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1892年は、フランス革命を経て共和国宣言が出されてからちょうど百年目にあたり、フランス各地で祝祭が催された。パリにおけるその祝祭の様子を描いたのが「独立百年祭」と題したこの作品だ。同年のアンデパンダン展に出展された。

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ジュリアン・デュヴィヴィエの1955年の映画「わが青春のマリアンヌ(Marianne de ma Jeunesse)」は、フランス人好みのおとぎ話をイメージ化した作品。日本でも大変な評判になった。小生も青年時代に見たが、結構興奮させられたことを覚えている。デュヴィヴィエはフランスよりも日本でのほうで高い人気を誇ったのであるが、この映画は中でもかれの代表作として迎えられた。

フロイトの思想史上の意義は、無意識に光をあてたことだろう。デカルト以来の西洋思想はもっぱら意識を舞台として、人間の心的活動についての思弁を展開してきた。存在するとは、ある意味意識されているということであって、したがって意識されないもの、つまり無意識の対象は存在しないとされた。意識こそが世界全体を満たしていたのである。

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ジュリアン・デュヴィヴィエの1932年の映画「にんじん(Poil de carotte」は、ジュール・ルナールの同名の小説を映画化したもの。原作は児童向けの、いわゆる児童文学ということになっているが、それにしてはテーマが深刻であり、児童を主人公にした大人のための文学といってよい。大人の心無い振る舞いがいかに子供を傷つけるかを描くことによって、世の大人たちに反省を迫るものといえよう。

坂口安吾の小品に「パンパンガール」と題するものがある。坂口が数人のパンパンとざっくばらんに語り合った様子を描いたものだ。これを書いたのは昭和22年、日本はまだ敗戦のどさくさの中にあり、男たちはうしひしがれていたが、パンパンたちは陽気だった。その陽気さを坂口は「自由で、自然で、明るい」と言って、褒めている。坂口は戦後すぐに「堕落論」を書いて、敗戦が日本人の心の中まで堕落させたと批判していたが、そんな坂口の目にも、女たちは、堕落どころか、生き生きとして自律的に生きていると映ったようだ。女たちはそれまで自分たちを押さえつけていた男たちの文化が崩壊したことで、かえって解放されたと感じ、自分本来の生き方を追求し始めたように、坂口の目には映った。少なくとも彼が接したパンパンガールたちは、自由で生き生きとした雰囲気をただよわせていたようだ。

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普陀落山とは、観音菩薩が降臨する場所といわれる。華厳経の「入法海品」などに見える。海上にあるとも、南インドのマラヤ山の東にあるとも言われる。この絵の普陀落山は、海上の島をイメージしているのかもしれない。左下に水が描かれているからだ。

栗原俊雄は毎日新聞の記者だそうだ。日本現代史に強い関心があるらしく、「戦艦大和」などアジア太平洋戦争をテーマにした著作がある。ジャーナリストらしく、戦争体験者への聞き書きを中心に、戦争の実態を微視的に浮かび上がらせる手法をとっている。「シベリア抑留ー未完の悲劇」(岩波新書)と題したこの著作も、関係者へのインタビューを中心に組み立てている。当初毎日新聞に連載したものをもとに、この本を書き上げたということだ。

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ピエール・ロティは、フランス海軍士官として世界中をまわり、立ち寄った各地の印象を、エッセーや小説に書いた。日本にも縁があり、鹿鳴館の舞踏会にも参加したことがあった。フランス人特有のエリート意識の持ち主で、日本人を醜悪な生き物として軽蔑していた。そんなロティと、ルソーとの直接的な接点はない。ルソーにはエキゾチズム趣味があり、「マガザン・ピトレスク」といったエキゾチズム雑誌を読んでいたようだが、それにインスピレーションを受けて、ロティのこの肖像画を描いたのだろうと思われる。

「撰時抄」は佐渡流罪を許され、鎌倉を経て身延山に入ったすぐ後に書かれた。日蓮が身延山に入った動機はさまざまに推測されているが、一番有力なのは、蒙古襲来を恐れたからだという説だ。仮に蒙古が攻めて来ても、身延山までは押し寄せてこないだろうと考えたというのである。

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ルネ・クレールは1935年にフランスを離れイギリスに渡った。前年に作った「最後の億万長者」が興業的に失敗したことにショックを受けたためといわれる。その映画をクレールは、隣国ドイツで独裁者になりつつあるヒトラーを意識して作ったのだったが、フランスではヒトラーはまだ大して注目を集めておらず、したがってその映画も大きな話題になることはなかったのだろう。

