陽のあたる場所:ジョージ・スティーヴンス

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ジョージ・スティーヴンスの1951年の映画「陽のあたる場所「(A Place in the Sun)」は、セオドア・ドライザーの小説「アメリカの悲劇」を映画化したものである。原作はアメリカ文学史上もっともアメリカ的な文学だとの評価が高い。アメリカ的な文学とは、アメリカ的な生き方を描いたものということになろうが、そのアメリカ的な生き方とは、常にチャンスを求めて這い上がろうとする上昇志向の生き方をさす。原作の小説は、アメリカ人の一青年のそうした上昇志向と、その犠牲になった哀れな娘との不幸な恋を描いた。

小生は原作を読んではいないので、なんとも言えないが、映画として見ただけでも、アメリカ青年の身勝手な上昇志向が伝わって来る。その犠牲となる若い女は、単に受け身で男の愛を期待するだけではなく、自分の愛を自分なりに主張する積極的な女として描かれている。そのため、青年は追いつめられたと感じ、娘に対して強い殺意を覚える。その殺意は、自分が折角つかんだチャンスが、貧しい女のために台無しになるのではないかとの、身勝手な打算から来ている。

こういう映画を見ると、いかにもアメリカらしさを感じる。アメリカという国は、ヨーロッパからやってきた白人たちが、原住民を追い払って、そこに人工的に作り上げた国柄だから、ほとんど文化的な伝統もなく、人々は自分だけをたよりに生きている。それゆえ、すべてが打算にもとづく。男女関係も同様だ。結婚が互いに利益をもたらすのであれば結婚として成立するし、そうでなければ成立しない。かりに妊娠したあとでも、ほかに有利な結婚相手が出てくれば、そちらを優先する。こうした身勝手な態度は、国民性に倫理的なものが希少なだけに、アメリカ人にとっては、ある意味自然なことなのだ。そういう利己的一辺倒の身勝手さは、国の最高指導者である大統領さえも、深く身に着けている。ドナルド・トランプの言動を見ると、そう思わされる。

一方、青年の前に新たに登場した女性は、青年の別の恋については知らない。彼女は純粋に彼を愛するのだ。その挙句、愛する人が殺人罪で死刑判決を受ける。それでも彼への愛はかわらずに、監獄の中まで会いに行くのである。だからその女性は、青年の身勝手さのもう一人の犠牲者である。

青年は最後には、死刑執行の場へと連行される。その様子が、「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルの最期と重なる。ジュリアン・ソレルも、身勝手な生き方をした挙句、断頭台に連行されていくのだ。

青年をモンゴメリー・クリフトが演じている。かれはデ・シーカの「終着駅」で、柔弱な青年を演じたが、この映画の中でも、そうしたやわな印象を前面に押し出している。一方、新しい恋人役を演じたエリザベス・テイラーは、烈女というイメージが強いのだが、この映画の中では、可憐な乙女を演じ切っている。






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