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狂った牝牛:ロートレックのポスター

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「狂った牝牛(La vache enragée)は、アドルフ・ヴィレットが1896年に刊行したイラスト入りの月間風刺雑誌。「狂った牝牛を食う(manger la vache enragée)には、世の中を笑い飛ばすという意味もあるので、風刺雑誌にこう命名したという。その雑誌には当時の人気漫画家であるアドルフ・ローデルが編集者として加わっていた。

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ロートレックは、ロンドンで興行しているダンス・グループ「マドモアゼル・エグランティーヌ一座」から、ポスターの注文を受けた。注文の内容は、一座の四人の花形ダンサーである、マドモアゼル・エグランティーヌ、ジャンヌ・アヴリール、クレオパトラ、ガゼルの四人が並んでカンカン踊りを踊っているところを描き、レタリングとしてこの四人の名前を、上に述べた順序に並べ、そこにパレス・シアターの文字も加えて欲しいというものだった。

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このポスターには「国際ポスター展」というレタリングが付されており、実際1895-96年に開催された同展覧会のポスターとして使われたのであったが、ロートレックはこのポスターをそういうつもりで作ったわけではなかった。このポスターには込み入った事情があったのである。

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メイ・ミルトンはイギリス人のダンサーで、メイ・ベルフォールとは仲良しだった。それでベルフォールのためにポスターを作ってやったリートレックは、ミルトンのためにも作ってやらざるを得なかった。ロートレックには心のやさしい面もあったのだ。

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「ルヴュ・ブランシュ」は、スケートの記事を売り物にした雑誌で、アレクサンドル・ナタンソンが編集していた。そのアレクソンドルの兄弟タデ・ナタンソンの妻が、当時スケートリンクの女王として名をはせていたミシア・ナタンソンだった。このポスターは、ミシアをフィーチャーして雑誌の宣伝を狙ったものだ。

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メイ・ベルフォールはアイルランド人で本名をメイ・イーガンと言った。ミュージック・ホールのダンサーをしていたが、ジャンヌ・アヴリールやメイ・ミルトンに比べると、印象が地味で、どちらかというと冴えない感じの女性だった。それ故ロートレックが、ポスターばかりか他の絵画分野でも彼女を好んでモデルに使うのを、親しい友人たちはいぶかったものだ。

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このポスターは、ロートレックの友人で写真スタジオを経営していたポール・ペスコーの依頼で作ったものだ。ロートレックは図柄だけ提供し、レタリングは別の専門家が担当した。レタリングの上の文字は、ペスコーの店の住所を表わしたものだ。ピガール広場は、パリ北部のクリニー通りにある。

当世の職人:ロートレックのポスター

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キャバレーや書物の宣伝のためのポスターから出発したロートレックは、やがて一般の顧客からの商業用ポスターの依頼も受けるようになった。この「当世の職人」は、そうした仕事の最初のものである。この仕事をロートレックは、インテリア・デザイン会社を運営するアンドレ・マルティから依頼された。

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ロートレックは、ヴィクトル・ジョーズの小説「喜びの女王」のためにポスターを制作したことがあったが、引き続き彼の小説「ドイツのバビロン」のためにポスターを制作した。この小説の内容がどのようなものか、筆者は知らないが、どうやらフランス人の反ドイツ感情をあおる要素があったらしい。

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ロートレックは、アリスティード・ブリュアンのために四点のポスターを制作したが、これはその最後のもの。ミルリトンとは、ブリュアンの出していたイラスト入り雑誌及びその名を冠したキャバレー。もっともミルリトンの文字は初刷りにはなく、二刷りから加えられた。

コーデュー:ロートレックのポスター

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アルベール・コーデューは、アリスティード・ブリュアンと人気を二分するエンタテイナーだった。その彼からの依頼で、ロートレックが制作したポスターがこれだ。画面からわかるように、もっぱらコーデュー一人を宣伝している。今ではこういう宣伝ポスターは珍しくはないが、19世紀末のヨーロッパで個人を宣伝するポスターは画期的だったようだ。

