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2020年のアメリカ映画「ノマドランド(Nomadland クロエ・ジャオ監督)」は、アメリカにおける車上生活者をテーマにした作品。タイトルのノマドは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが流行させた言葉で、定住しない遊動民を意味している。それは当事者の意思にもとづく選択としての遊動なのだが、この映画の中の車上生活者は、外的な事情によってその生活を強要された人々である。かれらはヴァンやキャンピングカーに乗って、そこらじゅうを放浪しながら、日雇いの仕事で糊口をしのいでいる。ある種のホームレスといえなくもないが、当事者はホームレスだとは思っていない。ハウスレスではあるが、ホームレスではないというのだ。ハウスレスとホームレスのどこが違うのか。

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デュフィはモーツァルトを敬愛していて、十数点の「モーツァルト頌」を制作している。1915年のこの作品は水彩画で、かれのモーツァルトへの敬愛がよく表現されたものだ。これを描いた頃のデュフィは、自分自身の画風の確立に向けて試行錯誤を続けていた。それまでは、表現主義の雰囲気を濃厚に感じさせるものが多かった。この絵には、それとは違った軽快さがうかがわれる。

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2019年のアメリカ映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(Once Upon a Time in... Hollywood クエンティン・タランティーノ監督)」は、落ち目になった俳優とそのスタントマンの冴えない日々を描いた作品。それにシャロン・テート事件をからませてある。だが、事実をかなり修正してある。マンソンの一味はシャロンを襲うかわりに主人公の冴えない俳優を襲い、逆襲されて叩きのめされることになっている。シャロンは無論死なない。だから、シャロン事件はただのさしみのつま扱いだ。

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「青い騎士(Le cavalier bleu)」と題されたこの絵は、タイトルからして、ドイツ表現主義を連想させる。アウグスト・マッケやエミール・ノルデらが1911年に結成した表現主義運動は「青い騎士(Blaue reiter)」と称していた。デュフィはそれに敬意を表してこの絵を描いたのであろう。

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2013年のアメリカ映画「華麗なるギャツビー(The Great Gatsby バズ・ラーマン監督)」は、スコット・フィッツジェラルドの同名の小説を映画化した作品。原作は20世紀アメリカ文学を代表する作品という評価が定着しており、村上春樹などはアメリカ文学の最高傑作とまで言っている。小生はかならずしもそうは思わない。俄か成金の失恋をテーマにした原作は、アメリカンドリームを感じさせる点ではアメリカ人好みではあるだろうが、そんなものに興味を感じない人間には、ただの失恋物語にしか見えない。「ウェルテル」のような若い男の失恋なら多少の色気も感じられるが、三十を越した俄か成金の失恋に共感するわけにはいかない。

正法眼蔵第六十三は「発菩提心」の巻。「発菩提心」と題する巻はもう一つある。追加十二巻のうちの第四巻だ。岩波文庫の旧版では、本体第六十三は「発無上心」と題していた。それが「発菩提心」と変えられたのは、本文の趣旨を踏まえたからだろう。本文を読むと、「発無上心」とか「無上心」といった言葉は一切出てこず。もっぱら「発菩提心」という言葉が頻出するのである。

ドゥルーズは、フーコーが普遍的なものや永遠なものにあまり重要性を与えなかったことに注目している。現代社会に生きている欧米人にとっては、人権とか資本主義といった概念は普遍的でかつ永遠なものとして無条件に受け入れられるが、実は条件づけられた概念なのだというのがフーコーの考えである。どんな知も条件付けられている。その条件付けは歴史的な背景を持っている。つまりどんな知も一定の歴史的な環境を前提としているのであって、その環境が異なれば、知の体系もおのずから異なる。だから歴史を超越した普遍とか永遠なるものはない。ある時代に生きている人間が、自分らの知の体系を普遍的で永遠なものとして受け取るのは、その知の体系の中にからめとられているからだ、というのがフーコーの基本的な考えである。だから、普遍的なものが知を基礎づけるのではなく、ある時代に支配的な知が己を普遍的と名付けるのである。そのことをドゥルーズ=フーコーは「普遍的なものは後から来る」と言っている。

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「バラ色の服を着た夫人(La dame en rose))と題されたこの絵は、表現主義のほかにゴーギャンやゴッホの影響を感じさせる。明瞭な輪郭線とか、どぎついほどの色彩表現である。表現主義自体に、ゴーギャンとかゴッホにつながるものがあるから、これは不思議ではない。

