スピノザが友人・知己らと交わした往復書簡集の邦訳版が岩波文庫から出ている。畠中尚志の訳で、発行は昭和三十三年(1958)十二月である。84本の書簡が収録されている。スピノザから宛てたものが50本、スピノザ宛のものが34本である。文通の相手を畠中は四種類に分類している。第一は親友・門弟の一群で、これに属するのはイェレス、ド・フリース、バリング、マイエル、バウメーステル、シュラーの6人である。かれらとのやりとりは概ね友愛的であり、論争的な要素はない。スピノザの思想の主要な概念について友人らがわかりやすい説明を求め、それに対してスピノザが丁寧に答えるというものが多い。ド・フリースとは定義と公理の本性について、マイエルとは無限なるものの本性についてやりとりしている。マイエルはスピノザの弟子の中でもっとも重要な人物で、「デカルトの哲学原理」の序文を執筆した。バリングとは表象力の現れについて、イェレスとは光線の屈折や水圧など、主に物理学的なやりとりをしている。シュラーとは、ライプニッツについての噂話のような真似をしている。シュラーはライプニッツに対して好意的であるが、スピノザは警戒しており、あまり付き合いたい相手ではないというような気持を表明しているのが面白い。
知の快楽
スピノザの著作「神学・政治論」は、「聖書の批判と言論の自由」という副題がついている。スピノザにとって言論の自由とは哲学する自由を意味する。その哲学する自由をことさらに主張した理由は、スピノザが実際にその自由を奪われたからである。スピノザに哲学する自由を与えなかった相手は二つある。一つはユダヤ人たちであり、もう一つはプロテスタントの正統派である。両者ともに、政治より宗教の優位を主張し、その宗教的な立場からスピノザを迫害した。かれらの宗教的な立場は、聖書の全面的な受容に根差している。だからスピノザは、哲学する自由を聖書批判にからめて主張せざるをえなかったのである。「神学・政治論」に「聖書の批判と言論の自由」という副題が付された所以である。
正義についてスピノザは二つの面から考察している。一つは人間的な正義、もう一つは神の正義である。この二つはどう違うか。人間的な正義は人間にとっての正義、つまり人間にとって都合のよいことをさす。その意味で功利的な匂いがする。一方神の正義は、世界そのもののよって立つ基盤である。世界には無論人間も含まれるが、しかし人間だけの基準では図ることができない。あくまでも次元の異なるものである。ところが人間は、この二つを取り違える傾向が強い。とくにユダヤ人にその傾向が強く見られる。しかもユダヤ人は、ユダヤ人にとって都合のよいことを、人類一般にとって都合のよいことに取り違える。そのうえ、人類一般にとって都合のよいこと、つまりユダヤ人にとって都合のよいことを、神の正義と取り違える。それは傲慢のなすわざだ、というのがスピノザの正義論の基本的な特徴である。
スピノザの聖書批判はもっぱら旧約を対象としており、新約については付随的にしか触れない。当面の論争の対象をユダヤ人コミュニティにおいているからだ。だが本当の論争相手は、オランダのプロテスタントである。プロテスタントは、聖書を神の声とする姿勢がつよく、カトリックに比べて聖書を重要視する度合いが大きい。プロテスタントの聖書重視は、新約のほうに強く見られるが、旧約もまた聖書なのであるから、そちらも同じように重視する。スピノザの時代にはダーウィンは生まれていなかったから、進化論を公然と否定するような現象は見られなかったが、世界は神が無から創造したという説は、プロテスタントの間で強く信じられていた。だから、ユダヤ人を相手に旧約聖書を批判することは、間接的にプロテスタントにも波及するはずなのである。
「神学・政治論」の大部分は聖書批判にあてられている。それはスピノザが生きていた当時のヨーロッパ、とくにオランダのようなプロテスタント国において、聖書がきわめて強力な政治の道具になっていたという事情による。スピノザが生きていたのは17世紀半ばのヨーロッパであるが、この時代こそ宗教対立がもっとも激化した時期であり、しかも宗教が政治に強い影響を及ぼした時代だった。イギリスの清教徒革命はその典型的な例である。オランダにおいても、オレンジ公をかついだ保守派とヤン・デ・ウィットが音頭をとった改革派の対立が激化した。その対立に聖書が大きな役割を果たした。特に保守派はプロテスタントの正統派を代表し、聖書の価値を無条件にたたえた。スピノザは、ユダヤ人コミュニティからもプロテスタントからも迫害を受けたのであるが、その迫害を聖書が合理化していた。だからスピノザにとって聖書批判は、ただに宗教上のことがらにとどまらず、人格をかけた戦いといってよかった。
