日々雑感

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ここしばらく陽気の進み具合が足踏みしていて、折角開き始めた桜がなかなか咲き広がらなかったが、今日は朝から気温があがり、すっかり春めいた陽気になたので、さぞ桜の開花も進んだろうと思って、付近の公園に出かけてみた。すし屋で寿司を握ってもらい、コンビニで缶ビールを買って、いそいそと出かけた次第だ。

新元号が令和に決まった。某官房長官が例の仏頂面で令和という文字を書いた紙を掲げた姿がテレビに写されたのを、小生は実況中継の画面で見たのだった。その際に官房長官が、出典は万葉集にあると手短にコメントしたので、小生は聊か思うところがあった。今回の改元にあたっては、従来のような漢学者ばかりでなく、日本史の学者も加わっているという噂だったので、日本語の文献から出展されるのではないかという予測をしていたのだったが、その予測があたったということだ。

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東京では桜が満開になったというので、小生の家の辺りではどうかなと思い、近所の長津川公園に出かけてみた。すると、写真のような光景が目に入って来た。これは、小生の家から来て最初に見える桜なのだが、ご覧のとおり八分咲きである。だが、これだけ咲いているのはここだけで、この反対側の方の、東北にあたる部分では、まだまだ二分咲きといった具合で、公園全体で百本ほどある桜を平均すると五分咲きといったところか。まだ満開にはほど遠い。

イチローが28年間の現役生活にくぎりをつけて、引退の意思を表明した。とりあえず、ごくろうさんと言いたい。偉大な功績を残したことに対しての言葉としては月並みだが。これ以上に相応しい言葉があるとも思えない。とにかく、ご苦労様でした。一ファンとして心からそう思います。

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上の写真は、小生の家の近くにある公園で毎日見かける花だ。灌木に咲くこの花は、一月の冬の盛りから見かけているから、かれこれ二か月も咲いている。この花の名をいつか、植物に詳しい人から教えてもらったが、行きがかりの人から教えてもらったその名前を、小生はうかつにも忘れてしまった。植物図鑑にあたっても見つけることができない。毎日のように見る花なので、できれば思い出したい。どなたか知っている方がいれば、教えてくださるとありがたい。

瀬戸内寂聴尼は今年九十六になり、あと二か月もすると九十七になるのだそうだ。そこで自分がその年まで生きてきたことをうれしいかというと、そうでもないらしい。特に年をとってからは、生きていることが必ずしもうれしくはないらしい。そのように思うのは、自分の命がこの世のために役に立たなくなったと感じる時だそうだ。そういう時には、「まだ、だらだらと生き続けて役にも立たなくなった自分の命を持て余しているような気もする」のだそうだ。

読書誌「図書」(2019年1月号)に、中国文学者の武田雅哉が寄せた小文「熊さん八つぁん」がなかなか面白かった。これは、今年の干支であるイノシシを材料にして、中国文化の一端について考察しているものだが、その語り口が非常に洒落ている。そこで、この人の書いた本も面白かろうと思って、いろいろ探したところ、「鬼子たちの肖像」というのが目に留まり、読んでみた次第だ。

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この元旦は例年通り早起きしてNHKの能楽番組を見た。今年の出し物は羽衣。八年前の元旦にもやっていた。その時は梅若万三郎がシテをつとめていたが、今年は観世清和がつとめた。どちらもすばらしい演技ぶりだ。観世清和は、オールラウンドの芸風で、女の役をやらせてもうまいし、また直面でもさまになる。さすがは観世流本家だけある。声に艶があるのは天性だろうが、その声で人の耳を驚かし、色気ある仕草で人の目を喜ばしむるわけだ。

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今年は平成最後の年になる。このおよそ三十年間にわたる平成という時代を振り返って、そこにどのような感慨を持つことになるだろうか。「失われた三十年間」という言葉が流通しているが、この言葉によって意味されているものが、そっくりそのまま平成という時代の内実をなしているとしたら、この平成という時代は、非常にネガティブなイメージにまとわれているということになる。先行する昭和時代が、ネガティブとポジティブの両方の層からなっていることに比べると、平成がトータルとしてネガティブであることは、日本の歴史のなかで極めて特異な時代だったと、後世の歴史家からレッテル貼りをされるかもしれない。

小生、明12日より21日までの十日間ロシアに旅行します
ついては、その期間当ブログの更新を一時中止しますのでお知らせします
なお、旅行中の見聞については、例の如く紀行文を後日紹介したいと思います
以上よろしくお知り置きくださるよう、お願い申し上げます

壺齋散人 謹白

旧友の死に臨み、敢て"驚く"というのは、悼みの感情より驚きの感情が強いからで、それほど小生の受けた打撃が大きかったということだ。それというのも、その友人とは二か月ちょっと前に一緒に旅行をしたばかりで、その際にはとくに変わった様子も見られなかった。それがまさか死んでしまうとは、小生の想像力の及ばないところだ。しかも死因は癌だという。癌というのは、たいていは激しい痛みを伴うものだから、死の直前まで自覚症状がないということは考えられない。ところがこの男は、たいした自覚症状も訴えないままいきなり昏倒し、そのまま帰らぬ人になってしまったというのだ。人間の命程はかないものはないとよく言われるが、まさにそのことを思い知らされた。

