樋口一葉の生涯は、わずか24年の短いものだった。その短い生涯は、貧困との戦いにあけくれていた。父が生きていた少女時代には、中産階級の家族としてそれなりの生活はしていたようだが、父が一葉の17歳の時に死ぬと、一家は収入のあてがなくなり、次第に貧困に苦しむようになった。その貧困を、やがて一葉が一家の家長として引き受けるようになる。彼女の晩年の日記の記事は、金の心配事ばかりといってよいほどである。そんな中で、一葉は恋をした。もしこの恋がなければ、一葉の生涯は悲惨そのものだったろう。恋が彼女に生きる気力を奮い立たせたといってよい。一葉はその恋の思いを、日記の中で克明に記している。
日本文学覚書
樋口一葉が日記を書き始めたのは明治24年4月11日、満年齢19歳になったばかりのことであった。一葉にはそれ以前に、明治20年1月に書き始めた「身のふる衣」という日記風の文章があるが、これは覚書程度にみなされるのが普通である。内容は、中島歌子の塾萩乃舎にかかわるものである。14歳で入門し、大勢の人々と交流しあうようになった感想を記したものである。一葉は明治29年11月に満24歳の若さで死ぬのであるが、死ぬ少し前の7月22日まで、多少の中断を伴いながら、日記を書き続けた。中断は、下谷龍泉寺時代が多い。生活に追われて日記を書く余裕がなかったためであろう。小説の創作も途絶えがちになっている。
「大つごもり」に先立つ樋口一葉の習作時代の小説は十一編である。「別れ霜」がやや長い(それでも新聞連載15回分)のを除けば短い作品ばかりで、筋書きは単純だ。短編小説であるから単純な筋書きで差支えはないのだが、一葉は妙に芝居がかった描き方をするものだから、器と中身が調和していないという印象を与える。ほとんどの作品は若い男女の恋、それも悲恋というべきものをテーマにしている。若い男女の恋愛感情は、「たけくらべ」の前半部分のテーマでもあるから、一葉はまず、男女の恋愛を描くことから作家活動を始めたといってよいだろう。それが半井桃水の指導によるものなのか、それとも一葉の本来的な気質に根差すものなのか、なんともいえないが、おそらく若い頃の一葉には、男女の恋愛への強い関心が潜んでいたのであろう。
樋口一葉は、短い生涯に26篇の短編小説を書いた。そのうち最初に雑誌に載ったのは「闇桜」である。これは明治25年3月23日刊行の「武蔵野」創刊号に掲載された。一葉19歳のことである。その後、「大つごもり」を書くまでの2年あまりが一葉の習作時代である。一葉は、小説作法を半井桃水に学んだ。だから、初期の習作には桃水の影響を読むことができるようだ。小生は桃水を読んだことがないので、その影響をつぶさに指摘できる能力をもたないが、一葉への指導内容等からして、文体的には西鶴流の雅俗混交体、テーマとしては若い男女の恋愛を描いたというふうにいえるかと思う。一葉は、少女時代に書き始めた日記の文体などからして、王朝風の女性的な和文を主体とした文章を得意としていたようであるが、それでは今風の小説にはふさわしくないので、もっと俗っぽい文体に心がけるようにアドバイスされて、西鶴流の雅俗混交体を書くようになった。それを出発点として、彼女なりの独特の文体を獲得していったと整理できるのではないか。
樋口一葉の短編小説「この子」は、一葉の小説としてはかなり毛色の変わった作品である。一葉の小説は、「大つごもり」以降晩年の傑作群についていえば、女性の貧困とか男尊女卑の観念による社会的な抑圧とか、女性の生きづらさをテーマにしたものだった。一葉はそれらの作品を通じて、女性の置かれている悲惨な境遇を批判し、できうれば女性が自立できるような社会を展望していたといえる。ところがこの小説は、自らすすんで、封建的な社会に適応しようとつとめる女性を描いている。つまり、一葉らしさとはもっともかけ離れた作品なのである。そのことは早い時期から指摘され、これは一葉の作品としては失敗作だという評価が多かった。