「神学・政治論」は、「デカルトの哲学原理」と並んで、スピノザが生前に刊行した著作である。もっとも本名は使わず、偽名で刊行した。だが著者がスピノザであることはすぐ見破られた。この著作は一ユダヤ人が悪魔と共同して書いたもので、聖書およびキリスト教を冒涜することを目的にしているというような非難を浴びた。非難の風あたりはなかなか収まらず、ついには禁書の対象となった。刊行は1670年、禁書は1674年である。その間に盟友のヤン・デ・ウィットが政治的な理由から暗殺されている。
スピノザは神の存在の必然性を強調するあまり、人間の意思の自由を軽視しているという批判がある。スピノザ自身その批判を意識していて反論もしている。その趣旨は、批判者は人間と神の関係について誤った意見を持っているというものである。スピノザは、「デカルトの哲学原理」への付録「形而上学的思想」の第二部をもっぱら神についての考察に当てているが、その目的は「神の存在と被造物の存在が全く異なることをできるだけ明瞭に示す」ことであった。スピノザによれば、必然性と自由との矛盾に関する上記のような指摘は、神を人間と同じ次元で考えることから生じる。神と人間とが全く異なる存在であることを理解すれば、神の必然性と人間の自由意志とは全く矛盾しないのである。
時間と空間についてのスピノザの議論(時空論)は、永遠を神の属性と捉える点でアウグスティヌスに似ている。永遠は無限の時間をさす概念だが、空間についても無限の空間の概念がある。両者ともに誤解されやすい。というのも我々人間は、自身が有限な存在であるので、無限を理解することが困難であり、したがって自分で理解できる範囲で、勝手な解釈をするからである。その勝手な解釈とは、時間を持続としてとらえ、空間を延長としてとらえることだ。持続と延長には限りがないという理由で、人間は限りのない持続を永遠と考え、限りのない延長を無限と考える。そう考えることから矛盾に陥る。神が世界を無から想像したというのが、聖書に書かれている疑い得ない真実である。それを前提とすれば、神が世界を創造する以前にはどんな時間が流れていたのか、また、その世界を容れるべきどんな空間が広がっていたのか、という疑問が起きる。しかしそれは偽の疑問だとスピノザは言うのだ。
スピノザの著作「デカルトの哲学原理」は、スピノザが生前に自身の名で刊行した唯一の著作である。スピノザ三十一歳のことである。スピノザの公刊した著作にはほかに「神学政治論」があるが、それには偽名を用いた。「エチカ」や「知性改善論」といった彼の主著というべき書物は、生前刊行されることがなかった。デカルトが「自然論」の刊行をためらったのと同じ危惧が、それらの刊行を思いとどまらせたのだと考えられる
「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」には、「悪魔について」と題した章がある(第二十五章)。「人間に対する神の愛について」と題する第二十四章と、「真の自由その他」と題する最終章に囲まれたものである。この章でスピノザは、悪魔の存在を否定するのだが、その理由がいま一つ曖昧である。それはスピノザが悪魔についての明確な定義をしていないことから生じる。スピノザは一方では悪魔を悪の人格化として表象しながら、したがって実在するものとして表象しながら、他方では憎しみや嫉妬あるいは怒りといった感情の原因と考えている。感情の原因としてなら、スピノザのいうとおり悪魔をもちださなくても説明できるので、悪魔など存在する意味がないが、悪の人格化としての悪魔は存在する意味があるのではないか。ヒトラーのやったこと、あるいは今現在ネタニヤフのやっていることを考えれば、かれらのようなものを悪魔としか言いようがないのではないか。