小生は日頃ネットのブラウザーにグーグルのクロームを使っているのだが、最近自分のサイトを見ると、アドレスバーに「保護されていません」との表示を見るようになった。ちなみに、マイクロソフト・エッジやファイアー・フォックスにも何らかの形で、このサイトは安全上問題がある旨の表示がなされている。どういうわけかと思い、色々調べてみたところ、ネットのセキュリティを高めるための措置ということらしい。そのセキュリティ対策として、グーグルがサイト管理者にSSL化を求め、それに応えないでいるサイトに警告を出すようになり、ほかのブラウザーもそれに追随したということがわかった。ちなみに今日現在、インターネット・エクスプローラーはこうした対応を行っていない。

村上春樹がFM放送でディスク・ジョッキーをやるというので、一か月前から楽しみにしていた上に、家人からラディカセを借りて、事前に音の調子を試したりして準備万端整えて放送開始に臨んだところが、ちょうど夕飯時に重なったので、ラヂオを食卓に持ち運んだら、食事中ラヂオを聞くのは行儀が悪いから、ラヂオを聞き終わってから食事にしなさいと言われたが、村上レディオを聞いた後では引き続きNHKのセゴドンを見たいから食事をしている暇がなくなるといって、小生はそのまま食卓の上にラヂオを据えたまま、耳にイアホンを突っ込んでラヂオを聞きつづけたのだった。

W杯サッカーのロシア大会は日本チームが活躍したおかげで、暑い夏を吹き飛ばしてくれた。日頃スポーツ観戦にはほとんど無縁な筆者も、日本チームの試合がある時間はテレビの前にくぎ付けになった。テレビ放送は毎回深夜に行われたので、おかげで寝不足になった。しかし日本チームがいい試合を見せてくれたおかげで、寝不足もなんのその、という気分になれた。

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昨日長津川の調整池でカルガモの親子を探したところ、どこにも姿が見えなかったことをこのブログで紹介した。小生は彼らの身になにか重要なことが起ったかと心配したのだったが、家人にそのことを話したところ、野鳥は生命力が強いからきっとどこかで生きているわよと慰められた。

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梅雨入りした翌日の今日、天は晴れ渡って一点の曇りもないのを幸い、カメラを提げてカルガモの親子に会いに行った。ヒナはまだ生まれたばかりで遠出する事が出来ないことは、昨年の観察でわかっていたので、先日見た場所の付近にいるに違いないと思ってそこいらを探してみた。ところがどこにも彼らの姿が見えない。どうしたことだろう。

今夕、いつものように長津川調整池公園を散策していたら、公園の入り口の水路で久しぶりにカルガモを三羽見かけた。しばらく見なかったのでなんだかうれしくなり、浮いた心で土手を一周して戻ってくると、さきほどの所よりやや下った水路で一羽のカルガモを見かけた。これは先ほどの三羽のうちの一羽だろうか、それとも別の個体だろうかと思いながら土手をもう一周して戻ってくると、今度や二つの水路が合流する当たりでカルガモの親子を見かけた。親を囲んで六羽のヒナが泳いでいる。みな頗る元気だ。そのうちの一羽は好奇心に駆られて寄り道をする様子に見えたが、自分だけが置き去りにされていると見るや、脱兎の如き勢いで母親のところに戻った。その様子がいかにもけなげに見える。

中央公論の最新号(2018年6月号)に、山崎正和と苅部直の対談が載っていて、その中で山崎の直近の著作「リズムの哲学ノート」が話題になっている。山崎は今年84歳になるので、この本も80歳を過ぎてからの仕事だ。そのこと自体すごいなと感じるのだが、山崎はそのことを、つまり自分が年をとったことを自覚しながらこの本を書いたということに、また別のすごさを感じた。80歳を超えて一冊の、しかも哲学的な著作をすること自体のすごさもさることながら、80歳を超えた自分の老いを自覚しながら哲学し、それを文章にして一冊の著作にするというのは、いまや同じように老いんとしている筆者にとっては、つきせぬ驚きのタネである。

歌手の西城秀樹が亡くなった。享年六十三というから筆者よりも六つも若い。自分より若い人が死ぬと、今度は自分の番かと思ったりもする。年をとるとはそういうことなのだろう。

今では古典的な著作となったスウィフトの政治的パンフレット「貧民児童の有益活用についての穏やかな提案」は、今日の日本にも参考にできるものを多く含んでいる。ただしストレートに適用できるわけではない。あのパンフレットは、スウィフトが生きていた時代のアイルランドに存在していた膨大な数の貧困児童に着目し、これら児童が両親や社会の重荷になっている事態を前に、いかにしてそれを解決し、両親や社会の負担を減らすばかりか、当の児童の幸福をも増大させるかことができるか、研究・提案したものであった。しかし今の日本が直面しているのは、貧困であれそうでない場合であれ、児童の過剰ではない。むしろ児童が少ないことが問題になっているくらいである。いまの日本が直面している問題とは、老人の割合があまりにも多いことに根ざしている。さよう、今の日本においては、老人の割合がこれまでに地球上に存在した如何なる国に比較しても異常に高く、それに比べて若者や児童の割合が異常に低いのである。これを人口の逆三角形化現象と呼ぶ向きもあるし、無子高齢化と呼ぶ向きもある。

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