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フィンセントの椅子:炎の画家ゴッホ

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これは「黄色い家」のゴッホの部屋に置かれていた椅子を描いたものだ。この変哲も無いものを絵のモチーフに選んだ画家はゴッホ以前にも、ゴッホ以後にもいない。椅子が付随的に描かれることはあっても、椅子そのものをこのように大写しに描くなどとは、誰の頭にも思い浮かばなかったに違いないのだ。

ジヌー夫人:炎の画家ゴッホ

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ジヌー夫人はアルルで知り合った女性である。カフェの経営者だった。ゴッホは1988年11月にこの女性の肖像を二点油彩画に描いている。これはそのうちの一枚。この他ゴッホは、1890年2月に、ゴーギャンの描いた夫人の肖像を下絵にした作品も作っている。特別の親しみを感じていたのだろう。

フィンセントの寝室:炎の画家ゴッホ

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ゴッホは1888年の9月に、既に借りていた「黄色い家」の部屋に移りすみ、そこで本格的な生活を始める。その部屋をゴッホは何枚か描いた。これはその最初のものだ。やがてゴッホはこの部屋にゴーギャンを迎えることになる。

ミリエ少尉:炎の画家ゴッホ

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ゴッホはアルルで知り合ったズアヴ兵ミリエ少尉の油彩画の肖像を三点描いているが、これはその一つ。前回紹介した「ズアヴ」の中のミリエ少尉とはかなり違うイメージに描かれている。「ズアヴ」のミリエ少尉はアルジェリア風のエキゾチックな服装と精悍な表情をしているが、この絵のミリエ少尉はフランス風の軍服に身を包み、表情は穏やかである。

夜のカフェ:炎の画家ゴッホ

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これは夜のカフェの内部を描いたもの。正面の時計から、夜中の十二時を過ぎていることがわかる。こんな夜中に、幾組かの客がテーブルに腰かけて、ひそひそ話をしたり、眠りこんだりしている。独り玉突き台の脇に立っている男だけが、元気そうに見える。

夜のカフェテラス:炎の画家ゴッホ

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ゴッホはアルルの夜のカフェを描いた絵を二枚残した。一枚は「貧しい夜の放浪者が眠る」と彼自身が言うところの労働者向けのカフェ、もう一枚はこの絵である。これはアルルの町の中心部フォルム広場に面したカフェを描いたものである。

ズアヴ:炎の画家ゴッホ

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ズアヴとは、フランスがアルジェリア人やチュニジア人を主体に作った植民地向けの兵を言う。そのズアヴ兵であるミリエ少尉と、ゴッホはアルルで出会い、絵を教えてやるかわりにモデルになってもらった。ゴッホは彼をモデルにして、三点の油彩画と二点のデッサンを描いた。この作品はそのなかで最も有名なものだ。

ムスメ:炎の画家ゴッホ

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ゴッホはアルルで多くの人々の肖像画を描いた。それらの人々はみな、現地の名もない人々である。この少女の肖像もそうした無名の人の肖像画だが、ゴッホはこの少女に特別の名をつけてやった。「ムスメ」と言う名である。この「ムスメ」という名前がこの絵のタイトルになった。

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「プロヴァンスの積みわら」と題されたこの絵は、「ラ・クロの収穫」と連作をなすものである。「ラ・クロの収穫」では、アルル郊外の麦畑での黄色く色づいた麦とそれを収穫する人々がモチーフになっていたが、この絵では、収穫された麦が積みあげられている様子が描かれている。

収穫:炎の画家ゴッホ

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ゴッホがアルルでまず取りかかったのは自然をテーマにした連作だった。アルルに来て早々、はね橋を描く傍ら、「春」と題した果樹園の連作を描いた。そして六月になって麦の取入れが始まると、麦の収穫をテーマにした連作を手がけた。「収穫」と題したこの作品はその一枚である。

