美を読む

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「皮をはがされた牛」は、レンブラントとしては珍しいモチーフなので、その真偽が問題になったこともあるが、今日ではレンブラントの真作と広く認められている。こうしたモチーフを選んだのは、なにごとにも挑戦を惜しまないレンブラントの向上心の現われだと解釈されている。

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「目をえぐられるサムソン」も劇的な一瞬をとらえた作品。サムソンは旧約聖書の士師記に出て来るユダヤ人の英雄で、ユダヤ人を苦しめていたペリシテ人を相手に、たびかさなる武勇を示したが、それは神の力添えの賜物だった。ところがある時一時的に神の加護が無くなったところをペリシテ人に襲われ、両目をえぐられてしまう。この絵は、その場のシーンを再現したものだ。

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「ペルシャザルの饗宴」と呼ばれるこの絵も、ドラマチックな雰囲気を強く感じさせる作品だ。旧約聖書のダニエル書に出て来る逸話に取材したもの。ペルシャザルは、バビロン王ナボニドゥスの子で、次期バビロン王になるはずだったが、ユダヤ人を迫害したことで滅亡したというような話である。

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レンブラントには、モチーフとなったものをなるべくドラマチックに描くという傾向が強くあった。この「イサクの生け贄を天使に止められるアブラハム」も、そうした傾向が強く現われている作品だ。これを見る者は、あたかも自分の眼前で実際に起きていることを目撃しているかのような錯覚を覚えるほどだ。

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レンブラントは、自分自身の自画像と妻サスキアの肖像画を熱心に描いたのだが、二人そろってポーズをとっている絵は、この作品くらいだろう。レンブラントは、放蕩息子を気取って酒場で気勢を上げ、妻のサスキアはそれを鷹揚に見守っているというような構図だ。

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レンブラントは生涯に夥しい数の自画像を描いた。油彩、版画を併せると百点を超える。こんなに多くの自画像を描いた画家は他にいない。ゴッホも多くの自画像を残したが、その数はレンブラントの半分以下だ。レンブラントは、自分の肖像をモチーフにしたばかりではない、作品のなかで群衆の一部に自分の姿を描き加えるなど、要するに自分の姿にこだわったのである。

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新婚当時のレンブラントは、新妻サスキアの肖像画を多く描いた。サスキアのほうも我慢強く夫の仕事に付き合った。もっともその仕事は、金のためというより、とりあえずは二人の結婚記念といった性格が強かったようだ。「フローラに扮したサスキア」と呼ばれるこの絵は、そんな一点。春の女神フローラに扮したサスキアをモデルにしている。

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サスキアと結婚した年1634年に、レンブラントはオランダ総督から個人的な注文を受けた。五作からなるキリスト受難連作である。まずキリストをはりつけた十字架の樹立を描いたものと、十字架からの降下を描いたものの二作、続いてキリストの埋葬、復活、焦点をテーマにした三作が注文された。いずれも、上部が半円形になっており、建物の一部にはめ込むように考慮されている。大きさはそれぞれ異なっている。

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レンブラントはアイレンボルフの家で、一人の若い女性と出会った。サスキアといって、アイレンボルフの従妹である。彼女の親は裕福だったが、父親はすでに死んでいた。そのサスキアとレンブラントは、1633年の5月に婚約した。その婚約の前後に、彼女へのプレゼントとして描いたのが、「微笑むサスキア」と呼ばれるこの作品である。

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1631年に、レンブラントはアムステルダムに移り住み、彼の才能に惚れ込んでいた画商アイレンボルフの家に居候した。そのアイレンボルフは、レンブラントのために仕事の注文をとってきたのであるが、そのなかで外科医組合からの集団肖像画の注文があった。その注文を受けて描いた作品「トゥルプ博士の解剖学講義」は、レンブラントの世界的名声を確立することになった。

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レンブラントは、1631年にライデンを去ってアムステルダムに移住する。その直前に描いたのが「女預言者アンナ」。これはレンブラントの母親をモデルにしていると言われるが、真偽は明かではない。この絵の中のアンナは、ひどく老いさらばえていて、しかも農婦のように無骨に描かれている。その時のレンブラントは二十代半ばであり、母親も六十歳であったと思われるので、この描き方は母親を描いたにしては、モデルにとって過酷な描き方である。自分の母親を、こんなイメージで描くというのもちょっと受け入れがたいところがある。

