画家の安野光雅が94歳で死んだそうだ。小生は安野の大ファンで、画集はだいたい買い揃えてある。また毎年のカレンダーには、いわさきちひろのものと並んで、安野のシリーズものを壁にかけて楽しんでいる。

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(105景 御厩河岸)

御厩河岸は、墨田川右岸の吾嬬橋と両国橋の中間程のところにあり、いまの厩橋の浅草側の橋詰あたりをさした。このあたりに幕府の厩があったので、御厩河岸と呼ばれるようになった。

多和田葉子はノーベル賞に最も近い日本人作家だそうだ。その理由はおそらく、21世紀の国際社会の現実をもっとも色濃く体現しているということにあろう。20世紀が国家間の戦争に明け暮れた世紀とすれば、21世紀は、人々が国境を超えて歩き回るような、いわゆるグローバル化された世界である。グローバル化された世界は、究極的には個人の背景にある国境というものを無化する方向に働くと思うのだが、いまはそのグローバル化が始まったばかりなので、個人はまだ国籍を背負った状態で、互いに接しなければならないような状態にある。そうした中途半端なグローバル化の状態を、多和田は典型的な形で表現しているのである。

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ベラスケスは1643年の1月に、王室侍従代に任命される。王の側近中の側近の職であり、ベラスケスが長年願っていたポストである。このポストは多忙を極め、そのために絵画制作のための時間をさかれることになった。1640年代半ば以降、ベラスケスの作品は極端に少なくなるのである。

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ポン・ジュノの2003年の映画「殺人の追憶」は、猟奇殺人事件をめぐるサスペンス映画である。普通のサスペンス映画では、謎は最後には解消されるのだが、この映画では解消されないままに終わる。それは犯人の狡猾さよりも、警察の無能によるものだというメッセージが伝わって来るかぎりで、かなり反権力的な所を感じさせる。その警察は、自白を捏造する一方、今日では科学捜査のイロハであるDNA鑑定の能力もないということになっている。とにかく全くいいところがないのだ。

日頃小池都知事に厳しい意見を述べている元都知事の舛添要一が、コロナ騒ぎをめぐる小池都知事の対応ぶりを批判して、権限があるのに行使せずに、都民や政府に責任を丸投げするのでは、馬鹿でも都知事がつとまる、と強く批判した。これを読んだ小生は、その馬鹿には、そう言っている本人も含まれているのではないかと思った次第だ。

資本の有機的構成が高くなると、利潤率は低下する。資本の有機的構成が高くなることは、可変資本に比較して不変資本の割合が高くなることを意味するが、それは必然的に利潤率の低下をもたらすのである。なぜなら、利潤率は費用価格に比較した利潤の割合だが、その費用価格が高まれば、それと比較した利潤の割合すなわち利潤率が低下するのは論理必然的なことだからである。

琉球王国は、徳川時代を通じて、薩摩藩の支配を受けると共に、清国にも冊封関係を通じて服属していた。したがって、明治政府としては、清国への服属を解消して、全面的に日本の支配下に置くことが課題となっていた。そんな折に、1871年に琉球人が台湾先住民によって殺害されるという事件が起きた。台湾南部に漂着した宮古島の船に向かって、現地の住民が襲撃を加え、54人が殺されたのである。

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韓国映画が国際的に評価されるようになるのは21世紀に入ってからだ。ポン・ジュノはその代表選手といったところ。2019年には「パラサイト 半地下の家族」がカンヌでパルム・ドールをとった。かれの作風は、韓国社会の矛盾をコメディタッチで描くというもので、社会派の監督と言ってよい。長編映画デビュー作である2000年の「ほえる犬は噛まない」には、かれのそういった傾向が早くも強く現われている。

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(103景 千住の大はし)

千住は奥州街道の一つ目の宿場であった。また日光街道や水戸街道も千住を通ったので、交通量は非常に多かった。参勤交代でこの宿場を利用した大名の数は、64家に及んだ(寛永期の場合)。そこで家康は、防衛上の観点から江戸の周囲に橋を設けない方針にかかわらず、ここだけは橋を作らせた。千住大橋である。

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トーレ二階の第八室には、ベラスケスの三点の絵画が並んで飾られていた。メニッポス、イソップ、マルスの三点である。メニッポスは解放奴隷出身の風刺作家、イソップもまた同様である。これに対してマルスは、ギリシャ神話の英雄である。いづれもギリシャ人ではあるが、実在と神話という相異なった背景をもっている。この三つがなぜセットになっていたのか、たしかなことはわからない。

「授学無学人記品」は「学無学人授記品」とも標記できる。「五百人弟子授記品」の「五百人弟子」のところに「学無学人」を入れた形である。意味は「学無学人」への授記ということ。「学無学人」とは学人と無学人を意味する。学人はこれから学ばなければならない人、無学人はもはや学ぶべきものがない人をいう。この章は、そうした人々二千人への授記について語られる。舎利弗への授記に始まった一連の授記が、これで一応の締めくくりを迎えるわけである。なお、この後に、「提婆達多品」で提婆達多へ、「勧持品」で喬答弥と耶輸陀羅への授記が行われて、法華経における授記はすべて終了する。

