壺齋小説

四月も終わり近く、小生はあかりさんを誘って伊豆に小さな旅をした。東京駅中央コンコースの新幹線改札口前で待ち合わせ、九時過ぎのこだま号に乗った。彼女は淡いグリーンのコットンジャケットにベージュ色のチノパンツをはいていた。座席に腰かけるといたずらそうな顔をして、
「今日は教員仲間の女友達と旅行すると言って出て来たのよ」と言った。
「女友達がいつの間にかむくつけき親爺に変わっていたというわけだね」
 そう小生が返すと、
「軽口をたたかないで。これでも娘には気を使っているんだから」とあかりさんは不平そうな顔を見せて言った。
 柳北居士の政府攻撃の手は五日間の自宅禁固に処せられたくらいでは引っ込まなかった。禁固の期間があけた後、以前に増して政府批判を強めた。末広鉄腸が自宅禁固から解放されると彼を朝野新聞の編集長に迎え、二人三脚で政府批判を続けた。その末広は井上薫に呼びつけられて政府の役職を提供すると言われたが、その懐柔を策せることを見抜いた末広は、断固その誘いを拒絶していた。そんな末広のジャーナリストとしての気概を柳北居士は高く評価したのである。
 学海先生は墨堤に居を構えたことで一人の友人を新たに得た。成島柳北である。柳北のことを先生は、郵便報知新聞の先輩栗本鋤雲からしばしば噂話を聞いていた。共に幕臣として幕末に活躍し、維新政府におもねらず、フランスにも旅行したことなど、柳北と鋤雲には共通するところが多かった。年は鋤雲のほうが十五歳も上だったが、鋤雲はこの年下の才子を非常に高く評価していた。しかし学海先生にとって成島柳北といえば、「柳橋新誌」の作者柳北居士として、つとに畏敬すべき存在だった。その柳北が墨堤に定めた住まいの近くに住んでいると知って、先生は早速厚誼を求めたのである。
 郵便報知新聞を舞台にした学海先生の活躍はそう長くは続かなかった。社長小西に迎えられた古沢滋が紙面を洋風の議論で埋めるようになり、それに伴って社員にも洋学者を多く用いるようになったため、学海先生のように漢学をベースにした議論は次第に浮き上がるようになってきた。そこで先生はもはやこの新聞社に自分の居場所はなくなったと感じて、自ら身を引いたのであった。時に明治八年三月十四日、採用されてからわずか四か月後のことであった。
 学海先生は高まりつつある不平士族の動きには批判的であったし、また板垣等の自由民権運動にもあまり理解を示さなかったようである。その当時の先生の日記には、そうした政治的な動きに触れた記事はあまり見られず、ましてやそうした動きに対して先生自身の考えを述べたものは皆無と言ってよい。先生が主に記しているのは会議所を舞台とした先生自身の活躍ぶりである。
 この年は桜の咲くのが早かった。三月中に満開になった。そんな折、英策から電話がかかってきて一緒に花を見に行こうと誘われ、三月も末に近い頃宮小路の家で会った。英策は花見用だといって、途中で買ってきたという弁当を二人分ぶら提げていた。我々は家を出て肩を並べて歩き、城址公園の方向へ向かって歩いた。途中中学校の隣にある酒屋で缶ビールを買い求め、城址公園に着くと空堀の土手の芝生に腰を掛けて、満開の桜を見ながら缶ビールを飲み、弁当を食った。春爛漫といった雰囲気だった。
 三月の半ば過、小生はあかりさんを誘って横浜に遊んだ。本牧の三渓園で梅を見、中華街でお昼を食べて、港の見える丘周辺を散策するつもりだった。
 東京駅の地下ホームで待ち合わせ、横須賀線の列車に乗りこんで横浜で降りると、駅前からバスに乗って本牧方面へ向かった。三渓園へは裏側の、海に面した方の出入り口から入った。バスを降りるとあかりさんの手を引き、細長い池を渡って出入り口をくぐる。小生の手を握り返すあかりさんは、この日は白っぽい色のコットンジャケットにライトブルーのスラックスといった軽快な服装をしていた。そんなあかりさんを小生は心楽しく導いて行ったのだった。
 明治六年十月政変はいわば武断派と官僚派の権力闘争の観を呈していたが、武断派が敗れて官僚派が権力を牛耳ったことは、全国の不平士族や攘夷派をいたく刺激した。彼らは岩倉や大久保を中心とする官僚派の支配を有司専制と批判し、中には実力を以てこれを排除しようとする動きも強まった。
 明治六年は征韓論の嵐が吹き荒れた年だったと言ってよい。留守政府をあずかる西郷隆盛が主導して征韓論を盛り上げた。西郷は自分自身が朝鮮への特使となって日本との国交を強要し、相手がそれを拒絶すれば、その非礼を根拠として韓国を攻めようと構想した。西郷の構想には、板垣退助、江藤新平、副島種臣の諸参議も同調した。この動きに対して米欧出張中の岩倉、大久保、木戸らは強く反対した。しかし海外にいてはどうすることもできない。このままだと西郷の暴走を許すと懸念した岩倉は、まず五月に大久保を九月に木戸を帰国させて西郷を牽制しようとしたが、西郷の暴走をとめることはできなかった。大久保も木戸も参議の職務を放棄して隠居同様の状態を決め込んでしまった。
 学海先生の日記に妾の小蓮が初めて登場するのは明治六年二月二十一日である。
「小蓮とともに梅を墨水の梅荘に見る」と言う記事がそれである。
 この日学海先生は小蓮を伴なって墨水の梅荘に梅を見に行き、そこで隠士と思しき三人が月琴・胡琴を演奏しているのを見た。興味を覚えて小蓮とともに聞き入っていると、更に別の一人が現れて一曲を弾じ、名を告げずして去った。
