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ローラ・ド・ヴァランスは舞踏団カンブルービ一座のプリマドンナである。マネは一座の支配人と懇意だったらしく、アルフレッド・ステヴァンスのアトリエに一座の連中を連れてきて、ポーズを取らせてくれと頼んだ。支配人はそれに答えてローラをアトリエに連れて行き、マネの前でポーズを取らせた。そうして出来上がったのがこの絵である。マネはこの絵を、1863年に催した自分の個展に出展した。

「共同幻想論」は、吉本隆明の社会理論を体系的に論じたものだ。その特徴は、人間社会というものはまづ個人からなっていて、その個人が集まって社会を形成する一方、個人と社会との中間に家族や夫婦の関係があるとしたうえで、これら三つの層を通じてすべてについて言えることは、それらが幻想の上に成り立っているとする点だ。この考え方によれば、個人は個人幻想にその存立の基礎をもち、家族や夫婦は対幻想に、また社会は共同幻想に、それぞれ存立の基礎を持つということになる。

四月も終わり近く、小生はあかりさんを誘って伊豆に小さな旅をした。東京駅中央コンコースの新幹線改札口前で待ち合わせ、九時過ぎのこだま号に乗った。彼女は淡いグリーンのコットンジャケットにベージュ色のチノパンツをはいていた。座席に腰かけるといたずらそうな顔をして、
「今日は教員仲間の女友達と旅行すると言って出て来たのよ」と言った。
「女友達がいつの間にかむくつけき親爺に変わっていたというわけだね」
 そう小生が返すと、
「軽口をたたかないで。これでも娘には気を使っているんだから」とあかりさんは不平そうな顔を見せて言った。
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2008年の映画「アキレスと亀」は、北野武の作品としてはめずらしく、暴力シーンが一切出てこない。ただひたすら絵を描くシーンの連続だ。というのもこの映画は、一人の絵描きの半生を描いたものなのだ。北野武自身絵を描くのが好きだし、また結構うまい絵を描くようだが、そうした絵に対する自分自身のこだわりをこの映画に込めたということのようである。

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明治二十一年に刊行した「風俗三十二相」は、様々な階層の女性たちの表情や仕草をテーマにしたもので、全部で三十二の図柄が作られた。描かれた三十二人の女性たちのうち、徳川時代の女性が二十三人、明治の女性が九人である。それぞれ、うれしそうとか、寒そうとか、痛そうとかいった具合に、女性の感情を「そう」ということばで表現している。

小説の題名にあるこの「個人的な体験」という言葉の意味を、大江は主人公バード(鳥)の口を借りて次のように説明している。「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ・・・個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そう言う体験はあるだろう・・・ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ」

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マネはスペインの絵、とくにベラスケスが気に入って、スペイン風に描くことをめざすことから始めた。その最初の成果が「スペインの歌手」である。マネはこの絵を1861年のサロンに出展し、佳作の評価を受けた。それまで落選の連続という憂き目にあってきたマネとしては、最初の成功だった。マネはこれをばねにして羽ばたこうと目指したが、その後はサロンの評価に見放された。

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北野武といえば、本業はお笑いだが、映画ではどういうわけか暴力ばかり描いた。その北野が、暴力映画に限界を感じて、もっと別のジャンルに可能性を求めたらしいのが、この「監督・ばんざい!」だ。北野にとっては13本目の作品だが、この作品で北野は、自分の持ち味であるお笑いの世界にもどった。

「石神問答」は、柳田国男が数人の民俗研究者との間で交わした往復書簡を一冊の本にまとめたものだ。それらの書簡は合わせて三十四にのぼり、交わした相手は、山中笑はじめ八名である。これらは本の出版日たる明治四十三年からさかのぼる余り遠くない時期に交わされたと思われる。その時期はあたかも遠野物語の執筆時期とだいたい重なっている。そんなこともあって、遠野物語と同じような問題意識に貫かれている。それは、日本の各地に残っている淫祠と言われるものの、起源や分布、現代の日本人へのかかわりあいなどを明らかにしたいというものだった。

 柳北居士の政府攻撃の手は五日間の自宅禁固に処せられたくらいでは引っ込まなかった。禁固の期間があけた後、以前に増して政府批判を強めた。末広鉄腸が自宅禁固から解放されると彼を朝野新聞の編集長に迎え、二人三脚で政府批判を続けた。その末広は井上薫に呼びつけられて政府の役職を提供すると言われたが、その懐柔を策せることを見抜いた末広は、断固その誘いを拒絶していた。そんな末広のジャーナリストとしての気概を柳北居士は高く評価したのである。
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北野武の「座頭市」は、勝新太郎の座頭市シリーズを意識したものだが、座頭市というキャラクターを借用しているだけで、子母澤寛の原作とは全く関係がない、北野のオリジナル作品だ。その座頭市という名前にしてからが、映画では表面に出ておらず、まわりの者は単に按摩さんと呼んでいる。これを座頭市と呼んでいる唯一の人間は、敵役のやくざで、いわば腹いせの悪態として言っているだけで、座頭市がこの按摩の表向きの名前とは思われない。

