2010年のトルコ映画「蜂蜜(セミフ・カプランオール監督)」は、農村部に暮す一少年の日常を描いた作品。トルコの農村地帯の豊かな自然を背景に、家族の絆とか子どもの世界が情緒たっぷりに描かれており、心がゆったりとさせられる映画である。
加藤周一の論文「科学と文学」は、文字どおり「科学と文学」の関係を、「知る」、「感じる」、「信じる」という人間の三つの能力と関連させながら論じたものだ。かならずしも厳密な議論とは言えず、啓蒙的な狙いをもった文章である。その中で加藤は、科学と技術、技術と社会、社会と文学といった、いくつかの対立軸についてざらっとした見取り図を提示している。その見取り図には新奇なものは見当たらないが、一つ面白いのは、それらに関連させて彼が独自のマルクス観を語っている部分だ。

先日、上方歌舞伎の人気者片岡愛之助の「女殺油地獄」をNHKのテレビ放送で見て、いたく感心したところだったが、今度は上方歌舞伎の総帥にして、人間国宝に措定されている片岡仁左衛門の特集をやるというので、是非もなく見た次第だ。「松浦の太鼓」をノーカットで放送するほか、仁左衛門が過去に演じた当たり役を紹介していた。仁左衛門の当たり役として人気があるのは、愛之助も演じた「女殺油地獄」の与兵衛とか、「菅原伝授手習鑑」の菅丞相などがあるそうだ。

キュクロプスはギリシャ神話に出てくる単眼の巨人族。火山ないし鍛冶屋の神といわれるが、ホメロスの「オデュッセイア」には旅人を食らう凶暴な怪物として描かれている。ルドンのこの作品は、キュクロプス族の一人ポリュメーモスが、ガラテーアという娘に恋い焦がれるさまを描いている。

2018年の韓国映画「はちどり(キム・ボラ監督)」は、思春期の少女を描いた作品。1994年に時代設定されているが、現代の韓国社会と受け止めてよいのだろう。その韓国社会は、希薄な人間関係と、その裏返しとして競争の激しい社会であり、そこで大人になるのはつらい体験だというメッセージが伝わってくる。
「正法眼蔵」第三「仏性」の巻は、仏教の根本思想の一つ「仏性」について説いたものである。「仏性」とは、仏になるべき可能性とか素質とされているもので、誰にも生まれながらに備わっているとされる。大乗仏教の経典の中には、仏性は人間のみならず、ほかの生き物、更には草木国土にまで備わっていると説くものがある。道元もまた、人間以外のものを引き合いに出しながら「仏性」を説いているので、基本的にはありとあらゆるものに仏性が備わっていると考えていたといえる。だが道元には一方で、仏性は無為にしては現成せず、修行によって始めて現成するという思想もあり、一筋縄ではいかないところがある。
今日(5月28日)、小生はいつものとおり近所の長津川公園を散策していたところ、水路にカルガモの親子を見かけました。当初は土の盛り上がった場所でくつろいでいたのですが、そのうち水の中に入って泳ぎ始めました。子ガモたちは好奇心旺盛で、草やコケ類をついばみながら、いろいろな冒険を楽しんでいます。母ガモが羽ばくまねをすると、子がもたちもそれを真似して羽ばたきます。その様が愛らしかったので、動画に撮影しました。

(表参道KEYAKIビル)
メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の論文「間接的言語と沈黙の声」は、サルトルに捧げられている。この論文が書かれたのは1952年のことで、その年二人は決定的に別離した。そういう背景を念頭に読むと、この論文がサルトルへの批判を含んでいると思わせられる。もっともサルトルを直接取り上げたものではなく、サルトルの名はことのついでのように出てくるだけなのであるが、この論文の主要なモチーフの一つが歴史ということであれば、その歴史の解釈をめぐって、両者の間に溝があることは納得される。

「セーラーカラーをつけたアリ・ルドンの肖像(Portrait d'Arï Redon au col marin)」は、ルドンの次男アリをモデルにした作品、ルドンは、長男のジャンを1886年になくし、深い悲しみにとらわれたのだったが、1889年に、50歳を前にして次男を得た。この子を得たことで、一時衰えた創作意欲が復活したという。
大岡昇平が「堺港攘夷始末」を書いたのは最晩年のことであり、その完成を見ずに死んだ。もっとも書こうと思ていたことの九分ほどは書いたと思われる。書き残したのは、この事件についての大岡の総括的な批評であったようだ。大岡は本文の中でもそうした彼自身の批評を折に触れ加えているから、大岡が当初意図したこの作品の構想は、大部分果たされたといってよいのではないか。だから、この作品は一個の独立した史論として読んでよい。

