日本文学覚書

自伝的対談「大江健三郎、作家自身を語る」の中で大江は、「さようなら、私の本よ」を、自分の作家活動の一つの頂点をなす作品だと言ったが、それはかれの作家活動の総仕上げだというような意味に聞こえた。この小説を書きあげた時、大江は七十歳になっていたわけで、おそらく自分の作家人生最後の小説になると考えたのではないか。これが最後の小説としての本になるだろうという予感が、「さようなら、私の本よ!」という題名に込められていたのではないか。実際には大江は、七十歳を過ぎても二本の長編小説を書いたので、これが最後の小説にはならなかったが、そこにはかれの作家活動を最終的に締めくくるというような気迫がこもっているように思える。

前稿で、大江の小説「憂い顔の童子」は「ドン・キホーテ」のパロディだといい、大江の分身たる古義人こそドン・キホーテその人だと書いたが、ここではこの小説と「ドン・キホーテ」との関係をもう少し見てみたいと思う。とにかくこの小説は、「わしは自分が何者であるか、よく存じておる、とドン・キホーテが答えた」という、「ドン・キホーテ」の中の文章をエピグラフにしているのであるし、単行本の装丁には、ロバを抱きしめるサンチョ・パンサを描いた、ドレの有名な版画をあしらっているほど、「ドン・キホーテ」にこだわっている。だからそのこだわりに応えて、もうすこし「ドン・キホーテ」に執着してみようというのである。

大江健三郎の小説には、「個人的な体験」以来、主人公をあたたかく包み込んでくれる女性が登場するというのがひとつのパターンになっていたが、この小説「憂い顔の童子」では、白人女性がそのようなものとして出て来る。ローズさんだ。彼女は、妻がベルリンへ単身出かけて長期不在の間、古義人とともに四国の山の中の小屋で共同生活をするのだ。古義人とその障害のある息子のために、食事を始め日常の世話までするので、主婦=妻の役を果たしているといってもよい。もっともセックスはしない。少なくとも小説の文面からは、セックスをしている様子はない。セックス抜きで疑似夫婦関係を続けているのである。小説にセックスを持ち込むのが好きな大江がなぜ、セックス抜きで男女関係を描こうとしたのか、多少興味をそそられるところである。

大江は1960年安保を前に「若い日本の会」というものにかかわった。その会には石原慎太郎とか黛敏郎のような民族派の右翼もいたが、おおむねリベラルな人間が集まっていたといってよい。この「若い日本の会」のメンバーだった一部の連中を、大江は「憂い顔の童子」の中で取り上げて、かれらの活動をパロディ化している。大江なりの同時代批判といってよい。

「憂い顔の童子」は、「取り替え子」の続編ということになっている。この二作に「さようなら、私の本よ!」を加えたものを大江は「奇妙な二人組」シリーズと銘打っている。奇妙な二人組というのは、第一作では大江の分身古義人と伊丹十三の分身吾良の組合せだと了解されたが、第二作目はかならずしも明瞭ではない。この小説では、吾良の存在感はほとんどないし、また筋書きのうえで古義人と吾良とが切り結ぶところもない。古義人は時折吾良のことを思い出しては、自分の少年時代を回想するくらいだ。なにしろこの小説の中の古義人は、自分が生まれ育った四国の山の中で暮らしていることになっており、勢い自分の少年時代を回想するように動機づけられているといってもよいのだ。

「大江健三郎作家自身を語る」と題した本は、大江へのインタビューを編集したものである。インタビューの趣旨は、大江の作家活動五十周年を記念して、作家としての自分の人生を振り返ってもらうというもの。インタビュアーは、読売の記者で、大江のエスコート役をつとめたことがある尾崎真理子。相手が女性ということもあり、またその女性が大江の作品を広く深く読んでいるということもあって、彼女の質問に対して大江は率直に答えるばかりか、質問にないことまで饒舌に語っている。これを読むと、大江健三郎というのは、実に饒舌な作家だとの印象が伝わって来る。もっとも饒舌でなければ、作家は勤まらないのかもしれないが。

「二百年の子供」は、児童文学を意識して書いたそうだ。つまり子供を読者に想定して書いたということだが、それにしてはむつかしすぎるのではないか。この小説の文章を読みこなすには、高校生レベルの読解力が必要に思える。なかにはませた子もいるので、そういう子には読解できるだろうが、標準的な子供を前提にすれば、やはり中学生以下にはむつかしいと思える。何しろ大江は、悪文との評判があるくらいで、大の大人が読んでもわかりにくいところの多い作家だ。いわんや子供においてをや、である。

