石神問答:柳田国男の往復書簡集

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「石神問答」は、柳田国男が数人の民俗研究者との間で交わした往復書簡を一冊の本にまとめたものだ。それらの書簡は合わせて三十四にのぼり、交わした相手は、山中笑はじめ八名である。これらは本の出版日たる明治四十三年からさかのぼる余り遠くない時期に交わされたと思われる。その時期はあたかも遠野物語の執筆時期とだいたい重なっている。そんなこともあって、遠野物語と同じような問題意識に貫かれている。それは、日本の各地に残っている淫祠と言われるものの、起源や分布、現代の日本人へのかかわりあいなどを明らかにしたいというものだった。

この書簡集全体を通ずる問題意識は、柳田の山中笑あての第一書簡に示されている。この書簡で柳田は、シャクジと言われる祠とかそれをめぐる庶民の信仰について、その分布状態とか信仰の内実についての問いを投げかけているのであるが、そのシャクジをめぐっては、それと同じようなものが後にいくつも指摘されるようになる。この第一書簡においても、精進とか、象頭とか、十三とかいったものに触れられているのであるが、そうした類似のものが、どのような共通性を持っていて、それがどのような内実を伴なっているのか。それが柳田の当面の問題意識だったわけである。

シャクジはまた、サグジ、サゴジとも言われ、あるいはイシガミと呼ばれることもある。シャクジを漢字で石神と書く例が多いところから、イシガミはその訓読みと思われないでもないが、柳田はかならずしもそうではないかもしれないと柔軟に考えている。もっとも現実のこととしては、シャクジもイシガミも、石を本体として祭っている例が多いのではあるが。

シャクジをオシャモジサマという例もみられるが、それはシャクジを杓子と書いたことから生じた思い違いだろうと柳田は推測している。日本の民間信仰に、漢字の影響が変な具合に働いた一例なのだろうというのである。

シャクジはまた道祖神と結びつくことが多い。道祖神は日本全国に分布し、サヘノカミと呼ばれることもある。サヘノカミとは、境界を守る神である。境界とは、ある集落を他の土地から隔てる地点をさす。したがって集落のはずれにまつられることが多いが、山の中にまつられるものもある。

サヘノカミのサヘはまたサヒともサヰともいうことがある。サヒノカハラはそれに関連した言い方だ。サヒノカハラはこの世とあの世との境と認識されるが、それが集落とほかの土地との境に類推されたのであろう。

道祖神は地蔵の形で表現されることが多い。地蔵としての道祖神は縁結びの神であることがあるが、その信仰はシャクジにも見られる。この信仰には性器崇拝を伴うことがある。また、道祖神の神体を歓喜天の形であらわしたり、男女二神の抱合の形であらわすものもある。

道祖神は猿田彦神信仰と結びつく場合が多い。その場合猿田彦神は土祖神として観念される。つまり土地の神だ。猿田彦はまた庚申と関連付けられるが、それは道教の影響が混じったせいかと思われる。道教は仏教以前に日本に入って来て、民間信仰に大きな影響を与えたが、仏教とは異なって統一的な教義は持たず、雑多な要素がバラバラに入って来たと思われる。

ミサキとは土地の突端を意味する言葉で、日本各地の土地の名になっている。ここにも猿田彦とのかかわりが認められる。ミサキの類語にサダがあるが、これにも猿田彦とのかかわりが認められる。

昔より京都には四囲四周の祭として道饗祭があったが、これは域外からやってくる邪神を防ぐためのものであった。邪神は御霊と深いかかわりがある。この御霊が荒神となったり、現人神になっていたりする。荒神をまつる神社は全国に分布している。

山神の信仰は非常に古いものである。山王の神も山神であるし、姥神とか姥石とかいわれるものも山神である。大山祇はその山神の洗練された形である。

諸国に十三塚と呼ばれる塚が偏在しているが、これは墓の意ではなく、道祖神と同じく境界を意味するものらしい。左義長は京都の儀式であるが、その意義は、境界の外側へまがまがしいものを捨てることにある。各地に将軍塚と呼ばれるものも、十三塚と同じような意味合いを持っていると思われる。

以上のようなことを柳田は、様々な人々と情報交換をしながら、実証的に解明しようとしているわけである。

その結果柳田がとりあえずたどり着いた仮説は、シャクジといい、イシガミといい道祖神と言い、いづれも民衆の古い信仰の現れであって、それはある限りの神を頼んで里の守護を任せるというような思いを込めたものだということになる。しかして里の守護とは、災厄から里を守って欲しいという願いをこめたものであるが、その災厄には無論疫病も含まれていた。しかし、もっと大事なことは、われわれの祖先が里にやって来た時に、すでそこに住んでいた原住民ともいうべき人々との関わり合いのようなものが認められるということである。その原住民との境界を確定し、その境界から外側と、境界から内側である里との区別を明確にするために、シャクジ以下の祠を立てるとともに、その祠に里の平安への願いを込めたのではないか、そう柳田は考えたようなのである。

柳田のこの考えはあくまで仮説であって、まだ完全に実証されたわけではない。それが十全に実証されたと言いうるには、日本全国に渡って資料を収集するとともに、それをもとにしてもっと広範な帰納手続きを実施し、そこから得られた仮説を以て、さまざまな事象を矛盾なく説明できるかどうか、注意深く見ていく必要がある。何故なら学問とiutemoうものは、とくに実証的な学問というものは、あくまでも蓋然的なものであって、その蓋然性をどこまで高められるかは、資料の扱い方如何による、とするのが柳田の基本的な態度なのである。





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