美を読む

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ローラ・ド・ヴァランスは舞踏団カンブルービ一座のプリマドンナである。マネは一座の支配人と懇意だったらしく、アルフレッド・ステヴァンスのアトリエに一座の連中を連れてきて、ポーズを取らせてくれと頼んだ。支配人はそれに答えてローラをアトリエに連れて行き、マネの前でポーズを取らせた。そうして出来上がったのがこの絵である。マネはこの絵を、1863年に催した自分の個展に出展した。

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マネはスペインの絵、とくにベラスケスが気に入って、スペイン風に描くことをめざすことから始めた。その最初の成果が「スペインの歌手」である。マネはこの絵を1861年のサロンに出展し、佳作の評価を受けた。それまで落選の連続という憂き目にあってきたマネとしては、最初の成功だった。マネはこれをばねにして羽ばたこうと目指したが、その後はサロンの評価に見放された。

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エドゥアール・マネは近代絵画の先駆者とも、現代美術の魁とも言われる。マネが画家として登場した時、フランスではサロンが美術界への登竜門になっていた。美術界で成功しようと望むものは、このサロンで認められることが必要だったのである。しかしマネは何度もサロンに挑戦したにかかわらず、なかなか認められないばかりか、露骨に拒絶された。そこでマネは、ナポレオン三世がサロンでの落選作を対象にした「落選展」を開催した時に、「草上の朝食」を出展したが、それでも評価されないばかりか、一層露骨にけなされた。その理由は、マネの絵が伝統的な絵画の理想からあまりにもかけ離れていたということであった。

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この絵は、1890年の7月に描かれており、ゴッホの遺作といってしかるべき作品である。同じ月の27日にゴッホはピストル自殺を図るのだが、その際に制作中だったのが、この絵であった可能性は高いようだ。ゴッホがピストルを持参したのは、畑の中を飛び回るカラスを追い払うためだと言っていたそうだが、そのカラスはこの画面に描かれているカラスと同じものに違いないのだ。

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ゴッホは人生最後の滞在地オーヴェールで、一人の重要な人物と知り合った。精神科医師のガシェ博士である。弟のテオが、兄の北仏への移動希望を知って、自分の知り合いであったガシェ博士を紹介したのだった。ガシェ博士は親切な人間で、ゴッホを暖かく迎えてくれたばかりか、下宿先まで世話してくれたのだったが、ゴッホは自分で安い下宿を見つけて住み込んだ。

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オーヴェール・シュル・オワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川沿いの町で、パリの北西数十キロの地点にある小さな町である。その町の中心部あたりに協会が立っていた。この絵はその教会を描いたものである。

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ゴッホは1889年の6月頃に糸杉をテーマにした絵を二点描いた。そのうちの一点は先に紹介した「糸杉」で、これは日中の風景を描いていた。もう一点は「星月夜」というもので、これは星が出ている夜中の風景のなかでの糸杉を描いていた。ゴッホはこれらの絵を、自分の飛躍の現れと捉えていたのだが、友人のベルナールやゴッホはそれを評価してくれなかった。

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ゴッホは1890年の5月にサン・レミを去り、一時パリに滞在した後、同年5月20日に北仏のオーヴェール・シュル・オワーズに移った。ゴッホはここで7月29日に死ぬのだが、その最後の二か月ほどの間に、30点余りの油彩画を描いた。すさまじい創作力である。この絵は、5月に描かれているから、オーヴェールに来て間もなくの作品である。

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ゴッホはサン・レミ時代に多くの静物画を手掛けたが、これはその最も有名な一点。サン・レミを去る直前に描いたものだ。

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1889年の2月に、弟のテオとその妻ヨハンナの間に男の子が生まれた。ゴッホはそのお祝いにこの絵を描いた。古い枝から新しい命である花が開いた様を、子どもの誕生になぞらえたつもりだったようである。

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ゴッホは南フランスの風景を象徴するものとして糸杉を選んだ。セザンヌが松を好んで描いたことへの対抗心かもしれない。糸杉はすっきりとまっすぐに立ち、空に突き抜けようとするその姿に雄々しさを感じたようだ。ゴッホは弟テオへの手紙の中で、糸杉を「エジプトのオベリスクみたいだ」と言っている。オベリスクも天を突き抜けるようにすっきりと立つ。

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ゴッホは、その異常な言動から周囲の人々に気味悪がられ、1889年の3月に監禁を強いられたあと、5月8日にはサン・レミの精神病院に送りこまれた。この絵は、その病院の窓から見えた風景を描いたもので、ゴッホの作品の中で最も有名になったものの一つだ。

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「子守(La Berceuse)と題したこの絵は、郵便配達人ジョゼフ・ローランの夫人オーギュスティーヌ・ローランを描いたものである。彼女はこの時、三人目の子を産んだばかりであった。ゴッホは、ルーラン家の人々の肖像を、合わせて二十点も描いたが、これはその最も優れたものの一つである。

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ジョゼフ・ルーランはアルルの郵便局で郵便配達をしていた人である。無類の手紙好きであるゴッホは、頻繁に郵便局に通ううちに、この人と仲良くなった。この人と仲良くなると、その家族とも仲良くなった。この人には妻と三人の子どもたちがいたが、ゴッホはかれらの肖像画を併せて二十点も描いたのである。

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ゴッホにはひまわりの連作があるが、そのほとんどは1888年の夏に描かれたものだ。ゴッホはこれらひまわりの絵で黄色い家の部屋を飾り、ゴーギャンを迎えようと考えたのだ。

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「ゴーギャンの椅子」と題されたこの絵は、「フィンセントの椅子」と一対をなす作品である。ゴッホがゴーギャンを黄色い家に招き入れたのは1888年10月のこと。それからしばらく経ってからゴッホは、自分とゴーギャンとの共同生活を記念して、この一対の椅子の絵を描いた。

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これは「黄色い家」のゴッホの部屋に置かれていた椅子を描いたものだ。この変哲も無いものを絵のモチーフに選んだ画家はゴッホ以前にも、ゴッホ以後にもいない。椅子が付随的に描かれることはあっても、椅子そのものをこのように大写しに描くなどとは、誰の頭にも思い浮かばなかったに違いないのだ。

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ジヌー夫人はアルルで知り合った女性である。カフェの経営者だった。ゴッホは1988年11月にこの女性の肖像を二点油彩画に描いている。これはそのうちの一枚。この他ゴッホは、1890年2月に、ゴーギャンの描いた夫人の肖像を下絵にした作品も作っている。特別の親しみを感じていたのだろう。

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ゴッホは1888年の9月に、既に借りていた「黄色い家」の部屋に移りすみ、そこで本格的な生活を始める。その部屋をゴッホは何枚か描いた。これはその最初のものだ。やがてゴッホはこの部屋にゴーギャンを迎えることになる。

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ゴッホはアルルで知り合ったズアヴ兵ミリエ少尉の油彩画の肖像を三点描いているが、これはその一つ。前回紹介した「ズアヴ」の中のミリエ少尉とはかなり違うイメージに描かれている。「ズアヴ」のミリエ少尉はアルジェリア風のエキゾチックな服装と精悍な表情をしているが、この絵のミリエ少尉はフランス風の軍服に身を包み、表情は穏やかである。

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