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「聖書商人ロベール・マケール(Robert-Macaire Md de bibles)」と題されたこの石版画は、新聞王ジラルダンを風刺した作品。ジラルダンはラ・プレスほか有力な新聞を発行し、それに広告の機能を持たせることで、巨万の富を得た。そのやり方は、誇大広告で人々の購買意欲をあおるというもので、それに対してシャリヴァリによるフィリポンとドーミエは強く反発した。

国際刑事裁判所なるものが、ロシアの大統領プーチンを、戦争犯罪容疑で国際指名手配したそうだ。小生も、プーチンは裁かれるに値することをやっていると考えるので、かれを訴追する動きに異議はない。だが、いまの国際情勢を踏まえれば、この訴追には象徴的な意味しかなく、プーチンが現実に裁かれる可能性はほとんどないと言われている。それでもプーチンを裁こうとするのは、世界の指導者に対する警告の意味合いがあるからだという。プーチンと同じようなことをすれば、誰でも、たとえアメリカ合衆国の大統領であっても、訴追される危険があることを知らしめることで、抑制的な効果を期待するというのである。

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クリント・イーストウッドの1988年の映画「バード(Bird)」は、伝説的なジャズ・ミュージシャン、チャーリー・パーカーの伝記映画である。伝記といっても、パーカーの生涯を満遍なくカバーしているわけではない、パーカーをめぐるいくつかのエピソードをコラージュ風につなぎあわせたものである。

「東洋的な見方」は、鈴木大拙の最後の著作であり、いわば遺書みたいなものだ。かれはこれを、1963年93歳の時に出版した。いま岩波文庫から出ている「東洋的な見方」は、大拙の死後に、西田幾多郎の研究者としても知られる上田閑照が編集しなおしたものである。原作に収められた14篇の文章のほか、同時期に書かれた文章を合わせ、34篇からなる論文集としたものである。

大相撲の春場所が興行中だが、貴景勝が休場したことで、横綱・大関がひとりもいなくなった。こんな事態は、昭和以降初めてのことだそうだ。異常というほかはないが、それ以上に、横綱・大関不在では、全く盛り上がらないというべきだ。大相撲ファンは、残念を通り越して、あきれ返っていることだろう。

東京の明治神宮再開発に伴い、大量の樹木が伐採されることがわかって、大騒ぎになっている。この地域は、東京の中でも景観のすぐれたところで、都心のオアシスとして、都民はもとより東京を訪れる人々に親しまれてきた。それを一気に伐採して、高層ビルをたてようというのだから、人々が反発するのは無理もない。たとえていえば、パリのエッフェル塔をぶっ壊して、安っぽい高層ビルを建てるようなものだ。

デカルトのコギトから出発した西洋近代哲学にとって、他者の問題は解きがたいアポリアだった。意識によってすべてを基礎づけようとすれば、私の意識以外のものはすべて対象であって、他者もまた対象である限り、机や椅子となんら変わりはない。私は私が意識であることを確実に知るのであるが、机に意識が宿っているとは思わないし、それと同じように、他者にも意識が宿っているとは明言できない。意識にこだわる限り、意識の担い手としての他者は、わたしにとっては明瞭なものではないのだ。無論私は、他者が自分と似た存在であると思う限りにおいて、自分が持っている意識を他者もまたもっていると推測することはできる。だが、それはあくまでも推測であって、明証な事実の認識ではない。ともかく意識から出発する限り、他者の問題は解きがたい難問なのである。

六年ぶりのWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が盛り上がっている。一次リーグの会場の一つが日本の東京ドームだったこと、そして日本チームが非常な活躍を見せていることが、その要因だ。小生もまた、その熱気に促されるようにして、準々決勝の対イタリア戦を、テレビ中継で見た次第だ。ご案内のように、日本チームは圧倒的な強さを見せてくれ、また、大谷やダルビッシュ、そして他の選手のすばらしいプレーを堪能することができた。

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1834年4月のリヨンにおける暴動に引き続き、1835年7月にはルイ・フィリップ暗殺未遂事件が起きる。これらの事件を深刻に受け取った政権は、強圧的な弾圧政策に踏み切る。その最たるものは、表現出版の自由を制限するものだった。内務大臣ティエールの主導のもとで、政府に批判的なメディアがことごとく廃刊に追い込まれた。ドーミエがかかわっていた「カリカチュール」も、1835年8月に廃刊を余儀なくされた。

ゴーゴリの短編小説「外套」を評して、ドストエフスキーが「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から生まれたのだ!」といったことはよく知られている。ドストエフスキーがそういった理由は、ゴーゴリのこの小説が、かれを含めたロシアの作家たちの模範となったということだ。それほどこの小説は、ゴーゴリ以後のロシア文学に決定的な影響を与えたのである。

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山田洋次の1963年の映画「下町の太陽」は、山田の駆け出し時代の作品で、かれにとっては二作目の劇場用長編映画だった。それに倍賞千恵子が主演した。この若い女性の青春を描いた映画は、同名の主題歌と共に大ヒットし、山田にとっても賠償にとっても出世作となった。以後かれらは、「寅さんシリーズ」をはじめ、山田のほぼすべての作品で協力し合った。監督と俳優がこれほど親密な関係を築いたのは、世界中を探しても、他に例がないだろう。

