イチローが28年間の現役生活にくぎりをつけて、引退の意思を表明した。とりあえず、ごくろうさんと言いたい。偉大な功績を残したことに対しての言葉としては月並みだが。これ以上に相応しい言葉があるとも思えない。とにかく、ご苦労様でした。一ファンとして心からそう思います。

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これもルブリョフの聖三位一体を模倣したイコン。三人の天使のポーズはルブリョフのそれとほぼ同じだが、背景がかなり異なっているように見えるのは、右手上方にごちゃごちゃと加えられたイメージのせいだろう。その左手に見える修道院の建物は、ルブリョフの図を踏襲している。

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張芸謀の2010年の映画「サンザシの樹の下で(山楂樹之恋)」は、若い男女の純愛物語である。いまどき世界のどこかで、こんな純愛がありうるのかと、頭をかしげたくなるような映画である。なぜ、こんな純愛がなりたちうるのか。人の恋愛感情は、理不尽な制約があるときにもっとも盛り上がりやすいらしいが、現代の中国社会には、そうした恋愛への制約がまだ強くあるのらしい。その制約が、若い男女をやみくもな恋愛に走らせる、というふうにこの映画からは伝わってくるのである。

折口信夫は国学院の教授として、国学院の学生を前に講義を行ったなかで、しばしば国学の伝統について語った。その国学の伝統とは、単に学問としての伝統ではなく、道徳としての国学の伝統ということだった。そのことを折口は、次のように語っている。「道徳に到達しないで国学というものはないのです。だから文献学がいくら文献学でも、それは国学ではありません」(平田国学の伝統)

真理とは存在が隠れなく現われること、即ち存在の顕現だとハイデガーはいったが、そうだとすれば、では誰に対して顕現するのかという問いが出されるのではないか。というのもハイデガーは、存在が隠れなくあらわれることについて、その証人のようなものを要請しておらず、存在はそれ自体で自らを隠れなく顕現するものであり、その顕現が真理なのだと言っているからである。然し仮に存在が自らを隠れなく現わすとして、それを受け止めるもの、つまり目撃する者がいなければ、真理にいかほどの意味があるだろうか。真理が意味を持つのは、それが人間にとっての真理であるからなので、人間を度外視した所では、何らの意味も持たない。そういうわけだから、ハイデガーの存在論は、こと真理に関わる限りにおいては、認識論と無関係ではありえない。

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張芸謀の2002年の映画「HERO」は、中国版ちゃんばら時代劇といった作品である。日本のちゃんばら時代劇は、正義の味方が悪人どもを成敗する勧善懲悪の仕立てになっているが、中国のちゃんばら時代劇であるこの作品は、必ずしも勧善懲悪とは言えない。この映画のテーマは、秦の始皇帝を付け狙う刺客たちの物語なのだが、ほかならぬその刺客たちが、いわば内輪もめのような形で、互いに戦うのだ。しかもその戦いには隠された意図がある、というようなちょっとひねった筋書きになっている。日本のチャンバラ映画の無邪気さに比べれば、かなりひねくれた作り方といえる。

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上の写真は、小生の家の近くにある公園で毎日見かける花だ。灌木に咲くこの花は、一月の冬の盛りから見かけているから、かれこれ二か月も咲いている。この花の名をいつか、植物に詳しい人から教えてもらったが、行きがかりの人から教えてもらったその名前を、小生はうかつにも忘れてしまった。植物図鑑にあたっても見つけることができない。毎日のように見る花なので、できれば思い出したい。どなたか知っている方がいれば、教えてくださるとありがたい。

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これも、大覚寺宸殿を飾る襖絵で、八面からなる。上の写真は、その右半分にあたる。梅の大木から、枝が縦横に延び、鮮やかな紅梅の花を咲かせている。梅の上部が途切れているのは、霞がかかっているためである。

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アンドレイ・ルブリョフの聖三位一体のイコンは大きな影響力を及ぼし、15世紀から16世紀にかけて夥しい模倣品が作られた。それにはロシア正教の百章会議が、模倣すべき手本として信徒たちに示したという動きがあった。この聖三位一体のイコンも、そうした模倣品の一つである。

「いいなずけ」は、チェーホフ最後の短編小説だが、「たいくつな話」と並んで、トーマス・マンが最も高く評価した作品だ。トーマス・マンのチェーホフ論の要点は、同時代のロシアに関するかれの鋭い批判意識と未来への希望にあったが、「たいくつな話」は同時代への批判意識をもっとも鋭い形で表明したものだとすれば、「いいなずけ」は未来への希望を美しい形で表明したものといえよう。

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張芸謀の1999年の映画「初恋のきた道(我的父親母親)」は、「あの子を探して」と同年に作られた作品だが、内容がよく似ている。どちらも中国人女性のひたむきさを描いたものだ。「あの子」の場合には、自分の請け負った仕事(子供の教育)に対する若い女性のひたむきさがテーマだったが、こちらのひたむきさは恋一筋のひたむきさである。若い女性からこんなにひたむきに愛されたら、男冥利につきるというものだ。

