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アンフィトリテ(Amphitritē)は、ギリシャ神話の海神ポセイドンの妻である。ホメロスの「オデッセイ」では、海の巨大な生き物を従えていると描写されている。また、テーセウス神話では、ミノスに言われて海底にやってきたテーセウスを丁重に出迎えたことになっている。古来絵画の題材として好んで描かれてきた。海に君臨する女王というイメージが支配的である。

樋口一葉が「にごりえ」を書いたのは「たけくらべ」執筆中のことである。金に困った一葉が出版社に借金を申し出たことで、急遽小説を一つ仕上げねばならなくなって、これを書いたというのが実情である。そんなこともあって、「たけくらべ」と「にごりえ」には、ある種の連続性を認めることができる。「たけくらべ」は少年少女の成長物語として始まり、途中から14歳の少女の身に劇的な変化があらわれる様子を描く。その変化は、彼女が吉原に芸者として売られる運命に関連している。彼女の姉は吉原の売れっ子芸者であり、自分もその姉と同じ道を歩む運命にあることを14歳の少女美登里が思い知る。それが彼女の劇的な変化の背景にある。そういうふうに見ると、「たけくらべ」は芸者になることを定められた女の気持ちに沿った作品ということができる。一方「にごりえ」は、小石川の新開地の銘酒屋の酌婦お力をめぐる物語である。銘酒屋の酌婦というのは、ありていに言えば私娼のことである。客に酌をしながら、求められれば体を売る。そういう私娼が公然とした存在になるのは明治以降のことである。そんな私娼を小説の題材にした作家というのは、一葉以前にはいないのではないか。この小説は、「たけくらべ」が完結していなかった時点で、一葉の名声を一気に高めたのであるが、それには題材の新奇さが大いに働いていた。

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アリ・アッバシの2022年公開の映画「聖地には蜘蛛が巣を張る」は、デンマーク映画ということになっているが、実際にはイランを舞台にしており、もっぱらイラン人が出てくる映画である。しかもイラン人にとって不愉快になるような内容である。そこでイランでは、ヨーロッパ人がイランを貶めるためにつくったプロパガンダ映画だと批判された。その一方ヨーロッパ諸国では絶賛された。かれらの反イスラム感情を満足させたからだと思われる。そんなわけでこの映画は、かなり政治的な色彩を感じさせる作品である。

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レガッタとは、ヨットやボートなど人力で走らす船のレースのこと。カウズは、ル・アーヴルからドーヴァー海峡を隔てた対岸のイギリスの港町。そこでレガッタが毎年開かれていた。デュフィはたびたび海峡をわたってカウズを訪れ、そこでのレガッタの様子を描いている。この作品「カウズのレガッタ(Régates à Cowes)」は、その代表的なもの。

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2018年のデンマーク映画「THE GUILTY/ギルティ(Den skyldige グスタフ・モーラー監督)」は、911(警察の緊急通報システム)のオペレータの仕事ぶりを描いた作品。911というのは、日本の110に相当するのだろう。市民からの緊急通報を受けて、それなりの対応をする。犯罪にかかわることならば警察官を現場に急行させるし、犯罪ではないが市民の生命にかかわるような事態であれば、それなりの対応をする。だから、日本人の感覚としては、110と119を兼ね合わせたようなシステムなのだろう。

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「ラ・ヴィ・アン・ローズ(la vie en rose)」のタイトルで知られるこの絵は、画面下部に「1901 30 ans ou la vie en rose Raoul Dufy 1931」という署名があるところから、1901年に着手され、30年を経たのち、1931年に完成したと読める。1901年は、デュフィが24歳のときであるから、かれの青春時代である。その青春時代に構想された作品を、かれは「ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)」と命名したわけである。

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1987年のデンマーク映画「バベットの晩餐会(Babettes gæstebu ガブリエル・アクセル監督)」は、高級料理を堪能する映画である。堪能されるのはフランス料理。それを超一流のコックが調理し、それを人々が感嘆しながら味わう様子を描く。しかしただのグルメ映画ではない。19世紀後半のユトランド地方の片田舎を舞台に、プロテスタントのデンマーク人たちの信仰をあわせて描いている。

正法眼蔵第六十七は「転法輪」の巻。転法輪とは、真理を説くという意味の仏教用語であり、釈迦が悟りを得たのち初めて行った説法を初転法輪といったりする。しかし、この巻の趣旨は転法輪そのもののことではなく、禅者の間で尊重されてきた首楞嚴経についてである。この経は、古来偽経ではないかとの疑問が呈せられてきた。その疑問について、道元はありうることだとしながらも、現実に禅の仏祖たちがそれを受け入れてきたのであるから、むげに否定するのではなく、尊重するべきだと説く。とはいえ、偽経の疑いはまぬがれないのであるから、無条件に信ずるべきでもないと、いささか中途半端な態度を道元はとっているように見える。

ドゥルーズらは、人間の精神的な活動、それをかれらは思考と呼んでいるが、その思考の様式を三つに分類している。哲学、科学、芸術である。これら三つの思考の形は、それぞれ独立したものであり、互いに融合してしまうことはない。それぞれの対象、その対象を思考するメカニズム、そしてその思考の主体のあり方がそれぞれ違うからである。対象については、哲学は概念を、科学はファンクションを、芸術は感覚を対象とする。これらはみな精神的な働きという点では共通しているが、やはり根本的な相違がある。だから全く別のものと考えるほうが良い、とかれらは言うのである。

