知の快楽

死への存在:ハイデガー「存在と時間」

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人間は死すべき存在だということは、昔からわかりきったことだ。だが、そのわかりきったことを、西洋の哲学は表立って問題にしてこなかった。むしろ、人間にとって永遠とは何なのか、というような場違いな問題設定がなされてきた。プラトンのイデア論などは、ある意味そうした場違いな問題設定の典型だったと言えなくもない。なぜなら、イデアという永遠・不変なものを存在の本質とし、人間がそれにあずかることを問題として取り上げたことで、人間が死すべき存在だという厳然とした事実から、人間の目をそらし続けてきたからである。

真理をめぐる伝統的な議論は、真理を人間の判断の作用と関連付けて論じるものだった。人間の判断の作用とは、人間の主観の働きである認識作用が、客観的な対象についてなされるときにおきるものであるが、その場合に主観的な判断が客観的実在と一致することが真理だとされた。この考え方は、一方に意識という主観的なものを置き、他方にその対象としての客観的な実在を置いて、その両者を対立させることを前提としていた。しかしこれは転倒した考え方だとハイデガーは主張する。

不安:ハイデガー「存在と時間」

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「存在と時間」には、キルケゴール由来と思われる概念が多く用いられている。その最たるものが「不安」である。この概念をハイデガーは、情態性を論じる文脈の中で用いている。情態性というのは、世界・内・存在としての現存在の、自分自身についての存在了解を構成しているものであり、現存在はこの情態性を通じて、自分が世界のなかに投げ出され、そこ(ダー)において存在している(ザイン)ということを了解する。認識ではなく、了解である。人は(知的な)認識を通じて了解に至るのではなく、漠然とした了解をもとにして認識に至るように出来ているのである。

「存在と時間」第一編第五章は「内・存在そのもの」と題して、世界・内・存在としての現存在の根本的な有様について分析している。世界・内・存在としての現存在は、自分が生きている世界についてすでに存在了解を持っており、この存在了解を手がかりにして世界についての認識を成立させるというふうにハイデガーは問題を提起するのであるが、それではこの世界了解とはどのような内容のものなのか。それがこの章において論じられるテーマである。ハイデガーは世界了解の内容を基本的には二つの面から見る。一つは、現存在の現存在としての自分自身についての捉え方であり、もうひとつは自分自身以外の存在者についての捉え方である。ハイデガーは、前者については情態性、後者については了解と呼ぶものを通じて解明する。

共同現存在:ハイデガー「存在と時間」

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他者の問題は、デカルト以来の西洋哲学史において、最大のアポリアだった。ハイデガーはそのアポリアをいともあっさりと解消してしまう。他者は手の届かない対象のようなものなどではなく、世界内存在としての現存在の存在了解にすでに含まれていると言うのである。ハイデガーは言う、「世界を持たないような主観が、さしあたり『ある』のではなく、したがってまた決して与えられているのでもない、ということを示しました。こうして結局は同様に、他人なしの孤立した自我はさしあたり与えられていないのです」。要するに、世界内存在にとっての世界とは、そもそも他人を含んだものなのである。だから我々にとって必要なことは、すでにそこに含まれている他人というものの存在構造を明らかにすることなのだ。他人は探すべきものではなく、すでに出会われていて、その存在のあり方についての解明を待っているものなのである。

世界内存在としての現存在にとって、世界はどのような現われ方をするか。ハイデガーはまず、現存在とそれ以外の存在するものとのかかわりについて注目する。伝統的な考え方では、主観としての人間と客観としての対象とが向き合い、主観は認識の作用を通じて対象を捉える。その認識の作用は、対象を、基本的には見られるものとして捉える。そこから対象の目の前存在としての規定性が導き出される。世界とは、そのような目の前存在の集合として、認識主体たる主観に対立する、そのような構図になっていた。ハイデガーはそのような構図を根本的に見直す。ハイデガーによれは、現存在にとって、存在するものは、まず道具として現われるというのである。

世界内存在は、現存在の根本的な存在構造として、極めて重要な位置づけがされている概念だが、その重要性にかかわらず、ハイデガーの取り扱い方はあっさりしている。「存在と時間」のなかでこの言葉が始めて出てくるのは、序説の第一章であるが、そこでは「現存在には、本質的に、世界のなかに在ること、が属しています」と言及されているだけで、「世界内存在」についての詳しい説明はない。「世界内存在」が主題的に論じられる第一篇第二章では、冒頭に近い部分で、「現存在のこのような存在諸規定は、わたしたちが世界・内・存在(世・に・あること)と呼んでいる存在構えを根底にして、アプリオリに見られかつ理解されねばならないのです」と言うのであるが、ここでも世界内存在という言葉で何を意味しているのか、わかりやすい説明はない。

