日本文学覚書

瀬戸内晴海の短編小説「みれん」は、「夏の終わり」で始めて描かれた三角関係の終わりをテーマにした作品である。題名「みれん」からは、瀬戸内自身この三角関係に複雑な感情を抱いていることが伝わってくる。彼女は、八年間一緒に暮らしてきた男に、理性では別れなばならぬと納得しておりながら、感情ではなかなかわりきれない。むしろ強い「みれん」を感じている。頭とは全く逆のことを、下半身が迫ってくるのである。

瀬戸内晴美の短編小説「あふれるもの」は、「夏の終わり」の延長上にある私小説だ。「夏の終わり」は、八年間奇妙な同棲生活をしてきた男と、最初の結婚の破綻の原因を作った年下の男との三角関係を描いていたが、この「あふれるもの」は、その年下の男が十二年ぶりに現れ、瀬戸内が激しく恋慕の感情を抱くようになるところを描く。平野謙が言うところの、瀬戸内の私小説の第二のグループのモデルとなった事件にとって、時系列的には発端となった出来事をモチーフにしているわけである。

「夏の終わり」は、瀬戸内晴美が私小説作家として自己確立した作品である。瀬戸内は、事実上の処女作といえる「花芯」が文壇に受入れられず、文芸雑誌からも長い間締め出されていたのだったが、この小説によって、ようやく一人前の作家と認められるようになった。時に瀬戸内は、四十歳だった。

先般馬歯百歳を以て成仏した瀬戸内寂聴尼は、俗人の頃は小説家であった。本名の瀬戸内晴美名義で作家活動をしていた。「花芯」はその瀬戸内晴美の出世作となったものである。原稿用紙七十枚ほどの短編小説で、テーマは女の官能の解放であった。女の官能の解放といえば、この小説が書かれた頃は、ほとんどありえないことだったので、瀬戸内のこの作品はかなりスキャンダラスなものとして受け取られたはずだ。はずだ、というのも、瀬戸内よりはるかに後の世代に属する小生のような人間には、瀬戸内が生きた時代の社会的雰囲気がいまひとつ伝わってこないからだ。

「チビの魂」及び「のらもの」は、いずれも小林政子にインスピレーションを得て書いた短編小説である。「チビの魂」(1935)は、秋声の分身たる主人公と政子の分身たる圭子との同棲生活を描いており、それに人身売買の犠牲となった少女をからませている。「のらもの」(1937)は、政子の若いころのエピソードを描いている。こちらは、つまらぬ同棲をしたおかげで、あたら青春の貴重な時期を台無しにしてしまったというような苦い後悔をテーマにしている。

「町の踊り場」と「死に親しむ」は、ともに昭和八年(1933)に書かれた。どちらも秋声の日常に取材した私小説風の作品である。「町の踊り場」は、姉の危篤を受けて故郷の地方都市(金沢)に戻った日々を描き、「死に親しむ」は、友人の医師の死をテーマにしている。二つの作品には、これといった関連はないが、どちらも踊り(社交ダンス)が小道具がわりに使われている。「町の踊り場」のほうは、気晴らしにダンスホールに出かけて行って初体面の女性と踊る秋声の分身が描かれるのであるし、「死に親しむ」のほうは、主人公の「彼」とその友人の医師はダンスを介して結びついているのである。

徳田秋声のやや長目の短編小説「元の枝へ」は、いわゆる山田順子ものの嚆矢となる作品である。秋声が妻のはまを病気で失ったのは1926年1月のことであったが、山田順子は弔意を示すために秋声のもとを訪れ、そのまま家に居ついてしまった。秋声はそんな順子との同棲生活をさっそく小説の題材にしたわけである。順子との同棲自体がスキャンダラスなことであったが、それを小説のネタに使ったことで、スキャンダルはいっそうグロテスクな様相を呈した。なにせ妻が死んですぐに別の女を家に入れ、その女との間の痴情をあからさまに描いたのであるから、いくら日本が私小説天国とはいえ、あまりにもえげつないと思う人が多かったのである。

