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「アルジャントゥイユ」と題したこの絵も、屋外での作業の成果だろう。画面の明るさがそれを物語っている。だがこの絵も、「ボートのアトリエで描くモネ」同様、光の効果にはあまり注意を払っていない。その結果画面構成がかなり平板になっている。前景の二人の人物と彼らの背後にあるものとが、同じ平面にあるかのごとく、全体に平板さを感じさせる。

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マネはモネ、ドガ、ルノアールといった印象派の画家たちと仲良くなったが、一番親しみを覚えたのはモネだった。モネが1865年のサロンに出展した海洋画が批評家たちの喝さいを浴びた時には、名前の似ているこの若い画家にいら立ちを覚えたこともあったが、じきに親密な間柄になった。モネのほうではマネを自分たち印象派の指導者のように思っていた。一方マネは自分を印象派とは区別し、あくまでもオーソドックスな絵画をめざすのだと思っていた。

鉄道:マネ

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「鉄道」と題したこの絵を美術批評家たちは例によってさんざんにこき下ろしたが、その最もありふれた根拠は、「鉄道」と題しながら肝心な鉄道が絵からは見えてこないというものだった。しかしこの絵をよく見れば、背景が鉄道を描いたものだとすぐにわかるはずだ。鉄道を描いているのにそれがストレートに伝わってこないのは、蒸気機関車の吐きだす煙が充満していて、鉄道の様子を覆い隠しているからだ。それ故この絵は、煙がかもしだすぼんやりとした背景から浮かび上がった、母と子の肖像画として受け取られた。

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1870年代になると、マネの肖像画のモデルは上流階級の婦人が多くを占めるようになる。この絵のモデル、マルグリット・ド・コンフランもそうした上流階級の婦人で、マネとは近い親戚筋にあたるという。この女性をマネは気に入ったようで、何点かの肖像画を描いている。マネは彼女を描くたびに、彼女の家に出向いていった。当時は良家の子女が画家のアトリエに赴いてポーズをとることははしたないと受け取られていたのである。

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マネは1872年の8月にオランダを訪れた。目的の一つはフランドル派風俗画の画風を吸収することだった。その成果が、この「ル・ボン・ボック」である。この絵には、フランス・ハルスやフランドル派の画家の影響を強く感じ取ることができる。マネはこの絵によって、画家としての自分の世俗的名声を獲得しようと思い、満を持して1873年のサロンに出展した。

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マネはベルト・モリゾーにマドリードに行くことを勧めた。マドリードの美術館は当時世界一のコレクションを誇っており、絵の勉強にはすばらしい機会を提供してくれたのである。しかもマネは自分の親しい友人であるザカリー・アストリュックを、彼女のエスコート役としてつけてやった。そんなわけで、プロの画家を目指していたベルトは、心おきなく絵の勉強に打ち込めたといって、マネに感謝した。

休息:マネ

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マネはベルト・モリゾーのこの肖像画を1873年のサロンに出した。その際彼女の名前をそのままタイトルにするつもりだったのだが、彼女の母親が強く反対した。モデルのとっているポーズがくだけすぎていて、良家の娘のようには見えないという理由からだった。そこでマネは、彼女の名は表に出さず、単に「休息」と題した。彼女のとっている姿勢が、ゆったりとくつろいでいるように見えるからだ。

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「バルコニー」と題したこの絵をマネは「アトリエでの昼食」とともに1869年のサロンに出展し、どちらも入選したのだったが、批評家の評判は例によって芳しくなかった。「アトリエでの昼食」は絵の中に銃や兜など奇妙なものが加えられているのが意味不明だと言われ、この絵については、それぞれの人物が不自然な様子に描かれていると言って非難された。

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マネはゾラの友情に応えて肖像画をプレゼントした。その絵は1868年のサロンに出展され入選したが、批評家の評価は芳しくなかった。いつもは自分をほめてくれるゾラが当時者になったことで、誰もこの絵をほめるものはいなかった。ゾラ自身、この絵が気に入らなかったとみえて、自分の家にかざることをしなかったという。

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メキシコ皇帝マクシミリアン処刑のニュースが、パリ万博で湧いていた最中にもたらされた。マクシミリアンはハプスブルグ家の一員だったが、フランス皇帝ナポレオン三世の要請によってメキシコ皇帝についていた。しかしメキシコの独立をめぐる内乱のさなか、独立派のファレスによって銃殺されたのだった。それには、皇帝でありながら自前の強い軍隊を持たず、フランスの軍事力に頼っていたという事情があった。フランス軍が彼を見捨てて去って行ったために、無防備の状態になってしまったのである。

