知の快楽

「人間学」は、カントが74歳の時に書いたもので、カントの著作としては、最晩年のものである。カントは死ぬ直前まで精神活動が盛んで、「人間学」のあとでも「自然地理学」や「教育学」などの著作をものしている。だが本格的な哲学的著作としては、この「人間学」が事実上最後の業績といってよい。この著作においてカントが目指したものは、人間を総合的にとらえるための手引きを与えることであった。この著作の「序文」でカントは、人間に関する知識すなわち人間学は自然的見地における人間学と実用的見地における人間学からなると言っているが、三大批判の書が自然的見地における人間の諸能力を考察したのに対して、この「人間学」は実用的見地における人間学を考察したものといえる。そのことで、三大批判の書とあいまって、人間を総合的・複合的にとらえることが出来ると考えたわけであろう。

「実践理性批判」の目的は、道徳法則を絶対的・先天的な原理によって基礎づけ、その上で霊魂の不死および神の存在といった宗教的な概念に根拠を与えることである。その根拠をカントは最高善に求める。最高善という概念が必然的に霊魂の不死および神の存在を要請するというのである。わかりやすく言うと、最高善という概念には、言葉の定義からして霊魂の不死及び神の存在が含まれているというわけである。

「純粋理性批判」と「実践理性批判」の関係を、物自体の捉え方の差異に見たのはハイネである。ハイネは詩人であって、プロの哲学者ではないのだが、ベルリン大学でヘーゲルの講義を受けたこともあり、ドイツ哲学について一定の知見をもっていた。彼の学術的な書物「ドイツ古典哲学の本質」は、ドイツ古典哲学の創始者としてカントを位置付けているのであるが、その中でハイネは、カントは「純粋理性批判」において封印した物自体の概念を「実践理性批判」において、裏口から招き寄せたというようなことを言っているのである。

「啓蒙とは、人間が自己の未成年状態を脱却することである」(「啓蒙とは何か」篠田英雄訳)とカントは、啓蒙を定義して言っている。未成年状態とは、「他者の指導がなければ自己の悟性を使用しえない状態」をさしていう。つまり自立していない状態をいうわけである。他人に決定してもらえなければ、何も決定することができない。それに対して、なんでも自分で決定できる状態を「啓蒙されている」という。その啓蒙されている状態は、個人についてのみならず、国家や世界全体についても言える。国家や世界全体も、未成年の状態から青年の状態へと、進化する過程にある、というのがカントの啓蒙に関する基本的な考えである。

共和制と民主主義を混同してはならない、とカントは主張する。この両者は、とかく政治体制という曖昧な言葉で言及され、したがって同じ原理の上に立つものと誤解されやすいが、じつは異なった原理に基くのである。民主主義は、「最高の国家権力を有している人格の差別」に基く分類によるものである。これを「本来支配の形式」に基く分類という。この分類によれば、支配権を有するものがただ一人の場合(君主制)、互いに結合した複数の人の場合(貴族制)、市民社会を形成しているすべての人の場合(民主制)の三つの支配の形式があるということになる。

カントが「永遠平和のために」を書きあげたのは1795年8月、同年4月に締結されたバーゼル平和条約に刺激されてのことだ。バーゼル平和条約とは、フランス革命戦争の一環として行われた普仏戦争の休戦を目的としたもので、これによりラインラントの一部がフランスに割譲された。カントはこの条約が、締結国同士の敵対を解消するものではなく、未来においてそれが再燃する必然性を覚えていたので、偽の平和を一時的に補償するものでしかないと見ていた。そこで、永遠に続く平和を実現するためには、どうしたらよいか、そのことを考えるためのたたき台としてこの論文を書いたというわけである。

フロイトは1932年に、高名な物理学者で同じユダヤ人であるアインシュタインと書簡のやりとりをした。それは、国際連盟の一機関が企画したもので、まずアインシュタインがフロイト宛てに書簡を送り、フロイトがそれに応えるという形をとった。フロイトのほうが23歳も年上だったし、また、往復書簡のテーマについて深い見識を持っていると考えられたからであろう。そんなフロイトに後輩のアインシュタインが見解を乞うという形になっている。それに対するフロイトの返事は、「何故の戦争か」と題して著作集に収められている。

