学海先生の明治維新その四十六

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 明治二年十月二十一日に会津藩士小林平格が学海先生を訪ねてきた。この男はこれまでも幾度か学海先生を訪ねたことがあった。最初に訪ねて来たのは同年一月二十六日だった。真龍院隠居慈雲院を名乗って面会を求めて来たのであったが、会って話を聞いてみると会津藩士で、同藩士林三郎の友人ということだった。林三郎は留守居仲間として親しくしていた男なので、学海先生はその友人というこの男に心を許した。用件を聞くと、佐倉藩にあずかり置かれている会津藩士と連絡を取りたいということだった。佐倉藩では新政府軍に降伏した会津藩士数名を預かっていたのである。
 学海先生は林三郎の近況について小林平格に問うた。林三郎は主君松平容保に従って会津に入ったが、その後新政府軍との戦いを経て降伏、いまは護国寺の謹慎所に収容されているという。このたび会津戦争の首謀者が詮議されるにつき、佐倉藩に預け置かれた者たちにも連絡したく思っておりましたところ、林三郎より貴殿を紹介されて参ったとのことであった。
 四月七日に訪ねて来た時には、一枚の絵を持参していた。それは会津藩士少年十七名が集団で自殺する場面を描いたものであった。飯岡山における白虎隊員の割腹自殺の絵である。それを見た学海先生は、あたら若き命がと同情したのであった。
 この日の用件は借金の申し入れであった。会津藩では藩主松平容保が謹慎を命じられた後その跡継ぎがどうなるか最大の懸案だったが、幸いに嗣子容大に家督相続が許され御家は断絶せずに済んだ。ついては近日参内して天子にお礼を申し上げねばならぬが、費用が乏しくその用意をすることができない。ここは貴藩から一千両を借用したいと思うので、まげてお貸し願いたい、ということであった。佐倉藩と会津藩とは特別の関係にあるわけでもなかったが、学海先生には会津藩の窮状に大いに同情するところがあり、ここはひと肌ぬいでやりたいという気持ちになった。そこで参事ら藩の幹部と合議してしかるべく取り計らうと答えた。
 学海先生は西村大参事と相談して、七百両を貸してやることにした。この当時の七百両がどれほどの価値なのか。ちなみにこの年の学海先生の所得は、年末の日記によれば四百三十両である。これは俸米を売却して得たものであるが、この四百三十両のうち八十両を来年の塩薪の費用つまり生活費、六十両を書籍購入費、三十両を借金返済、残りの百両を予備費に宛てると記している。とまれ学海先生の年収と比較しても、七百両という金がそう膨大な金額でないことは明らかである。つまり会津藩はそれほど窮迫していたということであろう。
 佐倉藩はなかなか気前がよくて、駿河藩からも借財を申しこまれて貸している。徳川氏の家臣団も主君が一大名に格下げされた後、俄かに窮乏に見舞われていたのである。
 なお会津藩は容大が家督相続した後、陸奥の下北半島に領地を与えられて斗南藩となった。この措置を会津藩主たちは当初は大いに喜んだ。藩の取りつぶしと藩士たちへの厳罰を予期していたところが、減封されたとはいえ一藩を与えられたからである。だがこの喜びはいくばくもなく絶望に変わる。その事情は学海先生とは全く関係がないのであるが、小生の父方の祖先にもかかわることなので、ここで簡単に触れておきたい。
 会津戦争終了後、藩主松平容保は東京へ護送されて監禁され、会津藩士四千名は東京各地の謹慎所に収容された。新政府は藩主及び藩士の処分をどうするか色々検討し、その結果盛岡藩から下北半島の領地を割譲させ、そこに会津藩を移封することとした。そのため生まれたばかりの容保の子容大に家督を相続させ、その子を新しくできる斗南藩主とした。斗南藩は三万石と言われたが、実質的には七千石しかなかった。
 この小藩で四千名の家臣団を養うことは到底できない。そこで藩では、北海道の開拓を斡旋したり、また藩士にそれぞれ自由な身の振る舞い方を許したが、かなりの規模の家臣団が新領地に移動した。
 その辺の様子は柴五郎の書「ある明治人の記録」に詳しい。会津藩士らは明治三年五月に斗南に入った。船で行くものと徒歩で行くものとに分かれ、順次斗南入りしたようだ。斗南の地は佐幕派の盛岡藩に対する懲罰として二戸、三戸、北の三郡を割譲させてこれを旧会津藩に与えたもので、斗南という名称は「北斗以南皆帝州」からとられたという。