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「ラファイエットはくたばった、ざまあみろ(Lafayette!...Attrappe, Mon Vieux)」と出されたこの作品は、英雄ラファイエットの葬儀をテーマにしたもの。とはいっても、ラファイエットの葬儀の様子は遠景として描かれ、全面いっぱいにルイ・フィリップが描かれている。

奄美大島から与那国島にかけての南西諸島に、長距離ミサイル拠点が整備され、対中戦争に備えて軍事力の強化が進められている。この島々は、中国が独自に設けている防衛線上に位置しているが、日米同盟にとっては中国攻撃の重要拠点となるものだ。日本はいままで空母を持たなかったが、これら島々が空母と同様の機能を果たせることとなる。しかも沈まない空母、不沈空母だ。

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2022年の日本映画「PLAN 75(早坂千絵監督)」は、老人問題をテーマにした作品。社会に存在する意味がなく、しかも自身死んでもよいと考えている老人を、国が積極的にかかわり、死なせてやる政策をとったことで、多くの無用な老人が始末されるというような内容の作品である。国家が権力的に国民を始末する(殺す)というのは、究極的なディストピアだと思うが、今の日本ならそれがおきかねないという恐怖を感じさせるような映画である。実際今の日本は、無用な年寄りは早く死ね、と言ってはばからぬ人間でも総理大臣が務まるような国柄である。この映画の中のことが、絶対に起きないとはいえない。

新井白石と荻生徂徠はほぼ同時代人であって、政権の中枢と近い関係をもったことでも共通するので、とかく比較されやすい。この二人のうち、丸山真男は徂徠を高く評価し、加藤周一は白石を取り上げることが多かった。といっても、白石を徂徠の上に置くわけではない。加藤は白石の実証的な姿勢を高く評価するのであるが、徂徠にもそうした実証的な傾向はある。学問としてのレベルにおいては、この二人はおそらく優劣つけがたいというのが加藤の本音だったと思われる。加藤が白石のほうにより強いこだわりを見せるのは、白石の思想とか業績といったことよりも、その人間性にひかれたからではないか。人間性という点では、徂徠には非常に意固地なところがある(伊藤仁斎に対する意趣返しはその典型である)。

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「トランスノナン街(Rue Transnonain)」と題されたこの石版画は、1834年4月にリヨンを舞台にして起こった労働者の運動への大弾圧を告発したもの。この運動は、ルイ・フィリップへの批判的グループ「人間の諸権利協会」が、リヨンの絹織物職工組合を組織して行ったもので、8000人以上の労働者が参加した。それに対して、内務大臣ティエールが軍隊まで動員して弾圧にとりかかり、労働者側に192人、軍隊側にも129人の死者をだすなど、内乱状態といってよいような状況を呈した。

大江健三郎が、老衰で、死んだ。五・六年ほど前まで、読書誌「図書」にエッセーのようなものを連載していたのが、近年は文業からほとんど遠ざかっているように見えたので、老衰が進んでいるせいだろうかと思ったりしたものだが、そのとおりだったわけだ。だが、八十八歳という年齢は、老衰死というにはなじまないのではないか。たとえば鈴木大拙は、九十歳を超えてもなお、旺盛な執筆意欲をもっていたし、親鸞聖人も、あの時代に生きながら、八十代の半ばまで知的活動をやめなかったものだ。それを思えば、八十八歳で死んだ大江は、死に急ぎすぎたのではないか。

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深田晃司の2019年の映画「よこがお」は、日本社会の陰湿ないじめ体質をテーマにした作品。甥が少女誘拐事件をおこしたために、事件とはなにも関係のない女性が、社会からすさまじいバッシングをうけ、居所を失うさまを描く。深田晃司の映画にはわかりにくいところが多かったのだが、この映画はわかりやすい。しかしそのわかりやすさが、テーマ設定の性格からして、非常な気味悪さを感じさせる。

真宗を含めた浄土宗の本質的な特徴は他力の信心ということにある。他力の信心の具体的な内容は阿弥陀如来への信仰というかたちをとり、その阿弥陀如来には一神教的な人格神の要素が強くあるから、他力の信心は人格神崇拝というべきところを持っている。他の大乗仏教各派は、やはり釈迦という人格を信仰するのであるが、人格としての釈迦自身よりも、釈迦が体現している真理への信仰という形をとっている。その真理は法身と呼ばれるので、ある意味抽象的なものへの信仰である。それに対して浄土宗は、人格としての阿弥陀を信仰し、しかもその信仰には自力の要素は一切ない。他の大乗仏教には、日蓮宗も含めて、修行などの自力の要素が残っているのに対して、浄土宗は徹底して他力の信心を追及しているのである。

小泉純一郎元首相は、福島原発事故以来原発ゼロを叫んできたが、最近はその声が途絶えがちのように見えた。ところがこのたび、岸田政権が原発回帰の姿勢を露骨に示したことに反応して、雑誌「世界」のインタビューに応じた。「世界」はずっと一貫して原発に批判的なスタンスをとってきたので、岸田政権の原発回帰に危機感を覚え、小泉純一郎と助っ人と頼んで、引っ張り出したのだろう。

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