資本論第三巻へのエンゲルスの序文

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資本論第三巻は、総題を「資本主義的生産の総過程」として、剰余価値の利潤への転化と、それの各プレーヤー(資本家、地主、商業資本及び金融資本など)への分配について論じている。これにエンゲルスは結構長い序文を付している(小生使用の普及版で35ページを占める)。この序文は二つの部分からなり、その一つは刊行が遅れたことへの言い訳、もう一つは同時代の経済学者への批判である。

まず刊行が遅れたことへの言い訳。エンゲルスが第二巻を刊行したのは1885年のことだが、第三巻が刊行できたのは1994年、実に九年がたっていた。そんなに長くかかった理由は、一つには視力の衰えをはじめ体力の衰えに加え、国際社会主義運動が活発になるにしたがい、その運動の為に多くの時間がとられたことだ。それに加え、マルクスが残した原稿が、完成形にはほど遠く、それに付け加えたり、配置を工夫するのに時間がかかった。なかにはほぼ完成形のものがあったが、多くの原稿はとりあえずアイデアを記したといった具合で、後日手を入れることを予想していた。その部分については、エンゲルスが、マルクスの意を忖度しながら、書き加えたり、また論旨が通じるように配置しなければならなかった。

第二巻の場合には、マルクスの原稿はほぼ完成形に近づいており、エンゲルスは基本的には、それらの原稿をそのままの形で利用できたのであったが、第三巻についてはそういう具合にいかず、したがってエンゲルスが手を加えざるをえない部分が非常に多かった。そうした部分については、文章の全体を括弧でくくって、エンゲルスの署名を入れてある。第三部には、そうした部分が非常に目につくのである。

第三部は七つの編からなっているが、そのうちもっとも完成度が高かったのは、地代を論じた第六編。マルクスは、地代について特別な関心を持っていて、それの研究を主にロシアの農業研究をもとに構築したのだった。当時地代論を最も整合的に展開していたのはマルクスだったとエンゲルスは言っている。一方、最も完成度が低かったのは利子生み資本を論じた第五編で、これの完成には大きな困難が伴なった。いくつかの章についてはエンゲルスの手で、ほぼゼロから書き出さなければならなかったのである。

そういうわけで、第二巻の刊行から第三巻の刊行までに、九年も要したのだった。その刊行の時点でエンゲルスは74歳になっていた。かれが死ぬのは翌年の1895年のことだから、この仕事はかれにとっては、生涯を締めくくるものになったわけである。

同時代人への批判という点では、第二巻ではロートベルトゥスをやり玉に挙げていた。ロートベルトゥスは、マルクスの学説は自分の説を剽窃したものだと主張したわけで、エンゲルスにとっては偽マルクス主義者にうつったわけだが、エンゲルスはそういう偽マルクス主義者が非常に嫌いらしく、第三巻においても、マルクスの学説を引用しながら、その学問的な意味を曲解する連中に鉄槌を下している。エンゲルスのことであるから、そのやり方はユーモアに富んでいる。批判にユーモアの衣をかぶせるのは、マルクスの得意としたものだが、エンゲルスも又、ユーモアたっぷりに批判を繰り広げるのである。

この序文の中でエンゲルスがやり玉にあげた連中は、ロートベルトゥスより小物であり、今日ではまったく存在意義をもたない連中なので、かれらに対するエンゲルスの批判を細かく取り上げても、あまり意味はない。ただひとつ、今日でも意味を持ちうるのは、ジェヴォンズ、メンガーに対するエンゲルスの批判である。ジェヴォンズ、メンガーは、限界革命の創始者として、今日の経済学教科書にはかならず触れられている経済学者だが、その彼らをエンゲルスは俗流社会主義の基礎となるもの、つまり俗流経済学だと言っているのである。

エンゲルスが俗流経済学者と呼ぶ連中は、商品の価格の源泉を、実体的な人間労働に求めるのではなく、消費者の心理的な評価に求める。彼らによれば、経済学とは社会心理学の一領域なのである。資本家が利潤を得られるのは、投下した資本よりもより多くの金を得られるからだが、それは消費者が、商品本来の価値よりも高く買ったくれるからであり、それは消費者のその商品への心理的評価が高いことの現われなのだということになる。こういった考えは、資本主義の擁護者である今日の主流派経済学が揃って言っていることであり、したがってそれへの批判は今日でも有効性を失わないのである。

もっともエンゲルスは、この序文のなかでは、ジェヴォンズらの説を細かく取りあげてはいない。俗流経済学へのマルクス・エンゲルスの批判は、資本論第二巻中のデステュット・ド・トラシを論じた部分で展開されているので、それを読んでほしいと言っている。デステュット・ド・トラシによれば、資本家が儲けるのは、すべての商品について自分が買い入れた価格よりも高く売るからである。それが利潤となり、その利潤が事業拡大の原資になるというわけだ。ところが、仕入れ価格より高く売るとはどういうことか。資本家仲間からは、安く買って高く売るということであり、労働者については、自分が払った労賃よりも高い価格で商品を買わせるということである。つまり資本家同士でも労働者相手でも、いかに相手を騙すかが、利潤を上げる秘訣ということになる。だがこんな理屈は、ちょっと頭を働かせれば、ただの屁理屈だということがわかる。騙しあいには、得する奴と存する奴がいるが、資本家同士でそんな騙しあいをやっても、商品全体の価値は増えない。ところが社会全体として見た利潤は、絶対的に増加しているのである。また、労働者をだますというのもペテンでしか過ぎない。労賃はもともと最低生活水準ぎりぎりに設定されているのだから、それをだまして切り下げるようなことをしたら、労働者は人間として生きてはいけない。こういう簡単な理屈が、俗流経済学者の目には見えてこない。それは資本家の利害にとらわれているからだ、というのが、マルクス、エンゲルスの見立てである。






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