多和田葉子の小説「星に仄めかされて」は「地球にちりばめられて」の続編である。前編の最後で勢ぞろいした六人の人物たちのその後の行動が描かれている。前編では、かれらは皆でストックホルムへ旅行するような気配で終わっていたと思うのだが、かれらが集まるのはコペンハーゲンである。Susanooが失語症だと思い込んだクヌートらが、かれをコペンハーゲンの病院に入院させたのだ。そこでみながそれぞれSusanooを見舞うために病院に集まる。ところがSusanooは、失語症なのではなく、意識的にしゃべらないだけだということがわかる。Susanooは饒舌と言ってよいほどよくしゃべり、しかも攻撃的だった。そんなSusanooを中心にこの編は展開していくのである。

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2013年のアメリカ映画「ゼロ・グラビティ(Gravity アルフォンソ・キュアロン監督)」は、宇宙士が宇宙を放浪する様子を描いたSFサスペンス映画である。同趣旨の映画には「2001年宇宙の旅」があるが、それに比べると、こちらはややたるんだ印象を与える。登場人物が実質二人で、そのうちの一人がひたすら宇宙空間をさまよう様子がもっぱらうつされるので、物語性に乏しく、またなぜそんなことが起こりうるのかと思わせるほど、まともらしさに欠けるのである。

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1910年ごろに、デュフィの画風に変化が起こった。それまでのキュビズムへの傾斜に加えて、ドイツ表現主義の影響が見られるようになった。かれは1909年にフォーヴィストのフリエスとともにミュンヘンを訪れ、そこで表現主義に接したようである。フリエスのほうも、1911年ごろから表現主義者の集まりベルリン分離派と交渉するようになった。かれらは二人ともども、表現主義に影響されたようである。

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2008年のアメリカ映画「ワルキューレ(Valkyrie)」は、ヒトラー暗殺計画のなかで最大規模の「ワルキューレ作戦」をテーマにした作品。この作戦は、作戦という大げさな言葉が使われている通り、小規模な暗殺計画ではなく、軍隊の一部を巻き込んだ大規模なものだった。軍隊組織のうち予備役で構成する大部隊が、組織をあげてこの暗殺計画に関わったのである。計画は未遂におわり、関わった者たちはすべて殺されたが、この計画の挫折した9か月後には、ヒトラーとナチス政権は崩壊した。その崩壊を、この作戦が多少とも早めたのかどうか、よくはわからない。

無覚先生:三年ぶりの総選挙で自民党が大敗しました。公明党も拠点というべき大阪の選挙区で全敗するなど、自公連立政権に厳しい結果となりました。自公あわせても定数の過半数にいたらなかったわけで、政局が一挙に流動化することが考えられます。石破首相の進退問題に発展する可能性もある。これまで自民党は盤石の基盤を誇り、一強多弱といわれるような圧倒的な優位を誇ってきたのが、一気にひっくり返ってしまった。政治というものはわからないものだと改めて考えさせられました。今回の事態をどう受け取ったらよいか。

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デュフィのキュビズムへの関心は、1907年のサロン・ドートンヌでセザンヌの回顧展を見たことで搔き立てられた。かれはル・アーヴルの出身で年下の画家ジョルジュ・ブラックと、セザンヌを手掛かりにしてキュビズムを研究した。ブラックはすでに1906年からセザンヌの研究にとりくんでいて、そこからキュビズムの可能性について自覚しつつあった。

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2007年のアメリカ映画「ノーカントリー(No Country for Old Men ジョエル・コーエン監督)」は、麻薬取引がらみの殺人を描いた作品。麻薬取引がこじれて殺し合いになった現場に、たまたま男が通りかかる。現場には大量の麻薬と200万ドルの現金が残されていた。男はその現金を着服するが、それがもとで殺し屋に狙われる。その殺し屋は、残忍な男で、人を殺すのが趣味のような奴だ。しかも狙った餌食は絶対逃さない。かれに狙われたものは、袋の中のネズミなのだ。じっさい、金を着服した男は、最後には殺されてしまうし、男の妻も殺されてしまう、といった内容である。

正法眼蔵第六十二は「祖師西来意」の巻。祖師西来意とは、禅宗の祖達磨が西天インドから東土中国にやってきたのはどんな目的でか、という意味。禅宗の公案でたびたび出てくる言葉である。禅の根本精神をたずねるものとされる。その祖師西来意がこの巻の主題のはずだが、肝心の祖師西来意の内容には触れず、香嚴寺襲燈大師(通称香嚴)の放った言葉の意味についての解釈となっている。

