日本文学覚書

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の第三部は、「オーデンとブレイクの詩を核とする二つの中編」からなっているが、その一つ目は「狩猟で暮らしたわれらの先祖」という題名の不思議な話である。この題名を大江はオーデンの詩「狩猟で暮らした我らの先祖(Hunting Fathers)」からとったと小説の中で明らかにしている。それは、語り手である僕が、流浪する一家とその家長とを、暗闇に燃える焚火のあかりのもとで見た時の印象を語った部分だ。その部分は次のようなものである。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は、「ぼくは詩をあきらめた人間である」という文章から書き始められる。その詩をあきらめたらしい人間、それはこの小説集の編者の位置づけだと思うのだが、その編者らしい人間が、自分自身「詩の如きもの」と称するものを披露し、この小説集はその「詩の如きものを核とする」三つの短編小説と、ブレイクとオーデンの詩を核とする二つの中編小説からなっていると宣言している。宣言と言うのも、この小説は上述の五つの中・短編小説のほかに、「なぜ詩ではなく小説を書くのか、というプロローグと四つの詩の如きもの」と題する短文を収めており、全編の冒頭に置かれたその短文のなかで、この小説集を書いた動機に触れているわけであるが、その触れ方と言うのが、記述と言うより宣言を思わせるものだからだ。

大江健三郎は、「芽むしり仔撃ち」の中で朝鮮人を登場させ、一定の重要な役割を果たさせていたが、この「万延元年のフットボール」では、朝鮮人問題を前景に押し出して、日本人と朝鮮人とのかかわりをかなり突っ込んで描いている。前作での朝鮮人は、日本人によって一方的に抑圧される絶対的に弱い存在だったものが、ここでは日本人とほぼ対等に接するばかりか、場合によっては日本人を支配できるしたたかな存在として描かれている。日本の近代史の中で、朝鮮人がそのようにポジティヴな立場に立ったことはなかったと思われるので、こうした設定は大江が意識的に持ち込んだのだと思う。そうまでして大江が書きたかったことはなにか。

僕と妻とは小説の最初から破綻した夫婦として登場する。彼らが夫婦として破綻しているのは、彼らが互いに相手を無視していることに現われている。彼らが互いに無視しあっているのは、どうも意図的ではなく、互いに相手を思いやる余裕がなくなっているからだ。彼らをそうした状態に陥れた原因に、小説はあからさまには触れていないが、行間からは彼らが自分たちの子を見捨てたことだというふうに伝わって来る。自分の子を見捨てたという心のこだわりが、彼らを自分自身の内部に閉じ込めてしまったわけだ。それを裏書きするように、小説の最後で彼らが互いに和解する気になった時、その和解を後押しするものとして、かつて見捨てた子どもを取り戻し、一緒に育てようという気になったことがあげられる。つまり彼らは自分たちの子どもを見捨てることによって互いに離れてしまい、その子どもを取り戻すことによって、再び結びつく気になれたわけである。

「万延元年のフットボール」は、主人公の僕が自宅の敷地に掘られた穴の中で瞑想するシーンから始まる。そして、四国の山の中の土蔵の地下室でやはり瞑想するシーンで終わる。厳密にはそこで終わるわけではないが、小説のクライマックスとして、一編の物語がそこで事実上閉じられるわけだ。始めの瞑想と終りの瞑想とでは、内容が異なる。それは物語が進行してきたことをあらわしている。主人公は始めの瞑想によって、自分が世界から疎外されていると感じ、終わりの瞑想によって、自分がなんとか世界とつながっていることを感じる。その感じが主人公に救いの感情を与える。そういう意味では、この小説は、主人公に寄り添った視点からは、失った自分を取り戻す話だと言うことができる。


「万延元年のフットボール」は色々な意味で大江健三郎にとって転機となった作品だ。その割にはテーマがいまひとつわかりにくい。あるようでいて、ないようにも見える。大江がわざとそう仕掛けたのかもしれぬが、従来の感覚で読むと、非常にわかりにくいところがあることは否めないようだ。ようだ、と推測形でいうのは、この小説にはわかりやすい読み方を拒むようなところがあって、したがってどんな読み方でも可能だから、読後感として、あるいは批評として、どんなことでも言えるようなところがあるからだ。

