レヴィナスの時間論

| コメント(0)
レヴィナスは、時間を死と関連付けて論じている。その点はハイデガーに似ている。ハイデガーも、時間は人間が有限であることに根差しており、その有限性は死によって区切られているという言い方をしていた。そのハイデガーにとって、時間は現存在としての人間、それも孤立した人間の問題であって、死ぬべき存在としての人間の個人的な事柄だった。ところがレヴィナスにとって時間は個人的な問題ではない。「時間は孤立した独りの主体の産物ではなく、主体と他者との関係そのものである」(「時間と他なるもの」合田正人訳、以下同じ)

ここで「主体と他者との関係」という表現において、「他者」と名指しされたもののなかに死が含まれるのである。何故死が他者のうちに含まれるのか。そこにはレヴィナス一流のレトリックがあるので、気を付けて読んでいないと、論旨を見失うことになる。

死をめぐるレヴィナスの議論はかなり輻輳しているが、あえて単純化して言うと、死は主体によって自由に把持されるものではないということだ。死は「決して引き受けられない。死はやってくるのだ」。どこからやってくるのか、それは主体にはわからない。死は主体によって把持されるものではなく、主体の外部から到来するからだ。このように外部から到来するものを、レヴィナスは他者性という言葉で説明する。その他者性においては、死も、顔としての他者も、同じ次元にある。

主体にとって死は未来の出来事である。未来とは、死と同様に、「把持されないもの、われわれに降りかかるもの、われわれを掌握するもの」であり、「他なるものである。未来との関係、それは他なるものとの関係なのである」

未来についてのレヴィナスの考えのユニークさは、ベルグソンを始めとした大方の理論が、未来を現在との関連において考えるのに対して、未来を現在とは切り離された、全く把持することが不可能な、絶対的な他者として捉えることにある。

他者は、主体によって把持されず、したがって私には何もなしえないものなのだが、しかもなお、私の前に到来することで、私は他者との間で何らかの関係を持たざるを得ない立場に立ち至る。この相反的ともいうべき事態をレヴィナスは次のように表現する。

「一方では、出来事が、それを引き受けることもできず、それに対して何もなしえないまま主体へと到来し、他方では、主体が何らかの仕方でこの出来事と向き合うような状況、それは他者との関係であり、他者との対面であり、他者を与えると同時に隠すような顔との遭遇である」

ここで出来事といわれているものには死も含まれているはずなのだが、その死との遭遇は、顔としての他者との遭遇と同じレベルの出来事だと言っているわけである。

ここまでで読み取れることは、死は他なるものとして、顔としての他者と同じ範疇に属するものであること、死は未来の出来事として、私に到来する、ということであった。その死が、私に時間をもたらす、というのがレヴィナスの主張なわけだが、なぜ死が時間をもたらすのか、その詳細なメカニズムは、明らかにされているとは言えない。死と時間の関係についてレヴィナスがいっていることは、ひとつには、死が未来の出来事であるかぎり、その未来との関連において時間が問題になるということと、もうひとつには、「時間それ自体が他者との対面というこの状況に準拠していること」のみである。

ともあれ、死と時間の関係について、レヴィナスがとりあえずたどり着いた結論は次のようなものである。

「死というこの将来は、われわれに未来を定める。現在ならざるものであるかぎりで、未来であるような未来を。それは、未来にあって、どんな予期、どんな投影、どんな跳躍とも対照的なものを定める。時間を理解するために、このような未来の観念から出発すること、それは『不動の永遠の動く摸像』のごときものとしては、もはや決して時間と出会わないことなのである」

ここから「時間は本質的にある新たな誕生なのである」という言葉が導き出される。つまり時間は、ハイデガーのように、主体の内部に根差したものではなく、主体の外部に、他なるものとして生まれるというわけである。レヴィナスによれば、これこそが、「時間は・・・主体と他者との関係そのものである」ということの意味だということになる。

こんな具合で、時間をめぐるレヴィナスの議論はかなりまわりくどく、わかりづらいところがある。なんとかわかったような気にさせられるのは、時間というものは、主体としての私とは、とりあえずは無縁なものであって、私が時間を意識するのは、それが私に到来したときだということである。時間が私に到来するとは、死が私を訪れるということを意味するから、私は死ぬことによってはじめて時間を理解できるということになる。しかしこれは、不正確な言い方かもしれない。死が到来した時には、私は何事をも理解できる能力を失っているからだ。

なお、「時間と他なるもの」と題した小論は、死との関連で苦痛をくわしく分析している。それを読むと、苦痛に対するレヴィナスのこだわりがありありと伝わって来て、彼の思索の原点みたいなものを感じさせられる。苦痛とは存在することに根差している、「存在の呵責なさにほかならない」、というのがレヴィナスの主張だが、たしかに存在しなければ苦痛はないわけだ。こうした、存在することの最大の証が苦痛にあるとするレヴィナスの主張には、彼自身の独自な体験がかかわっているのであろう。






コメントする

アーカイブ