シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー八世」を小生が数十年ぶりに再読しようと思ったのは、先日フレッド・ジンネマンの映画「わが命つきるとも」を見たことがきっかけだった。この映画は、「ユートピア」の作者トーマス・モアを主人公にして、ヘンリー八世の時代を描いたものだった。ヘンリー八世は、非常に人気のない君主で、イギリス史上最低の王だったといわれるのだが、それは彼の好色で羽目を外した生き方が民衆の怒りを買ったためだと思われる。かれはイギリスの宗教家改革運動の立役者でもあったわけで、イギリスの歴史上大きな役割を果たしたにもかかわらず、私生活の乱れが原因で悪王の烙印を押されたのである。映画はそのヘンリー八世を、やはり悪者として描いていた。ではシェイクスピアはかれをどう描いたか。それが気になって、数十年ぶりに読んだ次第だった。


シェイクスピアの一連の歴史劇の中で、この作品はかなりユニークである。歴史劇のほとんどが、シェイクスピアの作家としての活動の初期に集中的に書かれたのに対して、これは晩年の1613年に書かれている。1613年といえば、作家としての活動が終わるころで、最勉年といってよい。こも年以降かれは作品を書いていない。要するにかれの作家活動の最後の作品といってよい。そんなこともあってか、この作品はシェイクスピアのものではないとの憶測が現れたほどだ。今日では一応、シェイクスピア自身の作品ということに落着しているが、他の作品に比較して、出来の悪さが指摘されることが多い。シェイクスピアの得意とした洒落たセリフ回しとか、深刻な人生観の吐露のようなものはうかがわれない。

この作品が書かれた経緯についてはよくわかっていない。有力な説として、当時の国王ジェームズ一世の娘エリザベスの婚礼祝いの行事の一環として書かれたとする節があるが、あるいはそうかもしれない。この劇が描いたヘンリー八世の時代は、テューダー朝の時代であり、その君主であるヘンリー八世を批判的に描くことには、たいした政治的リスクはなかったようである。シェイクスピアは、エリザベス一世の時代に、プランタジネット系王朝を批判的に描いたことがあり(たとえば「リチャード三世」)、時の王朝は、自分より前の王朝が批判されることには寛大な態度をとったようである。

劇の主人公がヘンリー八世その人であることは言うまでもないが、かれの人物像はかなり凡庸であり、したがって迫力を感じさせない。ヘンリー八世の最大の持ち味は、女好きと宗教上の独立を求めるところといえるが、この二つの要素について、シェイクスピアの筆はあまり踏み込んだ描写をしていないのだ。かれにかわって劇を盛り立てているのは、王妃キャサリンと枢機卿ウルジーである。キャサリンは王の愛を失った悲哀を吐露し、ウルジーは悪人らしく振舞う。一人は善人で、もう一人は悪人だが、どちらもそれぞれ自分のキャラクターにふさわしい言動をして、劇を盛り立てるのである。ヘンリー八世その人は、周囲の人間たちに盛り上げられる役割に甘んじている。その周囲の人物たちのなかで、トーマス・モアはほとんど存在感を与えられていない。ウルジーの後任の大法官に任命されたと噂される程度である。

劇は、バッキンガム公の失脚に始まり、ヘンリー八世がアン・ブリンに生ませた子エリザベスの洗礼式の場面で終わる。歴史年表の上では、約13年間の出来事だ。その期間に様々なことが起こり、その中にはイギリスの歴史にとって特筆すべき出来事もあったのであるが、シェイクスピアの筆はそうした方面には及ばない。ウルジーやクロムウェルといった悪人たちの行状とか、その悪人たちに丸め込まれるヘンリー八世の節操のない行動が淡々と描かれるだけである。だいいち冒頭のバッキンガム公爵の失脚自体が、ある意味ヘンリー八世の気まぐれによるものなのだ。劇中唯一気の利いたセリフを吐くのは、そのバッキンガム公爵なのである。かれは信頼していた腹心の部下に陥れられた無念をつぎのように言うのだ。

  何事も天の思し召し、だが聞いてくれ
  死にゆく男の発することばを真にうけてくれ
  どんなに愛し信頼しているものでも
  けして油断をするな、というのも
  親友と思い、心を許したものでも
  いったんこちらに落ち目を感じれば
  水のように流れ去って戻ってはこない
  くるとしたらそれは溺れさすためだ
  Heaven has an end in all: yet, you that hear me,
  This from a dying man receive as certain:
  Where you are liberal of your loves and counsels
  Be sure you be not loose; for those you make friends
  And give your hearts to, when they once perceive
  The least rub in your fortunes, fall away
  Like water from ye, never found again
  But where they mean to sink ye.

