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「浴女たち Les baigneuses」と題するこの大作は、ルノワールの遺作となったもので、かれはこの絵を、死の直前まで描いていたという。雄大な自然の中で、豊満な裸体をさらす裸婦のテーマは、最晩年のルノワールが好んだもので、この作品は、そんなルノワールの集大作といってよい。

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「ほどけた髪の浴女(Baigneuse aux cheveux dénoués)」と呼ばれるこの絵は、ルノワール晩年の傑作である。ルノワールは、1890年代に画家としての名声がとどろきわたるようになり、それに伴って経済的にも豊かになったので、自由に自分の好きな創作に身を打ち込むことができるようなった。そんなルノワールがもっとも熱心に打ち込んだのが裸婦の表現だった。

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「眠る女 La dormeuse」と題したこの絵は、ソファによたれかかって転寝をしている若い女性を描いている。ルノワールの絵の中の女性は、あまり露骨な官能を感じさせないのだが、この絵の中の若い女は、例外的に官能を感じさせる。

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1890年代に円熟期を迎えたルノワールは、数多くの裸婦像を描いたが、中でもこの「長い髪の浴女 Baigneuse aux cheveux longs」はもっとも完成度が高い。腰のあたりまである長い髪を垂らしながら、一人の少女がいまにも水を上がろうとする一瞬を描いている。ルノワール独特の、スナップショット的な、動きを感じさせる絵だ。

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晩年のルノワールは、浴女を始め裸婦を好んで描いた。ここではそんな裸婦像のいくつかを見てみたいと思う。これは、「座っている浴女 Baigneuse assise」と題した作品。自然のなかで、自分自身の内面に沈潜しているような少女を描いている。画面に水は見えないが、おそらく沐浴中なのだろう。肌がつやつやとして、あたかも沐浴したばかりのように見える。

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1880年代の後半に、ルノワールはベルト・モリゾを通じて、詩人のステファヌ・マラルメと知り合った。マラルメは、画家たちと懇意にしていて、マネに肖像を描いてもらったりしていた。そのマラルメが、ルノワールを高く評価し、彼の作品を国立博物館に飾ってもらおうと思い、国立美術学校の校長アンリ・ルージョンに働きかけた。ルージョンは、その旨ルノワールに申し出たが、ルノワールは,自分はまだその器ではないと言って、謝絶していた。

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「草束を持つ少女(Petite fille à la gerbe)」と題した1888年のこの作品も、ルノワールの晩年の最初を飾るものだ。田園地帯の中で、刈り取った草の束を抱える幼い少女を描いたこの絵は、あふれるような色彩感を売り物にしている。

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1888年からルノワールの長い晩年が始まる。晩年のルノワールは、アングルを通して確立したはっきりした輪郭に、豊かな色彩、それも燃えるような色彩を重ねるという、今日ルノワールの作風を特徴づけると思われているものを表現するようになった。ルノワールはその表現スタイルを用いて、多くの裸婦像を描いたのである。

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アングルに学ぼうとしてルノワールは、アングルがもっとも得意とした裸婦像に取り組むようになった。晩年のルノワールの傑作は、大部分が裸婦を描いたものである。その最初の傑作が、「浴女(Les grandes baigneuses)」である。この大作をルノワールは、1885年に取り掛かってから、ほぼ2年かけて完成させた。完成させた作品は、ジョルジュ・プティの画廊で催された「国際絵画彫刻展」に出品した。プティは、ルノワールの保護者だったデュラン・リュエルのライバルの画商だった。

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ルノワールは意識して印象派から脱却しようとし、新たな画風を模索したが、1883年頃には、ある種のスランプに陥ってしまった。その頃の手紙の中で、自分には絵も描けなければ、デッサンも描けないといって、嘆いて見せた。一応、アングルを目標とはしていた。イタリアで古典主義の魅力に目覚めたルノワールにとって、アングルはフランスの古典主義を代表する画家に思われたからだ。