「われから」は一葉最後の小説である。これを発表したのは明治29年5月10日発行の雑誌「文芸倶楽部」においてであり、一葉は24歳になったばかりだった。だが、病状が急速に悪化し、同年7月22日を最後に日記を書くこともなくなり、11月23日に死んだ。死因は喉頭肺結核である。
「わかれ道」は、一葉の小説のなかでは一風変わった筋書きのもので、それがちょっと唐突な終わり方をするので、生煮えな印象を与える。この小説は、長屋へ越してきたばかりの若い仕事屋の女と、親に捨てられ他人に養われて育った16歳の少年のやりとりからなっているのだが、少年は年の割に幼すぎ、女は人物像がいまひとつ曖昧である。というのも、少年の生い立ちについては本人の言うことも含め、かなり詳細な情報が提示されるのだが、女のほうは、自分の口からも余り多くを語らないし、また小説の語り手も彼女については非常に淡白な扱いをしているからである。そのうえ、小説は女が妾になるために他所へいってしまうことをほのめかし、それについて少年が強い愛着を示すところで終わる。タイトルの「わかれ道」は、折角仲良くなった男女が、別々の道を歩むことになることを暗示しているのであろう。
「十三夜」は、一葉の小説の中でもっと完成度が高いといわれる。それは主に文章の完成度に注目した評価だろう。この小説の文章は、少数の登場人物の間の会話のやりとりを中心に展開していくのであるが、そのやり取りが非常にテンポよく、しかも言いたいことを過不足なく表現し得ており、それが地の文章と微妙に調和して、全体として緊迫感に満ちたものになっている。しかも読者はそこに音楽的なリズムを感じる。文章の魅力の大部分が、言葉の音楽的なリズムによることを思えば、この小説の文章のスムーズな音楽的リズムは強みである。
樋口一葉が「にごりえ」を書いたのは「たけくらべ」執筆中のことである。金に困った一葉が出版社に借金を申し出たことで、急遽小説を一つ仕上げねばならなくなって、これを書いたというのが実情である。そんなこともあって、「たけくらべ」と「にごりえ」には、ある種の連続性を認めることができる。「たけくらべ」は少年少女の成長物語として始まり、途中から14歳の少女の身に劇的な変化があらわれる様子を描く。その変化は、彼女が吉原に芸者として売られる運命に関連している。彼女の姉は吉原の売れっ子芸者であり、自分もその姉と同じ道を歩む運命にあることを14歳の少女美登里が思い知る。それが彼女の劇的な変化の背景にある。そういうふうに見ると、「たけくらべ」は芸者になることを定められた女の気持ちに沿った作品ということができる。一方「にごりえ」は、小石川の新開地の銘酒屋の酌婦お力をめぐる物語である。銘酒屋の酌婦というのは、ありていに言えば私娼のことである。客に酌をしながら、求められれば体を売る。そういう私娼が公然とした存在になるのは明治以降のことである。そんな私娼を小説の題材にした作家というのは、一葉以前にはいないのではないか。この小説は、「たけくらべ」が完結していなかった時点で、一葉の名声を一気に高めたのであるが、それには題材の新奇さが大いに働いていた。
小説「たけくらべ」は、浅草の吉原遊郭街に隣接する空間を舞台にしている。小説を読むには、かならずしも舞台背景を知っている必要はないが、維新後のある時期の日本の庶民生活がテーマになっている「たけくらべ」のような小説の場合、庶民が生活していた空間についてリアルな認識を持っていることは、小説の味わい方を深めこそすれ、余計なことにはならないだろう。ましてこの小説は、吉原という特殊な空間に深く結びついている。その空間は、歴史的な事情を引きずっている。そんなわけで小生は、この小説が舞台とする空間について、強く意識した次第である。
