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「浴女たち(Les Baigneuses)」と題するこの絵をクールベは1853年のサロンに出展したが、すさまじい反響を巻き起こした。それは否定的な反響であって、スキャンダルと言ってもよかった。裸婦の描き方が、あまりにもあけすけで、下品だと攻撃されたのである。なかには、こんなものをサロンに出させるべきではないという意見もあったが、この頃のクールベは無審査でサロンに出展する資格を持っており、誰もそれをとめることが出来なかったのである。

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李安の2007年の映画「ラスト・コーション(色、戒)」は、中国を舞台にした中国映画である。台湾人の李安についてこんなことをいうのは、かれが自分の国籍にとらわれず、外国人を主人公にした映画を多く作って来たからだ。この映画も、大陸の中国を舞台にしている点では、台湾とは異なった土地の出来事を描いているわけだ。李安は、台湾人でありながら台湾人としてのアイデンティティが希薄な監督である。その点では、台湾にこだわり続けた侯孝賢とは異なっている。

「道徳と宗教の二源泉」はベルグソンの最後のマスターピースであり、ベルグソン哲学の集大成というべきものである。この著作の直接の目的は、道徳と宗教の源泉について明らかにすることにあるが、その前提として、ベルグソンのすべての思想要素が総動員される。それを具体的に言うと、ベルグソンの人間観及び世界観ということになるが、それらを基礎付けているのはベルグソン独特の存在論・認識論である。ベルグソンの存在論は、存在を直観に還元するものであって、その点では唯心論の一バリエーションと言ってもよい。もっともベルグソン自身はそうは思っておらず、自分の存在論は意識の経験によって基礎付けられているというような、控えめな主張をする。ともあれベルグソンは、意識の直接与件から出発し、その与件すなわち直観を哲学の出発点に据えるわけである。その上で、人間の認識の構造を明らかにしていく。ベルグソンの認識論は、カントの認識論を換骨奪胎したもので、カントのカテゴリーに相当するものを、人間の記憶内容に置き換える。人間は自分の記憶内容をもとに、それを対象と関連付けることで、概念的な認識を獲得する、というのがベルグソンの認識論の基本的な構造である。それを支えるものとして、人間の意識の構造についてのベルグソン独自の見方がある。人間の意識をベルグソンは、持続として捉えた。持続というのは、意識の連続性に着目した概念で、人間の意識は過去と現在とが一体として統合されたものだと考える。ともあれ、「道徳と宗教の二源泉」と題したこの書物は、ベルグソン独自の存在論・認識論をもとにして、道徳と宗教の源泉について明らかにしようとする試みなのである。

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李安の2005年の映画「ブロークバック・マウンテン(Brokeback Mountain)」は、男同士の同性愛を描いた作品。李安は台湾人だが、台湾を舞台とした映画はあまり作っておらず、外国に出かけて行って作ることが多い。この映画もアメリカで作った。舞台設定からキャストまですべての面でアメリカ映画といってよい。

スラヴォイ・ジジェクは、21世紀の今時、共産主義の実現を声高に主張する珍しい人間である。「ポストモダンの共産主義」と題する書物は、そんなかれにとっての「コミュニズム宣言」ともいうべきものだ。ポストモダンという言葉を冠したのは、21世紀にも共産主義は有効だと言いたいからだろう。かれにとってポストモダンとは、21世紀をさしているようだから。

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「寄情丘壑図」と題するこの絵は、おそらく、晋書謝安伝の中の一節「安雖放情丘壑,然每游賞,必以妓女從」をイメージ化したものと思われる。謝安は字を安石といい、東晋の英雄として知られる。淝水の戦いでの勝利は有名である。英雄色を好むの喩えのとおり、つねに妓女を侍らしていたようだ。

「なぜ日本は<嫌われ国家>なのか」と題したこの本は、今の日本の置かれている状況を取り上げているのではなく、第二次大戦を戦った連合国から、当時の日本がどのように思われていたかを問題にしたものだ。要するに過去のことなのだが、そこで指摘されている日本のあり方は、本質的にはほとんど変わっていないので、いまでも何かをきっかけに、同じように嫌われることになるだろうという教訓のようなものを含んでいる。

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1850年のサロンに「石割り」とともに出展した「オルナンの埋葬」は、賛否に渡って大変な反響を巻き起こした。肯定的な評価は、民衆の姿に、1848年の革命における庶民のエネルギーを感じ、否定的な評価は、題材の卑近さが芸術を冒涜していると叫んだ。クールベ自身がこの絵につけた「オルナンの埋葬に関する歴史画」というタイトルが、従来の歴史画の常識を覆したからである。それまで歴史画というのは、歴史上の有名な事件をドラマチックに再現していた。ところがこの絵は、田舎の葬式を描いたに過ぎなかったのである。

日蓮を読む

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日蓮は宗教者であって、われわれ普通の日本人にとっては日蓮宗という鎌倉仏教の宗派を創始した人、つまり教祖という位置づけだろう。日蓮自身は、自分をそんなふうには思っておらず、あくまでも法華経の行者という意識を持ち続けた。もっとも晩年には、蒙古大襲来などもあって、日本の現状に対する危機意識が高じた余り、自分こそがその日本を救うべき人であり、日本人の師、父母であると言い、あげくは上行菩薩の生まれ変わりとしての日蓮大菩薩であると言うまでになった。

