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ミケランジェロは、ルネサンスを代表する美術家であり、また人類史に屹立する巨人だといえる。画家としてはダ・ヴィンチと並び称されることがあるが、彫刻や建築をも含めた総合的な芸術家としては、ダ・ヴィンチをしのぐと言ってよい。彼は史上最大の彫刻家としての名声に相応しいし、また建築の分野でも著しい業績を上げた。

今日のヨーロッパ人の文化は、ギリシャ文化とキリスト教文化を二大源流にしていると言ってよい。この二つの文化はかなり異なったものだ。ギリシャ文化を担ったギリシャ人は、人種的にはガリア人に近いと言われているから、ガリア人が属しているヨーロッパ人種に共通した文化を体現していたと思われる。それに対してキリスト教文化のほうは、ユダヤ人の中から生まれてきたもので、ユダヤ文化と共通する部分が多い。ということは、今日のヨーロッパ人の文化は、ヨーロッパ固有の文化にユダヤ起源のキリスト教文化が重なることによって形成されたと言える。この二つの文化のうち、キリスト教文化のほうが圧倒的な影響力を持ったので、いわばヨーロッパ人がキリスト教文化に染まることで、今日のヨーロッパ文化を形成したと言える。

初代宮内庁長官田島道治が残していた記録が公開された。それは「拝謁録」と総称される田島の私的なメモで、宮内庁長官に就任して以来五年あまりにわたり、昭和天皇とかわした会話の内容を詳細に記している。そこに何が書かれていたか、そういう問題意識に立って、NHKが二晩に渡って特集番組を組んだ。それを見たことで小生は、昭和天皇が自身の戦争責任をどのように考えていたか、認識を深めることができた。

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小泉堯史の2008年の映画「明日への遺言」は、大岡昇平の小説「ながい旅」を映画化したものである。原作は、一BC級戦犯の裁判をテーマにしている。東海軍司令官だった岡田資が、名古屋空襲中に捕虜になった米兵たちを簡易裁判で有罪にし、斬首して処刑したことが、戦争犯罪に問われた事件だ。岡田自身はこの裁判の結果絞首刑になったが、法廷で米軍による無差別空襲の非人道性を指弾し、また罪を一人でかぶるなど、人間として高潔な態度を終始とったことを、大岡なりの視点から評価した作品だ。映画は大岡のそうした意図を、よく表現し得ていると思う。

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京都の四条河原は、室町時代から徳川時代にかけて、芸能のメッカのような様相を呈し、河原に設けた舞台で様々な芸能が催された。この四条河原図屏風は、そうした四条河原での芸能の様子を、観客の表情ともども克明に描き出したもので、単に風俗画であるにとどまらず、芸能史の研究にも貴重な手掛かりを与えてくれる。

「キルプの軍団」という小説の題名は、ディケンズの小説「骨董屋」と関連がある。その小説の中にキルプという名の悪党が出て来て、それが小説の主人公である少女を迫害し、ついには死に至らせてしまう。その邪悪な人間の名を冠した連中が、大江のこの小説のなかでも悪行を働くというわけである。

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ジョルジョーネ(Giorgione 1477-1510)は、ヴェネツィア派を代表する画家で、非常に大きな影響力を及ぼしたとされるが、三十代の若さで死んだこともあり、残っている作品は多くはない。その中には、真偽の明らかでない作品も多く、一説には真筆と保証できるものは六点しかないともいう。

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赤目四十八滝とは、三重県の山中にある大小多くの滝の総称だそうだ。そこへ小生は行ったことがないが、この映画「赤目四十八滝心中未遂」で見る限り、なかなか見どころの多いところらしい。この映画は、そこを心中の舞台に選んだ男女の恋を描いているのだが、その恋というのが、なんとも言われず物悲しいのだ。

主体性をめぐるレヴィナスの議論はかなり錯綜しているように映る。というのもレヴィナスは、主体性を受動性と結びつけて論じるからだ。普通、主体性の対立概念は客体制であり、受動性の対立概念は能動性である。であるから主体性と受動性とは違ったカテゴリにーに属するといってよく、論理的には、主体性と受動性が結びつくことには破綻はないはずなのだが、それでも奇異な感を与えるのである。それは、哲学の伝統の中では、主体性が能動性と結びついて来た歴史があるからだろう。

徳川時代後期の思想家海保青陵は、新井白石と荻生徂徠を並べて称賛し、次のように言った。「凡そ近来の儒者、白石と徂徠とは真のものを前にをきて論じたる人、世の儒者とははるかにちがうてをるなり」(稽古談)。「真のもの」の意味は、空疎な理屈ではなく、真実すなわち現実的なことがらというほどの意味である。つまり海保青陵は、白石と徂徠とを実証的で地に着いた学問をした人として、並べて称賛していると考えられる。

