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1864年のサロンに出展した「羊飼いの少女(Bergère avec son troupeau)」は、非常に好意的な反響を受けて、一等賞になった。コローの傑作「モルト・フォンテーヌ」を押さえての優勝だった。この作品によってミレーの名声はいやましに高まり、国民的画家と呼ばれるようにもなった。

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ミレーは、1860年に画商ステヴァンスと契約を結び、絵も売れるようになって、ようやく生活が安定してきた。だが、画風は以前どおりで、農民の暮らしぶりや田園の風景を描き続けた。金持ちの肖像を描くようなことはしなかった。

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「晩鐘(L'Angélus)」は、ボストンの美術収集家アップルトンの注文を受けて制作した。アップルトンは宗教的な雰囲気を込めるように言ったらしいが、かれはプロテスタントなので、精神的なものを求めたようだ。そこでミレーは、祈りという単純な行為を以て、その精神性を表現しようとしたのだと思う。この絵からは、庶民の敬虔な信仰心が伝わってくるのである。

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「落穂ひろい(Des glaneuses)」は1857年のサロンに出展された。「晩鐘」と並ぶミレーの代表作である。この頃ミレーはひどい貧窮の中にあった。自殺まで考えたというから、だいぶ困っていたのだろう。子沢山のうえ、二人の弟の面倒まで引き受ける一方、画商との間にトラブルがあって、作品の代金を得ることができなかったためである。

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1855年のサロンは、同年に開催された万国博に吸収される形で行われた。そこにミレーは、三点の作品を出展し、うち「接ぎ木をする人(Le greffeur)」が入選した。この作品は、評価は高かったが売れなかった。当時のミレーは生活に困窮していたので、是非売りたかったのである。

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1853年のサロンにミレーは「休息する刈り入れ人(Moissonneurs au repos Ruth et Boaz)」を出展して入賞する。その直前に母が亡くなり、ミレーは八年ぶりに故郷の家に戻った。その際にミレーは、田園地帯の多くのスケッチを描いたが、この絵の図柄もそのスケッチにもとづいているのではないか。ミレーはまた、母の死を契機に、妻のカトリーヌを正式に入籍した。カトリーヌはミレーのために、実に9人の子を生んでくれたのだった。

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ミレーは1850年のサロンに「種まく人(Le Semeur)」を出展した。大きな反響を呼び、賛否両論が入り乱れた。プラスに評価する人は、民衆の生活を芸術のテーマとしたことを称え、マイナスに評価する人は、野卑だとか俗物的だとかいって非難した。どちらも立場にたっていても、この作品が絵画の歴史に一時代を画することを認めざるをえなかった。こんなふうにあけすけに、庶民の暮らしぶりに焦点を当てた作品は、ミレー以前にはなかったといってよいからだ。

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「箕をふるう人」の成功によって、ミレーは政府から注文を受けた。提出した作品は「刈り入れ人たちの休息(Le Repos des faneurs)」と題した作品である。

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1848年のサロンにミレーは、「箕をふるう人」と「バビロン捕囚」の二点を出展した。このうち、堂々たる歴史画の大作「バビロン捕囚」の評判は悪かったが、「箕をふるう人(Un vanneur)」は大好評だった。テオフィル・ゴーティエは次のように言って、絶賛した。「色彩は堂々としたもので、赤い布を頭にかぶるが、それとぼろ着の青の対比が面白く、なかなか手慣れている。空中に舞う穀物の描写は極めて素晴らしく、この絵を見てくしゃみをする人もいるかもしれない」

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1845年、ミレーは故郷グレヴィルの農家の娘カトリーヌ・ルメールと事実上の結婚生活に入った。結婚にはミレーの父親が反対した。理由は家柄の相違だった。ミレーの家も農家だったとはいえ、古い家柄を誇り、先祖には出世した人物もいた。正式に結婚できたのは1853年である。

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ジャン・フランソア・ミレー(1814-1875)は、ノルマンディー半島の先端にある村グレヴィルに、農家の長男として生まれた。父親には絵心があったといわれ、その影響もあって、19歳のときにシェルブールに出て本格的に絵の勉強を始めた。若いころのミレーは、泣かず飛ばずだったようだ。それでも1840年には、肖像画一点がサロンに入選している。以後数年間は、肖像画家として、シェルブールを拠点に活動した。

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ルソーは1837年から47年までサロンから締め出された。サロンが保守化の傾向を強め、ルソーのような革新的な画風を受け入れなかったからだといわれる。ルソーはまた、進歩主義的な意見をもっていたので、その点もサロンの気に入らなかったようだ。

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テオドール・ルソーはコローより16歳も年下だが、非常に早熟で、コローより早く注目された。1931年には、若干19歳にしてサロンに出展している。当時ロマン派の有力画家だったユエは、ルソーの絵の新しさをロマン主義の模範と褒めたのだったが、それは野外での写生にもとづくフレッシュな画面を、ロマン派の技法と同じものと考えたからだった。しかしルソーには、ロマン主義者としての自覚はなかった。

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「青衣の女(La dame en bleu)」と呼ばれるこの作品は、コローの死の前年1874年に描かれたもの。「真珠の女」や「読書の中断」と並んで、コローの肖像画の傑作である。モデルはエマ・ドビーというプロのモデル。このモデルをコローは気に入って、たびたび雇ったという。

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ドゥーエーは、フランス北部のノール県にある古い町。巨人伝説で知られ、その巨人の祭りは世界的に有名だそうだ。そこに住んでいた友人アルフレド・ロボーを、コローは1971年に訪ね、しばらくそこに滞在して、「ドゥーエーの鐘楼(Le Beffroi de Douai)」を描いた。二週間で完成させたという。

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「読書の中断(Interrupted reading)」は、「真珠の女」とほぼ同じ頃に制作された。コローの肖像画の傑作である。読んでいた本を膝の上に置き、家具に肘をあずけ、その手をこめかみにあてて瞑想に耽る女。その表情からはメランコリックな雰囲気が伝わってくる。

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1860年代の後半以降、コローはリューマチを患うようになって、屋外での写生が困難となり、アトリエで人物画を手がけることが多くなった。「真珠の女(Femme à la perle)」と呼ばれるこの作品は、コローの人物画の代表作である。

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これは「マントの橋(Le pont de Mantes)」を描いた作品。セーヌ川にかかるこの石造りの中世風の橋を、コローは大変気にいり、十数点もの作品が残されている。コローは、若い頃イタリアに旅した折、古代の面影を残す風景に心を奪われ、「ナルニの橋」などを描いているが、そうした古代趣味が、マントの風景によってかき立てられたようである。

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マントは、パリの西50キロほどにあるセーヌ川沿いの小さな町である。コローはしばしばここを訪れ、風景を写生した。なかでも大聖堂と中世の石の橋が気に入り、繰り返し描いている。

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コローは、1850年代を通じて、コロー色と言われる銀灰色を背景に使った叙情的な風景画を描き続けたが、1864年の作品「モルトフォンテーヌの思い出(Souvenir de Mortefontaine)」はその集大作というべきもの。コローの代表作の一つに数えられる。

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