アルルのはね橋:炎の画家ゴッホ

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ゴッホは1888年の3月にアルルにやってくると、さっそく町はずれの田園地帯に出かけてスケッチをした。中でも気に入ったのはラングロア橋というはね橋で、ゴッホはこの橋を、デッサンも含めると十点も描いている。その中で最も有名なのがこの作品だ。

黄色い家:アルルのゴッホ

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1888年の2月にゴッホは南仏の町アルルにやってきて、ラマルティーヌ広場の一角にある黄色い家に住んだ。アルルは産業の町として結構にぎわっていたが、ラマルティーヌ広場は町の外れ近くにあって、そこからは麦畑まで歩いていけた。ゴッホは早速麦畑に出かけて行っては、強烈な太陽の光を浴びながら南国の明るい風景をスケッチした。

炎の画家ゴッホ

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日本ではゴッホを「炎の画家」という呼び方が定着している。その画風や色彩が炎のような激しさを感じさせるからだろう。しかし色彩という点ではゴーギャンのほうが激しい。ゴーギャンは暖色系の原色を駆使して絢爛たる色彩世界を現出した。これにシンプルな構図が相まって、ヨーロッパの絵画史上例を見ないような世界を作り上げた。ゴーギャン以降の画家でゴーギャンの影響を受けなかったものはいないと言ってよいほど、その後の西洋絵画に深刻に働きかけた。

サーカス:スーラの点描画

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サーカスを描いたこの絵は、スーラの最後の作品となった。この絵を未完成のままで1891年のアンデパンダン展に出品している最中に、スーラは死んだのである。未完成のまま出品したことには、スーラなりに死の予感が働いていたのだろうか。

グラヴリーヌの運河:スーラの点描画

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1890年、スーラは生涯最後の夏をドーヴァー海峡に面した港町グラヴリーヌで過ごした。グラヴリーヌは、カレーとダンケルクのちょうど中間にあって、ラー川を運河とし、運河沿いに港湾施設のある町である。この町でスーラは、午前、午後、夕方と刻々と表情を変える港の光景を、四枚の板絵と四枚のカンバスに描いた。

シャユ踊り:スーラの点描画

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晩年のスーラは、サーカスやミュージックホールといった大衆娯楽施設を頻繁に訪れ、そこからインスピレーションを得ようとしていた。19世紀末のパリには、そうした娯楽施設があふれていた。そこにインスピレーションを求めた芸術家としては、スーラは先駆者の一人と言ってよい。彼に続いてロートレックやピカソが、そうしたものからインスピレーションを得るようになる。

化粧する若い女:スーラの点描画

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「化粧する若い女」と題したこの絵は、スーラ晩年の愛人マドレーヌ・ノブロックを描いたものだ。彼女はスーラのモデルをしていたが、そのうちにスーラの子どもを産んだ。スーラが死んだときには、彼の二人目の子どもを妊娠していたが、その子は死産となった。スーラに死なれた彼女は頼るべき人もいなかったが、さいわいにスーラの母親に認められて、スーラの遺品の一部を相続できた。それを元手に帽子のショップを開いたりしたが、彼女はどうも世渡りが下手だったらしく、店は倒産して貧困の生涯を送ったようだ。

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1888年の夏に北フランスの港町ポール・アン・ベッサンで描いた六点のうちの一つ。こちらは、ポール・アン・ベッサンの港を描いている。その視点は、丘の上から港全体を見下ろすもので、入り組んだ崖の間に展開する港の複雑な景色が俯瞰されている。

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1888年の夏の数日を、スーラはドーヴァー海峡に面した漁村ポール・アン・ベッサンで過ごし、そこで六点の絵を制作した。この絵はそのうちの一枚、タイトルはずばり「ポール・アン・ベッサン」である。

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スーラは、南フランスの明るい風景よりも、北フランスの穏やかな光を好んだ。その点では、印象派の次の世代の画家のなかでやや特異な作家だったといってよい。ゴッホやゴーギャンが南仏の強烈な光を前にして鮮やかな色彩に目覚めたのに対して、スーラはノルマンディやイルドフランスの穏やかな光を好んで描いたのである。

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