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デュフィは、1907年30歳のときに結婚した。相手は、故郷ル・アーヴルの帽子店の店員ウジェニーだった。そのウジェニーの肖像画をデュフィはあまり多くは描いていない。デッサンの類は結構残っているが、この絵のような本格的な作品は少ない。かれら夫婦は仲が良くなかったというから、デュフィは妻をモデルにすることを控えたのであろう。

小説「たけくらべ」は、浅草の吉原遊郭街に隣接する空間を舞台にしている。小説を読むには、かならずしも舞台背景を知っている必要はないが、維新後のある時期の日本の庶民生活がテーマになっている「たけくらべ」のような小説の場合、庶民が生活していた空間についてリアルな認識を持っていることは、小説の味わい方を深めこそすれ、余計なことにはならないだろう。ましてこの小説は、吉原という特殊な空間に深く結びついている。その空間は、歴史的な事情を引きずっている。そんなわけで小生は、この小説が舞台とする空間について、強く意識した次第である。

自分の手で自分のポストをつぶしてしまった小生は、一年後の異動期にどこかへ異動せねばならなくなった。課長級になって七年近くたっていたから、そろそろ統括課長に昇任していい頃だった。統括課長というのは、課長より半ランク上の階級だ。各局の総務課長とか部の番頭課長(庶務担と呼ばれる)、あるいは局の重要ポストなどにあたる。小生はどこでもよいと思っていた。仕事が面白そうなら、財務局でなくてもよい。そんな気でいたところ、思いがけないポストをあてがわれた。財務局用地部評価室評価担当課長である。現任者が昇任して他局に出ることになったので、その後任とされたのだ。正直、あまり乗り気にはなれなかった。一応統括課長職への昇任ではあるが、仕事の内容が変り映えしない。仕事仲間だった土地調整課長などは、昇任を祝福してくれたが、どうも士気が上がらない気がした。

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内藤瑛亮の2018年の映画「ミスミソウ」は、押切蓮介の同名の漫画を映画化した作品。原作は、子どもの間のいじめとか殺人を伴う暴力の氾濫といった事態を描く。日本の漫画はある部分非常に過激になっていると言われるが、原作漫画はその過激さが常軌を逸した段階を超えている。漫画の描く世界が、日本社会の一面を映し出しているとしたら、日本という国は救いようのないほど壊れてしまっていると思わせられる。

四方山の幹事会メンバーと久しぶりに歓談した。前回やったのは六月のことで、すでに半年近くたったから、鍋がうまい季節になったことでもあるし、例のメンバーで一杯やりませんかと総幹事の石子にメールしたところ、是非やろうということになった。浦子などは、生存確認の意味も含めてやろうと賛同した。そんなわけで、前回集まったのと同じ曙橋に集合した。小生はそもそも鍋を期待していたのだったが、なぜか中華料理にすり替わってしまったので、せめて中華風の鍋料理が食いたいねと希望を申しのべたところ、浦子が店の女将にかけあって、中華風鍋料理らしきものを出してもらうことにしたそうだ。

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1928年から1930年にかけてデュフィは、インド人女性をモチーフにした一連の絵を描いた。1926年にモロッコを旅した際に、サルタンの後宮にいる女性たちをみて、そのエキゾチズムにひかれたのである。サルタンの後宮の女性たちが本当にインド女性だったかどうか、たしかではない。デュフィが彼女らのエキゾチックな雰囲気に、インドを感じたのかもしれない。

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内藤瑛亮の2016年の映画「ライチ☆光クラブ」は、古屋兎丸の同名の漫画を映画化した作品。原作は半ぐれ少年たちの暴走ぶりを描く。九人からなるその半ぐれ集団は、独裁者を気取る少年を中心にして、大人たちの世界を否定する行動を楽しむ。だが、暴走しすぎて人を殺したり、仲間内でリンチ殺人を犯したりしたあげく、全員が死ぬというような荒唐無稽な筋書きである。

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十八世中村勘三郎十三回忌追善歌舞伎「俊寛」の様子をNHKが放送した。勘九郎、七之助兄弟が、父親がかつて三島村で公演した歌舞伎を再現したもの。父親の勘三郎はこの演目を二回もやったそうだ。三島村というのは、薩摩半島と屋久島の中間にある三つの島からなる。そのうち硫黄島を、平家物語のいう鬼界が島に見立て、そこの砂浜で演じた。テレビの画面には大勢の見物客が映っていたが、この多くは内地から船でやってきた人びとだろう。

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「静物(Nature morte)」と題されたこの絵は、デュフィの作品のなかでももっともデュフィらしさにあふれた作品。水彩画の特性を生かして、透明な色彩感覚と単純明快な線の組み合わせが、じつに軽快な印象をかもしだす。

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内藤瑛亮の2012年の作品「高速ばぁば」は、オカルト風のホラー映画である。ホラーと言っても少しも怖い感じはしない。子供だましのような安直さを感じさせる。内藤がなぜこんな映画を作る気になったか。この映画は、プロデュース会社ダブル・スタンダードが企画したホラー三部作の一つで、その監督を内藤が引き受けたということらしい。そんなこともあって内藤は、あまり本気になっていなようである。

正法眼蔵第六十六は「三昧王三昧」の巻。三昧とは、仏教用語で、精神を集中すること、あるいは精神の集中した状態をいう。そういう状態に至ってはじめて悟りを得る準備ができる。三昧は悟りの境地そのものではないが、悟りに飛躍するための不可欠の条件である。巻の名称「三昧王三昧」とは、三昧の中の王である三昧、究極的な三昧ということであろう。その究極的な三昧は、只管打坐によって得られると説く。

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