断頭台の下で:ロートレックのポスター

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「断頭台の下で(Au pied de L'echahaud)と題したこのポスターは、同名の書物の宣伝のために作られた。その書物を書いたのは、ロケット監獄の教誨師を長年つとめていたアベ・フォール。フォールは在任中に立ち会ったギロチンによる処刑の様子を回想録としてまとめ、それを雑誌「ル・マタン」に連載した。このポスターは、その連載記事を宣伝したものである。

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ロートレックは、アリスティード・ブリュアンをフィーチャーしたポスターを四点作っているが、これはその代表作。ブリュアンはこのポスターを自分のトレードマークとして使い、自分が出る舞台にはかならずこれを飾ったという。舞台のみならずパリの街角をも長く飾ることとなり、ブリュアンはこのポスター共々パリ名物になった。

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ロートレックは、1892年のポスター「ディヴァン・ジャポネ」の中で、当時人気のダンサー、ジャンヌ・アヴリールを観客の一人としてそれとなく描いたが、今度は自分の名を主題にしたポスターを作ってほしいとジャンヌにねだられた。その結果作ったのが翌1893年のポスター「ジャルダン・ド・パリのジャンヌ・アヴリール」である。

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マルティール街75番地にあったキャバレーを、1972年にエドゥアール・フルニエが買収し、それを「ディヴァン・ジャポネ」と名付けて、徹底したジャポニズムを売りものにした。そのため店を全面改修し、内部を日本風に装飾したうえで、店の雰囲気を如実に物語るポスターをロートレックに依頼した。ロートレック自身ジャポニズムに興味をもっていたから、この仕事は楽しかったに違いない。

喜びの女王:ロートレックのポスター

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ヴィクトル・ジョーズのペンネームで活躍していたポーランド人の作家ヴィクトル・ドブルスキーが、1892年に「喜びの女王」という小説を出版したが、その宣伝のためにロートレックにポスターの作成を依頼した。ジョーズは作家活動の傍ら「世紀末」という雑誌を発行したりしていて、なかなか活発な面があり、ロートレックとも日ごろ親しかった。そんなわけでロートレックは二つ返事でその仕事を引き受けた。

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ロートレックは、アンバサドゥールに続いてエルドラドのために同じようなポスターを作った。これについても面白い逸話がある。エルドラドは、ストラスブール街にあったカフェだが、そこの経営者にブリュアンが掛け合い、アンバサドゥールでの成功を再現すべく、ロートレックにポスター制作の依頼をすることを承知させた。ところがエルドラドの経営者はケチで、印刷実費に相当する金額しか出さなかった。そこで侮辱されたと感じたロートレックは、デザインに手を抜くこととした。アンバサドゥールに使ったデザインを、180度ひっくりかえしただけでそのまま使ったのだ。

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アリスティード・ブリュアンはロートレックの同時代における人気歌手だった。彼は自分自身で音楽カフェ(ミルリトン)を経営する傍ら、パリの人気カフェにも出場していた。このポスターは、そうしたカフェの一つである「アンバサドゥール」のために制作されたものだ。それについては面白い逸話がある。

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ロートレックが初めてポスターを制作したのは1891年の夏、26歳の時であった。その二年前の1889年に、シャルル・ジドレがモンマルトルにキャバレー、ムーラン・ルージュ(赤い風車)を開業していたが、その宣伝のためのポスターをロートレックに注文したのだった。この注文をロートレックが真摯に受け止めたことは、制作への意気込みを語った母親あての手紙の中で示されている。その中で彼は、自分がこの新しい芸術の旗手になることへの矜持を吐露している。

ロートレックのポスター

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トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec 1864-1901)は、36歳の若さで死んだが、その短い生涯におびただしい数の作品を制作した。1000点に上る絵画作品(油彩及び水彩)、400点以上のグラフィック作品、そして5000点以上のデッサンである。しかし彼の芸術家としての名声は、わずかな数のポスターによると言っても過言ではない。彼が生涯に制作したポスターは31点にすぎないが、もしこれらのポスターを制作することがなかったなら、偉大な芸術家としての名声を残すことはなかっただろう。

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