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狩野山楽は、浅井長政の家臣木村永光の子光頼といったが、浅井家滅亡後父が秀吉に仕えていた時に、秀吉に画才を認められて、狩野永徳に弟子入りしたという、かわった経歴の持ち主である。秀吉との関係が密接だったことから、徳川家から疑われたこともあるが、なんとかそれを振り切って、徳川家の保護も受けるようになった。

小説の語り手が、双子の妹に向けた手紙の中で書いたのは、かれが「われわれの土地」と呼ぶ「村=国家=小宇宙」の神話と歴史だったわけだが、何故かれがそれを「神話と歴史」というふうに、二つの言葉を並べて表現したのか。かれとしては、自分が語る物語には、「われわれの土地」の歴史というには収まらないような、神話的な要素が色濃く含まれていると感じたからなのだろう。その神話的な部分には、人間の常識を以ては理解できないようなものがあり、それゆえ神話という言葉を語り手は用いざるを得なかったのだと思う。その神話の部分では、不死身の存在である壊す人と、百年以上生き延びて巨人となった開拓者たちの活躍があった。

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聖母のイコンは各地でさまざまな奇跡を起こしたと信じられていたが、そうした奇跡の有様を、聖母のイコンと並べて展示し、崇拝する信仰のありかたが16世紀以降盛んになった。これは、ウラジーミルのイコンを中心にして、そのイコンが起こした奇跡をそれぞれ描いたイコンを並べたもの。

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若松孝二の2012年の映画「海燕ホテル・ブルー」は、今様版怪談とでもいうべき作品だ。怪しげな雰囲気を持った女に、男が次々と滅ぼされていくという筋立ては、伝統的な怪談物語とは多少趣を異にするが、人をして背筋を寒からしめるところは怪談といってよい。若松はこの映画を、「キャタピラー」とか「千年の愉楽」といったシリアスな作品の合間に作ったわけだが、どういうつもりでこんなものを作ったか、他人にはいまひとつわからない。

瀬戸内寂聴尼は今年九十六になり、あと二か月もすると九十七になるのだそうだ。そこで自分がその年まで生きてきたことをうれしいかというと、そうでもないらしい。特に年をとってからは、生きていることが必ずしもうれしくはないらしい。そのように思うのは、自分の命がこの世のために役に立たなくなったと感じる時だそうだ。そういう時には、「まだ、だらだらと生き続けて役にも立たなくなった自分の命を持て余しているような気もする」のだそうだ。

晩年の折口信夫が、神道を宗教として純化し、日本人にとっての国民宗教になることを強く願ったことはよく知られている。そのきっかけは敗戦であった。折口は、アメリカの若者たちが第二次世界大戦を、十字軍の兵士たちがエルサレムを奪還しようとしたのと同じ情熱をもって戦っているということを悟って、そんな敵を相手に日本が勝てるわけはないと思った。何故なら日本の若者には、そういう宗教的な情熱はないからだ。だから、日本が負けるのは無理もない。日本が勝つためには、アメリカの若者に劣らぬような宗教的情熱を、日本の若者も持たなければならない。その場合に、日本の若者が持つべき宗教的な情熱は、神道しかそれを与える可能性はない。そういうような思いから折口は、神道の宗教化を強く主張したのである。

弁証法は古い起源をもつ哲学タームだが、本格的に用いられるのはヘーゲル以降であり、それをマルクスが引き継いで、マルクス主義が流行した日本では、専ら論争的な色彩を帯びるようになった。日本のマルクス主義が非常に論争的だったせいである。だが、大流行した割には、その内実はいまひとつ明確ではなかったようだ。弁証法とは何かと聞かれて、まともに説明できるものはいなかったといってよい。弁証法とは、定立、反定立を経て総合にいたるとか、ヘーゲルのタームを使って、アンジッヒ、フュールジッヒ、アン・ウント・フュールジッヒのプロセスを経て、ものごとをトータルに把握することだなどと説明する人が多いが、それによって何がどこまで説明できたか、大いに疑問が残る場合がほとんどだ。

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若松孝二は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を、自分の映画作りの総決算だという趣旨のことをいったそうだが、それから四年後に「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を作った。前作が日本の左翼をとりあげて、その異様な思想と行動を描いたものとすれば、後作は、左翼の対局としての右翼の異様な思想と行動を描いたものだ。若松は左翼だけでは片手落ちで、それとバランスをとるつもりで、この作品を作ったのだろう。

ジャーナリストの田原総一郎が、体験的戦後メディア史と題して、戦後政治家とのインタビューのやりとりを、雑誌「世界」に寄稿している。田原は、歴代の総理大臣にインタビューをしたが、ほとんどの総理大臣経験者が、戦争をするのはよくないと言っていたそうだ。田中角栄がそうだったし、宮澤喜一や竹下登もそうだった。また中曽根康弘や佐藤栄作も、戦争をできるように憲法を改正しようとはしなかった。

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