エドモン・ジャベスと本の問題:デリダのユダヤ論

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エドモン・ジャベスはエジプト育ちのユダヤ人であり、詩人である。だからジャベスを論じようとしたら、ユダヤ人とは何か、詩人であるとはどういうことか、について論じることになりがちだ。それに加えてエジプト的なものも問題になるだろう。デリダがこの短い論文のなかで言及しているものそういうことだ。デリダは冒頭から次のように宣言するのだ。「ジャベスがわれわれに告げようとするのは・・・書くことの誕生と情熱としての或るユダヤ思想に関することである。それは書くことの情熱であり、文字と愛と忍耐力であり、その主題はユダヤ人なのか、あるいは文学そのものなのか、を言うことのできないものである」(阪上脩訳)と。

デリダはジャベス自身の言葉を引用しながら、こうした問題意識に応えていこうとする。ジャベスの言葉は詩人の言葉として、しかもユダヤ人の詩人の言葉として、いわば黙示録的な難解さに満ちているから、それらの言葉をちりばめながら展開されるデリダの文章も難解である。読者はその文章を読んで、これは果たして哲学的な主題を論じた論理的な文章なのか、それとも詩人を出汁にとって文学的な表現を披露した比喩に満ちた文章なのか、その意図を図りかねるところだ。

ユダヤ人であることも、文章を書くことも、どちらもむつかしいことだ。そのことをジャベスは、「ユダヤ人であることのむつかしさは、書くことのむつかしさと混同される。なぜならば、ユダヤ思想と書くこととは、同じ期待、同じ希望、同じ損耗にすぎないからだ」と表現している。

ユダヤ的なものの特徴をジャベスは、「すべての問いに対してユダヤ人は問いをもって答える」という点に見ている。これはなかなかできないことだ。そのことをユダヤ人は、民族固有の振る舞い方として、いついかなる場合にも貫徹する。それは当然不安を呼び起こす。何故なら問いを以て答えるということは、要するに答えの不在を意味するのであり、その不在の意識が不安を呼び起こすだろうからである。それ故、「ユダヤ的意識とは不幸な意識である」とジャベスは言う。

このように言及したうえで、デリダはユダヤ人にとっての不在の意味について考えをめぐらす。不在は当初答えの不在として提示されたが、それが場所の不在、作家の不在、私自身の不在へと転調してゆき、さらに欠如へと変容してゆく。欠如というのはジャベスにとっては、文の基本的な特性なのだ。

「すべての文字は欠如を形づくる」とジャベスは言う。「欠如は、文字が綴られ、意味することに与えられた許可である・・・欠如は結局文の吐く息である。文は生きているのだから」。それ故文字にこだわるのは利口なやり方ではない。ここから次のようなジャベスの信念が生まれる。「私が、書かれたことよりも、言われたことにおそらく大きな価値を与えるのを、きみは見抜いているだろう。なぜなら書かれたことは私の声を欠いており、私は私の声を信じているからだ」。書かれたことよりも言われたことにより大きな価値を認めるのは、レヴィナスも言及しているように、ユダヤ的な伝統の一つなのかもしれない。

ところで本は当然文字で書かれたものだ。本はユダヤ人にとってはユダヤ教の聖書という形で与えられる。聖書はユダヤ人にとって世界の存在の根拠とされる。そのようなものとしての「本は根源的であり、すべてのものは存在する前に本にあり、世界にやって来るためには本に接することによってしか生まれることができず、本を目指して失敗することによってしか死ぬことができない」

これは、ジャベスの本についての見方である。しかし、「もし存在が根本的には本の外に、その文字の外にあるとしたら」どうなるだろうかとデリダは問う。しかしこの問いは、デリダのいわば遊びであって、その問いをジャベスが発しないからといって、ジャベスを糾弾することは、愚弄するようなものだろうと言っている。

さてジャベスは、一人のユダヤ人であり詩人であった。その「ひとりのユダヤ人あるいはひとりの詩人が、場所を要求するとき、彼らは戦争を宣言しない」とデリダはジャベスに代わって言う。これは何を意味するのだろうか。とりあえず、ユダヤ人は他人の住んでいる土地を暴力によって奪わないという意味にとることもできる。しかしこれは歴史の事実と反している。ユダヤ人、そのなかのシオニストと称される人々は、戦後パレスティナを侵略し、パレスティナ人たちから暴力的に土地を奪って自分の居場所とした。それは否定できないことである。

デリダの上述の言葉は、シオニストたちによるパレスティナの侵略を意図的に無視しているのだろうか。それともそれをわかったうえで、シオニストたちによる暴力を揶揄しているのだろうか。というのもデリダは、ユダヤ人は現実の土地から生まれた民族ではなく、「本から出て来た種族」というような意味深長なことを書いているからである。本来本のなかに住んでいた種族が現実の土地に居場所を求める、しかも暴力を行使してそれを求めるのは、ある種の倒錯というべきなのだ。






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