銀行資本:資本論を読む

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マルクスは、銀行資本の諸成分として、現金(金または銀行券)と有価証券をあげている。有価証券には、手形と公的有価証券・各種の株式がある。銀行にとってこれらは貨幣資本としての働きをする。この場合の貨幣資本とは、再生産過程の一要素としての、商品資本や生産資本と並ぶ貨幣資本ではなく、利潤を生みだすものとしての貨幣資本のことをいう。この場合、利潤は利子という形をとる。だから、銀行資本は利子生み資本の最たるものである。というより、銀行資本は利子生み資本そのものなのである。

現金も有価証券も利子を生むということでは同じであるが、本体と利子との関係は、両者では異なっている。現金の場合には、現金が基準になって利子が語られる。現金があってこそ、それに見合った利子が得られる。ところが有価証券の場合には、利子が基準になって原本の価値が決まる。有価証券にも、額面というものはあって、それが一応形式上はその証券の価値をあらわすと考えられるが、実際に市場で通用する価格は、額面とは違っている。利子を基準にして、それの現在価格が決められるのである

そのメカニズムをマルクスはけっこう詳しく記述している。マルクスが依拠するのは資本換算法というものである。これは今日の収益還元法というものに相当する。利率をもとにして、一定期間に生みだされる利子と原本との合計を計算するものである。いま仮に市場の年間利率が5パーセントとする。すると100円の利子をもたらすものの原本価格は2000円ということになる。2000円の5パーセントは100円だからである。

これは国債の価格に典型的にあてはまる。国債は、発行価格の如何にかかわらず、その時点での利率によって価格が決まるのである。たとえば2パーセントの利率であれば、100円の利子を生む国債価格は2500円となり、10パーセントの利率であれば1000円の価格がつく。ここから、国債など有価証券の価格は、利率の増減とは逆の動きを示すということになる。利率が上がれば国債価格は下がり、利率が上がれば国債価格は下がる。

こうした有価証券の資本価値は幻想的なものであるとマルクスは言う。というのも、それは今現在の実際の収益を反映したものではなく、あくまでも将来に期待できる収益をあてにしているだけだからである。その意味で投機的なものだとマルクスは言う。投機的なものとしてそれは、現実資本とは遊離したものとなりやすい。特に株式の場合には、株価の動きが現実資本の動きと乖離して、独特な動きを見せる。マルクスは、株式の動きについては詳しく言及していないが、今現在の世界じゅうの株式の動向を見ると、株価が企業収益を忠実に反映しているとは到底言えない。株価ももともとは国債などと同じく、資本換算法で価格が決まっていた。配当という形で得られる収益を、その時点での利率で収益還元したものが、もともとの株価のあり方だったのである。それが、そうした収益とはあまり関連のない株価が形成されるようになったのは、そこに投機の要素が強く絡んだためである。株価とそのもとになる株式配当は、国債と違って、現実の企業収益に左右されるところが大きいので、それを見込んで投機の対象となりやすいのである。

資本換算のアイデアは、労働力にも適用されるとマルクスは皮肉たっぷりに言う。労働力の場合には、労賃が利子だと考えられ、労働力そのものは、この利子を生む資本だと考えられる。したがって、たとえば、年間の労賃が50ポンドで利率が5パーセントだとすれば、その者の労働力価値は1000ポンドの資本に等しいとみなされる。死亡保険金の額を計算するときには、だいたいこうした考えが根拠として採用される。標準的な人間の価値は、その者が一生に稼ぐであろう金、すなわち標準的な労賃にもとづいて収益還元された額だというわけである。

この不愛想な考え方はしかし、次の二つの不愉快な事情によって妨げられるとマルクスは指摘する。一つには、労働者はこの利子を得るためには働かなければならないということであり、もう一つには、労働者は自分の資本価値を譲渡によって一気に実現することはできないということである。

このように生きた人間の労働にも、利子生み資本のアイデアが適用されるのは、なんでも金で割り切ろうという資本主義の精神を、もっとも純粋な形であらわしたものと言えよう。その金は、資本そのものに内在している神秘的な能力から生まれる。資本はその本性上利子を生むというわけである。「こうして、資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡に至るまで消え去って、自分自身によって自分を価値増殖する自動体としての資本の観念が固められるのである」

マルクスは、有価証券類のもつ「幻想的」な性格を根拠にして、それらが現実の資本の価値運動にかかわりのない限り、その減価または増価は、一国の富の大きさに変動をもたらさないと言っている。そのうえで、仮に証券市場が大暴落しても、一国の富が消えたということにはならないと言う。消えたのはシャボン玉のように膨らんだ泡であって、実体経済はすこしも変化しない。「これらの証券の原価が、生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか、着手した企業の中止とか、実際に無価値な企業への資本の投げ捨てを表わすものでなかったかぎり、この国(イギリス)は、このような名目的な貨幣資本のシャボン玉の破裂によっては、一文も貧しくはならなかったのである」

マルクスのこの指摘は、19世紀半ばごろまでのイギリス経済の動きを踏まえたものだ。20世紀になると、金融恐慌が実体経済に巨大な影響を与える事例が出てくる。1929年に始まった世界恐慌がそうだし、戦後にはいわゆるブラックマンデーとかリーマンショックと呼ばれるものが、金融恐慌が実体経済に巨大なダメージを与えた。マルクスには、そうしたダメージについてのイメージがなかったわけで、金融すなわち信用の破綻が、実体経済に与える影響について過小評価させたのだと思う。とはいえ、マルクスは、恐慌のメカニズムを分析する過程で、信用と現実の経済とのもつれあった関係について、それなりの分析はしているのであるが。






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