学海先生の明治維新その七十六

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 明治九年の秋から翌年の秋にかけての一年間は、いわゆる不平士族の反乱が各地に勃発した。まず明治九年の十月に熊本で神風連の乱と言われるものが起き、それに続いて福岡で秋月の乱が、更に山口で萩の乱が起った。翌明治十年になると鹿児島を舞台に西南戦争と称される大規模な内乱が起り、これが二月から九月まで続いた。これら士族の反乱に加えて農民を中心とした一揆も起った。出来て間もない維新政府は大きな危機に直面したのである。維新政府はこの危機を乗り越えることで、有司専制から踏み出して天皇制絶対主義体制を確立したというのが、大方の歴史の見方と言ってよい。
 士族の反乱が起ったことにはそれなりの理由がある。維新政府は発足当初から従来の武士階級の特権に対して冷たい態度をとってきたが、これが明治九年には一層露骨に現われた。三月には廃刀令が出され、八月には秩禄処分が行われた。これらの措置は、明治五年に出されていた徴兵令と相俟って、武士の特権を完璧に否定するものとして受け取られた。保守的な武士勢力がこれに強く反発するのは無理もない。その反発が一連の乱となって現われたのである。
 これらの乱の首謀者たちがいかに武士のメンツにこだわったかは、神風連の乱の場合に典型的に見られる。彼らは自分らが反乱を起こした理由を、廃刀令によって武士の魂である刀を取り上げられたことに求めているのである。我々武士からその魂と言うべき刀を取り上げるのは、我々に死を強いるに等しい。我々は坐して死を待つよりは、むしろ抑圧者と戦って死ぬことを選ぶであろう。
 このような極めて精神主義的なスローガンが、これら一連の武士の内乱を鼓舞したことは否めないのである。
 神風連の乱は十月二十四日に勃発した。この日の深夜、旧肥後藩士族太田黒伴雄を首魁とする敬神党と称する一団が熊本鎮台司令官や熊本県令をそれぞれ自宅に襲って殺害し、一気に鎮台のある熊本城を制圧せんとした。しかし早くも翌日には政府軍がかけつけて、反乱軍は鎮圧された。この乱に加わった士族はおよそ百七十名、うち百二十名が戦死し、残りは捕縛された。政府側は六十名の戦死者と二百名の負傷者を出した。
 この乱が勃発したとの情報を、学海先生は早くも二十六日にはつかんでいる。
 その日の日記に次のような記載がある。
「去る廿五日暁、熊本鎮台の兵営に賊徒あり。火を放ちて砲撃し、鎮兵大に敗走す」
 反乱を起こした者を賊徒と言っているのは、おそらく新聞記事の表現をそのまま転用したのであろう。その新聞記事について先生は、
「熊本兵乱の報、諸新聞に見へし事多少異同あれども大かたは同じ」と書いている。
 この乱から始まる一連の内乱を新聞はセンセーショナルに報道した。通信網が普及したおかげで、現地の情報がただちに東京へも伝わり、そのことで報道の速報性が飛躍的に高まり、人々の興味をいやおうなく掻き立てるようになったのである。ニュースの中でも内乱とか戦争にかかわるものは第一級の価値を持つ。先の大戦中でも、新聞は虚実取り混ぜて戦争の状況を報道し、そのことで発行部数を飛躍的に拡大させたものだ。人間同士の戦いはいつの時代でも第一級のニュースになるのである。
 この乱の首謀者や原因について学海先生は先生なりに分析している。
「この白河県に敬神隊・神風党なんどといふもとの士族あり。その数七百に及べり。この頃士族の常禄をやめられて皆金にかへ賜り、証券を下し付けらるるの事起りしかば、さしては貧苦に逼りて世を過しがたしと怨み憤りたるよし聞こへたるが、此月廿四日夜十一時、賊兵三手に別れ、かねて合図を為したりと覚えて、只一時に県庁・鎮台・電信局に馳せ向ひ、火をあちこちに放しかけ、煙の下より剣を抜きて斬て入る・・・かくて賊徒その勢百七十人ばかり、廿六日午前五時に至り、勢まとめて険悪の地により、兵営にて奪取りたる兵器・軍資を備へて官軍の至るを待といふ。或また、賊はかく働たれども、もとより深くたくみたる事にあらざれば、逃れ去るものあり、縛につくものあり、自殺してうするものあり、遠からずして平ぐべしともいへり」
 白河県というのは白川県の誤りで、当時は今の熊本県にあたる地を白川県と称していたのである。
 それはともあれ、この分析はかなり正確である。自分たちの従来の特権を犯され、それによって窮地に陥った士族たちが徒党を組み、政府に抵抗するために立ち上がったものの、もとより遠大な計画に裏打ちされたものではないので、そのうち簡単に鎮圧されるであろうと見ているわけであるが、これは当時の新聞の報道をもとに先生なりに導き出した結論なのだと思う。
