樋口一葉の作家としての名声を高めるうえで決定的な役割を果たしたのは、明治29年4月発行の雑誌「めさまし草」に載った鼎談「三人冗語」である。これは、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨による文芸批評で、鴎外を中心として新作の批評を展開したもの。連載が終わった小説「たけくらべ」が「文芸倶楽部」に再掲されたことに反応して、そのすばらしさをほぼ無条件にたたえた。鴎外が頭取の立場で小説の概要を説明するのを受けて、露伴が「此作者の此作の如き、時弊に陥らずして自ら殊勝の風骨態度を見せる好文学を見たは、我知らず喜びの余りに起って之を迎へんとまで思ふなり」と言い、鴎外が「第二のひいき」として二たび発言し、「われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも。此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と断言した。

2023年の映画「ソウルの春」は、1979年10月26日に起きた朴正熙暗殺事件(10・26事件)から、全斗煥による粛軍クーデタ(11・12事件)成功までの、韓国現代史の一齣を描く。この時期は二重の意味で重要な意義をもつ。一つは独裁者の死によって一気に民主化の機運が高まったこと。その機運を、チェコでかつて起きたプラハの春にたとえ、ソウルの春と呼んだ。それがこの映画のタイトルになっているわけである。もうひとつは、不在となった権力をめぐり、軍内部に大規模な内紛がおき。それが粛軍クーデタにつながった。そのクーデタの成功で、全斗煥らが権力を握り、軍政の復活をもたらす。

ヨハン・ハルムスは妻エディットの父、シーレにとっては義父である。ヨハンは、娘がシーレと結婚することに反対だった。少女にヌードのモデルをさせたり、ふしだらな生活ぶりに呆れていたからだ。だが、娘は強引に結婚してしまった。シーレがこの義父とどんな関係だったかは、よくわからない。しかし肖像画のモデルになってもらったくらいだから、ある程度は親しくしていたのだろう。

016年の韓国映画「コクソン(ナ・ホンジン監督)」は、連続不審死事件をテーマにした作品。不審死の原因は最後まではっきりとはしないが、どうやら悪霊の仕業のようである。悪霊が人に取りついて死に追いやるなどという話は、現代の日本人には迷信としか思われないが、隣国の韓国の人はいまでも信じているようである。そんなことを信じるのは馬鹿だと思われるのではないかと案じたのか、日本人にも一枚かましてある。国村隼演じる謎の日本人が、悪霊として村の人々に取りついていると登場人物の誰もが信じるのである。

「グリーン・ストッキングズを履いて横たわるの女(Liegende Frau mit grünen Strümpfen)」と題されたこの絵は、エディットの妹アデーレをモデルにしている。ワリーを失ったシーレは、気の知れた、しかもエロチックな雰囲気をもったモデルがいなくなった。そこで、エディットよりはるかにエロチシズムを感じさせるアデーレをモデルにするようになった。アデーレもシーレの望みに応えた。

パク・チャヌク(朴贊郁)の2000年の映画「JSA」は、朝鮮半島の南北境界線を挟んで北側と南側の兵士が、体制を超えて友情を結ぶさまをテーマにした作品。いささか荒唐無稽さを感じさせるが、2000年前後の韓国は金大中が大統領だったこともあり、南北融和の機運が高まっていたので、こんな映画が作られてもおかしくはなかったともいえる。
十二巻正法眼蔵第四は「発菩提心」の巻。「発菩提心」と題する巻は本体部分にもある(第六十三)。両者とも同じ日付で示衆したとある。増谷文雄によれば、本体部分は大仏寺の造営に携わたった職人集団を相手に、この十二巻部分のものは修行僧を相手に行ったものらしい。同じく「発菩提心」と題していても、その内容はかなり違う。本体部分のものは、寺の造営に従事することこそ発菩提心だと説いているのに対して、こちらは自分のさとりより他者のさとりを優先すべきだと説く。それを、自未得度先度他「自らいまだ度せずしてまず他を度す」の心という。
スピノザが友人・知己らと交わした往復書簡集の邦訳版が岩波文庫から出ている。畠中尚志の訳で、発行は昭和三十三年(1958)十二月である。84本の書簡が収録されている。スピノザから宛てたものが50本、スピノザ宛のものが34本である。文通の相手を畠中は四種類に分類している。第一は親友・門弟の一群で、これに属するのはイェレス、ド・フリース、バリング、マイエル、バウメーステル、シュラーの6人である。かれらとのやりとりは概ね友愛的であり、論争的な要素はない。スピノザの思想の主要な概念について友人らがわかりやすい説明を求め、それに対してスピノザが丁寧に答えるというものが多い。ド・フリースとは定義と公理の本性について、マイエルとは無限なるものの本性についてやりとりしている。マイエルはスピノザの弟子の中でもっとも重要な人物で、「デカルトの哲学原理」の序文を執筆した。バリングとは表象力の現れについて、イェレスとは光線の屈折や水圧など、主に物理学的なやりとりをしている。シュラーとは、ライプニッツについての噂話のような真似をしている。シュラーはライプニッツに対して好意的であるが、スピノザは警戒しており、あまり付き合いたい相手ではないというような気持を表明しているのが面白い。

