大江健三郎と女性:洪水はわが魂に及び

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大江健三郎の小説は、女性が大きなウェイトを占めている。処女作の「奇妙な仕事」以来、女性たちは主人公の影のようなものとしてかなりな存在感を以て大江の小説世界を彩ってきた。「個人的な体験」以降は、大江の息子たる子どもが大きな役割を占めるようになるが、それでも女性の役割が小さくなるわけではない。女性は大江の小説世界にとってのキーパーソン的な役割を付与され続けるのである。

その割には、大江の描く女性はかなり類型的な印象を与える。大江の描く女性のタイプは、ざっくりといって、二つに分けられる。男に対して寛容で献身的な女性と、男に対しても世界に対しても無関心な女性である。前のタイプの女性は、「芽むしり、仔撃ち」の少女とか「月の男」の女流詩人に代表される。このタイプの女性は、少女であっても女を感じさせ、しかも男に対して寛容で献身的なのだ。後者のタイプは、「万延元年のフットボール」での、主人公の妻に代表される。このタイプの女性は主人公に対してあまり関心を示さず、自分の殻に引きこもっているような印象を与える。ときたま主人公に向かって強く自我を主張することもあるが、基本的には我関せずといった態度をとっている。

この二つのタイプの女性が、「洪水はわが魂に及び」では、二つながら出て来る。前者のタイプの例としての小娘の伊奈子、後者のタイプの例としての主人公の妻である。というより、この小説に出て来る女性はこの二人だけなのだ。

伊奈子は「自由航海団」でただ一人の女性である。「自由航海団」のほとんどのメンバーと同じく未成年の女性であり、主人公の勇魚は当初彼女を小娘と呼んでいた。その小娘と勇魚との出会いは奇妙なものだった。彼女は街娼を装い勇魚に近づいてきて、「一発やりませんか?」と呼びかけてきたのである。この外斜視の小娘が「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」と言うのを聞いて、主人公の勇魚は面食らったのであるが、小説が進むにつれて二人は親密になり、ついにはセックスを繰り返す仲になる。

大江が小説の中でこのきわどい四文字言葉を臆面もなく使うのに接しては、特に関東はじめ東日本の読者は赤面したに違いない。東日本では、この言葉は強いタブー意識にまといつかれており、人前で発するのがはばかられる言葉だ。大江がこの言葉に対してあまりタブー意識をもっていないのは、かれが四国の、つまり西日本の出身だからだろう。西日本では女性器を別の言葉で呼ぶ。だから、東日本で広く流通するこの四文字言葉に対しては、それが女性器をあらわす言葉だとわかっていても、大江が露骨な羞恥心を呼び起こされることはないのだろう。

この小娘たる伊奈子は、刑事に対しても一発やりましょうよと呼びかけたり、怪我をした仲間の少年に対して、性的なサービスをしてやったり、小説の最初の部分ではすれからしの小娘というイメージを振りまいている。ところが小説が進むにつれて、小娘ながらも周囲に気をくばるばかりか、仲間に対しての思いやりを示すやさしい女性としての面を強く見せるようになる。そのやさしさには母性を思わせるものがある。彼女はその母性的なやさしさを以て、勇魚の白痴の息子ジンに接し、ジンも彼女のやさしさを受け入れて、まるで疑似母子のような関係を築くのである。

あまつさえ伊奈子は、勇魚に対しても献身的な態度をとる。その最たるものは、勇魚にセックスをプレゼントすることだ。ほかに大勢の若者たちがいるなかでなぜ彼女がセックスのパートナーに勇魚を選んだのか。それは小説のなかでは明示されていない。彼女はボオイという若者の欲望を発散させてやったりはするが、ほかの若者とセックスをしている気配は見せない。この小説の中の若者はみな禁欲的なのだ。ひとりだけ例外は元自衛官で、彼女はこの自衛官から強姦されたのであったが、そのことを意に介さず、その自衛官と懇ろな関係になる。そのへんは、小娘らしいふしだらぶりなのだが、彼女のそうした振舞いはそんなに違和感を抱かせない。

伊奈子が勇魚とのセックスを始めるのは、元自衛官が死んだあとだ。だから伊奈子はセックスの相手を失ったことで、そのかわりを勇魚につとめさせたと思えなくもないが、それにしてはなぜ他の若者ではなく、さえない中年男の勇魚なのか。勇魚がジンの父親だからというのは大した理由にはなりそうもない。男女の仲は水ものと言うが、それにしてはまだ小娘の伊奈子が、中年男にセックスの相手を求めるというのは、なかなか解しがたいことだ。

ともあれ伊奈子が勇魚をセックスに誘う言葉は極めてストレートなものだ。彼女は勇魚に向かっていきなり、「それじゃ、やらない?」と呼びかけてきたのである。そのあっけらかんとしたものの言い方に、勇魚は反応する暇もなく、そのまま彼女とセックスをするのだ。彼らのセックスはたびたび続けられるのだが、そのたびに伊奈子がオルガズムに達した様子が伺われない。未成年の彼女にはまだそこまで性感帯が開発されていないのだ。そこで勇魚は彼女のために性感帯を開発してやり、彼女が本物のオルガズムに達せられるよう導いてやりたいと願う。そしてそれは成功する。その時にはじめて伊奈子は大人の女になるわけだろう。

そんな伊奈子にジンは深い信頼を寄せるようになる。そのことでジンは父親の勇魚から自立できる可能性を持つ。その可能性を見極められたことが、勇魚がジンを伊奈子にゆだね、自分一人で死んでゆく決意に導いたわけだ。そこにはまた、伊奈子のために性感帯を開発してやったという深い満足感も働いていたのである。勇魚にはもはや思い残すことはないのだ。

もう一つのタイプである勇魚の妻は、伊奈子とはあらゆる面で対照的だ。だが、ひとつだけ共通するところがある。子どもっぽさだ。伊奈子の場合には、小娘というだけあってまだ本物の子どもなわけだが、妻の直日は幼女がそのまま中年になったような顔つきをしていると形容されている。この女性には自分本位で冷酷なところもあるのだが、それは彼女の幼児性に発しているというふうに伝わるように書かれている。

彼女が自分本位で冷酷なのは、自分の夫はともかく、息子まで捨ててしまったことに現われている。彼女は自分の夫と息子のために核シェルターを用意してやったりはするのだが、それは親切からというよりは、負担になるものを厄介払いしたいという打算から出たというふうに伝わって来る。

そんなわけだから、この妻は徹底的に非情な人間として描かれている。彼女は機動隊によって包囲された核シェルターにやってきて、「自由航海団」に投降を呼びかけるのだが、その祭にも、夫や息子への配慮は見られない。政治家である父親の地盤をついで選挙に出る覚悟なのだが、その選挙に有利になるようにとの打算だけで行動している。こうなると、自己本位で冷酷と言うより、化け物を見るような感じである。妻の自己本位は「万延元年のフットボール」でも際立っていたが、この小説のなかの妻はその比ではない。そういう点では、大江の小説の中でも、かなり特異なパーソナリティと言える。

このように、この小説の中で大江は、慈愛に満ちた献身的な女性と、冷酷で自分本位な女性とを、ポジとネガのように対比させながら描いているわけだ。






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