美を読む

slav11.jpg

「ヴィトコフの戦闘の後」と題したこの作品も、フス戦争の一コマに取材したもの。1420年に、カトリック教会が組織した十字軍約10万名を、フス派の農民軍が、プラハ郊外のヴィトコフに迎え撃ち、撃退した戦いを描いている。もっとも、戦いそのものではなく、闘いが終わったあとの戦場の寒々とした様子を描いている。

slav09.jpg
(ベツレヘム教会で説教するヤン・フス)

ヤン・フスは、15世紀初頭に活躍したチェコの宗教家で、ルターの宗教改革の先駆者として知られる。カトリック教会の腐敗を批判し、贖宥状の廃止と聖書のみによる信仰を主張したために、カトリックの宗教裁判で有罪となり、火刑に処せられた。

slav07.1.jpg
(クロメジージュのヤン・ミリーチ)

ヤン・ミリーチは14世紀の神学者で、チェコの聖人。ヤン・フスの先駆者といわれる。私財をなげうって貧民の救済につとめた。それに感激した娼婦たちが、売春宿を修道院に回収して、自分たちの罪を悔い改めたという。


slav05.jpg

「プシェミスル・オタカルⅡ世」は、チェコの歴史上もっとも偉大な王といわれる。彼が在位した13世紀の中頃、ボヘミア(今日のチェコ)は、国威がもっとも発揚し、近隣諸国と同盟を結んで、平和な時代を謳歌していた。

slav03.jpg
スラヴ式典礼の導入)

「スラヴ式典礼の導入」は、モラヴィア(チェコ)におけるキリスト教の典礼がスラヴ式でおこなわれることを記念した作品。9世紀から10世紀にかけて、モラヴィアではキリスト教が普及したが、聖書や典礼は民族自前ではなかった。そこでモラヴィア大公ロスティラフは、神学者のキュリロスに命じて、青書のスラヴ訳を作らせる一方、スラヴ式典礼の導入をすすめた。

slav02.1.jpg

ミュシャのスラヴ叙事詩シリーズの第二作。このシリーズは、チェコ人独自の歴史とスラヴ人共通の歴史を半々に取り上げているが、この作品はスラヴ人全体に共通する歴史がテーマ。リューゲン島はバルト海に浮かぶ島で、そこにスラヴ人が、民族の神スヴァントヴィトの祭壇を設けた。この絵は、その神のための祭に集まったスラヴ人たちをテーマにしている。

slav01.1.jpg

スラヴ叙事詩を構成する20点の作品のうち最初に完成したのが「原故郷のスラヴ民族」と題したもの。壁画を思わせるような巨大な画面に、草創期におけるスラヴ民族の境遇が描かれている。ここでいう原故郷とは、無論ミュシャの故郷チェコのことだろう。そのチェコにスラヴ民族が住み着いたのは紀元3ー6世紀のことといわれる。

slav00.jpg

アルフォンス・ミュシャは晩年を故郷のチェコで過ごした。そこで長い間温めてきた連作の実現に取り組む一方、プラハ市庁舎ホールの装飾などを手掛けた。ミュシャはアール・ヌーヴォーの大家としての名声が確立していたが、もはや時代遅れとみなされ、したがってミュシャは、ふさわしい尊敬を受けたとはいえなかった。だがそんなことは、ミュシャにとってどうでもよいことだった。彼はチェコに戻った年の翌年(1911)に、プラハ郊外のズピロフ城を借り、一家でそこに移り住んで、大作「スラヴ叙事詩」の制作にいそしんだ。このシリーズが完成したのは1928年だから、ミュシャは実に17年をかけたわけである。

m24.1911.hyacinth.jpg

ミュシャはチェコに戻ると、「スラヴ叙事詩」シリーズの制作にはげむ傍ら、ポスターなども折に触れて制作した。「ヒアシンス姫」はその代表的なもの。バレー劇「ヒアシンス」のために制作された。モデルはバレーの主役アンドラ・ソドラコヴァ。当時のチェコの人気女優だった。

