旧優生保護法にもとづいて障害のある人たちに強制的な不妊手術が行われてきた問題で、被害者の救済を目的とした議員立法が成立した。その法律の前文には、「我々」を主語とした反省の言葉が書かれている。そのことについて、被害者やかれらを応援する人の中から、「我々」とは誰をさすのかという疑問の声が起っているという。かれらの考えでは、この問題の本当の責任者は、優生保護法を制定した国であり、また被害者の苦痛を放置してきたのも国であるからして、反省と謝罪の主体は国であるべきだ。したがって「我々」などと曖昧な書き方をするのではなく、国と明記したうえで、国を主語として謝罪と反省の言葉を述べるべきだということになるようだ。

19世紀末から20世紀前半にかけて、ユダヤ人から多くの天才といわれる人々が輩出した。フロイト、アインシュタイン、ウィトゲンシュタインといった人々はその代表的なものであり、また世界のノーベル賞受賞者の四分の一はユダヤ人である。わずか一千万人ほどの人口規模しかもたないこの民族がなぜ、かくも多くの天才・秀才を生み出したのか。さまざまな憶測がなされている。その中には、ユダヤ人の人種的な優秀性を指摘するものもあれば、ユダヤ人の教育システムの効率性を指摘するものもある。そんななかで最も即物的な説明をしているのが、当のユダヤ人であるハンナ・アーレントだ。

西欧哲学におけるレヴィナスの意義は、他者を主題的に論じたことだ。その論じ方は極めて徹底していた。レヴィナス以前にも他者を論じたものはいたが、それらは他者を私によって構成された対象の一種として見ていた。初めて他者を本格的に論じたといえるフッサールにおいてそうだったし、また、他者を共同現存在として、私とともにすでにこの世界に投げ出された所与であるとしたハイデガーにおいても、他者が存在の一類型として、したがって結局は私によって構成されたものとして捉える限りにおいては、やはり他者をそれ自体として絶対的な存在者とはみていない。ハイデガーのいう存在とは、私の思考から生み出されたものなのであり、その限りで私の意識による構成の産物だからだ。

日頃NYTをフェイク・ニュースだといって攻撃しているトランプが、今回は史上最大級といってよい攻撃を、ツイッター上でNYTに加えた。その鼻息は荒い。NYTは、自分を侮辱したかどで、自分に対して二度目の謝罪をすることになる。それは生半可なものではない、我が前で膝を屈して、我が慈悲を乞わねばならない、というものだった。

宝永五年(1708)十月、イタリア人宣教師シドッティが屋久島に上陸し、長崎を経て翌年江戸に移送されてきた。その頃幕府の要職にあった新井白石は、数回にわたってシドッティを尋問し、それにもとづいて幕府としてとるべき措置を上申した。それは三つの選択肢からなっていて、本国送還を上策、監禁を中策、処刑を下策としていたが、幕府がとった措置は中策の監禁であった。シドッティは茗荷谷の切支丹屋敷に監禁され、正徳四年(1714)十月に死んだ。

jap67.camera2.JPG

上田慎一郎の「カメラを止めるな!」は、ゾンビ映画の傑作だとして内外で結構話題になった。ただのゾンビ映画ではなく、楽しめる工夫がなされている。その工夫がいかにも映画らしい工夫なので、話題性がいっそう高まったのだと思う。その工夫とはメタ映画ともいうべきもので、前半でゾンビコメディのフィルムを紹介しておいて、後半でそのフィルムができるまでのプロセスを公開するというものだ。

先般イスラエルで行われた総選挙で、汚職疑惑などがもとで劣勢を取りざたされてもいたネタニアフが、与党リクードの勝利の結果、五期目の首相を務めることになった。このことの背景には、トランプによるネタニアフの強力な応援とか、経済を始め好調な国内情勢とかが指摘されもするが、根本的な要因はイスラエルのユダヤ人が極右化しているということだろう。ネタニアフはそうした動きを反映しているに過ぎない。これは、トランプがアメリカ国民の右傾化傾向を反映しているのと似たような事態だ。

to06.1.jpg

この「竹鶴図屏風」も、牧谿の影響をうかがわせる作品だ。鶴の描き方は、牧谿作「観音猿鶴図」のものとほとんど同じである。牧谿の鶴も、竹林を背後にしているが、竹は申し訳程度に描かれているにすぎなかった。等伯のこの絵は、両隻に竹林を配し、鶴がその林のなかにたたずんでいるという風情を描出している。

g06.1.JPG

アルカイック美術という概念は、クラシック美術との対比から作られたものである。紀元前五世紀に花開いた美術をクラシック美術と呼び、ギリシャ美術の完成された形とする考え方が優位になったときに、それ以前の段階の美術を、一段劣る未熟なものという意味でアルカイック美術と呼んだのである。しかし、今日では、アルカイック美術を未熟な段階の美術とする考えは少数派である。アルカイック美術には、それにふさわしい意義を認めるべきだというのが、今日の主流の考えである。

小生はかつて「日本人とエピステーメー」と題した小論の中で、フーコーのエピステーメー論を日本人に適用したらどうなるかについて、簡単な考察をしたことがあった。そこで小生がとりあえず達した結論は、日本人にはヨーロッパ人のように内発的な知の発展というものは見られず、外国から輸入した知が幅を利かせてきたということだったが、それでも日本人の思考の枠組というようなものは存在しており、それをエピステーメーといってよいかもしれない、と思うに至った。そのエピステーメーのうちで、我々現代に生きる日本人にとって、最も大きな意義を持つのは、儒教に根差した権威主義的世界観であって、我々はその呪縛から未だに完全に脱し切れていない。この儒教的なエピステーメーは、徳川封建体制下の17世紀半ばごろに成立し、明治維新を経て、先の敗戦頃まで強い規範となってきた。要するに三百年にわたって日本人の思考を制約してきたわけである。敗戦後は、それに代わって欧米伝来の自由主義的な考え方が新たなエピステーメーを築きつつあるが、我々はまだ権威主義的な思考様式から抜け出せていないようである。