スピノザの著作「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」は二部構成になっており、第一部で神に関して、第二部で人間に関して述べる。神は唯一の実体であって、世界はその産物だというのが第一部の説くところである。それを踏まえたうえで、第二部での人間についての主張は、人間を実体としての神の属性であるところの精神と身体の結合したものと捉えることだ。これはデカルトの説を意識したものと思うが、この著作においては、物体としての身体についてはさらりと触れるのみで、大部分は精神についての叙述に費やされている。精神は普遍的な概念としては神としての実体の属性ということになり、それが個別化されたものを様態と呼ぶ。様態には、精神にかかわる様々な事象(感情とか認識など)と個々の人間のありさまなどが含まれる。スピノザがこの書物で主として叙述するのは精神にかかわる様々な事象である。
スピノザの著作のうち、「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」は、死後しばらくは発見されず、かなり時間が経過したのちに刊行された。その経緯や書物の概要については、邦訳者の畠中尚志が岩波文庫版の解説のなかで詳細に記している。それによれば、スピノザはこの書物を二通りの仕方で作成した。一つは弟子たちに向けてオランダ語で口述した。もうひとつは自分自身がそれをラテン語であらわし、それを弟子たちがオランダ語に翻訳した。口述が始められたのは1658年ごろで、今日の形で書物の根幹が完成したのが1660年頃だと推定している。ということは、この書物は、スピノザの主要な作品のなかで最も古いものだといえる。だが、内容的には「エチカ」と共通する。「エチカ」の最初の草稿といってもよいほどである。そんなわけで畠中は、スピノザの思想は、かなり若い頃に形成され、それをスピノザは生涯保持し続けていたということになる、と言っている。
スピノザ Baruch De Spinoza(1632-1677) の哲学を正しく理解するためには、時代的背景との関連を考慮に入れなければならない。「エチカ」を始めとしたスピノザの哲学上の主要な著作が生前には出版されなかったことに伺われるように、彼の思想は存命中に広く受け入れられることはなかった。というか、ユダヤ教徒からもキリスト教徒からも、神を侮辱する異端者として迫害された。そんなわけで、死後間もなくして、スピノザの思想は世界から抹消されたも同然の扱いを受けた。
ドゥルーズらは、人間の精神的な活動、それをかれらは思考と呼んでいるが、その思考の様式を三つに分類している。哲学、科学、芸術である。これら三つの思考の形は、それぞれ独立したものであり、互いに融合してしまうことはない。それぞれの対象、その対象を思考するメカニズム、そしてその思考の主体のあり方がそれぞれ違うからである。対象については、哲学は概念を、科学はファンクションを、芸術は感覚を対象とする。これらはみな精神的な働きという点では共通しているが、やはり根本的な相違がある。だから全く別のものと考えるほうが良い、とかれらは言うのである。
ドゥルーズらの提起した哲学地理という概念は、思考環境としての内在平面の延長として考えることができると同時に、かれらの植民地主義意識を反映してもいるようである。というのは、かれらは、哲学はヨーロッパに固有なものと考えており、ヨーロッパ人だけが哲学的な思考をできると考えているからである。ヨーロッパ以外の人種、たとえば東洋人は、思考することはあるが、哲学的な思考はできない。哲学的に思考するとは存在について思考するということだが、東洋人は存在について思考することはない。存在について思考したのはギリシャ人であり、その後継者としてのヨーロッパ人である。だから、哲学はギリシャに始まってヨーロッパに広がった。つまり特定の土地と深く結びついている。その結びつきをかれらは哲学地理という。哲学地理は、ギリシャに始まりヨーロッパに広がっていった運動を地図上の広がりにたとえているわけである。
哲学とは何かという、ドゥルーズの晩年に到来した問にたいして、かれはそれを、「哲学とは概念を創造することである」と答える。そこで概念という言葉が何を意味するかが問題になる。ドゥルーズは例によって、真正面から答えないし、厳密な定義にこだわりもしない。とりあえず、一つの言葉として提示するのである。その厳密な内実は、そのうちおいおい明らかにすればよいと考えているようである。