m23.1908.bradley.jpg

ミュシャがたびたびアメリカを訪問した目的の一つは、畢生の大作「スラヴ叙事詩」の制作のための資金援助を募ることだった。その提供者として名乗りをあげたのは、大富豪チャールズ・ブラッドリーだった。ミュシャはブラッドリーの資金援助を得ると、故郷のチェコにもどり、1910年から1928年にかけて、20点からなる連作「スラヴ叙事詩」を完成させた。

m22.1905.seibo.jpg

ミュシャは1904年に初めてアメリカに渡り、その後もたびたび訪れた。アメリカは成金国家で、美術品への需要が高く、有利なビジネスが期待できた。そこでミュシャは既存の装飾絵画を売りさばく一方で、注文制作にも応じた。そうした作品には、油彩画やテンペラ画も含まれていた。ミュシャはリトグラフの装飾画家として名を挙げたのだったが、本来的には油彩の大作への意欲を強く持っていた。

m21.1902.jpg

「月と星」は、ミュシャの装飾パネル・シリーズの最後の作品(四枚セット)。ほかの一連のシリーズものと同様、モチーフを女性に擬人化している。もっとも、ほかの作品では、女性が前面に浮かび上がるよう配置されているが、このシリーズの女性たちは控えめに描かれている。その分、モチーフの月と星を強調している。

m20.1.tuta1.jpeg

ミュシャの二枚組の装飾パネルは、左右の女性を向かい合わせに描くのが特徴。女性は、全身像の場合もあり、半身像の場合もある。1897年の作品「ビザンチン風の頭部」は、頭部だけを取り出して向かい合わせたものだった。これが大きな成功を収めたので、気をよくしたミュシャは、同じような趣旨のものをもう一組作った。1901年の作品「木蔦と月桂樹」である。

m19.nature.jpg

ミュシャは宝飾品のデザインを手掛ける一方、数は少ないが彫刻も残している。「ラ・ナチュール」と題したこの作品はミュシャの彫刻の代表的なもの。かれはこれを、1900年のパリ万博に向けて制作した。宝飾商ジョルジュ・フーケとのコラボレーションであり、また彫刻技術はオーギュスト・セースの手ほどきを受けた。

m18.1.1899.temps1.jpg

「時の流れ」と題したこの装飾パネル・セットは、一日の時の流れを、朝、昼、夕、夜の四つに区分し、それぞれ女性のしぐさに時々の自然を感じさせるように描かれている。ミュシャ得意の女性に擬人化された自然の表現である。

m17.1.1899.sakura1.jpg

「桜草と羽根」をモチーフにした二枚一組の装飾パネル。それぞれのモチーフを擬人化して女性であらわし、彼女らが向かい合っている構図である。だが、互いに眼を伏せ、見つめあうことはない。モチーフ自体は、女性が手で持った形で表現されている。左側の女性は桜草を持ち、右側の女性は大きな羽根を持つといった具合だ。

m16.1899.hamlet.jpg

サラ・ベルナールの1899年の舞台公演「ハムレット」のために作成したポスター。フランスでは、シェイクスピアの原作をほぼ忠実に再現した最初の舞台だったという。それ以前には、フランス人好みに合わせて、かなり逸脱したバリエーションが演じられていたということらしい。

m15.1.1898.fleurs1.jpg

「花」シリーズはミュシャの装飾パネルセットの代表的な作品。四種類の花を、それぞれ女性の姿に擬人化した図柄だ。このシリーズは大好評をはくし、装飾パネルのほか、カレンダーやポスターにも採用された。また、小さな画面にして四枚一組にしたバージョンが飛ぶように売れたという。

m14.1898.musou.jpg

「夢(Rêverie)」と題されたこの作品は、もともと印刷会社シャンプノワの社内向けポスターとして作成されたもの。評判がよかったので、一般向けにも販売された。ミュシャの作品のなかでも最も人気のあるものの一つである。

m13.1898.medee.jpg

1898年に上演された「メデエ」のためのポスター。「メデエ」はエウリピデス原作のギリシャ悲劇だが、それを詩人のカチュール・マンデスがサラ・ベルナールのために戯曲化した。ルネサンス座の舞台において、サラはみずからメデエを演じた。

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