知の快楽

これまでの対話を通じてソクラテスは、恋の狂気に駆られた者が、狂気の故に悪いことをするのではなく、むしろ良いことをするのだということを、論証したのであるが、次いで、その恋する者と、彼が恋する愛人との間にどのような関係が成り立つのかについて、例の魂の似姿の比喩を用いながら考察するのだ。その比喩とは、魂は三つの部分からなっていて、そのうち二つは馬で、一つは御者であり、二つの馬のうち一つはすぐれた馬であり、もう一つは悪い馬だということだった。

あらゆる人々の魂は、かつて一度は真実在を見たことがある。何故なら、「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものによって総括された単一なものへと進みゆくことによって、行われなければならないのであるが、しかるにこのことこそ、かつてわれわれの魂が、神の行進について行き、いまわれわれが<ある>と呼んでいる事物を低く見て、真の意味において<ある>ところのもののほうへと頭をもたげるときに目にしたもの、その物を想起することにほかならないのであるから」

ソクラテスは魂の似姿を、神と人間とに共通したものとして捉える。ただ完成度の違いがあるだけだ。神の魂の似姿は完成されているので、二頭の馬はいづれも御者の言うことを聞き、スムーズな動きをする。それに対して人間の魂の似姿は不完全なので、二頭の馬のうち一頭は御者の言うことをきかず、そのためにスムーズな動きが出来ないのだ。これら魂の似姿は、折に触れてこの世界の外側に出て、そこで真実の世界を見る。そのさまをソクラテスは次のように描写する。

ソクラテスは、それまでの話から一転して、今度は、自分を恋していない者よりも、自分を恋している者に身をまかせるべきだという話をするわけだが、その理屈として持ち出すのは、狂気がかならずしも悪いことではなく、むしろ良いことだとする主張である。自分を恋している者に身をまかせるべきではないという主張は、そういう者は狂気にとらわれているのであって、その狂気は悪いものだという前提に立っていたわけだから、その前提を崩せば、そういう主張は成り立たないというのである。

ソクラテスが話したことの概ねを、念のために言っておくと、それは次のようなことであった。恋する者は必然的に嫉妬深くならざるをえないから、保護者として、また交際の相手として、どうみてもけっして有益な人間ではない。また、恋する者は、みずからの甘い恋の果実をできるだけ久しい間たのしむことをのぞんで、愛人ができるだけ長い間、結婚せず、子供がなく、家を持たずにいるようにと祈るだろう。更に、そういう人は恋の続いている間は有害で不愉快な人間であり、恋がさめてからは不実な人間になる。要するに恋する者の愛情は、けっして真心からのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを知らねばならない、というようなことであった。

パイドロスがリュシアスの著書を読み終わったときにソクラテスが見せた反応は、パイドロスの予想に反して否定的なものだったが、ソクラテスはその否定的な意見を皮肉たっぷりに言う。まずはリュシアスの文章を褒めると見せて、じつはけなすのだ。彼がリュシアスを褒めると見せたのは、リュシアス本人ではなく、リュシアスの言葉を読んだパイドロスを誉めるというやりかたを通じてだ。「どうですか、ソクラテス、すばらしい話しぶりだと思いませんか」というパイドロスの質問に対してソクラテスは、「いや、神業といってもよいだろう。友よ、ぼくは茫然自失してしまったほどだ」と答えるのであるが、じつは「ぼくのこの感動は君のせいなのだ」と言うのである。リュシアス本人の著書ではなく、それを読んだパイドロスに感動したというわけである。つまりリュシアス本人のことはどうでもよいと言っているわけだ。

ソクラテスにせきたてられる形でパイドロスは、上着の下から書物を取り出して、それを読み始める。ソクラテスは草むらに横になってそれを聞くのだ。ソクラテスに限らず、横たわりながら人の話を聞くのは、ギリシャ人が好んだことのようだ。前にも触れたとおり「饗宴」のなかにもそうした光景が描かれていた。

