犬を連れた奥さん:チェーホフ

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チェーホフの短編小説「犬を連れた奥さん」は、好色な中年男と世間知らずの尻軽女との恋を描いている。こういう組み合わせは、我々日本人にとっては、だいたいが、男が女を弄んで終りという形になりやすいが、ロシア人の場合には必ずしも、そうはならないらしい。女のほうより男のほうが熱くなってしまうのだ。ということは、結果としては、女が男を弄んだ形になる。これは、どういうことか。前回とりあげた「可愛い女」では、ロシア人女性の典型として、自分の判断を持たぬ受動的な女性像が示されていたのだが、この小説では、ある意味男を弄ぶ積極的な女性像が示されているようにも見える。一体どちらの女性像が、ロシア人女性の典型に近いのだろうか。

こういう疑問が生まれてくるのは、読み方が浅いせいかもしれぬ。たしかにこの小説の中では、男が恋の虜になってしまう。彼は惚れた女に目がくらみ、理性を失ってしまうのだ。しかしそれは、女のほうからしかけた結果だとは言えない面がある。男の一人芝居の気配が濃厚なのだ。男が自分勝手に女に惚れこみ、自分から堕落してゆく。そこに女の積極的な働きかけはないといってよい。だから、そこに女の積極性を認めることは出来ない。女は「可愛い女」ほどではないにしても、やはり受け身で世間知らずなのであり、彼女が男とただならぬ関係に陥るのは、彼女の積極的な行動を通じてではなく、男の一方的な思い込みに巻き込まれてのことなのだ。

そうだとすれば、この小説の女主人公も、可愛い女のありさまに著しく反しているとはいえない。彼女も又可愛い女同様、受け身で世間知らずで自分の意志を持たないのであり、相手の男に合わせて生きているに過ぎない。ただその相手の男が、本来彼女が依存すべき配偶者ではなく、第三の男である好色な中年男である点が、このケースの独特なところなのである。

しかし彼女はなぜ、初めて出会ったばかりの中年男に操を与えてしまったのか。彼女は気晴らしにヤルタに来ていたということになっており、中年男とのアドヴェンチャーもその気晴らしの一つとしてあっさりと描かれている。彼女には、自分の恋を貫こうという強い意志はなく、ただその場その場で楽しければよいといった、刹那的な傾向が明瞭に認められる。その点では彼女は軽佻浮薄な尻軽女に過ぎないのだ。そんな尻軽女に中年男がいかれてしまったのはなぜか。この中年男は、彼女とのアドヴェンチャーが初めての浮気ではなく、これまで多くの女を泣かせてきたように書かれている。その点では、かれは浮気のベテランなのである。そのベテランがなぜ、ころりといかれてしまったのか。

そのことについては、小説は深く掘り下げた書き方をしていない。だいたい、かれらが初めて逢瀬に臨む場面においても、かれらがセックスをしたかどうかに触れていないのだ。それなのに、男は女にぞっこん参ってしまっている。女のほうにも男とのアドヴェンチャーを楽しんでいる風情がある。しかし、男が女にいかれているほどには、女のほうは男にいかれ切ってはいない。その証拠に、夫から帰ってくるように催促があると、そそくさと夫のもとに行ってしまうのだ。出来たばかりの恋人を捨てて。

こう整理してみると、女は世間知らずの尻軽女そのものであり、その女がたまたま男の誘惑に接して、生来の尻の軽さから、その誘いに簡単に乗ってしまったということになりそうである。そういう点では、女の行動には、あまり疑問はない。よくあるタイプの女のよくあるパターンの行動ということになる。解せないのは男の行動だ。この男は世間的に成功をおさめ、それなりの家庭を持ち、また適当に女達との浮気を楽しんでいる。いわば人生のベテランというべき男である。その男が、まだ若くて世間知らずの女にころりといかれてしまうのだ。

男は彼女のどこにいかれたのだろうか。そのことについては、小説はわかりやすい書き方をしてはいない。ただ男が女にいかれてしまい、そのうち常軌を逸した行動をとるようになるプロセスが淡々と書かれているばかりだ。常軌を逸しているというのは、分別のある中年男が、世間体をはばからず女をつけまわすからだ。それに対しては、女のほうが世間体を気にするだけの余裕を示している。

男の異常さは、女にいかれるあまり、この女と結婚したいと思う所に現われている。それに対して女のほうは、男の前で涙を流すだけで、明確な意思を示してはいないように見える。それはこの女が、自分としては明確な意思をもたず、つねに男に依存していることの表れだと思わせる。そんなわけで、男が女に向かって、お前と結婚して一緒に暮らしたいと、一方的に言うばかりであって、小説もそうしたシーンを書きながら終わっているのである。

こうしてみると、この小説は、あまり理性的な判断の出来ぬ男と、そもそも自主的な判断とは縁遠い女との物語といえそうである。自主的な判断ができず常に受動的に振る舞うのは、可愛い女としてのロシア人女性の特徴といえる。一方、あまり理性的な判断ができず、その場限りのいきあたりばったりの行動をとるのは、ロシア男の特徴ということになるのだろうか。






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