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「貽咲墨戯」は、鉄斎が米寿記念に作った書画帖。書が十三、画が十三、ほかに題字跋をあわせて全二十八ページからなる。これはそのうちの「円通幽栖」と題した画。円通については、「阿倍仲麻呂明州望月図」と一対をなす「円通大師呉門隠棲図」でも取り上げている。

桐野夏生は、学生時代に谷崎潤一郎に挑戦して挫折したそうだ。理由は色々あったようだが、谷崎の代表作といわれるものが大阪弁を多用していたことに馴染めなかったということのようだ。大阪弁に限らず、谷崎は関西の女に東京の女にはない潤いと色気を感じたと公言している。それが東京女の自分には気に入らなかった。そんな谷崎の小説を若い桐野は、「上方女にこまされた男」の書いたものと受け取って、反発を感じたということらしい。

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「風景の中の自画像(Moi-Meme, Portrait-Paysage)」は、ルソーの数少ない自画像の一つ。かれはこの絵を死ぬまで手元に置き、加筆していた。パリ万博が行われた1890年、ルソー46歳の時に描かれ、その年のアンデパンダン展に出展された。現代の「肖像=風景」が示すように、風景と一体化した肖像画である点で、ルソーの作品の特徴である風景の中に溶け込んだ肖像というモチーフを典型的にあらわしている。

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1927年のサイレント映画「イタリア麦の帽子(Un chapeau de paille d'Italie)」は、ルネ・クレールのサイレント映画の代表作たるのみならず、サイレント映画の傑作と言ってよい。モンタージュ手法をはじめ、映画の基礎的なテクニックをほぼ網羅しており、映画史上にも重要な位置を占める。

ドゥルーズがベルグソンの大きな影響下に哲学者としてのキャリアをスタートさせたことはよく知られている。かれの初期の思想のキー概念は「差異」と「反復」で、この二つの言葉を結合させた「差異と反復」というのが、彼の初期の代表作のタイトルとなったくらいだ。しかしドゥルーズによるベルグソンの読み方にはかなり手前味噌なところがあり、ベルグソンについての忠実な注釈書と見るわけにはいかない。

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1924年のフランス映画「眠るパリ(Paris qui dort)」は、巨匠ルネ・クレールの映画デビュー作である。フランスは映画先進国として世界の映画界をリードしてきたのであるが、ルネ・クレールはそんなフランス映画界の申し子よろしく、以後世界の映画に大きな影響を及ぼしていく。チャップリンの傑作「モダン・タイムズ」や「独裁者」が、クレールの「自由を我らに」や「最後の億万長者」から大きなインスピレーションを得たことはよく知られている。

戦後さまざまな意匠をまとった日本人論が登場した。それらはおそらく、戦後における日本人の激的な変化を反映したものと思われる。敗戦の日を境に日本人は激変した。それまでは、天皇を民族の父とし、全国民が疑似家族を構成して、一糸乱れぬというべき強調行動をとってきた。ところが敗戦を境に日本人は、民族としてのアイデンティティを失ったかのごとくに、利己的になり、また自尊心を失った。ふつうの感覚では、利己主義と自尊心とは結びついてしかるべきなのであるが、戦後の日本人の場合にはそうもいかなかった。

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「西王母像」と題するこの作品は、友人の母の古希の祝いに贈ったもの。賛にその旨が記されている。曰く、「幡桃已に熟す三千年 萱草春に生ず七十年」。幡桃は三千年に一度なるという長寿の桃、萱草は母を象徴する。その母が七十歳になったのはめでたいことだ、との意味が込められている。

朴裕河は、日本では、「帝国の慰安婦」の作者として話題になった。この本を小生は読んでいないが、日本では好意的に受け取られた一方で、韓国ではすさまじいバッシングにあったようだから、おそらく、慰安婦の問題では、日本側に一定の配慮を見せつつ、韓国側に反省を迫ったものなのだろう。

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「森の中の散歩(La Promenade dans la Foret)」は、「カーニバルの夕べ」とほぼ同じ頃に描かれたと思われる。こちらは昼間の森の中を歩く一人の婦人をモチーフにしている。モデルは妻のクレマンス、舞台はクレマンスの実家があったサン・ジェルマン・アン・レイだとされる。

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