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吉田大八の2014年の映画「紙の月」は、不倫にのめりこんで男に貢ぐあまり横領を繰り返した銀行員の話である。同じようなことが実際の事件としてあったので、それに触発されたところもあるのだろう。また、中年女が若い男に入れ込むことはよくあるようなので、これを見た観客には、思い当たるところがあるに違いない。

中央公論最新号(2019年9月号)が、「新・軍事学」という特集を組んで、その一環として「今なぜ徴兵制を論じるのか」という座談会を掲載している。参加しているのは三人で、そのうちの一人(女性)が先日公刊した本をきっかけにして、今なぜ徴兵制を論じるべきなのかについて議論している。それを読んだ小生は、聊かの同意をすると同時にかなりの違和感を抱いた。

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この図屏風は、歌舞伎の祖出雲の阿国を描いたもの。阿国は、一座を率いて四条河原などでやや子踊りとか歌舞伎踊りを披露していた。その踊りが後に歌舞伎に発展したといわれる。慶長八年には北野天満宮の能舞台を借りて常設の興行を始めた。この図柄は北野天満宮での興業の様子を描いたもので、おそらく慶長八年に近い時期に制作されたと考えられる。

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ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio 1449-1494)はミケランジェロが最初に師事した画家として知られている。当時の多くの画家同様、ギルランダイオとはあだ名で、花飾りという意味。父親のトマーゾが花模様の髪飾りを作っていたことから名づけられた。本名はドメニコ・ビゴルディという。

根拠の問題は因果的な思考につきものだ。根拠についての問いは、ある事柄がなぜそうであるのかについて問うことだが、その何故とは、結果についてその原因を問うことと同義だからだ。それゆえ因果的思考を追求した西洋哲学にあっては、根拠の問題は中核的な問題だったのだ。因果関係についての問いは、論理的な問いとして論理学の問題となる。したがって根拠律は論理学の重大な要素となる。論理学上の問題としての根拠をめぐる議論は、一つの法則として結実し、根拠律という概念を生み出すのである。

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題名の「百円の恋」からは、百円くらいにしか値しない恋といったイメージが浮かんでくるが、この映画のなかで描かれている恋は、別に金がどうのこうのというものではない。安藤さくら演じる女主人公が、ひょんなことから百円ショップに努めることになり、そこを舞台にして彼女の恋が展開する、ということらしいのだ。

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花見鷹狩図屏風は、左隻に武士たちの鷹狩の様子を、右隻に庶民の花見行楽の様子を描き分けたもので、桃山時代の風俗の一端をあらわしている。作者は、雪舟の後継者を自認していた雲谷等顔。等顔の画風は謹直なことが特色と言われるが、この作品にも線の描き方を始め、等顔らしい謹直さがうかがわれる。

大江健三郎は、自分の小説「キルプの軍団」に自分で注釈をつけて、これは少年が大人になるうえで経験しなければならぬ通過儀礼(イニシエーション)を描いたものだと書いた。興味深いのは、その少年というのが、高校生になった大江自身の次男だということだ。大江は、障害をもって生まれて来た長男については、「個人的な体験」以来、ずっと小説のなかで取り上げ続けてきたのだったが、次男について取り上げることは、主題的な形では一度もなかった。その次男を、高校生という微妙な時期に焦点を合わせて、初めて小説の主題的なテーマにしたのが、この「キルプの軍団」という小説なのである。しかもこの小説は、当該の少年自身の語ったこととして語られる。ということは、彼のイニシエーションが、第三者の目から見た形で語られるのではなく、少年自身の体験として生々しく語られるということだ。

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サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli 1445-1510)は、日本人には人気の高い作家で、ダ・ヴィンチやミケランジェロとならんでルネサンスを代表する芸術家として知られる。ボッティチェッリは、小さな樽と言う意味のあだ名で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピという。フィリッポ・リッピのもとで修業し、25歳の時に画家として自立した。

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東陽一の2010年の映画「酔いがさめたら」は、アルコール依存症がテーマだ。アルコール依存症になった男が、そのことが理由で妻子に去られたのだが、その妻子の励ましを受けながら立ち直ろうとするものの、アルコール依存症とは別の病気、癌で命を落とすところを描いている。その描き方がやや違和感を抱かせるように感じるのは、主人公のアルコール依存症患者の人格が、かなりゆるく描かれているためだろう。この男は、自分自身に甘えがあるのだが、その甘えを別れた妻子までが助長している。また、かれが治療のために入院した精神病院のスタッフや患者たちも、かれを励ます役割を果たしていて、これで立ち直れないようでは、どうしようもないと感じさせるからだ。実際、かれは癌で死ぬことになるわけだから、何のために治療を受けたのか、腑に落ちないと思わせるところが、この映画にはある。

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