前稿で、「取り替え子」で触れられていたランボーの詩「Adieu」に拙訳を施したところ、同じ小説の中で触れられているオーデンの詩も訳す気になった。これは「Leap Before You Look」という題名の詩で、日本語では「見る前に跳べ」ということになる。この詩を大江は、勇気を鼓舞してくれるものとして引用していたのだが、他の小説のなかでも、もっと本格的な形で取り上げていた。その小説は「見る前に跳べ」というタイトルで、まさにオーデンの詩のタイトルをそのまま用いたのだった。その小説の中でのこの詩の引用のされ方は、何事も見た上でなければ、つまり安心したうえでなければ跳べない日本人の臆病さを揶揄するといったものだった。「取り替え子」のなかには、そうした揶揄の感情はない。年齢の経過が、大江に心境の変化をもたらしたのかもしれない。

大江健三郎には、小説の中で自分の愛読している詩人や小説家を取り上げ、作中人物を通じて自分なりの感想やら意見を述べる癖がある。「取り替え子」においては、オーデンとランボーが取り上げられる。オーデンについては、以前にも何度か言及したことがあり、「見る前に跳べ」という小説では、オーデンのある詩のタイトルをそのまま小説のタイトルにしたのでもあったが、ランボーを本格的に取り上げるのは、これが初めてだ。小説のモチーフが伊丹十三の生き方にあることを考慮すれば、ランボーは相応しい選択だったといえよう。ランボーのある意味ノンシャランな生き方は伊丹に通じるものがあるし、また「地獄の季節」の最後を飾る詩「Adieu」は、伊丹の死を暗示しているようにも思えるからだ。

小説のタイトル「取り替え子」には、いくつもの意味が多層的に含まれている。というか作家によって含められている。それらの意味を、読者に向かって解き明かす役目を果たすのは大江の妻の分身千樫である。三人称の形式をとっているこの小説は、出だしからずっと大江の分身古義人の立場から語って来たのだが、最後の章で俄然千樫の視点に立った書き方をする。そのことで小説に構造的な変化が生まれ、また、女性である千樫の視点から書けるという効果も生まれた。視点が多数あるというのは、小説にとっては、独特の効果を生むものだ。まして女性の視点が含まれている場合には、なおさらである。

「取り替え子」は、三人称で書かれている。大江は初期の短編以来「燃え上がる緑の木」に至るまで、基本的には一人称で書いて来た。それが断筆宣言から一転再開した「宙返り」で本格的な三人称を導入したのだったが、そうすることで物語り展開にかなりの自由度が生まれたようだ。一人称だと、どうしても狭い視点から語ることになるし、語ることにはそれなりの利点も無論あるのだが、壮大さには劣る。壮大な物語を展開するには、やはり三人称が有利だ。「取り替え子」というこの小説は、三人称の利点を最大限発揮しているといってよい。

大江健三郎が、小説の中で伊丹十三を描くのは、これが初めてではない。「なつかしい年への手紙」は、大江の自伝的な色彩が濃い作品だが、そのなかで少年時代を回想する際に、高校の同級生としての伊丹が出て来る。無論名前は変えてあるが。その伊丹は、高校生としてはませたところがあり、また独特の才能を持っていて、大江とは異なった感性を持つ人間として描かれていた。とはいっても、深く掘り下げた描写があるわけではない。思春期の真っ最中である大江少年が、まぶしい光のなかでちらっと垣間見た、才能に富んだ、生き方のうまい人間として、要するに生き方のある種の見本として、畏敬を以て描かれていたものだ。

「取り替え子」は、伊丹十三の死に触発されて書いた小説だ。伊丹は、大江の松山東高校での同級生であり、かつ妻ゆかりの兄でもあった。そんなこともあって、生涯の付き合いを持つようになったのだが、その間柄には複雑なものがあった。伊丹のほうが一つ年上ということもあって、かれらの関係は完全にフラットなものではなかったらしく、どちらかというと、伊丹のほうが大江をリードしていたようだ。大江がゆかりと結婚したいと言った時、どういうわけか伊丹は大反対したのだったが、それがどんな動機に出たものなのか、大江はずっと考え続けていた、ということがこの小説からは伝わって来る。そんなわけで、大江は伊丹について不可解な思いをいっぱい抱えていたようなのだが、それが伊丹の突然の死によって、永久に解明できなくなった。しかし伊丹は、死に先駆けて、大江に対してあるメッセージを残していた。それはある種、遺書のようなもので、それを読み解くことで大江は、伊丹と自分との関係をトータルに理解しようと努める。この小説は、そうした大江の思いを、なるべく第三者的な視点から追いかけたものである。

