小生は、自分の職業として公務員を選んだので、自分自身の人生の回想録たる思い出シリーズは、奉職先の役所での生き方が中心になる。小生が奉職したのは東京都庁だ。なぜそこを選んだのか、その理由は先稿「深川清掃事務所の思い出」に記してあるとおりだ。都庁というのは、一地方公共団体に過ぎないのではあるが、なにしろ図体がでかくて色々な仕事を抱えている。小生が入都した頃は、都道府県の業務のほか、市町村が担うべき業務も担当していた。例えば清掃とか消防といった本来市町村が行うべき業務を都が行っていた。区の職員も都が一括採用し、各区に割り当てていたものだ。財政もほとんど一体化していた。千代田区や港区といった裕福な区から税収の一部を吸い上げて、それを交付税(財政調整資金といっていた)の財源としていた。各区の財政自主権はかなり制約されていたのである。
反哲学的エッセー
年が明けて小生は満七十七歳になった。これを世間では喜寿と言うそうだ。後期高齢者と呼ばれるよりはましかもしれない。ともあれ例年にしたがい、今年も年頭にあたって一年間を展望したいと思う。この年になると、来年以降まで展望する余裕はない。
令和六年は小生にとって、もしかしたら大きな転換の年になったかもしれない。今年で満七十六歳になった小生は、これまで至って健康であったのだが、秋口に帯状疱疹にかかって以来、すっかり体調を崩してしまった。なにしろ年末を迎えた今日現在、疱疹はまだ完全に消えてはおらず、神経痛も残存している。激痛ではないものの、しびれるような感じが不気味である。帯状疱疹は水疱瘡の後遺症みたいなものだそうだ。水疱瘡が治ったあとでも、それを引き起こしたウィルスは体内に潜伏している。それが年をとって体調のバランスが崩れると暴れ出して帯状疱疹を発症する。小生は子どもの頃に水疱瘡にかかった記憶がないので、自分は大丈夫だろうと思い込んで、予防接種の案内がきても気にしないでいた。それが間違っていた。だが後悔先に立たずである。体調の崩れは、足元が不如意になったことが大きい。帯状疱疹は神経にさわるというから、小生も神経をやられたかもしれない。今後、不如意な足元を抱えながら、だましだまし生きていかねばならぬ、と観念している。
評価室評価担当課長を二年やって、そろそろ部長級への昇任適齢期になった。前任の評価担当課長がそのまま昇任したので、小生もこのまま昇任するものと思っていた。ところが統括課長クラスをもう一つやらされることになった。これは意外だった。同期の連中はこの時期にほとんど全員部長級に昇任し小生だけが取り残された形だった。
自分の手で自分のポストをつぶしてしまった小生は、一年後の異動期にどこかへ異動せねばならなくなった。課長級になって七年近くたっていたから、そろそろ統括課長に昇任していい頃だった。統括課長というのは、課長より半ランク上の階級だ。各局の総務課長とか部の番頭課長(庶務担と呼ばれる)、あるいは局の重要ポストなどにあたる。小生はどこでもよいと思っていた。仕事が面白そうなら、財務局でなくてもよい。そんな気でいたところ、思いがけないポストをあてがわれた。財務局用地部評価室評価担当課長である。現任者が昇任して他局に出ることになったので、その後任とされたのだ。正直、あまり乗り気にはなれなかった。一応統括課長職への昇任ではあるが、仕事の内容が変り映えしない。仕事仲間だった土地調整課長などは、昇任を祝福してくれたが、どうも士気が上がらない気がした。
アメリカ大統領選はトランプの勝利をもたらした。そのトランプを小生はかねがね不良老人と呼んで、批判してきた。一方、現職のバイデンを小生はボケ老人と呼んで、かれのあやふやな立居振舞にあきれかえってきた。先般この二人が討論会に臨んだ際には、たがいに相手を口汚く罵りあうのみなので、そのさまを「ボケ老人と不良老人の罵りあい」と表現した。この二人のうち、ボケ老人が去って、不良老人がアメリカの大統領に復帰することになった。その前に、不良老人に対してバイデンの副大統領カマラ・ハリスが立ち向かったのであったが、力不足は明らかで、ねじ伏せられた。ハリスはバイデンのコピーのように見なされて、独自の存在感を示すことができなかった。存在感の希薄なものに、権力は担えない。
教育庁で学校健康担当を二年余りやったあと、財務局用地部評価室指導担当課長に横転した。財務局用地部評価室というのは、都が当事者となる不動産等の取引価格を決定する部署である。道路用地の買収価格とか、ヘリコプターの購入価格、あるいは都有財産の貸し付けにかかる賃料の設定といったことを行う。これは都の固有事務であるが、それにあわせて国土利用計画法にもとづく事務を担当していた。国土利用計画法の本則には、一定規模以上の土地の取引の届け出制を定めている。取引価格が市場の実勢と比較して、あまりに多額である場合は、それについて勧告する権限が都道府県知事に与えられている。また臨時措置として、一定の区域(監視区域という)について、あらゆる土地取引の届け出制を定める規定があった。地価の異常な上昇を制御することを目的としたものである。これは区市町村の事務に位置付けられていたが、都はその事務を指導する立場にあった。要するに、評価室というのは、都の固有事務としての不動産価格の決定と国土利用計画法に基づく事務とを所管していたわけだ。その事務のうち、固有事務については評価担当課長が、国土法の本則としての届け出にかかる事務については国土法担当副参事(これは教育文化財団で社会教育施設青年の家の所長をしていた男で、小生とは結構仲がよかった)が、区市町村の指導にかかる事務については指導担当課長が所管していた。小生が任命されたのは、指導担当課長である。
