知の快楽

「まれびと」は「常世」と並んで、折口信夫の思想の中核概念だ。折口はこの概念を「国文学の発生」第三稿のなかで初めて体系的に論じた。その論じ方がいかにも折口らしいのである。

折口信夫は小論「琉球の宗教」において、琉球の宗教を概括的に論じている。彼の主張の眼目は、琉球神道と内地の神道の類似性を指摘することである。琉球の神道は内地の神道の一分派だとも言っている。その理由について、折口は例によって組織立っては説明してはいないが、ヒントになるようなことは言っている。いまそれを列挙して、琉球と内地の神道の類似性と折口が考えているらしいことを見てみたい。

折口信夫が常世論を提示するのは三十台前半という若い頃のことだ。以後彼の民俗学の根本概念として生涯を通じて言及するようになる。いまその常世論の出始めを中公版全集で当たってみると、第二巻の冒頭をかざる「妣が国へ・常世へ」が最初の仕事のようである。この短い文章のなかで折口は、彼独特の直感にもとづいて常世の何たるかを解説している。そのやり口は柳田国男の実証的な方法とは対照的なもので、直感と言うかひらめきと言うか、科学的と言うよりも文学的とでも言うべき手法を以て独自の概念を定立し、その概念にもとづいて、様々な事象を演繹的に説明しようとするところに折口の折口らしい特長がある。

日本の民俗学は、知の巨人といってよい思想家を三人も擁している。南方熊楠、柳田国男、折口信夫である。彼らは唯に民俗学者というにとどまらず、知の巨人と言うにふさわしい知性と、思想家と呼ぶに値する思索を展開した。しかも面白いことに、その思索のスタイルが三人三様である。その相違をよくよく分析してみれば、我々はかれらのうちに、日本的な発想の典型的な形を認めることができる。かれらの偉大な知性は、日本人の発想の諸様式を、それぞれ代表しているのである。

柄谷行人は「遊動論」において柳田国男を、南方熊楠及び折口信夫と比較している。南方も折口も柳田と並んで日本民俗学の巨匠と言われているが、三者の間にはかなりな学風の違いがある。その違いについて柄谷は彼なりの視点から比較検討しているわけである。

柄谷行人の柳田国男論は、柳田の「山人論」を中核にして展開される。柄谷はそれを展開するにあたって、柳田の学説の変遷についての通説を強く批判することから始める。通説によれば、柳田は山人の研究から始めたが、途中でそれを放棄し、山人とは正反対の稲作定住民=常民の研究へと向かい、晩年はこの常民たる日本人の祖先を海のはるかかなたからやって来た人々とする日本人起源論を主張するようになった。そうした見方に対して柄谷は、柳田は生涯を通じて山人の研究を放棄したことはなかった、むしろ彼が生涯をかけて追及したのは、山人についての思想を深化させることだったと言う。

「郷土生活の研究」は、柳田国男が昭和十年に行った講演を骨子としたものだ。その講演の中で柳田は、発足せんとする日本民俗学会に向けて、日本の民俗学研究のとるべき方向のようなものを示唆した。その議論については、常民の研究とか一国民俗学といったものをめざしているという見方が長い間なされてきた。それについては、柳田の研究の転回点となったという評価がさなれたり、あるいはそれまで柳田が強調してきた被抑圧民へのまなざしが後退して、常民を中心とする日本の支配的な文化を強調するようになったといった批判もなされて来た。

「後狩詞記」は、「遠野物語」とともに柳田国男の民俗学研究の出発点というか、原点となったものだ。柳田はこの本を通じて、自分自身の実証主義的な学問の方法論を実践する一方で、その後の彼の中核的な関心事となった山人についての研究を開始した。もっとも柳田は、この本のなかでは山人という言葉を使ってはいない。その点は遠野物語とは異なる。しかも、彼が対象とした焼畑農業民兼イノシシ猟師たちを、他の普通の日本人とは決定的に異なるユニークな存在とも規定していない。ただ、日本の辺境のしかも山の中には、このような変った人々がいるといっているだけである。しかしその変りかたがあまりにも常軌を逸していることには気が付いていたようで、そこから後日彼らに代表される山の人あるいは山の民についての研究を本格化させるようになったとは推測される。