「存在と時間」の本論第一部は、現存在の予備的分析から始まる。現存在の予備的分析を通じて、存在者の存在についての問いに、一定の見通しを得ることがその目的だ。現存在を分析することで、存在への問いへの見通しが得られるというのは、現存在が特別の存在者として、つまり人間として、世界についての一定の了解(存在了解)をもっているからであり、その存在了解から出発して、そこに現われる存在者の様相を掘り下げて分析すれば、存在者の存在が明瞭に浮かび上がってくるにちがいない、そうした見通しがあるからだ。その見通しは根拠のないものではない。何故なら、哲学というものは、人間の行う営みなのであり、その人間の営みというのは、人間にとって利用できる前提から出発するものだからだ。その前提とは、現存在つまり人間の持っている存在了解のことだ。デカルトのように、意識によって存在を根拠付けるのではなく、存在了解という事実から存在を導き出す、それがハイデガーの基本的な立場である。

ハイデガーが言うところの現象学は、彼の師であるフッサールの現象学とは似て非なるものだ、と木田元は言った。ハイデガーは、「存在と時間」の中で現象学の意義について説明し、自分がそれをフッサールに負っていると言い、フッサールに対して敬意を表明しているが、それはハイデガー一流のへつらいであって、自分の哲学がフッサールの現象学とは何のつながりも持たないことは、ハイデガー自身よく知っていたはずだ、と言うのである。しかし、そう決め付けては実もふたもないので、現象学についてハイデガー自身が言っていることに、一応耳を傾けてみたい。

「存在と時間」の序説第二章は、全体構想の第二部で展開されるはずだった議論の概要を先取り的に説明したものである。第一部での現存在の基礎的分析を通じて浮かび上がってきた存在の根本性格である時間性、それを踏まえて西洋の伝統的な哲学を解体するというのが、第二部の基本的な目的だとされる。ハイデガーがその解体のとりあえずの対象として選ぶのは、カントからデカルトを経て古代のギリシャ哲学にさかのぼる流れである。

「存在と時間」の序説の中でハイデガーは、この著作の目的について簡潔に言及している。それを一言で言い表わせば、存在への問い、ということになる。何故存在への問いなのか。それについてハイデガーは、存在がその重要性にかかわらず、忘れられているからだ、と言う。それではいけない、そうハイデガーは考えたのであろう。忘れられていたものを思い起こすためにも、その忘れられていた当のもの、すなわち存在への問いを発しなければならない。そうすることで、「形而上学」を再び肯定することが、「現代の進歩のしるし」なのだと言うのである。ここでハイデガーが「形而上学」と言っているのは、ほぼ「哲学」と同義の言葉だと、とりあえず捉えておいてよい。

ハイデガー「存在と時間」を読む

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ハイデガーの「存在と時間」には色々な読み方がある。この本自体が未完成な作品であり、ハイデガーが何故これを未完成のまま放棄したのか、ということがあるし、それ以上に、この本が二十世紀の思想に及ぼした影響があまりにも巨大なので、その影響が拠って来たった理由とか、影響の及んだ範囲を考えると、そこに色々なファクターを求める動きが当然でてくるし、それが読み方にも作用するということがある。また、ハイデガーがとった政治的な動き、それは誰によっても弁護のしようがないグロテスクな行為というふうに見られているわけだが、そうしたハイデガーの政治的スタンスとの関係において、この本をどのように評価すべきか、という事情もある。そんな複数の要素が働いて、ハイデガーの主著であるこの「存在と時間」という本は、一筋縄では捉えられないというわけである。

木田元「わたしの哲学入門」

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木田元の「わたしの哲学入門」は、生涯をハイデガーを読むことにささげたという木田が、そのハイデガーの視点から西洋哲学の歴史をたどったものだ。なぜそんなことが可能かといえば、ハイデガーには、西洋哲学の歴史を解体しようとする強い意志があって、それを実現するためには、西洋哲学史についての、一貫した見方を持たねばならない。その見方は、西洋哲学をトータルに展望するものとなるはずなので、それを腑分けしていけば、おのずから西洋哲学史について俯瞰することになるわけである。

ハイデガーの「存在と時間」が未完成なのは周知のことである。ハイデガーはこの書物の序説第二章第八節で、この著作の全体像を示しているが、それは二部からなり、それぞれの部が三篇構成になっていた。このうちハイデガーが完成させたのは、第一部の第二編まである。つまり当初構想されていた全体像の三分の一が書かれたに過ぎず、残りの三分の二は途中で放棄されたということになる。ハイデガーに生涯入れ込んだ日本の哲学研究者木田元は、この書かれなかった部分について、ハイデガーが若しそれを書いたとしたらどのように書いただろうか、それをハイデガーの意図を忖度しながら、構築しようとした。あわせて、ハイデガーが何故それを書かずに放棄してしまったのか、その原因についても見極めたい。このような問題意識に導かれながら、この本を書いたということらしい。題名が「存在と時間」の構築となっているのは、木田のこのような問題意識をずばり現しているわけである。

