日本文学覚書

前稿で、「取り替え子」で触れられていたランボーの詩「Adieu」に拙訳を施したところ、同じ小説の中で触れられているオーデンの詩も訳す気になった。これは「Leap Before You Look」という題名の詩で、日本語では「見る前に跳べ」ということになる。この詩を大江は、勇気を鼓舞してくれるものとして引用していたのだが、他の小説のなかでも、もっと本格的な形で取り上げていた。その小説は「見る前に跳べ」というタイトルで、まさにオーデンの詩のタイトルをそのまま用いたのだった。その小説の中でのこの詩の引用のされ方は、何事も見た上でなければ、つまり安心したうえでなければ跳べない日本人の臆病さを揶揄するといったものだった。「取り替え子」のなかには、そうした揶揄の感情はない。年齢の経過が、大江に心境の変化をもたらしたのかもしれない。

大江健三郎には、小説の中で自分の愛読している詩人や小説家を取り上げ、作中人物を通じて自分なりの感想やら意見を述べる癖がある。「取り替え子」においては、オーデンとランボーが取り上げられる。オーデンについては、以前にも何度か言及したことがあり、「見る前に跳べ」という小説では、オーデンのある詩のタイトルをそのまま小説のタイトルにしたのでもあったが、ランボーを本格的に取り上げるのは、これが初めてだ。小説のモチーフが伊丹十三の生き方にあることを考慮すれば、ランボーは相応しい選択だったといえよう。ランボーのある意味ノンシャランな生き方は伊丹に通じるものがあるし、また「地獄の季節」の最後を飾る詩「Adieu」は、伊丹の死を暗示しているようにも思えるからだ。

小説のタイトル「取り替え子」には、いくつもの意味が多層的に含まれている。というか作家によって含められている。それらの意味を、読者に向かって解き明かす役目を果たすのは大江の妻の分身千樫である。三人称の形式をとっているこの小説は、出だしからずっと大江の分身古義人の立場から語って来たのだが、最後の章で俄然千樫の視点に立った書き方をする。そのことで小説に構造的な変化が生まれ、また、女性である千樫の視点から書けるという効果も生まれた。視点が多数あるというのは、小説にとっては、独特の効果を生むものだ。まして女性の視点が含まれている場合には、なおさらである。

「取り替え子」は、三人称で書かれている。大江は初期の短編以来「燃え上がる緑の木」に至るまで、基本的には一人称で書いて来た。それが断筆宣言から一転再開した「宙返り」で本格的な三人称を導入したのだったが、そうすることで物語り展開にかなりの自由度が生まれたようだ。一人称だと、どうしても狭い視点から語ることになるし、語ることにはそれなりの利点も無論あるのだが、壮大さには劣る。壮大な物語を展開するには、やはり三人称が有利だ。「取り替え子」というこの小説は、三人称の利点を最大限発揮しているといってよい。

大江健三郎が、小説の中で伊丹十三を描くのは、これが初めてではない。「なつかしい年への手紙」は、大江の自伝的な色彩が濃い作品だが、そのなかで少年時代を回想する際に、高校の同級生としての伊丹が出て来る。無論名前は変えてあるが。その伊丹は、高校生としてはませたところがあり、また独特の才能を持っていて、大江とは異なった感性を持つ人間として描かれていた。とはいっても、深く掘り下げた描写があるわけではない。思春期の真っ最中である大江少年が、まぶしい光のなかでちらっと垣間見た、才能に富んだ、生き方のうまい人間として、要するに生き方のある種の見本として、畏敬を以て描かれていたものだ。

「取り替え子」は、伊丹十三の死に触発されて書いた小説だ。伊丹は、大江の松山東高校での同級生であり、かつ妻ゆかりの兄でもあった。そんなこともあって、生涯の付き合いを持つようになったのだが、その間柄には複雑なものがあった。伊丹のほうが一つ年上ということもあって、かれらの関係は完全にフラットなものではなかったらしく、どちらかというと、伊丹のほうが大江をリードしていたようだ。大江がゆかりと結婚したいと言った時、どういうわけか伊丹は大反対したのだったが、それがどんな動機に出たものなのか、大江はずっと考え続けていた、ということがこの小説からは伝わって来る。そんなわけで、大江は伊丹について不可解な思いをいっぱい抱えていたようなのだが、それが伊丹の突然の死によって、永久に解明できなくなった。しかし伊丹は、死に先駆けて、大江に対してあるメッセージを残していた。それはある種、遺書のようなもので、それを読み解くことで大江は、伊丹と自分との関係をトータルに理解しようと努める。この小説は、そうした大江の思いを、なるべく第三者的な視点から追いかけたものである。