大江健三郎の小説は人物設定の巧みさを感じさせる。小説というものは大部分が会話から成り立っているから、その会話の主体たる人物をどう設定し、彼らにどんな会話をさせるかが、小説の善し悪しを決定づける。大江の人物設定は過不足なくしかもタイムリーで、個々の会話を生き生きとして描いているばかりか、小説の進行に緊張感を持たせている。歌舞伎の良し悪しが役者廻しの巧拙に左右されるように、小説の善し悪しは人物設定の良し悪しに左右されるといえ、その点では大江は小説の名手ということができる。あるいは小説における役者廻しの名人と言ってもよい。

「個人的な体験」では、主人公のバードとその女友達火見子との関わり合いが大きなテーマとなっている。彼らの関係のあり方は、当初は女が男に一方的に与えるという片務的なものとして出発したが、やがては互いに求め合う双務的な関係、双務的と言って抵抗があれば、相互的な関係に発展していく。だがその関係から男のほうが一方的に脱落し、自分を男に与えていた女がひとりで取り残されるという結果に終わる。それはいわば、男から仕掛けた性交が、オルガスムの一歩手前で、その男によっていきなり中断されるような形をとる。女は男から性交を仕掛けられたにかかわらず、その男が中断してしまったために、中途半端なまま取り残される結果に終わるのだ。

小説の題名にあるこの「個人的な体験」という言葉の意味を、大江は主人公バード(鳥)の口を借りて次のように説明している。「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ・・・個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そう言う体験はあるだろう・・・ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ」

大江健三郎は、処女作の「奇妙な仕事」以来「個人的な体験」で長編小説を書くようになるまでの間、専ら短編小説を書き続けたが、それは彼にとっては長い助走のような意味を持ったようだ。彼はこれらの短編小説で、自分の文学的な野心を試した後で、その野心を長編小説の形で展開して見せるつもりだったように思われる。もっともその野心の方向性は、それこそ大江自身の個人的な体験を通じて大分異なったものになったのではあったが。

大江健三郎は昭和三十九年の一月に短編小説「空の怪物アグイー」を発表するが、これは彼のそれまでの小説とはかなり毛色の変わったものだった。この小説は子殺しをテーマにしているのだが、その点では「芽むしり仔撃ち」と共通する点がないでもないが、「芽むしり仔撃ち」がある種の告発であるのに対して、したがって他者に向けられたものであるのに対して、この小説は大江自身への内省をもとにしたものであって、したがって自分自身に向けられたものである。彼がここで取り上げている子殺しは、自分自身が犯したかもしれない可能性をあらわしているようなのである。

大江健三郎の初期の小説世界には、暴力と並んで性が大きなテーマとして組み込まれていたが、「性的人間」は性を全面的に前景化した作品である。これ以前の小説では、性が描かれる場合でも、付随的な扱いに止まっていたのだが、とは言ってもかなりインパクトの強い扱いではあったわけだが、この小説においては、性そのものが小説の根本テーマになっている。つまりこの小説は人間にとって性とは何か、ということを正面から問題にしているのである。

大江健三郎の小説「セヴンティーン」は1960年に起きた右翼少年によるテロ事件に触発されて書いたものだ。このテロ事件は十七歳の少年山口二也が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺したというもので、その刺殺現場の様子が、当時浅沼の日比谷公会堂での演説を中継していたラヂオ番組で生々しく放送された。スケールは違うが、9.11の航空機テロの様子がテレビで実況中継されたときと同じようなショックを当時の日本人に与えたものだ。

共同生活とは人間同士の共同生活のことではない。人間と猿との共同生活、或いは猿と人間との共同生活だ。この共同生活は人間にとって快適なものではない。きわめて不愉快なのだ。しかも人間のほうではその共同生活を解消できない。それどころか、自分のすべての生活を猿たちによって支配されていると感じる。つまり彼にはいささかの自由もないのだ。彼は常に猿たちによって拘束されていると感じる。とはいっても肉体的に拘束されているわけではない。精神的に拘束されているのだ。その拘束は猿たちの視線によって行使される。人間は猿たちの視線によって拘束され、支配されているというわけである。