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「30枚の銀貨を返すユダ」は、ライデン時代の代表作で、レンブラントの名を広く知らしめた作品。その頃までは、ラストマン塾の同僚で一つ年下のヤン・リーフェンスのほうが評価が高かった。しかしレンブラントは、この作品を通じて、オランダを代表する画家といわれるようになる。「話し合うペテロとパウロ」で進展ぶりを見せていた明暗対比の激しい画風が、この作品では高い完成度に達したと評価されたのである。

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「話し合うペテロとパウロ」と題されたこの作品もライデン時代の代表作の一つ。22歳の時の作品だ。「トビトとアンナ」は、聖書の中から劇的な題材を選んで、人間同士の葛藤のようなものを描いていたが、この作品は、二人の聖人の静かな対話を描いている。劇的とは言えないが、人間同士の関わり合いを描いているという点では、「トビトとアンナ」に共通するところがある。レンブラントは、人間の行動とか考えとかいうものをモチーフにすることを、若い頃から好んでいたということが、しのばれるところだ。

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レンブラントは、18歳の時にアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事して、自分なりの画風を確立すると、19歳の時にはライデンにもどり、画家として独り立ちした。それ以来、25歳でアムステルダムに移住するまで、ライデンを拠点に活動した。その頃すでにレンブラントは、新進画家として世間の注目を集めるようになった。

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レンブラント(正式にはレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン Rembrandt Harmenszoon van Rijn 1606-1669)はバロック美術を代表する画家である。その活躍ぶりからして、バロックの巨人と呼んでよい。バロック絵画はイタリアの天才カラヴァッジオによって完成され、強い明暗対比(キアロスクーロ)と劇的なモチーフによって特色づけられるが、レンブラントはそうした特徴を更に発展させ、バロック美術を一層深化させたといえる。

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「ゴリアテの首を持つダヴィデ」は制作年代が特定されていない。1606年頃という説もあるし、死の直前1610年とする説もある。死の直前とする説は、ゴリアテのモデルがカラヴァッジオ本人であることに着目する。この絵の中のゴリアテすなわちカラヴァッジオの表情は憔悴しきっており、しかも初老の男のようでもある。1606年ごろのカラヴァッジオからは、こういう表情は想像できない。やはり死を目前に控えた、悩めるカラヴァッジオではないかというのである。

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「洗礼者聖ヨハネ」は、カラヴァッジオが死んだ時に、舟の中に残されていた荷物に含まれていた。したがって彼の遺品ということになる。おそらく彼の最後の作品なのだろう。同じモチーフの絵が二点あったという。上のものはそのうちの一つである。もう一つは、特定できていない。

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マルタ島を脱出したカラヴァッジオは、舟でシチリア島に向かった。シチリア島には、カラヴァッジオが若い時分に弟分として付き従っていたマリオ・ミンニーティがいたので、とりあえずかれを頼った。マリオはカラヴァッジオのために絵の注文を仲介したり、けっこうカラヴァッジオの面倒をみたようだ。シチリアでは、「聖ルチアの埋葬」とか「ラザロの復活」といった大作を描いている。

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カラヴァッジオにとって、ナポリは居心地がよかったはずだが、八か月あまりで去り、マルタ島に向かった。目的はマルタ騎士団の騎士になることだった。かれがなぜマルタ騎士団の騎士になりたがったのか、その理由はいろいろ推測されているが、日頃騎士を気取り、それがもとで殺人まで犯したカラヴァッジオには、騎士への強烈なあこがれがあったようだ。なお、マルタ騎士団というのは、十字軍の産物として生まれたものであり、ヨーロッパじゅうの騎士が名声を求めて集まっていた。カラヴァッジオは貴族ではなかったが、画家としての名声が、認められたのだろう、暖かく迎えられた。

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「キリストの鞭打ち」もナポリ滞在中の作品。サン・ドメニコ・マジョーレ聖堂の祭壇画として描かれた。福音書の中のキリストが鞭うたれる光景をモチーフにしている。この絵の中のキリストは、筋骨隆々とした姿で描かれており、罪人としての弱々しさは感じさせない。だが、周囲の男たちは邪悪な表情をしており、画面全体には暴力的な雰囲気がただよっている。

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