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マネは1866年のサロンに、「悲劇役者」と題する絵と共にこの「笛を吹く少年」を出展したが、どちらも落選した。しかも今回は、「草上の昼食」や「オランピア」の時のような、マイナスではあるが大きな反響を呼ぶこともなかった。大方の美術批評家から黙殺に近い扱いを受けたのである。

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1865年のサロンに送られた「オランピア」は、「草上の昼食」以上に激しい罵倒を浴びた。批評家の誰一人としてこの絵を評価するものはなかった。これは芸術ではなく卑猥な見世物だという侮蔑の言葉が一斉に浴びせかけられたのである。この絵のどこがそんなに卑猥なのか。現代の鑑賞者になかなか理解できないが、当時の批評家には、こんな絵を公衆の眼にさらすのは許しがたい蛮行と映ったのだ。

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1863年に、サロンに落選した作品を集めた「落選展」が開かれた時、マネは三点の作品を出展した。その一つがこの作品で、彼はその時これを「水浴」と題していた。ルーヴル美術館にあるティツィアーノの有名な作品「田園の奏楽」を意識した作品だったと彼自身が後に言っている。ティツィアーノの作品も若い楽師と裸の女性が描かれているのだが、誰もそれをおかしいとは思わなかった。ところがそれの同類といえるマネのこの作品に対しては、轟々たる非難が巻き起こった。猥褻だというのである。

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マネは、自分の最初の作品群をボードレールに褒めてもらったことで、ボードレールに対して友情を抱き、親しく交際するようになった。ボードレールの方ではマネをドラクロアほどには評価しなかったが、それでも新しい時代の旗手としての意義は認めてやった。そのボードレールは、彼一流のユニークな視点から美術批評を展開したわけだが、そんなボードレールの美術観に影響されたのが「チュイルリー公園の音楽会」と題したこの作品である。

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「老音楽師」と題したこの絵は、かなり奇妙な構図に見える。七人の人物が配されているのだが、彼らの間にはあまり関連性がない。みな銘々に勝手な姿勢をとっている。視線も一人の少年のそれを除けば、テンデバラバラである。しかも彼らは荒野のようなところでかたまっているのだが、これもまた必然性を感じさせない。というわけでこの絵には全体を統一する理念のようなものがない。その結果分裂気味に感じられる。

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ローラ・ド・ヴァランスは舞踏団カンブルービ一座のプリマドンナである。マネは一座の支配人と懇意だったらしく、アルフレッド・ステヴァンスのアトリエに一座の連中を連れてきて、ポーズを取らせてくれと頼んだ。支配人はそれに答えてローラをアトリエに連れて行き、マネの前でポーズを取らせた。そうして出来上がったのがこの絵である。マネはこの絵を、1863年に催した自分の個展に出展した。

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マネはスペインの絵、とくにベラスケスが気に入って、スペイン風に描くことをめざすことから始めた。その最初の成果が「スペインの歌手」である。マネはこの絵を1861年のサロンに出展し、佳作の評価を受けた。それまで落選の連続という憂き目にあってきたマネとしては、最初の成功だった。マネはこれをばねにして羽ばたこうと目指したが、その後はサロンの評価に見放された。

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エドゥアール・マネは近代絵画の先駆者とも、現代美術の魁とも言われる。マネが画家として登場した時、フランスではサロンが美術界への登竜門になっていた。美術界で成功しようと望むものは、このサロンで認められることが必要だったのである。しかしマネは何度もサロンに挑戦したにかかわらず、なかなか認められないばかりか、露骨に拒絶された。そこでマネは、ナポレオン三世がサロンでの落選作を対象にした「落選展」を開催した時に、「草上の朝食」を出展したが、それでも評価されないばかりか、一層露骨にけなされた。その理由は、マネの絵が伝統的な絵画の理想からあまりにもかけ離れていたということであった。

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この絵は、1890年の7月に描かれており、ゴッホの遺作といってしかるべき作品である。同じ月の27日にゴッホはピストル自殺を図るのだが、その際に制作中だったのが、この絵であった可能性は高いようだ。ゴッホがピストルを持参したのは、畑の中を飛び回るカラスを追い払うためだと言っていたそうだが、そのカラスはこの画面に描かれているカラスと同じものに違いないのだ。

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ゴッホは人生最後の滞在地オーヴェールで、一人の重要な人物と知り合った。精神科医師のガシェ博士である。弟のテオが、兄の北仏への移動希望を知って、自分の知り合いであったガシェ博士を紹介したのだった。ガシェ博士は親切な人間で、ゴッホを暖かく迎えてくれたばかりか、下宿先まで世話してくれたのだったが、ゴッホは自分で安い下宿を見つけて住み込んだ。

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