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「枢機卿と尼僧(Kardinal und Nonne)」と題されたこの絵は、シーレのカトリックへの反感を表現した作品といわれる。シーレは、クルマウでの迫害を経て、ノイレングバッハでは警察に拘留されたのだが、それは近隣住民の反発を受けたものだった。近隣住民は、シーレが未成年者にポルノまがいのことをさせていると言って糾弾したのだった。それがシーレにとっては、カトリックによる芸術の弾圧として受け取れた。オーストリアはカトリックの多い国柄で、性的なことについては非常に敏感である。まして子どもを巻き込む行動は許しがたいものであった。



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ラース・フォン・トリアーの2013年の映画「ニンフォマニアック(Nymphomaniac)」は、色情狂を自認する女の生き方を描いた作品。二部構成になっており、劇場版では計4時間、ディレクターズ・カット版では5時間という長さである。トリアーの他の作品同様章立てになっており、全八章からなる。各章は相互に独立した物語になっている。

十二巻正法眼蔵第二は「受戒」の巻。受戒とは戒を受持すること。それによってはじめて仏教の修行者たる資格が得られる。単に出家するだけではなく、受戒を経てはじめて比丘となる。出家しただけでは沙弥にとどまり比丘にはなれない。

スピノザの聖書批判はもっぱら旧約を対象としており、新約については付随的にしか触れない。当面の論争の対象をユダヤ人コミュニティにおいているからだ。だが本当の論争相手は、オランダのプロテスタントである。プロテスタントは、聖書を神の声とする姿勢がつよく、カトリックに比べて聖書を重要視する度合いが大きい。プロテスタントの聖書重視は、新約のほうに強く見られるが、旧約もまた聖書なのであるから、そちらも同じように重視する。スピノザの時代にはダーウィンは生まれていなかったから、進化論を公然と否定するような現象は見られなかったが、世界は神が無から創造したという説は、プロテスタントの間で強く信じられていた。だから、ユダヤ人を相手に旧約聖書を批判することは、間接的にプロテスタントにも波及するはずなのである。

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ラース・フォン・トリアーの2011年の映画「メランコリア(Melancholia)」は、巨大彗星(映画では惑星と言っている)が地球に衝突する恐怖を描いた作品。それに心を病んだ女とその姉の関係がからむ。二部構成になっていて、前半は妹のジャスティン(キルスティン・ダンスト)を中心に、後半は姉のクレア(シャルロット・ゲンズブール)を中心に描く。タイトルのメランコリアとは、彗星の名である。

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エゴン・シーレは、1912年4月13日に、児童をポルノグラフィのモデルにした罪状で刑務所に入れられた。その直後から、拘禁されている自分のイメージを描き始めた。拘禁中の自画像はかなりの数にのぼる。いすれも紙に鉛筆と水彩絵の具で描いている。それらは「囚人としての自画像(Selbstbildnis als Gefangener)と呼ばれている。

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ラース・フォン・トリアーの2009年の映画「アンチ・クライスト(Antichrist)」は、子どもを死なせた女の心の病とその夫との不幸な関係を描いた作品。この女はもともと心を病んでいたらしいのだが、子どもを死なせたことで病が悪化、狂乱状態になる。それを夫が治療しにかかる。夫はフロイト派のセラピストなのだ。ところが治療は全く功を奏しない。女はうつ病というようなものではなく、幻聴の症状などからして統合失調症と思われる。統合失調症に精神分析はきかない。フロイトがこの映画をみたら、お門違いのことを描いていると思うだろう。それにしてもタイトルの「アンチ・クライスト」は何を意味しているのか。この夫妻のことを、とくに妻のことを、日本人なら心を病んでいるというところだが、デンマーク人はキリストに背いていると捉えるのか。

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「隠者たち(Die Einsiedler)」と題されたこの絵は、ドッペルゲンガー・シリーズの延長上の作品であろう。シーレ自身と思われる人物に、かれの分身が密着している。画面左手の人物がシーレであるが、その姿は「頭を下げた自画像」におけるシーレの自我像をそのまま流用している。

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ラース・フォン・トリアーの2005年の映画「マンダレイ(Manderlay)」は、「ドッグヴィル」の続編という触れ込みだが、それにしては連続性がはっきりしない。主役のグレースを演じている女優が別人だということは抜きにしても、そのグレース(ブライス・ダラス・ハワード)の身分が曖昧である。「ドッグヴィル」ではギャングに追われているということになっていたのに、こちらではギャングの一味になっている。父親がギャングのボスなのだ。そのギャング団と一緒に南部を旅しているうちに、アラバマのマンダレイというところを通りがかる。そこのある農園で、黒人がむち打ちにされそうになっているところを、グレースがとめる。色々聞いているうちに、この農園で働いている黒人たちは、奴隷だということがわかる。奴隷制は70年前に廃止され、いまでは違法である。70年前というのは、この映画の時代設定が1930年代前半になっているからである。

十二巻正法眼蔵の第一は「出家功徳」の巻。正法眼蔵第七十五つまり本体部分の最期の巻が「出家」と題したものであった。十二巻本の最初に置かれたこの「出家功徳」の巻は、「出家」において説いたものを、さらに膨らませて展開したものである。一部反復もある。量的にはだいぶ長いが、内容的には比較的単純である。経典や故人が出家功徳について説いた部分を取り上げ、それについて道元なりの解説を加えるという体裁になっている。

