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先日(2020年2月23日)のNHKの古典芸能番組が、狂言「居杭」と能「烏帽子折」を放送した。どちらも一家三代が共演するという趣向で、狂言のほうは大蔵流宗家の大倉彌右衛門一家が、能のほうは観世流武田志房一家が出演していた。まず狂言のほうから紹介しよう。

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「藤花図屏風」は応挙の代表作と言ってよい作品。藤の花を写実的に描いていながら、単純な写実にとどまらない。対象を大胆に省略しながら、対象の持つ本質的な形象を浮かび上がらせるように描いている。

新型コロナウィルスの蔓延が収まらない状況の中で、東京オリンピックの開催を危ぶむ意見が世界中で出始めた。なかにはオリンピックの中止あるいは他都市での開催を真剣に論じるものまである。もっとも日本国内では、そういう意見は、有力メディアではほとんど報じられていない。そんなことをしたら、せっかく盛り上がっているオリンピック気分に水を差すことになるし、安倍政権に憎まれること請け合いだからだろう。

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ルノワールは1882年に初めての海外旅行をした。まず2月に北アフリカに行き、10月にはイタリアに行った。イタリアに行った目的は、ラファエロの作品を見ることだった。それまでの印象派的な画風にいきづまりを感じていたルノワールは、ラファエロから転換のためのインスピレーションを得たいと思ったのだった。

井筒俊彦の論文集「コスモスとアンチコスモス」のうち、同じタイトルを冠した小論「コスモスとアンチコスモス」は、コスモスとカオスの対立について論じたものである。コスモスというのは、井筒の定義によれば、「有意味的存在秩序」を意味する。有意味的存在秩序というのは、世界を存在者の意味のある秩序としてとらえることを意味している。世界の無数の存在が、それらの意味単位が、「一つの調和ある全体の中に配置され構造的に組みこまれることによって成立する存在秩序、それを『コスモス』と呼ぶのである」、と井筒はいうのである。どの民族にもそれ固有のコスモスがある。このコスモスがあるおかげで、当該コスモスの中に生きている人々は安心して生きることができる。これに対してカオスとは、そうした秩序が全くない混沌として受け取られて来た。その混沌は、とりあえずは、コスモスが成立する以前の状態をさすのが普通だった。というか歴史的な事実だった。世界は混沌から秩序へ、カオスからコスモスへ向かって進む、というのが、どの民族においても、歴史的な(あるいは神話的な)趨勢だったわけだ。

プロタゴラスやヘラクレイトスの説を前提とすればどのような帰結が生まれるか、それをソクラテスはあらためて確認する。プロタゴラスによれば、あらゆるものの尺度は人間であるということになるが、その人間とは個々の人間をさすから、個人の数ほど真理があるということになる。あらゆる個人は、自分を尺度として世界を解釈するのであるから、個人ごとに真理の内容は違ってさしつかえないということになるからだ。一方、ヘラクレイトスによれば、あらゆるものは動のうちにあり、静はないのだから、あるということはなく、なりゆくということだけがある、ということになる。しかし、プロタゴラスとヘラクレイトスの説についてのこうした解釈が、知識は感覚であるという主張とどういうかかわりがあるのか。そこをソクラテスはあいまいにしたままのように聞こえる。

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山下耕二は東映やくざ映画を代表する監督で、「山口組三代目」など実録物を多く作った。1975年の作品「日本暴力列島京阪神殺しの軍団」は、彼の代表作だ。映画の冒頭でフィクションと断っているが、それは方便で、実際には山口組の全国制覇の一幕を描いている。この映画には、日活の人気俳優だった小林明が、主演のやくざとして出演して話題となった。

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「寒菊水禽図」と題したこの絵は、「飛雁芙蓉図」と夏冬一対をなすもの。冬の冷たい氷の上を遊ぶ水禽を描いている。応挙四十一歳の時の作品である。

「美しいアナベル・リイ」というタイトルは、エドガー・ポーの詩「アナベル・リイ」からとったものだ。大江は当初この小説に「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」というタイトルをつけたのだったが、後に文庫化する際に「美しいアナベル・リイ」に替えた。「臈たし」云々は、日夏耿之介の訳語だが、いかにも時代がかっていて、今の日本には場違いと思ったのだろう。

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19世紀の末に流行したジャポニズム趣味に、ルノワールはあまりかぶれはしなかった。ゴッホやマネなど多くの画家が、作品の中でジャポニズム趣味を発散させているのに対して、ルノワールにはジャポニズムを感じさせるものは、ほんの少ししかない。「うちわを持つ女(Jeune fille au ventilateur)」と題されたこの絵は、その代表的なものだ。

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加藤泰はいわゆる任侠映画が得意で「緋牡丹博徒シリーズ」などを作っているが、1967年の作品「男の顔は履歴書」は一風変った任侠映画だ。これを任侠映画といえるのかどうか異論があるかもしれないが、一応義理と人情の板挟みになった主人公が、やくざ者を相手に大暴れするという点では、任侠映画の延長上の作品といってよいのではないか。