先日「日本はレイプ天国か」と題した小文を小生のブログ「続壺齋閑話」に投稿した。これはハワイ在住のアメリカ人デヴィッド・T・ジョンソンが雑誌「世界」に投稿した文章「日本でレイプは犯罪なのか」に触発されて書いたものである。ジョンソンは、日本の刑事司法の場では、女性へのレイプ事件が真剣に扱われておらず、したがって被害者の権利が侵害される一方で、加害者はやりたい放題という状況が生まれている、という危惧を示していた。また、これは刑事司法だけの特殊な問題ではなく、日本という社会が抱えている構造的な問題を反映しているのではないか、といった問題意識も感じさせた。小生は、一人の日本人として、ジョンソンの指摘を謙虚に受け止め、この問題、つまり日本のレイプ容認文化ともいえる問題領域について、掘り下げて考えてみたいと思った次第だ。
東京体育館の仕事は変化に富んでいて、しかも楽しかったから、小生はしばらくの間いてもいいなと思っていた。だが、役人の世界というのは、動きたいと思う時には留め置かれ、留まりたいと思う時には動かされるということになっている。事業課長としては一年しかたたないで、動かされることになった。異動先は教育庁体育部である。そこの学校健康担当副参事というポストに横転した。局内での異動ではあるが、一応出向先から戻ってのことであるから、教育文化財団からは「東京都教育委員会の事務部局へ出向を命じる」という辞令をもらい、教育長からは「学校健康担当副参事を命じる」という辞令をもらった。その際次長から特命があった。都内の全公立学校を対象に、労働安全衛生法を施行せよというものだった。これは行政監察からの指摘事項なので、至上命令だとも言われた。
いつ死んでもおかしくない、というのが小生の最近の口癖である。昨年の七月に満七十五歳の誕生日を迎えたのがそのきっかけであった。その年になったことで、小生は後期高齢者に分類された。後期高齢者とは曖昧な言葉だが、要するに生きている価値がなくなったのであるから、さっさと死んだ方がよいと、世間から促されているように感じる。そんなわけで、自分自身の切実な問題として、死を考えるようになった。先日はこのシリーズで「死の迎え方」と題した小文を紹介したが、いつ死んでもよいように常に死ぬ準備をしておく必要があると考えている。その延長で、強いられた死についても考えるようになった。用のない年寄りは早く死んだ方がよいと、総理大臣自ら言うような今の日本である。そんな今の日本では、どんな死も半分は強いられたものといえなくもない。その強制としての死のもっともドラスティックなものは、刑罰としての死、つまり死刑である。今や死刑廃止が世界の主流のあり方になっているそうだが、そんななかで日本がいまだに死刑に固執しているのは、社会にとって余計者は消してしまったほうがよいという思想が寝強く働いているからであろう。
瑞江葬儀所の次の職場は教育庁所管の東京体育館であった。これは昭和31年から33年にかけて整備された大規模体育館で、アジア大会や東京オリンピックの競技会場として活躍、日本有数の屋内体育施設であった。老朽化のため昭和61年12月に全面改修工事が始まり、令和2年4月にリニューアル・オープンを予定していた。小生が赴任した時にはまだ完成しておらず、オープンに向けて開設準備の最中であった。開設準備という仕事はハードなものだと聞いていたので、小生は心を引き締めて臨んだものであった。
昭和62年12月から二年間、小生は都営瑞江葬儀所の所長をつとめた。火葬業務というのは、普通は自治体の仕事なのだが、東京に関しては、歴史的な事情があって民間がほとんどまかなってきた。そんななかで、昭和の初年に当時の東京市が江戸川区春江町に火葬場を開設した。それが都営瑞江葬儀所で、小生がそこに赴任した当時は東京で唯一の公営火葬場であった。
落日贅言シリーズ、今回は死の迎え方について考えてみたい。死そのものについては、先般「死を考える」と題した一文の中で論じたところだが、それは死に外から迫るようなものであって、死を自分自身の問題として、いわば内側から見たものではなかった。そこで、今回は死を内側からとらえてみたい。内側から死をとらえるというのは、自分自身が死ぬ立場に立つことである。自分自身が死ぬ立場に立つということには、二重の意味合いがある。自分自身が死をどのように迎えるのかということと、自分の死がまわりの人、具体的には家族や友人にどのようなインパクトをもたらすか、ということである。
