反哲学的エッセー

子規と蕪村

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芭蕉が俳句の確立者とすれば、子規は近代俳句の確立者、あるいは俳句の中興者ということになろうか。この二人にはかなりな相違がある。芭蕉が余韻を重んじるのに対して、子規は写生を重んじるということだ。芭蕉の俳句の余韻は、深層意識の光景を詠むところからもたらされるということについては、前稿で指摘したとおりだ。深層意識に映った光景というのは、理智の働きを蒙る以前の、つまり分節される以前の混沌としたものだった。その混沌がかえって、俳句に余韻を生む。これに対して子規の写生は、どのようにして俳句を生むのか。それを考えるために、いくつかの作例に即して、子規の俳句の詠み方を分析してみたいと思う。

芭蕉の句は深層意識に映った光景をそのまま詠んでいる、と指摘したのは井筒俊彦だ。深層意識に映った光景というのは、井筒によれば分節以前の未分節の状態で、したがって混沌としたものだ。その混沌から余韻が生まれる。芭蕉の句の強みはその余韻にある。俳句とはそもそも余韻の芸術なのだ。芭蕉がその余韻を重んじたのか、あるいは余韻が芭蕉によって見出されたのか。どちらとも言えないが、芭蕉の登場によって、余韻の芸術としての俳句が成立したのは間違いないようだ。そこで小生は、芭蕉の句に一々あたり、そこにどのような事情が成立しているのか、考えてみたいと思う。考えてみたいというのは、とりあえずは井筒からもらったヒントをもとに、それがどのくらいの妥当性を主張できるかについて、いささか納得できるものを得たいと思うからだ。

イスマイル派はシーア派の分派で、十世紀の中葉にはエジプトを中心にファーティマ朝という強大な王朝をたてたほど勢力があった。そのイスマイル派の中から、アラムート派というものが生まれたのだが、その名称は、テヘラン北西部のアラムートという山岳地帯を拠点にした宗教運動だったことに基づく。この宗教運動は、宗教的敵対者を根絶することを目標とし、そのために独特な暗殺組織を作った。この暗殺組織は「暗殺団」と呼ばれ、十字軍がやって来た時には、その指導者を次々と暗殺した。その暗殺の能力が非常に高かったので、十字軍は脅威を感じ、その恐怖感をヨーロッパ社会に伝えた。その際の恐怖感は、もともと暗殺団を呼称する固有名詞だった「アサッシン」という言葉が、「暗殺」を意味する普通名詞になったことからもうかがわれる。このイスマイル派暗殺団について井筒俊彦は、多面的に解明してくれる。「コスモスとアンチコスモス」所収の小論「イスマイル派『暗殺団』」がそれだ。

井筒俊彦の論文集「コスモスとアンチコスモス」のうち、同じタイトルを冠した小論「コスモスとアンチコスモス」は、コスモスとカオスの対立について論じたものである。コスモスというのは、井筒の定義によれば、「有意味的存在秩序」を意味する。有意味的存在秩序というのは、世界を存在者の意味のある秩序としてとらえることを意味している。世界の無数の存在が、それらの意味単位が、「一つの調和ある全体の中に配置され構造的に組みこまれることによって成立する存在秩序、それを『コスモス』と呼ぶのである」、と井筒はいうのである。どの民族にもそれ固有のコスモスがある。このコスモスがあるおかげで、当該コスモスの中に生きている人々は安心して生きることができる。これに対してカオスとは、そうした秩序が全くない混沌として受け取られて来た。その混沌は、とりあえずは、コスモスが成立する以前の状態をさすのが普通だった。というか歴史的な事実だった。世界は混沌から秩序へ、カオスからコスモスへ向かって進む、というのが、どの民族においても、歴史的な(あるいは神話的な)趨勢だったわけだ。

井筒俊彦の著書「コスモスとアンチコスモス」の第二論文「創造不断」は、道元の時間論をテーマとする。道元の時間論といっても、道元だけに特有の時間論ではない。道元を含めた東洋思想に共通する時間論の特徴を明らかにしようとするものだ。東洋的な時間論の特徴を井筒は、時間を切れ目なく連続した流れとしてではなく、瞬間ごとに断続していると見るところに求める。西洋では、絶対時間といって、事物の存在とは別に純粋な時間の流れがあって、それが絶え間なく続いて行くと見るわけだが、東洋の時間意識はそれとは真逆で、純粋な時間というものはなく、時間と事物の存在は別物ではない、と見る。そしてその時間は、連続して流れていくものではなく、瞬間ごとに新たに生み出されるのだと考える。そうした時間についての考えを井筒は、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概念に代表させ、その概念を用いて道元の時間論を考究するのである。

井筒俊彦の論文「事事無礙・理理無礙」の後半は、イスラーム神秘主義の思想家イブヌ・ル・アラビーの存在論(「存在一性論」という)を取り上げる。それも華厳哲学のタームを用いて、イスラーム神秘主義の特徴を解明しようというのである。それを単純化していうと、華厳哲学の四種法界をベースにして、それにイスラーム神秘主義特有のものとして、「理理無礙」を加えるということになる。

