洪水はわが魂に及び:大江健三郎のアナーキズム小説

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大江健三郎には、権威に反発するというか、反権力的なところが多分にある。初期の代表作「芽むしり仔撃ち」は、身近な権力である村落共同体の暴力に勇敢に立ち向かう少年を描いたのだし、生涯の代表作と言われる「万延元年のフットボール」は、あらゆる権力から自由なアナーキーな共同体の創造をめざす青年を描いていた。「セヴンティーン」は権力側に一体化した少年の夢想を描いたものだが、これは言ってみれば、権力礼賛を通じての、アンチ権力小説といってもよい。そんな大江が、反権力とアナーキズムへの志向を正面から取り上げたのが1973年の作品「洪水はわが魂に及び」である。

わざわざ1973年という年次に言及したのはほかでもない。その前年の1972年に連合赤軍の浅間山荘事件が起きており、大江のこの小説にはその事件の影響が想定されるからだ。浅間山荘事件自体はおぞましいものだったし、その事件の背景で行われたリンチ殺人事件はもっとおぞましいものだった。本人たちの意識の中ではどうあれ、彼らが行った行為には同情すべきものはなにもないし、また彼らに行為をなさしめた思想に一貫性があるとも思われない。幼児的な思いにとらわれた退嬰的な行為と言ってよい。だが、その彼らの引き起こした行為を、大江は自分なりに受けとめ、いわば彼らの影ともいうべきこの小説の若者たちに一定の評価を与えることで、浅間山荘事件の犯人たちにもある意味積極的な評価を与えたようにも映る。

この小説は、大木勇魚という中年の男を主人公にして展開するのだが、事実上の主人公は「自由航海団」を名乗る少年たちと言ってよい。この少年たちは、社会からドロップアウトした不良のグループだが、彼らを結びつけている夢が、彼らに独特の存在感をもたらしている。それは思想というにはあまりにアモルフだが、単なる衝動にはとどまらない持続性がある。それを簡単にいうと、この社会のあらゆる拘束から解放されて自由な生き方を追求するというものだ。社会のあらゆる束縛から自分を解放するという点では、ある種のアナーキズムと言ってよい。アナーキズムというには、思想的に幼なすぎるところがあるが、しかし権威を否定するという点では通底するところがある。大江は、この小説の事実上の主人公である「自由航海団」のアナキストの少年たちの夢想と挫折を描くことで、現代社会に生きる個人と社会との緊張関係を描こうとしたのではないか。その点では、「悪霊」を書いたドストエフスキーを思い出させるところがある。

この不良の少年たちと、主人公の大木勇魚がめぐりあい、そこから彼らの奇妙な共同生活と、彼らの夢の実現へ向けての努力と挫折が描かれるわけである。彼らの努力が結局は挫折に終わらざるを得ないのは、現代社会ではあらゆるアナーキーな試みが成功しないことの顕著な例である。権力に反抗するのはよいが、それが大目に見られるのは反抗が夢想にとどまっている範囲内だけで、反抗の意思が社会に向けて公然と表現されるや、それは権力によって押しつぶされるほかはない。この小説に出て来る反抗者たちは、なにも権力を倒そうなどと大それた考えをもっているわけではなく、自分たちだけでこっそりとこの世から引退したいと思っているだけなのだが、かれらがその思いの実現に向けてさまざまな行為をするとき、それが権力の癇癪を爆発させ、勝手に放っておいてはもらえなくなる。かれらは社会の安寧を乱す不心得者として、駆除されなければならなくなるわけだ。

実際「自由航海団」の少年たちが企てたのは、親しい仲間十数人がクルーザーに乗って海洋へ出航し、そこで自分たちだけのユートピアのような生活をするというつつましいものだった。少年たちはその大航海の準備におこたりない。かれらは主人公の大木勇魚がこもっている核シェルターの付近にある撮影所跡地の倉庫をアジトにして、そこにクルーザーの模型のようなものを作って、そこで疑似航海の訓練をしている。そこに主人公の大木勇魚が迎えられたのは、言葉の専門家としてだった。「自由航海団」のメンバーは、ほとんどが未成年者であるし、表現能力に欠けているのだが、社会に向かって意思表示することが必要になった時に、その意思を言葉によって表現しなければならない。大木勇魚はその表現の能力がかわれたわけだ。そのほかメンバーには、権力と戦う場合に備えて武装訓練の指導者を自衛隊からリクルートしたり、衛生対策要員としての医師のリクルートもおこたりない。かれらなりに計算しているわけだ。一人だけ存在意義のあきらかでない中年のカメラマンが混じっているが、そのカメラマンを彼らは自分たちの情報を写真と言う形で売ったという罪状で、リンチにかけて殺してしまう。そのリンチシーンはなかなか凄惨なものだが、これにも大江は、連合赤軍のリンチ殺害事件を援用しているフシがある。

かれらが権力によって不穏分子と認識されたのは、カメラマンのリンチ殺害が公になったからだ。それと並行して、自衛隊員が自爆するような事件も起こり、かれらの狂暴性がつよく認識された。その結果彼らのこもる勇魚の核シェルターに膨大な規模の征伐部隊が差し向けられるのである。この核シェルターは、勇魚が核戦争に生き残るためにというよりは、白痴の小さな息子とともに世間を憚って隠遁するために作ったものだったが、その核シェルターがいまや、権力の攻撃に立ち向かう城塞としての意義を帯びるわけだ

この核シェルターは、核戦争にも耐えるように作られていて、実際簡単には破壊できないのだが、勇魚のこだわりで地下の一部が直接地面に接していて、それを通じて外界とストレートにつながっている。したがっていざ核攻撃を受けた時には、シェルター自体は破壊をまぬがれるかもしれないが、地下の地面を通じて外界の影響を蒙る定めなのである。実際小説の最後に、死を覚悟した勇魚が核シェルターにひとりこもった時に、地面から大量の水が湧き出てきて、核シェルターの内部は洪水のようなありさまを呈する。機動隊が放出した夥しい量の水が、地下を通じて核シェルターの内部にまで達してきたからだ。その水に脅かされた勇魚が、自分の魂にまで洪水が及んで来たと解釈するところで小説は終る。その際に無論勇魚は後悔しない。かれはすべてを受け入れる。「すべてよし」と言って。その後、「あらゆる人間をついにおとずれるものが、かれをおとずれる」のである。

こういうわけでこの小説は、自由航海団の抱いている思想のようなもの、のようなものというのはほかでもない、彼らには、幼すぎて思想といえるものを抱く能力はまだないからなのだが、その思想のようなものをわかってやらないと、読み方を誤る危険性がある。かれらはかなり無茶苦茶なことをするが、それは常識から見てのことで、かれらなりに一貫した動機に支えられている。その動機自体は至って無害なものだが、それを実現するための手段を択ばないところがあって、その際にかれらがとる無謀な態度が常識の権化である権力を怒らせるのである。

実際この小説の中では、少年たちにコケにされ、キリキリマイさせられた機動隊員たちが、少年たち、無防備になった少年達だが、かれらにむかっての意趣晴らしを残忍なかたちで発散させるシーンも出て来る。そういう場面を読んでいると、大江の権力嫌いが肉体感覚として伝わって来る。






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