「たけくらべ」は、樋口一葉が書いた小説の中で最高傑作といってよい。短編小説ではあるが、他の小説にくらべて長いのと、その分筋書きの展開が入り組んでおり、色々な要素が共存している。メインの要素は、江戸から東京になった下町を舞台にして、少年少女を中心とした庶民の生きざまが生き生きと描かれていることと、主人公格の少女美登里の変貌である。美登里は当初男の子顔負けのお転婆娘として描かれていたのが、ある日突然変化する。その変化は、美登里の仲の良い男友達正太郎がびっくりするほど顕著である。正太郎は美登里より二つ年上の十六歳に設定されているが、その正太郎が、美登里がいきなり変わったことに辟易するほどなのである。
樋口一葉の作家としての代表作は「たけくらべ」以下の五編の短編小説であるが、そのうち「大つごもり」は最初に書かれた。明治二十七年(1984)十二月発売の雑誌「文学界」に発表。一葉は満二十二歳であった。
樋口一葉と聞けば大方の日本人は、平安時代の王朝風の女流文学の伝統を受け継ぎ、明治という時代に和文で創作した最後の作家というようなイメージを思い起こすだろう。その作品は、抒情的な雰囲気を以て人間とりわけ女性たちの心理の機微を描いたというふうにみなされる。そういう見立てのもとでは、一葉は明治の時代に源氏物語の世界を再興したと言われがちである。そういう見方を流布したのは森鴎外と幸田露伴であった。鴎外らは、一葉の小説「たけくらべ」が一年にわたる断続的連載を終えて、全編一機に掲載されたのを受けて、雑誌「めさまし草」の文芸批評欄「三人冗語」の場で、一葉の才能を絶賛したのだった。その際にかれらが持ち出した批評の基準が、抒情性とか日本的な美的感性といったものであった。一葉は抒情性の豊かな、日本的な美的感性を表出した作家というふうにカテゴライズされたのである。そうした一葉の見方は、その後の批評の大きな準拠枠となった。いまでも一葉をそうした作家として単純化する見方が支配的である。
多和田葉子の小説「星に仄めかされて」は「地球にちりばめられて」の続編である。前編の最後で勢ぞろいした六人の人物たちのその後の行動が描かれている。前編では、かれらは皆でストックホルムへ旅行するような気配で終わっていたと思うのだが、かれらが集まるのはコペンハーゲンである。Susanooが失語症だと思い込んだクヌートらが、かれをコペンハーゲンの病院に入院させたのだ。そこでみながそれぞれSusanooを見舞うために病院に集まる。ところがSusanooは、失語症なのではなく、意識的にしゃべらないだけだということがわかる。Susanooは饒舌と言ってよいほどよくしゃべり、しかも攻撃的だった。そんなSusanooを中心にこの編は展開していくのである。
多和田葉子の小説「地球にちりばめられて」は、地球の近未来を舞台にしていることでは、「献燈使」の続編のようにも思われる。「献燈使」は、おそらく原子力の大事故によって地球環境が激変してしまい、各国が互いに鎖国状態になるなかで、人間の生態も狂ってしまうような世界を描いていた。ある種のディストピア小説といってよかった。一方この「地球にちりばめられて」が描く地球は、気候温暖化の影響で環境が激変したということになっている。主人公格のHirukoという女性の祖国は、彼女がデンマークに留学している間に、水没してしまったようである。彼女の国は、日本と明示されているわけではなく、中国とポリネシア諸島の間にあるといわれているだけだが、テクストの行間から日本だとわかるようになっている。小説は、そのHirukoが、同国人に会うためにヨーロッパじゅうを遍歴する旅をテーマにしている。そのヨーロッパは、ディストピアではない。むしろ住みやすい世界として描かれている。だが、気候変動の影響を受けてもいる。たとえばグリーンランドはもはや氷の世界ではなく、温暖化の恩恵を受けて農業ができるようになっている。グリーンランドの氷がとければ、ヨーロッパも水面上昇の圧力にさらされ、デンマークのコペンハーゲンなどは水没するはずだと思われるのだが、小説はそこまで厳密に科学的であろうとはしない。
