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「千山万水図」は、最晩年の崋山の心境を絵に託したものだと言われている。描かれているのは三浦半島で、その周辺を行く船は外国船だという解釈にたち、日本の海防の必要性を訴えたのではないかというのである。そう思えないこともないが、あるいは考えすぎかもしれない。

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、ドキュメンタリー作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。彼女はまたノーベル賞を貰ったはじめてのベラルーシ人でもある。彼女の仕事としては、戦争体験についての聞書きとかチェルノーブィリの原発事故の後日譚などが有名だという。「戦争は女の顔をしていない」は、彼女の最初の仕事であり、また代表作となったものだ。

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ドラクロアは、モロッコ滞在中の1832年2月21日に、タンジールの友人の紹介で、ユダヤ人の結婚式に立ち会うことができた。その折に、結婚式の様子を日記に記録し、また会場の様子や花嫁の姿を水彩画に描いた。それらをもとにして描いたのが「モロッコのユダヤ人の結婚式(Noce juive dans le maroc)」である。1837年ごろから41年にかけて製作され、1841年のサロンに出展された。

「嘱累品」第二十二は、法華経本体の最後の部分である。これを以て法華経の教えとその功徳の説明が完了する。「薬王菩薩本事品」第二十三以後は、法華経の教えを実践した人(菩薩)の業績が具体的に説かれる。その部分は、法華経本体が成立した以降、順次付け加えられていったものと考えられる。

20世紀に成立した社会主義諸国は、いずれもマルクス主義を標榜し、マルクスの経済思想を具体化したと主張した。マルクスは、資本主義後の経済システムのあり方を詳細に示したわけではないが、私有財産の廃止と財産の共同的な所有及び協同組合的な経済運営などをほのめかしていた。ソ連型といわれる社会主義経済システムは、マルクスのほのめかした考えを、私有財産の廃止と財産の国有化および国家による計画経済という形で具体化した。しかしそうした経済システムは、一時はうまく機能するように見えたが、結局は破綻して、市場経済システムに復帰する動きを強めた、というのが大方の了解になっている。つまり、国有企業を中心にした計画経済はうまく機能しないという了解が、資本主義諸国を中心にして強化されているわけである。

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2004年の映画「二人日和」は、年老いた男女の夫婦愛を描いたものである。不治の病に冒された妻を、夫が献身的に介抱しながら、互いの愛を確認しあうというような内容だ。内容そのものは、きわめて平凡だが、その平凡な内容が、美しい画面とゆったりとした時間感覚の中で展開されると、心を洗われたような気持になる。

先日、那覇の公有地にある孔子廟をめぐる訴訟への最高裁判決が出た。その概要を新聞で読んだ小生には、よく納得できないものがあった。孔子廟がたっている公有地を無料で貸し出すのは違憲だとしながら、孔子廟そのものの撤去は求めていなかったからだ。そこで一部の新聞は、土地の使用量さえ払えば違憲にはならないと解釈していたが、それでは孔子廟自体は違憲ではないということになる。いったいどういう法理になっているのか、疑問が残ったのである。

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「海錯図」も天保十一年蟄居中の作。「海錯」とは、生みのめぐみといったほどの意味。蟄居した田原は、愛知県の渥美半島にあり、海が近かったので、「海錯」が豊富だった。崋山は罪人扱いとはいえ、日頃から人々に敬愛されていたので、海の幸を差し入れする人も多かったと思われる。

多和田葉子は、22歳の時にドイツに移住して以来、ドイツ語を日常的に話す一方、日本人とも話し続けてきたわけで、要するにバイリンガルな生活を送ってきたわけだ。おそらくそのためだろう、言葉というものに常に自覚的だったようだ。そんな彼女が、「日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分を観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした」のが、この「言葉と歩く日本語」という本である。タイトルからは、主に日本語を論じているように伝わって来るが、それはドイツ語と比較したうえでの日本語なので、当然ドイツ語についても語っているわけである。

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ドラクロアは宗教画も多く手がけた。教会から注文を受けたこともあるし、またブルボン宮殿など壮大な建築物を装飾する作品も手がけた。「二人の盗賊の間のキリスト(Le christ entre les deux larrons)」と題するこの絵は、ドラクロアの宗教画を代表する作品である。

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2005年公開のドキュメンタリー映画「沖縄 うりずんの雨」のテーマは沖縄現代史。沖縄戦から戦後の軍事占領を経て、返還後の米軍基地の存在など、沖縄が抱えてきた苦悩を微視的に、つまり体験者の視点から見ている。監督はアメリカ人のジャン・ユンカーマンなので、多少のバイアスは感じられるが、おおむね問題の本質に迫っているのではないか。それはかれが、沖縄における米軍基地の存在を、日本の主権への侵害だと説明していることからもわかる。だが、米兵による沖縄人への虐待については、あまり多くを語りたがらない。