昨年の7月15に満75歳の誕生日を迎え、いわゆる後期高齢者の部類に入れられることになったのを記念(!)して、「落日贅言」と題するエッセーのシリーズを始めてから一年がたった。まだ、元気で生きている。先日は、野暮用で二人の老人と親しく付き合うことがあったが、二人とも86歳の高齢で、矍鑠としていた。その姿を見て小生は、自分もあと十年は元気でいられるかもしれないと思い、その気持ちを家人に披露したところ、家人はうれしそうな顔をしたものである。
墨田区から東京都へ戻った小生は、清掃局本所清掃事務所管理係長を経て、衛生局医療福祉部業務課医療計画係長に転任した。本所清掃事務所では、色々なことがあったが、深川清掃事務所と重なる部分も多いので、あえて触れることはしない。そのかわり、本所在職二年間に受けた研修のうち、印象深かったものを紹介したい。小生ら若手対象の管理職選考合格者には、管理職候補者向けの研修プログラムが用意されていて、それを受講するのも仕事のうちだったのである。
墨田区への転出が決まったことを人事係の同僚に報告した。次席のI氏は、墨田区はまだ総合庁舎を持たず、本所区役所と向島区役所時代の古い庁舎を使っている。君の所属は厚生部だというが、厚生部はおそらく向島区役所の建物に入っていると思う、と言った。小生は両国にある庁舎に通うことと思っていたので、意外な情報だった。
前稿「ハンナ・アーレントとユダヤ主義の精神」で、全体主義についてのアーレントの分析がそのまま現在のイスラエル国家にも通じることを指摘した。ナチスがかつてユダヤ人やほかの「劣等な」人間を相手にやった残虐極まる行動を、現在のイスラエルのシオニスト政権も行っている。そのシオニストに抵抗するパレスチナ人を欧米の諸大国はテロリストといって非難するが、アーレントの定義によれば、イスラエル国家こそがテロリストである。なぜなら、恐怖を利用して相手を無力化させようとするのがテロルの本質であり、そのテロルをもっとも有効に利用しているのがイスラエルだからだ。イスラエルは自らのパレスチナ人への暴力を抑止力と言っているが、暴力で相手を屈服させ、そのことで反抗する意欲をなくさせようとすることは、アーレントのいうテロルそのものにほかならない。当事者であるイスラエルのシオニストらが、自分らがやっているのはテロルだと認識しているのである。
ハンナ・アーレントの著作「全体主義の起源」三部作については、小生は若い頃ペンギンブックスの合本版を買い求めたところだ。そのうち第一巻の「反ユダヤ主義 Antisemitism」は、購入後すぐに読んだが、残りの部分は棚ざらしのままにしておいた。その残りの部分のうち、第三巻の「全体主義 Totalitarianism」を今回読んだ。第二巻の「帝国主義Imperialism」についてはいまさらという気持ちがあったのに対して、全体主義については、まだ時事的な問題意識にのぼるという判断があったからだ。何が時事的なのかというと、いまイスラエル国家が世界に突き付けている問題が、アーレントがこの書物の中で展開している全体主義批判に相通じるものがあるからだ。アーレント自身は、ナチスとボリシェビキを批判するつもりであり、当時できたばかりのイスラエル国家を批判する意図はまったくもたなかったのだが、彼女の死後、イスラエル国家はますます好戦的・反人道的な姿勢を強めており、その姿勢が、小生にはナチスに通じるものを感じさせるのである。そんなわけで、アーレントがもし生きていたら、いまのイスラエル国家をどのように考えるか、ということが小生の関心を搔き立てた次第である。
深川清掃事務所に入所して一年後に、管理係長が人事異動で転出した。小生はこの係長を親父のように頼りにしていたので不安だったが、転出先は本局であり、一応栄転という形だったので、表向きは祝福してみせた。後日本局で会うことがあったが、非常に忙しそうにしていた。書類をもって廊下を走り回っている。緊急案件のために部長の決裁を求めているという。やがて部長の姿があらわれると、係長は犬のようにすりよっていった。部長が傲慢そうな表情を浮かべながら、書類を一瞥して決済の花押を印した。当時は花押で決済する習慣が残っていたのである。この部長にかぎらず、いわゆるお偉方には傲慢な人間が多かった。
小生が大学卒業後の就職先に選んだのは東京都庁だ。自分のホームページのプロフィール欄には、「東京に事務所を置く一地方団体」と記してある。都庁を選んだ理由は二つある。どちらも大したことではないが、一つ目は、大学で仲良くしていた友人から、都庁の採用試験を一緒に受けようと誘われたことだ。その友人は結局都庁には入らず、大手新聞社に努めた。当時は役所の給与は低く、大手企業のほうがはるかに高い収入を得られたので、かれの選択は正しかったのだろう。もう一つの理由は、家族への気兼ねだ。小生は四人兄弟の長男坊なので、ゆくゆくは親と同居して、面倒を見なければならないと考えていた。それには遠方への転勤がないところでなければならない。都庁という職場は、転勤は無論あるが、だいたいが二十三区内に収まると聞いていたので、自宅から十分通える範囲内である。そんなわけで都庁を選んだ次第だった。
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