地下鉄銀座線の表参道駅を出ると、まず目に入るのが青山パラシオタワーです。この建物は、表参道と青山通りの交差点南西角に位置しており、地下鉄駅とは直接つながっています。ですから、地下鉄駅から表参道にアクセスするさいには、最初に眼に入るというわけです。この建物は、スペインの建築家リカルド・ボフィルによって設計され、1999年に竣工しました。以後、表参道のランドマークとしての役割を果たしてきました。

2020年の韓国映画「KCIA南山の部長たち(ウ・ミンホ監督)」は、1979年に起きた朴正煕暗殺事件をテーマにした作品。これはKCIA(韓国中央情報部)の部長金載圭(映画では金規泙キム・ギョピョン)が起こしたものであるが、事件の動機や背景など全貌はよくわかっていない。個人的な怨恨が原因だとか、朴正煕独裁政権の転覆を狙ったアメリカの意向によるものだとか、いろいろ憶測が飛んだが、いまだによくわかっていない。

先日親しい友人たちと小宴を催した折、参加者の一人が東京の現代建築について蘊蓄を披露したことがあった。小生も建築には興味を持っていて、とりわけ建築遺産と呼ばれるものについては、自分自身のサイト「東京を描く」のなかで、特設コーナーを設けて論評しているところである。現代建築は、建築遺産と呼ばれるものとは自ずから趣を異にはするが、なかなか関心をそそられるところもある。そこで小生は、その男の刺激もあって、東京の現代建築を見歩いてみようという気になったところだ。その男が言うには、東京のなかにも表参道界隈は、有名な建築家のデザインしたユニークな建築物が櫛比し、さながら現代建築の展示場の観を呈しているそうだ。そこで小生は、初夏のすがすがしい一日を、表参道界隈をぶらついて、現代建築物を見歩いた次第である。以下、その印象を、写真を添えながら語りたいと思う。

一時期のルドンは、聖書に取材した宗教的なテーマを描いた。「聖心(Sacré-Cœur)」と題するこの絵もその一つ。キリストのイメージをストレートに表現している。キリストをモチーフにした作品には、受難とか悲しみといったものを表現するものが多いのだが、この作品は、タイトルにあるとおり、キリストの心を表現している。

2019年の韓国映画「長沙里9.15」は、朝鮮戦争の一こまを描いた作品。北に攻め込まれた南側を助けるため、アメリカ軍が仁川上陸作戦を決行する。この作戦は、戦争全体の帰趨に決定的な影響を及ぼすのだが、それを成功させるために、南側が陽動作戦を実施する。それは、朝鮮半島南東部の長沙里に上陸して、北側の注意をそらせている間に、仁川上陸を成功させようとするものだった。問題なのは、その上陸を担ったのが、南側の正規の軍隊ではなく、急遽かき集められた学生たちだったということだ。その学生たちが、まったく訓練も受けず、ろくな用意もないまま、決死の突撃を繰り返す。常識ではありあないと思われるこの話は、実際にあった話だというので、小生などはびっくりさせられたところだ。
加藤周一は日本の戦後文学を1945年から1975年までの30年間に設定している。その時期の前半は経済復興期にあたり文学も活発だった、後半は経済的な繁栄がもたらされた時代だが、文学は独創的な活気を失った、と加藤はいう。この時期全体を通じていえることは、アメリカの圧倒的な影響である。その影響は政治・経済・軍事・情報・学問・大衆文化の、ほとんどあらゆる領域にわたる。「これほど広範な領域で、日本国が特定の外国へ依存したことは、一九四五年以前にはなかった」。
岩波の雑誌「世界」が、「メディアの『罪と罰』」と題した連載を行っている。これは、朝日出身のジャーナリスト松本一弥による、いわばジャーナリストとしての自己批判のようなものだが、最新号(2023年6月号)の二回目では、「権力者の無責任な言動を追認するメディア」と題する記事を寄せている。

ルドンは、1880年代の半ばごろに、本格的な油彩画の制作に励むようになった。石版画の制作もやめたわけではない。1890年代半ばごろまで石版画の制作を続けている。だが主力は次第に油彩画のほうに注がれるようになった。「アベルとカイン」と題されたこの作品は、かれの本格的な油彩画の初期の傑作である。
今回のG7は日本の岸田首相が議長を務めたということもあって、岸田首相の人格を感じさせるものとなったのではないか。岸田首相には、核なき世界と言いながら、実際には核抑止を信じているというような、分裂した言動が指摘されるのであるが、今回はそうした岸田首相に呼応するかのように、支離滅裂な会議になったというのが小生の受けた印象である。
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