フロイト晩年の著作「人間モーゼと一神教」のそもそもの意図は、エジプト人であったモーゼが、エジプトに亡命していたユダヤ人たちに一神教を与えたということを証明することであった。モーゼから一神教を与えられたユダヤ人が、パレスチナへ進出する過程でその一神教をユダヤ人全体に拡散させ、もともとユダヤの地方神であったヤーヴェがモーゼの唯一神になった、というのがこの論文でフロイトが主張したことである。

フロイトの宗教論は、精神分析の成果を応用したものだ。精神分析は個人の心理を対象にしるいる点で個人心理学といえるが、宗教は個人を超えた人間集団の現象なので、フロイトはそれを集団心理学の問題だと言っている。そのうえで、個人心理学と集団心理学は同じ基盤に立っているとする。その基盤とは、無意識の衝動を中心にした精神的なダイナミクスのことをいう。その無意識的な衝動が宗教の源泉だというのがフロイトの基本的な考えである。

文化とは、動物とは異なった人間固有の事象である。それは二つの目的を有している。一つは自然に対する人間の防衛、もう一つは人間相互の関係の規制である。この二つが組み合わさって文化の体系が形成される。自然に対する人間の防衛は、個人としては無力な人間が集団を作ることによって強化される。人間は本来弱いものだから、その弱さを補うために集団を作らざるを得ないのである。一方人間相互の関係については、人間は本来利己的な生きものであり、互いにとって互いが狼である。それでは集団は維持されない。そこで、集団を維持するためのさまざまな工夫がなされる。それは個人を集団につなぎとめるための工夫だが、その工夫の総体が文化の内実となるのである。

フロイトの文化論は、精神分析学の成果を踏まえている。精神分析学は個人の人格形成についてユニークな理論を展開したのだが、それとほぼパラレルな議論を共同体など人間集団についても適用した。「トーテムとタブー」はその一里塚といえる研究成果だった。そこでの議論は、個人の人格形成に決定的な役割を果たすエディプス・コンプレックスが人間の集団においても確認できるというものだった。個人がエディプ・スコンプレックスからの解放を通じて「良心」を確立していくのに対して、集団は「社会的な規範」を形成していく。それは宗教という形をとることもあるし、もっと世俗的な道徳・倫理という形をとることもある。

「ドストエフスキーと父親殺し」というショッキングな題名を持つ小論は、フロイトの精神分析手法をドストエフスキーに適用したものだ。一種の症例研究と言ってよい。通常の症例研究と異なるのは、患者の症状が直接与えられておらず、ドストエフスキーの作品や彼の生涯に関する事実から間接的に推測せねばならないことだ。フロイトはそれらから生じるドストエフスキーについてのイメージを、四つの要素にまとめている。詩人、神経症患者、道徳家、罪人としての要素である。どれもドストエフスキーの異常な人格を説明している。このうち、詩人、道徳家、罪人としての要素は、それぞれ独立した項目として説明できるし、またこれら三つの要素がまとまって発現する事態について、神経症とは無関係なものとして説明できる。しかしドストエフスキーの場合には、以上の三つを神経症と関連付けて説明したほうが合理的と言える。つまりドストエフスキーの人格には、神経症の要素が基本的なものとしてあって、それが、ほかの三つの要素を発現させていると考えるべきである、というのがフロイトのここでの立論の骨子なのである。

不安の問題は、キルケゴールが提起して以来、主に実存主義系の哲学者たちを中心に取り上げられてきた。とりあえずハイデガーの不安論などは、もっとも大きな影響をもたらしたものだ。もっともハイデガーは、自分自身を実存主義者だとは思っておらず、また、ヒューマニストとも思っていなかったが、不安が人間の存在を解き明かすうえでもっとも中核的な概念だとは認めていた。その不安とはもっとも人間的な現象であるから、それを自分の思想の中核に据えることは、ある意味ヒューマニスティックだと言えなくもない。

