美を読む

vela30.4.jpg

ベラスケスがヴァティカンに住んでいたのはそう長くはなかったようだ。やがてかれはメディチ家の世話になる。そのメディチ家の邸宅は、ヴィラ・メディチといって、スペイン広場の階段を上ったあたりに、いまでもある。その邸宅の庭園を、ベラスケスは二点の絵に描いた。

vela30.3.jpg

「ヨセフの長衣を受け取るヤコブ」は、「ウルカノスの鍛冶場」と並んで、ローマ滞在中に制作した二つの大作のうちの一つ。旧約聖書の創世記に取材した作品だ。ギリシャ神話と聖書との違いはあるが、どちらも物語を視覚化したもので、ボデゴンや肖像画を描いていた初期のベラスケスからの飛躍を感じさせる作品である。

vela30.1.jpg

ベラスケスは、1629年7月頃から約一年半の間イタリアに旅した。フェリペ国王の裁可を得たもので、国庫の援助を受けていた。目的は、ベラスケス本人の美術研修と、現地における美術品の買い付けであった。ティントレットやティツィアーノの作品など20点あまりを買い付けている。

vela29.1.jpg

24歳で宮廷画家になったベラスケスは、29歳で王室画家に抜擢された。王室画家というのは、王の身近に仕える身分で、側近といってもよかった。実際ベラスケスは、以後王の側近として、さまざまな宮廷行事に関わる一方、王の美術コレクションの監督役をもつとめることになる。つまり、画家であるとともに、役人でもあったわけだ。ベラスケスの作品が120点ほどにとどまっている理由は、役人としての時間をさかれ、画業に専念できなかったことにある。

vela23.1.jpg

24歳で宮廷画家に抜擢されたベラスケスは、早速国王フェリペ四世の肖像画を制作する。その絵は国王に大変気にいられたというが、現存していない。わずか一日で描かれたという逸話が伝わっているから、おそらくスケッチ風の簡素なものだったと思われる。フェリペ四世はその時18歳であった。

vela22.jpg

「セビーリャの水売り」と題したこの作品はセビーリャ時代を締めくくるもの。かれはこの作品を土産にしてマドリードに赴いた。それに先立ちベラスケスは、1622年4月に絵画鑑賞の旅の途次初めてマドリードに赴き、そこで旧知のフォンセーカの歓待を受けた。フォンセーカはセビーリャの出身で、師パチェーコと懇意だったため、ベラスケスとは縁があったのである。

vela19.1.jpg

ベラスケスの生きた時代には宗教画が絵画の主流だったので、ベラスケスもまた、多くはないものの、宗教画を手掛けている。「東方三博士の礼拝」と題したこの絵は、彼の初期の宗教画を代表するものである。当時宗教画として人気のあったモチーフを題材にとったものだが、そこにはベラスケスの個人的な思いも込められている。かれは、この絵の中に自分の家族のイメージを込めたのだ。

vela18.1.jpg

「マルタとマリアの家のキリスト」と題するこの絵は、前景に料理する二人の女を、後景に三人の人物を配した複合的な画面になっている。絵のタイトルは、後景の図柄を説明したもの。この図柄が、絵であるのか、窓を通した外部の光景なのか、それとも後の「ラス・メニーナス」を思わせる鏡の中の像なのか、断定的なことは言えない。

vela18.0.jpg

ベラスケスは1617年3月に、パチェーコのもとでの6年間の修行を終えて独り立ちし、画家組合にも登録されて、画家としてのキャリアを始めた。19歳の年である。以後1623年10月に、国王フェリペ四世の宮廷画家に抜擢されるまでの6年間を、セビーリャを拠点にして活動した。

vela00.jpg

ディエゴ・ベラスケス(Diego Velazquez 1599-1660)は、スペイン最初の偉大な画家であり、また世界美術史上に屹立する巨匠である。様式分類上は、バロック美術の巨人ということになる。強烈な明暗対比とリアルな画風は、バロック美術の完成であるとともに、近代絵画を予感させるような先駆性を内在している。

remb68.1.jpg

レンブラントは1693年の10月に63歳で死んだ。その年に描いた作品の一つと思われるものに「家族の肖像」がある。この作品は当時のレンブラントの心の風景を映し出していると考えられる。というのもレンブラントは、その前年に最愛の息子ティトゥスを失い、この年の三月にはティトゥスの遺児ティティアが生まれていた。順調なら、息子の家族を暖かい目で見守ってやれたものを、という無念の気持が、この絵からは読み取れるのである。

