「グリーン・ストッキングズを履いて横たわるの女(Liegende Frau mit grünen Strümpfen)」と題されたこの絵は、エディットの妹アデーレをモデルにしている。ワリーを失ったシーレは、気の知れた、しかもエロチックな雰囲気をもったモデルがいなくなった。そこで、エディットよりはるかにエロチシズムを感じさせるアデーレをモデルにするようになった。アデーレもシーレの望みに応えた。
「死と乙女(Tod und Mädchen)と題されたこの絵は、シーレとワリーをモデルとした作品の最後のものである。死神がシーレ、乙女はワリーをあらわしている。この絵の中のシーレは、ワリーにとって死神なのである。というのも、シーレは知り合ったばかりのエディットが気に入り、彼女と結婚する気になった。そこでワリーに事情を告げると、ワリーは絶望的な気持ちになった。この絵は、絶望するワリーと、死神のように残酷なシーレ自身の表情を描きだしている。
「枢機卿と尼僧(Kardinal und Nonne)」と題されたこの絵は、シーレのカトリックへの反感を表現した作品といわれる。シーレは、クルマウでの迫害を経て、ノイレングバッハでは警察に拘留されたのだが、それは近隣住民の反発を受けたものだった。近隣住民は、シーレが未成年者にポルノまがいのことをさせていると言って糾弾したのだった。それがシーレにとっては、カトリックによる芸術の弾圧として受け取れた。オーストリアはカトリックの多い国柄で、性的なことについては非常に敏感である。まして子どもを巻き込む行動は許しがたいものであった。
エゴン・シーレは、1912年4月13日に、児童をポルノグラフィのモデルにした罪状で刑務所に入れられた。その直後から、拘禁されている自分のイメージを描き始めた。拘禁中の自画像はかなりの数にのぼる。いすれも紙に鉛筆と水彩絵の具で描いている。それらは「囚人としての自画像(Selbstbildnis als Gefangener)と呼ばれている。
「頭を下げた自画像(Selbstbildnis mit gesenktem Kopf)」と題されたこの絵は、とかく常軌を外れたイメージのシーレの自画像のうちでも、グロテスクの度合いが強いものだ。ぼさぼさ頭で口ひげを蓄えたシーレは、頭をやや下げた形で、するどい眼光を発している。その眼光は、三日月型の白目によって強調されている。観客はその眼光にとらわれて、シーレが顔の前に突き出した右手にあまり留意しない。その右手は奇妙な様子に指をひろげ、モデルの精神状態の異常さを暗示している。
「黒い陶器の壺のある自画像(Selbstbildnis mit schwarzer Vase)」と題されたこの絵は、当時シーレが熱中していたドッペルゲンガーをモチーフにした作品。シーレの顔が左手を向いている一方で、その顔の後ろ側に置かれている黒い壺は、よくよく見ると人間の顔の横顔になっている。ドッペルゲンガーを描いたものとしてはやや変則であるが、顔が二つある男を描くことでシーレは、自分自身の二重人格を表現しているわけである。
クルマウを追われたシーレは、ヴァリーを連れてウィーン郊外の田舎町ノイレングバッハに移り住んだ。「ノイレングバッハの画家の部屋(Das Zimmer des Künstlers in Neulengbach)」と題されたこの絵は、かれらが暮らした部屋を描いたものである。シーレはこの絵を、ゴッホの「アルルのゴッホの部屋」に触発されて描いた。その絵をシーレは、1909年の「クンストシャウ」で見ていた。
1911年5月、シーレは恋人のヴァリーとともにウィーン西郊の町クルマウに移り住んだ。この町は、母親の生地であり、落ち着いた雰囲気の古い町であった。この町を気に入ったシーレは、町をモチーフにした一連の風変わりな風景画を制作した。「死せる町Ⅲ(Tote Stadt Ⅲ)」と題されたこの絵は、シリーズの中でもっとも有名な作品。
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