対話篇「パイドロス」は、ソクラテスが路上を歩いているパイドロスに声をかけるところから始まる。これから始まる対話の状況設定をしようというわけだ。対話は虚空でなされるわけではないので、いつ、どのような場所で、どのような雰囲気でなされたか、それをわかってもらったうえで、対話の内容を聞いて欲しい、そういう気持ちをプラトンはもっていて、対話を紹介する前に、それの状況設定をいささか細かく説明するのである。

「パイドロス」は、プラトンが五十歳前後の頃に、「国家」とほぼ同時に、おそらくは「国家」を書き上げてからすぐに書いたものと思われる。そんなことから、イデア論をはじめ「国家」と同じような問題意識が見られる。この時期のプラトンは、アカデメイアの運営もうまくゆき、心身共に最も充実している時で、思想ものびやかな展開を見せていた。この対話編はそうしたプラトンの思想ののびやかさがもっとも鮮やかに展開されているものである。しかも対話の舞台となっている場所は、他の対話編とは異なり。アテナイ郊外の自然の中に設定されていて、ソクラテスはその自然に包まれるようにして、自己の考えをのびやかに展開するというわけなのである。そういう点からいっても、この対話編はユニークな魅力を持っている。プラトンの対話篇のなかでも、もっとも魅力的な一編である。

藤沢令夫はプラトンを、ギリシャ文化の大きな伝統の中に位置づける。一つは対話を重視する伝統、もう一つはイオニアの自然哲学をはじめとするギリシャ人の宇宙観だ。この二つの伝統がプラトンにおいて融合し、壮大な思想体系が作られたというのが藤沢の見立てである。対話の伝統についてはともかく、自然哲学については、プラトンは物質的な自然よりも精神を重んじたという理解が定着しているので、藤沢の見立てはユニークと言えよう。

ソクラテスに対して有罪の評決がなされ、それについてソクラテスから自分に対する刑罰への意見が述べられたあと、いよいよその刑罰が下されるのだが、それは死刑だった。これをソクラテスは予期していたようであったが、自分に相応しい刑罰とは思わなかったようだ。というのもソクラテスは、「あなたがたは知者のソクラテスを殺したというので、非難されるでしょう」と言っているからである。そして自分が有罪で死刑になったのは、厚顔と無恥が不足したためだと言う。つまり、自分には何も悪いところはないが、法廷の裁判官たちの愚かさのために殺されるのだと強調するのだ。そんな裁判官たちには、ソクラテスの死後懲罰が下されるだろう。その懲罰は、ゼウスに誓って言うが、もっとつらい刑罰になるだろう。かれらを吟味にかける人間がもっと多くなり、彼らを悩ますことだろう。というのも、今までは自分に遠慮して吟味を控えていた者たちが、自分の死後は遠慮なしに吟味するようになるからだ。

自分には死を恐れる理由はないと語ったソクラテスは次いで、自分を殺すことはポリスにとっての損失になると主張する。その理由としてソクラテスがあげるのは、「わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに、付着させられているから」というものだった。「つまり神は、わたしをちょうどその(馬を目覚めさせておくための)あぶのようなものとして、このポリスに付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難することを、少しも止めないものなのです」。そんな私を殺すことは、あなた方を目ざめさせる者がいなくなることを意味し、したがってポリスは全体が眠ってしまうようなことになるであろう。それは不都合なことに違いない。それなのに私を殺そうとするのは、「眠りかけているところを起された人々のように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、わたしを叩いて、軽々に殺してしまう」ようなものだ。

次いでソクラテスは、自分に対して直接に訴求したものらに反論する。「メレトスという、善良な自称愛国者」たちである。彼らの訴求の理由は、「ソクラテスは犯罪人である。青年に対して有害な影響を与え、国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神のたぐいを祭るがゆえに」というものだった。それに対してソクラテスは、手の込んだ反論を展開するのである。