徳田秋声は非常に多産な作家で、数多くの長編小説とともに短編小説もかなり書いている。長短編を書き分ける作家には、長編小説を中心にして、一編の長編小説をかいたあとに、次の長編小説にとりかかるための息抜きのようなものとして短編小説を書くというタイプが多い。息抜きという言葉が適当でないなら、ウォーミングアップといってもよい。村上春樹などは、次の長編小説へのウォーミングアップとして短編小説を書くと言っている。

徳田秋声が小説「縮図」を都新聞に連載し始めたのは昭和十六年(1941)六月であるが、連載八十回にして情報局の介入を招いて中断、その後書き継がれることがなたったため、秋声にとっての遺作となった。秋声は1943年の11月に癌で死んだのである。介入の理由は、時節柄芸者の世界を描くのは不謹慎だというものだったが、秋声はこの小説の中で、戦争による物資欠乏で庶民の生活が苦しくなっているさまにも言及しており、そういう厭戦的な気分に権力が反応した可能性はある。秋声といえば、およそ政治とは無縁な作家と思われていたが、時代の風俗をそのままに描くという作風は、自ずから時代への批判にもつながるのであろう。

長編小説「仮装人物」は徳田秋声晩年の代表作といわれる。内容的にはほぼ完全な私小説である。秋声は、五十四歳で(1926年)妻を失った直後、作家志望のある女から接近され、以後二年間その女と付き離れつし、痴情の限りを尽くした。老年の色ボケといってよいほど、その痴情には醜悪なところがあって、世間の嘲笑を買ったくらいだった。秋声は、その痴情を包み隠さずありのままに描いている。どういうつもりでそんなことをしたのか。第三者の眼にはさまざまに異なって見えるだろうが、小生のようなものには、痴情を売り物にする秋声の情けなさが目に付く。同じく痴情を描いた作家に谷崎潤一郎があるが、谷崎の場合には、痴情を突き放して見る視点がある。それに対して秋声は、自分自身の痴情に溺れている。

徳田秋声の小説「あらくれ」は、日本の自然主義文学の最高峰とされている。そこで自然主義文学とは何かということが問題になる。文学論の常識を踏まえれば、自然主義文学とは、19世紀末にフランスで盛んになった文学運動であり、エミール・ゾラやギ・ド・モーパッサンなどによって代表されるというのが定説である。そう言われても具体的なイメージが浮かび上がってこないが、ゾラやモーパンサンの小説の特徴が、同時代の人間社会を写実的に描いて点にあることからすれば、要するに写実性を重んじた文学ということのようだ。写実は人間や社会の現実に及ぶので、当然社会的な問題意識も感じさせる。

「爛」は、「新世帯」で自然主義的作風に転換した徳田秋声が、「足迹」、「黴」を経て、一つの到達点に達した作品といってよい。その文学的な成果は二つある。一つは文体の洗練、一つは描写の客観性の深化である。

長編小説「黴」は、徳田秋声の自然主義作家としての名声を確立した作品である。夏目漱石の手引きで東京朝日新聞に連載していた当時はあまり評判にはならなかったが、単行本化されるや俄然賞賛を浴びた。以後秋声は、文壇の自然主義への流れに沿って、順調な作家活動をしてゆく。

「足迹」は徳田秋声の最初の本格的長編小説である。「新世帯」とならんで、かれの自然主義的作風の最初の結実というふうに今日では評価されているが、発表当時は大した反響を呼ばなかった。後年の作品「黴」が当時隆盛をみせるようになってきた自然主義的文学の見本のようにもてはやされるにしたがい、それに先行する自然主義的作風を示したものと再認識されたのである。