「解剖学的な性の差別の心的な帰結」と題された小論は、エディプス・コンプレックス論の延長上のものだ。エディプス・コンプレックス論は、リビドー論を中軸としたフロイト理論の核心といってよいものだが、フロイトはこの問題を、もっぱら男児を対象に考察し、女児には周辺的な位置づけしか与えていなかった。そこで女児についても、詳細な議論を加えることで、エディプス・コンプレックス論を、男女を平等に対象とした包括的なものにしたいと考えたわけである。

フロイトのエディプス・コンプレックス論は、無意識の措定と並んで、フロイト理論の中核を占めるものだ。もっとも無意識と同列の概念というわけではなく、その下位概念というべきものである。フロイトは人間の生への衝動をリビドーと名付け、それが普段は意識に上らない無意識なものとだしたのだったが、そのリビドーが人間の成長のもっとも早い時期に結実したものがエディプス・コンプレックスだと考えた。そういう位置づけからして、エディプス・コンプレックスは、人間の根源的な衝動と、その衝動が収められている無意識の双方にかかわる。そういう意味では、もっともフロイトらしい特徴を感じさせる。フロイトを論じるもののほとんどが、エディプス・コンプレックスを議論の中核に据える所以である。

フロイトはマゾヒズムをつねにサディズムと関連付けて説明した。当初は、攻撃的なリビドーというものを想定し、それが他者に向けられたものがサディズム、反転して自分自身に向けられたものがマゾヒズムだとした。この場合には、サディズムが本来的なものであって、マゾヒズムはそれから派生したという位置づけだった。

フロイトが無意識を発見したのは、夢や神経症の研究・治療を通じてであり、あくまでも実証的・臨床的な意義をもったものだった。無意識を仮定すれば、夢や神経症の背景とか原因が都合よく説明できるし、それを治療の場に適用すれば、好ましい結果を得ることができる。だから無意識の仮定は単なる思弁上の創作ではなく、実証的な根拠をもっている、とフロイトは考え、無意識を精神科学のキー概念として打ち出したのであった。だからといって、それを実体視することは極力控えた。なるべく操作的な概念として使い、現実に治療上の効果が期待できる範囲で活用しようとする姿勢を貫こうとした。

「集団心理学と自我の分析」と題するフロイトの著作は、「トーテムとタブー」で本格的に着手したかれの社会理論の延長線上にある仕事である。かれがこの本を書いたのは1921年のことだった。したがって第一次世界大戦の影を認めることができる。かれはこの本のなかで、集団の典型として教会と軍隊をあげているのだが、軍隊への注目が第一次大戦を意識しているのは納得できる。また、第一次大戦後には、大衆社会化現象が顕著となり、そこで集団の動きが注目をひくようになった。フロイトはこの著作のなかで、集団論の先駆的議論としてル・ボンの「群衆心理」を取り上げている。「群衆心理」が刊行されたのは19世紀末の1895年のことだが、そこに描かれていたような集団現象が大規模に現れるのは第一次大戦後といってよい。フロイトの集団論は、そうした時代背景のもとで書かれたのである。

死の衝動と生の衝動の対立についてのフロイトの議論は、快感原則の議論の延長にあるという点では、脅迫反復に関する議論と同一平面に属する。もっとも、反復脅迫は、快感原則の例外として現れたのだったが、死の衝動は快感原則そのものの表れという大きな違いはある。死の衝動は、フロイトによれば、快感原則にしたがっている生き物の根源的な傾向である。その理屈にしたがえば、人間を含めたすべての生き物の究極の目的は死ぬことにあるということになる。それに対して、生の衝動は、生き物としての惰性的なあり方という位置づけである。生き物は、発生して以来死ぬことに目標を置いてきたが、偶然生殖の能力を得たために、生きることも追及することになった。もっともその生き方は、種としてのものであって、個体としては、生き物は死を免れぬものであるし、また、それを目的としていると断言できる。そうフロイトは自信たっぷりに言うのである。

フロイトの中期の代表的な論文「快感原則の彼岸」は、反復脅迫及び死の衝動・生の衝動の対立について論じたものだ。反復脅迫は人類史を説明するキー概念として、また死の衝動・生の衝動の対立も人類の生存を説明するための便利な概念として、多くの思想家が依拠してきたものである。フロイトの社会理論(社会的存在としての人間集団についての理論)の核心をなすものといってよい。

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