木田元「ハイデガー拾い読み」

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木田元の「ハイデガー拾い読み」は、ハイデガーの膨大な量の講義録から、興味深いところをかいつまんで紹介しようというものだ。木田によれば、ハイデガーの講義録は、大学の講義での話し言葉をそのまま文章にしたものなので、まわりくどく冗長なところがある一方、かんでふくめるような言い方をしていて、凝縮された言葉を使っている論文とは違って、非常に分かりやすい。しかも、哲学史にかかる重要な概念や問題について、本筋からそれたところでそれとなく(肩肘凝らずに)論じている。そういうものの中に木田は、非常に裨益させられるところがあるし、また西洋哲学について深く感じさせられるところもある、と言う。そんなわけでハイデガーの講義録は木田にとって、この上もなく面白い読み物だと言うのである。

精神について:デリダのハイデガー論

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ジャック・デリダの著作「精神について(De l'esprit)」は、精神についてのハイデガーの取り上げ方の変遷を主題としたものである。「存在と時間」におけるハイデガーは、精神という言葉を注意深く避けていた、やむを得ず使わねばならないケースでは、引用符付きで用いていた。ところが1933年の有名な総長演説では、この引用符がはずされ、精神という言葉が堂々と使われるようになった。この言葉は、1935年の「形而上学入門」の中で一層磨きをかけられ、ドイツの民族性との強いかかわりにおいて論じられるようになる。そして総長演説から20年後に至って、ハイデガーは精神という言葉の多義性を深く反省しつつ、その本来的な意味について明らかにする。それはドイツ語でなければ言い表せないようなものであって、ドイツ語の優位とドイツ人の優越を物語るものである。つまりドイツ人こそが世界でもっとも精神的な民族なのである、とハイデガーは誇り高く宣言するに至った。大雑把にいうとそうデリダは捉えているようである。

本来性と非本来性の対立は、ハイデガーの根本的な概念セットの一つである。だからこそアドルノは、ハイデガー批判のキーワードとして「本来性という隠語」を持ち出したわけだ。アドルノは、ハイデガーが本来性という言葉で、自分の全体主義的・人種差別的な考えを展開していると言った。ハイデガーは、本来性を人間(現存在)の根本的なあり方と言ったが、じつは彼の考えている本来性とは、個々の人間を民族という全体的な容れ物に解消してしまう、非人間的な概念なのだと批判したわけである。

スタイナー「ハイデガー」

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ジョージ・スタイナーは、オーストリア系のユダヤ人であり、アメリカに帰化し、英語を用いて英米系の人達に向かって、主として文芸批評的なことがらについて、語りかけた人である。その人が二十世紀最大の哲学者といわれるハイデガーについて、哲学を専門的に勉強したこともないのに、あえて書いた。そのことについてスタイナーは、言訳みたいなことを書いている。自分がハイデガーに魅かれたのは、主として言語についての関心からであったとともに、(一人のユダヤ人として)ハイデガーのナチスへのかかわりについて考えてみたかったからだ、というようなことである。

木田元「ハイデガーの思想」

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木田元はハイデガーの日本への紹介者として知られる。ハイデガーの紹介といえば、ハイデガーに心酔するあまり、ハイデガー流の難解な言葉を駆使してその思想を賛美するか、あるいはハイデガーのナチス加担という事実をもとに、一方的な批判をするか、そのどちらかに偏ることが多いのだが、木田はどちらか一方に極端に偏ることなく、比較的バランスよくハイデガーを紹介してきた。しかも哲学の素人でも理解できるような平易で、わかりやすい言葉で。そういった点では、非常にすぐれた紹介者と言えよう。

熊野純彦「和辻哲郎」

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熊野純彦のこの本は、前半では和辻の人間形成の軌跡を、彼の「自叙伝の試み」を引用しながらたどり、後半では人間形成を成し遂げた和辻がどのような思想を抱くに至ったかを、主に「倫理学」を参照しながら腑分けする。しかして前半と後半とは深いところでつながっている。それをつなげている主なファクターは、和辻の自己意識にあるというのが、どうも熊野の見立てのようである。和辻は姫路市北郊の寒村で生まれ育ったが、そこは非常に貧しい村落で、村民はみな厳しい労働に耐えながら生きていた。労働から解放されていた家は、一軒の寺坊主の家と、医師であった和辻の家だけだった。そこで和辻は、この村落に生涯懐かしい思いを寄せる一方、自分はそこから疎外されているといった感情を抱くに至った。この感情はまたエリート意識の裏返しでもあった。そんなふうに熊野の文章からは伝わってくる。

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