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瀬々敬久の2017年の映画「8年越しの花嫁 奇跡の実話」は、冒頭に「実話にもとづく」ということわり書きがあるように、実際にあったことを映画化したものである。その実話とは、結婚直前に脳の難病により意識不明に陥った恋人の回復を願い、寄り添い続けた若者の話である。若者の執念が実を結び、恋人は意識を取り戻したが、恋人との関係はなにも覚えていなかった。しかし、恋人の献身的な姿を見ているうちに、その姿に感動し、あらためて彼を好きになるというものである。意識を失ってから、二人が再び結ばれるまで、八年かかったというわけである。

中論第十三章「形成されたものの考察」及び第十五章「それ自体の考察」は、自性と無自性とについての考察である。自性というのは、それ自体として存在しているもので、他に原因を持たないものをいう。それに対して無自性というのは、別のものによって形成されたもので、それ自体のうちに原因をもたないものをいう。自性は、基本的には不変である。無自性には生起・存続・消滅の相がある。ここでナーガールジュナが自性と呼んでいるのは、永遠不変の概念のようなもので、したがって人間の思考の産物である。それに対して無自性は、具体的な存在物であって、たえず生成変化していると考えられている。そのように抑えたうえで、自性も無自性も成立しないと断ずるのが、この二つの章の目的である。

岸田政権が発足して以来、小生は表立っての批判を差し控えてきた。岸田政権に大きな期待を寄せているわけではないが、安倍晋三やその亜流に比べれば、ずっとましだろうと思い、当面は彼に政権をゆだねて余計なことは言わないようにしようと考えたのだ。だが、最近の彼の振舞いを見ていると、そうした期待が裏切られたと感じざるを得ない。その理由は二つある。一つはかれの独善的な傾向が目立ってきたということだ。もう一つは、かれが鳴り物入りで喧伝した「新しい資本主義」の具体的な内容が見えてきたことだ。

共同存在についてのサルトルの議論は、「われわれ」についての議論である。サルトルは即自存在としての自己(わたし)から出発して、その即自存在の無化としての対自存在へと移行し、対自存在の他者にとってのあり方としての対他存在を経て、共同存在へと到達するのである。だからサルトルの「われわれ」は、対他存在が対自存在に根拠づけられているように、個人によって根拠づけられる。まず共同体があり、そこから個人が抽出されるというのではなく、あくまで個人が先にあって、その個人の集まりとしての「われわれ」が現れてくるのである。

ウクライナ戦争をめぐる報道を見る限り、プーチンの意図は破綻し、敗北の色が濃厚になってきた、というような見方までされているが、果たしてそうなのか。そこにはプーチン憎しの感情にもとづく希望的観測が含まれていないか。そんなことを思っていた矢先に、ウクライナがかえって深刻な窮状に陥っており、ウクライナ自体が敗退するばかりか、そのウクライナを支援する西側諸国も深刻な事態に直面するだろうという見通しを述べた記事に遭遇した。アメリカの保守系雑誌 The American Conservative に寄せられた Holding Ground, Losing War :Zelensky's strategy of defending territory at all costs has been disastrous for Ukraine. By Douglas Macgregor という文章である。

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ホッパーは、荒々しい自然の中にぽつんと存在する人工的な構築物を描くのを好んだ。「サウス・カロライナの朝(South Carolina Morning)」と題したこの絵は、果てしなく広がるビーチの中にぽつんと立っている小さな家と、その家の玄関にぽつんと立っている女性を描いたものだ。

瀬戸内晴海の短編小説「みれん」は、「夏の終わり」で始めて描かれた三角関係の終わりをテーマにした作品である。題名「みれん」からは、瀬戸内自身この三角関係に複雑な感情を抱いていることが伝わってくる。彼女は、八年間一緒に暮らしてきた男に、理性では別れなばならぬと納得しておりながら、感情ではなかなかわりきれない。むしろ強い「みれん」を感じている。頭とは全く逆のことを、下半身が迫ってくるのである。

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リンゼイ・アンダーソンの1987年の映画「八月の鯨(The Whales of August)」は、人間の老いをテーマにした作品。老いた姉妹の生き方を通じて、人間が老いることの意味を考えさせるように作られている。その姉妹を、リリアン・ギッシュとベティ・デヴィスが演じている。リリアン・ギッシュはサイレント映画の大女優であり、この時には93歳になっていた。またベティ・デヴィスは、トーキー映画初期の大女優であり、その風貌とか演技ぶりは、小生のようなものも魅了されたものだった。この映画の時点では79歳になっていた。

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「線路際のホテル(Hotel by a railroad)」と題したこの絵も、閉じられた空間にいる人物をモチーフにしている。おそらく夫婦だろう。夫婦が二人きりになっているのだが、かれらは互いに意識していない。それぞれ自分の世界に閉じこもっている。そこに我々は、アメリカ人の人間関係のドライさを感じる。そのドライさは、夫婦のような、本来親密であるべき関係にあっても支配的なのだ。

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1967年のアメリカ映画「招かれざる客(Guess Who's Coming to Dinner)」は、アメリカにおける白人と黒人との人種間結婚をテーマにした作品である。その頃のアメリカは、公民権運動の高まりの中にあったが、まだ白人と黒人との結婚など考えられなかった。なにしろ、ジャッキー・ロビンソンが大リーグでプレイするだけのことで国中が大騒ぎになったのは、わずか20年前の1947年のことだ。野球でさえそんな騒ぎになるのだから、黒人男が白人女性と結婚するなどありえないとされていた。つまりタブーだったわけだ。そのタブーをあざわらうかのように、この映画は黒人の男が白人女性との結婚に成功する姿を描いている。今日では、人種間結婚の問題を正面から取り上げた作品として高く評価されているが、当時の評価は賛否極端に分かれた。評価するものも、けなすものも、自身の人種的な偏見に無縁ではなかったのである。