過日、音楽家の小澤征爾と小説家の村上春樹の対談を読んで、非常に面白かった。小沢のほうが大分年が上だということもあって、対談の主導権を発揮しているように感じたものだが、それには村上のリードも働いていたわけで、村上は自分自身も音楽好きなので、小沢から音楽について学べるものを引き出してやろうという気迫を持っていたのだと思う。

大江健三郎はノーベル賞受賞の記念講演を、少年時代に耽読した二冊の本への言及から始める。一冊は「ハックルベリー・フィンの冒険」、もう一冊は「ニルスの不思議な旅」である。少年の大江健三郎は、これらの作品を通じて、自分が世界文学につながっているということを次第に自覚していったという。だから、日本人としては、川端康成に続いて二人目の受賞者になったとはいえ、自分は川端よりも、71年前にこの賞を受賞したウィリアム・バトラー・イェイツのほうに魂の親近を感じた、と大江は言うのだ。ということは、日本人としてよりも人類の一員としてのアイデンティティを感じているということだろう。

「燃え上がる緑の木」という題名は、アイルランドの詩人イェイツの詩からとられている。イェイツについて大江は、「懐かしい年への手紙」のなかで度々言及していたが、この「燃え上がる緑の木」では、小説の大きな原動力としてイェイツを位置付けている。というのも、ギー兄さんを中心とする宗教的な運動は、イェイツの詩の精神によって鼓舞されているからだ。キリスト教の福音にあたるものを、イェイツの詩が果たしているといってもよい。

大江健三郎には、反体制運動に共感する傾向があって、それを小説の中でも表現することがある。「燃え上がる緑の木」では、それがかなり複雑な形をとっている。ひとつは、主人公のギー兄さんを革命党派の生き残りと設定しながら、敵対する党派の生き残りによって襲撃され、殺されてしまうというような、ちょっとわかりにくい話を挿話的に挟み込んでいること。もうひとつは、ギー兄さんらの宗教的な巡礼の行進が、四国にある原発を事故でダウンさせたというような、ポレミカルな設定の話を盛り込んでいることだ。

「燃え上がる緑の木」の実質的な主人公はギー兄さんである。そのギー兄さんは、宗教的な人間として描かれている。もっとも本人の意識には、自分はたしかに魂のことに打ち込んでいるが、それは必ずしも常識的な意味での宗教ではない、という思いが強い。しかしそんな本人の思惑とは離れたところで、彼を宗教指導者として仰ぐ人々が集まって来て、それが宗教団体のような様相を呈していく。語り手であるさっちゃんという女性は、そうした動きを脇に見ながら、自分の恋人でもあるギー兄さんの気持に寄り添うのだが、さっちゃんの場合には、ギー兄さんを宗教指導者としてではなく、魂のことに悩む一人の人間として見ているところもある。しかし、ギー兄さんの起こす奇跡の数々を、やや感情を込めて書くところなどは、キリストの事跡を福音書という形で書いた、あの使徒たちを思わせる。この長大な小説は、或る意味、一人の宗教指導者の事跡を、福音書風に伝えているものと言えなくもない。

大江健三郎の小説にはかならず語り手が出て来て、誰かに向って親しく語りかけるという形をとる。その誰かは、「同時代ゲーム」におけるように、同じ小説の登場人物ということもあるが、大体はその小説の読者である。語り手は、だいたいが男だったが、「静かな生活」で初めて女性を語り手にした。しかしその語り手は、大江の長女に設定されていたので、完全なかたちでの女性のナレーションションとは言えないところがあった。父親は自分の娘を女とはなかなか見ないものだ。

「燃え上がる緑の木」の三部作を書き終えた時、大江健三郎は60歳になったばかりだったが、この小説を最後にもう長編小説を書くことはやめようと思ったというから、この小説を自分の作家としての集大成と考えていたのだと思われる。自分の生涯の集大成と言うからには、大江のそれまでの作家としての営みの成果を集約したものが、この作品には盛られているということだろう。実際この作品にはそう思わせる要素がある。一つには、四国を舞台に展開してきた、彼一流のユートピアへのこだわりがこの作品には見られるし、また障害のある子供を始め、自分自身の家族へのこだわりもある。この二つの要素は、大江のそれまでの作品を貫く太い水脈のようなものであった。その要素を大江は、この作品のなかで融合させ、一つの大河として提示したと言えるだろう。

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