そんなわけで、劇本体はそうインパクトを感じさせるものとはいえない。そのことをシェイクスピアは感じていたようで、劇のプロローグとエピローグをわざわざ設けて、その中で言い訳のようなことを言っている。まず、プロローグの言葉だ。

  それゆえどうぞ、町一番の
  芝居好きで知られた皆様方には
  悲しむべき時には悲しんでください
  あなた方が見ている舞台上の人々は
  実物の人間であると考えてください
  そしてかれらが大勢の
  友人に囲まれているのだとお考え下さい
  けれどそれが一瞬のうちにひっくりかえるのです
  そんなさまを笑ってみていられるなら
  あなた自身の婚礼で涙を流すことになりましょう
  Therefore, for goodness' sake, and as you are known
  The first and happiest hearers of the town,
  Be sad, as we would make ye: think ye see
  The very persons of our noble story
  As they were living; think you see them great,
  And follow'd with the general throng and sweat
  Of thousand friends; then in a moment, see
  How soon this mightiness meets misery:
  And, if you can be merry then, I'll say
  A man may weep upon his wedding-day.

エピローグでは、芝居の成功がひとえにご婦人の満足にかかっていると述べられる。そうすることで、女性たちの支持を訴えているのである。

  この芝居の評判にとって
  わたしどもが期待しますのは
  ご婦人たちのご厚意なのです
  ご婦人方が芝居を見て微笑み
  これはいいわとおっしゃれば
  殿方たちも賛同なさるでしょう
  ご婦人に逆らうことはなさるまいでしょうから
  All the expected good we're like to hear
  For this play at this time, is only in
  The merciful construction of good women;
  For such a one we show'd 'em: if they smile,
  And say 'twill do, I know, within a while
  All the best men are ours; for 'tis ill hap,
  If they hold when their ladies bid 'em clap.

ヘンリー八世,シェイクスピア


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フレッド・ジンネマンの1952年の映画「真昼の決闘(High Noon)」は、ジンネマンにとっては唯一の西部劇だ。いまでは、ジョン・フォードの「捜索者」及びジョージ・スティーヴンスの「シェーン」とならんで西部劇の最高傑作といわれている。通常の西部劇とは異なって、保安官の孤独な戦いを描いたもので、きわめて社会批判的な視線を感じさせるというのが通説である。映画評論家の中には、この映画が公開されていた時代のアメリカのマッカーシー旋風に関連付けて語るものもいるが、ジンネマン本人は、政治的な動機は一切ないとして否定している。

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最晩年のボナールは、果物をモチーフにした静物画を多く手掛けた。いづれも鮮やかな色彩が持ち味である。果物は、バスケットや皿にもられており、それ自体をむき出しにさらけだすようなことはない。「果物籠と皿(Corbeille et assiette de fruits sur la nappe à carreaux rouges)」と題されたこの絵は、ボナール最晩年の静物画を代表するものである。

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フレッド・ジンネマンの1949年の映画「暴力行為(Act of violence)」は、第二次大戦中の米軍兵士の悲劇をテーマにした作品。ナチス・ドイツの捕虜になった米兵が、脱出する計画を実行しようとしたところ、その計画を米兵の一人がナチの将校に密告したことで、首謀者はじめ計画に加わったものが、むごたらしいやり方で殺される。一人生き残った兵士が、密告者に復讐するというような内容の作品だ。戦後間もないということもあって、戦争をめぐるこうしたエピソードは、まだ人々の関心を惹く時代だった。

正法眼蔵「行持」全巻の最後は、師天童如浄をめぐる話である。その如浄について道元は、仏教者としての生き方と、思想との両面から解説している。生き方については、次のような簡略な説明がなされる。「先師は十九歳より、離郷尋師、辨道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不転なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂、入室、みなくろき袈裟、裰子をもちゐる」。