中国ではいま「ゴマ信用のスコア」というのが流行っているのだそうだ。これはIT企業の大手アリババが四年前に始めたサービスで、個人の信用度をスコアであらわし、金融取引などに役立てようというものだ。このスコアは、目下個人の申し出に基づいて作成され、その個人の資産状況とか返済能力などの信用度を数値化し、それを金融取引等の判断材料にするというものだ。このスコアが高いと、簡単に融資が受けられるし、不動産取引なども有利に進めることができるという。これまでの中国では、信用取引に関しては保証人を立てるのが一般的だったが、このスコアがそれにとって代わりつつあるという。たとえば、賃貸住宅を借りたいと思ったら、大家から、保証人のかわりに「ゴマ信用のスコア」の提示を求められるのだそうだ。

jap66.koibito2.JPG

「恋人たち」というタイトルからは、フランス人ルイ・マルの映画を想起させられる。やはり「恋人たち(Les Amants)というタイトルのルイ・マルの映画は、倦怠せる男女の糜爛した恋のアヴァンチュールを描いていたものだったが、日本人の橋口亮輔が作ったこの映画が描いているのは、いかれた中年男女がくりひろげるかなり崩れた人間関係である。一応「恋人たち」というタイトルがつけられているが、男女の恋が描かれているわけではない。描かれているのは、なにやらあやしげな人間模様である。

to05.1.jpg

京都相国寺にある「竹林猿猴図屏風」は、中国の画家牧谿の「観音猿鶴図」を意識している。等伯は、三玄院所蔵の牧谿の絵を、同院のために「山水図襖」を描いた際に鑑賞し、それをもとにこの作品を作ったのだと思われる。牧谿の作品は、中央に観音を描き、その両脇に猿と鶴を描いているが、等伯のこの作品は、左隻に竹林を描き、右隻に猿の親子を描いている。

小説集「『雨の木』を聴く女たち」の五番目、つまり最後に位置する中編小説は、先行する四つの短編小説とは多少趣を異にする。というのも、この中編小説は、もともと他の短編小説とは違う問題意識にもとづいて書かれたものだからだ。この中編小説には、小説としてはめずらしく、序文が付されていて、その中で作者は、「雨の木」を主題にした長編小説を書く一方で、それと並行して、いくつかの短編小説を書いていたといい、短編小説はそのままの形で発表できるものとなったが、長編小説は出来が悪かったので、自分はその長編小説から「雨の木」にかかわる細部を削除して、中編小説として書き直し、それに「泳ぐ男」という題名を冠したと書いている。

g05.1.jpeg

腰が極端にくびれた人物像の典型が、このマンティクロスのアポロン像である。テーバイから出土したこのブロンズ像は、先に見た壺の文様における人物のパターンを立体的に表現したものだ。

jap65.peko2.JPG

2013年の映画「ペコロスの母に会いに行く」は、同名の連載漫画を映画化したものである。ペコロスというのは小さな玉ねぎのことだが、そのペコロスのような形の頭の男が、認知症になった母親を世話する、というか互いに世話しあう関係を描いたものだ。大したストーリーはなく、母親の奇妙な行動に振り回される息子のどぎまぎした反応が見どころだ。

「全体性と無限」の序文を、レヴィナスは戦争への言及から始めている。レヴィナスは、「聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである」としたうえで、その「聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか」といい、「戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剥ぎとられ、かくて無条件な命法すら暫定的に無効となる」という(熊野純彦訳「全体性と無限」から、以下同じ)。「戦争によって道徳は嗤うべきものになってしまう」というのである。もしそうならば、「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか」。そうレヴィナスは問いかけるのである。問いかけの相手は、読者でもあるし、またレヴィナス自身でもあるようだ。

「東雅」は、語源解釈を中心とした語義解釈辞典というべきものである。古い日本語の成り立ちや特徴が浮かび上がるように配慮されている。いまでも日本語語源辞典としての意義を失っていない。白石がこれを作ったのは、失脚後間もなくのことで、その頃子供相手に学問を教えていたのだが、講義の中心が古い日本語について説き明かすことだった。その講義を集大成したのがこの辞典で、享保四年に現在の形に完成した。この辞典を白石が「東雅」と名付けたのは、中国最古の辞典「爾雅」を意識している。「東雅」とは、東の国、つまり日本の「爾雅」というわけである。

itami14.JPG

マルタイとは警察用語で身辺警護の対象者のことをいう。対象者のタイをとってマルタイというわけだ。伊丹十三の1997年の映画「マルタイの女」は、そのマルタイをテーマにしたもの。伊丹自身、「ミンボーの女」をめぐって暴力団から付け狙われ、警察の身辺警護を受けた経験があり、この映画にはその際の経験が生かされているという。なお、伊丹自身はこの映画を作った後で不可解な死に方をしており、これが彼の遺作となった。

to04.jpg

大徳寺塔頭三玄院に、かつて雲母刷りで桐花紋を施した襖三十二面に山水図を描いたものがあった。現在は圓徳院にうつされている。上の写真はその一部。冬枯れらしき山水の佇まいが描かれている。

最近のコメント

アーカイブ