法華経を読むその十三:勧持品

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「勧持品」第十三は、もともと「見宝塔品」第十一の直後に置かれていたものである。「見宝塔品」は、すべての仏の教えが法華経に集約されていることを教え、釈迦仏の滅後においても法華経を受持することの大切さを強調しながらも、それがいかに大きな困難をともなうかを力説していた。そうした困難を跳ね返しながら、法華経の教えを広め、衆生をさとりに導くのが菩薩の役割であると説かれる。

「見宝塔品」と「勧持品」との間に「提婆達多品」が差し挟まれたのは、天台智顗の頃とされている。「提婆達多品」のテーマは、悪人成仏と女人成仏である。一方、「勧持品」には、釈迦の女性の肉親、育ててくれた叔母憍曇弥と妻耶輸陀羅の成仏がテーマになっている。法華経のもともとの構想では、釈迦がこれら肉親の女性たちに授記することによって、本来成仏すべきすべてのものが救われたと考えられていたと思われるのであるが、のちに、悪人や竜女まで救済の対象を広げる必要が認識されて、「提婆達多品」が作られたのだと思う。それが、「勧持品」の直前に差し挟まれたのは、勧持品が、釈迦の肉親への授記をもって、すべての人への授記が終わったとしているからであろう。

勧持品の構成は二つの部分からなる。前段は、憍曇弥(きょうどんみ)と耶輸陀羅(やしゅだら)への授記、後段は、法華経を受持することのむつかしさである。「勧持品」という題名は、法華経を「勧持」するという意味であり、それは法華経を受持することを勧めるということである。法華経を受持することはむつかしいが、その困難を乗り越えて衆生に広めていけば、やがてその努力は報われ、菩薩は涅槃に遊び、衆生は仏土に安らうことができる。それには、さまざまな迫害をともなうが、その迫害を恐れてはならない。不惜身命の決意をもって、法華経の布教につとめねばならない。

まず、薬王菩薩と大楽説菩薩が、二万の菩薩・眷属を従えて、釈迦仏に向って、法華経を受持する誓いの言葉を発する。「唯、願わくは、世尊よ、以て慮(うらおもい)したもうべからず。我等は、仏の滅後に於て、当に此の経典を奉持し、読誦し、説きたてまつるべし。後の悪世の衆生は、善根転た少く、増上慢多く、利供養を貧り、不善根を増し、解脱を遠離するをもって、教化すべきこと難しと雖も、我等は、当に大忍力を起して、此の経を読誦し、持ち、説き、書写して、種々に供養し、身命を惜しまざるべし」

この時、憍曇弥は六千の比丘尼と共に釈迦仏に向って合掌した。その顔が憂いに満ちていたので、釈迦仏は次のように言った。「何が故に、憂の色にて如来を視るや。汝が心に、将いは、我汝の名を説いて阿耨多羅三藐三菩提の記を授けず、と謂うこと無しや。憍曇弥よ、我は先に總じて一切の声聞に、皆、已に授記すと説けり」

かくして、叔母の憍曇弥への授記がなされると、次いで妻の耶輸陀羅への授記がなされる。この二人への授記をもって、法華経における授記の説話は完成する。叔母と妻が最後になったのは、一般の衆生に比べれば、肉親は愛憎もからまり、とくに女性の場合には、その愛憎が成仏を妨げやすいといった観念があるからだろうと思われる。

こうしてすべての人への授記が終わると、授記された人々が、法華経広布への決意を語る。それがこの「勧持品」の後段部分である。そこで説かれるのは、法華経を受持することの喜びよりも、それによって蒙る迫害のきびしさだ。世の中には、法華経を憎む者たちが充満していて、法華経の教えを説くものを迫害してやまない。その迫害は、極端な場合には殉教をもたらす。その殉教を覚悟しながら法華経の広布に努めねばならない。

  法華経を受持する者に対して迫害を加えるものたちを、お経は次のように描写する。
  諸の無智の人 悪口罵詈等し
  及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし
  悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
  未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
  或は阿練若に 納衣にして空閑に在って
  自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん

最初の二行は俗衆増上慢を、次の二行は道門増上慢を、最後の二行は僭聖増上慢をあらわす。増上慢とは、自分の実力に思いあがっていることをいう。この三種の増上慢のうち、もっともたちの悪いのは僭聖増上慢だという。彼らは世間を離れた静かな場所で、袈裟を着て修業し、自分こそ真の悟りを得たと思いこみ、世間の人々を軽蔑している。これらの人々は、次のようにして法華経を受持するものを迫害する。
  是の人は悪心を懐き 常に世俗の事を念い
  名を阿練若に仮りて 好んで我等の過を出し
  而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は
  利養を貧らんが為の故に 外道の論議を説き
  自ら此の経典を作りて 世間の人を誑惑し
  名聞を求めんが為の故に 分別して是の経を説くと
  常に大衆の中に在りて 我等を毀らんと欲するが故に
  国王・大臣 婆羅門・居士
  及び余の比丘衆に向いて 誹謗し、我が悪を説きて
  是れ邪見の人なり 外道の論議を説くなりと謂わん

こうした迫害に対して、法華経を受持するものは、ただ忍辱あるのみである。
  我等は仏を敬うが故に 悉く是の諸の悪を忍ばん
  斯れのために軽んぜられて 汝等は皆、是れ仏なりと謂われんも
  此の如き軽慢の言をば 皆、当に忍んで之を受くべし
  濁劫の悪世の中には 多くの諸の恐怖あらん
  悪鬼は其の身に入りて 我を罵詈し毀辱せんも
  我等は、仏を敬信したてまつるをもって 当に忍辱の鎧を著るべし
  是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事をも忍ばん
  我は身命を愛せずして 但、無上道のみを惜しむ
  我等は、来世に於て 仏の所嘱を護持せん

お経は最後の偈の部分で、法華経の受持への決意を改めて語る。
  諸の聚落・城邑に 其れ法を求むる者あらば
  我は皆、其の所に到りて 仏の所嘱の法を説かん
  我は、是れ世尊の使なれば 衆に処して畏るる所なし
  我は、当に善く法を説くべし 願わくは、仏よ、安穏に住したまえ
  我は、世尊の前と 諸の来りたまえる十方の仏とに於て
  是の如き誓の言を発せり 仏よ、自ら我が心を知しめせ







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