「新世帯(あらじょたいと読む)」は、徳田秋声が自然主義的作風を模索した作品である。かれの作風を確立したとまではいえないが、文章に余計な修飾を加えず、事実を淡々と描くところは、その後の彼の作風の原型をなしたといってよい。小説のテーマも、庶民の平凡な暮らしを、如実に描写するというもので、大袈裟な仕掛けは全くない。また、主人公の視線に沿いながら、時折心理描写を交えつつ、平凡な日常を執拗に描くところなども、いわゆる秋声風を先取りしている。

高樹のぶ子といえば、エロチックな官能小説が得意で、女流ポルノ作家の大御所といったイメージが強かったものだが、老年に近づくにしたがって、淡泊な作風に変わっていった。おそらく、女性にとって宿命的な閉経という事態が、彼女の性的な情熱をさましたからだと思われる。女性の中には、鴎外の母親のように、灰になるまで男に抱かれたいと願う色好みもいるが、たいていの女性は性について淡泊になるものらしい。高樹はしかし、それでは女として生きてきた過去がいじめになると思ったのだろう、人生最後の日々を、再び性愛をもてあそぶことによって、光り輝くものにしたいと願ったように思える。「小説伊勢物語業平」は、そんな彼女の性的なエネルギーを傾倒した作品である。この小説を書いたとき、彼女はすでに古希を大きく超えていた。灰になってもおかしくない年齢で、肉を焼く火のかわりに魂を燃え上がらせる火の情熱をもって、この作品を完成したのであろう。

高樹のぶ子の持ち味は何といっても官能的なポルノグラフィーにある。ところがその官能性は年とともに衰えるらしく、高樹の場合にも還暦を過ぎてからは、めっきり淡泊な作風に変わっていった。やはり生理的な変化が影響しているのだろう。女性には男と違って、閉経という人生のくぎり目がある。閉経を過ぎた女性は女性ホルモンの分泌が激減し、性的な興奮を感じることもなくなるという。高樹の場合には、得意の官能的な描写は自身の体験に根ざしているようだから、そうした性的な興奮がなくなると、官能的な想像力が枯渇するのは無理もない。身体の肝心な部分が乾ききっていては、濡れ場の描写にもさしつかえるということだろう。

官能的な作風で好色な読者を魅了してきた高樹のぶ子が、幻想的な作風に一転して読者を惑わせたのが「香夜」である。日常と非日常の区別がなく、現実の出来事が幻想と融和しているところは「幻想的」といえる所以だが、それにとどまらない。人間が動物に化けたり、死んだ者が生きたものを道連れにつれていくところなど、奇妙奇天烈なストーリーを含んでおり、その点では怪奇小説ともいえる。とにかく、多彩な内容を含んでいる。エンタメ作家高樹のぶ子の本領が遺憾なく発揮された作品である。

「透光の樹」は、高樹のぶ子の一連の官能小説の頂点をなすものだ。前に読んだ「蔦燃」に比べると、構成の点でも文体の点でも各段の進歩が認められる。官能的という面でも、一段の進化が見える。その進化は、高樹が人間の性愛を即物的な面に還元したことから生まれてくるようだ。この小説で描かれた男女の性愛には、精神的な要素はほとんどないに等しい。なにしろ小説の主人公である千桐という女性が、「女は思わないで感じちゃうから」と言って、女が性愛をもっぱら下半身のことがらとしてとらえているほどなのだ。そんなわけだから、この小説で描かれた男女の性愛はとことん下半身にかかわることとして割り切られている。そういう意味で、官能小説の旗手といわれる高樹のぶ子は「下半身の作家」ということができよう。

久しぶりに読んだ高樹のぶ子の小説第二冊目「蔦燃」は、まさしく小生の記憶にあった高樹らしさが現れた作品だ。高樹の高樹らしさを小生は、官能的というところに認めているので、前回読んだ出世作の「光抱く友よ」はそれに当てはまらなかったのだが、この「蔦燃はまさしく官能的な小説である。というか、その性愛の描写は、ポルノ小説といってよいほどである。小生は高樹を長い間、日本を代表する女性ポルノ作家と思ってきたのである。

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