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セザンヌの80点にものぼるサント・ヴィクトワール山の絵の中で、最晩年(1904)の傑作がこの作品(Montagne Sainte-Victoire)。シリーズの他の絵に比べて抽象度が高いのが特徴である。サント・ヴィクトワール山自体は明確な輪郭で描かれているが、手前の森林地帯はざっくりと表現されている。

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「青い服を着た女性の肖像(Portrait de dame en bleu)」と題されたこの絵は、セザンヌ晩年の肖像画のなかでも傑作といえる作品。モデルは、セザンヌが雇っていた家政婦ブレモン夫人であると推測されている。

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晩年のセザンヌは、家から少し離れた地点からサント・ヴィクトワール山を描く一方で、家の近くの森を好んで描いた。ずばり「森(Forest)」と題されたこの絵もその一つ。これは、シャトー・ノワールに向かう野道沿いの森を描いたものだ。シャトー・ノワールは、エクス・アン・プロヴァンスのセザンヌの家から遠くないところにあった。

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晩年のセザンヌは頭蓋骨に関心を示し、頭蓋骨をモチーフにした多くの絵を描いた。かれの頭蓋骨への関心は、一つには死への向かい方に根差し、もう一つは静物画家としての資格において、頭蓋骨に果物やキューピッド像のような形態的な美を発見したからではないか。

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セザンヌは水浴する男女をモチーフにした絵を、1870年代以降数多く手掛けている。ティティアーノやルーベンスからインスピレーションを受けたという。かれの場合、ヌードそのものを描くのではなく、風景にとけあったヌードを描いた。ヌードのいる風景画あるいは、風景を背景にしたヌードといえるものだ。

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アンブロワーズ・ヴォラールは非常に有能な画商で、多くの画家と付き合いがあった。色々な画家に自分の肖像画を描かせた。ボナール、ルノワール、ピカソの描いたヴォラールの肖像画がよく知られている。セザンヌと古くから交流があったわけではなく、タンギーの店にかかっていたセザンヌの絵を見たヴォラールが、当時プロヴァンスに引っ込んでいたセザンヌを探し出し、多くの作品を買い求めた。それらの絵を、セザンヌの個展という形で世に出した。セザンヌはその個展がきっかけで広く知られるようになる。

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アヌシー湖は、フランス・アルプスのスイス国境に近い湖。ジュネーヴの南の遠からぬところにある。セザンヌは1896年に家族とともにここで休暇を過ごした。この絵「アヌシー湖(Lac d'Annecy)」は、休暇中に制作した唯一の作品である。かれは、故郷のプロヴァンスとは全く雰囲気の異なるアルプスの眺めに非常に感激し、その感激を画面に固着しようとして苦戦したという。

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セザンヌは田舎の一軒家を好んで描いた。自分の家を描かれた人の中には、家にも肖像権があるといって訴えるものもいたという。メゾン・マリアと呼ばれるこの家の所有主は、家の名称からしてマリアという人なのだろうが、詳しいことはわかっていない。また、その人がセザンヌを訴えたという事実もない。

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「パイプをくわえた男(Homme à la pipe)」と題されたこの絵は、アレクサンドル親爺と呼ばれた庭師をモデルにしたもの。この庭師は、「カード遊びをする人々」シリーズで、いずれも左端に描かれた人物である。すべてを通じて、同じ帽子をかぶり同じパイプをくわえている。セザンヌはこの庭師と縁が深かったようだ。

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セザンヌの「カード遊びをする人々」のシリーズのうち、これは第二のバージョンと呼ばれているもの。第一のバージョンでは五人の人物を配していたが、これはそのうち少年をのぞいて四人の男が描かれている。四人の男たちは、前作よりも狭い範囲に配されている。また、カードをいじる三人の男たちが、画面の中心付近に配されているので、構図的には安定感が増している。