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「哲学とは何か」は、この二人にとって最後のコンビネーション作品であり、ドゥルーズにとっては最後の哲学的著作である。彼が窓から投身自殺するのは、この著作の刊行後四年後のことである。その最後の哲学的著作を「哲学とは何か」と題したのはどういうことか。まず、それが読者には問題に思える。というのは、ドゥルーズが生涯をかけて追及してきたことが、西洋の伝統哲学の解体であり、その解体の跡に彼独自の「哲学」を構築することだったということを、われわれ読者は知っているからである。にもかかわらずドゥルーズが(ガタリとともに)この著作の中で展開している議論は、ほかならぬかれがその解体を目指した西洋の伝統的哲学についての新たな品定めなのである。そんなことを(ドゥルーズの最後の仕事としては)我々は期待していなかったので、なんだかはぐらかされたような気に陥らざるをえない。
ドゥルーズは、フーコーが普遍的なものや永遠なものにあまり重要性を与えなかったことに注目している。現代社会に生きている欧米人にとっては、人権とか資本主義といった概念は普遍的でかつ永遠なものとして無条件に受け入れられるが、実は条件づけられた概念なのだというのがフーコーの考えである。どんな知も条件付けられている。その条件付けは歴史的な背景を持っている。つまりどんな知も一定の歴史的な環境を前提としているのであって、その環境が異なれば、知の体系もおのずから異なる。だから歴史を超越した普遍とか永遠なるものはない。ある時代に生きている人間が、自分らの知の体系を普遍的で永遠なものとして受け取るのは、その知の体系の中にからめとられているからだ、というのがフーコーの基本的な考えである。だから、普遍的なものが知を基礎づけるのではなく、ある時代に支配的な知が己を普遍的と名付けるのである。そのことをドゥルーズ=フーコーは「普遍的なものは後から来る」と言っている。
フーコーが死んだ二年後にドゥルーズはフーコー論を刊行した。1986年6月のことである。この本の中でドゥルーズは、自分自身の問題意識にかかわらせながら、フーコーの哲学史的な意義について解明する。普通の理解では、フーコーは「言葉と物」においてエピステーメーの理論を体系的に展開し、「監獄の誕生」において権力の問題について深い考察を行ったということになろう。そこで、エピステーメーと権力という二つの問題系のうちどちらをより重視するかによって、フーコー像には微妙なニュアンスの違いが生じる。小生自身は、エピステーメーの理論のほうをより重視している。かれのエピステーメー論は、知の枠組みの歴史的性格を暴露したものだ。どんな知的な営みも、特定の認識枠組みを前提としている。その枠組みは、カントが言うような人間に先天的に備わったものではなく、歴史的に形成されたものだとフーコーは考える。そうすることによって、人間の思考を相対化するわけである。ところがドゥルーズは、この書物の中では、フーコーの権力論のほうに重点を置きながら、フーコーの思想のユニークな点を強調している。ドゥルーズがフーコーの権力論に重点を置くのは、ニーチェの徒としての自覚によるのだろう。かれはフーコーの権力を、ニーチェの力への意思と結びつけることで、自分の思想とフーコーのそれとの橋渡しを行ってみた、というのがこの書物のかれにとっての位置づけなのではないか。
「千のプラトー」の第十四のプラトーは「平滑と条理」と題する。文字通り平滑と条理との二項対立がテーマである。この二項対立は、第十二のプラトー「遊牧論あるいは戦争機械」の中でも議論されていた。その際には、遊牧民が平滑空間を、定住民からなる国家が条理空間を舞台に生成発展するということが強調されていた。この第十四のプラトーにおいても、平滑と条理とはいずれも空間のタイプとされ、平滑(滑らかな)空間は、遊牧民族空間と戦争機械が展開する空間と結びつけられ、条理(区分された)空間は、定住民空間及び国家装置によって設定される空間と結びつけられる。そのうえで、「二つの空間の単純な対立、その間の複雑な差異、事実上の混合および一方から他方への移行、平滑から条理または条理から平滑への移動を、まったく異なったものとする非対称的な混合の比率。こうして、二つの空間とその関係の変化する諸相として、いくつかのモデルを考察することが必要になる」(宇野ほか訳)とする。
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