 現地入りした者は田名部と野辺地に分割宿泊し、田名部に藩庁を置き、大参事山川大蔵を中心にして藩務を行った。
 藩務と言っても、現地は痩せた台地で、冬は雪に覆われる。そこを開拓しようにも見返りが期待できないし、藩の領民たちも貧しい暮らしをしている。そんななかでどうしたら藩士たちの生活が成り立つか、あまり明るい見込はなかった。藩務どころかみな自分が生きるのに精いっぱいだったのだ。
 柴五郎自身は、父親と共に現地の商人から借りた掘立小屋に住んでその年の冬を過ごした。この冬は餓死と凍死をのがれるだけで精いっぱいだったと柴五郎は言っている。栄養不良のために痩せ衰え、脚気の傾向が出てきて寒さが身に染みたという。空腹のあまり死んだ犬の肉を食ったこともある。その際に五郎はおもわず吐きそうになった。するとそれを見た父親が、
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来れるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言って、いさめられた。
 この苦しさは会津から斗南に移って来たすべての人が味わった。その窮状を自ら体験し、また人の苦しむさまを見た柴五郎少年の目には、これは新政府による残酷な仕打ちに映った。彼は言う、
「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて喜びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」
 柴五郎の少年時代のこの怨念が、西南戦争のときに西郷を相手に戦う情熱を支え、西郷が死んだときには泣いて喜ばしめたのである。もっとも西郷自身は会津戦争には直接かかわっていない。西郷は王政復古のあとすぐ薩摩に引き上げ、政治的にも軍事的にも表立った活動をしていない。会津戦争を直接指揮したのは土佐の板垣退助である。にもかかわらず会津人は、西郷を自分たちの仇敵と思い込んでいたのである。
 とまれ藩主の容大がまだ生まれたばかりの嬰児だったので、藩務は大参事山川大蔵が中心となった。その山川にも学海先生は小林平格の仲介で会ったことがある。その際に、金を貸してやったことに対する感謝を言われた。この金は戻ってくることはなかったようだ。また学海先生もそれを期待してはいなかったようである。
 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は、田名部で山川大蔵の直属の下僚となって、藩士たちの生活の面倒を見ていた。とはいっても自分自身も天涯孤独の身になって、頼るべきものがない状態で、他人のためにできることなどほとんどない。そんな状態で、ほうぼうに掛け合って米の買い付けとか借用に奔走した。また荒廃地の開拓を試みたりした。しかし米の買い取りに際して仲介人に騙されたり、荒廃地の開拓はほとんど絶望的な試みだとわかったり、全く意のようにならぬのに苦しんだ。
 だから脱落して江戸や会津に移り住むものも多かった。斗南では全く未来の展望が切り開けないような気がしたからだろう。しかしそのうちに藩そのものが消滅し、藩士としてここにいる動機がなくなった。廃藩置県が行われて、従来の藩が全く意義を失ってしまうのである。
 山川や藩の首脳は、廃藩置県で藩がなくなったことで、斗南にいる理由がなくなったので、続々と斗南を脱出し、江戸に移り住んだり会津に戻ったりした。小林平格は会津に戻って帰農した。この小林と学海先生は明治六年に最後に会っている。小林が東京に出てきて先生を訪ねてきたのだった。その折に小林は会津藩を襲った運命について感慨深く語った。学海先生はそれを聞いて、やはり深い感慨に打たれるのを禁じえなかった。佐倉藩と比較しても会津藩の運命があまりに過酷に感じられたのである。
 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は山川大蔵と行動をともにして東京に移住し、やがて設立されたばかりの陸軍に奉職した。彼はやがて陸軍兵士として鹿児島に赴き、憎き西郷と戦うのである。その戦いにはあの柴五郎も、また山川大蔵も加わった。





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