remb65.1.jpg

「ユダヤの花嫁」と呼ばれるこの絵は、レンブラント最晩年の作品だ。モデルの二人が誰をあらわしているのか、長らく議論があったが、今日ではイサクとリベカだとするのが通説だ。イサクはアブラハムの長子で、ユダヤ人の祖先とされる人だ。そのイサクがリベカと結ばれるところを描いたということだ。

remb62.1.jpg

1662年の作品「織物組合の評議員たち」は、レンブラント晩年の集団肖像画の傑作。「夜警」に比べると単純な構図で、「トゥルプ博士の解剖学講義」と似た雰囲気を感じさせる。「解剖学講義」のほうは、主任教授を中心にして解剖の現場の雰囲気が如実に伝わるように描かれていたが、こちらは組合評議員の会議の様子がやはり如実に伝わって来る。

remb61.1.jpg

レンブラントの数多い自画像のうち、もっとも有名なものが、この「パレットを持つ自画像」だ。晩年のレンブラントは、モデルを雇う金が無くて、自分をモデルにして描いたのだと、よく言われる。レンブラントにとって、生きることとは描くことだったのである。

remb58.1.1.jpg

レンブラントは息子ティトゥスの肖像画を、子どもの頃から何枚も描いた。これは1656年のもの。この時のティトゥスは15歳だった。絵の中のかれの表情は落ち着いており、ずっと年上に見える。このティトゥスの為にサスキアが残した遺産を、レンブラントは本人に渡してやろうとして、豪邸の所有権をティトゥス名義にしたいと思ったのだったが、裁判所はそれをみとめず、残った財産のうちのわずかな部分しか渡してやることができなかった。レンブラント自身の割り当ては、借金返済のために競売に付されてしまったのである。その際に、手元に保有していた自分の作品の多くも流出した。

remb56.1.jpg

レンブラントが「トゥルプ博士の解剖学講義」を手掛けたのは1632年のことだが、それから24年後の1656年に、同じようなテーマで追加注文を受けた。注文主は、トゥルプ博士の後任デエイマン博士だった。博士は、同年中に強盗罪で死刑になったヨーリス・ファン・ディーストの死体解剖を行ったのだが、その折の様子を、集団肖像画として描いて欲しいと依頼してきたのである。

remb54.2.jpg

パテシバにまつわる話は、旧約聖書の「サムエル記」に出て来る。パテシバは、ヒッタイト人ウリアの妻であったが、ユダヤのダヴィデが彼女を見初めて強引にセックスした。その結果パテシバは妊娠したのだが、ダヴィデは己の罪を隠そうとして、ウリアを亡き者にしようと画策する。すなわち戦場に赴かせ、味方の軍人に殺すよう命じるのである。

remb54.1.jpg

「川で水遊びする女」と呼ばれるこの絵は、水浴するスザンナのモチーフを援用したものだとか、あるいはパテシバだとかとの説があるが、そんなことを抜きにして、一人の無邪気そうな女性を描いたものと受け取ってみても、なかなかの味わい深さを感じさせる一点。レンブラントの女性像のなかでも、もっとも魅力的なものだ。

remb50.1.jpg

ヘンドリッキエ・ストッフェルスは、1648年にレンブラントと同棲するようになった。彼女の登場で立場を失ったヘールヘトは裁判を起こし、レンブラントの婚約不履行を訴えた。裁判所は彼女の主張を受け入れ、毎年200グルデンの慰謝料を支払うよう命じた。その頃のレンブラントは、放蕩と浪費がたたって借金苦に悩んでいた。

remb47.1.1.jpg

水浴するスザンナをめぐる逸話は聖書外典「ダニエル書」に出て来る。スザンナは名士ヨアキムの妻だったが、その美しさにユダヤの裁判官の長老二人が横恋慕し、強姦しようとする話である。これをレンブラントは視覚的イメージとして描いた。師のラストマンがチョークで描いたデッサンを参考にしたというが、構図を大胆に変えてある。ラスマトンのデッサンは、腰かけるスザンナと、背後から彼女に話しかける老人たちが描かれているが、この絵では、老人の一人がスザンナに襲い掛かり、スザンナは怯えた表情を見せている。

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