井筒俊彦の著作「コスモスとアンチコスモス」の冒頭を飾る論文「事事無礙、理理無礙」は、華厳哲学及びイスラーム神秘主義の存在論を通して、東洋的な存在論の(西洋に比しての)基本的な特徴について考察したものである。事事無礙は華厳哲学の、理理無礙はイスラーム神秘主義者イブヌ・ル・アラビーの、それぞれの存在論を規定する中核的な概念である。それらを詳しく検討することで、東洋的なものの見方・考え方が、とくに存在のそれについて、明瞭に浮かび上がってくると井筒は考えるのである。

ヨーロッパ哲学の伝統において、パロールがエクリチュールに優位してきたのは、エクリチュールが表音文字によって書かれてきたからではないか。そんな問題意識を井筒は、「意味の深みへ」所収の「書く」という小論の中で提起している。表音文字というのは、アルファベットのことだが、そのアルファベットは音を表記するための文字である。パロールを通じて語られた言葉の、その音を表音文字であらわすわけだから、それはパロールの(表音的な)コピーということになる。だから本物はパロールであって、エクリチュールは偽物ということになりかねない。じっさいプラトンは「パイドロス」の中で、(パロールとかエクリチュールという言葉は無論使わないが)書かれたことは話されたことのコピーだというような言い方をして、話されたことの優位を主張している。

エクリチュール(écriture)は、解体(déconstruction)や相異=相移(differance)とともにデリダの思想の中核的な概念である。だがデリダは、この重要な概念を定義しようとしない。定義された術語は、たちどころに硬化して、もはや自由な読み替えが出来なくなってしまうからだ。エクリチュールという述語はだから、明確でかつ固定した内容を持たない。それには不分明性、不定性、曖昧さが纏綿する。そこがデリダの狙いでもある。井筒はそう言って、エクリチュールという述語を、多面的な見地から考察する。

強い影響力を持つ現代の哲学者のうち井筒がもっとも注目するのはジャック・デリダである。その理由はデリダのユダヤ性である。井筒はユダヤ教に深い関心を寄せ、とりわけカッバーラーの思想については、井筒の考える東洋的な思想のあり方の一つの典型として捉えているわけだが、そうしたものとしてのユダヤ性を、井筒はデリダの中に見たわけである。ユダヤ人の思想家としては、ほかにフッサールとかレヴィナスなどがあげられるが、そのなかで特にデリダに注目するわけは、デリダが西洋哲学の伝統に挑戦して、その解体(デコンストリュクション)をめざしたところにあろう。井筒も又、東洋哲学を以て西洋哲学を相対化しようとする路線をとっており、その自分の路線にデリダがつながると見たことが、彼のデリダへの強い関心の淵源なのだろうと思う。

カオスとコスモスといえば、通常浮かんでくるイメージは、混沌と秩序の対立である。その対立においては、カオスはマイナスイメージ、コスモスはプラスイメージとして捉えられる。混沌として形が定まらぬカオスに、秩序が与えられて形ある世界としてのコスモスが形成される、というのが普通の(西洋的な、したがって今日における地球支配的な)考え方だ。その考え方は、旧約聖書にも示されている。

「意味の深みへ」所収の小論「意味分節理論と空海」は、真言密教の言語哲学的可能性について論じたものだ。真言密教は、仏教の教派の中でも特異な言語哲学を有している、と井筒俊彦は言う。真言という言葉は「真の言葉」を意味する。その真の言葉が存在を生みだす。真の言葉とは究極的には大日如来のことである。大日如来は言葉として存在する。その大日如来が自己分節した結果我々の日常的な経験世界が生まれる。仏教の常識では、我々の日常的な経験世界は虚妄として、その実在性を否定されるのだが、真言密教においては、それは大日如来が法身説法したものとして実在性を持つ。この世界は大日如来が言葉として顕現したものなのだ。

アラヤ識というのは、唯識派の基本タームで、意識の深層をさす言葉だ。西洋哲学に比較した東洋思想の特徴は、意識の表層部分だけに着目するのではなく、深層部分にも着目することだ。意識というのは、表層のもっと深い部分に別の領域が開いている。これを下意識とか、深層意識とかいうが、それを唯識派の哲学ではアラヤ識という。この言葉を井筒俊彦は、東洋思想に共通する深層意識のあり方を表現した言葉として用いるわけである。この言葉は、東洋哲学を論じる際の、もっとも基本的なタームとして使われる。ひとり唯識派のみならず、東洋哲学全体にとっての、共通タームとしてだ。