 この当時、墨堤は根岸と並び隠士の遁世地として知られていた。記事に見える人たちもそうした隠士のような人だったように思われる。面白いのは学海先生が妾を伴いながら彼らを見て感興を覚えたことである。妾を伴っていればおそらく気分は晴れやかだったろう。その晴れやかな気分で隠士が琴を弾ずる模様を見れば、いっそうのびやかな気持ちになったに違いない。学海先生にはそういった風雅を愛するところがあった。
 あかりさんと初詣をした後、しばらく彼女に会えなかった。というのも一月の半ば過ぎに約束していたデートに、仕事の都合で行けなくなって、それ以来すれ違いのような状態が続いていたからだった。デートに行けなかったくらいに忙しかった仕事とは他でもない。昨年の暮にあかりさんと京都へ旅行した後、船橋のマンションにT新聞の記者から電話がかかって来たと書いたことがあったが、それと大きなかかわりがあることだった。
 前回、学海先生が市民会議所にかかわるようになったいきさつを書いたが、その会議所がゼロから生み出されたような印象を与えたかもしれない。しかしそうではなかった。江戸には徳川時代に町会所というものがあって、一定の自治を行っていた。その最も大きな仕事は天災とか米価騰貴の事態に際して窮民を救済することであった。そのための資金として、町民から集めた七分積金と徳川幕府からの貸付金をあてていた。この町会所とその資金とが維新後もまだ存続していて、それをどうするか、特に巨額な資金の使途をどうするか、懸案となっていた。市民会議所はこの町会所の組織と資金を引き継ぐものとしての役割を期待されたのである。
 学海先生は三十日ぶりに佐倉へ戻った。家の様子を見るに、先日の台風で多少壊れたところはあったが、たいしたことはなかったので安心した。もう一つ気になっていた相済会社については、経営は相変わらず思わしくなかった。特に靴は作れば作るだけ赤字を増やした。当時の日本人はまだ靴を日常的に履く習慣がなかったからである。
 六月の晦日に椿村の治兵衛というものが宮小路に学海先生を訪ねて来た。用件は近日開講予定の郷校に教授として来てくれまいかというものだった。椿村というのは八日市場の東側に隣接する漁村で、旧佐倉藩領の一部であった。そこに新たに郷校を作ると言う。郷校と言うのは民間が自主的に運営する学校のことで、生徒のほとんどは庶民の子だった。運営がしっかりしている点では寺子屋を大規模にしたようなもので、今の小中学校の前身と考えてよい。
 明治五年の正月を学海先生はほとんど浪人の身で迎えた。仕事が全くなかったというわけではないのだが、正規の職業を持たなかったのだ。前年の暮、印旛県令になった河瀬修治から西村茂樹共々県への士官を勧められ、いったんは心が動いたが、結局それを断った。その後西村はじめ佐倉藩士の多くが臨時の印旛県庁が置かれた行徳に移り住んだが、学海先生は佐倉にとどまって、藩務の残務整理を続ける一方、旧藩士たちの授産事業を手がけていた。この授産事業は廃藩後に藩士たちやその家族が路頭に迷わぬようにと、旧藩主正倫公が出してくれた資金をもとに始めたもので、当初は西村茂樹が中心に運営していたが、西村が印旛県庁に行くに伴って、学海先生にその運営を託されたのであった。その仕事は無報酬であるから正規の職業とは言えなかったわけである。
 英策と成田山に初詣をし、宮小路の家で学海先生と話した日の数日後、小生はあかりさんとともに明治神宮に初詣をした。初詣をするとしたらどこがよいか彼女に聞いたら、彼女が明治神宮を指定したのだった。
 小説の草稿のコピーを区切りのいいところでその都度英策に送ってきたが、その感想を聞いてみたいのと、正月の初詣を兼ねて、小生は英策を誘って成田へ出かけた。いつか上野の谷中墓地を訪ねた時同様、乗る列車を示し合わせて、小生は船橋を十時頃に停車するその列車に乗り、英策は佐倉で乗り込んで来た。一番前の車両だ。これだと成田駅で降りた時に、改札口に一番近い。
 廃藩置県によって藩知事を免ぜられた旧藩主堀田正倫公は政府の方針に従って東京に居住することとなった。一方大参事以下の旧藩士は当分の間現職にとどまるべしとの指示が出された。学海先生もそのまま権大参事の職にとどまったが、いずれ近いうちに辞職するつもりでいた。もはや佐倉藩としての実体を失い、中央政府の出先と化したところにとどまるべきいわれはないと考えたからである
 学海先生の東京での生活は当初の見込みを越えて長引いた。その間先生は無為に過ごしたわけではない。東京の藩邸にあって藩の訴訟事項の裁定に当たっていた。その裁定ぶりの一端を前に紹介したところだが、更にいくつか紹介してみよう。それらを見ることで学海先生の司法感覚のようなものを窺い知ることができるだろう。
 明治四年の正月を学海先生は東京で迎えたので、元旦には礼服を着て皇居に参朝し、大広間で天顔を拝した。また四日には神祇官に赴いて三殿を遥拝した。先生はすでに集議院議員を解任されていたが、国家に特別の功があったとしてこれらの参拝を許されたのであった。それについては、先生の方も誇りのようなものを感じたらしい。新政府を牛耳る薩長の芋侍たちは気に入らぬが、国家の象徴たる天皇や神祇官には相当の敬意を表したのである。
1  2  3  4



最近のコメント

アーカイブ