シーレは1915年6月に結婚した。相手はウィーンのヒーツィンガー通りのかれのアトリエの向かい側に住んでいた中産階級の娘エディット・ハルムスだった。エディットにはアデーレという妹がいて、かれは姉妹の両方と深い付き合いをしたようだが。姉のエディットを妻に選んだ。そのことでワリーとの関係は終わった。
下谷龍泉寺町での生活は一年と続かず、一葉一家は明治27年5月1日に本郷区丸山福山町に移住した。以後一葉は死ぬまでの二年六か月余りをこの地で暮らす。この時期の日記を一葉は「水の上」日記とか、「みずのうへ」と題している。自身を舟にたとえ、水の上をただよう姿をイメージしたのであろう。日記は、明治29年の7月22日を最後に途絶えている。病気が悪化したためだ。その4か月後に一葉は24歳の短い生涯を閉じるのである。

2024年のアメリカ映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日(Civil War アレックス・ガーランド監督)」は、近未来におけるアメリカの内戦をテーマにした作品。内戦の原因は、大統領が憲法を無視して三選したことに、一部の州政府が反発して合衆国から離脱、また、カリフォルニア州とテクサス州が西軍を結成し、政府軍との間で戦争が始まった、という設定。一見して荒唐無稽に見えるが、あながちありえない話ではない。アメリカは今や深い分断に直面しており、いつ内乱がはじまってもおかしくないと思っている人は多い。トランプという男が、アメリカをそのように変えた、というメッセージがこの映画からは伝わってくる。

2023年のアメリカ映画「オッペンハイマー(Oppenheimer クリストファー・ノーラン監督)」は、原爆の父と呼ばれるロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記映画である。日本を含め世界中で話題になった。ウクライナ戦争をめぐり、プーチンが核兵器使用を示唆するなど、原爆の危機がせまっているなかで、原爆について人々に考えさせるものがある、というのが大方の受け止め方だ。要するに、平和の尊さを考えさせる映画だというわけである。しかし、この映画を虚心坦懐に見れば、そういう印象は伝わってこない。かえって原爆は基本的にはよいものであり、それを開発したオッペンハイマーは賞賛されるべきだというようなメッセージが伝わってくる。

「死と乙女(Tod und Mädchen)と題されたこの絵は、シーレとワリーをモデルとした作品の最後のものである。死神がシーレ、乙女はワリーをあらわしている。この絵の中のシーレは、ワリーにとって死神なのである。というのも、シーレは知り合ったばかりのエディットが気に入り、彼女と結婚する気になった。そこでワリーに事情を告げると、ワリーは絶望的な気持ちになった。この絵は、絶望するワリーと、死神のように残酷なシーレ自身の表情を描きだしている。

