめて剰余価値としての意味を持てる。その売るためのプロセスが流通の機能なのだが、その機能を通じて剰余価値が実現される。商業労働は、その剰余価値の実現を媒介するというのがマルクスの考えなのである。

商業資本をマルクスは商人資本と呼び、商品取引資本と貨幣取引資本とをそれに含めている。より重要なのは商品取引資本である。貨幣取引資本は、基本的には、商品取引を媒介するにすぎない。商品取引資本とは、資本の運動を構成する生産過程と流通過程のうち、流通過程の機能が独立したものである。資本主義の低い発展段階では、生産者自身が流通の機能を実行しているのであるが、それによって、資本主義的生産は大きな制約を受ける。なぜなら、流通過程に費やされる時間は、生産が中断されるからである。これを第三者に任せて、生産に専念すれば、余計な手間が省ける。そのことによって、生産をスムーズに行い、また規模を拡大することもできる。というわけで、商品取引資本は、資本主義的生産にとって、必然的なものなのである。

資本の有機的構成が高くなると、利潤率は低下する。資本の有機的構成が高くなることは、可変資本に比較して不変資本の割合が高くなることを意味するが、それは必然的に利潤率の低下をもたらすのである。なぜなら、利潤率は費用価格に比較した利潤の割合だが、その費用価格が高まれば、それと比較した利潤の割合すなわち利潤率が低下するのは論理必然的なことだからである。

利潤が平均利潤に転化するのは、個別資本にとっての費用価格が社会的な平均としての生産価格に転化するからである。それらをもたらすのは競争である。競争は需要と供給の外観のもとで行われる。需要の多いところには資本が集中し、その逆の場合には逆の事態が起こる。その結果、商品価格は需要と供給が一致するところに落ち着く。こういう外観があるために、個別資本家にとっても又資本の代理人である経済学者にとっても、需要と供給のバランスこそが商品価格決定の要因だというふうに映る。しかし、それは現象の外観に目を奪われた皮相な見方だとマルクスは批判する。

利潤と剰余価値は、量的には同じものである。利潤率と剰余価値率は違う。剰余価値率は、可変資本(労賃)と比較した剰余価値の割合をあらわすのに対して、利潤率のほうは前貸し資本としての費用価格すなわち不変資本プラス可変資本と比較した利潤の割合をあらわすからである。だから、利潤率は常に剰余価値率より低くなる道理である。しかも利潤率は、全産業を通じて平均化される傾向がある。競争が働くからである。産業間で利潤率にデコボコがあれば、資本の流動が円滑に行われるという前提のもとでは、利潤率の高い分野に資本は流れる。そうした動きが利潤率を平均化させるのである。マルクスは資本論第三部第二編「利潤の平均利潤への転化」において、個別の利潤率がいかにして平均化されるか、そのメカニズムを分析している。

資本論第三巻「資本主義的生産の総過程」は、剰余価値の利潤への転化についての分析から始まる。転化といっても、あるものが別のあるものに転化し、それに従って内実も変化するということではない。剰余価値も利潤も、その内実は同じものである。ただ呼び方が異なっているに過ぎない。しかし呼び方の相違は、概念の実質的な変化を伴なうのである。マルクスはそこに、資本家の立場からする現実的な利害と、資本家の立場を弁明する資本主義経済学の欺瞞を見る。

資本論第三巻は、総題を「資本主義的生産の総過程」として、剰余価値の利潤への転化と、それの各プレーヤー(資本家、地主、商業資本及び金融資本など)への分配について論じている。これにエンゲルスは結構長い序文を付している(小生使用の普及版で35ページを占める)。この序文は二つの部分からなり、その一つは刊行が遅れたことへの言い訳、もう一つは同時代の経済学者への批判である。

マルクスの単純再生産モデルは、理論上の仮定としてはありえても、現実的にはありえない。単純再生産モデルは、剰余価値のすべてが非生産的に消費され、あとかたもなくなってしまうことを想定していたが、現実には、剰余価値の一部は、生産の拡大のための追加資本として使われるのである。この追加資本の部分が、生産の拡大をもたらす。

前稿の表式は、部門Ⅰと部門Ⅱとが互いに作用しあって、全体として見れば、単純再生産がとどこおりなく実現することを示していた。その場合に前提となるのは、部門Ⅰの生産物である消費財と、部門Ⅱの生産物である生産財とが、もれなく売れるということだった。つまりその年に生産されたものは、その年のうちにもれなく売れると仮定することで、単純再生産が成り立つというわけだった。しかしこの仮定はかならずしも現実的ではない。というのも、この仮定では、部門Ⅰのcも部門Ⅱのcも全部売れるということになっているのだが、現実にはかならずしもそうではないからである。固定資本の更新については、特別な事情が働くので、その年に作ったものがその年のうちにすべて売れきれるというわけにはいかないのである。

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