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渡辺綱は源頼光四天王の首座で、勇猛で知られる。さまざまな逸話があるが、最も有名なのは鬼退治の話。都の羅城門に鬼が出るというので、綱は頼光から授かった金札を立てるべく、羅城門に赴いた。すると鬼が現れて、背後から綱の兜をつかんだ。そこで綱はすかさず鬼の腕を切り落とし、それを持ち帰ったというもの。

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エドゥアール・マネは近代絵画の先駆者とも、現代美術の魁とも言われる。マネが画家として登場した時、フランスではサロンが美術界への登竜門になっていた。美術界で成功しようと望むものは、このサロンで認められることが必要だったのである。しかしマネは何度もサロンに挑戦したにかかわらず、なかなか認められないばかりか、露骨に拒絶された。そこでマネは、ナポレオン三世がサロンでの落選作を対象にした「落選展」を開催した時に、「草上の朝食」を出展したが、それでも評価されないばかりか、一層露骨にけなされた。その理由は、マネの絵が伝統的な絵画の理想からあまりにもかけ離れていたということであった。

吉本隆明の小論「芥川龍之介の死」は、芥川の死をめぐる通説に異を唱えるとともに、芥川の作家としての資質を軽侮するような内容のものである。吉本には他人を無暗に攻撃する傾向があるが、この小論ではそれがストレートに現われている。芥川を敬愛する人が読んだら不愉快になると思うし、また直接かかわりのなかった死者に向かって何故これほどまでにエクセントリックな攻撃をしかけねばならぬのか、理解に苦しむことだろう。

ロシアに旅するにあたっては治安の悪さがよく指摘されるが、小生たちもやはりその治安の悪さの犠牲になった。その二三の例を紹介したい。治安が悪いという印象はその国にとって不名誉であるのみならず、旅行者にとっては災厄というべきなので、先進国を標榜する国においては、最優先に解決すべき課題である。

 学海先生は墨堤に居を構えたことで一人の友人を新たに得た。成島柳北である。柳北のことを先生は、郵便報知新聞の先輩栗本鋤雲からしばしば噂話を聞いていた。共に幕臣として幕末に活躍し、維新政府におもねらず、フランスにも旅行したことなど、柳北と鋤雲には共通するところが多かった。年は鋤雲のほうが十五歳も上だったが、鋤雲はこの年下の才子を非常に高く評価していた。しかし学海先生にとって成島柳北といえば、「柳橋新誌」の作者柳北居士として、つとに畏敬すべき存在だった。その柳北が墨堤に定めた住まいの近くに住んでいると知って、先生は早速厚誼を求めたのである。
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北野武の1993年の映画「ソナチネ」は、やくざの抗争を描いた暴力映画だ。題名がソフトなイメージを喚起するのでソフトタッチの映画かと思われるが、まったくそうではない。ハードな暴力映画である。ただ、暴力とともに映画の大部分を占めるのが、ビートタケシがテレビで繰り広げて来たドタバタギャクなので、見ている方としては多少肩の張らない気楽さを感じることはできる。

九月二十日(木)七時に起床、パソコンに向かって航空機のオンライン・チェックインをなさんとするに、システム機能せずとのアナウンス表明され目的を達せず。昨日の日記を整理して後、九時頃運ばれ来れる朝餉を食す。

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袴垂保輔は都を騒がせる大盗賊、鬼童丸は市原野に住む盗賊だ。この二人が妖術を競い合う場面を滝沢馬琴が読本「四天王剿盗異録」に書いた。芳年はその場面をイメージ化したものを縦二枚続きの錦絵にした。当時馬琴の読本は庶民に人気があったので、こういう図柄も喜ばれた。

大江健三郎は、処女作の「奇妙な仕事」以来「個人的な体験」で長編小説を書くようになるまでの間、専ら短編小説を書き続けたが、それは彼にとっては長い助走のような意味を持ったようだ。彼はこれらの短編小説で、自分の文学的な野心を試した後で、その野心を長編小説の形で展開して見せるつもりだったように思われる。もっともその野心の方向性は、それこそ大江自身の個人的な体験を通じて大分異なったものになったのではあったが。

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