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セザンヌは、「カード遊びをする人々」と総称される一連の絵を制作した。制作時期は厳密にはわからないが、1890年から1892年の間と推測される。全部で五つあり、そのうちの三点は二人の男がカードをいじる図柄であることから、同じ作品の三つのバージョンとされることもある。この五つのなかで、最も大きな画面は五人の男が描かれているもので、おそらくこれがオリジナルの作品であり、ほかの四点はこの作品をもとにして制作されたものと考えられる。

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セザンヌは、サン・ヴィクトワール山をモチーフにした絵を80点も描いた。秀作といえるものは、1880年代半ばから1900年代半ばまでのほぼ十年間の間に描かれた。1890年の作品(上の絵)は、南側からの眺めを描いたもので、セザンヌの一番好んでいた構図である。日があたって山が明るく見えるからであろう。

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「プロヴァンスの家(Maison devant la Sainte-Victoire près de Gardanne」と称されるこの絵は、後期のセザンヌの画風がもっとも典型的な形であらわれた作品。荒々しいブラシワーク、色彩の強烈な印象、遠近法にこだわらぬ構図など、かれの後期の画風を特徴づける要素が強く見られる。

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セザンヌはあるイタリア人少年をモデルにした絵を四点描いた。1888年頃のことだ。そのうち最も有名なのが「赤いヴェストの少年(Le Garçon au gilet rouge)」と題されたこの絵だ。他の三点も、赤いヴェストを着た少年を描いているが、ポーズはそれぞれ違う。それらはみなアメリカの博物館にある。

この絵の中の少年は、床几のようなものに腰掛け、テーブルの上に肘をのせてなにやら瞑想している。その雰囲気がなんともいえない。そこがこの絵を、セザンヌの肖像画を代表する存在にした所以だろう。セザンヌの肖像画の代表たるのみならず、油彩の肖像画のもっともすぐれた作品の一つに数えられる。

伝統的な画法からまったく離れた、セザンヌ特有の画法を感じさせる。遠近法をほとんど無視し、また明暗で立体感を表現しようともしていない。影らしきものはあるが、それは立体感の演出とは無縁である。あくまでも二次元の平面として構成されている。その二次元の平面のなかで、テーブルもカーテンも実際の形態とは別な形に再構成されている。

(1888-1890 カンバスに油彩 80×64.5㎝ チューリッヒ、ビューリー財団)


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セザンヌがオルタンス・フィケと同棲を始めたのは1870年代半ばのことだが、正式に結婚したのは1886年のことだった。自分の死期の近いことをさとった父親が、孫のことを思って息子たちの結婚を許す気になったのだった。息子たちの結婚の直後、父親は死に、多額の遺産を残した。そのためセザンヌは経済的な基盤が強まった。

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マルディ・グラ(Mardi gras)と題されたこの絵は、副題に「ピエロとアルルカン」とあるように、コメーディア・デ・ラルテのキャラクターをモチーフにしたもの。マルディ・グラは謝肉祭に関連する行事で、「肥沃な火曜日」を意味する。その行事の一環として、コメーディア・デ・ラルテのキャラクターが動員された。いまでいえば、さしずめディズニーランドのミッキーマウスのようなものであろう。

左手の白い衣装がピエロ、右手の市松模様がアルルカン。衣装はキャラクターの一部として決まっていた。アルルカンは、アクロバティックな演技をし、ピエロは言葉で人を笑わす。この絵からも、そうしたキャラクターの雰囲気が伝わってくる。

ロシア人シチューキンのコレクションだったものが、10月革命時にボリシェビキに接収され、国立美術館に移管された。

(1888-1890 カンバスに油彩 102×81㎝ モスクワ、プーシキン美術館)


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モン・サント・ヴィクトワールは、セザンヌの故郷エクス・アン・プロバンスにある山。この山をセザンヌは何度も描いている。数十点にのぼる。1880年代に多く描いた。この絵(La Montagne Sainte-Victoire et le viaduc de la vallée de l'Arc)はその一つ。サント・ヴィクトワール山と、その前を流れるアルク川、川に係る高架橋をモチーフにしている。

