レヴィナスの逃走論

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「逃走論」と題した1935年の小論でレヴィナスが論じたのは、人間の自己自身からの逃走ということだった。この奇妙な考えをレヴィナスは文学から借りたといっている。レヴィナスは言う、「現代文学は、逃走という奇妙な不安をあらわにして見せたが、この逃走は、われらが世代による存在の哲学に対するもっとも根底的な糾弾のごときものだったろう」。つまりレヴィナスは、哲学に向って、逃走という奇妙な不安を通じて根本的な糾弾を浴びせた文学の方法をもって、現代哲学を糾弾したかったのだろう。その理由のようなものをレヴィナスは次のように言う。「逃走という措辞を、われわれは現代の文学から借用したのだが、それは単なる流行語ではない。それは世紀の病なのだ」(合田正人訳、以下同じ)

たしかに人間が自分自身から逃走したがっているなどとは、「世紀の病」といってよいだろう。しかし人間が自分自身から逃走するなど、ありうる話なのか。伝統的な哲学にとっては、それはありえないだろう。しかし哲学の本源的なあり方からすれば、それはありうる。ありうるどころか、人間としての本源的な生き方をするためには、それしか方法はないといってよい、というのがレヴィナスの考えだ。なぜそんなふうに考えるのか。

逃走というからには、なにかからの脱出を意味する。レヴィナスは人間の自分自身からの脱出だと言う。しかし自分自身から脱出してしまっては、そもそも自分自身がなくなってしまうのではないか。たしかにそういう一面はある。だが完全に自分がなくなってしまうわけではない。かえって自分のなかの余計な要素が捨て去られて、まともな要素だけが残り、そのことで自分が高められるようになる、どうもそんなふうにレヴィナスは考えているようである。

こうした考えが常軌を逸して見えるのは、自己という概念の硬直性のためである。伝統的な哲学にあっては、私とは自同生、つまり自己同一性のことを意味していた。自己同一性というのは、私は分割不能な同一の存在だということを意味している。この自己同一的な私が、私以外の、私を取り巻く世界と対立している、というのが伝統的哲学の基本的な前提であった。

しかしこのような考えは永遠普遍のものだろうか。そうではない。それは近代に特有のものであって、ブルジョアの階級的な関心を代表しているに過ぎない。近代の支配的階級であるブルジョワが、自己の同一性とか、自己のうちに安らう安逸とかいったことを主張しているにすぎないのだ。レヴィナスは言う、「自足した安逸性という、自我についてのこのような考えは、ブルジョワ精神とその哲学の本質的な特徴のひとつである・・・ブルジョワはいかなる内面的分裂も打ち明けることはないし、自己への信頼を欠いていることを恥じている」。それゆえ、「ブルジョワにおける良心の呵責の欠如は、その意識の平静の恥知らずな現われ」なのである。

こうしたブルジョワの考えからすれば、自分自身からの脱出とか逃走とかいうことは、まったくナンセンスなことになる。しかしそのナンセンスが、ナンセンスではなくなっているというのが、この「逃走論」の主題なのだ。しかしなぜ自分からの逃走が問題になるのか。それは、いまの時代にあっては、人間の自我というものは、ブルジョワが考えていたような堅固で安定したものではなく、非常に不安定なものであり、かつ人間の人間としての生き方を制約してもいるからだ。人間についての見方は、時代に制約されたものであって、永遠普遍なものではない。いまの時代の人間観はたまたまブルジョワの都合のよいように作られているので、時代が変わり、状況が変化すれば、おのづから別の人間観が出て来ておかしくない。いまはそんなときなのだ、そうレヴィナスは言いたいようである。

自足し、安定した自我という観念は、存在の観念と結びついている、とレヴィナスは言う。両者とも自己同一性をその本質としているのだ。「存在は存在する・・・自己自身とのこのような係わり、それこそ存在の自同性という言い方で語られているものだ・・・自同性は、存在するという事実の自足せる安逸の表現であって、誰も、その絶対的で決定的な性格を一度たりとも疑問に付すことは出来ない様に思われる」

しかしその存在の自同性こそが、いまや疑問に付せられるべきなのだ、というのがレヴィナスの主張だ。レヴィナスによれば、「存在を受け入れた一切の文明、この文明にともなう悲劇的な絶望やそれが正当化する数々の犯罪は、野蛮の名に相応しい」ということになる。それゆえ存在は乗り越えられねばならない。しかして人間の自我についての考えは、この存在の観念に毒されているわけであるから、やはり乗り越えられねばならない。レヴィナスの言葉によれば、そこから人は逃走しなければならないわけである。

レヴィナスはこのような前提から出発して、人間が自我として存在しているその在り方にともなう様々な現象を、現象学的方法を用いながら解明してゆく。たとえば羞恥とは、自我の存在を隠せないことからくる感情であり、吐き気とは存在に繋縛されていることからもたらされる情態であり、快楽とは存在からの脱出にともなう開放的な気分なのだというわけである。その詳細についてレヴィナスが解明しているところはなかなか興味深いのであるが、ここでは立ち入らない。

ここで確認しておきたいのは、レヴィナスが自我からの逃走とか、存在からの開放とかいうことで主張しているのは、どういうことかということだ。この小論だけでは不明なことが多すぎるのだが、ひとつ明らかに見えるのは、新しい人間観への展望を示したということではないのか。その人間観は、自同性としての存在という伝統的なものではなく、無限に通じる様なまったく新しい生き方をめざすものであるらしいが、その内実については、まだほのめかされる程度にとどまっている。その内実はやがて「全体性と無限」において展開されていくであろう。






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