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チャプスイ(Chop suey)とは、アメリカ流中華料理の店。広東出身の中国人が、アメリカで広めた中国料理の名称が、そのまま中国料理全体を代表する名前になった。チャプスイ自体は、肉と野菜をいためてとろみをつけた料理という。

「中論」の第二章は、「運動(去ることと来ること)の考察」と題して、八不のうちの「不去不来」を表面上のテーマとしているが、そのほかに「不一不異」はじめ八不全般に共通する問題を取り扱っており、「中論」の思想の中核部分の表明というふうに受け取られてきた。

コロナの第七波が爆発的な広がりを見せている。連日20万人から30万人の感染が報告され、いまや、世界でもっともひどい状況に陥っている。一時は、世界でもっとも感染が少なく、優等生と言われていた日本が、なぜこんなことになってしまったのか。その疑問に答えてくれそうな見解を、雑誌「世界」の最新号(2022年9月号)で読んだ。

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沖田修一の2020年の映画「おらおらでひとりいぐも」は、若竹千佐子の同名の小説を映画化したもの。かなりな脚色を施している。原作は、老女がただひたすらに亡夫を追憶するというもので、全くと言ってよいほど劇的な要素はなく、そのままでは映画にならない。だから脚色を施すのは無理もない。だがあまり不自然さは感じさせず、原作の雰囲気を大きく損なっているわけではない。原作の読ませどころは、東北弁でまくしたてる老女の独白にあるのだが、映画ではその老女を田中裕子が演じていて、なかなかの見せ所を作っている。

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萬鉄五郎は1919年に、東京から神奈川県の茅ケ崎に転居した。「風景」と題するこの絵は、茅ケ崎のどこかの風景を描いたものだろう。のんびりとした田舎道や農家の屋根の点在する眺めを描いたものだ。

徳田秋声のやや長目の短編小説「元の枝へ」は、いわゆる山田順子ものの嚆矢となる作品である。秋声が妻のはまを病気で失ったのは1926年1月のことであったが、山田順子は弔意を示すために秋声のもとを訪れ、そのまま家に居ついてしまった。秋声はそんな順子との同棲生活をさっそく小説の題材にしたわけである。順子との同棲自体がスキャンダラスなことであったが、それを小説のネタに使ったことで、スキャンダルはいっそうグロテスクな様相を呈した。なにせ妻が死んですぐに別の女を家に入れ、その女との間の痴情をあからさまに描いたのであるから、いくら日本が私小説天国とはいえ、あまりにもえげつないと思う人が多かったのである。

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ホッパーは、鉄道の線路を繰り返し描いた。それも都会の鉄道ではなく、大草原地帯を走る線路だ。ホッパーはそれに、文明と野生との交わりを見たのだろう。ホッパーはアメリカの大都会の空気にずっぽりつかりながら、自然を描くのが好きだった。しかしその自然は、ありのままの自然ではない。なんらかの形で人間との交わりを感じさせる自然だ。

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万田邦敏の2008年の映画「接吻」を、小生が見る気になったのは、小池栄子が主演しているからだった。小池栄子は目下NHKのドラマ「鎌倉殿の十三人」に、北条政子役で出ていて、なかなか見せる演技で楽しませてくれている。そこで、彼女の若いころの映画を見たいと思っていたところ、この映画の評判を聞きつけたというわけだった。

大谷翔平選手が、大リーグ104年ぶりの大記録となる快挙を成し遂げたというニュースが伝わってきて、それを喜んだ日本人の一人が小生だった。とにかく素直に喜びたい。なにしろ、野球の神様といわれたあのベーブルースが、1918年になしとげた記録(投手としての10勝と打者としての10本塁打以上)を104年ぶりに達成したのだ(1918年のベーブ・ルースは、投手として13勝、打者として11本塁打)。

日本でサルトルが流行したのは1950年代から1960年代にかけての十数年間のことで、1970年頃には誰も気にかけなくなってしまった。そんなわけか、サルトルについての本格的な研究書は、日本では書かれなかった。竹内芳朗が1972年に「サルトル哲学序説」(筑摩叢書)というのを出していて、これが日本ではほとんど唯一といってよいサルトル入門書であるが、これを読んでもサルトルの思想は伝わってこない。著者の竹内が、サルトルの名を借りて、サルトルとは関係のない、自分自身の思いを語っているからだ。