「不意の啞」も米兵と日本人との関わり合いをテーマにしたものだ。だが同じような他の作品と違って、この小説では日本人の米軍協力者が前面に出てくる。その日本人が米軍を体現し、米軍の権威の名のもとに日本人を抑圧するという話だ。

「戦いの今日」も、米兵に侮辱される日本人という大江にとっておなじみのテーマを描いたものである。この小説では日本人の女までが日本人に向かって侮辱の言葉を投げかけている。しかも米兵を徴発するようにだ。この女、いわゆるパンパンだが、そのパンパン女の言葉に徴発されるようにして米兵が日本人を侮辱するのだ。その他にも日本人を侮辱する米兵はいる。日本人が脱走を手助けした若い米兵で、先ほど触れたパンパン女の情夫格の男だ。この男は十九歳という若さで、まだ分別を身につけていないのだが、ちっぽけな日本人を侮辱することは知っているのである。
大江健三郎の小説の世界は死を描くことから始まった。それと同時にセックスにも拘っていた。セックスは生きていることの最大の証であり、いわば死のアンチテーゼのようなものである。事柄の多くはそれ自体としてよりも、それの対立物とのかかわりにおいて最もよくその姿を現すものである。死も例外ではない。死もやはりその対立物たる生とのかかわりにおいて、もっとも明瞭にその姿をあらわす。しかして生の豊饒さはセックスにおいてもっとも純粋に表現される。セックスと死とはだから、不可分のつながりの中にあるのだ。

大江健三郎は一部の日本人から蛇蝎の如く忌み嫌われているが、その理由がこの小説(芽むしり仔撃ち)を読むとよくわかる。大江はこの小説、それは彼の初期の代表作と言ってよいが、その小説の中で、今でも一部の日本人が固執している「美しい日本」神話に水を浴びせかけているのだ。大江がこの小説の中で描いている日本人は卑劣で狂暴な人間たちである。その卑劣で狂暴な人間たちが、自分たちの力を振り回して弱い者をひねりつぶす。ひねりつぶされたものたちには、抵抗するすべもない。ただ巨大な力におしつぶされ、場合によっては家畜のように屠殺されるのだ。

大江健三郎は「人間の羊」において米兵から侮辱されて泣き寝入りする惨めな日本人を描いたが、続く「見る前に飛べ」も同じようなテーマを取り上げている。この小説でもやはり、外国人であるフランス人から侮辱されて、それに対して何も言わずにすごすごと引き下がる日本人を大江は取り上げている。「人間の羊」と多少違うところは、米兵から侮辱された日本人である僕に対して、たまたま居合わせた他の日本人たちが無関心を装ったのに対して、この小説では主人公のぼくは、ひとりで孤独にその侮辱に耐えているという点だ。

「人間の羊」は米兵によって侮辱された日本人がその侮辱に反発できないで黙々と忍従するさまを描く。普通の人間なら他人に言われなく侮辱された時には強い怒りを覚えるものだし、それに対して復讐したいという気持ちを抱くのが当然だと思うのだが、この小説の主人公である「僕」は怒りよりも恐怖と自虐の感情を覚え、復讐するどころか、自分の惨めな体験を早く忘れ去りたいと思うのだ。僕がそう思うのには一定程度の根拠がある。僕を侮辱した米兵は、僕がまともに立ち向うにはあまりにも強い相手だし、しかも権力によって守られている。この小説が書かれた当時の日本は独立を回復していたといっても、日本中にはまだ占領軍の続きである駐屯兵が闊歩していて、やりたい放題のことをしていた。その駐屯米兵に対して日本側は、個人レベルでも国家レベルでも屈従するほかはなかった。米兵から見れば一日本人など家畜以下の存在だし、その日本人にとっては米兵は征服者そのものだ。彼らを相手にどうして平等な人間としての振舞いなどできるだろうか。そうしたシニカルな問題意識がこの小説を支えているように受け取られる。

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