沖縄県辺野古の埋め立て工事についての知事の認可をめぐって、先の最高裁判決をうけて国側が知事に対して認可の「勧告」をしたところ、知事がそれに従う姿勢を見せないとして、今度は「指示」に切り替えた。指示にも従わねば、次は国による代執行の手続きに入る意向ということらしい。代執行というのは、この場合、国の国土交通大臣が知事に代わって認可を行うということだ。

西洋形而上学における存在の目的論的階層秩序の問題をデリダは、自民族中心主義あるいは西洋中心主義と結びつけて考える。もっとも単純な話としては、文字を持つ西洋文化は文字を持たない「未開文化」よりも進んでいるといった具合に、文化の相違を発展段階の相違と同一視することがあげられる。この発展段階思想は、目的論的な色彩を強く帯びているので、発展段階の進捗具合がそのまま階層秩序を構成する。西洋は発展のもっとも高度な段階に達したものであり、その場合の発展とは、ある種の目的としての機能を持つがゆえに、発展段階による差異の体系は、存在の目的論的階層秩序を構成する、というふうに考えるわけである。

落日贅言の前稿「歴史と人間の終わり」の結びの部分で、ミシェル・フーコーが言ったことば「人間の終わり」に言及した。フーコーはこのことばを、「人間性の終わり」という意味で使ったので、必ずしも種としての人間の終わりを意味したのではなかったと思う。だがやはり、「人間の終わり」などと言われると、種としての人間の終わりをイメージせざるを得ないし、その前に、自分自身の死についても考えざるをえない。とくに小生のようにすでに古稀を過ぎた老人にとっては、もはやいつ死んでもおかしくない年頃ではあり、したがって明日にでも、死が自分自身におとずれるかもしれない。その場に及んで騒いでも後の祭りだと思うので、もうそろそろいつ死んでもいいように、心の準備をしておくのも、あながち無駄なことではないと思う。そんなわけで今回は、「死を考える」という題目で、自分自身の死を含めて、人間にとって死とは何かということについて考えてみたい。死をめぐる自分の考えについては、いままでも「反哲学的省察」などを通じて表明してきたところなので、一部はそれをダブるところもあるが、今の時点で、小生が死について思うところを包括的に述べたいと思う。

江川卓はロシア文学者であって、ドストエフスキーの作品も多数翻訳している。その江川がドストエフスキーを論じたのが、岩波新書に入っている「ドストエフスキー」だ。ドストエフスキーの作品世界を、伝記的な事実と絡ませながら論じている。たいして独創的な知見はうかがわれぬが、いくつか興味をひく指摘がある。

ゼレンスキーがカナダ議会に招かれて演説をしたさい、議員以外に招待された男がかつてナチスの戦闘員だったことが判明し、議長が辞任する騒ぎになった。その男はウクライナ出身で、先の大戦中ロシアと闘ったことを自慢したのであったが、じつはナチスの協力者で、SSの部隊に所属していたことがわかった。事実を指摘したのは、カナダのユダヤ人団体である。それを指摘されたカナダ政府は、トルードー首相みずから謝罪したほか、その男を招待した議長も辞任した。

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フレッド・ジンネマンの1948年の映画「山河遥かなり(The Search)」は、トーキー初期の頃にハリウッドにやってきて、長いこと下積み暮らしをしていたジンネマンにとって、始めての本格的な映画作品となった。テーマは、ナチスのホロコーストの犠牲になり、家族と別れ別れになったユダヤ人の少年が、母親を探し回った末に、見事再会を果たすというものである。ジンネマン自身ユダヤ人として、両親を殺されたりしているので、このテーマは彼にとっても痛切なものであった。とはいえ、自身のアイデアではなく、映画会社にあてがわれたものであった。

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ボナール晩年の絵画、とくに風景画は次第に抽象的になっていった。具象的な形にとらわれず、それらしく見えればよいといった姿勢が見て取れるようになる。「庭(Le jardin)」と題したこの絵は、そうした抽象的な風景画の代表的なもの。

