若年層を中心にテレビ離れが進んでいるそうだ。NHK放送文化研究所の最新(2020年)の調査によれば、平日に15分以上テレビを見た人は、10~15歳で56パーセント、16~19歳で47パーセント、20代で51パーセントという。この数字からは、若い世代の半数がテレビを見る習慣をもたないことが読み取れる。小生の感覚では、一日に15分ぐらいでは、テレビを見たことにはならないと思うので、若者のテレビ離れはこの数字が示す以上に深刻といえそうである。

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ルキノ・ヴィスコンティの1957年の映画「白夜(Le notti bianche)」は、ドストエフスキーの同名の短編小説を映画化したもの。この小説を小生は昔読んだことがあり、詳しい内容は忘れてしまったが、たしか女に惚れやすい男はバカを見るといった内容で、ある種の警告を込めたものだったというふうに覚えている。女に惚れやすい男は、要するにお人よし過ぎるのであるが、ドストエフスキーにはそうしたお人よしな面があったので、これはドストエフスキーの自戒のための作品だと受け取ったものだ。

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「会稽清趣図」と呼ばれるこの絵は、書聖王羲之が鵞鳥を愛したという故事に取材した作品。その故事を、「蘭亭序」で名高い会稽山にかけたもの。王羲之が会稽山の麓で、宴会を楽しむかわりに鵞鳥と戯れているというわけである。

桐野夏生の小説「東京島」は、戦後実際に起きた無人島集団生活事件をもとにしたということだ。もっとも小説の中では、そのことには触れられていない。あくまでも、ある集団が無人島に孤立して生活するとどういうことになるか、というような、いわば抽象的な問題設定から描かれている。そういう意味では、サバイバル小説と言ってよい。サバイバル小説の古典としては、有名な「ロビンソン・クルーソー」の話がある。クルーソーは個人のサバイバルをテーマにしていたが、この小説では、集団のサバイバルがテーマだ。その集団は、当然出身国の文化を背負っているので、かれらのサバイバルには文化的な色彩がまとわりついている。だから勢い、文化批判的な内容に傾きがちである。

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1864年のサロンに出展した「羊飼いの少女(Bergère avec son troupeau)」は、非常に好意的な反響を受けて、一等賞になった。コローの傑作「モルト・フォンテーヌ」を押さえての優勝だった。この作品によってミレーの名声はいやましに高まり、国民的画家と呼ばれるようにもなった。

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ルキノ・ヴィスコンティの1954年の映画「夏の嵐(Senso)」は、イタリア女の奔放な性愛を描いた作品。イタリア女は、フランス女に劣らず好色で、自分の性欲を追及するためにはすべてを犠牲にするほどと言われるが、そうしたイタリア女の破滅的な性愛を、オペラ的な雰囲気たっぷりに歌い上げた映画である。

ベルグソンは国際的な心霊研究団体の会長を勤めたことがあるらしく、1913年にロンドンで行われた心霊研究協会での会長としての講演記録が、「生者の幻と心霊研究」と題して、「精神のエネルギー」に収録されている。

「国民は、自宅で見殺しにされようとしている」と大書した二面打ち抜きの新聞広告を、出版社の宝島社が、読売、朝日、日経の三紙に掲載した。画面右上には「緊急事態」とあり、薄汚れたぬいぐるみのクマが仰向けに転がったそばに、コロナウィルスと思われる不気味な物質が忍び寄っている。

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ルキノ・ヴィスコンティの1948年の映画「揺れる大地(La terra trema: episodio del mare)」は、イタリア、ネオ・レアリズモの傑作と言われる作品。シチリア島の漁師たちの厳しい生活を描いている。貴族であるヴィスコンティが労働者の暮らしを取りあげたのは、その頃かれが共産党員だったこととかかわりがある。かれは共産党の後援のもとにこの映画を製作したといわれる。

「実践の哲学」という言葉をグラムシは、ほぼマルクス主義哲学と同義語として使っている。それには、獄中ノートへの官憲の検閲をほばかったからだとする見方もあるが、もっと本質的な理由は、レーニンを含めたマルクス主義思想の主流派と目されるものが、人間の認識を反映論によって説明し、その主体的な側面を軽視していることへの批判だと思われる。グラムシは人間の認識における主体的で実践的な側面を重視し、単なる客観主義ではなく、主観と客観とを深い相互関係において捉えようとした。そういう彼の基本的な態度が、マルクスの哲学を「実践の哲学」として位置づけなおすことにつながったといえよう。

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葛僊とは、神仙術の書として有名な「抱朴子」の著者葛洪のこと(僊は、仙人というような意味である)。葛洪は、日頃不老不死の術について研究していたが、不老不死の薬金丹を作るために、羅浮山に家を作って移り住んだ。その移居の様子は古来格好の画題とされ、多くの作品が作られてきた。鉄斎のこの作品もその一環に加わるものである。

