マネ:近代絵画の先駆者

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エドゥアール・マネは近代絵画の先駆者とも、現代美術の魁とも言われる。マネが画家として登場した時、フランスではサロンが美術界への登竜門になっていた。美術界で成功しようと望むものは、このサロンで認められることが必要だったのである。しかしマネは何度もサロンに挑戦したにかかわらず、なかなか認められないばかりか、露骨に拒絶された。そこでマネは、ナポレオン三世がサロンでの落選作を対象にした「落選展」を開催した時に、「草上の朝食」を出展したが、それでも評価されないばかりか、一層露骨にけなされた。その理由は、マネの絵が伝統的な絵画の理想からあまりにもかけ離れていたということであった。

マネ以前の絵画においては、モチーフにおいても技法においても一定の約束事があった。今日古典主義的と言われるものである。ドラクロアのロマン主義的絵画でさえ、そうした古典主義の約束事の範囲内で仕事をしていた。ところがマネは、そうした約束事に全く無頓着だった。「草上の昼食」を例にとると、モチーフとしてはいかがわしい娼婦を画面の中心に据えているし、技法的には遠近感を無視した平板な画面構成をしている。こうした描き方は当時の美術界では全く受け入れられないものだったのだ。

つまりマネは、それまで長い間支配的だった絵画の常識に正面から挑戦する不敵な人物として受け取られ、煙たがられたわけである。そんなわけでマネを理解し、支持する美術人は現れなかった。マネは伝統的な美術界を相手にして孤軍奮闘を強いられたのである。そんなマネを理解し支持してくれたのは美術家ではなく、ボードレールやゾラやマラルメといた文人・詩人たちだった。ボードレールの美術批評は良く知られているが、マネについては「ある芸術の衰退期における第一人者」と評した。衰退しつつある古典主義の殻を破って登場した新しいタイプの画家という意味だろうか。またマラルメは、とりわけマネの後期の作品を高く評価し、それらが光に満ち溢れていることを褒めた。

とは言ってもマネは、意識的にサロンに代表されるようなアカデミックな古典主義に挑戦したわけではない。マネは生涯を通じてサロンに出展し、サロンで高い評価を得ることを望んだ。晩年になって画家としての名声が高まり、彼の周りに集まって来た画家たちが独自に展覧会(印象派展)を開くようになっても、マネはそれには自分の作品を出展せずに、もっぱらサロンに出展し続けていたのである。

マラルメが言っているように、マネには光を重んじるという点で、印象派の先駆者としての位置づけも与えられる。しかしマネの絵は、そうした印象派風の作品ばかりにとどまらない。構図の斬新さや色彩の配置といった点でも独特の境地を切り開いている。人物画を中心に描いたが、風景画も多く描いている。そうした風景画には必ずと言っていいほど人物を添えていて、そこから人は近代都市における風俗的な一面を垣間見ることができる。

マネは裕福なブルジョワの生まれで、生涯金には困らなかった。若くて貧乏な画家を経済的に応援したこともある。だから自分の描きたいものを、自分の流儀で画くことに徹することができた。ある意味芸実至上主義に耽ることが許された幸福な画家だったと言える。

ここではそんなマネの代表的な作品を鑑賞していきたい。





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