 敬神隊・神風党と呼んでいるのは、この乱を起こした徒党のことである。この徒党は旧藩時代における派閥の一つ勤皇党を母体としたもので、成員の多くは神道の活動家たちであった。首謀者の太田黒自身神官であって、乱に加わったものの多くも神官だった。その神官たちが巨大な政府を相手に立ち上がったのは、一つには士族の特権を剥奪されたことへの恨みからだが、新政府が開国政策を推し進めて外国に屈していることが我慢ならなかったということもある。
 一方彼らに突然襲われた政府側の役人にはいいところがなかった。学海先生はその連中を腰抜けのように受け取ったようである。
「熊本の変不意に起りたれば、官員・吏人もあはてざるものなく、義勇をもて称せらるべき程のもの一人もあらず」と書いている。
 これに対して神風連の連中には雄々しい戦いぶりを示したものが多かったとして、学海先生はその例をいくつか挙げている。その一つに次のようなものがある。
「加藤栄太は烏帽子・直垂に太刀をはき、謙吾も大鎧に長刀つきて、倭だましゐあるますらをを見よや、日本つるぎのいやときをしれやとののしり叫びて戦ひしとなり。いと浅はかにもいとおかし」
 新風連の連中のいかにも時代がかった振る舞い方と、それを支える心意気が伝わってくるような書き方である。学海先生はこう書きながら、彼らに同情を寄せているように思えるのである。
 神風連の乱が起きてから三日後の十月二十七日には福岡県で旧秋月藩士たちによる乱が起きた。これは旧秋月藩士族宮崎車之助らが神風連に呼応して立ち上がったもので、四百名の同志を募って秋月党と名乗って挙兵した。神風連に呼応したといっても、どれほど連絡を取り合っていたかは明らかではない。おそらくたいした計画もないままに、隣藩で乱が起ったとの報を受けて、かねて政府に不平を抱いていた者たちが遮二無二立ち上がったというのが真相ではないか。
 秋月党はまず巡査らに戦いを挑んで鬨の声をあげ、ついで豊津へ向かった。豊津の不平士族らとかねてともに立ち上がらんと示し合わせていたためである。ところが豊津についてみると、秋月党に同盟していた勢力が押さえつけられていて、秋月党はかえって迎え撃たれる立場に陥った。豊津では、旧藩の中心勢力が政府との対立を避けて秋月党征伐に協力する意志を固めていたのである。
 政府側は乃木希典指揮下の小倉鎮台を出動させ、秋月党を攻撃した。秋月党は甘木山に立てこもって徹底抗戦の姿勢を示したが、多勢に無勢、宮崎ら幹部が自刃して総崩れになった。
 それでも今村百八郎ら二十数名は最後まで抵抗をやめず、秋月に戻って拘留されていた同志を救い出し、最期の戦いに挑もうとしたが、もはや大軍に敵することかなわず、今村らは逮捕された。彼らは即臨時裁判にかけられ、その場で斬首されたのである。
 熊本の神風連や、後の萩の乱に比べて、秋月の乱についての学海先生の言及は非常に少ない。次のような記事が見えるばかりである。
「秋月の賊は去る廿七日午後二時、俄に巡査に向て戦をはじめ、敵味方互に死傷あり。終に筑前に至り、甘木町をやく。この手は或は降れりとも聞へ、或は未だ盛に戦ふとも聞ゆ。すべて去る日に戦事にかかる電報は新聞紙にのするを許さざれば、たしかなることは知られずといへり」
 学海先生は秋月の乱にかかる情報が少ないということを嘆いているが、それは秋月に固有の事情だったのか、それとも他にも共通することだったのか、この記事からはよくわからない。
 神風連が神主たちによる極めてイデオロギー色の強い乱であり、また萩の乱が長州閥のおひざ元で起こったものであることに比べて、秋月の乱にはあまり派手な所が見られないことは否定しようがない。その地味なところがこの乱に人々の眼を集めることのなかった主な理由ではないか。
 とにかく秋月の乱には、計画性もなければ理念らしいものも見当たらない。日頃政府に対して不平を抱いていた連中が、周囲の事情に促されて暴発的に立ち上がったという印象を強く人に与えるのである。
 しかし、これは農民一揆にも該当することだが、当時の民衆規模の騒擾はみな偶発的に起きたものがほとんどで、そこに計画性や理念を求めることは、後追いの智慧のようなものかもしれない。





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