「石神問答」は、柳田国男が数人の民俗研究者との間で交わした往復書簡を一冊の本にまとめたものだ。それらの書簡は合わせて三十四にのぼり、交わした相手は、山中笑はじめ八名である。これらは本の出版日たる明治四十三年からさかのぼる余り遠くない時期に交わされたと思われる。その時期はあたかも遠野物語の執筆時期とだいたい重なっている。そんなこともあって、遠野物語と同じような問題意識に貫かれている。それは、日本の各地に残っている淫祠と言われるものの、起源や分布、現代の日本人へのかかわりあいなどを明らかにしたいというものだった。

柳田国男が昔話に拘ったのは、それらが日本人の古い考え方を比較的もとの形で保存していると考えたからだ。昔話の中には、時代の変遷や地方の相違によって、もとの形とは違ってしまったものも認められるが、少なからぬものの中に、日本人古来の思想の痕跡が残っている。それらを丁寧に読み解くことで我々は、日本人の本来抱いていた思想がどのようなものであったか、知ることができると柳田は考えて、昔話の収集と比較・分析に熱意を注いだのだろう。

柳田国男が「口承文芸史考」を書いたのは昭和二十一年のことだが、その序文で柳田は、この本の目的を、我々日本人の祖先が何を信じ、いかに信じていたかを知ることが一つ、もう一つは日本人がいかに自国の言葉を愛重し、どれほど力を尽してこれを守り立てていたかを尋ね極めることだと言っている。これらの目的を追求するためにも、口承文芸は欠くべからざるものであるが、今日では書かれた文章のみを尊重する気風が強くて、口承文芸に注目するものが少ない。その典型的な例は、記紀を以て日本の神話を代表させる風潮であるが、柳田によれば記紀はそれまで行われていた口承文芸の一部をたまたま保存したものであって、それを以て日本神話の全体をカバーするものではない。日本神話の全貌を明らかにするためには、記紀だけにとらわれず、日本人が口で伝えて来たものに広く目を向ける必要がある。また、我が国にはそうした古い口承の残りがまだいくらも残っており、日本神話解明への豊富な手掛かりを提供してくれるのである。しかしそれも放っておいては速やかに消える運命にある。だからいまのうちに口承文芸を広く研究し、保存しておく必要がある、というのが柳田の基本的な問題意識であったようだ。

柳田国男は、「毎日の言葉」の後半部で、女性を呼称する言葉をいくつか取り上げて、その起こりと変遷について考察している。最初に取り上げるのは、「ごさん」である。柳田は、秀吉の手紙の中に「五さ」とあるのが、よく言われるように北政所の侍女の固有名詞などではなく、いま言う「おくさん」と同じ意味の言葉だろうと推測することから議論を始める。

柳田国男の小著「毎日の言葉」は、我々日本人が日頃何気なく使っている言葉について、その起こりと変遷とを考察したものである。日本の言葉、特に話し言葉は、時代にそって変遷が激しいばかりか、地方によっても著しい変化が見られる。これらはうわべでは関連がないように見えても、よく見ると互いに強い関連があることがわかる。それをたどることで、日本語の大きな特色である、言葉の変遷・盛衰という現象が理解できると柳田は見るのである。

柳田国男は学問と政治とを峻別したうえで、自分を含めて学者の使命は学問を実証的に研究することであって、政治的な発言は厳に慎むべきだという姿勢を取っていたが、この「先祖の話」では、かなり政治的な匂いのする発言をしている。その目的は、日本に古くから伝わって来た「家」というものを、未来永劫にわたって子孫に引き継いでいきたいという希望にあったようだ。その家というものを象徴するものとして柳田は先祖について語り、先祖に対する信仰が我が国古来の美風なのであって、まつりというものは、その先祖をまつることに一義的な意味があったということを、この本の中で解明してみせたのだと言ってよい。その意味ではこの本は、「日本の祭」と双子の関係にある。