日本の敗戦をめぐっては、軍の一部にこれを認めず、徹底抗戦を叫んでクーデタを計画するものがいた一方、右翼のなかにもこれを否認して抗議する動きがあった。しかしどちらも大した成果もなく失敗している。このうち右翼の抗議行動として知られているのは、愛宕山事件、松江騒擾事件、代々木練兵場事件である。

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ホッパーは、ケープ・コッドの自分の別荘をモチーフにして多くの絵を描いた。「ケープ・コッドの朝(Cape Cod Morning)」と題したこの作品もその一つ。別荘の建物の出窓から、朝日の昇るさまを見つめる女性が描かれている。この女性が妻のジョーであることはいうまでもない。ホッパーはひたすら妻のジョーを描き続けたのである。

木村幹の「韓国現代史」(中公新書)は、戦後韓国の大統領になった李承晩、尹潽善、朴正煕、金泳三、金大中、李明博に焦点をあて、かれらの生き方とからませながら戦後韓国政治の動きを分析したものである。政治史の叙述には、社会のダイナミズムに焦点をあてる客観的な叙述と、政治家個人の野心に焦点をあてる主観的なやり方とが、両極端にあるが、この本は主観的なやり方の極端なものといえる。あまりにも、政治家個人の野心の解明にのめりこんでいるおかげで、かれらの野心は彼らの個性に解消され、時代の抱えていた社会的な条件は無視されがちだ。したがって読者は、この本を読むことで、政治家個人の個性の一端はかいまみることはできるが、韓国政治を動かしてきたダイナミックな社会的条件については、あまり理解を深めることはない。

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1953年のアメリカ映画「シェーン」は西部劇の名作である。日本でも大ヒットし、小生のような団塊の世代に属する人間は、見ていないものがいないほどである。この映画のどこがそこまで日本人の心を掴んだのか。西部劇に普通の日本人が期待したものは、チャンバラ映画とたいしてかわらぬ勧善懲悪劇だったと思うのだが、この映画にはそれがふんだんに盛り込まれているばかりでなく、それ以外にさまざまな工夫がみられる。その工夫がなかなか行き届いているので、当のアメリカ人はともかく、日本人までが魅了されたということだろう。

中論第九章「過去の存在の考察」及び第十章「火と薪との考察」は、第八章「行為と行為主体との考察」における議論のバリエーションみたいなものである。第九章では、「見るはたらき・聞くはたらき・感受作用」などについて、それらのはたらきそのものとその働きの主体との関係について論じられ、第十章でははたらきとしての火とその主体あるいは担い手としての薪との関係について考察される。

「存在と無」におけるサルトルの対他存在論は、サルトルなりの他者論である。サルトルはそれを、ヘーゲルの他者論から導き出している。ほとんどヘーゲルの精神現象学における自己と他者の相克の議論の焼き直しといってよい。ヘーゲルはその相克関係を、主人と奴隷の関係で代表させたが、サルトルもまた同じような議論を展開している。

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「夏の夕べ(Summer Evening)」と題するこの作品は、奇妙な空間をモチーフにしたものだ。奇妙というのはほかでもない。ホッパーは、これより以前の作品では、ある閉じられた空間内にいる人々をモチーフにしていたのだったが、この作品では、閉じられた空間ではなく、といって開かれた空間でもない。その両極の合間にある空間である。ベランダは、外部から内部への境目にある。その境目に一組の男女を立たせたところにこの作品の特徴がある。

瀬戸内晴美の短編小説「あふれるもの」は、「夏の終わり」の延長上にある私小説だ。「夏の終わり」は、八年間奇妙な同棲生活をしてきた男と、最初の結婚の破綻の原因を作った年下の男との三角関係を描いていたが、この「あふれるもの」は、その年下の男が十二年ぶりに現れ、瀬戸内が激しく恋慕の感情を抱くようになるところを描く。平野謙が言うところの、瀬戸内の私小説の第二のグループのモデルとなった事件にとって、時系列的には発端となった出来事をモチーフにしているわけである。

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2019年のフィンランド映画「世界で一番しあわせな食堂」(ミカ・カウリスマキ)は、フィンランド人と中国人の触れ合いを描いたものだ。いわば両国間の交流促進を目的としたような映画である。同じ北欧でも、ノルウェーは国家関係の悪化がもとで、両国民の相互感情はよくないが、フィンランドでは、国民の対中感情はよいらしい。そうでなければ、わざわざ中国との交流を強調するような映画が、フィンランドで作られるはずがない。

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「サマータイム(Summertime)」と題されたこの絵は、ホテルと思われる建物の入り口に立った若い女性をモチーフにしたものだが、そこにホッパーはさまざまな意味を込めた。若い女性は、肌が透けてみえるようなシースルーのドレスを着ているが、これはこの時代の若い女性の開放的な気分を表している。この絵が描かれた1943年はまさに第二次大戦の最中であり、その限りでアメリカ人は戦争気分に浸っていたわけだが、その気分は暗鬱なものではなく、開放的なものだったのだ。1930年代には、大恐慌の影響でアメリカは沈み込んだいた。第二次大戦はそんなアメリカに、空前の好景気をもたらしたのだ。

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