失敗の本質

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「失敗の本質」は、副題にあるとおり日本軍の組織論的研究をめざしたものだが、これが出た時にはちょっとした反響を呼んだ。それまで日本軍は負け戦の責任を一身に背負って、大多数の日本人の怨嗟の的となり、まともに相手にされることはなかった。戦争の個々の部分について肯定的な見方をするものはいたが、トータルとしては、あの戦争は負け戦を宿命づけられていたのであり、その責任のほとんどは日本軍が負うべきものとされた。そんなわけだから、日本軍はまじめな研究の対象にはならなかった。ところがこの本は、日本軍はたしかに負けたとはいえ、その行動には、半面教師的なものも含めて教訓とすべきものがないとはいえない。とりわけ企業の経営者にとっては、組織を動かしていくという視点から、学ぶべき点が多い、と主張した。それが当時、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられていい気になっていた日本人に、新鮮に映ったのだろうと思う。小生自身は、これが出た時には読む気にもならなかったが、最近昭和の軍事史に興味を持つようになって、この本の存在を改めて知り、読んでみようという気になった次第だ。

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ミレーは、1860年に画商ステヴァンスと契約を結び、絵も売れるようになって、ようやく生活が安定してきた。だが、画風は以前どおりで、農民の暮らしぶりや田園の風景を描き続けた。金持ちの肖像を描くようなことはしなかった。

法然と親鸞

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仏教の思想シリーズ第十巻「絶望と歓喜」における著者対談のテーマは法然と親鸞の比較である。この二人の関係についての著者たちの見方は、増谷は連続性を重視し、梅原は断絶を重視したと言ったが、ここでは両者の比較が中心となるので、おのずから差異が意識的に論じられる。その差異を通じて、浄土宗と浄土真宗の相違も浮かび上がってくるようになっている。

米英豪の三カ国が新たな防衛協力AUKUSを結び、その目玉政策として米英が豪に原潜の技術供与(原潜の売却を含む)をすることになった。それに伴い、豪はフランスとの間に結んでいた原潜購入契約を一方的に破棄した。これにフランスが激怒し、米豪から大使を呼び戻す事態に及び、今回の米豪の措置は世界の安全保障に深刻な影響を及ぼすと警告した。

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2017年の韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」は、1980年5月に起きた光州事件をテーマにした作品。光州事件とは、朴正熙の暗殺、全斗煥による権力掌握、金大中逮捕と戒厳令施行などを背景に、韓国南部全羅南道の中心都市光州で起きた民主化運動を、全斗煥政権が武力によって弾圧した事件で、光州市民に多くの死傷者を出した。一説には、650人にのぼる死者・行方不明者を含め8000人近くの死傷者を出したといわれる。済州島事件と並んで、戦後の韓国史に汚点を残す権力による国民虐殺事件であった。

自民党の総裁選挙が告示された。四人の候補者が出揃って、マスメディアをはじめ日本中が大騒ぎになっている。この騒ぎが絶大な演出効果を発揮して、国民の関心は自民党に集中している感があり、そのことで野党の諸君はすっかり埋没するありさまである。一時は菅不人気で大ピンチに陥った自民党が、みごとに国民の注目の的となった。さすがに伝統ある自民党だ。

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鉄斎の梅華図双幅は、右隻が「寒月照梅華図」、左隻が「梅華満開夜図」という。どちらも梅花をモチーフにしたもので、右隻は専ら墨で描き、左隻は墨を基調にして、抑え気味の色彩を施している。墨は実に表情に富んでおり、まるで多くの顔料が混ざり合ったかのような、ある種の色彩感を感じさせる。

桐野夏生の小説は、複数の視点を絡ませながら、物語を立体的に展開するという特徴がある。いまでも小説の普通の書き方は、ある一定の(つまり語り手を含めた一人物の)視点から描くというものだが、桐野の場合には、登場人物の幾人かにそれぞれ別途に語らせ、その間に微妙な差異を持ち込みながら、全体としてつじつまのあうような物語にまとめあげる。このような複数の視点を小説に持ち込んだのは、とりあえずはフォークナーだったわけだが、それ以前ドストエフスキーが試みていた。ドストエフスキーの小説の手法は、さまざまな登場人物に勝手なことを言わせるというもので、それをバフチンはポリフォニーと呼んだ。桐野の小説、とくに「グロテスク」には、そのフォリフォニーの要素が強い。ポリフォニーによって構成された小説あるいは小説のポリフォニックな構成と言ってもよい。

トランプの最後の日々に、米軍のトップが踏み出した行動が大きなセンセーションを巻き起こしている。統合参謀本部長のマーク・ミリー将軍が、全米軍に対して、中国への核攻撃を命ずるトランプの命令には、自分の介入なしには一切従うな、と指令していたというのだ。これはワシントンポストへの寄稿者ウッドワードが近いうちに出版する本の中で明らかにしたことだが、その報道が伝わると早速大騒ぎとなった。まず当のトランプが怒りを爆発させ、いまは自分でやれることはないので、共和党の議員達に対して、ミリーを訴追して、反逆罪で裁けと喚きたてた。

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