「神学・政治論」の大部分は聖書批判にあてられている。それはスピノザが生きていた当時のヨーロッパ、とくにオランダのようなプロテスタント国において、聖書がきわめて強力な政治の道具になっていたという事情による。スピノザが生きていたのは17世紀半ばのヨーロッパであるが、この時代こそ宗教対立がもっとも激化した時期であり、しかも宗教が政治に強い影響を及ぼした時代だった。イギリスの清教徒革命はその典型的な例である。オランダにおいても、オレンジ公をかついだ保守派とヤン・デ・ウィットが音頭をとった改革派の対立が激化した。その対立に聖書が大きな役割を果たした。特に保守派はプロテスタントの正統派を代表し、聖書の価値を無条件にたたえた。スピノザは、ユダヤ人コミュニティからもプロテスタントからも迫害を受けたのであるが、その迫害を聖書が合理化していた。だからスピノザにとって聖書批判は、ただに宗教上のことがらにとどまらず、人格をかけた戦いといってよかった。

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「頭を下げた自画像(Selbstbildnis mit gesenktem Kopf)」と題されたこの絵は、とかく常軌を外れたイメージのシーレの自画像のうちでも、グロテスクの度合いが強いものだ。ぼさぼさ頭で口ひげを蓄えたシーレは、頭をやや下げた形で、するどい眼光を発している。その眼光は、三日月型の白目によって強調されている。観客はその眼光にとらわれて、シーレが顔の前に突き出した右手にあまり留意しない。その右手は奇妙な様子に指をひろげ、モデルの精神状態の異常さを暗示している。

樋口一葉の生涯は、わずか24年の短いものだった。その短い生涯は、貧困との戦いにあけくれていた。父が生きていた少女時代には、中産階級の家族としてそれなりの生活はしていたようだが、父が一葉の17歳の時に死ぬと、一家は収入のあてがなくなり、次第に貧困に苦しむようになった。その貧困を、やがて一葉が一家の家長として引き受けるようになる。彼女の晩年の日記の記事は、金の心配事ばかりといってよいほどである。そんな中で、一葉は恋をした。もしこの恋がなければ、一葉の生涯は悲惨そのものだったろう。恋が彼女に生きる気力を奮い立たせたといってよい。一葉はその恋の思いを、日記の中で克明に記している。

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ラース・フォン・トリアーの2003年の映画「ドッグヴィル(Dogville)」は、よそ者に対して過酷な行動をする田舎者を描いた作品。ロッキー山地の小さな町を舞台に、そこにやってきた一人の女性を、町民たちがよってたかっていじめるという陰惨な内容の作品である。表面的には、よそ者へのいじめのように見えるが、アメリカへやってきた移民の境遇を思わせるように作られている。アメリカは移民の力を使って繫栄してきたが、その移民に対してフェアではない、といったメッセージを読み取ることができる。

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エゴン・シーレがワールブルガ・ノイツィルと出会ったのは1911年のこと。当時シーレは21歳、ノイツィルは17歳だった。ノイツィルはもともとクリムトの妾のような存在だったらしい。以後1915年までの4年間、シーレの恋人兼モデルとして一緒に過ごした。シーレは彼女をヴァリーと呼んだ。ヴァリーは数多くのポルノグラフィックな作品のモデルを務めている。

小生は、自分の職業として公務員を選んだので、自分自身の人生の回想録たる思い出シリーズは、奉職先の役所での生き方が中心になる。小生が奉職したのは東京都庁だ。なぜそこを選んだのか、その理由は先稿「深川清掃事務所の思い出」に記してあるとおりだ。都庁というのは、一地方公共団体に過ぎないのではあるが、なにしろ図体がでかくて色々な仕事を抱えている。小生が入都した頃は、都道府県の業務のほか、市町村が担うべき業務も担当していた。例えば清掃とか消防といった本来市町村が行うべき業務を都が行っていた。区の職員も都が一括採用し、各区に割り当てていたものだ。財政もほとんど一体化していた。千代田区や港区といった裕福な区から税収の一部を吸い上げて、それを交付税(財政調整資金といっていた)の財源としていた。各区の財政自主権はかなり制約されていたのである。

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ラース・フォン・トリアーの2001年の映画「イディオッツ(The Idiots)」は、タイトルどおり白痴を描いた作品。白痴という言葉は、いまでは差別用語とされており、公の場で使うことはタブー扱いである。トリアーがこの映画を作った時にもすでにそうだったと思うのだが、かれは差別意識を表出することについては無神経なところがあるので、たいして気にせずに知的障害者を侮蔑するこの言葉を、平気で使ったのであろう。

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「ほおずきのある自画像(Selbstbildnis mit Lampionfrüchten)」と題されたこの絵は、構図的には「黒い陶器の壺のある自画像」とよく似ている。こちらには黒い壺に擬したシーレの分身はいない。そのかわり、ほおずきの実が一層大きく表現されている。

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ラース・フォン・トリアーの1996年の映画「奇跡の海(Breaking the Waves)」は、知恵遅れの女性の愛と信仰を描いた作品。デンマーク映画ではあるが、スコットランドを舞台にして、英語をしゃべる人びとの物語である。北海で油田を掘る男が、小さな町に住む女性と結婚。その男は、事故で不能になったあとも、妻を性的快楽の手段として利用する。妻は、智慧が遅れていることもあり、夫のマインドコントロールを受けた上に、自滅するというような内容である。

正法眼蔵第七十五は「出家」の巻。正法眼蔵の本体部分の最後を飾るもので、奥書には寛元四年九月十五日示衆とある(時に道元四十六歳)。この年の六月十五日に、大仏寺を改めて永平寺としており、この示衆は永平寺における最初の示衆である。増谷文雄によれば、期日が判明している範囲で最後の示衆だという。

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