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2016年のフィンランド映画「オリ・マキの人生で最も幸せな日(ユホ・クオスマネン監督)」は、世界チャンピオンに挑戦するあるボクサーの生き方をテーマにした作品。結局かれのその夢は実現しなかったので、スター誕生というわけにはいかなかったが、そのかわりに、もっと素敵なものを手に入れる。好きな女性と結婚することができるのだ。だから、タイトルの「人生で最も幸せな日」というのは、ボクサーとしての夢が実現した日ではなく、恋人と共に結婚指輪を買いに行った日だったのである。

近藤和彦はイギリス史が専門だそうだ。民衆の中に根付いている文化的な基層のようなものを重視し、その基層の動揺が歴史を動かしていくと考えているようである。「民のモラル」と題した本(ちくま学芸文庫)は、副題に「ホーガースと18世紀のイギリス」とあるとおり、18世紀のイギリス社会を、民衆の中に根付いている文化的な基層の面からときあかしている。かれがホーガースに着目したのは、この画家が同時代のイギリスの民衆の文化的なバックボーン、いうなればモラルを体現していたと考えるからだろう。

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NHKが歌舞伎「夏祭浪花鑑」の舞台中継を放送したものを見た。片岡仁左衛門一座の博多公園で、シテの団七を片岡愛之助が、相棒の徳兵衛を尾上菊之助が、三婦を中村鴈次郎が、舅を中村雀右衛門がそれぞれ演じていた。特に、鴈次郎の演技が、小気味がよかった。先代に顔つきも雰囲気もよく似ている。

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「田舎の食堂(La Salle à manger à la campagne)」と題されたこの絵は、1930年の作品「庭に面した食堂」と同じ場面を、やや視線を下げて描いたものである。前作から5年後のものだ。とはいえ、屋外の景色がかなり変わっており、またマルタの位置が左手から右手に入違っている。画面も縦長から横長になっている。

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1985年のソビエト映画「炎628(Иди и смотри エレム・クリモフ監督)」は、独ソ戦勝利40周年を記念して作られた。独ソ戦を、ベラルーシの一少年の視点から描いた作品。ベラルーシにおける独ソ戦といえば、ノーベル賞作家アレクシェーヴィチが「戦争は女の顔をしていない」で描写した女性の戦争参加が思い起こされる。こちらの映画は、少年の戦争参加をテーマにしているわけで、独ソ戦が、女や子供まで巻き込んだ凄惨なものだったということがよく伝わってくる映画である。

正法眼蔵第十六「行持」の下巻は、禅の初祖達磨とその弟子で第二祖といわれる慧可についての解説に大部分があてられる。それに第四祖大医道信が続き、そのあとに曹洞系の古仏が何人か取り上げられる。ただその分量は、如浄の部分を除けばわずかなものであり、臨済系と比較して均衡を失するほど少ない。道元がどういうつもりでこのような構成をとったか、にわかにはわからない。臨済に比べると、曹洞系の古仏はより達磨の教えに忠実であり、したがって達磨の説いたところを納得すれば、それでよいと考えていたのかもしれない。

ロゴス中心主義とは聞きなれない言葉だ。人間の知的活動はロゴスを基礎としており、ロゴスという概念は、人間という概念と同じように明白なものであるから、あえてそれについて云々する必要もなかった。中心もなにもなく、ロゴスとは人間性と同義といってよかった。中心というと、いくつかの事象があって、その中のもっとも肝心なものというイメージになるが、ロゴスは人間性そのものなのであって、そもそも中心とか周縁とかいうものとは無縁なのである。そのロゴス中心主義という言葉をデリダは、西洋形而上学批判の土台の一つとして設定する。ロゴス中心主義とならぶ形而上学批判の土台にはほかに、音声中心主義があげられるが、デリダはその音声中心主義とロゴス中心主義とは深く結びついているという。「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語の形而上学である」(足立和弘訳)というのだ。表音的文字言語とは表音文字のことだが、それは音声を文字化したものである限り、音声中心主義と結びついているのである。

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「庭に面した食堂(La Salle à manger sur le jardin)」と題されたこの絵も、ル・カネの家の室内から屋外の庭園を見下ろした構図。例によって、室内の様子も丁寧に描かれている。手前のテーブルには、食事の支度がなされているが、これが朝食であることは、この絵の別名が「朝食の部屋(Salle du déjeuner)」であることから明らかである。

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