教育庁で学校健康担当を二年余りやったあと、財務局用地部評価室指導担当課長に横転した。財務局用地部評価室というのは、都が当事者となる不動産等の取引価格を決定する部署である。道路用地の買収価格とか、ヘリコプターの購入価格、あるいは都有財産の貸し付けにかかる賃料の設定といったことを行う。これは都の固有事務であるが、それにあわせて国土利用計画法にもとづく事務を担当していた。国土利用計画法の本則には、一定規模以上の土地の取引の届け出制を定めている。取引価格が市場の実勢と比較して、あまりに多額である場合は、それについて勧告する権限が都道府県知事に与えられている。また臨時措置として、一定の区域(監視区域という)について、あらゆる土地取引の届け出制を定める規定があった。地価の異常な上昇を制御することを目的としたものである。これは区市町村の事務に位置付けられていたが、都はその事務を指導する立場にあった。要するに、評価室というのは、都の固有事務としての不動産価格の決定と国土利用計画法に基づく事務とを所管していたわけだ。その事務のうち、固有事務については評価担当課長が、国土法の本則としての届け出にかかる事務については国土法担当副参事(これは教育文化財団で社会教育施設青年の家の所長をしていた男で、小生とは結構仲がよかった)が、区市町村の指導にかかる事務については指導担当課長が所管していた。小生が任命されたのは、指導担当課長である。

フーコーが死んだ二年後にドゥルーズはフーコー論を刊行した。1986年6月のことである。この本の中でドゥルーズは、自分自身の問題意識にかかわらせながら、フーコーの哲学史的な意義について解明する。普通の理解では、フーコーは「言葉と物」においてエピステーメーの理論を体系的に展開し、「監獄の誕生」において権力の問題について深い考察を行ったということになろう。そこで、エピステーメーと権力という二つの問題系のうちどちらをより重視するかによって、フーコー像には微妙なニュアンスの違いが生じる。小生自身は、エピステーメーの理論のほうをより重視している。かれのエピステーメー論は、知の枠組みの歴史的性格を暴露したものだ。どんな知的な営みも、特定の認識枠組みを前提としている。その枠組みは、カントが言うような人間に先天的に備わったものではなく、歴史的に形成されたものだとフーコーは考える。そうすることによって、人間の思考を相対化するわけである。ところがドゥルーズは、この書物の中では、フーコーの権力論のほうに重点を置きながら、フーコーの思想のユニークな点を強調している。ドゥルーズがフーコーの権力論に重点を置くのは、ニーチェの徒としての自覚によるのだろう。かれはフーコーの権力を、ニーチェの力への意思と結びつけることで、自分の思想とフーコーのそれとの橋渡しを行ってみた、というのがこの書物のかれにとっての位置づけなのではないか。

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「旗で飾られた通り(La Rue pavoisée)」と題されたこの絵は、デュフィのフォーヴィズム期の代表作の一つ。彼の故郷ル・アーヴルの街の様子を描いている。旗が飾られているのは、革命記念日を祝ってのことである。かれは1906年の夏に故郷のル・アーヴルに滞在し、7月14日の革命記念日の様子を描いたのであった。この時には友人の画家マルケも同行していて、やはり同じような構図の絵を描いている。

多和田葉子の小説「地球にちりばめられて」は、地球の近未来を舞台にしていることでは、「献燈使」の続編のようにも思われる。「献燈使」は、おそらく原子力の大事故によって地球環境が激変してしまい、各国が互いに鎖国状態になるなかで、人間の生態も狂ってしまうような世界を描いていた。ある種のディストピア小説といってよかった。一方この「地球にちりばめられて」が描く地球は、気候温暖化の影響で環境が激変したということになっている。主人公格のHirukoという女性の祖国は、彼女がデンマークに留学している間に、水没してしまったようである。彼女の国は、日本と明示されているわけではなく、中国とポリネシア諸島の間にあるといわれているだけだが、テクストの行間から日本だとわかるようになっている。小説は、そのHirukoが、同国人に会うためにヨーロッパじゅうを遍歴する旅をテーマにしている。そのヨーロッパは、ディストピアではない。むしろ住みやすい世界として描かれている。だが、気候変動の影響を受けてもいる。たとえばグリーンランドはもはや氷の世界ではなく、温暖化の恩恵を受けて農業ができるようになっている。グリーンランドの氷がとければ、ヨーロッパも水面上昇の圧力にさらされ、デンマークのコペンハーゲンなどは水没するはずだと思われるのだが、小説はそこまで厳密に科学的であろうとはしない。

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