2021年のアメリカ映画「コーダあいのうた(CODA シアン・ヘダー監督)」は、両親と兄が聾者という家族とともに暮らす少女の物語。家族は漁を生業としており、少女も夜明け前に起きて船に乗っている。彼女は高校三年生で、学校ではコーラス部に入っている。コーラスの指導教員が、彼女の才能に注目し、バークリー音楽大学を目指せという。しかし、彼女は家族にとって不可欠な存在。自分勝手な行動は出来ないと悩むが、両親が彼女の意思を尊重して入学試験を受けさせる。彼女が歌うのを家族は聞くことができない。だが彼女が合格すると喜ぶのだ。彼女が住んでいる港町はグロスターのようだから、バークリーのあるボストンの近くだ。なんとか通えるのではないか。
スピノザの著作「神学・政治論」は、「聖書の批判と言論の自由」という副題がついている。スピノザにとって言論の自由とは哲学する自由を意味する。その哲学する自由をことさらに主張した理由は、スピノザが実際にその自由を奪われたからである。スピノザに哲学する自由を与えなかった相手は二つある。一つはユダヤ人たちであり、もう一つはプロテスタントの正統派である。両者ともに、政治より宗教の優位を主張し、その宗教的な立場からスピノザを迫害した。かれらの宗教的な立場は、聖書の全面的な受容に根差している。だからスピノザは、哲学する自由を聖書批判にからめて主張せざるをえなかったのである。「神学・政治論」に「聖書の批判と言論の自由」という副題が付された所以である。

2017年のアメリカ映画「ワンダーウーマンとマーストン教授の秘密(Professor Marston and the Wonder Women アンジェラ・ロビンソン監督)」は、アメリカの人気漫画「ワンダーウーマン」の作者をフィーチャーした作品。作者のマーストンは大学の心理学の教授で、妻とともにウソ発見器の研究などをしていた。そこに一人の女子学生が助手として加わる。その学生オリーヴにマーストンは性的関心を抱く。また妻のほうも彼女に同性愛を感じる。オリーヴはそんな夫妻のいずれともセックスをする。妻も夫とのセックスをやめない。つまり男女が三つ巴の乱婚状態になる。その結果妻とオリーヴが同時に妊娠する。

シーレには、レズビアンをモチーフにした作品がいくつかある。だいたいエロチックな雰囲気のものだが、「絡み合って横たわる二人の少女(Zwei Mädchen in verschränkter Stellung liegend)」と題されたこの絵は、あまりそうした雰囲気を感じさせない。そのかわり、右手の女性を盲目に描くことで、別の雰囲気を持ち込んでいる。シーレがなぜこの女性を盲目にしたのか、その理由はわからない。

1966年から1973年にかけて、アメリカのテレビシリーズ「スパイ大作戦」が人気を博した。日本のテレビでも放映され、小生も見たことがある。テーマ音楽はいまでも流されている。そのシリーズを映画化したのが「ミッション・インポッシブル」だ。これはテレビで放送されたものからエッセンスを抜き取ったもので、これまで8作が制作されたという。第一作目は「ミッション・インポッシブル(Mission: Impossible)」と題して1996年に公開された。

「聖家族(Heilige Familie)」と題されたこの絵は、シーレとワリーをモデルにしており、二人には子供がいるように描かれている。しかし、ワリーが子供を産んだと事実はない。だからこの絵のモチーフは、シーレが勝手に想像したものである。なぜそんな想像をしたのか、よくはわからない。

2003年のカナダ映画「アララトの聖母(Ararat)」は、1915年に起きたトルコによるアルメニア人の大虐殺をテーマにした作品。この大虐殺はのちにジェノサイドの原型的なケースと言われるようになり、また特定の民族の消滅を狙ったことから民族浄化の原型とも言われる。だが、当事者のトルコ政府はその事実をかたくなに否定し、事件の記憶が次第に薄くなっていくことで、歴史から抹殺されてしまうのではないかとの危機感が、アルメニア系住民の間に高まってきた。この映画は、カナダ映画ではあるが、アルメニア系の人々が、このジェノサイドの記憶を後世に伝えることを目的に作ったというふうにアナウンスされる。だがジェノサイドの史実に焦点をあてるのではなく、それと並行して、映画監督とか、アルメニアの歴史の研究者だとか、その息子、そして息子と奇妙な時間を共有する税務官吏などが出てきて、それぞれの個人的な事情を披露したりする。そうした個人的な事情は、ジェノサイドを考える上では全く関係がないと思えるので、映画の構成をだらけたものにしている。
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