美を読む

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ラオコーン像は、1506年にローマ皇帝ネロの宮殿跡近くから出土した。その際には、ラオコーンの右腕と、息子たちのそれぞれの右手は欠けた状態だった。その後、ラオコーンの右腕と思われるものが出土したので、それをもとに復元したものが、現在の形である。

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ミロのヴィーナスは、1820年にエーゲ海のメロス(ミロ)島で、一農夫によって発見された。その後、オスマントルコ政府による没収を経て、フランス人の手にわたり、ルーブル美術館に収められた。東京に一度来たことがあるが、日本以外の外国に渡ったことは、ほかに一度もないという。

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ヘレニズム時代にも、アッティカの伝統は絶えることはなかった。スコパス派の人々がクラシック風の彫刻を作り続けていた。この「サモトラケのニケ」像は、スコパス派の人によって作られた、クラシック風の美術の傑作である。

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ヘレニズム時代には様々な王国が併存し、それぞれ独特の美術が花開いたが、もっとも有力だったのは、ペルガモンを中心とするリアリズムの美術だった。上の写真は「死にゆくガラテア人」といって、リアリズム美術の代表作である。戦いで瀕死の傷をおったガラテア人が、いまにも死にゆくところを、リアルに表現している。

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アレクサンドロス死後、東アジアから北アフリカにかけていくつかの王朝ができたが、なかでも小アジアにあったペルガモンはもっとも栄えた王朝だった。この王朝では、ギリシャの文化と東アジアの富とが結びついて、豪華絢爛な美術がもたらされた。ペルガモン神殿は、それをもっともよく表現している遺跡だ。

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紀元前四世紀の後半に、マケドニアからアレクサンドロスが登場して、宿敵ペルシャを破ったほか、西アジアから北アフリカ一帯を征服して、ギリシャを中核とした王朝を創出した。アレクサンドロス自身は、若くして死んだが、かれが死んだ後も、かれの遺産としてのギリシャ風王朝は各地に残り、そこに、ギリシャ風の分化が花開いた。この文化を、ヘレニスティック文化あるいはヘレニズムと呼んでいる。ヘレニズムの文化は、紀元前31年に、ローマによってギリシャが属州に組み込まれるまで続いた。

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スコパスはプラクシテレスと同時代に活躍し、一緒に仕事をしたこともある。プラクシテレスにも感覚的な傾向はあったが、スコパスはさらに強く感覚的な表現をした。かれは、小アジアに旅行した際、ペルシャの提督マウソロスや、その妻アルテミシアの肖像を作ったが、どちらも感情のこもった作風である。

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紀元前四世紀の前期から中期にかけてのギリシャ美術は、後期クラシック美術と言われる。この時代のギリシャは、ペロポネソス戦争(BC432-404)の後の混乱期にあたり、やがてアレクサンドロスによって統一されるのであるが、そうした政治的混乱をよそにするかのように、美術の分野では、感情表現が豊かな、感覚的な新しい美術が開花した。

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ポリュクレイトスは、ミュロンより年少で、クラシック美術を更に奥行きの深いものにした。かれの代表作「ドリュフォロス(槍を持つ人)」は、カノン(規範)を体現したと言われたほどだ。カノンとは、人体の理想的な比例を意味する言葉で、かれの著作の題名だった。

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紀元前五世紀の前半に花開いたクラシック美術は、ミュロン、フェイディアス、ポリュクレイトスの三人によって代表される。このうちミュロンは最年長で、一気にクラシック美術を完成させた人と評価されている。ミュロンの原作は残っていないが、その作風を伝えるコピーが二点伝わっている。そのひとつが、この「円盤を投げる人」である。

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エレクティオン神殿は、パルテノン神殿完成後に建築された。やはり、アクロポリスに立っていた古い神殿を除却して、新たに建築されたものである。全体がイオニア様式でまとめられている。この時代の神殿の建築様式には、ドリス式、イオニア式、コリントス式の三つの様式があった。ドリス式が一番シンプルで、コリントス式が最も新しく、また装飾的だった。

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ギリシャは、紀元前449年にペルシャとの長い戦争に最終的に勝って、アテネを中心にして、黄金時代というべき時期に入った。その時期のアテネをリードした政治家が、有名なペリクレスである。ペリクレスは、パルテノン神殿の再興など、美術の興隆にも貢献した。そうして花開いた美術を、クラシック様式の美術と呼んでいる。

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デルフォイから出土したブロンズ像「デルフォイの馭者」は、「ポセイドン像」と並んで、厳格様式の傑作である。シシリアのギリシャ人植民都市ゲラの君主ポリザロスが、カルタゴ軍との戦いに勝利した記念に、デルフォイの神域に奉納したものである。ポセイドン像の奉納と同年のことだったと言われる。

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紀元前六世紀末から同五世紀半ば頃までは、アルカイック美術からクラシック美術への過渡期として、厳格様式の時代とされている。この様式の特徴は、アルカイックの微笑が消えて、男女ともに、重々しい威厳を感じさせる作風になったことである。その威厳を以て厳格様式といったわけであろう。

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紀元前六世紀の、アルカイック美術の時代に、アッティカ地方を中心にして、黒絵式陶器が盛んに作られた。黒絵というのは、壺の側面に施された図柄のことをいう。輪郭線に囲まれた部分を黒い顔料で塗りつぶし、それが乾かないうちに、鋭い筆で線を描くことで、ネガフィルムのような効果を演出したものだ。

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コレー像が着衣であるのに対して、若い男性をあらわしたクーロス像は、裸体である。男性を裸体で表現することは、マンティクロスの時代から始まっていたが、アルカイックの時期に本格化した。そのことの背景には、競技によって鍛えられた美しい肉体に、美の理想を認めたギリシャ人の感性が働いている。

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アルカイック美術という概念は、クラシック美術との対比から作られたものである。紀元前五世紀に花開いた美術をクラシック美術と呼び、ギリシャ美術の完成された形とする考え方が優位になったときに、それ以前の段階の美術を、一段劣る未熟なものという意味でアルカイック美術と呼んだのである。しかし、今日では、アルカイック美術を未熟な段階の美術とする考えは少数派である。アルカイック美術には、それにふさわしい意義を認めるべきだというのが、今日の主流の考えである。

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腰が極端にくびれた人物像の典型が、このマンティクロスのアポロン像である。テーバイから出土したこのブロンズ像は、先に見た壺の文様における人物のパターンを立体的に表現したものだ。

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紀元前1200年頃をピークに、印欧語族の一分派であるドリス人がギリシャ半島に南下してきて、先住民族のミケーネ文化を完全に滅ぼした。そのことで、ギリシャは一気に野蛮な時代に逆戻りしたといわれる。ドリス人に追われた先住民族のアカイア人たちは、アッティカ地方や小アジアに移動し、そこでイオニア文化と呼ばれる新たな文化を作り始める。ギリシャはこのイオニア文化とドリス文化とが対立しながら新たな時代を作り上げてゆく。
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ミケーネ文明の遺跡はドイツ人シュリーマンによって発掘された。かれは1870年代にミケーネを、1880年代にティリンスを発掘し、ミケーネ文明について多くの知見を得た。ミケーネにおいては、城塞の獅子門を発掘し、その奥に数多くの副葬品を伴なった墳墓を発見した。その墳墓をかれは、ギリシャ神話の中のミケーネ王アガメムノンと、その妃カサンドラのものと信じたが、実際には、アガメムノンの時代よりはるかに古い時代のものとされている。

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