ガザにおけるイスラエル国家のジェノサイドをめぐって、バイデンの言動ぶりの混乱が目立つ。イスラエルの自衛権を支持すると言う一方で、一般市民の安全を保障せねばならぬと言っている。ネタニヤフは、そんなバイデンの言うことを無視して、パレスチナ人の虐殺を楽しんでいるかのようである。バイデンがイスラエルを見放すことはないとタカをくくっているからだろう。バイデンが言っていることには、イスラエルにとって都合の悪いこともあるが、大局的にはイスラエルを支持してくれる。そう確信しているからこそ、安心してジェノサイドを進めているのだろう。
世界情勢を読む
雑誌「世界」の最新号(2024年10月号)が、「格危機の人新生」と題するサブ特集を組んで、核開発とりわけアメリカのそれが、地球規模の災害をもたらしていることに警鐘をならしている。核開発は巨大規模の核実験を伴い、その実験が周辺の住民は無論、周囲の環境、ひいては地球全体に深刻な影響を及ぼす。だから人類は、これを人類全体の生存の危機として捉え、そのコントロールに自覚的にならねばならないという。
雑誌「世界」の最新号(2024年10月号)に、「ドイツ『罪の克服』とはなんだったのか」と題する駒林歩美の小文が掲載されている。これは「イスラエルへの『偏愛』が生むレイシズム」という副題がついており、ドイツの異常なイスラエル贔屓の歴史的な背景について論じている。いま世界中を震撼させているイスラエルによるパレスチナ人の大虐殺(ジェノサイド)について、ドイツはアメリカと並んでイスラエルを支持し、パレスチナ人を殺すための兵器の提供を続けている。何がドイツをそれほどまでにイスラエル贔屓にするのか。
長崎市が原爆の日記念行事にイスラエルを招待しないことに、今度は日本を除くG7メンバー国の駐日大使が合同で批判メッセージを出した。イスラエルにロシアと同じ扱いをするのでは誤解を招くというのがその理由だ。ロシアは侵略者だが、イスラエルは自衛権を行使しているだけだ、という理屈である。だが、イスラエルがガザのパレスチナ人を相手にやっていることは、ジェノサイドであって自衛権の行使などではないということは、小学生でもわかることだ。
長崎市が原爆の日の式典にアメリカ政府を招待したところ、駐日米大使エマヌエルが出席を拒否した。理由は、イスラエルを招待しなかったことだ。長崎市がイスラエルを招待しなかったことは、イスラエルのいまやっているジェノサイドを考慮すれば、十分理解できることだ。それに対して駐日米大使がこのような行動をとるというのはどういうことか。聞くところによると、駐日米大使のエマヌエルはユダヤ人だということだ。彼の今回の反応は、ユダヤ人としてのイスラエルへの連帯感情から出ているのだろうか。
今年の原爆の日の式典をめぐる広島・長崎両市の対応は分かれた。広島がイスラエルを招待したのに対して、長崎は招待しなかった。そのことに対して駐日イスラエル大使が口汚くののしっている。長崎市は招待によって混乱が生じることを恐れて見送ったというが、それはでっちあげの理由だというのだ。
イスラエルの首相ネタニヤフが米議会の幹部に招待され、上下両院の合同会議で演説した。民主党の議員のほぼ半数と共和党の議員一人は欠席したが、ほぼ400人(535人中)の議員を前にネタニヤフは米国とイスラエルの同盟について語った。そのネタニヤフを、出席議員はスタンディング・オベーションで迎えた。それを見たものは、人間的な良心を持っていれば、いかがわしい眺めだと思わざるを得ないだろう。
「法を平等に適用しなければ、種としての人類が崩壊する」。これはカリム・カーンICC主席検察官がCNNのインタビューに答えて言ったことばだ。このインタビューの概要を、雑誌「世界」の最新号(2024年8月号)が掲載している。それについて、戦後責任論争で知られる高橋哲哉が解説を加えている。これらを読むと、人類社会もまだ捨てたものではないとの気にさせられる。なにしろ、プーチンについては、その蛮行を口を極めて罵っている「西側」が、イスラエルによるガザの大虐殺には目をつぶっている。そんなしらけた世相の中で、プーチンにしろネタニヤフにしろ、法の前では平等だ、犯した罪については、平等に裁かれなばならない、という当たり前のことを、カリム・カーンの言葉は、あらためて認識させてくれる。