過日、音楽家の小澤征爾と小説家の村上春樹の対談を読んで、非常に面白かった。小沢のほうが大分年が上だということもあって、対談の主導権を発揮しているように感じたものだが、それには村上のリードも働いていたわけで、村上は自分自身も音楽好きなので、小沢から音楽について学べるものを引き出してやろうという気迫を持っていたのだと思う。

大江健三郎はノーベル賞受賞の記念講演を、少年時代に耽読した二冊の本への言及から始める。一冊は「ハックルベリー・フィンの冒険」、もう一冊は「ニルスの不思議な旅」である。少年の大江健三郎は、これらの作品を通じて、自分が世界文学につながっているということを次第に自覚していったという。だから、日本人としては、川端康成に続いて二人目の受賞者になったとはいえ、自分は川端よりも、71年前にこの賞を受賞したウィリアム・バトラー・イェイツのほうに魂の親近を感じた、と大江は言うのだ。ということは、日本人としてよりも人類の一員としてのアイデンティティを感じているということだろう。

「燃え上がる緑の木」という題名は、アイルランドの詩人イェイツの詩からとられている。イェイツについて大江は、「懐かしい年への手紙」のなかで度々言及していたが、この「燃え上がる緑の木」では、小説の大きな原動力としてイェイツを位置付けている。というのも、ギー兄さんを中心とする宗教的な運動は、イェイツの詩の精神によって鼓舞されているからだ。キリスト教の福音にあたるものを、イェイツの詩が果たしているといってもよい。

大江健三郎には、反体制運動に共感する傾向があって、それを小説の中でも表現することがある。「燃え上がる緑の木」では、それがかなり複雑な形をとっている。ひとつは、主人公のギー兄さんを革命党派の生き残りと設定しながら、敵対する党派の生き残りによって襲撃され、殺されてしまうというような、ちょっとわかりにくい話を挿話的に挟み込んでいること。もうひとつは、ギー兄さんらの宗教的な巡礼の行進が、四国にある原発を事故でダウンさせたというような、ポレミカルな設定の話を盛り込んでいることだ。

「燃え上がる緑の木」の実質的な主人公はギー兄さんである。そのギー兄さんは、宗教的な人間として描かれている。もっとも本人の意識には、自分はたしかに魂のことに打ち込んでいるが、それは必ずしも常識的な意味での宗教ではない、という思いが強い。しかしそんな本人の思惑とは離れたところで、彼を宗教指導者として仰ぐ人々が集まって来て、それが宗教団体のような様相を呈していく。語り手であるさっちゃんという女性は、そうした動きを脇に見ながら、自分の恋人でもあるギー兄さんの気持に寄り添うのだが、さっちゃんの場合には、ギー兄さんを宗教指導者としてではなく、魂のことに悩む一人の人間として見ているところもある。しかし、ギー兄さんの起こす奇跡の数々を、やや感情を込めて書くところなどは、キリストの事跡を福音書という形で書いた、あの使徒たちを思わせる。この長大な小説は、或る意味、一人の宗教指導者の事跡を、福音書風に伝えているものと言えなくもない。

大江健三郎の小説にはかならず語り手が出て来て、誰かに向って親しく語りかけるという形をとる。その誰かは、「同時代ゲーム」におけるように、同じ小説の登場人物ということもあるが、大体はその小説の読者である。語り手は、だいたいが男だったが、「静かな生活」で初めて女性を語り手にした。しかしその語り手は、大江の長女に設定されていたので、完全なかたちでの女性のナレーションションとは言えないところがあった。父親は自分の娘を女とはなかなか見ないものだ。

「燃え上がる緑の木」の三部作を書き終えた時、大江健三郎は60歳になったばかりだったが、この小説を最後にもう長編小説を書くことはやめようと思ったというから、この小説を自分の作家としての集大成と考えていたのだと思われる。自分の生涯の集大成と言うからには、大江のそれまでの作家としての営みの成果を集約したものが、この作品には盛られているということだろう。実際この作品にはそう思わせる要素がある。一つには、四国を舞台に展開してきた、彼一流のユートピアへのこだわりがこの作品には見られるし、また障害のある子供を始め、自分自身の家族へのこだわりもある。この二つの要素は、大江のそれまでの作品を貫く太い水脈のようなものであった。その要素を大江は、この作品のなかで融合させ、一つの大河として提示したと言えるだろう。

「静かな生活」は、大江健三郎の義兄にあたる伊丹十三が、そのままのタイトルで映画化していて、小生は原作を読む前にそちらを見たのだったが、その際に、これは原作に必ずしも忠実ではないのではないかとの印象を持った。その理由というか、根拠は二つあった。一つは、別の小説、例えば「性的人間」のプロットの一部が使われていること、もう一つは主人公である少女が、悪い奴に強姦されそうになるシーンがあること。いくら小説とはいえ、自分の娘だと世間に向って表明しているものが、強姦されそうになるところを書くというのは、人間としてどうかという思いがあり、それで大江の原作にはそんなことが書かれているはずがないと、勝手に思い込んだ次第である。

