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1869年の秋、モネは友人のルノアールとカンバスを並べてラ・グルヌイエールと言われる行楽地の光景を描いた。この行楽地はパリの西、セーヌ川沿いの町ブージバルの近くにあり、パリから日帰りで行ける行楽地として人気があった。かのナポレオン三世も、妻とともに遊んだと言う。

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1868年の春、モネはパリの百キロ以上西のセーヌ川添いの町ボニエール・シュル・セーヌ近くのベンヌクールに滞在し、そこでセーヌの水辺の光景を描いた。「水辺、ベンヌクール(Au bord de l'eau, Bennecourt)」と題するこの絵がそれである。この絵を通じてモネは、水の表現に夢中になった。やがてモネは、水の表現を完璧のものにして、晩年の一連の睡蓮の絵を描くわけだ。

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「サン・タドレスのテラス(Terrace à Sainte-Adresse)」は、海辺の自然の中に人物を配したもので、自然と人物との調和をテーマにした一連の作品の一つである。この絵でモネは初めて海景を表現したが、海辺の日光はきわめて強烈なので、モネは光の効果を最大限表現することができた。

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「草上の昼食」を中断したモネは、同じようなテーマでもう一枚描くことを決意した。今度は、「草上の昼食」より小さなサイズで、戸外で完成させるように意図した。とはいっても、絵のサイズは2.5×2.0㎝もある。このカンバスの上部を描くためにモネは、地上に竪穴を掘ってそこにカンバスを埋め込んだのだった。そうすれば脚立を用意しなくとも描くことができる。

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モネは、1866年の官展のために用意してきた「草上の昼食」を未完成のまま放棄し、かわりに恋人カミーユを描いたこの絵に取り掛かった。等身大のこの巨大な肖像画「カミーユ(Camille ou femme à la robe verte)」を、モネはわずか四日間で完成させた。そして早速官展に出展したのだったが、結果は大成功だった。モネはこの絵によって、一躍時代の旗手として躍り出たのである。

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クロード・モネが、彼の画業の出発点ともいうべき「草上の昼食(Le déjeuner sur l'herbe)」を描いたのは、1865年、二十代半ばのことだった。彼はこの絵を、恋人のカミーユと友人のバジールとともに出かけたフォンテンブローの森で、彼らをモデルにした下絵を描いたうえで、それをパリのアトリエで完成させようとした。できたら翌年の官展に出展するつもりだった。しかし完成を途中であきらめてしまった。理由は定かではない。もし完成していたら、4.6×6.0メートルという途方もない大きさになるはずだった。しかし遺された未完成品は、その部分図が二点であった。

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クロード・モネ(1840-1926)は美術史上、印象派の開拓者と位置付けられている。印象派は近代絵画の最初の波を代表するものであるから、モネは近代絵画の開拓者とも言える。近代絵画を切り開いた芸術家としては、エドゥアール・マネが第一に挙げられるが、モネはこの名前がよく似て、年もあまり違わない画家とともに、近代絵画の偉大な先駆者としての役割を果たした。

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ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo 1526 - 1593)は、ルネサンス後期のマニエリズムを代表する画家である。ミラノの画家の息子として生まれ、若い頃には教会のための宗教的な作品を手掛けたが、三十代半ばでウィーンの宮廷画家となり、フェルディナント一世以下三人の王に仕えた。彼の作品としては、風変わりな人物画が有名で、それらはある種の隠し絵として、多くのファンを持っている。

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パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese 1528-1588)は、ティントレットと並んで、後期ルネサンスのヴェネツィア派を代表する画家である。ヴェローナで生まれたことからヴェロネーゼと呼ばれるが、本名はパオロ・カリアーリという。ヴェローナの画家アントニオ・パディーレのもとで修業し、1553年25歳のときに自立した。