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ルノワールはイタリア旅行から戻ると、古典主義を意識した大作の制作に取り掛かり、翌1883年の春に完成させた。縦長の画面の三部作で、いずれもダンスのヴァリエーションを描いていた。一つは「ブージヴァルのダンス(La danse a Boujival)」といい、残りの二つは「田舎のダンス(La danse a la campagne)」と「都会のダンス(La danse a la ville)」のペアだった。これらの絵には、イタリアで研究したラファエロの最初の影響が見られる。

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ルノワールは1882年に初めての海外旅行をした。まず2月に北アフリカに行き、10月にはイタリアに行った。イタリアに行った目的は、ラファエロの作品を見ることだった。それまでの印象派的な画風にいきづまりを感じていたルノワールは、ラファエロから転換のためのインスピレーションを得たいと思ったのだった。

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19世紀の末に流行したジャポニズム趣味に、ルノワールはあまりかぶれはしなかった。ゴッホやマネなど多くの画家が、作品の中でジャポニズム趣味を発散させているのに対して、ルノワールにはジャポニズムを感じさせるものは、ほんの少ししかない。「うちわを持つ女(Jeune fille au ventilateur)」と題されたこの絵は、その代表的なものだ。

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「テラスにて(Sur la terrasse)」と題されたこの作品も、レストラン・フルネーズのテラスを舞台にしたものだ。「舟遊びする人々の昼食」と同じ頃描かれたのであろう。「舟遊び」ではあまりはっきりとは描かれていなかったセーヌ川が、この作品では背景として大きく描かれている。

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1879年頃から、ルノワールは再びセーヌ河畔を訪れ、舟遊びする人々を描くようになった。「舟遊びする人々の昼食(Le déjeuner des canotiers)」と題したこの作品は、代表的なもの。パリ近郊のシャトゥーにある島のレストラン、フルネーズを舞台にして、そこのテラスで昼食をとる人々を描いている。

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「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が成功したおかげで、ルノワールには裕福な人々からの、子供たちの肖像画を描いて欲しいという注文がくるようになった。そうした注文仕事は結構な金をもたらしたので、ルノワールは自分の主義に反しない程度に引き受けた。「イレーヌ・カーン・ダンヴェール(Portrait de Mademoiselle Irene Cahen d'Anvers)」と題したこの肖像画は、ルノワールの子どもの肖像画の中の傑作である。

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ルノワールのアトリエ近くには、フェルナンド・サーカスがロシュシュアール大通りに面して興行していた。そこにルノワールはたびたび足を運んだが、それは画家仲間ドガの影響だったといわれている。ドガは、サーカスや劇場での風俗的な光景を好んで画題に選んだ。

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ルノワールは、第三回目の印象派展を最後に、セザンヌやシスレーとともに、印象派展への出典を取りやめ、再びサロンに出展するようになった。当時の取り決めで、両方とも出展するわけにはいかなかったのである。そのサロンには、1879年に「シャルパンティ夫人と子どもたち(Madame Georges Charpentier et ses enfants)」を出展して、みごと入選した。それが彼に、画家としての名声と、将来への見通しをもたらした。ルノワールは、あのやかましかった美術批評家たちの支持を取り付けたのである。

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「ブランコ(La balançoire)」は、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とほぼ同時期に描かれ、ともに第三回の印象派展に出展された。それをカイユボットが購入し、彼の死後フランス政府に寄贈された経緯がある。

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1878年の第三回印象派展にルノワールは大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット(la Bal du moulin de la Galette)」を出展した。これはモンマルトルの丘の上にあるカフェで、かつて粉ひき小屋があったことから「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と呼ばれていたところで、踊りを楽しむ人々を描いたものだ。ルノワールは、1873年以来、パリのサンジョルジョ街に住む傍ら、モンマルトルの一角にアトリエを借りており、マンマルトルは日常的に親しんだ土地である。そこで、踊りに興じる人々を描いたこの大作に、ルノワールはかなりの自信をもっていた。この作品は早速カイユボットによって購入され、彼の死後フランス政府に寄贈されることになる。

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