柳田国男が日本の祭に着目した理由は、それが日本人固有の信仰の古い姿を保持していると考えたからであった。その考えを柳田は次のように表現している。「日本では『祭』というたった一つの行事を通じてでないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まって来ている実情とは、窺い知ることができない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであろう。現在宗教といわるる幾つかの信仰組織、たとえば仏教やキリスト教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。ただ正しい公けの歴史の一部をもって、経典に準ずべきものだと見る人があるだけである。しかも国の大多数のもっとも誠実なる信者は、これを読む折がなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。そうしてこれから私の説いてみようとするごとく、以前は専門の神職というものは存せず、ましてや彼らの教団組織などはなかった。個々の神社を取囲んで、それぞれに多数の指導者がいたことは事実であるけれども、その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝道せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることを憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった」

柳田国男は、大正九年の十二月から翌年二月にかけて九州東部から琉球諸島へかけて旅をした。「海南小記」はその折の紀行文というべきものである。柳田は大正八年の暮れに役所勤めをやめて在野の学者生活に入っていたが、その新たな門出を飾るものとして、日本各地を旅した。それはフォークロアの旅といってよかった。これらの旅を通じて日本各地に残されている風俗や伝説のたぐいを収集し、それをもとに自分なりの民俗学を確立したいという意図が働いたものと思われる。

「山人考」は「山の人生」とともに大正十五年に出版されたものだが、実際に書かれたのは、「山の人生」が大正二年以降、「山人考」が大正六年とされている。しかしてこの両者は綿密な関連を有している。柳田は「山の人生」によってたどり着いた仮説を前提にして、「山人考」の言説を展開しているのである。学問的な方法論によれば、「山の人生」では個々の現象をもとに一定の法則性を導き出し、それを仮説として整理した上で、今度は個々の現象を仮説によって説明するというやり方をとっているわけである。

「山の人生」は「遠野物語」の続編のようなものである。「遠野物語」では岩手県の遠野地方に伝わっている説話や伝説、昔話などを収集していたものを、エリアを全国に広げて大きな規模で収集したものだ。ただし収集の対象となった話は、ほとんどが山とそこに住む人々とに関するものだ。山に住む人々には色々なタイプがあり、また人とは言えない生きもの、例えば天狗とか河童とかいうものも含まれるが、そうした者たちと平地の人々との関わり合いを主な対象としている。題名の「山の人生」には、そうした姿勢が反映されているわけである。

柳田国男には若い頃から、伝説や民話及び土地々々に言い伝えられてきた事柄について広く収集しようとする姿勢が強くあった。そうして集めた資料を、どのように利用したか。一つは柳田なりの問題意識に基づいて立てた仮説を実証するための一次資料として利用することもあるし、一つは資料そのものをとりあえず収集し、将来その資料をもとに、新しい仮説の発見につなげようとすることもある。その仮説とは法則のような形をとることもあるし、ゆるやかな傾向性という形を取ることもあるだろう。いずれにしても、資料をもとにして、一般的な妥当性をもつ仮説を導き出したり、あるいは仮説を実証しようとする姿勢は、実証主義的な姿勢と言うことが出来る。前稿「海上の道」の考察で言及したように、柳田の学問の基本は、あくまでも実証を重んじるというものだった。

柳田国男は「海神宮考」において、根の国とは我々現代人が思っているような地下深い世界をもともとさしていたのではなく、海の遙か彼方、我々日本人の祖先がそこからやって来た故郷をさしていたのだということをほのめかしていたが、「根の国の話」ではその仮説を更に詳しく検討している。

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