子どもの性:大江健三郎「芽むしり仔撃ち」から

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大江健三郎の小説の世界は死を描くことから始まった。それと同時にセックスにも拘っていた。セックスは生きていることの最大の証であり、いわば死のアンチテーゼのようなものである。事柄の多くはそれ自体としてよりも、それの対立物とのかかわりにおいて最もよくその姿を現すものである。死も例外ではない。死もやはりその対立物たる生とのかかわりにおいて、もっとも明瞭にその姿をあらわす。しかして生の豊饒さはセックスにおいてもっとも純粋に表現される。セックスと死とはだから、不可分のつながりの中にあるのだ。

「芽むしり仔撃ち」という小説も死で溢れている。最初に夥しい動物の死があり、ついで疫病で死んだ村人たちの死があり、それに続いて僕にとってのかけがいのない存在、たったひとりの弟と村人から見捨てられた少女の死があり、最期に予科練の脱走兵の死と僕自身の死がある。こんなにも多くの死で溢れているわけだから、こういう小説は陰惨さのうちで破綻してしまう圧力にさらされているといってもよい。実際この小説が死を画くことに終始したら、人を感動させるような作品にはなれなかっただろう。ところがこの作品には、死の圧力に抗するような形でセックスが描かれている。このセックスの要素があるおかげで、死にはそれに対抗するバランス軸が生まれ、小説は全体として均衡を保つ。その均衡があるおかげで、この小説は破綻することなく、一編の物語たりえているわけである。

この小説に描かれたセックスは少年のそれである。この少年、つまり語り手である僕の年齢は明示されていないが、文脈からして小学校の六年生くらいではないか。この年くらいになれば、男根が勃起するようになり、性的興奮を覚えるようになる。当然異性、つまり女や少女を性的な関心の眼で見るようになる。場合によっては異性と実際にセックスしたい欲望にかられることもあるだろう。この小説の中の僕は、実際に少女との間でセックスすることはなかったが、その真似ごとのようなことをする。その行為が彼にとって持つ意味は、彼自身には明確ではない。ただそうすることによって、生きていることの実感と死への恐怖からの解放感を得られるというふうに書かれている。

語り手である少年の僕が性的関心を抱いた少女とは、疫病で死んだ母親と共に村人たちに見捨てられ、土蔵の中に母親の遺体の傍らに取り残されていたのだった。その少女に対して僕は、当初は年長者らしい気遣いをもって接していたが、その感情が次第に性愛に似たものへと高まって行く。その最大のきっかけとなったのは、少女が僕に向かって不安を訴えたことだった。村人に捨てられたことが彼女を不安にしたのだ。そこで僕は、少女だけでも村人に引き取ってもらおうと思い、危険を犯して村人たちのいる隣村に潜入する。そこで医師に助けを求めるのだが、医師からは犬を追い払うようにして追い払われてしまう。

その様子を見ていた少女は、初めて僕に対して親愛な表情を見せる。そして傷ついた僕の指を舌で舐めて癒そうとしてくれる。すると「僕の心のなかで、むくむくする情念が育ち、それが急激にふくれあがって僕を逆上させた」のである。こうして僕は少女と性的に結びつきたいと願うようになる。男女が性的に結びあうことは、単に肉体的な現象ではなく、精神的な一体感を感じられることなのだというふうに。もっともその性的な仕草は、少年と少女との間のことがらにふさわしく、ごくささやかなものに過ぎない。

「僕らはすっかり暗い床の上に土足であがりこみ、黙りこんだまま大急ぎでズボンを脱ぎスカートをめくりあげた、僕は少女の躰の上へたおれた。勃起してアスパラガスの茎のような自分のセクスが下穿にひっかかって殆ど折れそうになったので僕はうめいた。それからあわてふためいている少女のセクスの冷たく紙のように乾燥している表面との接触と小さな身震いをしながらの後退。僕はふかぶかした溜息をついた」

ただこれだけのことである。だがこれが契機となって僕の少女に対する感情は実に親愛に満ちたものになる。そうなると、孤立した村に少年だけで取り残された生活も悪くはないものに思われる。今や自分たちを抑圧する大人たちはいない。自分たちは誰にも遠慮することなく自由に振る舞える。そんな生活が満足したものに思われるのは、傍に愛する人がいればこそだ。僕にとって愛する人とは、たった一人の弟と僕の愛人ともいうべき少女なのだ。そんな生活を弟は次のように表現するのだ。「僕らはずっとここに居ようよ。長い間、こんな風にしてさ」

しかしそれは長続きしなかった。可愛がっていた犬が少女の手首を噛んだことがきっかけで犬が殺され、それを恨んだ弟が失踪し、その後少女が高熱を出して衰弱し始めるのだ。しかし僕にはどうすることもできない。弟の失踪については深い喪失感にさいなまれ、少女の衰弱に対してはなすすべもなくうろうろとするばかりだ。そんな少年を見た少女はかえって次のようななぐさめの言葉をかける。

「あんたが見たかったら」と少女が僕にからむ、うわずって幼い声でいった。「わたしのおなかをみてもいい」
 僕は手荒く少女の足を布団の中にくるみこみ立上った。僕は混乱しきっていた。

こうして僕は絶望の淵へと沈みこんでいくのだ。かれを支えてくれるものが何もなくなった今、彼には生きる気力が残っていない。ただただ打ちのめされるばかりなのだ。「弟は僕を見捨て、始めての愛人は血のような排泄物で小さい尻をまみれさせあえいでいる。僕は疫病が激しい勢いで谷間を驟雨のように覆いつくし、僕らをしっかりとらえ、僕らのまわりに氾濫し、僕らを身動きもとれなくしているのを感じた。僕はすっかりどんずまりにおちこみ、むせび泣きながら暗い夜の道に屈んで汚れた雪をかきあつめるしかなかった」

これは絶望についてこれ以上のものがないほど切迫した描き方である。その絶望は愛の不在から来るのだ。







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