標記の言葉は実刑五年の判決を受けて、籠池泰典が発した言葉だ。籠池がこのように言う気持ちはわからないでもない。世間を大騒がせしたいわゆる森友問題では、不可解なことがあまりにも多く、また籠池一人の問題には止まらないところを、籠池一人がすべての責任を負わされて有罪判決を受けたと思われないでもないからだ。籠池は今回の判決を、安倍総理に反逆したことへのしっぺ返しとして感じたようだ。

産婆術の比喩を述べた後ソクラテスは、いよいよ本題に入っていく。それも単刀直入に。つまりソクラテスは、「何がそもそも知識であるか試みに言ってみたまえ」と、テアイテトスにいきなり問いをぶつけるのだ。すでに産婆術の比喩によって、自分の腹のなかにあるべきものに自覚的になっていたテアイテトスは、このソクラテスの問いに対して率直に答える。「何かを知識している人というものは、知識しているそのものを感覚(感受)しているものなのです。すなわち、何はともあれ今あらわれているところでは、知識は感覚にほかなりません」と。これに対してソクラテスは、議論のとっかかりが出来たことに満足し、そのうえで、「それが正に純正なものか、それとも虚妄のものか、一緒によく見てみようではないか」と言う。こうしてソクラテスによる、テアイテトスを相手にした産婆術の実践、すなわち思想の出産へ向けての試みが始まるのである。

加藤典洋の「敗戦後論」は、日本の戦争責任を論じたもので、発表当時左右両派から厳しい批判を巻き起こし、大きな論争に発展した。その論争を筆者は知らなかったので、何とも言えないが、今からこの本を読みながら思うのは、1995年という戦後半世紀たった時点でもそんな論争が起ったことに滑稽さを感じながら、その滑稽な状況が今なお続いているということだ。加藤は先日死んでしまったが、かれが生きている間には、かれの投げかけた問題意識に応えられるようななりゆきには、ならなかったし、この国は今後もそうはならないのではないかと、ちょっと思ったりもする。

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篠田正浩の1975年の映画「桜の森の満開の下」は、坂口安吾の同名の短編小説を映画化したものだ。原作は、無頼派作家とよばれた坂口の代表作というべきもので、桜の妖気に取りつかれた人間の魔性のようなものをモチーフにしている。短編小説ながら物語展開に劇的な要素があって、映画化にはなじむ。それを篠田は映画化したわけだが、一部脚色をまじえながらも、ほぼ原作に忠実な演出といってよい。

アメリカでは目下インフルエンザが猛威を振るっている。すでに2600万人が感染し、1万4000人以上の死者が出ているという。中国のコロナ・ヴィルスが大騒ぎを引き起こしているところだが、災厄の規模という点では、こちらのほうが桁違いに大きい。

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雲竜図屏風は京都の東寺観智院に伝来していたもので、灌頂の儀式に用いられていたという。水の儀式でもある灌頂の儀式には、水の王者である龍ほどふさわしいものはないということであろう。

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「テラスにて(Sur la terrasse)」と題されたこの作品も、レストラン・フルネーズのテラスを舞台にしたものだ。「舟遊びする人々の昼食」と同じ頃描かれたのであろう。「舟遊び」ではあまりはっきりとは描かれていなかったセーヌ川が、この作品では背景として大きく描かれている。

井筒俊彦の著書「コスモスとアンチコスモス」の第二論文「創造不断」は、道元の時間論をテーマとする。道元の時間論といっても、道元だけに特有の時間論ではない。道元を含めた東洋思想に共通する時間論の特徴を明らかにしようとするものだ。東洋的な時間論の特徴を井筒は、時間を切れ目なく連続した流れとしてではなく、瞬間ごとに断続していると見るところに求める。西洋では、絶対時間といって、事物の存在とは別に純粋な時間の流れがあって、それが絶え間なく続いて行くと見るわけだが、東洋の時間意識はそれとは真逆で、純粋な時間というものはなく、時間と事物の存在は別物ではない、と見る。そしてその時間は、連続して流れていくものではなく、瞬間ごとに新たに生み出されるのだと考える。そうした時間についての考えを井筒は、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概念に代表させ、その概念を用いて道元の時間論を考究するのである。

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ルキノ・ヴィスコンティの1974年の映画「家族の肖像(Gruppo di famiglia in un interno)」は、ある引退教授と奇妙な人々との触れ合いを描いた作品だ。バート・ランカスターが演じるこの引退教授はローマの高級マンションに一人暮らししているのだが、そこへ奇妙な人々が入りこんできて、老教授の静寂な生活を乱す。老教授は、初めは迷惑を感じるのだが、いつのまにか彼らが好きになる、という筋書きである。映画はこの老教授のマンションの部屋を舞台に展開する。野外の場面は一切ない。ただ老教授の部屋のバルコニーから、ちらりと垣間見られるだけである。部屋の内部を舞台にした映画としては、ヒッチコックの「ロープ」とか、コクトーの「恐るべき親たち」があるが、この映画はそれら先行作品に劣らぬ出来栄えである。日本で上映された際には大ヒットになった。

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