カリム・カーンの応答には、悲壮さが感じられる。それは、アメリカやイスラエルの圧力があるからだろう。アメリカの議会は、カーンを直接名指しして非難し、彼自身ばかりかかれの家族にも制裁を課すと言っている。そうした圧力に屈するわけにはいかない。もし屈すれば、つまり、「私たちが不都合な真実をエアブラシで消すようなことをすれば、ガス室の犠牲者の名誉を傷つけることになります」とカーンはインタビューの最後で強調する。その言葉は、ICCがニュルンベルク裁判の結果を踏まえて生まれたという歴史的な事実を踏まえている。米英には「この裁判所はアフリカや、プーチンのような暴漢のために作られたものだ」と露骨に言うものもいるが、そうではなく、人類社会に正義を実現するためにある、ということをカーンは力強く言っているのだ。
高橋の解説は、ヨルダン川西岸において、イスラエル「国家と公的機関自体が違法行為を実行」してきたことに言及する一方、イスラエル政府のICCへの敵対行為についてスクープしたイギリスの新聞 The Guardianの記事を紹介している。そこで「ICCに対するイスラエルの九年間戦争(Spying, hacking and intimidation: Israel's nine-year 'war' on the ICC exposed)」と題するその記事を、ネット上に探し出して読んでみた次第だ。
イスラエルがICCへの敵対行為を始めたのは2015年のことだ。その年に、パレスチナが国連総会で国家として認められたことを踏まえてICCの構成国に加えられた。そのことは、イスラエルによる反人道的な行為をICCが取り上げる可能性を示唆した。じっさいICCは、ファトゥ・ベンスーダの指導のもとで、イスラエルの人道犯罪を調査し始めた。危機を覚えたイスラエル政府は、ありとあらゆる手段を使ってICCへの捜査妨害に乗り出した。それはきわめておぞましいもので、ベンスーダ個人とその家族の安全を脅かすものであった。だが、ベンスーダは屈しなかった。彼女の在任中にイスラエルの責任を問う具体的な動きには至らなかったが、彼女の業績があったおかげで、それを引き継いだカーンが今回の勇敢な行動に踏み切ることができた。
この記事を読むと、ネタニヤフらイスラエルの指導者らが、ICCに訴追されることを異常に恐れていたことが伝わってくる。それは、彼ら自身、国際法違反をしていると認識していたからだろう。ネタニヤフらは、イスラエルの諜報資源を総動員してICCの捜査を妨害し、また、アメリカにトラプ政権が登場してからは、アメリカ政府を巻き込んでICC非難を続けた。かれらは自分らの脅迫行為がかなり功を奏していると思っていたフシがある。だが、今回のカーンによる逮捕状の請求という行動を止めることができなかった。そうした経緯が、ガーディアン紙のこの記事には非常にわかりやすく書かれている。
岩波の読書誌「図書」の最新号(2024年7月号)に、西谷修の「ショック・ドクトリンとアメリカ例外主義」と題する小文が掲載されている。これは、ナオミ・クラインの著書「ショック・ドクトリン」の意義を論じたもので、ショック・ドクトリンとアメリカ例外主義との親縁性を指摘したものだ。ショック・ドクトリンは、惨事便乗型ビジネスとか災厄資本主義と呼ばれるような、資本主義の犯罪的な側面について説明する概念ということらしい。また、アメリカ例外主義は、アメリカは他国と同等なのではなく、古い秩序を超えた新世界だという主張らしい。そう指摘したうえで、この小文は、ショック・ドクトリンとはアメリカという新世界創設の原理だという。
11月のアメリカ大統領戦に向けて、バイデン大統領とトランプ前大統領のテレビ討論が、CNNの主催で催された。このイベントの意義についてはいろいろなコメントがなされているが、いまはそれを一切省き、この討論そのものの内容と、その政治的な意味合いについて考えてみたい。
国際刑事裁判所(ICC)が、イスラエルの首相ネタニヤフを戦争犯罪容疑で逮捕状請求した。南アフリカから提起されていた、ガザにおけるジェノサイドについての捜査要求にこたえたものだ。ネタニヤフのほか国防相のガラント、およびハマスの指導者3名にも逮捕状が請求された。これに対してネタニヤフ本人が激しく拒絶しているのはともかく、米大統領バイデンも反発している。例によって、イスラエルには自衛権があるという理屈からだ。バイデンが言うイスラエルの自衛権とは、イスラエル国家による無制限のパレスチナ人殺しの権利ということらしい。
イスラエルによるガザのジェノサイドに関連して、ニクァラガがドイツをICCに提訴した。提訴理由は、ドイツ政府がジェノサイド条約に基づくジェノサイド防止義務を怠っているというものである、なぜニクァラガが、イスラエルの最大の支援国であるアメリカではなく、ドイツを提訴したのか。わかりにくい部分があるが、ドイツもアメリカにおとらずイスラエルを支持しており、また、現在でも多額の軍事援助を続けているから、ドイツの責任を問うということについては、一定の理解はできる。なにしろドイツは、いっさいイスラエルを批判しないし、というか批判ができないでいる。それはなぜなのか、その謎に迫った小論が雑誌「世界」の最新号(2024年6月号)に掲載されている。橋本伸也著「歴史家論争2.0とドイツの転落」と題した文章である。
岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年5月号)が、「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」と題する小論(早尾貴紀著)を掲載している。この攻撃を西側諸国の主要な論調は、ハマスのテロへの反撃であり、イスラエル国家の自衛権の発動だとしながら、ちょっとやりすぎかもしれない、というふうに論じている。それに対してこの小論は、イスラエル国家によるパレスチナへの暴力支配の歴史に言及し、ハマスの攻撃はテロなどではなく、イスラエル国家の暴力支配に対する抵抗だと位置づける。そのうえで、イスラエルによるパレスチナ人への大量虐殺すなわちジェノサイドを強く批判する。
ハーバード大学の学長辞任騒動について、これは米国内での親イスラエル勢力の圧力によるものと、小生などは思っていたが、実はもっと複雑な事情があるらしい。その事情の一端を、雑誌「世界」の最新号(2024年4月号)に寄せられた一文が解き明かしている。「大学不信と多様性へのバックラッシュ」と題されたこの小文(林香里)は、米国内における保守派による大学の多様性へのバックラッシュがこの事件の真の要因であり、反ユダヤ主義云々という保守派の主張は、多様性への敵対を糊塗する言い訳のようなものだというのである。
雑誌「世界」の最新号(2014年3月号)に、今進行中のパレスチナ問題についての二つの投稿がある。一つは「パレスチナ・西岸に生きるということ~あるいは次の瞬間死ぬということ」と題する安田菜津子のルポルタージュ記事、もう一つは「ショアーからナクバへ、世界の責任」と題する高橋哲哉の講演記録で、こちらはイスラエルによるパレスチナ人迫害について原理的な考察を行っている。
岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年2月号)が「リベラルに希望はあるか」という特集をしている。いまどき何故リベラルを、しかもその希望を問題にするのか、それ自体が問題であるが、それはさておいて、この特集には、いわゆるリベラルは必ずしも人間にとっての希望と結びついていないのではないかという懸念が指摘できるようだ。
イスラエルのガザにおける虐殺を、南アフリカ政府がジェノサイドだと批判し、国際司法裁判所に提訴したことを受けて、ネタニヤフが奇妙な反論をしている。我々の行為は国際法にしたがったもので、かつ道徳的だというのだ。どうもネタニヤフにとっては、イスラエルのユダヤ人が行うことは、どんなことでも合法的であり、かつ道徳的な行為だということのようだ。
NHKは優れた教育映画作品を対象に日本賞を授与しているそうで、今年は50回目を迎えるという。そこでグランプリに輝いた作品をEテレで放映した。「トゥー・キッズ・ア・デイ」というタイトルだ。イスラエルにおいて、日常的に行われているパレスチナ人の逮捕監禁をテーマにしたもので、なかでも14歳未満の子どもを対象とした逮捕監禁をこの映画は取り上げてる。それを見ると、ヨルダン川西岸で暮らすパレスチナ人の厳しい境遇と、かれらを日常的に迫害しているユダヤ人の残酷さが伝わってくる。
雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)に、「国家が国籍を奪う 英国の経験」と題する小論(柄谷利恵子著)が掲載されている。近年のイギリスにおける国籍剥奪及び非正規に入国したものの第三国への移送問題などを論じたものだ。これを読むと、スーナク首相が進めている第三国(具体的にはルワンダ)への移送問題の本質が見えてくる。
ガザでジェノサイドの虐殺行為を続けるイスラエル軍が、ハマスによって人質に取られた自国民を殺害した。これについてイスラエル政府は哀悼の意を表するといっているが、いかにもしらじらしく聞こえる。ネタニヤフは先日自国民人質について、全員の命は保証できないという旨の発言をして、家族の怒りを買ったということだが、それがネタニヤフの本音なのだろう。
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