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ティントレット(Tintoretto 1518-1594)は、ルネサンス後期のヴェネツィア派を代表する画家である。ティントレットは染物屋の息子を意味するあだ名で、本名はヤコボ・ロブスティという。ティツィアーノのもとで修業し、1540年頃に独り立ちした。その画風は、ティツィアーノのメリハリある色彩感に加え、情熱的でダイナミックな人物描写に特徴がある。

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コレッジオ(Correggio 1489?-1534)は、北部イタリアのモデナ近くの村コレッジオで生まれ、主にパルマで活躍した。コレッジオとは生地にもとづくあだ名で、本名はアントニオ・アレグリという。少年時代、マントーヴァの画家マンテーニャのもとで学んだらしい。初期のかれの作品には、マンテーニャの強い影響が指摘される。

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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 1488/90-1576)は、ヴェネツィア派最高の画家である。ルネサンス美術は、フィレンツェで始まり、ローマを経てヴェネツィアに中心地が移っていったのだが、ティツィアーノはそのヴェネツィアの美術を一躍最高レベルまで高めたのだった。ティツィアーノの画風の特徴は、華麗な色彩感覚にあり、以後のヨーロッパ絵画に多大の影響を及ぼした。長命だったこともあり、膨大な作品を残している。

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アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto 1486-1531)は、フィレンツェ派の最後の巨匠であり、その弟子からはマニエリスムの画家を多く輩出した。自分自身もマニエリスムへの移行を用意したと評価される。後期ルネサンスを代表する画家の一人である。

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<ラファエロは1508年にローマに移住し、それ以来1520年に死ぬまで、ローマを根拠地にして活動した。かれをローマに呼び寄せたのは、時の教皇ユリウス二世であり、ヴァティカン内の自らの居室をフレスコ画で飾るという注文を出した。これに対してラファエロは、大規模な工房をあげて、この注文に取り組んだのであった。
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ラファエロ・サンティは、日本では単にラファエロとして知られる。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、ルネサンスの三代巨匠と呼ばれる。この三人のうちでは、ラファエロが一番若かったので、彼にはダ・ヴィンチやミケランジェロの影響を指摘できる。しかし、ラファエロにはラファエロの魅力があり、それは優美さと典雅さといってよい。

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ミケランジェロはフィレンツェのメディチ家と深い関係があった。そのことから、メディチ家出身のクレメンス教皇から、メディチ家の主要人物4人の霊廟の制作を命じられた。その霊廟は、サン・ロレンツォ聖堂に付属させる形で作ることになり、ミケランジェロはその建物の設計と、霊廟を飾る彫刻の作成を請け負った。それが今日フィレンツェにあるメディチ家礼拝堂と、それを飾る彫刻群である。

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ミケランジェロは、ルネサンスを代表する美術家であり、また人類史に屹立する巨人だといえる。画家としてはダ・ヴィンチと並び称されることがあるが、彫刻や建築をも含めた総合的な芸術家としては、ダ・ヴィンチをしのぐと言ってよい。彼は史上最大の彫刻家としての名声に相応しいし、また建築の分野でも著しい業績を上げた。

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ジョルジョーネ(Giorgione 1477-1510)は、ヴェネツィア派を代表する画家で、非常に大きな影響力を及ぼしたとされるが、三十代の若さで死んだこともあり、残っている作品は多くはない。その中には、真偽の明らかでない作品も多く、一説には真筆と保証できるものは六点しかないともいう。

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ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio 1449-1494)はミケランジェロが最初に師事した画家として知られている。当時の多くの画家同様、ギルランダイオとはあだ名で、花飾りという意味。父親のトマーゾが花模様の髪飾りを作っていたことから名づけられた。本名はドメニコ・ビゴルディという。

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サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli 1445-1510)は、日本人には人気の高い作家で、ダ・ヴィンチやミケランジェロとならんでルネサンスを代表する芸術家として知られる。ボッティチェッリは、小さな樽と言う意味のあだ名で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピという。フィリッポ・リッピのもとで修業し、25歳の時に画家として自立した。

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