明治維新からアジア・太平洋戦争の敗戦にいたる時期の日本の右翼は、国内的には皇道主義、対外的には侵略主義を特徴としていた。その日本の侵略主義をもっとも強く体現していたのは、玄洋社の頭山満である。頭山には大した思想性はないが、あえて言えば、西郷隆盛の影響を強く受けていることである。西郷の思想は、簡単に言うと道義主義と対外膨張主義ということになるが、頭山はそのどちらをも受け継いだ。道義主義は皇道主義という形をとり、対外膨張主義はアジア主義という形をとった。

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2002年の映画「OUT](平山秀幸監督)は、桐野夏生の同名の小説を映画化した作品。桐野の原作を小生も読んだが、すさまじい迫力を感じたものだ。その迫力は、主人公雅子のニヒルな生き方から伝わってくるものだ。だから、映画化にあたってはキャスティングが大事だと思うのだが、この映画で雅子を演じた原田美枝子は、無論すぐれた女優には違いないが、雅子を演じる柄ではないようだ。原田の顔は、どちらかというと可憐さを感じさせるほうだし、不幸な女性の哀愁を感じさせもする。ところが原作の雅子は、そういったものとは全く無縁なのだ。

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「裸婦」と題するこの作品は、キュビズムの影響を感じさせるが、単なる模倣ではなく、萬なりの解釈を施してある。そのことは、技法的にはキュビズムを取り入れながら、全体としての印象は、なるべく具象的なイメージを尊重するところに現れている。

森政稔の著作「迷走する民主主義」は、前著「変貌する民主主義」の続編のようなものかと思って読んだ。前著は、民主主義についての、森なりの視点からする原理的な考察だった。そこで森は、自由主義と民主主義の関係について触れ、両者は調和的な関係ではなく、緊張関係にあるとしたうえで、冷戦終了後の新自由主義全盛の時代を迎えて、民主主義が形骸化していく傾向に警鐘を鳴らしていた。本著は、そうした問題意識の延長で、今日の民主主義が直面する課題をいっそう掘り下げて議論しているのではないかと思って、読んでみたのであった。

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オートマットとは、自動販売機を設置したセルフサービスのレストラン。1920年代のアメリカで流行った。この絵は、そのオートマットでコーヒーを飲む一人の女性を描く。モデルはホッパーの妻ジョー。ジョー自身は、彼女をモチーフにした裸婦像からうかがわれるように、女性的で豊満な肢体だったが、この絵の中の女性は、やせぎすで、ボーイッシュに見える。この時ジョーは44歳になっていたが、絵の中ではずっと若く見える。

中論は全二十七章からなるが、その全体の序文のような位置づけで、「帰敬序」という文章が冒頭に置かれている。次のようなものである。

小生は日頃、Movable Typeを使ってブログを運営しているのだが、昨日(2022年8月6日)、定例更新のために管理画面にアクセスしようとしたら、次のようなエラーが出て、アクセスできない。
 Connection using old (pre-4.1.1) authentication protocol refused 
(client option 'secure_auth' enabled)
どうやら、古いパスワードを使っているのが理由ということらしいが、どうしたら問題が解決できるのか皆目見当がつかない。このままだと、二度とアクセスできなくなるのではないかと、冷や汗をかいたものだ。

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1949年の中国映画「カラスと雀(乌鸦与麻雀)」は、国共内戦末期における上海を舞台にして、横暴な支配者に苦しめられる中国庶民を描いた作品。横暴な支配者とは、国民党一派であり、その腐敗した政治とか公私混同によって、中国の庶民は塗炭の苦しみを舐めさせられているといったメッセージが強く伝わってくる映画である。公開されたのは、毛沢東が新国家建設を宣言した1949年10月1日より一か月あとのことであるが、制作は10月以前からなされていたらしい。それでも、国民党を否定的に描いているのは、共産党の勝利がゆるぎないものと思われていたからだろう。

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「薬缶と茶道具のある静物」と呼ばれるこの絵は、萬鉄五郎の静物画の到達点を示すものだろう。日常の食器をなにげなく並べながら、そのフォルムには大胆なデフォルメを施し、しかも妙な躍動感を表現するなど、遊びの精神が感じられる。

徳田秋声は非常に多産な作家で、数多くの長編小説とともに短編小説もかなり書いている。長短編を書き分ける作家には、長編小説を中心にして、一編の長編小説をかいたあとに、次の長編小説にとりかかるための息抜きのようなものとして短編小説を書くというタイプが多い。息抜きという言葉が適当でないなら、ウォーミングアップといってもよい。村上春樹などは、次の長編小説へのウォーミングアップとして短編小説を書くと言っている。

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