弁明を始めるに先立ちソクラテスは、自分が弁明すべき相手は二通りあると言う。一つは今回自分を訴求したアニュトス一派だが、そのほかにもう一つ、「すでに早くから、多年にわたって」自分を訴えている連中だ。その連中は、もっと手ごわい連中であって、「諸君の大多数を、子供のうちから、手中にまるめこんで、ソクラテスというやつがいるけれども、これは空中のことを思案したり、地下の一切をしらべあげたり、弱い議論を強弁したりする、一種妙な知恵をもっているやつなのだという、何ひとつ本当のこともない話を、しきりにして聞かせて、わたしのことを讒訴」していたのだという。

プラトンの著作「ソクラテスの弁明」については、既に別稿において、その概要と解説とを披露したところだ。今度はもう少し踏み込んで、テクストを逐次的に読み込みながら、この著作の全容について明らかにしたいと思う。とりあえずタイトルを「ソクラテスの弁明を聞く」としたが、それはこの著作が、文字通りソクラテスの弁明から成り立っているからであって、それを読むことはまさに、「ソクラテスの弁明を聞く」ことになるからだ。あるいは、「ソクラテスの弁明読解」とすることもできよう。

岩田靖夫はギリシャ哲学が専門のようだが、レヴィナスにも関心があるようで、レヴィナスについての本も書いている。「神の痕跡」と題した本は、副題に「ハイデガーとレヴィナス」とあるとおり、ハイデガーとレヴィナスとの関連が主なテーマだ。この本は、ハイデガーとレヴィナスとの関連を見るには必読の書だと、レヴィナス学者の熊野純彦が書いていたので、その二人に深い関心を持つ小生は、是非もなく読んでみる気になったものだ。

合田正人はレヴィナスの翻訳者として、レヴィナスの主要な著作をほぼ網羅する形で、日本に紹介してきた。小生も「レヴィナス・コレクション」や「存在の彼方へ」といったレヴィナスの著作を合田の訳で読んだ次第だ。「レヴィナス・コレクション」はともかく、「存在の彼方へは」はかなり難解な書物で、読解するのに非常に難儀した。それがレヴィナス自身の文章に起因するのか、それとも合田の訳に原因があるのか、小生には断定できないが、熊野純彦訳の「全体性と無限」も、難解という点ではひけを取らなかったので、おそらくレヴィナス自身の文章に主な原因があるのだと思う。その難解な文章を合田は、よく訳しているといってよいかもしれない。

熊野純彦の「レヴィナス入門」は、レヴィナスの三冊の書物、すなわち「存在することから存在するものへ」、「全体性と無限」、「存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ」を取り上げながら、レヴィナスの思想の特徴とその偏移の様相をわかりやすく紹介している。わかりやすいと言っても、レヴィナスの思想そのものにかなりわかりにくいところがあるので、おのずと理解の限界はあるのだが。しかし、その難解なレヴィナスの思想の偏移を、わかりやすいフレーズを使って腑分けしているので、読んでいるものとしては、なんとなくわかったような気分になる。

主体性をめぐるレヴィナスの議論はかなり錯綜しているように映る。というのもレヴィナスは、主体性を受動性と結びつけて論じるからだ。普通、主体性の対立概念は客体制であり、受動性の対立概念は能動性である。であるから主体性と受動性とは違ったカテゴリにーに属するといってよく、論理的には、主体性と受動性が結びつくことには破綻はないはずなのだが、それでも奇異な感を与えるのである。それは、哲学の伝統の中では、主体性が能動性と結びついて来た歴史があるからだろう。

語ることと語られたこととの対立は、共時性と隔時性の対立とならんで、「存在の彼方へ」における主要な概念セットである。だが、共時性と隔時性の対立ほどには、語ることと語られたことの対立はわかりやすいとはいえない。というか、この両者が対立関係にあるとは、俄には思えないので、我々はレヴィナスが、これらを対立させることの理由がなかなかわからない。語ることの結果語られたことが生起するのではないのか。語ることと語られたたこととは、一つの事態の連続した様態であって、そもそも対立関係にはないのではないのか。そのような疑問が浮かんでくるのである。

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