井筒俊彦の小論集「意識の深みへ」の冒頭を飾る「人間存在の現代的状況と東洋哲学」は、グローバル化時代における異文化間のコミュニケーションの可能性について論じている。異文化間のコミュニケーションの問題は、いままでにもなかったわけではないが、それは局所的な問題にとどまっていた。ところがグローバル化が進んだ今日では全地球的な規模で問題となっている。というのも、グローバル化は全世界を巻き込む形で進行し、そこに地球社会とでもいうべき、いまだかつて存在していなかったものが現出するようになった。そういう段階においては、異文化間のコミュニケーションの問題は、全地球規模において生じるようになるわけである。それは、異文化間の差異を解消し、各文化を均一化させる方向へ進む傾向を持つ一方、異文化間に深刻な対立を生むようになる傾向もあわせ持つ。その対立は、全地球を巻き込んだ形で進まざるを得ないから、対立はある種の戦争状態をもたらすであろう。

本質とは、西洋哲学の伝統においては、或るものが何であるかという、その何であるかについての定義というふうに考えられている。それは通常、類と種差という形で表明される。たとえば人間については、人間とは理性的な動物である、というふうに。動物が類で、理性的が種差である。本質についてのこの定義は、アリストテレス以来の西洋哲学の大前提になっている。

これまで、本質実在論の諸タイプについて見て来たが、その本質実在論の対極にあるのが禅である。禅は二つの点で、本質実在論とするどく対立する。禅はまず、本質そのものを認めない。本質の実在どころか、その意義そのものを否定するのである。禅はまた、神の存在を認めない。というか神の問題を回避する。これは禅が仏教の一つの流派であり、したがって宗教であるらしいことを考えると、奇異なことのように思えるが、そもそも原始仏教というものは、神を問題とはしていなかった。原始仏教の問題意識は、輪廻から超脱して存在することをやめることであった。存在することをやめれば、あらゆる煩悩から解放されるからだ。仏教というのはしたがって、自力で以て煩悩から解放されることを目的としており、そこに神が介在する必要はなかった。その原始仏教の問題意識を、禅はもっとも純粋な形で受け継いでいるのである。

カッバーラーは、ユダヤ教の神秘主義的部分である。これに井筒俊彦は、本質実在論の第二タイプ元型的本質論の一つの有力な例を見る。ユダヤ教は、神が無から世界を創造したとする。これは、キリスト教やイスラームも受け継いだセム的宗教の基本的な考え方である。この考え方によれば、神は世界の外側から働きかけて、世界を作ったということになる。神は世界を超越した存在なのだ。これに対してカッバーラーは、神を世界から超越した存在だとは見ない。神は世界にとって内在的な存在なのだ。つまり、神が自分自身の内部から世界を生んだという見方をする。というより神が顕現したもの、それが世界だと見るわけである。

本質に普遍的本質マーヒーヤと個体的本質フウィーヤがあるとして、個体的本質に実在性を認めるのは理解できる。そもそも個体とは実在する個物を想起させるからだ。これに対して普遍的本質に実在性を認めることは、少なくとも西洋哲学的な思惟に慣れている者には、むつかしいのではないか。何故なら普遍的というのは、あくまでも人間の思惟が作り出したもので、したがってあくまでも概念的なものだからだ。概念は実在とは異なった範疇に属するものである。ところが、この普遍的本質に実在性を認める考え方が、東洋思想には珍しくない。というより、普遍的本質に実在性を認める考え方のほうが、東洋思想では主流となっている、と井筒俊彦は主張する。

西洋哲学では、本質は普遍者をあらわす概念である。本質とは、或るものが何であるかという問いへの答えであると言ったが、その「何であるか」は、普遍的な概念として与えられる。それは徹底的に抽象的なものだ。西洋哲学とは、個別者を抽象的な概念の枠組みに当てはめることを主な関心事としながら発展してきた。だから、抽象的なものへの偏愛というべきものを、西洋哲学は持っている。東洋ではそうではない。東洋思想の殆どは、普遍者という抽象的なものには満足しない傾向が強い。日本人も例外ではない。その代表者として井筒は本居宣長をあげ、宣長がいかに概念的・抽象的思惟を嫌ったかについて言及している。宣長にとっては、同じ東洋人である中国人の思惟でさえ、概念的・抽象的に映った。宣長は、そうした概念的・抽象的な思惟に代えて、個体的で具象的なものにこだわった。かれが言う所の「もののあはれ」とは、そうした個体的・具象的なものを言語的に言い現わしたものなのである。

意識といい、本質といい、西洋哲学のタームである。そのタームを用いて東洋思想を語るところに井筒俊彦の特徴がある。東洋思想特有のタームを用いて東洋思想を語れば、たとえば仏教固有のタームを用いて仏教を語れば、西洋的な思考をする人にはわかりにくかろうし、仏教のタームを通じてでは、ほかの東洋思想例えばイスラーム神秘主義の思想は理解しづらかろう。と言って、仏教とイスラーム神秘主義に通底するようなタームは、なかなか見つけづらい。そこを西洋哲学のタームを用いて説明すれば、なんとなくわかりやすい気がするものだ。井筒が東洋思想の解説者として世界的な名声を博しているのは、こういう事情が働いているからだと思う。

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