利潤が平均利潤に転化するのは、個別資本にとっての費用価格が社会的な平均としての生産価格に転化するからである。それらをもたらすのは競争である。競争は需要と供給の外観のもとで行われる。需要の多いところには資本が集中し、その逆の場合には逆の事態が起こる。その結果、商品価格は需要と供給が一致するところに落ち着く。こういう外観があるために、個別資本家にとっても又資本の代理人である経済学者にとっても、需要と供給のバランスこそが商品価格決定の要因だというふうに映る。しかし、それは現象の外観に目を奪われた皮相な見方だとマルクスは批判する。

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遠藤周作の小説「沈黙」は、世界中のさまざまな言語に翻訳されて、日本文学としては国際的な反響の大きかった作品である。中には、これを20世紀を代表する優れた小説だとするグレアム・グリーンの肯定的な評価などもあったが、おおよそは批判的な反応が多かった。というのも、この小説が取り上げた、宣教師の棄教というテーマが、キリスト教社会においては、あまりにもスキャンダラスに映ったからだろう。キリスト教の伝道の歴史においては、殉教は輝かしいものとしてたたえられる一方、棄教は悪魔への屈服として、嫌悪を持って受け止められたのである。

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(101景 浅草田甫酉の町詣)

吉原は周囲に田甫が広がっていた。浅草田甫という。その西南方向の一角に、お酉さまで有名な鷲神社があり、毎年十一月の酉の日に祭礼が行われ、酉の市が催された。酉の市では、熊手のほか、ヤツガシラの芋とか、黄金餅などが、縁起物として売られていた。いまでも、熊手は商売繁盛のまじないとして人気がある。

新潮文庫版の邦訳「ロリータ」には、大江健三郎によるあとがきが付されている。あとがきから読み始めることを日頃の習性にしている小生は、この場合にも大江のこのあとがきから読んだ次第だったが、大江がなぜ、「ロリータ」のためにあとがきを書く気になったか、それはこのあとがきを読んだだけでは明らかにならなかった。たまたま自分の生まれた年がロリータのそれと一致していたとか(両者とも1935年)、小説の導入部分でアナベル・リーへの言及があるが、アナベル・リーこそは自分の青春のあこがれだったとかいったことが書いてあるだけだ。ただ、自分は、ロマンチックな小説を生涯書いたことがないが、「ロリータ」はもっともすぐれたロマンチック小説として、うらやむべきものと思っている、というようなことを書いているので、大江は「ロリータ」をロマンチックな小説として捉えているようである。

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「道化カラバシーリャス」と題するこの絵も、トーレ二階第一室を飾っていた作品の一点。カラバシーリャスとは、ヒョウタンを意味するスペイン語カラバスから派生した綽名であり、本名はわかっていない。経歴としては、枢機卿フェルナンドに仕えたあとで、フェリペ四世の下僕になった。

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マーティン・スコセッシの1978年の作品「ラスト・ワルツ」は、ロックバンド「ザ・バンド」が解散記念に催したラスト・ライブのドキュメンタリー映像である。ザ・バンドのリーダー、ロビー・ロバートソンがプロデュースしているから、かれらが望んで記録映画を作ったということだろう。

利潤と剰余価値は、量的には同じものである。利潤率と剰余価値率は違う。剰余価値率は、可変資本(労賃)と比較した剰余価値の割合をあらわすのに対して、利潤率のほうは前貸し資本としての費用価格すなわち不変資本プラス可変資本と比較した利潤の割合をあらわすからである。だから、利潤率は常に剰余価値率より低くなる道理である。しかも利潤率は、全産業を通じて平均化される傾向がある。競争が働くからである。産業間で利潤率にデコボコがあれば、資本の流動が円滑に行われるという前提のもとでは、利潤率の高い分野に資本は流れる。そうした動きが利潤率を平均化させるのである。マルクスは資本論第三部第二編「利潤の平均利潤への転化」において、個別の利潤率がいかにして平均化されるか、そのメカニズムを分析している。

明治維新を経て成立した明治新政府は、幕末に列強との間に取り結ばされた不平等条約に悩んでいたが、清国との間では、少なくとも対等の立場から条約を結びたいと考えていた。もし可能なら、少しでも日本に有利な条件で。たとえば、西洋列強を意識して、日本にも最恵国待遇を要求するといったことである。それに対して清国側は、日本との条約締結は時代の趨勢で避けられないと認識しながら、西洋に対して行ったような譲歩をするつもりはなかった。こちらはこちらで、なるべく自国の有利になるような条約の締結を目指していた。

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