議会と革命

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ブルジョワ革命としてのフランス革命は、議会を舞台として起こった。革命以前のフランスは、基本的には絶対王政の体制であり、王の臣下たちが専制的な統治を行っており、議会などは存在しなかった。だから、ブルジョワは自分たちの政治的な代理人を持たなかったのである。そのかれらが曲がりなりにも議会を召集させ、そこに自分たちの政治的な代理人を持つことができたことで、自分たちの政治的な要求を実現させる機会を獲得したわけである。その機会は最大限活用され、ブルジョワたちは自分たちに都合のよい統治システムの構築に成功した。それは前の時代からは断絶していたので、革命という名前が相応しかった。

中国では1917年以降北京政府と広東政府が並立する状態が続いていて、全国を統一する政権は存在しなかった。北京政府が中国北部を、広東政府が中国南部をそれぞれ統治するという建前だったが、実際にはどちらも低い統治能力しか持っていなかった。北京政府のほうは、いわゆる軍閥の抗争に明け暮れ、広東政府のほうは、自立性の高い各省をまとめるだけの能力がなかった。こうした状況の中から、次第に広東政府が力をつけ、ついには北伐を経て、全国を統一する政権が誕生するのは1928年6月のことである。

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石内都は日本を代表する女性写真家だ。衣装に強い関心を持っていたそうだ。その石内が、2011年10月から翌年2月まで、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学人類学博物館で、ひろしまをテーマにした写真展を開いた。展示された写真はみな、被爆者が生前身につけていたものである。それらを見ると、被爆して死んだ死者の姿を直視するに劣らない迫真性を感じる。それが見るものの心を直撃する。

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渡辺崋山が蛮社の獄に巻き込まれたのは天保十年のこと。その年の5月に逮捕・拘禁され、取り調べを経て、年末の12月にお裁きが下った。仲間の高野長英が禁固刑を食らったのに対して、崋山は田原藩あずかりのうえ蟄居という比較的軽い刑で済んだ。翌年の正月、崋山は田原に赴き、そこで藩が用意した家屋に住んで蟄居するという形をとった。

独ソ戦は、人類の歴史上もっとも大規模で凄惨な戦争であった。この戦争によるソ連側の死者は従来2000万人といわれていたが、近年の研究で2700万人に上方修正された。ドイツ側の死者数も、さまざまな見積もりがあるが、全体で600万人ないし900万人と推測され、その大部分が独ソ戦にともなうものである。そんなにも巨大な犠牲を出したわけは、独ソ間での全面戦争であったということのほかに、この戦争が、普通の戦争とは違って、民族の奴隷化とか絶滅を目的としたものだったことだ。ヒトラーは、独自の民族観から、ロシア人を劣った人種と見なし、その奴隷化と殺戮を公然と行った。そうした破廉恥な思想が、この戦争を凄惨なものにした。著者の大木毅はこの戦争を、ヒトラーが仕掛けた絶滅戦争と定義づけている。

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「部屋の中のアルジェの女たち」と題するこの絵は、モロッコからの帰途、アルジェに立ち寄ったさいの印象をもとに描かれたものだ。フランスに帰国したのは1832年の7月だが、この絵は1834年に完成し、その年のサロンに出展されて大きな評判を呼んだ。ドラクロアのオリエント趣味を代表する傑作である。

「如来神力品」第二十一は、如来の神力すなわち仏の超能力を説く。その目的は、法華経を受持し広める菩薩たちに超能力を示すことによって、かれらを激励することにある。その上で、法華経の功徳について改めて説き、仏の滅後に衆生を教化するよう励ますのである。

カール・マルクスが人類史上に持つ意義は、資本主義の歴史的な制約を指摘し、それには始まりがあるとともに終りがあると主張したことだ。どのような事情が資本主義を終わらせるか。それについてマルクスはかなり詳細に語っている。しかし、その終わり方がどのようなプロセスを経て実現するのかについては、かならずしも明確なメッセージを発したわけではない。とりあえず考えられることとして、資本主義システムの矛盾が労働者階級にとって耐えられない桎梏になったときに、人間らしく生きたいと願う労働者階級が、その桎梏を取り払い、自分たちの生きやすいシステムの構築に向けて立ち上がるだろうと予測した。その場合に、桎梏を取り除くための労働者の行動は革命という形をとるだろうと考えていた。その場合に、マルクスの念頭にあったのは、1871年のパリ・コミューンであった。パリ・コミューンの経験を踏まえれば、成功裏に革命を成就することができるのではないか。そんなふうに考えていただろうと思われる。

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2009年のイタリア映画「やがて来たる者へ(L'uomo che verrà)」は、ナチスドイツによるイタリア支配の残忍さを描いた作品である。1943年7月にムッソリーニが失脚すると、ナチスはイタリアに介入し、ムッソリーニを復権させて傀儡政権を作り、北部イタリアに進出した。それに対して北部イタリアでは対ドイツ・レジスタンス運動が広範に起こった。ナチスは血の弾圧をもってそれを抑圧しようとした。この映画は、北イタリアを舞台として、ナチスに対抗する人々と、それに血の弾圧を加えるナチスの凶暴さを、一人の少女の視点から描いたものである。

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