この高架橋は鉄道線路のためのもので、エクスとマルセーユを結んでいる。エクスの街が、画面左手に見える。サント・ヴィクトアール山はエクスの町の東側にある。だからこの絵は、町の西側から見た景色である。かなり遠い距離からの眺めであろう。

高い樹木を画面中央に配するのは大胆な構図である。ふつうは嫌われるところで、かりに現実にそこにあったとしても、別の形で表現されるものだ。セザンヌの風景画の代表作の一つである。

(1882-1885年 カンバスに油彩 65.5×81.7㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)


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セザンヌは、故郷のエクス・アン・プロヴァンスに近いレスタックが気に入り、機会あるごとにその風景を描いている。この地の魅力については、1876年のピサロ宛の手紙に、海のブルーと建物のオレンジの対象が非常に強烈で、描く意欲が刺激されると書いている。

セザンヌがレスタックの風景をもっとも集中的に描いたのは、1885年前後だ。20点ばかり描いている。「レスタックから見たマルセーユ湾(Le Golfe de Marseille vu de L'Estaque)」と題するこの絵もその一つ。手前の街並みがレスタック。海を隔てた対岸がマルセーユの街並みだ。

マルセーユの街並みは、ぼんやりと描かれており、詳細ではない。ただ一つ目立つのは、画面やや左手の小高い丘の上に白く描かれている建物だ。これはノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院といって、マルセーユのほぼ中心にあって、町全体を見下ろすことができる。

(1885年 カンバスに油彩 73×100.3㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)


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レスタックは、マルセーユの北西にある小さな港町。セザンヌの故郷エクス・アン・プロヴァンスから遠くない。かれはそこに普仏戦争の戦乱をさけて疎開したことがあった。ここは風景明媚なことで知られ、多くの画家がモチーフを求めて集まったという。セザンヌはこの港町を、1880年代半ばに何回か訪れ、レスタックの街や、レスタックから眺めたマルセーユの街を描いた。

レスタックと題されたこの作品は、かれが滞在していた家から眺め下ろしたレスタックの街の風景。レスタックの街は、海にむかって真北の方角にあるから。これは北側から南に向かって海を眺め下ろしていることになる。海はすなわち地中海である。地中海の喫水線がそのまま水平線になっている。

色彩配置やブラッシングに印象派からの完全な脱却を見てとることができる。セザンヌ特有の、ブラシを叩きつけるようにして絵の具を塗りたくるやりかたが、ここでも見て取れる。

(1885年 カンバスに油彩 65×81㎝ 個人像)


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1880年以降、セザンヌは印象派の影響を脱して自分独自の画風を追求する。その画風はのちに構成主義と呼ばれるようになるものだ。対象を、そのままに再現するのではなく、一定の理念にもとづいて再構成する。それにふさわしい効果を出すために、ブラシワークとか色彩の配置も工夫した。そうした斬新な方法意識が、フォーヴィズムやキュビズムに多大な影響を及ぼす。それゆえセザンヌは、今日では、現代絵画の祖といわれている。

「ポントワーズのクルーヴルの水車小屋(Le moulin sur la Couleuvre à Pontoise)」と題されたこの絵は、彼の構成主義時代の一番早い時期の作品。印象派とは全く異なる。また、印象派以前のどの画風とも異なる独自の雰囲気を早くも感じさせる作品である。

ポントワーズは、イル・ド・フランス地域の県。クルーヴルはそのなかの一地方であろう。そこに立っている風車小屋を、この絵はモチーフにしている。

構図にはそんなに斬新なものはない。だが、遠近法を無視し、対象をいったん解体したうえでそれを組み合わせて再構成するというやり方は、非常に斬新なものだ。

(1881年 カンバスに油彩 73.5×91.5㎝ ベルリン国立美術館)


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