「治療塔」は、副題に「近未来SF」とあるとおり、SF小説である。大江がSFを書くのはこれが初めてだが、SFの狭義の意味ではそういうことになるものの、大江にはもともとファンタスティックな面があるので、読者としては大した違和感は持たずに読める。大江はこの小説ではもう一つ実験をしていて、それは女性を語り手にしていることだ。大江の文章はどちらかといえば男性的なほうなので、というのは骨格がしっかりしていて、論理展開に無理がないという意味だが、そういう文体の大江が、女性に語らせるというのは、かなり思い切ったやり方だと思う。大江は前作の「人生の親戚」で、初めて女性を主人公に据えたのだったが、それでも語り手は男性だった。男性の眼で見た女性を描いたわけだ。大江はそれに飽き足らず、女性の視点から小説を書いてみたいと思ったのだろう。もっともあまり成功しているとは思えないが。

小生は、本を読むについて、それにあとがきが付されていれば、あとがきから読むのを習性にしているので、大江健三郎の新潮文庫版の小説「人生の親戚」についても、まずあとがきから読んだ次第だ。筆者は精神分析家として知られる河合隼雄で、次のような趣旨のことを書いていた。人生の親戚という題からは、まず漱石の道草を思い出した。道草の主人公は、縁が切れたと思っていた養父に思いがけず再会し、それ以来しつこく付きまとわれて嫌な思いをする。その嫌な思いを道草という小説は書いているのだが、その嫌な思いを道草の主人公は、人生の親戚である養父からあじわわされる。この道草の主人公と同様に、誰もが人生の親戚を持っているものだ。だいたいそんな趣旨のことを河合は書いていたので、それを読んだ小生は、大江のこの小説も、道草の主人公が持ったような人生の親戚をテーマにしているのかと思ったものだが、本文を読んで見ると、どうもそうではない。これは人生の親戚といったものではなく、一人の女性の人生そのものを描いているのである。

「キルプの軍団」という小説の題名は、ディケンズの小説「骨董屋」と関連がある。その小説の中にキルプという名の悪党が出て来て、それが小説の主人公である少女を迫害し、ついには死に至らせてしまう。その邪悪な人間の名を冠した連中が、大江のこの小説のなかでも悪行を働くというわけである。

大江健三郎は、自分の小説「キルプの軍団」に自分で注釈をつけて、これは少年が大人になるうえで経験しなければならぬ通過儀礼(イニシエーション)を描いたものだと書いた。興味深いのは、その少年というのが、高校生になった大江自身の次男だということだ。大江は、障害をもって生まれて来た長男については、「個人的な体験」以来、ずっと小説のなかで取り上げ続けてきたのだったが、次男について取り上げることは、主題的な形では一度もなかった。その次男を、高校生という微妙な時期に焦点を合わせて、初めて小説の主題的なテーマにしたのが、この「キルプの軍団」という小説なのである。しかもこの小説は、当該の少年自身の語ったこととして語られる。ということは、彼のイニシエーションが、第三者の目から見た形で語られるのではなく、少年自身の体験として生々しく語られるということだ。

ある小説のなかで大江健三郎は、重い障害がある自分の息子が、自分が死んだ後でも生きていくのに迷わぬよう、生き方の定義のようなものを残してやりたいと書いていたが、「生き方の定義」と題したこの書物がそれなのだろうと思って、手に取って読んだ次第だった。ところがこの書物は、冒頭の章で息子の生き方に多少の言及をしたのみで、その後の章では、必ずしも息子の生き方にストレートに役立つような内容には触れられていない。むしろ大江自身の生き方について、自分自身に言い聞かせているふうなのである。もっとも、親としての大江の自分自身の生き方へのこだわりを見せられれば、息子としてもいくばくかの参考になるのかもしれないが。

「ヒロシマ・ノート」と並べ論じられることの多い「沖縄ノート」を大江健三郎が書いたのは、1969年1月から1970年4月にかけてだ。この頃、アメリカのアジア政策に大きな変化がおこり、それを踏まえて佐藤・ニクソン会談が開かれ、沖縄の返還が具体的な日程にのぼりつつあった。ところがこの返還は無条件返還ではなく、米軍基地付きしかも核兵器つき返還だということがミエミエだった。そういう状況に対して、大江なりに抗議したというのが、このノートの性格である。大江は、このノートを通じて、沖縄の人たちの怒りを代弁しているわけである。その怒りは、「ヒロシマ・ノート」にみなぎっていた怒りよりも、強くかつ深い。

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