雑誌「世界」の最新号(2021年11月号)は、入管問題をサブ特集として取り上げている。先日名古屋の入管施設で、入所者のスリランカ人女性が死んだことがきっかけで、入管問題が世間の関心を呼んだことを踏まえたものだろう。その女性の死をめぐる事実関係の検証を中心に、日本の入管行政の遅れた体質を批判的に検討している文章が寄せられている。

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李安の2000年の映画「グリーン・デスティニー(臥虎蔵龍)」は、女剣士を主人公にしたアクション映画である。よく出来てはいるが、純粋な娯楽映画なので、あまり言うことはない。外的なことでいくつか気づいたことがあるので、それを述べる。

このところ円安が急速に進んでいる。原因はアメリカが金融緩和政策を見直し、利上げに踏み切っていることだ。そのため、ドルが買われて円が売られる事態が起き、それが円安をもたらしている。金利の差の拡大が、為替レートの変動につながるのは、経済の道理であるから、簡単に止めることはできない。止めるためには、日本も金利を上げる必要がある。だが日本には金利を上げることができない事情がある。

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「大江捕魚図」と題するこの絵は、明の文人唐寅の詩の一節をイメージ化したもの。唐寅は生涯仕官することなく市井の文人として生きたが、書画をよくし人々に愛された。その点では、市井の文人を自負して書画に励んだ鉄斎と境遇が似ている。また唐寅は、日本とも馴染みがあり、日本人にあてた手紙(贈彦九郎詩)も残っている。鉄斎は唐寅のそんなところに共感して、この絵を制作したのだと思う。

「奴隷小説」は、タイトルどおり奴隷的境遇に置かれた人間たちをモチーフにした連作短編小説集である。七つの小話からなっている。小話相互には関連性はない。時代もバラバラだが、一応日本人の身に起きたことを描いているようである。奴隷的な境遇は、過去においてはいざ知らず、現代日本においては、表向きは存在しないことになっているから、これらの小話のほとんどは、荒唐無稽な想像力の産物として受け取るべきかもしれない。だが、その割にリアリティを感じさせ、もしかしたらこれは現実に起きているのではないかと思わせることころに、桐野の筆の冴えがある。

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ボードレールが「悪の華」を刊行したのは1855年のことだ。それ以前のかれは、美術批評家として知られていた。サロンの批評を書く傍ら、フランス美術の歴史的な概観などを書いて、一部の美術関係者に注目されていた。そんなボードレールとクールベが、どのようないきさつで仲良くなったのか、よくわからない。1847年には互いに親しく出入りし、クールベはボードレースの肖像も描いた。

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李安の1995年の映画「いつか晴れた日に」は、ジェーン・オースチンの小説「分別と多感(Sense and sensibility)を映画化した作品。小説のタイトルがそのまま原題となっている。それを日本語版では「いつか晴れた日に」にしたわけだが、どういうわけかははっきりしない。

雑誌「世界」の最新号(2021年11月号)が、「反平等」と銘打った特集を組んでいる。「新自由主義日本の病理」という副題をつけているから、新自由主義批判だと思ったら、思想としての「新自由主義」への批判的な分析は見られず、新自由主義がもたらした負の側面が列挙されているといった体裁である。その中には、ジェンダー間の不平等とか、外国人差別といった、今の日本がかかえる深刻な病理現象への言及はあり、それなりに有益ではあるが、新自由主義への原理的な批判が欠けているので、いまひとつ迫力がないという観は否めない。

脳と思考についてのベルグソンの議論(「精神のエネルギー」所収「脳と思考―哲学の錯誤」)は、ベルグソン一流の物質と精神の二元論の一バリエーション、そのもっとも重要なバリエーションである。脳と思考の関係については、この二つのものが平行関係にあるとする考えが支配的である現状を指摘したうえで、ベルグソンはその錯誤を指摘する。こうした考えはデカルトの哲学からまっすぐに出てきたものだが、それはデカルトが、物質と精神を全く異なった二つの実体だとしたにかかわらず、しかもその間に一定の関係があると認めたことに根ざしている。二つの実体の間に特別な関係を認めなければ、精神と身体との相互関係とか、脳と思考の平行関係などという問題が提起されることはないというのがベルグソンの基本的な考えなのである。

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李安が1993年に台湾・アメリカ合作映画として作った「ウェディング・バンケット(The wedding banquet)」は、アメリカを舞台にした台湾人とアメリカ人とのホモ・セクシャルをテーマにした作品。それに台湾人の親子関係をからませている。テーマは深刻だが、描き方はコメディタッチである。

今日ではグラムシは忘れられた思想家として扱われている、と先に述べた。このまま再び取り上げられることなく、忘却の闇の中へと消え去ってしまうのであろうか。それとも復活するチャンスはあるのか。もしグラムシに復活するチャンスがあるとすれば、それは二つの条件を満たす場合である。一つはグラムシが絶対的なものとして設定した社会主義の実現が現実味を帯びて迫って来ること、もう一つはその社会主義の実現主体として労働者階級が役割を果たす覚悟を決めることである。この二つの条件がともどもに前景化して人々の意識を捉えるようになったとき、グラムシの思想は再び脚光を浴びることになるであろう。

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