古市の重松の勤め先の工場には、大勢の被災者が集まっていて、それらが次々と死んだ。最初に死んだのは50歳の外務部員で、工場への出勤途上被爆したのだった。なんとか自力で工場まで来たが、翌日の昼頃死んだ。工場ではとりあえず棺桶を作り、死体の処理のために必要な手続きをとろうとしたが、市役所の機能は停止していて、火葬場で火葬できる見込みもない。そこで工場の独断で火葬することにした。警察では、非常事態を理由に、野辺で火葬することを認めていた。
小説「黒い雨」は、重松とその家族の被災日記を中心として、それに重松の知り合いである細川医師の知人岩竹博の被災日誌とか、親戚二人(シゲ子方で一人は矢須子の実父)の見聞談などからなっている。それらを読むと、かれらが原爆投下直後に広島の街をあちこち歩き回る様子がわかる。特に重松は、市域の南から北の郊外にかけて、実に幅広く歩き回っている。小説であるから、地理について正確なイメージを持つ必要はないのかもしれないが、原爆災害という事柄の特殊性からして、やはり広島の地理を頭に浮かべながら読んだ方が、よりインパクトのある読み方になるだろう。そんなわけで小生は、具体的な地名が出てくるたびに、一々地図にあたり、その場所を特定しながら読んだ次第だ。それによって、広島の原爆災害の地理的な特徴がかなり具体的なイメージをもって浮かび上がってきた。
井伏鱒二が「黒い雨」を書く気になったのは、原爆のある被災者から、日記を提供するのでぜひ是非書いてほしいと言われたのがきっかけだったと自身明かしている。だが、それ以前から、彼にはいつかこのテーマを書いてみたいという気持ちがあったはずである。広島に原爆が落とされたとき、かれは広島から100キロあまり離れた福山の山中の郷里にいた。広島の悲惨な状況は、非常に身近に感じられた。身の周りに犠牲者も多くいた。それらの人々の悲惨な運命を直に見聞すれば、作家として、これを書くことを自分の使命と感じるようになるのは自然のことである。
井伏鱒二には、大衆受けを狙った通俗的な作品もある。「駅前旅館」と題した中編物はその代表的なものだ。旅館の番頭の独白というような体裁をとっている。それも、作家に頼まれて、番頭としての自分の生きざまを語るという形である。作家がそれを頼んだのは、すでに過去のものとなりつつある番頭という職業の持つ独特の美学を記録しておきたいという考えからだということになっている。たしかに、戦後のあわただしい近代化の波を受けて、旅館経営も近代化し、徳川時代以来の番頭という身分は次第に消え去り、近代的なマネージャーなるものが、それに代わりつつあった。井伏は、そんな傾向に一抹のわびしさを感じ、番頭というものの美学的な雰囲気を多少とも記録しておきたいと思ったのであろう。当の番頭自身に語らせることで、その美学を生々しく再現しようとしたのであろう。
井伏鱒二の小説「漂民宇三郎」は、「ジョン万次郎漂流記」同様、徳川時代に起きた日本人の海洋漂流をテーマにした作品。ジョン万次郎とその仲間の漂流は幕末時代のことであり、万次郎は日本に帰還後一定の政治的役割を果たした。それに対してこの小説が取り上げた漂流は、長者丸という漁船の乗組員の漂流で、天保年間に起きたものだ。日本に帰還した乗組員が政治的な役割を果たすこともなく、一過性の事故として片づけられたようだ。しかも、「万次郎漂流記」が、一応事実を踏まえているのに対して、この小説の主人公格宇三郎は井伏の想像上の人物である。井伏は、本当は実在したのだが、ほかの乗組員が口裏を合わせて存在しないことにしたのだと書いているが、それは小説の技法上での方便であろう。
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